ストア

Store
1983年,アメリカ,118分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイビー

 ダラスにある高級百貨店「ニーマン=マーカス」。クリスマスシーズンのその百貨店で働く人々とそこに訪れる客たち。静かで広々とした店内に、豪華な品物が並ぶ。エスカレーター脇ではカルテットがクリスマスナンバーを演奏し、毛皮売り場では店員が客にクロテンの毛皮を見せている。
 地域にステータスとして君臨する百貨店をワイズマンはどう切り取ったか。従業員たちを中心に、彼らと客との関係を、彼らと商品との関係を淡々と描く。
 『モデル』『セラフィタの日記』という商品の広告をするモデルを描いた作品から商品を販売する『ストア』へ。この当時ワイズマンの目は「消費」に向いて
いた。

「どのような批判精神がそこにこめられているのか」
 いくつかの作品を見るうちに、いつの間にかそのような視点でワイズマンの作品を見るようになっていた。価値判断を保留し、ただものや人を映像に定着させるだけのワイズマンの視線は見るものに問題を投げかける。今回投げかけられる問題とはなんなのか? そのような問いを、いつも黒地に白い文字のタイトルを見ながら思う。
 この映画では序盤に副社長が「百貨店は商品を売るために存在する」と言う。それが正義であるかのような言い方をする。それを聞きながら思うのは、ワイズマンはそのような消費社会を批判しようとしているのだということだ。しかし、これもいくつかの作品を見て学んだことだが、ワイズマンは問題をそのように単純化しない。
 とにかく、確かに百貨店は商品を売るために存在するのだ。それを実行するためにさまざまな戦略が立てられる。それは客の見ていないところで、密かに立てられる。そして客は商品を買っていく。それは決してだましているわけではない。戦いでもない。この百貨店に限って言えば、彼らはブランドを売っているのだ。そして客はブランドを買っているのだ。
 それを象徴的に示すのは「ストッキングに<ニーマン=マーカス謹製>という刺繍を入れる」というバイヤーの言葉だ。その刺繍こそが客が求めるものである。

 ワイズマンがそのような「ブランド」で紡ぐ物語とは何か?
 はたから見れば、クリスマスシーズンに半袖で歩いている人がいるような街でどうして毛皮が必要なんだ?と思う。しかし、毛皮は売れる。そのような行動こそがワイズマンが捉えようとするものだ。ダラスで毛皮を買う人々は有閑階級であり、ワイズマンはこの映画が有閑階級を描こうとしたものだと明確に表明している。このダラスで毛皮こそが消費社会の象徴である。しかし、ワイズマンはだから有閑階級はダメなのだとは言わない。そのような有閑階級が存在するからこそ消費社会が存在し、このような百貨店が存続でき、従業員たちは仕事にありつける。問題はそこにはない。(余談としては、わたしはダラスで毛皮のコートを着たっていいと思う。真冬にミニスカートを履くんだって同じことだ。ただ、さらに個人的な話をすれば、わたしはそもそも毛皮はあまり好きではない。でも、毛皮を着たい人は(たとえ暑くても)着ればいい。おしゃれとは時に肉体的苦痛を伴うものだ)
 ワイズマンは有閑階級を描こうとしたと明言するにもかかわらず、彼が主にスポットを当てているのはそこで働く人々だ。有閑階級がいることによって存在する従業員たち。ワイズマンが繰り返し問うのは「彼らは仕事に誇りを持っているのか?仕事に満足しているのか?」ということだ。あるミーティングで、ニーマン=マーカスで働いていると特別な目で見られるという話が出てくる。就職希望者は熱烈にニーマン=マーカスへの憧れを語る。つまり、ニーマン=マーカスとは労働者たちにとってもあこがれであり、ステータスであるというわけだ。 つまり、ニーマン=マーカスが象徴する消費社会はダラスにおいては充足しており、問題にはならない。ワイズマンは消費社会を批判するためにこの百貨店を持ち出したのではないのかもしれない。

 ところで、この映画に出てくる商品はことごとく趣味が悪い。最初は進める従業員もお世辞でいっているのだろうと思ったが、どうも本気で言っているらしい。成金趣味の金ピカの宝飾品やわけのわからない柄のスカート。ワイズマンは映画の中でそれらのものの価値判断を行っていないが、好意的だとは思えない。にもかかわらず、そのような露悪趣味を「良いもの」としてしまうのはニーマン=マーカスのブランドであるからである。
 そんな露悪趣味が頂点に達するのは、社長の「マイ・ウェイ」だ。そんな鼻白いことさえも許されてしまう、あるいは積極的に受け入れられてしまう、そんな露悪的な成金趣味をステータスとみなす社会、それがこの映画の中に描かれている社会なのだ。ワイズマンはこのような社会を批判するわけではない。そのような社会が成立する構造を提示し、そのような社会が具体的にどのようなものなのかを視覚化し、その価値判断は観客にゆだねる。それがワイズマンのスタンスだと思う。

デッド・カーム/戦慄の航海

Dead Calm
1988年,オーストラリア,97分
監督:フィリップ・ノリス
原作:チャールズ・ウィリアムズ
脚本:テリー・ヘイズ
撮影:ディーン・セムラー
音楽:グレーム・レヴェル
出演:ニコール・キッドマン、サム・ニール、ビリー・ゼイン

