ソルジャー

Soldier
1998年,アメリカ,98分
監督:ポール・アンダーソン
脚本:デヴィッド・ウェッブ・ピープルズ
撮影:デヴィッド・タッターサル
音楽:ジョエル・マクニーリイ
出演:カート・ラッセル、ジェイソン・スコット・リー、ジェイソン・アイザック、コニー・ニールセン

 1996年、生まれたばかりの赤ん坊を兵士として英才教育するプロジェクトが始まった。戦争を友達と説き、脱落者は容赦なく殺す。そんな教育で育った兵士たちは続く戦乱の世の中で活躍していた。しかし40年後、新たに遺伝子操作によってより優秀なソルジャーが開発された。旧ソルジャーのリーダートッドは新ソルジャーによって殺され、廃棄物の星に捨てられる。しかしトッドは生きており、そこには難破船に乗っていた人々が住んでいた…
 近未来の恐怖を描いたオーソドックスありがちなSF映画。B級映画だと思えば十分見られるくらいの作品。結構いい出来かな?

 まあまあ、筋はとってもわかりやすく、次の展開が読める読めるという感じ。撮り方もかなりオーソドックスで、見せたいシーンはスローモーション。はるかに協力なはずの新ソルジャーは思ったとおり弱いし、すべての複線が何らかの結果に結びつくし… でも、そんなわかりやすさがB級映画らしいよさのなのでしょう。といっても、なかなかわかってもらえないとは思いますが…
 この映画を仮に普通の映画として捉えたとしたら、いいところは一点。徹底してソルジャーが無表情なところ。設定上当然なんだけれど、そこは人情ついついラストシーンくらい人間らしさを取り戻して、笑わせてみたいもの。そこをじっと我慢して、最期までクスリともさせない。そこがよかったですね。
 あとはB級的な楽しみです。しかも並みのB級映画。

アウト・オブ・サイト

Out of Sight
1998年,アメリカ,123分
監督:スティーヴン・ソダーバーグ
原作:エルモア・レナード
脚本:スコット・フランク
撮影:エリオット・デイヴィス
音楽:クリフ・マルティネス
出演:ジョージ・クルーニー、ジェニファー・ロペス、ヴィング・レームズ、アルバート・ブルックス、キャサリン・キーナー

 200回以上の銀行強盗を重ね、三度目の刑務所に入所中のジャックは脱獄計画を聞きつけ、それに便乗して脱獄をしようと計画する。そして、計画どおり脱獄を実行するジャックだったが、出口にたまたまいた女性捜査官エレンに出くわしてしまう。エレンをトランクに押し込み、逃げ出した。
 『セックスと嘘とビデオテープ』で衝撃的なデビューをしたスティーヴン・ソダーバーグがエルモア・レナードの原作を適度にしゃれていて、適度にスリリングなよく出来たサスペンスに仕上げている。

 全体的にうまく整った作品。原作者のエルモア・レナードはかなりの数の原作・脚本を手がける名手。代表作としては、最近では『ジャッキー・ブラウン』、古いところでは『シノーラ』というところ。『ゲット・ショーティ』(バリー・ソネンフェルド監督)では、今回と同じく脚本家のスコット・フランクとコンビを組んでいる。何が言いたいかといえば、非常にこなれた脚本だということ。物語のプロットが周到に用意されていて、あとは監督がうまく仕上げればいい映画になるという感じ。
 で、監督はなかなかうまく、きれいに、スタイリッシュに仕上げている。シーンとシーンの切れ目でかなり使われたストップモーション(というより静止画)も常套手段のようでいて、やはり効果的。全体の印象をかなり引き締める。ラブシーンでも使われていたのには少々食傷でしたが…  で、キャスティングがまたいい。昨日の『ハイロー・カントリー』とは違ってね。やはり、ジョージ・クルーニーっていうのは善人の顔してないんだよね。どこか悪いやつっぽい。でも本当は心やさしいという顔。ジェニファー・ロペスもかなりはまり役。バディのヴィング・レームズもかなり好き。一応キャスティングはフランシヌ・メイスラーという人だそうです。フィルモグラフィーをみると、最近では、『マン・オン・ザ・ムーン』『ユー・ガット・メール』『ガタカ』なんかを手がけているようです。そういわれてると、いいキャスティングだったような気も…『ガタカ』のジュード・ロウとかね。
 まあ、そんなマニアックな話も織り交ぜつつ、見る価値はあるといいたいだけです。しかも「なんかビデオ見たいなー」というときに見る。

