TATARI

House on Haunted Hill
1999年,アメリカ,92分
監督:ウィリアム・マローン
脚本:ディック・ビーブ
撮影:リック・ボッタ
音楽:ドン・デイビス
出演:ジェフリー・ラッシュ、ファムケ・ヤンセン、テイ・ディグス、アリ・ターラー、ブリジット・ウィルソン

 1931年、精神病の犯罪者を収容した病院の火事で、その病院のバナカット医師による人体実験の事実が判明した。それを扱ったテレビ番組をみた大富豪でテーマパークのプロデューサーであるスティーブン・プライス(ジェフリー・ラッシュ)の妻エブリン(ファムケ・ヤンセン)は、自分の誕生日パーティーの場所をその病院にしようと提案する。スティーブは数々の仕掛けを用意し、「一晩生き残ったら100万ドル差し上げます」というメッセージを送ったが、当日やってきたのは、招待した覚えのない人たちだった。

 流行のサイコスリラーなどではなく、純然としたホラー。とにかく怖い仕掛けを五月雨式に繰り出して、ジェットコースターのような勢いがある。リアルさにはかけるが、音響効果など恐怖感を与えるには充分の仕掛けがある。テーマパークに行くような気分でみれば、すっきりして帰れるかも。 

踊るのよ! フランチェスカ

Franchesca Page
1997年,アメリカ,106分
監督:ケリー・セーン
脚本:ケリー・セーン
撮影:クリス・ノー
出演:モーリーン・グリフィン、バーラ・ジーン・マーマン、ロッシ・ディ・パルマ、タラ・レオン、ロンダ・ロス・ケンドリック

 昔ショー・ガールをしていたリタ・ペイジは自分の果たせなかったブロウドウェイの夢を娘のフランチェスカに託し、オーディションに送り込む。しかし、フランチェスカは音痴に運痴、オーディションも大失敗。しかし、あきらめていた二人のもとに合格の通知が…
 「アタメ!」や「キカ」などのアルモドバル作品で知られる怪女優ロッシ・ディ・パルマが悪徳プロデューサー役を熱演。ジャンルとしてはミュージカルとされているが、実際はミュージカル映画をパロディ化し、映画というものをもパロディ化した作品。リタ・ペイジ役のバーラ・ジーン・マーマンやその友人役(名前わからず)の二人が歌って踊るのが本当に笑える。バーラ・ジーン・マーマンはニューヨークでは有名なドラァグ・クィーンらしいので、その素晴らしくそして笑える身のこなしにも納得。

 ドラァグ・クィーンであるバーラ・ジーン・マーマンが普通に女性役として登場するところがこの映画のすごいところ。ドラァグ・クィーンの映画というと、「プリシラ」のようにドラァグ・クリーンの役として登場するのが一般的だし、それを演じる役者が本当にドラァグ・クィーンであることは少ない。そのような意味ではかなり考える材料になる映画でもある。
 よく考えてみれば、フランチェスカはリタの子供で、お父さんはサミー・デービス・ジュニア(笑)という設定になっていて、そのこと自体がパロディ化された親子関係とみることもできる。フランチェスカは本当にリタが産んだ子供という設定なのか? 映画の中でリタは完全に女性として納得されているけれど、なかなか微妙な設定だ。このようなどうとでも解釈できる設定こそがレズビアン&ゲイ映画祭のコンセプトにあっていたということなのかもしれない。ことさらにホモフォビアや偏見を強調するよりも、このような笑いの中に隠されたいかようにも解釈できる現実という要素のほうがむしろ心に訴えかけてくるのかもしれない。それはドラァグ・クィーンの心に通じるのだろう。 

時の翼にのって/ファラウェイ・ソー・クロース

Faraway, So Close !
1993年,ドイツ,147分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ヴェム・ヴェンダース、ウルリヒ・ツィーガー、クヒアルト・ライヒンガー
撮影:ユルゲン・ユルゲス
音楽:ローラン・プティガン
出演:オットー・ザンダー、ピーター・フォーク、ナスターシャ・キンスキー、ホルスト・ブッフホルツ、ブルーノ・ガンツ