 ヨットでクルージングを楽しむ夫婦。そこに小型ボートが近づいてくる。そこに乗っていた若い男は、船が沈没してしまったと語る。しかし、その若い男を乗せた二人のヨットに無人のぼろぼろの船が近づいてきた。
 アメリカでもヒットし、オーストラリア出身のフィリップ・ノリスとニコール・キッドマンがハリウッドへ進出するきっかけとなった。ハリウッド映画のような豪華さはなく、B級なテイストが漂うが、サスペンスとしてはなかなかのもの。

 結構わけのわからない映画で、特にラストシーンなどはふざけているとしか思えないが、おそらく大真面目に作っている。アメリカでこの映画のなにが好評だったのかわからないが、このあまりにパターンにぴたりとはまった映画作りは見ていて面白い。プロットはサイコ・サスペンス的な恐怖とオカルト的なショックとをうまく織り交ぜて、いいサスペンスに仕上がっているといえる。いろいろ「んなあほな」というところはあ りますが、そのB級な感じが、わたしとしてはこの映画を救っているように思えました。
 ニコール・キッドマンのヌードというのも映画が一流ではないということをあらわしているのでしょう。あまり書くこともないので、ニコール・キッドマンの話にしましょうか。ハリウッドで整形はあたりまえですが、この映画を見ると、今のニコールとはちょっと違う。鼻の形?目?マア、どこでもいいですが、ニコールに限らず整形女優は大体整形前のほうが親しみをもてる顔をしている。整形後のほうが美女なのかもしれないけれど、その背後にある美人の方のようなものに反感を感じてしまいます。
 ワイズマンの『モデル』でモデル事務所に問い合わせるときに「アメリカ的な美人(American Pie)」などといっているのを聞くと、やはり、そんな定型的な美人のほうが仕事があるのかと思いますが、どうなんだろうなー
 映画にとって美女は重要ですからね。

モデル

Model
1980年,アメリカ,129分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイビー

 ニューヨークのモデル事務所「ゾリ」、180人ものモデルを抱えるこの事務所とそこに所属するモデルたちの日常を追う。事務所には仕事の依頼の電話がひっきりなしにかかり、モデル志望も男女がたくさん訪れる。ワイズマンが写すのはその全体。そこにニューヨークの日常的な風景を挟み込んで、その対照性を明らかにする。
 ワイズマンの作品としてはメッセージ性が薄く、少し変わった雰囲気の作品。撮影をしながら対象について学んでいくと語るワイズマンだが、こんな馴染みのなさそうな題材でもその姿勢を貫いている。

 全体を通じて思うのは、モデルの映画であるのに、モデルたちが話す部分が非常に少ないといういうこと。これはこの映画がモデルたち自体ではなくモデルを取り巻くシステムを問題化しているからだろう。それはつまりモデル事務所を経由してモデルたちが結びつく広告のシステムである。結論から言ってしまえば、広告とはつまり消費社会を支える典型的なシステムであり、消費社会を体現する業界であるといえる。その広告を題材とすることによってこの映画は消費社会批判のような形をとる。
 ワイズマンが捉えるのは、その広告を支えるモデル事務所の人々である。事務所という施設ではなく、人間を捉えようとするというのはこの映画のよい点だ。メイクアップをするにしても、CMを撮影するにしても、そこで注目するのは人間である。特に多くの時間を割かれるストッキングのCM撮影の一連のシーンで描かれる人々と、出来上がったCMの没人間性の対比はおもしろい。広告(それは主にモノを広告するもの)というものの性質がことばにならない形でうまく表れている気がする。
 ここでモデルたちがしゃべらないという話に立ち返ると、ワイズマンはあえて彼らに話させない(明確にしゃべるのはインタビューのシーンだけ)ことによって、彼らのモノ的な側面を表現しようとしたとも捉えられる。広告という巨大メディアの中では、広告しようとする商品も、その素材となるモデルたちも同じモノでしかないという捉え方。そのような捉え方をワイズマンは問題を捉えるためのヒントにしているのではないか。

 もちろん、そのモデルたちを捉えたシーンの間に挟まれるニューヨークの街のシーンも注目に値する。そこに移っている人たちの多くは消費社会の末端に位置する人々だ。デモ行進をする黒人たちの姿もある。その対比の仕方はあまりにわかり安すぎるという気もしないでもないが、これがないと単なるモデル業界の内幕ものとなってしまう不安もある。そのあたりは編集こそが創作活動であるとするワイズマンならではの映画作りといえるのだろう。時にはとっつきやすい題材と、わかりやすい構造の映画も必要ということなのだろうか?
 ワイズマンを見慣れた目で見ると物足りないと映るかもしれない。でも、それはそれでいいのだとわたしは思う。ワイズマンはあらゆるアメリカを捉え、それをあらゆるアメリカに対して提示する。そのような作家だから、対象も表現の仕方も多岐にわたっているほうがいいのだ。

臨死

Near Death
1989年,アメリカ,358分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイヴィー

 ボストンにあるベス・イズラエル病院。その内科ICUで治療を受ける何人かの病人たちを記録した映画。本当に死に瀕する患者とその死に臨む患者の家族、患者とその家族と話し合いながら治療法を考える医師、看護婦。
 ワイズマンはいつものように冷徹な目でそれを見つめるが、そこには生と死というドラマが厳然としてあり、6時間という時間も飽きさせることがない。基本的には4人の患者をそれぞれ独立した物語として描く。
 6時間という時間は観客にとってはとにかく考える時間として与えられている。映画が投げかけるものについて考えざるを得ない6時間。それは得がたい時間である。

 あまりに長くて最初のほうは忘れてしまいましたが、とにかく最初から最後まで呼吸器や蘇生術という延命治療が問題となる。その背景には脳死が完全に人の死として認められたということがあるだろう。途中で看護婦が行っていたように脳死とは不可逆的な機能停止ではあるけれど、心臓が動き呼吸をしている以上、完全な死のようには見えない。そのような特殊な状況の中でどのような選択ができるのか。この選択の問題は脳死に限らず、回復の見込みのない患者一般に広まる。そこで決断を迫られる患者とその家族。彼らと医者・看護婦との関係。これがこの映画の焦点となっていることは間違いがない。
 この映画は川を進むボートの風景ショットから始まり、病院でのエピソードの間に何度も外の景色がインサートされる。最初の区切りはやけに長いが、その終わりには夜の街とそれに続く朝の病院のショットが挟み込まれる。この夜から朝の一連のショットは何度か挟み込まれ、擬似的な一日を作り出す。もちろんその外景ショットで区切られた1エピソードは一日ではなく、順番もそのままではないのだが、その擬似的な一日があまりに長い映画を整理する役目を果たしている。
 なぜこんなことを長々と書いたかといえば、この映画が時間を周到に操って作られているからだ。おそらく同時に進行しているであろう3人ないし4人の患者の話をそれぞれ独立した話として順番に語っていく構成。この構成自体がこの映画にとって非常に大きな意味を持ってくるのだが、そのことについてはあとで書くとして、この構成を作り出すために擬似的な時間軸をワイズマンは作り出したわけだ。そのあたりはさすがという感じ。

 映画の内容についての感想はといえば、この病院では何度もミーティングが開かれる。それはここの患者の症状について、治療法についてという具体的な話し合いから、倫理観といったような抽象的な問題、井戸端会議のような看護婦の話し合いまで多岐にわたっている。これらの会議や話し合い(それには雑談も含まれる)を会話の意味までわかるようにきっちりと撮るワイズマンの撮り方は見せるというより考えさせようというスタンスだ。他の映画もそうだが、この映画は特に観客の感受性と思考力に訴えかける。ワイズマンの映画は観客自身の思考を抜きにしては完成されえない映画なのだ。
 ところで、このような話し合いでたびたび出てくる言葉に「ゴール」というものがある。それは治療・看護の目標の問題だ。医師や看護婦が患者に対して何を成し遂げようとするのか、それを「ゴール」として明確化すること、そのことがこの映画の中では常に重視される。しかし、そのようなゴールを決めなければ医療行為を行うことができないところに、この臨死治療の複雑さ、困難さがある。 さらにこの問題を複雑にしているのが、その「ゴール」を決めるのが患者自身、あるいは患者の家族であるということである。医者は医学的情報を患者や家族に与え、決断を迫る。医者の側としてはひとつの考え(答え)を持って患者や家族との話し合いに臨んでいるけれど、決めるのは患者とその家族であるのだ。しかし、そのような決断を患者自身や家族が本当にできるのか? ワイズマンの突きつけるもっとも大きな疑問のひとつがこれである。自分自身の、あるいは親しいものの死を前にして決定的な決断など本当に可能なのだろうか? 「責任を負う」という医者や看護婦が言う言葉、その言葉がこの決断の意味を表している。医者自身たびたび「自分だったらそんな決断はできない」と言う。それが意味しているのはそのような決断をすることの責任の重さだ。そんな重い責任を誰が負うのか? 看護婦の一人はその責任を負うことこそが仕事だという。
 スピラーザ氏のエピソードにファクター夫人の夫の姿が何度もインサートされる。医者である彼でも妻の死を前にして、ただ窓辺でまどろむしかない。力になることはおろか、選択することすらできない。

 どう考えをめぐらせても答えにたどり着くことはできない。だからこそワイズマンも6時間もの長きに渡って根本的には同じであるいくつものケースを繰り返し見せることにしたのだろう。この繰り返しという構造にこの映画のポイントがある。それぞれのケースで問題が起こるたびに、観客は問題に立ち返る。それによって導かれる思考の道筋。その思考の繰り返しこそがワイズマンが観客に求めるものだ。
 ワイズマンは作りながら繰り返し考え、われわれじゃそれを見ながら繰り返し考える。私はこれを書きながらさらにまた考える。皆さんはこれを読みながらまた考える。あるいはこれを読んで考え、映画を見に行って再び考える。そのように個人が考えることによってしかこの問題の答えへと近づく道はない。答えは決して出ることがなくとも、このような思考の積み重ねが個人が問題にぶつかったときに助けになるかもしれないと思う。

聴覚障害

deaf
1986年,アメリカ,164分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイヴィー

 アラバマ聾学校を舞台に、聴覚障害の子供たちと、教師、寮母たちを描く。聴覚障害の子供たちの多くはしゃべるの困難だ。だからキャンパスは静寂に包まれ、何か不思議な雰囲気を持っている。教師や寮母は健常者であったり、しゃべる技術を見につけた聾者であったりする。
 ワイズマンが焦点を当てるのは、その全面的な教育である。聾者に対する教育の意味というか、それがどのように行われているかを提示することで浮かび上がってくるのはやはり「アメリカ」というものだ。