桜桃の味

Ta’m e Guliass
1997年,イラン,98分
監督:アッバス・キアロスタミ
脚本:アッバス・キアロスタミ
撮影:ホマユン・パイヴァール
出演:ホマユン・エルシャディ、アブドル・ホセイン・バゲリ、アフシン・バクタリ

 荒涼としたイランの大地を走る車。運転している中年男は道行く人に声をかけ、仕事をしないかと誘いをかける。果たして男の言う仕事とは何なのか? イランの荒涼とした土地を車で走る男のまなざしが印象的。
 「ジグザグ三部作」で一躍世界的な監督の仲間入りをしたイランの巨匠キアロスタミがそれらに続いて撮った長編作品。少年を主人公としてきたこれまでの作品とは一転、重厚な大人のドラマに仕上げている。

 キアロスタミの作品は数あれど、どうしても3部作の印象がぬぐいきれないのですが、この作品はそういう意味では半ば観衆を裏切る作品ではある。少年を主人公としたどこかほほえましい作品を取ってきたキアロスタミが「死」をテーマとしたということ。「死」ということ自体はこれまでの作品にも見え隠れしてきてはいたが、それを正面きってテーマとしたところがキアロスタミの挑戦なのだろうか。男の真摯なまなざしとはぐらかすような話し方が神経を逆撫で、たびたび出てくる砂利工場の音がそれに拍車をかける。
 男が死に場所に選んだ一本の木、そして穴。
 相変わらず同じことが反復されているに過ぎないようなストーリー。彼は結局死ぬことは出来ないのだろう。それは明らかだ。最後の最後、長時間完全に黒い画面がスクリーンに映っている間、いろいろなことを考える。考えさせる。でもきっと彼は死なない。自分に土をかけてくれる人を探すという過程の中で彼の中にどんな変化がおきたのか? それを知る由はないけれど、きっと彼は死なない。

ハイロー・カントリー

The Hi-Lo Country
1998年,アメリカ,114分
監督:スティーヴン・フリアーズ
原作:マックス・エヴァンズ
脚本:ウォロン・グリーン
撮影:オリヴァー・ステイプルトン
音楽:カーター・バーウェル
出演:ビリー・クラダップ、ウディ・ハレルソン、サム・エリオット、ペネロペ・クルス、パトリシア・アークエット

 第二次大戦後のアメリカ西部。故郷ハイローへ復員してきたカウボーイの青年ピートはダンス・パーティーでモナに心を奪われる。しかし彼女は戦争中にのし上がり町を支配するジムエドの側近の妻となっていた。一方ピートの親友ビッグ・ボーイも復員してくる。ジムエドに対抗しようとがんばる二人だったが、ビッグ・ボーイがピートに紹介した恋人はモナだった。
 サム・ペキンパーが映画化しようとして果たせなかった作品をマーティン・スコセッシが製作に乗り出し映画化した作品。ヒロイックでスタンダードな西部劇だが、懐古趣味に走るのではなく近代化にゆれるカウボーイを描くことで、現代的な人間ドラマとしても見られる作品になっている。

 終わってみれば、英雄ビッグ・ボーイの生涯という感じの話だが、全体的には深みのある人間ドラマで見ごたえがあった。男と男が砂漠で決闘といういわゆる西部劇のイメージとは少しずれるのだけれど、実際はこれがスタンダードな西部劇だと思う。一人のヒーローがいて、それを取り巻く人々のドラマがある。恋愛があり、男と男の戦いがあり、悲劇の死がある。それを澄み切った淡々とした映像で切り取っていくクールな映画。
 まあ、それ以上言うことはなかったのですが、なぜそれほどこの作品に入れ込めなかったかといえば、パトリシア・アークエット(モナ)より、どう見てもペネロペ・クルス(ジョセファ)のほうがかわいいから。どうもピートの気持ちに入り込めなかったせいですね。「何で?ジョセファにすればいいじゃん」と思ってしまう自分が常にいたせいでね。こう考えると、キャスティングってのは映画にとって非常に重要ですね。でも、世の中の人はモナのほうに心惹かれたのだろうか? 

