カラマリ・ユニオン

Calamari Union
1985年,フィンランド,80分
監督:アキ・カウリスマキ
脚本:アキ・カウリスマキ
撮影:ティモ・サルミネン
音楽:カサブランカ・フォックスとあれやこれや
出演:マッティ・ペロンパー、プンティ・ヴァルトネン、サッケ・ヤルヴァンパー、マルック・トイッカ

 なぞの会合を繰り広げる男たち。男たちは「カラマリ・ユニオン」と名乗り、自分たちの窮状から逃れるべく、街の反対側にあるという「エイラ」を目指そうと話し合う。そしてその「エイラ」へのたびは困難を極めるという。男たちの名はみな「フランク」。彼らは地下鉄に乗り、街の中心へ向かう。
 アキ・カウリスマキが『罪と罰』についで撮った2作目の長編作品。とにかくわけがわからない設定とわけがわからない展開。カウリスマキ・ワールドここに極まれり。

 ちょっとわけがわからなすぎるかもしれません。わけのわかるところがひとつもない。それでも、みんな名前が「フランク」というのはかなり面白い。最初の会合の場面で、「じゃあ、フランクよろしく」「ああ、フランク」と受け答えるあたりでは何のことかわからないが、だんだんみんなフランクなのだとわかってくると、なんだかほほに笑みが浮かんでしまう。これはコメディなのか。『レニングランド・カウボーイズ』で名の売れた監督だけに、シュールな感じのコメディは得意分野なのだろうけれど、この作品はあまりにシュールすぎる。海辺(湖辺?)のホームレスに「泊めてやってくれ」と頼んだり(自分たちは車があるのに)、突然店を経営していたり、首をひねりながら笑うしかない場面の目白押し。
 このわからなさは、つまりありえなさ、そして作り物じみさ(そんな日本語はない)だろう。作り物じみさというのは逆にわかりやすさの賜物でもある。ホテルの名前が「ホテル・ヘルシンキ」だとか、イタリアにいて考えるときに「イタリア」というネオンサインのカットが挿入されたり、このあまりにわかりやすさがうそっぽく、作り物じみた感じを与える。作り物じみた感じは現実的でなく、リアルでないから、そこに何かあるのだろうと考えてしまうけれど、その何かが何なのか一向にわからない。そこに立ち現れるわからなさ。
 でも、途中からなんとなく予想がつくようになってくる。「車のドアに、コートのはじをはさむんだろうなぁ」とか「ああ、しんじゃうんだろうなぁ」とかそういう予想ですが。それが予想できるから何なのかといわれるとそれもまたわからない。
 あまりにわけがわからず、もう一回見てやろうと思ってしまった。それもカウリスマキの作戦か?

罪と罰

Rikos Ja Rangaistus
1983年,フィンランド,93分
監督:アキ・カウリスマキ
原作:ドストエフスキー
脚本:アキ・カウリスマキ、パウリ・ペンティ
撮影:ティモ・サルミネン
音楽:ペドロ・ヒエタネン
出演:マルック・トイッカ、アイノ・セッポ、エスコ・ニッカリ、マッティ・ペロンパー

 生肉工場で働くラヒカイネンは一人の男のあとをつけ、家まで行く。電報と偽ってドアを開けさせ、家の中に入り込む。ラヒカイネンは「お前を殺す」と言って、ピストルを突きつけ、その男を撃ち殺してしまう。そこに買い物袋を提げた若い女が入ってくる。彼女はその家で当夜開かれる予定だったパーティのために呼ばれたケータリング店の店員だった。
 フィンランドを代表する映画監督アキ・カウリスマキの処女長編。処女作にしてこれだけの作品を作ってしまうのはさすがとしか言いようがない。

