スモール・ソルジャーズ

Small Soldiers 
1998年,アメリカ,110分
監督:ジョー・ダンテ
脚本:ギャヴィン・スコット、アダム・リフキン、テッド・エリオット、テリー・ロッシオ
撮影:ジェイミー・アンダーソン
音楽:ジェリー・ゴールドスミス
出演:グレゴリー・スミス、キルスティン・ダンスト、ジェイ・モーア、トミー・リー・ジョーンズ(声)、アーネスト・ボーグナイン(声)

 軍需企業に買収されたおもちゃ会社が新たに開発したおもちゃは、軍需用のチップを搭載した最新機器だった。それを発売日前に手に入れたおもちゃ屋の少年アラン。しかし、そのおもちゃたちが戦争をはじめて、事態はとんでもない方向に…
 「グレムリン」などで知られるジョー・ダンテ監督が少年とSFXという得意技で作り出したアクション映画。ほとんどがCGで作られたと思われるおもちゃの動きは相当リアル。映画自体どうって事はないが、おもちゃと戦うという設定がかなりばかばかしくていい。しかも、起こってもおかしくないような気もしてくるから不思議。

 何も考えずに見れる映画を探していたら、たまたまテレビでやっていたので見たところ。ぴったりでした。まず、出てくる人々がみなクレイジーなところが素敵。社長もクレイジーなら、隣のフィルもクレイジー。特にチップを開発している技術者のクレイジーさには参った。
 そして、おもちゃと戦うというストーリ展開は、「スターシップ・トゥルーパーズ」の虫との戦いのようで、ばかばかしくていい。中途半端にリアルな設定よりは、このように「そりゃねーだろ」という設定のほうがSFは楽しいです。その点でジョー・ダンテという監督はかなり優秀だと思う。少し、久しぶりという感がありますが、ジョー・ダンテで一番覚えているのは、「インナースペース」。つくりはしっかりしているのだけれど、これもかなりどうでもいい話で、まさにスピルバーグファミリーのはみ出しもの感が強かったです。

エイリアン4

Alien Resurrection 
1997年,アメリカ,107分
監督:ジャン=ピエール・ジュネ
脚本:ジョン・ウェドン
撮影:ダリウス・コンジ
音楽:ジョン・フリッゼル
出演:シガニー・ウィーヴァー、ウィノナ・ライダー、ロン・パールマン、ダン・ヘダヤ

 死んだはずのリプリーが200年の時を経て、クローンとしてよみがえった。しかし7度の失敗を経て誕生した8番目のリプリーはエイリアンのDNAを併せ持つ新たな生命体となっていた。宇宙船内でエイリアンを繁殖させる軍人と科学者、そこに密輸にやってくる海賊たち、もちろんエイリアンは逃げ出し、パニックが起きるのだが…
 「デリカテッセン」や「ロスト・チルドレン」といった幻想的な作品で知られるジャン=ピエール・ジュネが監督した異色の「エイリアン」。かなりCGが多用され、前3作とはかなり異なった味付けがなされている。

 3を見て、もう続編はないなと思っていたのに、何だかんだとできてしまった4。それなりに面白いのだけれど、ストーリー展開は単純だし、しかも短いということもあって、「エイリアン」らしさに欠けるという気がした。あまりエイリアンの迫りくる恐怖というのも感じないし。それでもプロットには工夫があってなかなかよかった。特に、ウィノナ・ライダーがXXXX(ネタばれ防止)だという設定は秀逸。
 特撮について言えば、エイリアンそのもののリアルさはCGのおかげか増していたように思えるが、口から飛び出る液なんかはあまりにCGなのがみえみえで残念。
 ジャン=ピエール・ジュネ監督で、ウィノナ・ライダーが出るというので期待していたので、少々期待はずれ。もっとジュネワールドを展開してくれれば(「エイリアン」ではなくなってしまうかもしれないけれど)面白くなったかもしれない。「ロスト・チルドレン」のあの雰囲気を期待してしまったのがいけなかったのだろうか?
 「エイリアン」は“2”が一番好きかな。シガニー・ウィーバーがシュワルツネガー張りで、かなり楽しめたような記憶があります。
 皆さんのお気に入りの「エイリアン」は何ですか?

