ライフ・イズ・ビューティフル

La Vita e Bella 
1998年,イタリア,117分
監督:ロベルト・ベニーニ
脚本:ヴィンセンツォ・セラミ、ロベルト・ベニーニ
撮影:トニーノ・デリ・コリ
音楽:ニコラ・ピオヴァーニ
出演:ロベルト・ベニーニ、ニコレッタ・ブラスキ、ジョルジオ・カンタリーニ、ジョスティーノ・デュラーノ、セルジオ・ブストリック

 お調子者のグイド(ロベルト・ベニーニ)は、ローマへと向かう途中、車が故障して止まった町で美人のお嬢様ドーラに出逢う。そして、ローマで再会、しかし彼女には婚約者がいて…
 と、前半は1930年代のハリウッド映画のようなラブ・コメディが展開されるが、後半は一転、戦争が彼らの上に大きくのしかかってくる。カンヌ・グランプリ、アカデミー・外国語映画賞を受賞した良質のヒューマンドラマ。
 映画としての新しさは特にないが、巨匠トニーノ・デリ・コリの映像はいつまで見ていても飽きない透明感を持っている。子役のジョルジオ・カンタリーニも愛らしい。 

 ロベルト・ベニーニが、塀の中、なんだか見たことがあると思ったら、「ダウン・バイ・ロー」ですね。うーん、しかし比べるのは無理があるかな。
 さて、この映画はなかなか評価が難しいでしょう。前半部分は非常にいい。なんだか昔懐かしい感じで。しかし、あれで一本撮るには弱いでしょう。しかも、映画の眼目は後半にあるわけです。で、後半ですが、ドラマとして取ると、脚本の細部が弱い。収容所の監視があんなにずさんでいいのかとか、疑問が湧いてきます。コメディとしてとるなら、問題はありませんが、そうすると説教臭さが鼻につく。個人的にはそういう評価です。
 とにかく、全体をまとめている澄んだ映像がこの映画を救っています。決して目立つ効果は何もないのだけれど、それはつまり自然だということ。そして終盤はジョルジオ・カンタリーニの笑顔に救われています。
 私はアカデミー賞の審査員とは意見が合わないようです。

マグノリア

Magnolia
1999年,アメリカ,187分
監督:ポール・トーマス・アンダーソン
脚本:ポール・トーマス・アンダーソン
撮影:ロバート・エルスウィット
音楽:ジョン・ブリオン
出演:トム・クルーズ、メリンダ・ディロン、フィリップ・ベイカー・ホール、ウィリアム・H・メイシー

 様々な親子関係を中心に、ロサンゼルスに住む人々の一日の出来事を描く。生き別れた息子に一目会いたいと願うアール(ジェイソン・ロバーズ)、女の口説き方をセミナーで教えるその息子フランク(トム・クルーズ)、天才クイズ少年スタンリー(ジェレミー・ブラックマン)、元クイズ少年ドニー・スミス(ウィリアム・H・メイシー)などなど。
 3時間はやはり長いが、最後まで見ればなんとなく納得。でも、もう少し短いほうがよかったような気もする。
 それぞれのキャラクターは生き生きとしていていい。こういうモザイク的な描き方というのはとても映画的。小説にしてしまうと誰が誰やらわからなくなってしまうことが多いが、映像という方法を取れば頭の中はすっきり。

