タクシー

Taxi
1996年,スペイン=フランス,114分
監督:カルロス・サウラ
脚本:サンティアゴ・タベルネロ
撮影:ヴィットリオ・ストラーロ
音楽:ジプシー・キングス、マノ・ネグラ
出演:イングリッド・ルビオ、アガタ・リス、エウサビオ・ラサロ、カルロス・フエンテス

 タクシー・ドライバーのレメはある夜、ある薬注の女性を拾う。女性が寝入ってしまうと、彼女は運転手の仲間“ファミリア”に連絡し、彼らは橋の上で落ち合った。彼らは女性を車から引きずり出し、橋から投げ落とした。
 一方、タクシー・ドライバーのべラスこの娘パスは大学の入学試験に不合格、自暴自棄になって髪の毛をスキンヘッドにしてしまう。その娘を見た父は彼女をタクシーに乗せようと考えた。
 スペインで良質の作品を撮りつづけるサウラ監督が、移民・差別・ネオナチと言った社会問題を、タクシー・ドライバーというユニークな視点から、サスペンス調で描いた映画。まじめです。

 社会問題を映画で取り上げるというのは難しいことなのだけれど、この映画はタクシー・ドライバーをその中心に据えたことでかなり成功している。まさしく発想勝ちなのだろうか。
 しかし、脚本がどうも今ひとつ。パスとダニがはじめてキスをする場面、二人は星がどうだのという話をしたりするが、あまりにあんまりだ(なんのこっちゃ)陳腐というか、何というか、ねらいだとしたら外れているし、本当にあのセリフがしゃれていると思っているなら、もっと映画見ろ!という感じ。
 そんな脚本のつたなさに邪魔されながらも鋭敏な映像はカルロス・サウラの本領発揮。特に印象に残ったのは、フレームの右隅にテレビの画面があって、奥でパスがご飯を食べているシーンと、寝ているパス(目は開けている)が暗闇から徐々に浮かび上がり、カメラも徐々によっていくシーン。最後の、カレロが死んでいるシーンもなかなか。全体的に言っても、構図がきれいで、タクシーに拘泥するならば窓ガラスへの映り込みを非常にうまく使っていて、トーンは暗いけれど、美しい画面でした。
 という感じです。発想はよし、映像もよし。しかし脚本がちょっと…

893タクシー

1994年,日本,79分
監督:黒沢清
脚本:釜田千秋、黒沢清
撮影:喜久村徳章
音楽:岡村みどり、岸野雄一
出演:豊原功補、森崎めぐみ、大森嘉之、大杉漣、寺島進

 悪徳金融業者に手形を盗まれ、多額の借金を抱えてしまった田中タクシーの社長を助けようと幼馴染のヤクザの親分が自分の組・猪鹿組の子分たちをタクシー運転手に仕立てた。ヤクザたちはかたぎの仕事に戸惑いながらも、一人残った運転手木村の指導のもと徐々に運転手らしくなっていくが…
 黒沢清が主にVシネマで活躍した時期、「地獄の警備員」と「勝手にしやがれシリーズ」の間に作られた作品。作品自体は非常にオーソドックスで派手さはない。しかし、画面画面に映像へのこだわりが感じられる作品。
 ちなみに、青山真治が助監督で参加している。

 いい意味で、普通な作品。ヤクザ映画だけれど、基本的にはヒューマンコメディで、派手なアクションシーンがあるわけではない。まあ、Vシネマなので、それほどお金をかけられないということもあるんだろうけれど。
 それにしても、撮り方は決してオーソドックスではない。この映画では特に「引き」の画が多い。タクシー会社でも、がらんとしたガレージの上から取ってみたり、近くにいる人をなめて、奥の人にピントを合わせたりと画面の奥行きを使って人物と人物の距離感を表現しているような気がした。やはりその辺の画面へのこだわりがテレビドラマとは一線を画している理由といったところでしょうか。
 あとは、枝葉のところがとてもいい。タクシーの中でいちゃつく男で出てくる大杉漣が面白い。刑務所から出てくるとき2度とも、まったく同じカット割だったのもよかった。あとは、ユウジ(だったっけ?豊原功補)が二人のチンピラに絡まれて、次のカットで叩きのめされた二人を置いて車で去るシーン、あのシーンはいかにも最近の日本映画らしいシーンという感じ。