遊星からの物体X

The Thing
1982年,アメリカ,109分
監督:ジョン・カーペンター
原作:ジョン・W・キャンベル・Jr
脚本:ビル・ランカスター
撮影:ディーン・カンディ
音楽:エンニオ・モリコーネ
出演:カート・ラッセル、ウィルフォード・ブリムリー、リチャード・ダイサート、ドナルド・モファット

 南極のアメリカベースに突然現れたノルウェー隊のヘリコプター。彼等は執拗に一匹の犬を追っていた。狂気に犯されたようなノルウェー隊の二人の隊員は二人とも死んでしまう。それを不審に思ったアメリカ隊の隊員がノルウェーの基地に行ってみると、そこは全滅し、人々の死体と、奇妙な生物の焼死体が残されていた…
 サイコな要素を取り込んで、「エイリアン」とともにこれ以降のSFエイリアン・ホラーの原型となった名作。ホラーの巨匠ジョン・カーペンターの出世作でもある。

 この作品はもちろんエイリアンもののホラー映画ではあるが、同時に犯人探しのサスペンスの要素も持っている。見た目からはエイリアンが寄生しているかどうかわからないために生まれるサスペンスがこの作品の面白みを大いに増す。この構造はもちろん『エイリアン』と同じである。『エイリアン』の公開は1979年でこの作品より3年前だか、『エイリアン』の脚本家はもちろんジョン・カーペンターの盟友ダン・オバノンであり、このアイデアが昔から彼らの作品の構想の中にあったことは想像に難くない。だから、ふたつの作品が似ているのはいたしかたないのだろう。そして、それが現在に至るまでエイリアンもののサスペンス・ホラーのひとつの雛形となったのだ。
 そのような作品としてこの作品は非常に完成度が高い。外界との通交がまったく絶たれるという設定、その中でどこから迫ってくるかわからないエイリアン、仲間に対する疑心暗鬼、エイリアンの気色の悪さ、それをとっても抜群の出来。
 もちろん、この閉鎖空間という設定はジョン・カーペンターのお得意の設定であり、閉じられた中に恐怖の源があり、そこから逃れようと奮闘するというのも彼がずっと繰り返してきた物語展開である。

 しかし、その恐怖の源とはいったい何なのだろうか。果たしてそれは文字通りエイリアンなのか。ジョン・カーペンターがこのような恐怖を繰り返し描いていることからもわかるように、これは必ずしもエイリアンである必要はない。気の狂った殺人鬼でも、若者のギャング団でもなんでもいいが、とにかくそれはわけがわからないが“私”に襲い掛かってくるものでなければならないということだ。それらの映画とこの映画が違うのは、『ハロウィン』のブギーマンはそのものが恐怖の対象であるのに対して、この作品では人間がそのように恐怖の対象になるのは何かに取り憑かれたからだということだ。人間が何かに取りつかれることでわけのわからない恐怖の対象になる。それは非常に示唆的なことではないか。彼らは何かに取り付かれ、他の人間を食い物にし始めるのだ。
 それは別にエイリアンであろうと、狂気であろうと、欲望であろうと、何も変わらないのだ。つまりここでのエイリアンというのは人間か取り憑かれるなにものかの隠喩なのである。
 この物語の主人公であるはずのマクレディも「実はエイリアンなんじゃないか」と思わせる瞬間が映画の中に何度もあるのは、彼もまた何かに取り憑かれているからだ。彼はもちろんエイリアンを抹殺し、基地の外に出ないように奮闘してはいるけれど、果たして本当にそうだろうか。人間側が一枚岩ではないようにエイリアンも一枚岩ではないとしたら、エイリアン同士の殺し合いもあってもおかしくはないのではないか。実はマクレディは他のエイリアンを抹殺し、自分が地球に進出しようとたくらんでいるエイリアンなのかも知れないではないか。
 そのように考えてみると、この映画のラストはある意味ではハッピーエンドのように見えるけれど、非常にもやもやしていやな感じも残す。ジョン・カーペンターはこの作品の続編の構想があった(今もある)らしいのだが、それがどうなるのかはまったく予想がつかない。
 この作品に描かれたエイリアンは、われわれを果てしない不安に陥れる。