 『ベルリン・天使の詩』の続編。前作で人間になった親友ダミエルを見守る天使ミカエルは東西統一がなされたベルリンの街を眺めながら、自分もまた人間世界にあこがれ始めていることに気づく。そして、ついにバルコニーから落ちた少女を助けたことによって(人間界への介入)、人間界へと落とされたミカエルの冒険が始まる。
 前作の恋愛物語とは一転、堕天使ニミットを登場させることで活劇的な内容になっている。前作のロマンティックさと比べると、よりリアルに人間世界を描いたということか。ヴェンダースにとっての大きな転換点といえる『夢の涯てまでも』につづいて作られた作品だけに、それ以前のものとは大きく様子をことにし、ヴェンダースの新たな方向性の模索が感じられる。 

 カシエルはダミエルのように明確な目標を持って人間界へとやってきたわけではなかった。それがカシエルの何かが欠落しているという印象を作り、堕天使ニミットに付け入る隙を与えてしまうのだろう。しかし、果たしてこのことはどのような意味を持っているのか?明確なドラマを欠いた主人公カシエルは、しかし表面的には前作よりドラマティックな展開に引き込まれてゆく。『ベルリン・天使の詩』は明確なドラマを持っているという点で80年代以前のヴェンダース作品の中で異彩を放っているのだけれど、それと比べてもこの『時の翼にのって』は違ったスタイルの物語だ。
 この変化を理解するのは難しい。ヴェンダースは『夢の涯てまでも』以降、大きく作風を変えていくわけだけれど、その変化の方向性がまだ見えてこないという感じがする。『夢の涯てまでも』でロード・ムーヴィーにある意味で別れを告げたヴェンダースがいったいどこへ向っているのか、この作品は明らかにしてはくれない。『愛のめぐりあい』をはさんで『リスボン物語』にいたり、ロードムーヴィーに回帰しているように見えるヴェンダースだが、果たしてそうなのか?この作品は「とまった」ヴェンダースが何を語ろうとしているのかを示唆する作品であることは確かだが、何を語ろうとしているのかを理解することは難しい。カオスか?人間か?アメリカか? 

12モンキーズ

Twelve Monkeys
1995年,アメリカ,130分
監督:テリー・ギリアム
脚本:デヴィッド・ピープルズ、ジャネット・ピープルズ
撮影:ロジャー・プラット
音楽:ポール・バックマスター
出演:ブルース・ウィリス、マデリーン・ストー、ブラッド・ピット、クリストファー・プラマー

 2035年、1996年に発生した謎のウィルスによって地球の人口は1パーセントにまで減少し、地上に人は住めなくなっていた。科学者たちはそのウィルスの発生に関係すると思われる「12モンキース」について調べるため、囚人のジェームズ(ブルース・ウィリス)を過去へと送り出すだが、彼が着いたのは1990年だった。ジェームズはそこで精神異常者と見なされ、病院送りになるが、そこで謎の男ジェフリー(ブラッド・ピット)と出会う。
 さすがテリー・ギリアムと思わせる映像、ディテイルの凝りようが素晴らしい。この映画でもうひとつ素晴らしいのはブラッド・ピット。見た後に残るのは「これはブラッド・ピットの映画だった」というイメージかもしれない。 

 ストーリー自体にそれほど新しさはなく、タイムトリップものと終末論ものをうまくミックスしたという感じ。この映画の展開にハリを持たせているのはなんといっても2035年の世界だろう。まさにテリー・ギリアムが好き放題やっという感じの世界像が圧巻。くり返しでてくるのがうれしい。ただ、少し話の展開がゆっくり過ぎる感じもする。物語が展開してゆく中で次の細かい展開がかなり読めてしまうので、「早く進めよ」という気分になる。
 あとはブラッド・ピット。それほど出演している時間は多くないはずなのに、その存在感は他を圧倒。ブルース・ウィリスも決して悪い演技をしているわけではないのだけれど、ブラッド・ピットの本物さ加減にはかなわないだろう。顔の表情、特に目の動きが本当におかしい。 

