リプリー

The Talented Mr. Ripley
1999年,アメリカ,140分
監督:アンソニー・ミンゲラ
原作:パトリシア・ハイスミス
脚本:アンソニー・ミンゲラ
撮影:ジョン・シール
音楽:ガブリエル・ヤーレ
出演:マット・デイモン、グウィネス・パルトロー、ジュード・ロウ、ケイト・ブランシェット、セルジオ・ルビーニ

 ルネ・クレマンが『太陽がいっぱい』という題名で映画化したパトリシア・ハイスミスの小説(日本語の題名は「太陽がいっぱい」だが、原題は、『リプリー』の原題と同じ“The Talented Mr. Ripley”)の再映画化。厳密に言うとリメイクではないが、一度映画化された作品の再映画化なので、前作を意識しないわけにはいかないだろう。
 物語は、友人の代理でピアノを演奏したトム・リプリーは、その場に居合わせた大富豪から放蕩息子のディッキーをアメリカに連れ戻すよう頼まれる。リプリーはその仕事を果たすためイタリアへ。ディッキーと婚約者のマージに近づくことのできたリプリーだったが、なかなか彼を説得できない。
 マット・デイモン演じるリプリーが何を考えているのかわからないところに、言い知れぬ恐ろしさがあるサスペンス。

 『太陽がいっぱい』との比較はおいておくとして、映画としてはよく出来た映画ではある。ストーリーのひねりも効いているし、マット・デイモンの何を考えているのかわからないキャラもいい。ジュード・ロウは妙にイタリアの海岸にマッチしているし。
 しかし、しかしですね。ちょっとうるさい。すべてがうるさい。表情を映すための執拗なクローズアップもうるさいし、いかにもイタリアらしい風景もうるさい。音楽はよかったけど。ビデオで見れば気にならなかったと思われる、クローズアップの連続は、スクリーンではうるさすぎる。そんなに大きくしなくても、表情はわかる。クローズアップで効果的に表現したいのはわかるけれど、それはあまりにこらえ性がないというもの。風景だって、いちいち上から映さなくたって、イタリアだってことはわかってるよ。いちいち車がアルファロメオなのも気になった。これらのうるさいものたちを切り詰めていけば、30分は短くなって、気持ちよく見られることができたのではないでしょうか? ドラマとしての質はいいのにもったいない。
 と、一通り文句を言ったところで、今度は擁護に回りましょう。ジュード・ロウはよかった。ひどい男なんだけど、好きになってしまう。それはマージしかリ、リプリーしかり、なんだけれど、そんな男をジュード・ロウうまく演じきっていた。音楽はよかった。最初は50年代という設定がわからなくて、「ジャズ=反抗的」という図式がのめこめなかったけれど、時代設定を納得すれば、音楽の使われ方に非常に納得。
 この映画、前半まではかなりよかった。ジュード・ロウが死ぬあたりまで。マット・デイモンのミステリアスな行動や表情も思わせぶりだし、三人の関係の微妙さ加減がよかった。しかし、いたずらにジュード・ロウが魅力的だったせいか、彼が死んでからは物語に入り込めない。その後の展開もどうでもよかった。ディッキーがいなくなってしまったら、もうどうでもいいんだよ。本人に成り代わったところでその隙間を埋めることはできないのだよ。後半を見て思ったのはそれだけ。それを納得させるためだけの1時間なのだとしたら、それはあまりに不毛なのではないでしょうか? あれ、やっぱり擁護してないや!

浮き雲

Kauas Pilvet Karkaavat 
1996年,フィンランド,96分
監督:アキ・カウリスマキ
脚本:アキ・カウリスマキ
撮影:ティモ・サルミネン、エリヤ・ダンメリ
音楽:シェリー・フィッシャー
出演:カティ・オウティネン、カリ・ヴァーナネン、エリナ・サロ

 レストランで給仕長を務めるイロナと市電の運転手をするラウリの夫婦、新しいテレビも買い幸せに暮らしていたが、市電の赤字による人員削減でラウリが解雇されてしまう。仕事をいくら探しても見つからないまましばらくたったころ、イロナのレストランも大手のチェーン店に買収され、イロナも失職してしまう。仕事も見つからず、二人は途方にくれる…
 アキ・カウリスマキ得意の重い空気。フィンランドの重く垂れこめた空と、それとは対照的に鮮やかな色彩にはカウリスマキ監督の繊細な映画的感性が感じられる。