 長い。3時間の映画を3時間に感じさせてしまっては、長い映画としては失格でしょう。映画の長さというのはじっさいに計測できる時間の長さと個人個人の主観的な体感的な長さというのがあるわけですが、私にはこの映画は長かった。じっさい、この映画には3時間の集中を保たせるほどの力はないと思う。映画自体は面白いのだけれど、2時間辺りで中だるみ。前半は音楽などを使って、テンポよく話を進めていくのだけれど、中盤にそれぞれの物語が緊張感をはらむ場面になり、それから徐々に解決らしきものに向っていくというそのあまりの遅さが長さを感じさせる。そこでは音楽もあまり使われず、長い長いひとり語りやトム・クルーズの脂っこい演技が長々と引き伸ばされる。
 そしてまた、集中してみるには疲れる映画でもある。それは1カットが短くてリズミカルなようでいながら、それを音楽やボイス・オーバーでつなぎ、テンポを落としていること、またクロースアップが多く、フォーカスが短い画面が多いので、注意が一点に集中されてしまい、漫然と見ることができない。
 だから、一般的に言うともう少し短くするか、もっとハチャメチャにしてしまうと良かったのだと思う。最初から「偶然」ということがテーマになっていると明示しているのだから、もっと不思議な偶然をどんどん繰り出して摩訶不思議な世界を作ってしまえば一つの面白い映画になったのだろうと思う。
 この映画の面白さは、この映画がそのようにつまらない映画であるということにある。「つまらない」というのは見る側がその映画に対して優越感を感じるというか、この程度の映画かとわかった気になってしまうということである。人間関係を解きほぐしたり、映画の作り方を分析したり、音の入れ方について考えてみたり、いろいろなことを考えてみると、この映画を理解することは決して難しくない。しかし、この映画をにわかるということは絶対にありえない。それはこの映画が絶対的な「意味」を欠いているからであり、映画全体として一つのメッセージを届けようとはしていないからだ。見た人それぞれがそれを読み取ろうとすることは自由だが、それに正解はない。どの読みが正しくてどの読みが間違っているのかという解答はそもそもないから、この映画はどのように見てもいいし、どのように見ても映画を「理解できた」ことになる。すると映画は面白くなる。だからこの映画は「つまらない」からこそ「おもしろい」ということになるのだが、そのような仕掛け自体を「おもしろい」ということが果たしてできるだろうか? 

ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ

Hilary and Jackie
1998年,イギリス,121分
監督:アナンド・タッカー
原作:ヒラリー&ピエール・デュ・プレ
脚本:フランク・コトレル・ボイス
撮影:デヴィッド・ジョンソン
音楽:バーリントン・フェロング
出演:エミリー・ワトソン、レイチェル・グリフィス、ジェームズ・フレイン、デヴィッド・モリセイ、チャールズ・ダンス

 実在のチェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレの生涯を姉妹の関係にスポットを当てて描いた感動作。
 二人の姉妹が海辺で遊ぶ謎めいたシーンから映画は始まる。ヒラリーとジャクリーヌの姉妹は音楽好き、姉のヒラリーはフルート演奏で将来を嘱望され、BBCから出演依頼が来るが、一緒に連れて行ってもらったジャクリーヌは演奏の邪魔をしてしまう。悔しいジャクリーヌはその日から毎日チェロの練習に励むようになった。
 全編にわたって流れるチェロの音色が心に染み入ってくる。映像もさりげない工夫が凝らされていてよい。

 まず、邦題に難ありというところ。「ほんとうの」とかいってしまうとなんだか堅苦しい伝記映画みたいに見える。原題の”Hilary and Jackie”のほうが、映画の内容を端的に表していていいのでは。
 この映画はかなり「いい」と思う。さりげないんだけどよくできた映画。女性チェロを持つと凄くエロティックだし、魅力的に見えると前から思ってはいたのだけれど、この映画を見てかなり実感。特に、黒いバックで全身(ドレスの色が変わってゆく)と手のアップを交互に映し出してゆく場面が印象的。ダニエルとジャッキーが初めて出会ったパーティーで協奏するシーンも非常に良かった。
 あまり期待していなかっただけに、思わぬ収穫でした。

プライベート・ライアン

Saving Private Ryan
1998年,アメリカ,170分
監督:スティーブン・スピルバーグ
脚本:ロバート・ロダット
撮影:ヤヌス・カミンスキー
音楽:ジョン・ウィリアムズ
出演:トム・ハンクス、トム・サイズモア、エドワード・バーンズ、バリー・ペッパー、マット・デイモン