夢の涯てまでも

Until the End of the World
1991年,アメリカ,158分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ピーター・キャリー、ソルベイグ・ドマーティン、ヴィム・ヴェンダース
撮影:ロビー・ミューラー
音楽:グラエム・レヴェル
出演:ソルベイグ・ドマーティン、ピエトロ・ファルコン、エンゾ・チューリン、チック・オルテガ

 1999年、インドの核衛星が軌道をはずれ地球に降ってくることがわかった。フランス人のクレアは渋滞を避けてわき道に入ったところで、銀行強盗の二人組みに出会い、彼らの運び屋をすることになる。そして金を運びながらパリへと帰る途中、追われる男トレヴァーに出逢うが…
 近未来の世界を飛び回る、ロードムーヴィーといってもいいかもしれない映画。映像へのこだわり、移動するということへのこだわりはいかにもヴェンダースらしいが、映像に新しい技術を用いたことの効果は疑問、個人的には幻想的で好きなタイプの映画だが、いわゆる「ヴェンダースらしさ」からは少しはずれている。 

 この映画には280分のディレクターズ・カット版があるらしい。
 と、聞いて大体の反応は「え?耐えられない」と来るだろう。しかし、私は個人的にはみてみたい。なぜなら、予想するに、そのときには旅をして映像を撮影して歩く部分が増えるだろうと予想できるから。150分のバージョンでは、世界中を鬼ごっこのように飛び回る部分と、実験室の部分の長さのバランスがどうもしっくりこなかった。前半をもっと長くするか、後半をもっとコンパクトにするか、そうしないとどうも落ち着きが悪い。
 ヴェンダースがこの映画で問うているのは、移動手段がこのように高速になってゆく世界で従来の「ロードムーヴィー」は可能なのか?という問いではないだろうか?そして、従来のロードムービーへのオマージュとしてあるいは、ロードムービーを捉えなおす手段としてこのような映画を作ったのではないだろうか?
 私はこの映画の理解しがたい冗長さをそう捉えた。だから、むしろこれでいいのだ。もっともっと冗長で退屈な映画になったほうがよかった。280分のほうがよかった。映画であることを拒否するような映画にして欲しかった。というのが個人的な感想である。 

レスキュアーズ~戦火に燃えた勇気/二人の女性

Rescures: Stories of Courage: Two Women
1997年,アメリカ,107分
監督:ピーター・ボグダノヴィッチ
脚本:カイ・ブロック、マーク・ドラッカー
撮影:ミロスラフ・バスザック
音楽:ヒュミー・マン
出演:エリザベス・パーキンス、アル・ワックスマン、セーラ・ウォード、アン・ジャクソン

 ポーランドとフランスにおいてユダヤ人を救った二人の女性を描いた二つの物語。第1話「マムーシャ」は雇い主の息子を救った家庭教師の物語、第2話「自転車に乗った婦人」は南フランスで司教を助けて多くのユダヤ人をかくまった司教秘書の物語。おそらくともに実話に基づいていると思われる。 もともとはアメリカでテレビ用に作られたシリーズもので、他にも「二組のカップル」「二つの家族」というシリーズがある。
 さすがにテレビ映画だけあって、凝った作りにはなっていないが、女性に焦点を当てた辺りがアイデア。「シンドラーのリスト」のような衝撃はないが、淡々と事実を伝えているという感じがして好感は持てる。 