タクシー・ブルース

Taxi Blues
1990年,ソ連=フランス,110分
監督:パーヴェル・ルンギン
脚本:パーヴェル・ルンギン
撮影:デニス・エフスチグニェーエフ
音楽:ウラジミール・チェカシン
出演:ピョートル・マモノフ、ピョートル・ザイチェンコ、ヴラジミール・カシュプル、エレナ・ソフォノヴァ

 タクシー運転手のシュリコフはある夜騒がしい若者の団体を乗せ、最後の一人まで送り届けた。しかし、金を取ってくるといって去った若者は帰ってこなかった。翌日その若者を訪ねて彼が出演しているライブハウスへ。借金のかたに彼のサックスを預かった。
 ソ連映画といっても崩壊寸前のペレストロイカ全盛の時期を舞台にしている。それは価値観の衝突する時期であり、地道に働くタクシー運転手と自由に生きるミュージシャンという二人を中心に据えることでその対照を際立たせた。
 と、図式的に言ってしまうこともできるが、この映画の魅力はそんな思想的な点ではないし、映画自体もそのような政治的な主題を前面に押し出さない。「人間」というものを巧妙に描いた映画。

 非常にハードボイルドな、それでいて人間の内面をえぐるような不思議な映画。ほとんど感情というものが廃され、登場人物たちは感情をあまり表さず、もちろんそれが語られることもない。特にシュリコフは何を考えているのかわからない無表情な人間で、彼が笑うときは常にシニカルな笑いだ。  もちろんリョーシャはそれとは対照的によく笑い、怒るのだけれど、彼の感情は酒の助けを借りたものだ。
 だから二人が互いにどんな感情を持ち合っているのかを我々は知ることはできない。もちろん二人も互いの感情がわからない。二人が互いに影響を与え合っていることは確かなのだけれど、それぞれの内面での話であって、それが相互理解につながるわけではない。
 まあ、それが表に現れないからこそこの映画は面白いのであって、二人の内面の感情の変化が手にとるようにわかってしまったら、それはできそこないのハリウッド映画になってしまう。そこに陥らなかったのがこの映画のよいところ。
 しかし、リョーシャが黒人のサックスプレイヤーとサックスの演奏で意気投合するというところは少々ロマンチストすぎたかな、という感があった。
 しかししかし、この映画は結局収束せず、物語は拡散していくのだけれど(最後に出てくる後日談も映画の延長にはちっともなく、なんだか唐突な感じがする)、それがこの映画の非常に現実的なところ。二人はただすれ違うだけ。あれだけ様々な出来事が起きたのに、結局は街角ですれ違った人と大差はない。そこに程度の差こそあれ、根本的には何も変わらない。
 この文章もかなり拡散していっているけれど、あるひとつの現実の切り口として、あるひとつの人間ドラマとして、歴史的に大きな意味を持つ場所と時期に関するひとつの語りとして、この映画に描かれているものは非常に興味深い。

SARA

SARA
1997年,ポーランド,112分
監督:マチェイ・シレシツキ
脚本:マチェイ・シレシツキ
撮影:アンジェイ・ラムラウ
音楽:マレク・ステファニケウィック
出演:ボグスワフ・リンダ、アグニェシュカ・ヴォタルチック、チェザーリ・パズラ

 特殊部隊の任務を終え、帰宅したレオンは自らの不注意で娘を死なせてしまう。それ以後酒びたりの日々を送っていたレオンに、マフィアから娘サラのボディガードの依頼がきた。
 ポーランド版「レオン」と呼ばれるこの作品は、確かに主人公の名前もレオン、マフィアの家には「レオン」のポスターと、「レオン」を意識して作られていることは確かだが、映画としてはまったく別物。レオンほどかっこよくはないが、なんだか温かみのある映画に仕上がっている。