 これは非常にカウリスマキらしい映画であるにもかかわらず、当たり前の映画であるようにも映るという不思議な映画。カウリスマキはかなり変わった映画を80年代から90年代前半にかけて撮り、“カルト”という印象を観客に植え付けた。そのカウリスマキらしさとは徹底的に削られたセリフ、無表情な登場人物たち、常に暗さを伴う風景、印象的な音楽、などなどというもの。この映画にもそれらの要素はことごとくあり、まさにカウリスマキ的世界がそこにはある。
 しかし他方で、カウリスマキは変わりつつあったのかもしれない。常にシニカルであったカウリスマキの映画に何か本当に明るいものが見えて来ているような、(カルトではないという意味で)当たり前の映画に近づきつつあるような、そんな印象がこの映画にはあった。この映画を最初に見た時点ではそれは何かカウリスマキの魅力が薄められているようで、面白みが削がれているようにも感じられたけれど、いま改めてみると、それはカウリスマキの新たな次元というか、カルトから本当の実力派へと脱皮する段階であるのかもしれないと思える。
 映画を、そして物語を無理にひねろうとせず、観客の不意を付いて驚かせようとせず、ストレートに物語を進めながら、しかしその世界は明らかにカウリスマキという、そんな映画がこの映画では目指されているように思える。しかし、カルトな観客も裏切らず、さまざまな仕掛けも隠されている。 

 そして、カウリスマキらしいといえば、この映画で印象的なのはタバコ、とにかくカウリスマキの映画といえばタバコ、これは欠かせない要素である。このタバコとそしてもうひとつ欠かせない犬が非常にカウリスマキ的であり、映画的である。映画とはただそこにあるものではなく、画面から匂いたつものであるはずだ。この映画のタバコや犬からは「映画」がたまらなく匂ってくる。
 普通の「話」では無視されがちな些細な細部がたまらない魅力を放つのが「映画」的。これだけ、タバコと言う小道具を魅力的に使った映画を最近は見ない。昔はどこでもタバコは小道具の王様だったのに。そして犬。ただの犬。いつも尻尾を振っている犬。しかしこの犬がなんとなくこの映画にけじめをつけている。それぞれのシーンにそっと登場し、さりげなく存在感をアピールし、当たり前であることをそっと告げて去って行く。
 この犬に限らず、カウリスマキの映画には物語にはまったく必要のないものが登場し、それによって非常に魅力的になってしまうということがある。ただ二人が立っているのではなく、何かが通り過ぎたり、何かの音がしたり、ただそれだけでそのシーンが名シーンであるように思えてしまう。そんな魔法のような効果がカウリスマキの映画にはある。
 一見当たり前のようにも見える映画の中に、映画的魅力をふんだんに盛り込む、そんな魔術師のようなカウリスマキの魅力はカルトであることから離れていっても、増して行くばかりなのだ。彼は今本当に偉大な監督になろうとしているのかもしれないとこの映画を見て思った。

ギャベ

Gabbeh 
1996年,イラン,73分
監督:モフセン・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ
撮影:アームード・カラリ
音楽:ホセイン・アリサデ
出演:ジャガイエグ・ジョタト、アッバス・サヤヒ、ホセイン・モハラミ、ロギエ・モハラミ

 大きな絨毯(ギャベ)を洗う老夫婦の前に一人の美しい娘が現れる。娘の名前はギャベ。しかし、彼女が現実の存在なのかはわからない。幻想か現実か、ともかく、娘は自分の身の上を話し始める。映画は、老夫婦と娘の語る物語を行ったり来たりするが、娘の物語は老夫婦の回想なのか?それとも…
 鮮烈な色彩溢れる映像でファンタジックな世界を描く。実際に1000キロもの道のりをロケして歩いたというマフバルバフの野心作。色鮮やかなギャベをモチーフにした色彩の映画。