 『聴覚障害』というタイトルではあるが、この作品も他の作品と同じくひとつの施設(聾学校)を対象とした作品である。主に取り上げるのは小学校入学前から小学生くらいの子供、言語を獲得していく過程にある子供たちである。これは素朴な感想だが、言語を獲得していく過程が、耳が聞こえると聞こえないとではあまりに違う。聾者にとって問題なのは言語を操ることではなく、言語を獲得することなのだということがリアルなものとして伝わってくる。しゃべるという概念すら理解できないとしたら、そうして言語などというものを想像することができるだろうか? 自分が聞くことのできない音を発するということがどんなに困難なことか。

 そんな素朴な感想を超えてまず気になるのは、映画のハイライトになる後半の長いシーン。好調とカウンセラーと生徒の母親が話していて、そこの生徒が呼ばれるというシーン。カメラはずっとその室内にとどまって会話を余すことなく伝える。このシーンは簡単に言ってしまえば、聴覚障害者であるということにかかわらず、人間として正しく生きろということを生徒に諭している場面であるが、実際にそこにあるのは、思春期のもやもやや独立心やいろいろなものを押しつぶして大人の価値観を押し付けようという姿勢である。
 彼だって母親を愛している。しかし思春期にありがちな反抗心や気恥ずかしさ(それは独立心に由来していると思うが)によって、それを認めたくないだけだ。そこには葛藤があって、その葛藤を乗り越えて、自ら愛や家族というものを理解していくべきもの(だとわたしは思う)のに、この校長(とカウンセラー)は無理やりに彼に母親を愛しているということを認めさせてしまう。そこには脅しがあり、賞罰主義が透けて見える。これを見て思うのは、これは彼を大人にしようという教育ではなく、無条件に愛するという子供の状態に戻すだけなのではないかということだ。この学校では、大人として愛というものを理解することを教えるのではなく、操作しやすい都合のいい生徒にするだけだ。

 結局、彼らの教育とは障害者にある種の生き方を強制するするものだ。それは自らが他の人と変わらないという生き方。それは最後の黒人の成功者らしい老人が言っていることともつながるが、ハンディキャップがあってもそれを克服して生きられる、成功することができるという哲学だ。そこには逃げ道はない。何をしゃべっているのかわからない異邦人たちの国で彼らはその中に溶け込み、その中でのし上がっていかなくてはいけないと説得されているのだ。しかも、そんな異邦人たちの国を愛せといわれている。
 最後の黒人の話はあまりにひどい。エジプトだかどこだかの話をしてそこにはアメリカのような自由はないと語る。そしてアメリカは素晴らしい。その言説にはあらゆる問題が含まれている。まず彼はアメリカの自由がそのような不自由な国に対する搾取によって成り立っていることを自覚していない。アメリカこそがその自由を奪っているのだということに気付いていない。
 彼は自らがマイノリティであったという経験を持っているにもかかわらず、マジョリティの価値観の押し付けに無自覚である。この聾学校の教育そのものがマジョリティの価値観の押し付けである。そもそも問題とするべきなのは、少年の自殺のほのめかしなどの言動なのか、それとも母親が手話を学ばないということなのか。わたしは母親が手話で息子と語れないということのほうに根本的な問題がある気がするのだが。

競馬場

Racetrack
1985年,アメリカ,114分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイヴィー

 放牧されている馬たち。親子で草を食む。厩舎では新たに仔馬が生まれる。そばで見守る人たちはそれほど心配もせず、産むがままに任せている。
 競馬場そのものではなく、競馬馬たちが放牧されている牧場から始まるこの映画は競馬場の物語ではあるが、競馬場に来る人々の物語というよりは、競馬にかかわる人々と競馬場というものの物語である。馬主、騎手、調教師などにカメラを向けて、競馬を取り巻く状況をゆったりと描く。
 ワイズマンにしてはイージーというか、ゆったりとした雰囲気で、のんびりと見られる映画。

 映画は親子の馬が草を食む放牧で始まり、そして分娩のシーンへと続く。あるいは分娩のシーンも合わせて牧場の場面から始まるといってもいい。それは競馬そのものからは少し離れた部分であり、どのような文脈で語られているのかは全くわからない。そこだけ見ると、これが親子の物語であるかもしれないという考えが頭をよぎるが、馬が主人公ではなさそうなので、それはあくまで描写のひとつに過ぎないのだと考える。
 映画はそこからゆっくりと競馬そのものに近づいてゆく。
 この映画に特徴的なのは会話が少ないということだろうか。ワイズマンの映画に登場する(アメリカ)人たちはとにかくよくしゃべる。カメラがあるからなのか、アメリカ人の特徴なのかはわからないが、とにかくよくしゃべる。しかし、この映画に出てくる人はあまりしゃべらない。普通は、会話によって人間関係がわかったり、映画の論点がわかることが多いのだけれど、この映画ではわからない。それは映画の対照が大規模すぎたせいもあるかもしれないが、最後まで個人が特徴的なキャラクターとして固定されることはない。