 マフィアそして殺し屋、銃弾がバンバン飛んで、人がドンドン死ぬのに、なんとなく温かみのある映画。緊迫する場面よりもなんだか微笑んでしまう場面のほうが多い不思議な映画。なんとなくまとまりはないのだけれど、とにかく監督の映画への愛情が感じられる。
 まず、いろいろな映画が映画の中に登場するのがいい。家にはレオンのポスター、食事時にゴットファーザーがテレビで流れていて、それ以外のときでもいつもマフィア映画を見ている。このマフィアがいつもマフィア映画を見ているというシチュエーションも何かの映画で見た気がするけれど、思い出せないなぁ。で、サラとレオンが中華料理屋で踊りだすシーン、あれはおそらく「パルプフィクション」。フレームが一緒だったもの。
 こんなものがちらちら出てくるたびににやりとしてしまうのだけれど、他にもニヤリとしてしまうところがかなりある。サラを中絶させようとしているとき、サラの父親が「麻酔は心臓に悪いから」と言う。「そんなばかなぁ」と思うけど、案外、こんな対応のほうが現実なのかもしれないとも思ってしまう。 こんなちょっと間抜けなエピソードのどれもが、いわゆるマフィア映画よりも現実に見えてしまうと言うのがこの映画のすごいところ。だから、普通にマフィア映画のようでいて、ちっともドキドキしないし、けれどもすごく面白い。
 ものすごーくヒットしなそうな映画(実際ヒットしなかった)だけれど、私はこういうの非常に好きです。

ビーン

Bean
1997年,イギリス,89分
監督:メル・スミス
脚本:リチャード・カーチス、ロビン・ドリスコール
撮影:フランシス・ケニー
音楽:ハワード・グッドール
出演:ローワン・アトキンソン、ピーター・マックニコル、パメラ・リード、ハリス・ユーリン

 王立美術館に勤めるミスター・ビーンはいつものように遅刻。いつものように解雇されそうになるが、会長の鶴の一声で今日も首の皮一枚つながった。そんなとき、アメリカ絵画の傑作、ホイッスラーの「母の肖像」を5000万ドルで購入したロス・アンジェルスの美術館から、権威づけのための学者の派遣が要請された。そして、なぜかミスター・ビーンが派遣されることに!
 イギリスから世界的な大ヒットとなったホームドラマ「ミスター・ビーン」の映画版。ドラマのほうを見慣れていると、まず笑い声が入っていないのが違和感。ミスター・ビーンのキャラクターもちょっと違っていて違和感。ネタ的にはあまり変わらないので、楽しめることは楽しめますが。

 これならドラマを見ているほうがいいかも。場面と場面のつなぎ方なんかはまったくドラマのままで映画にしてしまっているから本当に違和感がある。ドラマを見たことがない人が見たらどうなのかはわからないが、一度でもドラマを見たことがあれば違和感を感じることでしょう。  具体的には、ホームドラマのつなぎで多用される画面のフェードアウトが映画でも多用されていること。フェードアウトというのは、次のシーンに映るときに、音がフェードアウトし、画面が徐々に暗転し、暗くなったところで次のシーンが始まるという手法のことを言ってるのだけれど、ホームドラマの場合、ひとつの落ちがあったところでこのフェードアウトによる場面転換があり、そのフェードアウトの間はたいてい笑い声が響いている。しかし、映画だとその笑い声がない。普段ホームドラマを見ていると、笑い声は邪魔な気がするのだけれど、この映画を見て、意外とあの笑い声ってのは重要なんだなと思いました。

枯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件

A Brighter Summer Day
1992年,台湾,237分
監督:エドワード・ヤン
脚本:エドワード・ヤン、ヤン・ホンカー、ヤン・シュンチン、ライ・ミンタン
撮影:チャン・ホイゴン
出演:チャン・チェン、リサ・ヤン、チャン・クォチュー、エレン・チン、リン・ルーピン