 映画としてはどうということもないが、少し考えさせられることがあった。ひとつは映画として、ドイツ人はドイツ語をしゃべるのに主人公たち(ポーランド人またはフランス人)は英語を(しかも流暢に)しゃべるというのはかなりの違和感があった。アメリカ人はこれに疑問を感じないのだろうか?確かにアメリカの映画の登場人物たちはみな英語をしゃべる。外国映画も吹き替えにしてしまう。だからポーランド人が英語をしゃべるのも当然なのか?これはまあ、だからどうしたという感じの疑問。しかし「映画産業」ということを考えると意外と問題なのかもしれない部分。
 もうひとつは映画からはなれて、この物語の構造が「ドイツ=男性」「ユダヤ=女性」という構図にのっかているように見えること。もっとも象徴的なのはゲートルードと彼女に言い寄る大家の甥の関係。大家の甥はナチスの協力者であって、ゲートルードを強引に口説こうとする男性的な人物。ゲートルードは彼を拒否するものの、被抑圧者でありつづけなくてはいけない。彼女がなしえたのはひそやかな抵抗。ユダヤ人たちがなしえたのは自らを解放することではなく、他者によって解放されること。第2話でも「女性は鍋をかき混ぜているのがいい」というセリフが出てくる。彼女たちはナチスに抵抗したのだから、女性のほうを賛美しているようにも見えるが、それはあくまで賛美であって、その母性の賛美であり、人道的立場からの肯定でしかなく、彼女たち=ユダヤ人たちを主体的な存在として描いているわけでは決してない。もっと言うならば、「ナチス=ロシア=ヴィシー=ドゴール=男性」であり、「ユダヤ=女性」である。「ユダヤ=女性」はたくさんの主体(=男性)に翻弄される、受動的な存在でしかないのである。
 などということを考えながら、映画を見てみました。映画を見てなんだかいろいろなことを考えてみるものいいものですね。 

ドクター・ドリトル

Dr. Dolittle
1998年,アメリカ,84分
監督:ベティ・トーマス
原作:ヒュー・ロフティング
脚本:ナット・モールディン、ラリー・レヴィン
撮影:ラッセル・ボイド
音楽:リチャード・ギブス
出演:エディ・マーフィ、オシー・デイヴィス、オリヴァー・プラット、ピーター・ボイル、リチャード・シフ

 子供のころ、飼っている犬と会話をしているところを父に咎められ、犬と引き離されてしまった経験を持つジョン・ドリトルは優秀な医師となっていた。友人と共同経営する委員の合併問題が持ち上がるころ、家庭では娘のマヤが動物に非常な興味を持つようになっていた。そんな時、ジョンは動物の言っていることを理解する能力を取り戻すのだが…
 1967年にも映画化されたことのある名作児童小説の映画化。今回はストーリーも大きく変えて、舞台は現代にして、コメディ映画に仕上げた。しかし、家族というテーマをかなり大きく出している。
 とりあえず、動物たちとドクター・ドリトルのやりとりが面白い。ファミリー向けには非常にいい映画でしょう。子供の頃、原作の小説が大好きだったんですが、そのイメージを壊すこともなく、しかしまったく違う話として作っているので、好感がもてました。 

 一言で言えば、面白いが、新鮮味はない。エディ・マーフィーでなくても別に良かった。動物が喋っているところ(CG)はかなりうまくできているが、ベイブに先を越されている。と、誉めているようには聞こえませんが、ファミリー向け映画としてみるなら、これでいいでしょう。
 映画を娯楽としてみるならば、ある程度対象を絞ってゆくことが必要であって、必ずしも一般論で映画をきってしまうことがいいとは言えないということでしょう。この映画はいわゆる(芸術としての)映画的な価値から言えば、ほとんど価値がない。なぜなら、新しいところがどこにもないから。何か新しいことを表現しているわけではないから。
 この映画が表現しようとしているのは家族(特に父と子)の問題や、動物や命の大切さ、拝金主義の否定などでしょう。このようなメッセージをコメディという形にくるんで提示すること。今まで幾度となく繰り返されてきたことですが、これはこれでいいということでしょう。 