運動靴と赤い金魚

Bacheha-ye Aseman 
1997年,イラン,88分
監督:マジッド・マジディ
脚本:マジッド・マジディ
撮影:バービズ・マレクザデー
出演:ミル=ファロク・ハシェミアン、バハレ・セッデキ、アミル・ナージ

 アリは両親の手伝いもし、学校でも優秀な9歳の少年。しかしある日、買い物の途中で直してもらったばかりの妹の靴をなくしてしまった。貧しいアリの家では新しい靴を買ってもらうこともできるはずがなく、アリは妹と自分の靴を二人で交代で使って学校に行くことにするが…
 イランの新鋭監督マジッド・マジディが描いたみずみずしいイランの少年の生活。少年が走る場面がたびたび出てくるので、キアロスタミの「ともだちのうちはどこ?」を思い出してしまう。ちょっとそのあたり新しさにかけたかもしれないが、イラン映画らしい心温まる作品に仕上がっている。

 すべてがすごくオーソドックスに撮られ、物語も一定のペースで進んで行く。簡単に言ってしまえば、よいこの少年が一生懸命がんばるという話。しかし、そこには貧富の差があり、思うようには行かない。けれど、強く生きて、がんばれば何とかなるよ、という少々説教くさい話。映画としてはなんとなく子供向けなのかな、という気もしました。
 イラン映画といえば、アッバス・キアロスタミ、そして少年ものという呪縛からやはり逃れられないのだろうか?
 イラン映画に少年ものが多い理由は、映画に対する制限の問題であるらしい。簡単に言えば検閲。政治に対して批判的な映画などは検閲ではねられてしまうというし相当性が存在している。しかし、その制限の中でも、イラン人がめれば「ははん」とほくそえんでしまうような風刺がこめられていることも多いらしい。その辺りは日本人の我々には感じることができないことなのだけれど、「制限」というのは映画にとっては必ずしもマイナスばかりではなく、プラスの面も持っているのだということを実感した。映画というものには常に制限が付きまとうもので、技術的な限界や予算という問題はどこで映画を撮っても避けられない問題なのだ。その「制限」の中でとることが映画をとる楽しみだという監督もいた。

M/OTHER

1999年,日本,147分
監督:諏訪敦彦
撮影:猪本雅三
音楽:鈴木治行
ストーリー:諏訪敦彦、三浦友和、渡辺真起子
出演:三浦友和、渡辺真紀子、高橋隆大、梶原阿貴

 一緒に暮らす男と女、男・哲郎(三浦友和)は離婚経験があり、子供が一人いる40代のレストラン経験者、女・アキ(渡辺真紀子)は(おそらく)20代でデザイン会社に勤めるOL。ある日、男は女と暮らす家に息子・俊介(高橋隆大)を連れてきた。哲郎の元妻が交通事故で入院し、1ヶ月くらい一緒に暮らすつもりで連れてきたらしいのだが…
 自由な関係であったはずの男女が、一方の子供という要因が加わることによってその関係が変化して行くさまを描いて行く。ほとんど脚本がなかったという映画のストーリはー出演者たちによって組み立てられていった。 何よりも映像に力強さがあり、まさに「ジョン・カサベテスを髣髴させる」という評価がしっくりとくる力作。