 1961年の台湾、戦後の混乱の中、台北の町では不良少年たちが組を作って抗争を繰り広げていた。上海から移住してきたばかりの一家の息子で夜間中学に通うスーを中心に物語は展開してゆく。中学生らしい淡い恋や少年らしい生活と、そんな安穏とした生活を許さない周囲の環境の間でスーは混乱し、成長してゆく。
 スーと少年たちの物語とスーの家族の物語とが複雑に入り組み、かなりストーリーをおっていくのは大変だが、4時間という長さを押し切ってしまうだけの力はある作品。体調と時間に余裕があるときにご覧ください。

 これはすごい映画かもしれない。時代性というか、この時代の台湾の空気感が伝わってくるような映画。革命によって成立した中華人民共和国と、台湾に逃れた国民政府。スーの一家もまた台湾に逃れた。しかし彼らはそこでは新参者でしかなく、スーの父は危うい立場にある。
 様々な場面や様々なことが頭に残ってはいるのだけれど、それを総体化することができない。4時間の映画の中に4時間分、とまではいわないにしても3時間分くらいはしっかりと中身が詰め込まれ、それらをひとつの映画として受け入れるにはかなりの覚悟がいるのだろう。
 たとえば懐中電灯の持つ象徴性。ミンという人物の持つ意味。マーの孤独。バスケットボール。
 そのような事々が未消化の塊のまま頭の中に鎮座している。それを解きほぐし、丸のまま受け止めることができた時、この映画の本当のよさを感じ取れるのだろう。体調なんかによっても印象が変わってしまうのが映画というもの。誰かが言っていたが「映画というのは生もの」なので、この作品はいつかどこかでもう一度(できれば劇場で)見てみたい。

RONIN

RONIN
1998年,アメリカ,122分
監督:ジョン・フランケンハイマー
脚本:J.D.ザイク、リチャード・ウェイズ
撮影:ロバート・フラッセ
音楽:エリア・クミラル
出演:ロバート・デ・ニーロ、ジャン・レノ、ナターシャ・マケルホーン、ステラン・ステルスガルド、ショーン・ビーン、ジョナサン・プライス

 冷戦も終わり職を失った元スパイたちが謎の雇い主に集められ、ニースのホテルにいるターゲットからケースを強奪するという仕事に雇われた。武器調達の時点からトラブルが続き、メンバーも互いの事を知らず信用できない。果たしてケースの中身は何なのか? 強奪は成功するのか? デ・ニーロとジャン・レノという豪華な競演。フランスを舞台にした正統派アクション映画。カーチェイスシーン満載なので、カーチェイス好きはとくとごらんあれ。

 一言で言えば平均点のアクション映画。「7人の侍」の翻案だけあって、設定の発想は味があっていい。テンでばらばらな人たちが集まって何かするというのは非常に映画的で見ていて楽しい。特に前半はそれぞれの役回りがはっきりしていて、それぞれの個性が出ていてよかった。
 しかし、一人一人と裏切り、死んでゆくに連れ、ただのアクション映画になってしまう。敵味方がはっきりしないところはなかなかいいのだけれど、結局デ・ニーロとジャン・レノがかっこいい映画ということでまとまって終わり。あー、もうひとひねりほしかった。
 もうひとつの疑問はなんとも執拗なカーチェイスシーン。「TAXi」じゃないんだから、そんなに長々とカーチェイスをやられてもね。という感じがしてしまう。車マニアやカーチェイス好きにはたまらないんだろうけれど、ちょっと長すぎたかな。全体にもうちょっと削ってスリムにすれば、スカッと楽しく見れたのかもしれません。
 全体的にはまあまあの、平均的な、見てもいいかなというくらいのアクション映画。デ・ニーロファン、ジャン・レノファン、カーチェイスファンには薦められるでしょう。
 しかし、やっぱりジャン・レノは銃を持って何ぼだね。ちょっと太ったけど、銃とかナイフとか武器を持っているときがジャン・レノのかっこいいときである。

ブレア・ウィッチ・プロジェクト

The Blair Witch Project
1999年,アメリカ,81分
監督:ダニエル・マイリック、エドゥアルド・サンチェス
脚本:ダニエル・マイリック、エドゥアルド・サンチェス
撮影:ニール・フレデリックス
音楽:トニー・コーラ
出演:ヘザー・ドナヒュー、マイケル・C・ウィリアムズ、ジョシュア・レナード