 映画監督同士の類似や影響をあげつらって作品を論評するのはあまり好きではないですが、それがともに好きな監督である場合にはどうしてもいいたくなってしまう。この映画をみて思うのはやはりヴェンダース。映画のリズムなどはぜんぜん違いますが、映像がとてもヴェンダース。ヴェンダースというよりはロビー・ミューラーと言ったほうが正しいのかもしれません。ヴェンダースとミューラー、そしてカウリスマキとティモ・サルミネン。このコンビが作り出す映像が似ているということだと思います。それはなんとなくざらざらした映像に盛り込まれた暗いトーンの色のアンザンブル。全体に暗いトーンなのだけれど、そこには多彩な色が盛り込まれている。そのイメージがとても好きです。
 ドストエフスキーの『罪と罰』は私が最も好きな小説のひとつ。これまで何度となく読んできた小説です。その面白さは、どのようにでも解釈できるところ。ラスコーリニコフの殺人の動機というか意味というか、そのようなものは明らかにならないまま終わり、その解釈を読むたびに考えることができること。この映画はその『罪と罰』のあいまいさをそのまま映画に閉じ込めているところがすばらしい。大体好きな小説が映画化されるとがっかりすることが多いですが、これはかなりしっくり来ました。舞台も登場人物も設定もすべて変えていながら、物語にとって重要な抽象的なプロットは忠実になぞる。その描き方が絶妙です。
 ということなので、そもそも好きな要素が好きなように盛り込まれているので、気に入らないわけがない。そしてこの映画は面白い。カウリスマキと言うと、『レニングラード・カウボーイズ』の楽しさと『ラヴィ・ド・ボエーム』のような作品の淡々として雰囲気の両極端という感じですが、この作品は基本的には淡々としたものながら、サスペンス色が強いということや、音楽の使い方なので全体的な雰囲気はドラマチックなものになっている。そのあたりが処女作ということなのだろうか? しかし、この作品の完成度はかなり高く、逆にそれ以降の作品がこの作品に追いつけてないのかもしれないと思うくらいである。この処女作が到達した高みに再び上り、それを超えるために試行錯誤を繰り返しているという見方すらしてしまう。

アニエスv.によるジェーンb.

Jane B. par Agnes V.
1987年,フランス,95分
監督:アニエス・ヴァルダ
脚本:アニエス・ヴァルダ
撮影:ヌリート・アヴィヴ、ピエール=ローラン・シュニュー
音楽:ジョアンナ・ブルズドヴィチュ
出演:ジェーン・バーキン、アニエス・ヴァルダ、フィリップ・レオタール、ジャン=ピエール・レオ

 アニエス・ヴァルダがジェーン・バーキンを読み解いていく。いくつかのショート・フィルムとインタビュー風に彼女を映した映像、ヴァルダ自身の語り、これらを組み合わせて浮かんでくるのは、ジェーン・バーキンという女優のおぼろげな像であり、アニエス・ヴァルダがジェーン・バーキンを好きだという事実。全編にわたってヴァルダの遊び心にあふれた作品。楽しいと同時にヴァルダらしい不可解さも持つ不思議なフィルム。

 アニエス・ヴァルダのファースト・シーンはやはりすばらしかった。私は彼女を「ファースト・シーンの魔術師」と呼ぶことに決めました。今回のファースト・シーンは一葉の絵画(見覚えはあるけれど、誰のなんという絵だったかは思い出せません)の中の一人にジェーン・バーキンが扮しているというもの。言葉で書いてしまうと、たいしたことはありませんが、その絵画であるようで明らかに生身の人間が演じている動画がぱっと映った瞬間の色彩の鮮やかさや構成美はやはりいいのです。後ろの人が静止するのに耐え切れず微妙に動いているのもいい。
 このはじめのシーンからして、途中ではさまれるいろいろなショートフィルムにしても、この映画は基本的に「遊び」なんだと思います。アニエス・ヴァルダとジェーン・バーキンという才能のある二人であり、しかも気心が知れた関係だからこそできた遊び。くそまじめに映画を撮るのもいいけれど、映画を撮ること自体が楽しくなければ、楽しい映画なんかできないといっているような雰囲気の映画です。
 まあしかし、あくまで遊びですからぐっと映画に引き込まれ抜け出せないというような力はありません。つれづれなるままに、気ままに見る映画。だから退屈だと思う人もいるでしょう。
 それでも、映画のはしばしに気になるところはあります。最初のショートフィルムの最後のパンにヴァルダの感性のすばらしさを感じ、ジャンヌ・ダルクを演じるバーキンに、女優としてのすごさを感じます。遊びではあってもそれはまじめな遊びで、そこにはやはり才能のきらめきが感じられます。
 1時間半ずっとジェーン・バーキンを見ていて感じたのは、ジェーン・バーキンはミック・ジャガーとウィノナ・ライダーに似ているということ。何じゃそりゃ? という感じですが。似てるんですね、これが。よく見てみましょう。似てるから。だからといってミック・ジャガーとウィノナ・ライダーが似ているというわけではありません。ジェーン・バーキンが両方に(あるいは表情によってどちらかに)似ているというだけです。映画が遊んでいるので、見る側もちょっと遊んでみたということです。似てるよ。絶対。