 「人生は色彩だ!」と叫ぶ伯父さんの言葉がこの映画の核心を伝える。この叔父さんが唐突に先生として登場するシーンで、花や空を手で捕まえるそのシーンは「色」というものがこの映画の確信であることを十分に伝える。しかし十分過ぎるかもしれない。我々は老婆とギャベなる娘のその鮮やかな青い衣装の一致と、ギェベ(絨毯)の鮮やかな色彩に魅せられ、この映画が色彩の映画であることを即座に了解しているのだから、何の脈略もなくさらりと叫ばれる「人生は色彩だ!」というその叫びだけですべてを了解するのだ。ひたすら白い雪の風景を見て、その色彩の不在に心を打たれるのだ。だから、余計な、子供を諭すような、そして過度に前衛的なそのシーンはなくてもよかった。この映画の色彩はそれだけ鮮烈で、人生が色彩であり、映画が色彩であることはまったく何の説明も不要なくらい明らかなのだ。だから、私は監督のそのサービス過剰に敢えて苦言を呈したい。
 衣装と毛布と自然の色合いだけで、十分物語が成立するのだと言うことを私は学んだ。茶色い山にぽつんと残る色鮮やかな妹の衣装はさまざまなことを語ってくれる、そのことが一度も語られなくとも、白い山にポツリと立つくろい馬の影と、雪の上の残されたスカーフは愛を語る。
 「色」は心を浮き立たせる。土の上に並べられた色とりどりの毛糸玉を見て、川辺に並べられた無数のギャベを見て、私はこの映画を見てよかったと思った。

未来は今

The Hudsucker Proxy 
1994年,アメリカ,111分
監督:ジョエル・コーエン
脚本:イーサン・コーエン、ジョエル・コーエン、サム・ライミ
撮影:ロジャー・ディーキンス
音楽:カーター・バーウェル
出演:ティム・ロビンス、ポール・ニューマン、ジェニファー・ジェイソン・リー、チャールズ・ダーニング、スティーヴ・ブシェミ

 重役会議中突然、社長がビルの44回から飛び降り自殺。会社の経営は絶好調だったのに、いったいなぜ? このままだと会社が買収されてしまうことに危機を覚えた重役たちは脳タリンを社長にして株価暴落をもくろむことにする。彼等が目をつけたのは、たまたま重役室を訪れた新米郵便係のノービルだった。
 もちろん、重役たちの思うままに行くはずはなく、そこからの展開がコーエン兄弟の腕の見せ所。やはりコーエン兄弟というところも多々あるが、「ファーゴ」や「バートン・フィンク」と比べると少々パンチが弱いかもしれない。
 しかし、それは逆に安心して見られるということでもあるかもしれない。誰でも気軽に楽しめるという意味では良い作品。

 確かに、コーエン兄弟の作品で、コーエン兄弟の映像で、コーエン兄弟のひねりようなんだけれど、どうも弱い。ティム・ロビンス演じるノービルがずっと「まぬけな顔」といわれるところは、『ファーゴ』でブシェミが「変な顔」と言われつづける場面を思い起こさせるし、地下の郵便室の映像なんかは、『バートン・フィンク』のあの暗澹さに似通っている。
 でも、それだけなんですよ。筋だって大体予想がつくし、映像の工夫だって、「ふーん」とは思うけど、驚くほどではない。くすりとするけど、爆笑するわけでも、始終ニタニタしてしまうわけでもない。たとえば、最初の社長が飛び降りるシーンなんて、かなり面白いのだけれど、それはただ単にあの場面が面白いというだけで、作品全体の面白さにはつながってこない。
 どうしたんだろう、コーエン兄弟。おそらくこの映画を評価する人もかなりいると思いますが、私はちょっと納得いかない。いや、面白いんですよ。面白いんですけど、「もっとできるよコーエン兄弟」と言いたい気分にさせます。 やはり、見たのが2回目だったからでしょうか? 1回目見た時はもっと楽しめたような気がします。でも、本当にいい映画は何度見ても楽しめないとな…「ビッグ・リボウスキ」は2回目でもぜんぜん面白かったし。
 などなど、気持ちがプラスとマイナスに行ったり来たりですが、どうでしょうかね? 見た方はぜひ意見をくださいませ。

ジャム・セッション 菊次郎の夏<公式海賊版>

1999年,日本,93分
監督:篠崎誠
撮影:河津太郎
音楽:久石譲
出演:北野武、候孝賢、「菊次郎の夏」全スタッフ・キャスト

 「菊次郎の夏」の撮影に同行しカメラを回した篠崎誠監督のドキュメンタリー・フィルム。撮影現場の映像に加え、撮影期間中に来たの監督の元を訪れた候孝賢監督と北野監督の対談の様子も収めた。
 いわゆる「北野組」の映画への姿勢、現場の雰囲気などが臨場感を持って伝わってくる作品。監督でありかつ主演でもある北野武(ビートたけし)の現場での活躍もみもの。