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ

Buena Vista Social Club
1999年,ドイツ=フランス=アメリカ=キューバ,105分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ヴィム・ヴェンダース
撮影:ロビー・ミューラー、リサ・リンスラー、ボルグ・ヴィドマー
音楽:ライ・クーダー
出演:イブラヒム・フェレール、コンパイ・セグンド、エリアデス・オチョ、アライ・クーダー

 1997年、ライ・クーダーがキューバの老演奏家たちに惚れ込んで作成したアルバム「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」は世界中でヒットし、グラミー賞も獲得した。98年、ライ・クーダーはヴェンダースとともに、再びキューバを訪れた。そこで撮った、老演奏家たちのインタビュー、アムステルダムでのライヴの模様、NYカーネギー・ホールでのライヴの模様を収めた半ドキュメンタリー映画。
 これは決してドキュメンタリーではない。一言で言ってしまえば、ライ・クーダーのプロデュースによる、アフロ・キューバン・オールスターズの長編ミュージックビデオ。

 この映画を見て真っ先に思ったのは、これは映画なのか?ドキュメンタリーなのか?ということ。それは、映画orドキュメンタリー?という疑問ではなくて、映画なのか、そうでないのか? ドキュメンタリーなのか、そうでないのか? という二つの疑問。答えは、ともにノー。これは映画でもドキュメンタリーでもない。無理やりカテゴライズするならばミュージックビデオ。ドキュメンタリー映像を取り入れ、映画的手法をふんだんに使ったミュージックビデオ。もちろん、ライヴの場面は実際の映像で、そこだけを取り上げればドキュメンタリーということになるのだけれど、インタビューの部分は決してドキュメンタリーではない。それはやらせという意味ではなく、映画的演出が存分にされているということ。一番顕著なのは、トランペッターの(オマーラ・ポルトゥオンドだったかな?)インタビューに映るところ。前のインタビューをしている隣の部屋に彼はいるのだけれど、彼のところにインタビューが映る瞬間(カットを切らずに、横にパンしてフレームを変える)彼は唐突に演奏をはじめる。しかも部屋の真中に直立不動で。これは明らかに映画的演出。
 もうひとつは、撮り方。この映画で多用されたのが、被写体を中心にして、カメラがその周りを回るという方法。言葉で説明しても伝わりにくいかもしれないけれど、要するに、メリー・ゴー・ラウンドに乗って、カメラを持って、真中にいる人を移している感じ。この撮り方が演奏やレコーディングの場面で多用されていた。これは映像に動きをつけ、音楽とうまくマッチさせる手法ということができる。これはミュージック・ミデオでも見たことがあるような気がするが、この映画では非常に効果的に使われていた。
 何のかのと言っても、結局はおっちゃんたちがかっこいい。ライ・クーダーが惚れたのもよくわかる。一応、映画評なのでごたくを並べただけです。かっこいいよおっちゃん。

サイレンス

Le Silence
1998年,イラン=フランス=タジキスタン,76分
監督:モフセン・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ
音楽:マジッド・エンテザミ
出演:タハミネー・ノルマトワ、ナデレー・アブデラーイェワ、ゴルビビ・ジアドラーイェワ

 ノックの音、スカーフ、3つ編みの後姿、目を閉じた少年の横顔、この最初のイメージだけで、完全に引き込まれてしまう映像マジック。
 目の見えない少年コルシッドは興味を引く音が聞こえるとついついそっちについていってしまう癖があった。そのため、楽器の調律の仕事にもいつも遅刻して ばかり。果たして少年はどうなるのか…
 ストーリーはそれほど重要ではなくて、氾濫するイメージと不思議な世界観が この映画の中心。「目が見えない」ということがテーマのようで、それほど重きを置かれていないような気もする、まったく不思議な映画。

 マフマルバフの映画はどれも不思議だが、この映画の不思議さはかなりすごい。難解というのではないんだけれど、なんだかよくわからない。コルシッドが「目が見えない」ことはすごく重要なんだけど、映画の中で格別問題にされるわけではない。周りの人も「目が見えない」ということを普通に受け入れ、しかしそれは障害者を大事にとか、そういった視点ではなくて、「彼は目が見えないんだって」「へー、そう」みたいな感じで捉えている。
 とにかく言葉にするのは難しい。マフマルバフの映画を見ていつも思うのは、「言葉に出来ないことを映像にする」という映像の本質を常に実現しているということ。だから、言葉にするのは難しい。表現しようとすると、断片的なことか、抽象的なことしかいえなくなってしまう。
 断片的にいえば、この映画にあるのはある種の反復「運命」がきっかけとなる反復の構造。マフマルバフはこの反復あるいは円還の構造をよく使う。音で言えば、はちの羽音、水の音、耳をふさぐと水の音、そして「雨みたいな音を出す楽士」をコルシッドは探す。クローズアップのときに背景が完全にぼやけているというのも、マフマルバフがよく使う手法。この映画では、市場のシーンで、目をつぶったコルシッドと、親方のところ女の子が歩くシーンで使われていたのが印象的、ここでは、画面の半分がアップの顔、進行方向に半分が空白で、ぼやけた背景の色合いだけが見える。
 抽象的にいえば、この映画の本質は「迷う」こと。しかも、目的があってそれを見失ったというよりはむしろ、目的がない、方向がない迷い方。自分がどこにいてどこに行くのか、それがまったくわからない迷い方。「それが人生」とはいわないけれど、迷ってばかりだ。