スプリング-春

The Spring
1985年,イラン,86分
監督:アボルファズル・ジャリリ
脚本:アボルファズル・ジャリリ
撮影:メヒディ・ヘサビ
音楽:モハマド=レザ・アリゴリ
出演:メヒディ・アサディ、ヘダヤトラ・ナビド

 イラン・イラク戦争が激しさを増す中、老人シナが一人暮らす森の小屋へ連れられてきた一人の少年ハメド。両親から一人離れ、疎開生活をする彼はなかなか森とシナになじむことができない。それでもシナはハメドを温かく見守り、彼につらい思いをさせないように勤めるのだが…
 「ぼくは歩いていく」などのジャリリ監督の長編デビュー作。イラン・イラク戦争というモチーフも、北部の寒い土地という設定もいわゆるイラン映画とは異なる趣き。

 夜の森でシナが聞いたという音。その場面でかぶせられた音はいろいろな音が交じり合い、その後の昼間ハメドが「同じ音を聞いた」という音。それは夜の場面とは明らかに違う音。しかしどちらも複雑に混ざり合い、しかも大きく増長された音。ハメドが聞いたという音は列車の音。しかしそこに混じるいろいろな音。
 ほかにもキツツキの音やラジオなど、「音」が非常に強調された映画である。その描き方にはいろいろな理由付けが考えられるだろう。ジェット機や爆撃といった音と悲劇を結び合わせるハメドの心の反映。主に音を頼りにして森の生活を送るシナの鋭敏さの表現。
 どちらにしても増長された音の表現は彼らの音に対する敏感さを表すのだろう。われわれが日常聞いている音の中に埋もれたさまざまな音をも聞きだす鋭敏な耳。その独特な表現にこの間得な非凡なところを感じるけれど、その表現によって意味されるものを感じ取るのはなかなか難しい。なかなか交わることのできない二人の心。あるいは共通の過去の痛みか…
 ところで、この映画の風景はイランらしくない。やたらと雨が降り、しかも寒そう。砂っぽい砂漠やキシュ島みたいな南の島のイランとは違うイラン。こんなイランもあるんだ、という感じ。
 もうひとつところで、イランには傘がないのだろうか? こんなに雨が振っているのに誰も傘を差していない。「サイクリスト」でも雨が降ってきても、みんな傘をささず、なぜかビニール袋をかぶっていたりする。あまり雨が降らいというなら、傘を差さないというのも理解できるけれど、結構雨が降っているのに傘がないのはなぜ? と思ってしまいます。余談でした。

カンフー・マスター!

Kung Fu Master !
1987年,フランス,80分
監督:アニエス・ヴァルダ
原作:ジェーン・バーキン
脚本:アニエス・ヴァルダ
撮影:ピエール=ローラン・シュニュー
音楽:フィリップ・ベルナール
出演:ジェーン・バーキン、マチュー・ドゥミ、シャルロット・ゲンズブール

 マリー=ジャンヌは娘の誕生パーティーで見かけた少年ジュリアンになぜか魅かれ、彼に出会うため学校へと向かう。偶然彼に車をぶつけてしまった彼女は彼をカフェへと誘い、「カンフー・マスター」というビデオゲームに熱中する少年の姿を食い入るように眺めた…
 ジェーン・バーキンが娘のシャルロット・ゲンズブールと競演。同じヴァルダ監督の「アニエスv.によるジェーンb.」と双子のような作品。何でも「アニエス…」の撮影中にバーキンが思いついたアイデアらしい。