 1994年、ドキュメンタリー撮影のため「ブレア・ウィッチ」の魔女伝説で知られるブラック・ヒルズの森に入った大学生3人が消息を断った。そしてその1年後、彼らが撮影したと見られる16ミリフィルムとビデオが森の中で発見された。
 300万円という低予算で作られながら、世界中で話題を呼んだホラー作品。その作品手法よりも、各種メディアを巻き込んで実話のように思わせる宣伝手法が新しかったといえる。

 純粋に映画としてみると、決して面白いとはいえない。ただ3人の大学生が出てきて、叫んで、手持ちのぶれた画面を見せるだけ。心理ホラーのはずなのに、プロットの細部が稚拙であまりに危機感が感じられないし、現実味がない。まず、地図を捨てるはずがないし、なんと言ってもあそこまで心理的に追い込まれていたなら、とりあえず重たいカメラを放り出して逃げるはずだと思ってしまう。つまり、最後まで撮影しつづけているという設定自体が不自然で、映画作りのそもそものアイデアからおかしいと思ってしまう。そして何かが迫っているという演出も稚拙、小道具も稚拙で、登場人物たちの恐怖を共有できるとは思えない。
 あえて誉めるとするならば、マイク役がなかなか良かったかな。彼は人物設定としても(地図を捨てるとこは置いておいても)うまくできていて、最初はひとりいらだち、残りに二人がパニックに陥るに連れて逆に冷静になっていくというのがなかなかうまいと感じました。役者としてもほかの二人よりはうまいのではないでしょうか。
 この作品のすごいところは作品とは無関係なメディアの部分。ホームページを大々的に立ち上げ、その事件に真実味を加えてゆく。ニュース映像を作ったり、伝説を細かく解説したりと至れり尽せり、作り物だと知らずに見れば本当にあったんだと信じるほうが自然なくらい。
 と、いうわけでマーケティング的にはかなり新しくもあり、革命的でもあったのだろうけれど、映画としてはひどいもの。

エドワード・ヤンの恋愛時代

Duli Shidai
1994年,台湾,127分
監督:エドワード・ヤン
脚本:エドワード・ヤン
撮影:アーサー・ウォン、ズァン・ズァン、リー・ロンユー、ホン・ウクシュー
音楽:アントニオ・リー
出演:チェン・シャン、チニー・シュー、チュンワン・ウェイミン、リチー・リー、ダニー・デン、リン・ルービン

 広告製作会社の社長モーリー、学生時代からの親友で会社でも片腕のチチ、モーリーの婚約者でお坊ちゃまのアキン、アキンとモーリーのもので働くラリー、チチの恋人ミン、など台北で暮らす若者たちの2日間を描いた群像劇。彼らにとって激動の2日間の心の葛藤を見事に描いた秀作。
 なんと言っても脚本が素晴らしいこの作品は、エドワード・ヤンの哲学をフィルムに刻み付けたというイメージ。2時間の中にすさまじいほどたくさんのセリフが詰め込まれ、ぐんぐん頭の中に打ち込まれてくる感動的な作品。

 普通、これだけ語る部分が多い映画というのは疲れるものなのだけれど、この映画は疲れない。見終わった後も爽やかな感動が心に残るだけで疲労感は感じなかった。むしろもう一回見てもいいかなと思ってしまうくらい。
 やはり本が素晴らしいと言うしかないが、もちろん映像がその助けをしていることも確かだ。しかしそれは際立った映像美というわけではなく、あくまでセリフが言わんということを引き立たせるため邪魔しない映像技術ということ。この映画で目立った効果といえば、完全に黒い画面で語られるセリフと、シーンとシーンの間に挟み込まれるキャプションくらい。特に暗い画面は完全に黒い画面以外にもかなりあった。やはり画面を暗くすると、人の意識は耳に行き(あるいは字幕に行き)、それだけセリフに集中できるということなのだろう。かなり哲学的ともいえる(決して小難しいわけではないが)セリフをあれだけのスピードでしゃべらせてそれを観衆の頭に詰め込むのはかなり大変なはず。しかしそれがすんなりと入ってくるのは、その映像的工夫があってこそだろう。シーンとシーンの間のキャプションというのも、字幕で見るわれわれにはわからないが、北京語を理解する人たちならば、目と耳から同時に言語情報が入ってくるわけで、それなりの効果を生むのだろう。
 ここで登場人物たちの心理が変化してゆく様子を解説するのは止めよう。この映画の素晴らしさはそれぞれの登場人物がそれぞれ「勝手に」考え方を変化させていくことである。といってみたところでこの映画の魅力はちっとも伝わらないし、逆にまとまりのない散逸な映画であるようなイメージを湧かせるだけだから。しかしひとつ言っておきたいのは、この映画を見ると、いわゆるラブロマンスの「相手の考えていることがわかる」なんていう演出は安っぽい作り物にしか見えなくなってしまうということ。決して結末に向かって物語が収束していくわけではないところがこの映画の最大の魅力なのだ。