デッドマンズ・カーブ

The Curve
1998年,アメリカ,90分
監督:ダン・ローゼン
脚本:ダン・ローゼン
撮影:ジョーイ・フォーサイト
音楽:シャーク
出演:マシュー・リラード、マイケル・ヴァルタン、ランドール・バティンコフ、ケリー・ラッセル

 「ルームメイトが自殺したら、その学期の成績は自動的にオールA」という噂を信じて、ルームメイトを殺そうとたくらむテッドとクリス。二人はルームメイトのランドを酔わせ、偽の遺書を作って、崖から突き落とす計画を立てた。
 大学を舞台にしたサスペンス。とてもシンプルなつくりだが、非常によく練った脚本で最後の最後まで目を離せない展開がいい。

 そんな話が本当にあるのか知らないけれど、設定自体が非常にうまい。サスペンスというには犯罪のアイデアと犯人探しの道筋で話の面白さが決まってしまうが、この話は非常に巧妙。古典的な犯人探しの物語ではなく、事件自体が…(みた人にはわかると思うので、書かないようにします)
 ということで、かなりいいシナリオなのです。監督も役者もカメラマンもみんな知らない人ですが、これからじわじわと出てくるのではないかと期待させる人たちだと思います。特にティム役のマシュー・リラードの切れ具合がかなりよかった。どこか狂った役を演じられる役者を私は買いますが、この役はまさにそう。(正確には狂った役を演じる役を演じているのですが…、あ!これ以上は…)
  そんないい感じの若手の役者たちの爽やかな、しかし内容的には爽やかとはいえない映画。なんとなく歪んだところが好きですね。

アンツ

Antz
1998年,アメリカ,83分
監督:エリック・ダーネル
脚本:トッド・アルコット、クリス・ウェイツ、ポール・ウェイツ
映像:ケン・ビエレンバーグ
音楽:ハリー・グレッグソン・ウィリアムズ、ジェフ・ザネッリ
出演:ウッディ・アレン、シャロン・ストーン、ジーン・ハックマン、クリストファー・ウォーケン、ジェニファー・ロペス

 地中に広がるアリの王国。働きアリのZ(ジー)はいっしょに働くアステカにも馬鹿にされるほど役立たずの働きアリだった。そんなアリの王国の将軍マンディブルは新たな王国のためのプロジェクトとして働きアリたちに苛酷な労働を課していた。そんなある日、ジーは庶民のバーにもぐりこんだ王女のバーラに出会う。  ドリームワークスが作り上げたフルCGアニメ。ディズニーのCGとは確かに違う。結局は子供向きアニメの発展版という感じだけれど、主役の声がウッディ・アレンというのが非常にナイス。

 どうも昔からディズニー・アニメっていうのが肌に合わなくて、それはCGになってからなおさらで、「トイ・ストーリー」なんかも、話がなかなか面白いのはわかるけれど、どうもだめ。という感じ。それと比べるとこの「アンツ」は抵抗感が少ない。やはりディズニーと違って画面に偽りの現実感がないからでしょうかね。ディズニーのアニメって言うのはなんだかいつも中途半端に現実的で気に入らない。人間なんかを妙にリアルに表現しようとしている。それと比べるとドリームワークスはアニメとしてのリアルさを求めているような気がしていい。たとえば、この映画で出てくる子供の足なんかは、明らかに漫画チックな足で、リアルではないんだけれど、アリの視点からすれば、それでいい。それがディズニーになると、その足のリアルさにこだわって、妙な感じになってしまう(ようなきがする)。
 まあ、あくまで偏見ですけどね。

エンド・オブ・デイズ

End of Days
1999年,アメリカ,122分
監督:ピーター・ハイアムズ
脚本:アンドリュー・W・マーロウ
撮影:ピーター・ハイアムズ
音楽:ジョン・デブニー
出演:アーノルド・シュワルツネッガー、ガブリエル・バーン、ロビン・タネイ、ウド・キア

 1979年、ニューヨークに悪魔の子を孕むべき娘が生まれた。悪魔の降臨は千年紀の終わり1999年の大晦日。その1999年、彼女に子供も産ませ、世界を我が物とするため、悪魔が地上に降りてきた。
 一方、元刑事で今は用心警護をしているジェリコは世捨て人のような生活を送っている。12月末のある日警護していた保険会社の役員が浮浪者のような男に狙撃される。
 悪魔と戦うシュワルツネッガーというかなり無理のある物語りながら、結構うまく作り、何とか見れる作品に仕上がっている。