 撮影には恐らくデジタルビデオが使われ、そこの実際の映画のフィルム映像がはさみ込まれる。いわゆる「映画撮影の裏側!」的なフィルムとしてではなく、監督北野武とスタッフ・キャストを描いたドキュメンタリーとして撮られているところが素晴らしい。
 作品同様撮影現場にも笑いが溢れているということが伝わってくる。この作品を見ていると、「菊次郎の夏」という映画は映画を見ているより、撮影しているほうが楽しいんじゃないかと思えてくる。それがいいか悪いかは別にして、そんな現場の雰囲気をうまく伝えているところがこのフィルムのいいところ。 
 候孝賢がでてきたり、美術スタッフの奮闘が描かれていたり、マニアには見どころがたくさんという感じですが、やはりメイキング・ビデオという性格上、散漫な感じになってしまっています。仕方がないとはいえ、もっとドラマティックに展開して行くとまた別の面白さがあったのでは、などとも思ってしまいます。

菊次郎の夏

1999年,日本,121分
監督:北野武
脚本:北野武
撮影:柳島克己
音楽:久石譲
出演:ビートたけし、関口雄介、岸本加世子、吉行和子、細川ふみえ

 父親が交通事故で亡くなり、おばあちゃんと一緒に暮らす少年正男。彼にとって夏休みはひどくつまらない時期だった。友達は旅行に行ってしまい、サッカー教室も休み。そんな夏休み、正男は顔すらも覚えていない母親を探しに豊橋へと行くことを決意した。そんな正男を心配する近所のおばちゃん(岸本加世子)は仕事もなくふらふらしている自分の夫に正男を連れていってくれるよう頼む。
 大人になりきれない男と、少年のロードムービー。北野監督はこれまでの暴力的な作品から一転して、笑いに溢れた暖かい作品を撮り上げた。
 久石譲作曲のテーマ曲が頭に残る。

 全体的な北野的「間」はこれまでの作品とかわらないが、全体の雰囲気や色調はがらりと変わっている。かなり「笑い」の要素を重視した作品。それでも、ビートたけし名義で撮った「みんな~やってるか!」とは明らかに違う北野的世界。しかしセリフをそぎとった「間」は健在。果てしなく晴れた空も「キタノ」の色だ。
 個人的に好きなのは、井出らっきょとグレート義太夫のハゲのおっちゃんとデブのおっちゃん。この二人が絡む一連のシーンの間と笑いがとてもいい。

あの娘と自転車に乗って

Beshkempir
1998年,キルギスタン=フランス,81分
監督:アクタン・アブディカリコフ
脚本:アクタン・アブディカリコフ、アヴタンディル・アディクロフ、マラト・サルル
撮影:ハッサン・キディリアレフ
音楽:ヌーラン・ニシャノフ
出演:ミルラン・アブディカリコフ、アルビナ・イマスメワ、アディール・アブリカシモフ

 キルギスタンで暮らす少年が、自分より背の高い少女に抱く淡い恋心。少年から思春期に達そうとする年代に共通の感情を大部分モノクロのパートカラーで描いた作品。監督の自伝的物語であるらしい。主演の男の子は監督の実の息子であるらしい。
 キルギスタンというほとんど知られていない国から届いた映画は、そのイメージに違わず素朴で純粋な物語を紡ぎ出している。

 色鮮やかなカラーの映像で始まった映画が、モノクロ(というよりセピア色)の画面に転じ、そしてそれは延々続く。時々思い出したようにカラーの画面が挿入される。監督の自伝的作品であることを知っていれば、セピア色の記憶のなかに鮮明に残っているカラーの記憶を強調する意図だということはわかるけれど、それがどれほどの効果を生んでいるのか? どれほどの意味があるのか? 確かにやりたいことはわかる。自分の記憶を映像に定着させ、それが自分だけのものではないことを実証して見せること。それは映画監督の誰しもがやることではある。しかし、このやり方はあまりに自慰的ではないか? 自分の分身である主人公の心理をさらけ出すことなしに、美しいものを美しく描くだけ。 今なに素朴で純粋であるはずがないと思うのは、都市国家に住む汚れた心のうがった見方なのだろうか?
 このパートカラーはちょっとうなずけないが、この監督の映像に対する感性はなかなか。砂で作った女の人を牛が踏んでいくシーンとか、最初の老婆たちがフレームに一人また一人と入ってくるシーンとか、かなり「はっ」とさせられるシーンはあった。
 となると、むしろ全編カラーで見てみたかったという気がしてくる。これだけいい画が撮れるんだから、しかも色彩をすごく鮮やかに撮れるのだから、カラーのめくるめく映像美を見てみたかった。
 最後に、ストーリーははっきり言って退屈。「養子」ということがテーマになっているのはわかるけれど、それに対してクライマックスがあるわけでもなく(あるとすれば、網戸を張るシーンかな)、かつ話はずるずると女の子の方へと移行してしまう。おばあちゃんの葬儀のシーンもちっとも感動的じゃなかったし。
 というわけで、可もあり、不可もあり、秋の夜長にはいいかもしれない。

GO! GO! L.A.