 オープニングのキュートな映像。「あれ?スパルタンX?」と思ってみていたら、映画の中では「カンフー・マスター」と呼ばれている。でも、あのゲームはきっとスパルタンX。作りもまったく一緒だし。
 20歳以上という年の差。絵的には違和感があるけれど、決して不自然なことではないと思えるのはやはりジェーン・バーキンの力量でしょうか。マリー=ジャンヌがジュリアンに寄りかかる姿はとてもほほえましくもある。
 しかし、すべてが微妙。結局何も描いていないといってしまえるほどに微妙な心理の機微を描いているように見える。映画のどこを切り取っても、明確に断言しているところがない。明確に見えたことも一瞬の後にはまた不明確さの混沌の中に埋没しているような感じ。まるで世の中に明らかなことなどひとつもないのだといっているような。
 印象に残っているカットも物語とのかかわりを捉えることができない。島の家の窓のカット、その反復。ジュリアンのお母さん。
 なんだかひとつの物語があるようではあるけれど、そこをさまざまな物語の部分が通過していて、物語どうしの境界があいまいになっている感じ。もちろん現実の世界にはほかから独立したひとつの物語など存在しないのだから、そのほうが現実に近いということができるのかもしれないけれど、物語るということはその混沌とした現実からひとつの物語を抽出するということであって、そういう意味ではこの映画は物語ではないのかもしれない。
 なんとなく、アントニオーニと近しいものがあるかもしれない。ひとつの物語を抽出しないという点で。監督によって作品の傾向を一般化することにどれだけの意味があるのかはわからないし、その一般化によって見方が固定化されてしまうという弊害があることもわかっているけれど、とらえどころのない作品をとらえるための足がかりを探していたら、そんなイメージに至った。アントニオーニは散逸していく複数の物語。ヴァルダは無秩序にすれ違う複数の物語。重要なのは、その複数の物語を読み解くことではなく、それをそのまま受け入れることだと思います。その散漫さや混沌に、物語によって主張されるの
とは違う主張(あるいは世界)がある。のかもしれない。

風の谷のナウシカ

1984年,日本,116分
監督:宮崎駿
原作:宮崎駿
脚本:宮崎駿
音楽:久石譲
作画:小松原一男
出演:島本須美、納谷悟朗、永井一郎

 「火の七日間」と呼ばれる文明滅亡のときからから1000年、地球は猛毒の瘴気を放ち、巨大な昆虫が飛び交う「腐海」と呼ばれる森林で覆われていた。海からの風によって腐海の毒から守られている風の谷、平和に暮らすその谷に虫に襲われた軍事国家トルメキアの船が墜落する…
 文明と自然の関係性を問題化しながら、映画としては一人のヒロインをめぐる娯楽作品に仕上げるところがさすが宮崎アニメ。

 今改めてみると、気づくことがいくつかあります。ひとつはこの世界のモデルがコロンブス以前の中南米であるということ。マヤやアステカといった文明をモデルとした神話的な世界でしょう。トルメキアの旗に双頭の蛇が使われているのも、蛇を神格化していたインカの影響が感じられます。山際に立つ石造りの建物などもそう。イメージとしてはマチュピチュでしょうかね。
 もうひとつは「顔」です。風の谷の人々は常に顔があり、表情があるのに対して、トルメキアの兵士たちはほんの一部を除いてほとんど顔が見えない。顔を奪われるということは個性を奪われるということであり、人間性を奪われるということだと思います。つまり、トルメキアの人たちの顔を描かないことによって、彼らは非人間的な印象を持つということ。これに対して虫たちには顔がある。トルメキアの兵士たちより、むしろ虫のほうが人間性を持っているとあらかじめ宣言するようなこの構造が宮崎駿の演出のうまさなのかなとも思います。
 あとはキャラクターのデザインの秀逸さでしょうか。特に虫のデザインは本当にすばらしい。もともとSF出身だけにそのあたりは細かいのでしょう。さらに作画監督が「銀河鉄道999」などので知られる小松原一男だというのも大きいかもしれません。
 というところでしょうか。内容に関しては小学校の教科書に載せてもいいようなものなので、特にコメントはいたしません。むしろこの映画を教科書の一部にするべきだと思うくらい。