 悪魔がどうしてもクリスティーんに子供を産ませなければならず、かつ宿るべき男も決まっていたという設定によって、ジェリコは悪魔と戦うことが可能になった。そして悪魔が死なないものの、とりあえず撃たれれば怪我をする(すぐ直る)という設定もその意味では重要。
 かなり多用されるCGも、まあ効果はあるかなという感じ、しかし、必ずしもなくても映画としてはあまり変わらないと思う。
 という程度の映画で、特に書くべきこともなさそうなので、ちょっと監督について調べてみました。かなりキャリアは長く、15本の作品を監督、特に代表作はないが、最近では、「レリック」とか「サドン・デス」とか「プレシディオの男たち」といったを撮っている。撮影を兼ねるというスタイルはハリウッドではかなり珍しいスタイルだが、別に、もともとカメラマンというわけではないようなので、なかなか不思議。以外に興味をそそる監督ではある。
 それにしても、個人的には、最後のオチが「惜しい!」という感じ。悪魔が本格的に出てくるところで「うぉっ!やった!」と思ったし、その後の破壊しまくるシーンも、「いいぞ!」と思ったんだけど、結局は、ジェリコの体に入って、しかも、失敗するというわかりやすく、かつハリウッド的な終わり方。
 うーん、俺が撮るなら… もうちょっと早めにジェリコに入り込んで、クリスティーナをだましとおして、ベットシーンで新年を迎えて、「え!どうなったの?」というままエンドロールに突入させたいかな。
 まあ、言うのは勝手ね。

月はどっちに出ている

1993年,日本,109分
監督:崔洋一
原作:梁石日
脚本:崔洋一、鄭義信
撮影:藤澤順一
音楽:佐久間正英
出演:岸谷五朗、ルビー・モレノ、絵沢萠子、小木茂光、磨赤児、萩原聖人

 在日朝鮮人の姜忠夫は同級生の金田が経営するタクシー会社で働いている。二人は友人の結婚式に出席、忠夫はそこで女に声をかけ、金田は同級生の新井と商売の話をする。そんなある日、忠夫はいつものように母の店で働くフィリピン人を店に送っていくが、そこに新しくチーママとして入ったコニーがいた。
 忠夫とコニーの恋愛を中心として、在日朝鮮人の姿を描いた。梁石日の小説「タクシー狂躁曲」を崔洋一が映画化したこの作品はある程度まで事実に基づいているという。全体としてかなり完成度の高いドラマ。

 「在日」というのは身近にあるようでなかなか考えない問題ですから、こういう映画がメジャーなものとしてるというのは非常にいいことなのでしょう。この映画の中に出てくる萩原聖人のようなスタンスが(誇張されて入るけれど)日本人の基本的なスタンスなのかもしれません。差別はしていない、けれど、無意識に差異化してはしまっている。普通に接していれば気がつかないけれど、名前とか、出身校とかそういったことから気づいてしまうと、なんとなく意識してしまうようなもの。
 ここまでは日本人である私の率直な感じ方として書きましたが、しかし、この文章にも在日の人たちがいるかもしれない、というよりむしろいるだろうということも意識せずにいられません。それはつまり、「差異」に対する意識というものが常に差別の培養土となりうるものであり、差異化される側がマイノリティである場合には特にそうであるということを意識しながら、慎重に話を進めてしまうということです。
 そのような(自分の)意識に気づきながらこの映画を振り返ってみると、まずこの映画は誰に語っているのか? ということ。もちろん映画というのは全世界に向けて語りかけられているものであるからには、世界中の人々に向けてということになるのだけれど、第一義的には誰に向けてかということで言えば、日本のマーケットに向けられた日本語のこの映画はまず「日本に住む日本語をしゃべる人々」に向けられているわけです。そこにはもちろん在日の人たちも含まれるわけですが、「日本人」と呼ばれる人に見られることを意識して作られたと考えるのが自然なわけです。
 話が回りくどくなってしまいましたが、そのようなものとしてこの映画を受け入れた上で私が感じることは、「差別を茶化すことによってその差別を回避しようとする姿勢」ですね。これは差別に対応する古典的な手法で、極端な例ではドラァグ・クイーンのようなものがありますが、この映画では、最後に忠夫が、コニーを乗せたときに、「運転手の姜(が)です」といったところがそれを象徴的に表しています。萩原聖人の差異化と無意識の差別をここで茶化し、笑い飛ばすことによって無意味化した。そのようなスタンスで撮られた映画だと私は思いました。
 どうですか?