 第二次世界大戦の転換点ノルマンディ上陸作戦。その戦いに参加していた中隊長ジョン・ミラー大尉(トム・ハンクス)に新たな任務が命ぜられた。それは、三人の兄が戦死し、本人も行方不明となっているライアン二等兵を探し出し、救出するというもの。命令の絶対性と一人の二等兵のために命をかける理不尽さに切り裂かれながら、ミラー中隊長と7人の兵士はライアン二等兵を探しに行く。
 この映画でいちばんすごいのは戦闘シーン。特に冒頭から30分ほどつづくノルマンディ上陸作戦の戦闘シーンは圧巻。長年にわたって培われてきたドリームワークスの特撮技術が細部に至るまで圧倒的なリアルさを生み出している。銃弾の中を走り回るハンディカメラの映像も臨場感を増す。

 本当に、この映画の戦闘シーンはすごい、足がもげたり、頭を打ち抜かれたり、それが現実にそこで、目の前で起きているような錯覚を起こさせる特撮。特撮といえばSF、という認識が誤りだったことを認識させられる。そして戦闘シーンのリアルさは、そこにいる兵士たちの心理さえも映し出しているような生々しさを持っている。しかし、よく考えると、重火器レベルであんなに人が吹き飛んだりするのかという疑問も沸く。これはやはりあくまで、スペクタクルのためのリアリズム。戦争映画というスペクタクルへのあまりに圧倒的な導入。
 映画の最後も戦闘シーンなわけですが、そこもやはりすごい。最初のシークエンスにも増してなんだかヒーローもののような胡散臭さは漂うけれど、それでもすごいことはすごい。
 と、スペクタクルな部分は褒めておいて、ですが、
 この映画はシンメトリーな構造になっています。星条旗から始まり、戦没者墓地→戦闘シーン→移動→戦闘シーン→戦没者墓地→星条旗です。このシンメトリー構造というのはこの映画の徹底的な姑息さで、アメリカのパトリオティズムのプロパガンダのための構造になっています。星条旗と戦没者墓地は全くそのままですが、戦闘→移動→戦闘という部分も、最初の戦闘シーンで人(アメリカ兵)をバンバン殺して、ドイツ軍の冷酷さと戦争の悲惨さのようなものを描き、移動シーンでは隊の個人個人の人間性を描くことで最後の戦闘シーンでは完全に自分も戦闘に加わっているかのような気分になる。そしてだめを押すように戦没者墓地での敬礼と星条旗。この語り方によってこの映画はアメリカ人を戦争に駆り立てるものでしかありえなくなってしまう。アメリカ人でなくてもそれを感じてしまう。その要素を取り去ってひとつのスペクタクルとしてみることは可能だけれど、そのことがこの映画がプロパガンダ映画であるということを覆い隠しはしないのです。だから見終わってどうも、(優しい言葉で言えば)居心地が悪い、あるいは(簡単に言ってしまえば)むかつくのです。
 文句のつけどころは他にいくらでもある。題材に第二次大戦をしかも隊ナチス戦を選ぶ。これがヴェトナム戦争や朝鮮戦争でないのは何故か。ドイツ兵の描き方が余りに画一的なのは何故か。ドイツ兵はすぐに投降し捕虜になるのに、アメリカ兵は決して降参しない。どれもこれもアメリカ万歳に結びつく要素で、ただただむかつく、あるいはあきれる要素が増えていくばかり。
 こんな映画をアメリカ人以外の観客にもしっかりと見せ、感動すらさせてしまうスピルバーグの手腕には恐れ入りますが、その才能をこんなところに使ってしまうのはどうにも納得がいかない。これならば、『インディー・ジョーンズ4』でもとってた方がよかったんっじゃないの?