L.A. Without a Map
1998年,イギリス=フランス=フィンランド,107分
監督:ミカ・カウリスマキ
原作:リチャード・レイナー
脚本:ミカ・カウリスマキ、リチャード・レイナー
撮影:ミシェル・アマテュー
音楽:セバスチャン・コルテーリャ
出演:デヴィッド・テナント、ヴァネッサ・ショウ、ヴィンセント・ギャロ、ジュリー・デルピー、ジョニー・デップ

 スコットランドの田舎町で葬儀屋に勤めるリチャードは、アメリカから来た女優の卵バーバラに一目ぼれ、一日きりのデートが忘れられず、すべてを捨ててロサンゼルスへやってきた。しかし、そこはハリウッド、リチャードのような田舎ものの居場所はなかった。スラム街に家を借り、唯一できた友人のモスと彼女を手に入れようと画策するのだが…
 弟のアキ・カウリスマキと比べるといまいち知名度の低いミカ・カウリスマキ監督が撮った意外とまともな恋愛映画。ばらばらなキャストが面白い。特にヴィンセント・ギャロがとてもいい。

 壊そうとして壊しきれなかったまともな恋愛映画。いかんせん主人公の二人がまとも過ぎた。ヴィンセント・ギャロとジュリー・デルピーはとてもいいし、ジョニー・デップも効いているが、物語の芯が何だかぽあんとしてしまってしまりがない映画になってしまったのかもしれない。でも、ヴィネッサ・ショウはかわいい。
 それでも、レニングラード・カウボーイズ(弟ミカの映画でおなじみ)が出て来たり、言葉(訛りや言いまわし)にかなりの工夫が凝らされていたりと楽しめることはたしか。ヴィンセント・ギャロのしゃべり方なんかはかなり癖があっていいが、その辺りは我々日本人には少々伝わりにくいのかもしれない。
 姿勢としては、ハリウッドをおちょくるヨーロッパ連合軍。ハリウッドを舞台にしたハリウッド映画とはちょっと違った映画にしあがっている。特にパターソンのおもしろくなさはかなり面白い。それをみんなが「LA的」と称するあたり、ミカ・カウリスマキのシニカルな見方が感じられる。

ラスベガスをやっつけろ

Fear and Loathing in Las Vegas 
1998年,アメリカ,118分
監督:テリー・ギリアム
原作:ハンター・S・トンプソン
脚本:テリー・ギリアム、トニー・グリゾーニ、トッド・デイヴィス、アレックス・コックス
撮影:ニコラ・ペコリーニ
音楽:レイ・クーパー、布袋寅泰
出演:ジョニー・デップ、ベニチオ・デル・トロ、トビー・マグァイア、キャメロン・ディアス、クリスティナ・リッチ、エレン・バーキン

 ジャーナリストのラウル・デュークとサモア人で弁護士のドクター・ゴンゾーは砂漠のオートバイレーすの取材のため真赤なオープンカーにドラックをいっぱいに詰め込みラスベガスへ向かっていた。途中ハイカーを拾ったりしながら着いたラスベガスで二人はドラック三昧。ろくに取材もせずにひたすら飛びまくる。
 「鬼才」テリー・ギリアムがその独特の映像で正面からドラッグを扱った作品。とにかくトラップした状態をいかに映像化するかということに映画のすべてをかけている。とにかくめちゃくちゃ。少しやりすぎたかテリー・ギリアム。
 スタッフ、キャストがかなり豪華。脚本に「シド・アンド・ナンシー」などで知られるアレックス・コックスを加え、音楽に布袋寅泰が加わっているのはご愛嬌か。出演陣も今をときめくスターがチョイ役で登場。