 なので、この映画は捉えにくい。個人が個人として同定できれば、あるいは映画の描く空間を把握できれば、映画をひとつのまとまりとしてみることができるが、この映画ではそのような映画の把握は難しい。
 だから、テーマとか、時系列をたどってみてみようとするが、テーマらしいものも見つからないし、時間の手がかりとなるものもない。
 それでもなんとなく映画を見続けていると、突然パーティの場面が始まる。この場面と続く競馬場の場面(おそらく重賞レースが開かれている)でなんとなくメッセージというかワイズマンの思いが伝わってくる。それは競馬がアメリカの人たちにとって日常であるということ、そしてそれは古き良き時代へのノスタルジーであるということ。
 この競馬場はおそらくNY近郊にあって、そこにはさまざまな人種や階級の人が混在しているのだけれど、そこで掛かる音楽はヒップホップではなく、カントリーやブルースである。男たちはカウボーイハットをかぶり、子供も駆け回っている。アメリカがアメリカとしてまとまるノスタルジーがそこにはあり、そのようにして時代を超えることを容易にしているのが競馬場という場であるということなのだろう。競馬場にくれば、昔のアメリカ人の日常に思いをはせ、今も変わらぬアメリカがそこにあることを確認できる。そのような場所としてワイズマンは競馬場を描いているような気がする。

シャイニング

The Shining
1980年,イギリス,119分
監督:スタンリー・キューブリック
原作:スティーヴン・キング
脚本:スタンリー・キューブリック、ダイアン・ジョンソン
撮影:ジョン・オルコット
音楽:ベラ・バートック、ウェンディ・カーロス
出演:ジャック・ニコルソン、シェリー・デュヴァル、ダニー・ロイド

 小説家のジャックはコロラドの山の中にあるホテルが冬期閉鎖される間の管理人として仕事を得る。以前孤独感に耐えられず、家族を殺し、自分も自殺した管理者もいるという話を聞いても動じずジャックは仕事を請けたが、予知能力のある息子のダニーは血が川のように流れ、二人の少女がたっているというホテルの夢を見る…
 キューブリックがスティーヴン・キングの原作からは離れ、ホラーという形式を借りて、独自の世界観を表現した作品。全体的なメッセージを読み取ることは難しいが、観客に何かを感じさせる力強さを持っている。

 ジャック・ニコルソンの顔は常に怖い。それだけで十分にこの映画は怖いのだけれど、わたしの頭にこびりついていたのは「REDRUM」という文字だった。映画の中で果たす役割は決して高くないけれど、意味もわからない赤い文字が何度もフラッシュバックのように映りこむことの恐怖、その恐怖がはじめてみた10数年前に感じた恐怖であったことを今見て思い出す。
 それはそれとして、この映画はかなり完成度が高い映画だ。キューブリックらしく、『2001年』のように難解で、全体としてそのメッセージを捉えることは難しい。しかし、映画としての世界を捉えることはできる。ジャックの幻影ともとらえられるはずの彼ら(たとえば舞踏会のシーン)が決して幻影ではないということ、あるいは少なくともジャックにとっては幻影ではないということ。それは最初に、ジャックがゴールド・ルームで酒を飲んでるときにウェンディが入ってくると、そこはただのがらんとした部屋であるということからもわかる。ジャックの、ダニーの、そしてウェンディのそれぞれにとっての非現実的世界が存在し、それが物理的な存在でもあるということは、明らかだ。そのそれぞれにとって幻影ではない物理的存在であるという点が他のホラー映画とは違うところだ。ゴーストを扱うホラー映画はそのゴーストが全員にとって幻影でないことによって物語が成立するはずだ。それぞれにとってしか現実ではないゴーストは単なる妄想に過ぎず、恐ろしくなどない。この映画はそれぞれにとって現実でしかない(確実に現実であることは重要だけれど)にもかかわらず、そのゴーストが直接的な恐怖とならないことで、恐怖映画として成立しうることになる。その複雑な恐怖の想像の仕方がキューブリックオリジナルのものだ(原作の内容は忘れましたが、そんな内容ではなかった気がする)。
 そしてその幻影(幻影ではないのだけれど、便宜上そういっておきます)のある場所(あるいは時間)がどこなのか、それがこの映画の鍵になるのだと思う。ダニーはそもそもトニーという幻影があり、その時間は未来に設定されている。ジャックは過去だ、舞踏会の行われていた1920年代。ウェンディの場合はいつなのだろうか? そしてどこなのだろうか? それはこの映画からはわからない。映画でもっとも問題となるのはジャックの1920年代(具体的には1921年だか、1923年だか)という幻影。ここにキューブリックはこの映画のホラー映画を越えた部分をこめているはずだ。ちょっと難しくて読み取りきれませんでしたが、その時代を借りておそらく現代に対する何らかの批判的なメッセージを述べているのだと思います。そのヒントは前任の管理人が吐く「ニガー」という言葉、そしてディックの存在辺りでしょう。そして前任の管理人がジャックと会話しているシーンの最後に停止しているように見えること、そしてラスト。その辺りからなんとなく滲み出してくる「意味」を味わいつつ、根本的にはやはり恐怖映画であると思いました。