バタフライ・キス

Butterfly Kiss
1995年,イギリス,85分
監督:マイケル・ウィンターボトム
脚本:フランク・コトレル・ボイス
撮影:シーマス・マッガーヴェイ
音楽:ジョン・ハール
出演:アマンダ・プラマー、サスキア・リーヴス、リッキー・トムリンソン、キャシー・ジェイミソン

 「ウェルカム・トゥ・サラエボ」などで知られるマイケル・ウィンターボトム監督の初長編作。
 ハイウェイのガソリンスタンドで「ジュディス」という女性を探すユーニス。「ジュディス」ではないとわかった店員を殺し、次のスタンドへ。そこで出会ったミリアムは、ガソリンを体に振り掛ける彼女を心配し、自分の家に連れてゆく。ユーニス(ユー)に惹かれてゆくミリアム(ミー)、ふたりは果たして…
 物語はミリアムの告白を語り部に展開してゆく。レズビアン版シド&ナンシーと例えることもできるし、神話世界のメタファーとして読み解くこともできるだろう。ユーとミーという呼び名に何らかの示唆を読み取ることもできるかもしれない。現代的な映像の奥に、深みを感じさせるウィンターボトム監督の力作。

 「ジュディス」は旧約外典のひとつ『ユディト書』の主人公ユディトに由来していると思われる。未亡人ユディトは敵国の将ホロフェルネスを誘惑し、油断させ、寝首を掻き切ったイスラエルの女性。グスタフ・クリムトが描いた『ユディトⅠ』という絵が有名だが、この絵でユディトはホロフェルネスの首を抱えて微笑んでいる。このことから考えるとユーニスは「ジュディス」、つまり自分を殺しに来る何者かを探していると解釈することができる。しかもそれは自分を愛してくれる誰かでなくてはならない。そう考えると、ミリアムの「私がジュディスの代わりになる」というセリフが意味を持ってくるわけだ。ミリアムはユーリスにとってのジュディスになり、ユーリスはホロフェルネスになれる。
 キリスト教圏の人が「ジュディス」と「ユディト」とをすぐに結びつけることができるのかはわからないが、私は映画を見てから調べるまでそんなことはまったく知らなかった。このようなメタファーが映画に出てくることはままあるが、それを理解できないことが多い。あとから史ってなんとも残念な気分になることがありますが、今回もそうでした。ちなみにミリアムはモーゼの姉の名だが、これも何か関係あるのかもしれない。

セルロイド・クローゼット

The Celluloid Closet
1995年,アメリカ,104分
監督:ロブ・エプスタイン、ジェフリー・フリードマン
原作:ヴィットー・ルッソ
脚本:ロバート・エプスタイン、ジェフリー・フリードマン、アーミステッド・モービン、シャロン・ウッド
撮影:ナンシー・シュライバー
音楽:カーター・バーウェル
出演:トニー・カーティス、ウーピー・ゴールドバーグ、トム・ハンクス、スーザン・サランドン、リリー・トムソン(ナレーション)

 ゲイやレズビアンを扱った映画の歴史をヴィトー・ルッソの原作を元に映画化。古い映画の映像を見せるとともに、実際にカミングアウトした映画関係者や同性愛者の役を演じた役者のインタヴューを豊富に集めた。対象をアメリカ映画に限定しているため、話はわかりやすくまとまっている。ドキュメンタリーとしてはそれほど優れたものとは思えないが、知らなかったことを実感をもって知るためには役に立つ。1995年頃はゲイやレズビアンの映画がムーヴメントとして盛んだった頃なので、こういった映画も作られたのだろう。
 パゾリーニなどヨーロッパに関係することは対象からはずされているのが残念。
 映画のからくりといえるものは特にありません。ハリウッド映画史の勉強にはなります。20・30年代には検閲が強化されていたということで思い出したのが、何の映画だったか、有名な映画だったはずですが、男女がひとつのベットで寝る時に、間にシーツをたらして敷居にしていた場面。その頃はベットシーンというものが禁止されていたために、そのような工夫がされたんだという話を聞いたことを思い出しました。何の映画だったっけかなぁ… 