<日本名画図鑑でのレビュー>

 まず、なぜ『ナウシカ』なのか。『トトロ』や『千尋』ではなく『ナウシカ』なのか、『AKIRA』ではなく『ナウシカ』なのか、である。
 それはこの作品がアニメを“漫画映画”から“アニメーション”に、つまり後に“ジャパニメーション”と呼ばれる新たなメディアへと変化させた記念碑的作品だからである。大人、子供を問わず観客を引き込む物語の面白さとダイナミックな映像というハリウッドにも比肩するスペクタクルの出発点がここにあるからなのだ。宮崎駿という作家の出発点はもちろんこれ以前にあった。しかし、ひとつの映画としてひとつの完成された世界を提供したのはこれが最初だったのである。
だからこの作品は日本の映画史、というよりは世界の映画史に残る名作であるわけだが、そのことをわざわざここで断らなければならないところに若干の歯がゆさはある。

 さて、前口上はそれくらいにして、映画の内容に入るが、この映画は基本的な形としては「人類滅亡後の世界」というSFの基本的な形を踏襲している。しかし、滅亡といい切れないほどの多くの人々が生き残っているし、文明も残っている。しかし、それは滅亡の日=“火の七日間”から千年もの月日が流れたからかもしれない。つまり、滅亡の危機に瀕した人類はいったん原初の生活に戻り、千年かけてこの映画の段階まで取り戻してきたのだというように考えるのが自然なのではないか。
 まあしかし、それはたいした問題ではない。そのような前提はあくまでもひとつの世界観を構築する土台になっているというだけで、そこを突き詰めて行っても特にえられるものはないだろう。
 それでも、この千年というときには意味があるのだと思う。この千年という時の隔たりがあるからこそ新たな神話が生まれ、それが神話化したことについて説得力を持つ。そして神話が説得力を持つからこそ、この物語にも説得力が生まれるのだ。神話の実現、それはつまり神の到来であって、決定的な救済の徴だ。この映画がそのような神話の実現をめぐる物語であるからには、そのようにして神話を産む前提となる歴史を作り上げる必要があったのだ。
 そしてさらにこの映画は、その神話の説得力を高めるために、語られはしなくともより精密な神話を用意しているように思われる。それは、タイトルクレジットのぶぶんで絵巻物のように神話が語られている部分からもわかる。そして、それを見る限りではその神話というのはマヤやアステカといったアメリカ大陸の旧文明をモデルとしているのではないかと思う。それはトルメキアの旗に双頭の蛇が使われているのも、蛇を神格化していたインカの影響が感じられるし、山際に立つ石造りの建物なども伝説的な都市国家であるマチュピチュを髣髴とさせる。そのような現実的なモデルを使って精密な神話的世界を作ること、それが実は非常に重要だったのではないかと思う。
 そのような強固な前提が存在しなければ、すべてが空想から成り立っているSFの世界は成立し得ない。そういう意味からいえば、この作品は純粋なSFとしてみても、非常に優れた作品だということになる。

 そして、その神話化はさらに進み、ある意味ではこの物語時代が神話化されているともいえる。この映画は現在から見れば未来を舞台にしたSFであり、映画の時間軸から観ればリアルタイムの物語である(つまり昔話などではない)。にもかかわらず、この映画は全体的に神話くさい。それはおそらく、この物語が神話の構図(つまりは原物語なもの)にピタリとはまるということだろう。
 それが端的に現れるのは、この物語の善悪二分論とそれと矛盾する形でその対立項から逃れる人間の存在である。善悪二分論の部分は非常に明確だ。善の側の極にいるのはナウシカであり、悪の側の極にいるのは巨神兵である。そして風の谷に人々は善であり、トルメキアは悪である。
 そのことは物語を知らなくても、その画面を一瞬見ればわかる。それは、風の谷の人々には全員に顔があるのに対して、トルメキアの人々には顔がない。顔があるのは姫と参謀ともうひとりだけで、その他の兵士たちは常に仮面を下ろしていて顔がないのだ。顔がないということはつまり個人ではなく、したがって人間ではないのだ。ならば彼らはいやおうなく“悪”とみなされざるをえない。
 さらにいうならば、虫には顔がある。つまり虫たちはトルメキアの兵士たちよりも善の側に近い。宮崎駿はこのことをまったく説明せずに、画面だけで感覚的にわからせてしまう。感覚的にわかるということは映画を言葉で理解するということではなく、体のどこかで感じるということにつながるのだ。このあたりが宮崎駿の演出の巧妙さであり、彼の作品がハリウッド映画に比肩するスペクタクルになる得る要因であるのだと思う。