カップルズ

Mah-Jong
1996年,台湾,121分
監督:エドワード・ヤン
脚本:エドワード・ヤン
撮影:リ・イジュ、リ・ロンユー
音楽:ドウ・ドゥチー
出演:ヴィルジニー・ルドワイヤン、タン・ツォンシェン、チャン・チェン、ワン・チーザン、クー・ユールン

 台北のアパートの一室で一緒に暮らす4人の少年たち、レッドフィッシュ、ドゥースペイスト(リトルブッダ)、ホンコン、ルンルン。彼らは大人をだまし、金をもうけ、青春を謳歌していた。そんな中、レッドフィッシュの父が膨大な借金を残して蒸発したり、フランス人の少女マルトが舞い込んできたり、という事件がおき、彼らの関係も微妙に変化してゆく。
 エドワード・ヤン得意の群像劇だが、少年4人のキャラクターがしっかりとしており、見ごたえがある。

 エドワード・ヤンの映画を見ていつも思うのは「オーソドックス」ということ。同時期にもてはやされたホンコンのウォン・カーウァイと比べられると、さらにそのオーソドックスさが目に付く。しかし、エドワード・ヤンの映画はしっかりと作られている。この映画も、目新しいといえば、登場人物の国籍がばらばらで、しかもそれが当然のこととして捉えられていることぐらい。
 もうひとつカーウァイと比較して面白いのは、エドワード・ヤンの映像は俯瞰ショットが多いこと。カーウァイがことさらに手持ちカメラで主観ショットを撮るのとは対照的に、ヤンは登場人物たちから距離を撮る。登場人物たちをどこかから覗いているような視点。この視点が特徴的なのだ。だから、同じ群像劇をとっても、一定の視点で撮りつづけることができる。その安定感が「オーソドックス」という感覚を生むのだろうか。
 それだけ安定して静かな映画なのに、漂う緊迫感。それは登場人物たちのいらだちや焦りが伝わってくるからだろう。筆力のある小説家のように登場人物たちの心理を描く力強さがエドワード・ヤンの魅力だ。派手ではないけど味がある。ストレートな表現ではないのだけれど、ビシビシと伝わってくる心情がある。

 この映画が抱えるメッセージは複雑だ。イギリス人であるマーカスにとっては未来を持つ輝ける国に見える。しかし、台湾人たち自身には閉塞感が付きまとう。ルンルンの家には星条旗やNBAのポスターがかかり、アメリカ(=欧米)への憧れが強いこともわかる。しかし、そのアメリカ型の(資本主義)社会が人々を蝕み、人間性を奪ってしまっていること、そしてそれが若者に更なる閉塞感を生んでいることもまた表現されている。
 さまざまな国籍の人が登場することは、その台湾という国の閉塞感の原因を表現するとともに、解決の可能性がそこにあるかもしれないということも表現しているように思える。物語のはじめからルンルンとマルトの物語は見えていて、それはひとつの物語として面白くはあるのだけれど、それだけでその閉塞感を解決すると考えるのはロマンティックすぎるから、異なった方向へと進む4人の仲間によってそれを表現する。そのしたたかな展開の仕方がこの映画に緊迫感と面白みを与えていると思う。