ウォーターメロン・ウーマン

The Watermelon Woman
1995年,アメリカ,80分
監督:シェリル・デュニエ
脚本:シェリル・デュニエ
撮影:ミシェル・クレンショウ
出演:シェリル・デュニエ、グィネヴィア・ターナー、ヴァレリー・ウォーカー、カミール・パグリ、アリサ・マリー・ブロンソン

 「GO fish」に影響を受けたと思われるシェリル・デュニエが、レズビアンと黒人女性という二重のマイノリティ性を問題化した作品。30年代のハリウッド映画で“ウォーターメロン・ウーマン”とクレジットされている黒人女性を発見したレズビアンの映画作家志望シェリルは彼女の生涯を映画にしようと考える。その映画作成の過程を映画として作り上げた。
 「GO fish」と比べると、レズビアンや黒人女性というものを問題化する意識が強いように見える。ハリウッドで黒人女性とレズビアンが無視されつづけてきた状況を問題化することこそがこの映画の目的なのだろう。映像や物語のつくり、映画としてのつくりを見ると「GO fish」のほうが明らかに上だが、この映画も「黒人」独特のリズムがあって飽きることはない。

 「GO fish」の脚本と主演を担当したグィネヴィア・ターナーがシェリルの恋人ダイアナとして「ウォーターメロン・ウーマン」に登場する。「ウォーター」の舞台はフィラデルフィアだが、ダイアナはシカゴで映画を取っていたという設定。「GO fish」がシカゴの映画であることを考えると、ダイアナは「GO fish」の作家として「ウォーター」に登場していると解釈できる。それぐらいこのふたつの映画のつながりは深い。
 「GO fish」が映画として完成されていたがゆえに、一般に受け入れられ、それによって「ウォーター」はより深い問題を扱うことができた。そんなことを考えながらも、「レズビアン」という問題は映画で扱われることがあまりに少ないんだと実感せざるを得ない。 

GO fish

GO fish
1994年,アメリカ,85分
監督:ローズ・トローシュ
脚本:ローズ・トローシュ、グィネヴィア・ターナー
撮影:アン・T・ロセッティ
音楽:ブレンダン・トーラン、ジェニファー・シャープ
出演:グィネヴィア・ターナー、T・ウェンディー・マクミラン、V・S・ブロディ、アナスタシア・シャープ、ミグダリア・メレンデス

 レズビアンの日常を、マックスとイーレイの関係を軸に描く。全編白黒の画面は非常にセンスがよい。「センスがよい」という安易な言葉は使いたくはないのだけれど、この言い方がいちばんぴったり来る。フレームの切り方だとか、ワンカットの短さだとか、挿入される抽象的なカットの具合だとか、「あー、カッコイイ」と思わせる。
 レズビアンムーヴィーとしては画期的な作品。ゲイムーヴィーはかなり前から作られ、認められていたが、レズビアンのものは案外歴史が浅く、この作品あたりから世間的に認められるようになってきた。決して深刻にならずに、しかし伝えたいことはしっかり伝えるという姿勢が、一般的に受け入れられた要因だろうと思う。

EM EMBALMING

1999年,日本,96分
監督:青山真治
原作:雨宮早希
脚本:橋本以蔵、青山真治
撮影:西久保維宏
音楽:山田勲生、青山真治
出演:高嶋礼子、柴俊夫、松重豊、三輪ひとみ、鈴木清順