 そしてそれを実現するもとにはキャラクターデザインの秀逸さがあった。宮崎駿や高畑勲はまだ若手と言っていい新進気鋭のクリエーターだったのに対し、作画監督の小松原一男はすでに松本零士作品などで定評を得ている「名前のある」クリエーターだった。当時のアニメファンにしてみれば「コナン」の宮崎と「ハーロック」の小松原、このふたりの組み合わせでどんな世界が描き出されるのか、にわくわくしたことだろう。
 そして、それは見事に結実し、すべてのキャラクターが見事にその世界をきっちりと構成する空間が出来上がった。人も、虫も、乗り物も、そして人々の世界観も、すべてがパズルのピースのようにピタリとはまったのである。
 私がどうしてもこのナウシカを宮崎作品のベスト1に上げる理由はここにある。確かに物語の質などを考えると、いい作品はたくさんあるのだが、小松原一男を失ってしまった宮崎駿はどこかノスタルジーに傾きすぎてしまう傾向があるように思われる。小松原一男はその世界観をSFのほうに、つまり未来のほうに引っ張っていこうとしたが、宮崎駿は過去のほうへと引っ張っていこうとするのだ。
 そのノスタルジーを使うやり方のほうが、今の時流にはあっている(つまりスペクタクルとして観客をひきつけることが出来る)のだとは思うが、それはやさしすぎるというか、わかりやすすぎるというか、単純すぎると思うのだ。過去というすでに整理された時間から現代への教訓を見つけるということは言ってしまえば簡単なことなのだ。歴史を忘却から引き戻すこと、それももちろん大切だが、日本のアニメというものは手塚治虫以来ずっと未来を見つめ続けてきたのではないかと思うのだ。宮崎駿にももう一度、未来に目を向けて欲しいと思う。

 そしてこの映画は、未来に目を向けているがゆえに、そこから現代へと跳ね返ってくる課題も浮き彫りにしている。それは、憎しみの連鎖、あるいは恐怖の連鎖である。いま世界を襲っている未曾有の悲劇の根幹にあるのは恐怖の連鎖/憎しみの連鎖である。恐怖からその恐怖のもとと目される他者を攻撃し、そこに憎しみと恐怖が生まれ、逆向きの攻撃がなされる。その際限ない連鎖が現在の(アメリカからいえば)「アメリカ対テロ」という構図を生み出した。アメリカが恐怖に縁取られた国だということはマイケル・ムーアが盛んに言っているけれど、アメリカに限らず人間は恐怖に弱いのである。
 この映画はそのことを見事に描き出す。恐怖におびえた人々は次々と武器を強力にしてゆき、人間の力の及ばないものまで持ち出してしまう。ナウシカはそれを収める超人的な存在として現れてくるが、そのカリスマの力もどれくらい続くのだろうか…

男達の挽歌

英雄本色
1986年,香港,95分
監督:ジョン・ウー
脚本:ジョン・ウー
撮影:ウォン・ウィハン
音楽:ジョセフ・クー
出演:チョウ・ユンファ、ティ・ロンレス、リー・チャン、エミリー・チョウ

 偽札製造と麻薬取引を生業とする香港マフィアの幹部のひとりロンは弟のチャンが警官になることを決めたことで、足を洗おうと決意する。そしてロンは親友で弟分のユンファを置いて、最後の仕事を済ませるために台湾へと旅立った…
 いまやハリウッドでも大物となったジョン・ウーの初期の傑作。「香港ノワール」と呼ばれるジャンルの先駆け伴った作品で、香港=カンフーという概念をつき崩した記念碑的作品。