探偵マイク・ハマー/俺が掟だ

I, the Jury
1982年,アメリカ,111分
監督:リチャード・T・へフロン
原作:ミッキー・スピレーン
脚本:ラリー・コーエン
撮影:アンドリュー・ラズロ
音楽:ビル・コンティ
出演:アーマンド・アサンテ、バーバラ・カレラ、アラン・キング

 私立探偵のマイク・ハマーは親友のジャックが殺されたと聞き、現場に駆けつける。ジャックはベトナムでマイクのために片腕を失ったのだった。マイクは犯人を突き止め、復讐をしようと独自の調査を開始する。最初に行き当たったのは「セックス治療」と称してセックスを売り物にするシャーロットだった…
 ミッキー・スピレーンの人気探偵小説の映画かで、この映画以降TVシリーズも作られた作品。あくの強い主人公マイク・ハマーが気に入れば、つぼに入る。

 どうでしょう、この手のアクションは。かなり暗く、激しく、あくの強いドラマで、人もたくさん死ぬ。マイク・ハマー自体10年ぶりくらいに見て、その昔見たのはこれではなく、ステイシー・キーチのTV版だったと気づきました。TV版のほうが当たり前ですが、ソフトで見やすかった気がします。もちろん激しく、エロティックな作品が悪いといっているわけではありませんが、作品全体としてそれが効果的かというとそうでもない。マイク・ハマーという人と、謎解きというメインのライン以外の見せ場として詰め込まれているという印象しかもてない。そこが今ひとつなわけです。
 よかったのはマイク・ハマーのポーカー・フェイスと最後の対決シーンですか。マイク・ハマーのキャラクターはかなりいい。さすがTVシリーズ化されるだけはあるという感じです。
 これだけ書くことが思いつかない映画も珍しいですが、濱マイクとも特に共通点はありません。魚(ハマーは熱帯魚、濱は金魚)を飼っているということくらいでしょうか。

カイロの紫のバラ

The Purple Rose of Cairo
1985年,アメリカ,82分
監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:ゴードン・ウィリス
音楽:ディック・ハイマン
出演:ミア・ファロー、ジェフ・ダニエルズ、ダニー・アイエロ、ダイアン・ウィースト

 大恐慌期のアメリカ。シンシアは姉と同じ店でウェイトレスをし、仕事もなくぶらぶらしている夫に邪険にされながら、映画館に熱心に通う。彼女のお気に入りは『カイロの紫のバラ』、ミスを繰り返しウェイトレスをクビになった日、泣きながら映画を見ていると、映画の登場人物が彼女に話しかけてくる。
 ウッディ・アレンのラブ・ロマンス、その独特の世界観は理不尽なのだけれど、破綻をきたさずそこにあり、われわれの心の何かをくすぐる。

 理不尽な映画、誰もがそう感じるだろう。スクリーンから現実に飛び出す人。スクリーンの中に残り、逃げ出してしまったことを何日にも渡って愚痴り続ける出演者たち。登場人物がスクリーンから逃げ出してしまったことをあまり不思議にも思わず受け入れてしまう人々。「そんなはずないだろう」という反論がすぐに口をつく。しかし、映画の中にそんな反論を言い出す人はいない。この反論する人を登場させないところがウディ・アレンの巧妙さだ。普通は、反論する人を登場させ、それがありえるかありえないかが物語のひとつの核になっていく。そうさせないためにウッディ・アレンは反論の芽を摘む。「スクリーンから人が出てきてしまうことはありうべきことなのだ」という了解を無理やり作り出してしまう。映画を見ているわれわれは最初は首肯じ得ないものの、いつしかそれに従わざるを得ないことに気付く。ストーリーはどんどん展開していくから、それがありえないんだという主張を映画に対して投げかける余地はなく、その疑問はいつしか気にならなくなってくる。このあたりが巧妙だと思う。この映画にはスクリーンと現実の世界の間に何らかのルールが存在し、登場人物たちはみなそれを了解している。それはもちろん彼らみながスクリーン上の夢の存在に過ぎないからだ。見ている側にそのルールは説明されていないが、聞く暇がない以上、そのルールを受け入れて映画を見るしかない。そのルールが受け入れられないと、この映画は恐ろしくつまらない映画になってしまう。だからウッディ・アレンは見ている人たちがそのルールを受け入れざるを得ないように巧妙に映画を組み立てているのだ。
 そのルールをわれわれが受け入れるということは、自分自身をシンシアと同じ立場におくということにも通じる。劇中劇を見ていたシンシアのようにわたしたちはこの映画を見ている。その二重性(あるいは三重性)もこの映画の作戦のひとつだ。ゴダールが『女と男のいる舗道』で『裁かるるジャンヌ』を引き合いに出したように、映画の中で映画を上映することで観客が存在している空間を映画の中の空間と不可分なものとする。この観客が存在している空間と映画の中の空間のつながりをファンタジックに描いたのがこの映画だ。この映画は『キートンの探偵学入門』と対比されることがあり(『キートン…』のほうはバスター・キートンがスクリーンの中に入り込む)、それと比べて「笑えない」という評価がされることが多いようだ。しかし、キートンのそれは映画の中の世界と現実の世界との断絶を笑いにしているの対して、ウッディ・アレンのそれはその境界の不明確さを笑いにしているのだから、この二つは似て非なるものだと思う。
 意地の悪い見方をすれば、確かにゴダールの域にも、キートンの域にも達していない映画となるのだろうけれど、わたしはこのようなあいまいな空間に見るものを引き込む映画は感覚的にわかりやすくていいと思う。映画の中のファンタジーと現実の関係性を包む映画全体がファンタジーであるという関係性が、この映画とわれわれにとっての現実との関係性の鏡像であるという感覚。ファンタジックに表現するならば、この映画を見ているわれわれを見ている観客がまた存在しているかもしれないということ。あるいは、劇中劇の役者が言っていたように、映画こそが現実で、われわれのいる世界こそが幻影なのかもしれないということ。そのような可能性が感覚として伝わってくるというのがこの映画の最もすばらしい点だと思う。
 わたしはこれをウッディ・アレンの最高傑作に推したい。ダニー・アイエロも好き。