 死体に防腐処理を施すエンバーマーである村上美弥子(高嶋礼子)のもとに、刑事・平岡(松重豊)から仕事の依頼がある。今回の依頼は、ビルから飛び降りた(あるいは落ちた)高校生の大里ゆうきのエンバーミングだった。
 案の定、他殺の疑いがあるということから話は展開してゆくが、新興宗教、多重人格、人体売買など様々な要素がそこに絡み合ってゆき、サイコホラーの色合いを帯びて来る。
 青山真治監督らしく、無表情な登場人物と閑散とした風景が非常に作られたイメージを作り出す。
 原作者の雨宮早希は故松田優作の元妻である松田美智子。原作を読んでいないのでわからないが、この映画の面白い部分は原作にはなかったところなのではないかと思える。言葉ではなく画面で説明する様々なこと。スピーカーの上に置かれていたくまのぬいぐるみだとか。

 青山監督の作品は、いい悪い以前に考えさせられる。それは彼の作品が取り扱っている問題についてではなく、映画そのものについて。彼の取る映画とはなんなのか?全体的に漂う作り物じみた雰囲気はなんなのか?現実に近づこうとしてきたはずの映画が現実から遠ざかろうとしている。映画が作り物であるという我々が無意識に持っている前提条件を彼は敢えて露わにしようとしているのか?
 鈴木清順の棒読みといい、セリフを言い終わった登場人物たちが人形のように動きをとめてしまうことといい、映画の虚構性を強調しているように映る。それは映画ということを問題化しているのか?それとも、「画」へのこだわりがそのような固定化された画面を作らせるのか?
 多重人格に対する捉え方が浅薄に見えるのも、それらの問題化と同じ意味を持っているのだろうか?果てしない疑問の羅列が残るのは「Helpless」でも「Shady Globe」でも同じこと。
 確実なことは、彼にとってプロットやリアリティというものがそれほど重要な意味を持っていないこと。彼にとってはフレームによって切り取られた画によって生み出されるものこそが映画であり、それは彼にとっては現実を切り取るということなのだということだろう。

ピクチャー・パーフェクト/彼女が彼に決めた理由(わけ)

Picture Perfect
1997年,アメリカ,102分
監督:グレン・ゴードン・キャロン
脚本:アーリーン・ソーキン、ポール・スランスキー、グレン・ゴードン・キャロン
撮影:ポール・サロッシー
音楽:カーター・バーウェル
出演:ジェニファー・アニストン、ジェイ・モーア、ケヴィン・ベーコン、オリンピア・デュカキス、イレーナ・ダグラス

 広告代理店に勤めるケイト(ジェニファー・アニストン)は企画会議でアイディアが認められるが、実際のチームには加えてもらえずいライラがます。一方で母親には孫の顔が早く見たいといわれ、職場で気になる存在のサム(ケヴィン・ベーコン)には善人過ぎてダメといわれる。そんな中ケイトは友人の結婚式に出席するのだが…
 仕事・恋愛・結婚を絡ませ、微妙な心の揺れ動きを描くまっとうなラヴストーリー。ジェニファー・アニストンが等身大(と思わせる)のキャラクターを演じていて非常に魅力的。途中で挿入される、メイシー・グレイの歌声も心に響く。

 こういう、まっとうなラヴストーリーを撮ってしまうところがハリウッド映画なわけだが、この映画はそれなりに成功している。ジェニファー・アニストンはかわいいし、ケヴィン・ベーコンも虚勢をはった感じをよく演じていると思う。この映画で最期まで臆病者でありつづけるのはケヴィン・ベーコン演じるサムだけ。その他の人は勇気を振り絞って大団円ということね。ハリウッド映画だから、ハッピーエンドで終わるんだろうなと予想はつくものの、「もしかしたら」と思わせる展開もなかなかうまい。
 問題はあまりに無難なところか。2箇所くらいいい画があったけれど、それも偶然かもしれない。これはハリウッドの典型的な娯楽映画(それはつまり映画として本質であるということかもしれない)であり、娯楽映画としてはなかなかの出来栄えなので、そんなことを言う必要もない。でも、言いたい。うーん、たわごとですね。
 気分ほんのり、後も引かない。朗らかな日常の清涼剤に。そんな映画でした。