 ちょっとやりすぎたテリー・ギリアム。本当にやり放題、好きなことをやりたいだけやる。汚す、壊す、水につける。映像を歪める。緻密な幻覚を作る。筋とか内容とかはどうでもよく、ただただ圧倒的な勢いを作れ! これも「12モンキーズ」のヒットでようやく「カルト」の冠がとれたおかげか。あるいはそれへの反抗か。
 とにかく、完全なるテリー・ギリアムワールドにうまく絡んだ役者人の怪演。特に、ジョニー・デップとクリスティナ・リッチが世界に最も溶けこんでいたと思う。色合いや、ライティングもいかにもテリー・ギリアム。少々時代懐古的な感じも加えつつ、ひたすら切れる。
 少し、興奮を抑えて、分析してみましょう。
 この映画がここまで、滅茶苦茶でありえるのは、きちんと作りこまれているから。つまり、滅茶苦茶なものをそのままとったのでは滅茶苦茶には見えず、それはただ雑然としたものになってしまう。それではいかに滅茶苦茶なものを作り出すか。そのためには滅茶苦茶さを作りこむこと。ある意味では小津的な、しかし小津とは正反対の映画に対する姿勢がそこに感じられる。
 というのは、小津の映画の端整な、清閑な感じもまた、ただなにもないところを映したのではなく、微妙に作りこむことによって、何もないという感覚を作り出したものであるからだ。たとえば、オズ映画の部屋の壁は徹底的に「汚し」をかけ、非常に自然な壁を作り出したという。ただの白い壁があればなにもないという感覚が生まれるのではなく、適度に汚れた壁があってこそそこにはなにもないと感じられるのだ。
 テリー・ギリアムの滅茶苦茶さも、それはただ滅茶苦茶なのではなく、何がどこにあり、何がどのようになっていれば滅茶苦茶だと見えるのかを緻密に計算してある。同じ壁の「汚し」でも、どう汚せば派手に見えるのか、滅茶苦茶に壁を汚すということがどう言うことなのか、それを計算し尽くした末にできあがる滅茶苦茶さ。それがこの映画の秘密だと思う。

マルコビッチの穴

Being John Markovich 
1999年,アメリカ,112分
監督:スパイク・ジョーンズ
脚本:チャーリー・カウフマン
撮影:ランス・アコード
音楽:カーター・バーウェル
出演:ジョン・キューザック、キャメロン・ディアス、キャスリーン・キーナー、ジョン・マルコヴィッチ

 人形使いのクレイグはチンパンジーやオウムといった動物と妻と幸せに暮らしていたが、妻に勧められ就職することにする。新聞の求人欄で見つけた会社に行ってみると、その会社は7と1/2階にある奇妙なオフィスだった。
 そしてある日、ファイル整理をしていて、キャビネットの裏にある奇妙な扉を見つけた。入ってみると、それは俳優のジョン・マルコヴィッチの頭の中に通じる扉だった…
 ミュージックビデオ界では超有名人、CM業界では超売れっ子のスパイク・ジョーンズがついに映画界に進出。「ジョン・マルコビッチの中に入る」という発想はとにかく見事としか言いようがない。
 スターもひっそりと多数出演。

 とにかく奇想天外な発想をうまくまとめたという印象。プロットも途中すこし「?」と思うが、最後にはしっかりまとまる。 なんと行っても、7と1/2階という発想がすごい。ストーリー展開からすると必ずしも必要な設定というわけではないの(あの空間の不思議さを演出しさえすればそれでいいはず)だけれど、これがなかったら、この映画の価値は半減、笑いは激減。みんなが猫背で首をかしげて並んでいる映像。何だか、映画館を出るときに、自分も猫背で歩いてしまいそうになった。
 ストーリーの展開の仕方で言えば、登場人物たちがあまり語らないのもいい。さすがにミュージック・ビデオやCMといった映像で見せる技術に長けたスパイク・ジョーンズだけにセリフに頼ることなく、どんどんストーリーをつないでいく。唐突に饒舌になって自分の身の上を語り出したりする主人公にはもう辟易ですから、このくらい、登場人物たちの考えていることが微妙にわからないこのくらいの加減がいい。
 映像は、決して派手ではないけれど、押さえるところは押さえたという感じ。普通の映像は普通に、凝るところは凝る。やはり全員がジョン・マルコヴィッチなシーンのインパクトは強烈だった。7と1/2階を紹介するビデオなんかは、いかにも70年代っぽく作りこまれていて、妙なこだわりが感じられましたね(内装も若干きれいなような気がするし)。