SHOAH

Shoah
1985年,フランス,570分
監督:クロード・ランズマン
撮影:ドミニク・シャピュイ、ジミー・グラスベルグ、ウィリアム・ルブチャンスキー
出演:ナチ収容所の生存者

 ナチス・ドイツの絶滅収容所のひとつヘウムノ収容所のただ2人の生存者のうちの一人シモン・スレブニク、当時14歳の少年で、とても歌がうまかったというその男性が監督に伴われてヘウムノを訪れるところから映画は始まる。
 そこから当時からヘウムノの周辺に住んでいたポーランドの人たちへのインタビュー、他の収容所の生存者たちへのインタビュー、もとSS将校へのインタビュー、ワルシャワ・ゲットーの生存者へのインタビューなどホロコーストにかかわりのあるさまざまな人へのインタビューと、収容所跡地の映像、これらホロコーストにかかわるさまざまな資料を9時間半という長さにまとめた圧倒的なドキュメンタリー映画。
 ユダヤ人である監督はもちろんホロコーストの本当の悲劇を世界に伝えるべくこの映画を撮った。これでもかと出てくる衝撃的な証言、映像の数々。

 まず、この映画を見る前に、この映画をほめるのは簡単だと考えた。「ホロコースト」という主題、9時間半もの長さ、貴重な証言の数々、それは歴史的に重要な映像の重なりであり、われわれに戦争の悲惨さとそれを繰り返してはならないという教訓を投げかけるということ。それは見る前から予想ができた。その上で私はこの映画を批判しようという目線で映画を見始めた。その視線が見つめる先にあるのは、この映画の視点が一方的なものになってしまうのではないかという恐れ、現在存在するパレスチナ問題にもつながりうるユダヤ人の自己正当化、そのようなものが映画の底流に隠されているのではないかという危惧を持って映画を見始めた。
 見終わって、まず思ったのはこの映画は紛れもなく必要な映画であり、見てよかったということ。この映画を見ることは非常に重要だということだった。それは単純に映画を賛美し、そのすべてに賛成するということを意味するわけではないが。

 それでも私は9時間半、批判することを忘れずに見続けた。そして批判すべき点もあるということがわかった。
 映画の序盤、映画に登場するのは監督と証言者と通訳。私がまず目をつけたのはこの通訳だ。通訳を介し、通訳が翻訳した言葉で伝える。オリジナルではもちろんそのまま音声で、字幕版でも証言者本人の証言に字幕がつくのではなく通訳の翻訳に字幕がつく。最初これが非常に不思議だった。
 しかも、証言者たちはカメラのほうを見つめることなく、ほとんどカメラを意識させず、監督のほうを見つめる。このような撮り方は監督の存在を強調し、映画が監督によるレポートであるということを明確にする。われわれは証言者の証言を直接聞くのではなく、そのインタビュアーである監督のレポートを見ることになる。

 そして、次に疑問に感じたのが、人物の紹介のときに出るキャプション。ユダヤ人、ポーランド人、もとナチスという線引きは果たして中立的なのか、ユダヤ人とそれ以外という線引きを強調しすぎてはいまいか? と考える。
 そして登場する元SS将校。「名前を出さないでくれ」というその元将校の名前を堂々と出し、隠し撮りをし、隠し撮りであることを強調するかのようにその隠し撮りの状況を繰り返し映す。
 この「隠し撮り」がこの映画における私の最大の疑問となった。果たしてこのようなことがゆるされるのか?

 この元SS将校の生の証言によってこの映画の真実味が飛躍的に増すことは確かだ。被害者や近くにいたというだけの第三者の証言だけでなく、加害者であるナチスの直接の証言は強烈だ。
 しかし、「名前は出さない」と約束し、撮影していることも(おそらく)明らかにせず得た映像と情報を臆面もなく映像にしてしまう。名前を全世界に向けて明らかにする。その横暴さはどうなのか? 確かにそのナチの元将校はひどいことをした。反省をしてもいるだろう。繰り返してはいけないと思っているのだろう。だから証言をした。「正々堂々と名前と顔を出して証言しろ」といいたくなることも確かだ。しかしその元将校にも彼なりの理由があって名前を伏せることを条件にした。その条件があって始めて証言することに応じた。そのような条件を踏みにじることが果たして赦されるのか?
 監督はこの映像がこの映画に欠かせないと考えたのかもしれない。それはそうだろう。せっかく得た映像を使わないのは馬鹿らしい。しかし、私はそれは決してやってはいけなかったことだと思う。それをやってしまうことは一人の映像作家として、表現者として恥ずべきことであり、映像作家であり、表現者であると名乗ることは赦されるべきではない。表現者とは許された条件の中で自分の表現したいことを表現するものであり、禁じられたものを利用してはいけないはずだ。
 映画に限っても、映画とはさまざまな制限の中で作られるものだ。その制限の中に以下に自分を表現するのかが勝負であるはずだ。予算や、機材や、検閲や制限に程度の差こそあれ、その制限を破ることなく作るのが映画であるはずだ。この監督がやったことはたとえば「予算が足りないから銀行強盗をして予算を増やそう」ということと変わらない。
 そこに私は大きな憤りを感じた。