ナビィの恋

1999年,日本,92分
監督:中江裕司
脚本:中江素子
撮影:高間賢治
音楽:磯田健一郎
出演:西田尚美、村上淳、平良とみ、登川誠仁、平良進

 しばらく東京で働いていた奈々子(西田尚美)は、祖父恵達と祖母ナビィの暮らす島へと帰ってきた。奈々子と同じ船で島にやってきた老紳士(平良進)は戦前に祖母ナビィの恋人であったサンラーであった。
 果たしてサンラーとナビィと恵達の間にはどんな物語があったのか?そして、奈々子と同じ船でやってきた大和人(ヤマトンチュ)福之介と奈々子、奈々子の幼馴染のケンジとの関係はどうなるのか?
 沖縄の風景をうまく生かした映像と、アレンジされた沖縄音楽が映画の完成度を高めている。平良進、嘉手苅林昌、大城美佐子ら沖縄の名優・大歌手が脇を固め、味わいのある演技を見せている。 

 大満足。いい画がたくさんあった。たとえば奈々子が自転車でおばを追いかけてゆくところ、ナビィがサンラーの腕をつかんだところで海へパン、何とか商店(名前忘れた)の黄色い建物をローアングルでとって空を抜いたところ、などなど。挿入されるサイレンとも、映画にアクセントを加えるという意味では非常に効果的。そこにつけられた恵達のナレーションも面白い。
 物語で言えば、ナビィと恵達の間の心の動きが穏やかながらも味があり、それを映画的に消化できているので良かった。
 疑問が残るのは、ひとつは恵達の英語まじりの話し方。あれは役者の登川誠仁さんがもともとあういうしゃべり方だから必然的にそうなったらしいが、沖縄の人たちにとって、あのような喋り方がどういう意味を持つのかが少し気になった。
 あとは、ユタが完全に無視されてしまっていること。ユタの言ったことにナビィと奈々子はことごとく歯向かったのだけれど、結局奈々子は子宝に恵まれ、家が滅んでいるようには見えない。これはユタを否定してしまっているということなのだろうか?奈々子が「あの、インチキユタ!」と言う場面があったが、そんなに簡単にユタの聖性を否定してしまっていいのかは疑問が残る。
 と、映画的というよりは社会的(政治的)な疑問を呈してみたわけですが、純粋に映画としては文句なし。恵達の「ゲンキ」Tシャツが欲しい。どっかで手に入るのかなぁ? 

 登川誠仁さんは「沖縄のジミ・ヘン」と呼ばれる三線(サンシン)の名手で、普段から映画どおりの不思議なしゃべり方をするそうです。
 今回見て気づいたのは、夕暮れの美しさですね。それもいわゆる夕暮れのオレンジ色の光というのではなくて、単純に昼間が暗くなった感じの光加減。しかし、もともとの色合いがあまりに鮮やかであるために夕暮れ時の少しくすんだ色のほうが魅力的に見えるというような意味での夕暮れの美しさ。空がスチールブルーになり、人や物の輪郭がぼやけるその時間帯がこの映画の最も美しい時間帯。だからこそ奈々子と福の助のラブ・シーンもこの時間に持ってきたのでしょう。
 それから、今日WOWOWで見ている限りでは「ゲンキ」Tシャツに気づかなかったのだけれど、それは私が単に見落としただけなのだろうね。オリオンビールTシャツばかりが目に付いてしまった。そんな微妙な編集はしないだろうけれど、もしかしたら著作権関係で編集?などと考えてしまいました。きっと考えすぎ。

ポケットモンスター 幻のポケモンルギア爆誕

1999年,日本,90分
監督:湯山邦彦
原案:田尻智
脚本:首藤剛志
作画監督:一石小百合
音楽:宮崎慎二、たなかひろかず
出演:松本梨香、大谷育江、飯塚雅弓、山寺宏一、鹿賀丈史