 今から見ればやはり15年前の作品で、なつかしさすら漂います。もちろん、スローモーションの使い方など当時は相当斬新であっただろうことは、今ある幾多のアクションに引けを取らない迫力からも容易に想像できます。しかし、そこは日進月歩のアクション業界。なかなか今も手に汗握って見られるかと、それはなかなか難しいのではなかろうかと思いました。
 しかし、チョウ・ユンファの咥えマッチとレスリー・チャンの甘いマスクは今だからこそいっそう味わい深いのかもしれない。そして人間ドラマとしても濃い。そのあたりにジョン・ウーがブレイクしていった背景が見えるとも思います。
 それにしてもやはり、アクション映画には鮮度が重要なのだと改めて思わされました。これだけの映画でも15年経つと、こんなものかと思ってしまう。それはこの映画の影響力の強さゆえだとはわかっていても、そう感じてしまうもの。それが鮮度ということでしょう。

エステル

Esther
1986年,イスラエル=イギリス,97分
監督:アモス・ギタイ
脚本:アモス・ギタイ、ステファン・レヴァイン
撮影:アンリ・アルカン
音楽:クロード・バートランド
出演:シモーナ・ベンヤミニ、モハマド・バクリ、シュメール・ウルフ、ジュリアーノ・メール

 ここはインドから中東まで100以上の州を治めるペルシャ王の宮殿であることが説明される。その王の宮殿には各地から美女が集められ、ハーレムが作られる。そのハーレムの中から王妃となったエステルとその養父モルデカイ、王の腹心アマンの間で繰り広げられる物語。
 とはいっても、アモス・ギタイだけに、純粋なコスチュームプレイではなく、現代に問題を投げかける作品になっている。ドキュメンタリーをとりつづけていたギタイ初の劇映画。

 過去の時代、ペルシャが栄えていた時代、おそらくヨーロッパの中世にあたる時代、そんな時代を想定しているようでありながら時折、車のエンジン音やクラクションなど現代にしか存在しない生活音が入る。
 物語はというと、ユダヤとアラブという現代のイスラエル-パレスティナに通じる対立構造を描いている。したがって、映画が進んでもその生活音がなくならないばかりかむしろ増え、さらにあからさまに現代的な音になっていくのを耳にしてこの映画によって主張されているのは「これは決して昔話ではない」ということなのだと気付く。
 表現における齟齬から推論して自ら気付いたこのことは、映画によって直接的に語りかけられたことよりも心に深く響く。この映画はその心理を巧みに利用し、われわれに気付かせ、そしてその「気付き」を最後の長い長い1カットのシークエンスで裏付ける。
 この映画がほとんど1シーン1カットで撮られているのは、なぜか。映画になぜということはないのだけれど、ここまでかたくなに1シーン1カットに固執されると考えてしまう。単純にドキュメンタリーの手法をそのまま使っただけなのか。音の部分で映画作法を崩しているがために視覚的な部分では古典的な映画作法にことさらに従うことでバランスをとろうとしているのか。そのようなことも考えながら、私はこの1シーン1カットの画面にアンチ・クライマックスを感じる。この映画はクライマックスを避ける。劇的な場面がない。盛り上がりそうな場面ではそれを避ける。その際たるものは終盤の絞殺刑のまえの少年たちの闖入。盛り上がるべき場面でそれをぶち壊す。そしてわれわれを現代へと立ち返らせる。クライマックスが存在しないことで現在へとスムーズにつながる。1カットの中に過去と現在が混在していても、困惑はするが受け入れることはできる。そんな感じがした。

新生人 Mr.アンドロイド

Making Mr.Right
1987年,アメリカ,94分
監督:スーザン・シーデルマン
脚本:フロイド・バイヤーズ、ローリー・フランク
撮影:エドワード・ラックマン
音楽:チャズ・ジャンケル
出演:ジョン・マルコヴィッチ、アン・マグナソン、ベン・マスターズ

 広告会社のフランキーは恋人でクライアントのスティーヴと喧嘩をし、彼の選挙キャンペーンの仕事をおりてしまった。次に彼女に入ってきた仕事は宇宙飛行用に開発されたアンドロイドのユリシーズの広告。知名度を上げて政府からの補助金を確保するという仕事だった。彼女はユリシーズに礼儀作法が足りないといい、自らそのコーチをすることになったが…
 ジョン・マルコヴィッチが芸達者らしく二役を演じる、オーソドックスなコメディ。音楽もファッションも80年代らしい時代性が出ていていい。