 映画のちょうど真ん中辺りにあるアウシュビッツの映像。生存者の証言にあわせてカメラがアウシュビッツの跡地を進む。その映像は徹底して一人称で、見ているわれわれは自分がその場所に立っているかのような錯覚にとらわれる。そしてそこに40年前に起こっていたことが陽炎のように表れるのを体験する。そのシークエンスは非常に秀逸だ。この映画の中で最も映画的で、最も感動的な場面といっていいだろう。想像させるということは、どんなにリアルな再現よりも効果的である。
 しかし、批判の眼を忘れないように見続ける私はその感動と衝撃の合間に監督の意図を探る。このシークエンスの意図は明確だ。当時のユダヤ人の衝撃と悲しみの疑似体験をさせること。それは殺されていったユダヤ人たちを理解するための近道である。しかしこのような近道を作ることで見ているわれわれはユダヤ人の視線に追い込まれていく。それは中立な視線を保つことの困難さ、ユダヤ人の受難を自分自身の身に降りかかったことであるかのように思わせる誘導。そのような誘導を意識せずに見ると、この映画は危険かもしれない。ひとつの見方に押し込められてしまう危険があるということを常に意識していなければいけない。
 そのような観客の感情の誘導はそのあたりがピークとなる。その後、感情の高ぶりはやや抑えられ、逆に生依存者たちの心理の複雑さも垣間見えるようになる。生存者のほとんどは「特務班」と呼ばれる労働者だった。それは到着してすぐにガス室に送られるユダヤ人とは違う境遇にある。彼らは被害者であると同時に、ナチスの虐殺にある種の加担をする立場でもある。自分が生きながらえるために仕方ないとはいえ、その仕方なさはそれ以外によりどころがないという仕方なさであり、それにすがるしかないというのは心理的に非常にきついことなのだ、ということが証言の端々から感じられる。

 このあたり、映画の後半の証言はほとんど直接に字幕がつく。それは英語であったり、イスラエル語(?)であったりする。それは言語の問題なんだろうか? 単純に監督が通訳を必要とせずに話せるというだけの理由なのだろうか?しかし、字幕なしにすべての言語を理解できる人は少ないだろう。
 この、通訳を介するということから直接の証言への変化はこの映画のつくりのうまさのようなものを感じる。ドキュメントは虐殺の中心、より悲惨な生存者の少ないところから、虐殺の周辺、より生存者の多いところへと移動していく。それとは裏腹に、証言者たちは通訳を介した間接的な存在から、通訳なしで語りかけてくる直接的な存在へと変化する。虐殺の中心から周辺へという移動は、最初で一気に観客をつかむとともに、物語の強弱によって9時間半という長さを退屈にならないようにする。一つ一つのエピソード(たとえばチェコ人のケース)も非常にドラマティックだ。
 このような映画のつくりのうまさは監督の手腕を感じさせると同時に、なんとなく姑息な感じというか、計算高さを感じてしまう。観客を自分の側に取り込んでいくための周到な計画がそこに感じられる。
 もちろんそれが悪いわけではない。ホロコーストという想像を絶する悲惨な体験を自分のものとするためには並大抵の衝撃では無理である。この映画はその並大抵ではないことをある程度実現しているという点ですごい映画であり、この体験をすることは非常に有益である。しかし、映画を見終わってその自分の体験を客観視することが必要になってくる。単純に映画に浸るだけで終わってしまっては、描かれた歴史的事実のはらむ根本的な問題は見えてこない。
 この映画もまたひとつの暴力であるということを見逃してはいけない。私があくまでもこだわる元SS将校の証言はその具体的なものだが、全体としてこれがナチを一方的に攻撃していることは確かだ。そしてそれはユダヤ人を正当化することにつながりうる。

 この映画を見終わって、監督があまりに感情的であることに救われる。もしこのようなドキュメントを冷静に描いていたらこの9時間半は鼻持ちならない時間になってしまっていたことだろう。そうではなくて、この映画があくまで監督の憤りの表現であることがわかると、納得できる。果てしなく果てしなく果てしないモノローグ。他人の口を借りたモノローグ。それがモノローグであることを理解したならば、そのメッセージを冷静に噛み砕くことができる。そしてその部分部分は歴史的証言として非常に価値がある。そしてまたこのモノローグが吐露する憤りはユダヤ人といわれる人たちに(少なくともその一部に)共有されている感情なのだろう。
 そのように自分なりに客観的に見つめてみて、あとはこの映画からはなれて、しかしこの映画とかかわりのあるさまざまなことごとと接するたびに思い出すことになるだろう。