 この映画、まず冒頭の5分くらいのパン移動だけの長まわしに度肝を抜かれるが、人物がフレームからいなくなったり、人物がいないところで声だけがかすかに聞こえたり、奥のほうが暗かったりという映像が「ああ、ジョン・カサベテス」という印象を生む。そして終始この「ああ、カサベテス」という印象は続く。暗い画面、カットをつなぐときの長い空白、一方しか映さない会話のシーン、アドリブとしか思えないセリフ運び、などなど。
 個人的には暗い画面の映画というのは嫌いなんですが、この映画に限ってはまったく苦にならなかった。それだけ、画面の構成に力がある。フレームに区切られた構図(しかもそれはしばしば固定されたまま長時間続く)の不安定さが抽象画を見ているようなスリルを与えてくれる。安定してはいないのだけれど、調和の取れているという危うい美しさ。これは大部分は偶然の産物ではなくて、計算されたものだと思う。特にライト(撮影用のではなく、物として置かれているライト)の配置に工夫が凝らされていて、画面の構成が面白くなるようにライトの配置が常にされている。
 ストーリー的には、登場人物があまりに自己中心的で、あまりにストイック過ぎるのが気になったが、このように描かれてしまう男女関係というのも確かにあるなという感じはする。結局、二人の間で言葉によって何かが話し合われることもなく、二人の関係は変化していってしまう。そのあたりは「なるほどね」という感じでした。

黒猫・白猫

Crna macka, beli macor
1998年,フランス=ドイツ=ユーゴスラヴィア,130分
監督:エミール・クストリッツァ
脚本:ゴルダン・ミヒッチ
撮影:ティエリー・アルボガスト
音楽:スヴェトリク・ミカザイッチ
出演:バライム・セヴェルジャン、スルジャン・トドロヴィッチ、ブランカ・カティチ、フロリアン・アイディーニ

 ユーゴスラビアの川沿いのぼろ屋に父と住む若者ザーレと近くの喫茶店(?)で働くイダのラブストーリーと、ザーレの父親や祖父とマフィアとの人情と友情の物語が絡み合う、不思議な雰囲気のコメディ映画。
 クストリッツァならではのごちゃごちゃとした映像から滲み出す「味」がたまらない。すべての登場人物が独特の「味」を持っていてすばらしい。
 エミール・クストリッツァの映画を見たことがない方!これは想像もつかない世界観です。どんなにプレビューを書いても、知らない人にこの世界を伝えることは不可能。ぜひご覧あれ。 

 クストリッツァというと、「アリゾナ・ドリーム」とか「アンダーグラウンド」とかなんとも不思議な映像美、というか、決して美ではないけれど、それを美しく見せてしまう力わざと言うか、そんな不思議な映像にいつもひきつけられてしまう。めまぐるしいカメラの動きと見たこともない風景。それがなぜか心にすとんと入ってくるのが不思議。
 ゴット・ファーザーのじいさんが乗ってる車(?)とか、やせデブの兄弟とか、車を食べる豚とか、映画の隅々、画面の隅々まで行き届いている視覚的な工夫が、クストリッツァの最大の魅力なのではないでしょうか?
 アンダーグラウンドは、政治的な側面ばかりが強調されてしまったけれど、本当にクストリッツァが描きたかったのは、こっちの「黒猫 白猫」のような煩雑とした映像の中から滲み出す、ユーゴスラヴィアのあるいはヨーロッパとアジアの境のイメージ、漠然とした表象なのではないだろうか、コメディを見ながらも真面目なことを考えさせられてしまう映画でした。
 あるいは、コメディというべきではないのか…、イや、クストリッツァはこれをコメディといいたいと私は思います。 

シュリ

Swiri
1999年,韓国,124分
監督:カン・ジェギ
脚本:カン・ジェギ
撮影:キム・ソンボク
音楽:イ・ドンジュン
出演:ハン・ソッキュ、キム・ユンジン、チェ・ミンシク、ソン・ガンホ

 北朝鮮の諜報員養成所、一人の女性が過激な訓練を終え任務についた。女の名はイ・バンヒ。「南」に潜入した彼女は数々の暗殺と爆破事件に関与した。そのイ・バンヒを追う南の二人の諜報部員、ユ・ジョンウォンとパク・ムーヨン。情報提供を申し出た武器密売人に二人が会いに行くと、二人の目の前で密売人が狙撃され、殺された。 ハリウッド顔負けのアクション大作。南北の対立という深刻な問題を扱っているのかと思えばそういうわけでもなく、ひたすらアクション。しかしアクションシーンは迫力あり。 