 この当時、ロボットやアンドロイドの技術がどれだけ進んでいたのかは分からないので、この映画の発想が新しいものだったのかどうなのかは分かりませんが、いま見れば特に目新しさもなく、ありがちな話という気がしてしまう。ロボットに代表される「もの」が人間に恋をする。それは大体、生命となってはじめて出会った異性に恋をしてしまうという話が多いですね。おそらく同じ頃の映画だったと思いますが、「マネキン」とか「スプラッシュ」とか(スプラッシュは生きものだけど)そんなお話。
 と考えると、こういう話には何らかの原物語のようなものがあるのではないかと考えてしまいます。それはひとつの明確な物語ではなくて、イメージのようなものでもいい。「恋」というものに対する神話じみた物語。そんなものが存在しているような気がします。一目惚れの神秘というかそんなもの。しかも、いまあげた2つも含めて3つの話すべてがコメディというのもまた示唆的なような気もします。そのような神話じみた物語が存在しながら、現代はそれをシニカルに見ているという解釈。そんな解釈ができるかもしれない。
 どうも映画がオーソドックスで面白さも並という映画になると、こういうことを書いてしまうようです。こんな解釈の仕方はあくまで見る側の勝手で、作り手の意識には上っていないのでしょう。そういう無意識に従ってしまうパターンのようなもの、だからこそ「神話じみた」ということになる。そのパターンをいかに崩していくのかが面白さのポイントになるのかもしれない。見る側にも存在する無意識のパターンを以下に裏切るか、ということですね。
 それで、結局何がいいたいのかといえば、この映画はありがちなパターンの物語を普通に撮ってしまったので、普通の映画になっているということです。面白くないわけじゃないけれど、特にどこが面白いというわけでもない。
 オチも読めたしね。

春のソナタ

Conte de Printenmpsr
1989年,フランス,107分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:リック・パジェス
音楽:ジャン=ルイ・ヴァレロ
出演:アンヌ・ティセードル、フロランス・ダレル、ユーグ・ケステル

 ジャンヌは研修のためパリにやってきた従妹に部屋を貸し、自分は出張中の彼氏のアパートで過ごしていた。従妹が帰るはずの日、従妹の部屋に行くと従妹とその彼氏がまだ家にいた。従妹の滞在が伸び、ジャンヌは彼の部屋に戻ることに。その夜、気が進まない友だちのパーティーでに行ったジャンヌはそこでナターシャという少女に出会い、その娘の家に泊まることになった…
 エリック・ロメールの「四季の物語」の第一作。恋愛を巡る心理の行き来が興味深く、少々哲学的というフランス映画らしい物語。

 なんてことはないはないですが、考えていることをすぐに言葉にして表現するというのがなんとなくフランス映画っぽい。それも感情的な言葉ではなく、思弁的な言葉をさらりといってしまう。それが恋愛に関わることであってもそう。この映画も物語を進めていく中心にあるのは会話であって、登場人物たちが発する言葉である。
 言葉と映画の関係について考えてみる。映画はやはり映像の芸術で、エンターテイメントだから、言葉は不可欠な要素ではないと思う。だからサイレント映画だって面白い。しかし、このように言葉が重要な要素として使われるのも面白い。それはヌーヴェル・ヴァーグに特徴的な話なのだろうか?(不勉強ですみません)確かにゴダールも言葉に非常に意識的な作家だし、ヌーヴェル・ヴァーグからなんだろうなという気もする。
 言葉を使うことで映画は曖昧になる。受け手に任される要素が大きくなる。それは意味の伝わり方が映像よりも曖昧だから。受け手の素養によって伝わり方が大きく違ってくる。たとえばこの映画ででてきた「超越的と超越論的」というものの違いを理解できる人がどれだけいるのか? わからないものとして無視するか、当たり前のように理解するか、中途半端に理解していてそこでつまずくか。私はそこでつまずいて映画においていかれてしまいましたが、それで映画の見え方が違ってくると思う。
 映像だってもちろん受け手によって捉え方は違うのだけれど、イメージのままで植え付けられる分、個人差が少ない気がする(あくまで気がするだけ)。なので、ヌーヴェル・ヴァーグ以降のフランス映画のちょっと難しいものというイメージもまんざら間違っていない気がする。それは見る人によって見え方が違ってくるもの、イコール定まった答えがないものということ。本当はその方が自由でやさしい映画であると私は思うのですが。