 ポケモンの映画版第二弾。今回は、南の島を舞台に守り神のポケモンを捕獲する悪役(声は鹿賀丈史)とサトシたちが戦うというもの。舞台となる島の言い伝えが物語りの鍵となる。
 これが公開されていた去年の夏、イラン映画祭に行くためキネカ大森に行ったところ、親子連れの集団が。「お、キアロスタミは子供にも大人気か!?そんなわけねーな」と思っていたら、スクリーンのひとつでポケモンをやっていました。そのとき改めてポケモン人気を実感したわけですが、この映画、かなり作りがうまくて、いわゆる「子供のアニメ」とはいいきれないものを感じました。
 しかし逆に、いつものポケモンたちの活躍度が低く、「ポケモン」としてはいまいちのような気もしました。 

 冒頭で悪役が乗っているマシンがCGというところでいきなり度肝を抜かれましたが、ほかにはかなり音響に凝っている(音源がいい)、キャラクター設定がしっかりしている。など決して子供のものとはいえないできでした。
 いわゆる「子供のアニメ」(ポケもんとかドラえもんとか東映マンガ祭りとか)と「大人にも向けたアニメ」(宮崎駿とか大友克洋とか)の差が小さくなっているということでしょうか。しかし、この映画は宮崎駿っぽさも目に付き気になりました(たとえば、ラストのエンドロールはまさに「ナウシカ」)。
 日本のアニメ(中でもヒットするもの)は少なからず「ナウシカ」か「アキラ」の影響を受けているような気がしますが、これもその一例でした。 

ニンゲン合格

1998年,日本,109分
監督:黒沢清
脚本:黒沢清
撮影:林淳一郎
音楽:ゲイリー芦屋
出演:西島秀俊、役所広司、菅田俊、りりイ、麻生久美子、哀川翔

 10年間昏睡状態で眠っていた24歳の豊(西島秀俊)が奇跡的に意識を取り戻す。彼は藤森(役所広司)という男と自分がかつて住んでいた家に住み、生活を始めるが、そこには家族の姿はない。
 これは豊と家族との物語なのだけれど、それが説明されることはまったくない。セリフが極端に少なく、状況が説明されないまま、話は展開してゆく。
 14歳の精神を持った24歳の青年とバラバラになった家族、ということは、彼をきっかけにして家族が再び集まって…、と古典的物語ならば展開するはずですが、果たしてどうでしょうかね。 

 この映画を評価する(あるいは批判する)材料はいくつかある。
 ひとつは物語。つまり、家族の捉えかた。この映画で描かれている家族像とは何なのか?黒沢監督は今まで執拗に家族を描くことを避けてきた。これまでの映画で主人公の肉親が登場することはまったくなかった。それはなぜなのかがこの映画を見ればわかる。黒沢監督はあるインタビューで「家族が登場すると物語が混乱する」と言っていた。つまり家族は敵・味方がはっきりしない存在であり、そういう存在が物語りに紛れ込んでくると人物関係の整理がつかなくなるということ。家族をそのような存在として捉えているがゆえに、家族を登場させようと思ったら、それは「家族の映画」になってしまう。その微妙な関係性をうまく表しているのは、遭難した父親がテレビに映っているところを見守る一瞬の(バーチャルな)家族団欒を見つめる哀川翔の視線。反発しあっていたはずのものたちが一瞬でも理解しあってしまう不可解さ。
 もうひとつは映像。古典的な意味での視点というものを壊してしまった映像はある種の違和感を感じさせる。頻繁に繰り返される横移動、ほとんど映されることのない建物より高い部分の景色(ここは東京で少し上を見れば高層ビル群が見えるはず)。産廃物を運ぶトラックでふたりが会話するときの風景の微妙なずれ(この場面はトラックが実際には移動しておらず、フロントガラスに映りこむ風景が合成されたものであることは容易に見て取れる)。これらが意味しているのはどのようなことなのか?ただ単に映像作家として「いい画」を追求するがゆえに生まれた画なのか?それともここで描かれている空間が「夢」であることを暗示しているのか?その判断は見る側にゆだねられているようです。この映画が「夢」なのか「現実」なのか、藤森は死に行く豊に「現実だ」と言ってはいるものの、果たしてそれが信用できるのか?