 見る前の情報で、韓国映画で「北朝鮮のスパイが出てきて」とか、「済州島が出てくる」とか予備知識があったため、完全に単純なアクション映画で驚き。しかし正解。社会派映画にしてしまったら楽しめなくなってしまうと思う。
 筋も単純、からくりも簡単に気づく。ラストの爆破を止めるところも少々作り物っぽい。しかし、アクション(というか、爆破とか)は大迫力だし、惜しげもなくガンガン打ちまくるのも楽しい。一番すきなのは、CTX爆弾。そのヴィジュアルがすき。透明の液体の中のオレンジ色の玉。
 これは余談ですが、この映画深読みするするなら、ひとつ、二人組のイ・バンヒの恋人じゃないほう(名前忘れてしまった)は絶対に相棒のことが好き。ホモセクシュアル的に。3人で食事をしているシーンなんかはいじらしい。そして、好きだからこそ、相手の恋人が疑わしいことに最初に気づく。深読みすぎか…?でもそんな気がするな。皆さんはそんなことは思いませんでしたか? 

永遠と一日

Mia Eoritita Ke Mia Mera
1998年,ギリシャ=フランス=イタリア,134分
監督:テオ・アンゲロプロス
脚本:テオ・アンゲロプロス
撮影:ジョルゴス・アルヴァニティス、アンドレアス・シナノス
音楽:エレーニ・カラインドロウ
出演:ブルーノ・ガンツ、イザベル・ノー、アキレアス・スケヴィス、デスピナ・ベベデリ、イリス・ハチャントニオ

 余命幾許もない小説家のアレクサンドル(ブルーノ・ガンツ)は旅にでようと決意するが、犬を預けようと立ち寄った娘の家で娘の夫から、思い出の家を売り払ったことを聞かされ、犬を預けるのも断られる。そんな時、車の窓拭きをして暮らすホームレスの少年に出会う。
 人間の孤独感と疎外感をゆったりとした映像で描いたアンゲロプロスの力作。アンゲロプロスらしい幻想的な映像展開はさすが。アンゲロプロスというのは鋭い映像感覚と独特な世界観を持った作家なのだと改めて感じさせられた一作。 

 物語からいえば、孤独あるいは疎外ということに貫かれた物語。子供のころの映像や若い頃の映像は明るく活気に満ちており、現在の映像がいつもくもり空で薄暗いということを考えると、孤独感というのは現在に至って(つまり妻が死んで)生まれてきたように見えるけれど、物語を見てゆけば、実際は孤独を楽しめたかどうかという問題でしかないということに気がつかされる。若い頃、決して孤独に気づかず、孤独を苦にせずむしろ楽しんでいたために逆に妻を苦しめていたことを、現在、自分自身が孤独を怖れるようになって知ったアレクサンドル。それに対して、すでに孤独であることに気づき、またそれを怖れてもいる少年。二人は互いに孤独を癒されることはないことを知りながら互いに寄り添ってすごす。そこに物語が生まれるのだ。そして「詩人」の存在。バスの「幻影」(二人が同時に見ているように見える現実ではない風景。それはいったい何を意味しているのか?)
 映画という視点から言えば、この映画はとにかくワンカットが長い。ゆっくりとカメラが移動しながら、カットを切ることなく、違う場面をつないでゆく。特に川べりで詩人の話をするところには度肝を抜かれた。時代が異なる二つの場面を川面をゆっくりとパンすることでつないでしまう。あー、かっこいい。そして去ってゆく馬車をゆっくりと追いかける。ゆっくりと、決して近づかず、遠ざからないスピードで。
 どこかで映画から抜け出そうとしている姿勢を感じさせるアンゲロプロスは案外ヴェンダースと似ているのかもしれない。ヴェンダース作品でなじみのブルーノ・ガンツが主人公なせいでそう思ったのかもしれないが。 

ローラとビリー・ザ・キッド

Lola + Bilidikid
1998年,ドイツ,90分
監督:クトラグ・アタマン
脚本:クトラグ・アタマン
撮影:クリス・スキレス
音楽:アルパッド・ボンディ
出演:ガンディ・ムクリ、バキ・ダヴラク、エルダル・イルディス、インゲ・ケレール

 ベルリンに住むゲイのトルコ人少年ムラートは、家父長であり高圧的に振舞う兄とその兄に従順な母との暮らしに息苦しさを感じていた。そんなある日、彼はゲイであることを理由に勘当されたもう一人の兄がいることを知る。物語はムラートと兄のローラ、その恋人ビリーを中心に展開してゆくが、長兄のオスマン、ローラの仲間たち、ドイツ人のゲイの中年男などが登場し物語に深みを与える。
 ドイツにおけるトルコ人の立場、ゲイの立場というものをひとつの事件を舞台として展開させてゆく監督の手腕はなかなか。登場人物一人一人に個性、内面がうまく描かれていたと思う。 

 この映画でまず目に付くのは、ドイツ人のホモフォビア(同性愛者嫌悪)とトルコ人に対する民族差別である。二重に(あるいは三重に)虐げられる存在としてのローラ。彼女(彼)が殺される。しかし彼女=彼が殺される理由はいくらでもあるのだ。ホモ嫌いのドイツ人、トルコ人嫌いのドイツ人、ホモ嫌いのトルコ人、などなど。
 このことがはらんでいるのは、トルコ人という被植民者の「女性化」(ここでは「ゲイ化」)である。ドイツ人=植民者=マチョ=家父長/トルコ人=被植民者=女性的=ゲイというちょっとひねったコロニアリズムが垣間見える。これによってトルコ人のゲイの不遇を描くというのならそれでいい。しかし、この作品が素晴らしいのは、そのように描かなかったこと。より複雑な要素としての家族や様々な愛情をそこに織り込んでいったこと。オスマンにローラを殺された衝動はなんだったのか?それは、オスマンとビリーに共通する要素、ドイツでトルコ人としていきながら、ゲイでありかつマチョとして生きようとすること、その矛盾がオスマンを殺人にまで駆り立てた。社会の歪みを引き受けた存在としてのオスマンとビリーを描くことで、ドイツ社会の抱える矛盾を明らかにしたといえるのではないだろうか?

マーキュリー・ライジング

Mercury Rising
1998年,アメリカ,112分
監督:ハロルド・ベッカー
原作:ライン・ダグラス・ピアソン
脚本:ローレンス・コナー、マーク・ローゼンタール
撮影:マイケル・セレシン
音楽:ジョン・バリー
出演:ブルース・ウィリス、アレック・ボールドウィン、ミコ・ヒューズ、チー・マクブライド、キム・ディケンズ

 9歳の自閉症の少年が政府の情報局の暗号を解読してしまった。少年は命を狙われ、陰謀に気づいてしまったジェフリーズ捜査官(ブルース・ウィリス)は少年を守ろうと孤軍奮闘する。
 自閉症の少年が特殊能力を持っていてそれのせいで命を狙われるというのは、「シックス・センス」を少し思い出させる。この映画は要するに「ダイ・ハード」。ブルース・ウィリスが戦っていればそれでいい。

 ちょっと、この映画はひどいね。設定も無理があるし(とりあえず、パズル雑誌に国家機密の暗号を載せたりしない)、サイモンに解読できたんだから、ほかにも解読できる人がいるはずだし、それならサイモンを殺すより、暗号を作り直したほうが安全。
 殺し屋がしょぼすぎる。あんな素人みたいな失敗ばかり繰り返す殺し屋(しかも一人)じゃうまくいくもんもうまくいかない。むだな人ばかり殺してる。
 おかしいところを上げていけばきりがないですが、ハリウッド映画なんてこんなもの、という感じがします。ちゃんと作ってある映画も多いけれど、ぽんとブルース・ウィリス出して、なんかちょっとひねったシナリオつくっときゃいいかなっていう安易な作品も多い。