エリン・ブロコビッチ

Erin Brockovich
2000年,アメリカ,131分
監督:スティーヴン・ソダーバーグ
脚本:スザンナ・グラント
撮影:エド・ラッハマン
音楽:トーマス・ニューマン
出演:ジュリア・ロバーツ、アルバート・フィニー、アーロン・エッカート、マージ・ヘルゲンバーガー

 3人の子どもを抱え、仕事を探すエリンはまたも仕事に断られて変える途中、交通事故に遭うが、裁判で負けて賠償金も貰えない。そんな彼女は裁判に負けた弁護士の事務所に押しかけ、無理やり仕事を貰う。その事務所で見つけた不動産書類に疑問を覚えたエリンは独自に調査をはじめ、その裏にある水質汚染の実態を知った。
 史上最高額の賠償金を勝ち取った実在の女性エリン・ブロコビッチを描いたヒューマンドラマ。なんといってもジュリア・ロバーツがはまり役。ソダーバーグの演出もうまい。本物のエリン・ブロコビッチもエリンの家の近所のファミレスのウェイトレス役で出演。

 やっぱりソダーバーグは画面の構成の仕方がかっこいい。最初のエピソードのあと入るタイトル・クレジットも相当かっこいいが、そのイメージを引きずっていると突然交通事故、車2回転みたいな展開もすごくうまい。この人は無駄がないね。2時間を越える映画は多いけれど、その大部分は無駄に時間を引き延ばしているだけ。それと比べるとソダーバーグの時間には無駄がない。「削れば30分短くなるよ」という不満がない。この映画でも、観客は「訴訟に勝つ」という結果をおそらく知っているということを前提に映画が作られているから、いちいち裁判の細かい結果で気を持たせたりはしない。やっぱりソダーバーグはいい監督だ。
 細かい部分のつなぎ方もいい。例えば、エリンがどこかの家をたずねるシーンで、1カット目、ドアに近づくエリンを後ろから撮り、前方にドア。2、3歩あるいて、ドアに着く前にカット、画面が暗くなってノックの音、ちょっと間があってドアが開いて向こう側にエリン。言葉で説明すると何の変哲もないつなぎですが、この流れがすごく滑らか。普通は、ドアまで行ってノックでカット、家の中の人を映してパンでドアまで追ってカット、ドアを正面から撮ってやっと開くという感じ。そういう細かいところも繊細です。おまけにいうと、最後のキャプションというか、事実の部分を述べるところの構成もかっこいいです。
 でも名作ではないですね。1年のスパンで見ると、見るべき映画の一本ということになりますが、名作ではない。頑張れソダーバーグ!
 お話の部分が漏れてしまいました。基本的にはエリン/ジュリア・ロバーツのキャラクター勝ちです。下品で無学で派手な元ミスといういかにも女性に反感を買いそうなキャラクターなのに、非常に母性愛が強くて、正義感も強いという、キャラクター設定(設定ではないのかな?)がすべて。あとはボスのエドさんの気弱そうなところもよし。つまり、ストーリー展開うんぬんよりもキャラで押す。そんなお話だったと思います。

オーロラの彼方へ

Frequency
2000年,アメリカ,117分
監督:グレゴリー・ホブリット
脚本:トビー・エメリッヒ
撮影:アラー・キヴィロ
音楽:マイケル・ケイメン
出演:デニス・クエイド、ジム・カヴィーゼル、ショーン・ドイル、エリザベス・ミッチェル

 1969年、ニューヨークには80年ぶりに見事なオーロラが出現した。その日消防士のフランクはタンクローリーが横転するという事故に遭遇し、間一髪で閉じ込められた人々を救っていた。30年後、ニューヨークには再びオーロラが出現した。警察官となったフランクの息子ジムは偶然見つけた父が愛用した無線機をつけてみた。そこから聞こえてきたのは、30年前に死んだはずの父の声だった…
 親子の変わらぬ関係を描いた感動作。かと思いきや、その交信がもとで起きてしまう様々な事件が物語りの確信となっていく…
 感動作かと思っていくと拍子抜け。でも、意外と面白いですよ、これ。

 やっぱり問題は邦題かな。ある意味ではいい題名なんだけれど、本来の客層を逃してしまったかもしれない。最初のタンクローリーのシーンを見れば、これが感動狙いのヒューマンドラマではないことは一目瞭然なんだけどね。
 そんなことは置いておいて、30年の時を隔てた親子の交信というなんとなく心温まりそうな話も冷静に考えてみれば、「バック・トゥー・ザ・フューチャー」を出すでもなく、未来(つまり現在)を変えてしまう危険性を孕んでいることは明らか。「ナイチンゲール事件」もしっかりと69年の時点で複線として出てきていたし。そのあたりの映画の雰囲気の転換がこの映画のすべてといっても過言ではない。あとは映画としてはそれほどすごいものではないし、今までの映画でどこかで見たことがあるようなシーンの連続という感じ。
 だからといってパクリと言う気はありません。しっかりとした映画として作られているし、全体はうまくまとまっているし、火事のシーンには相当迫力がある。ただ目新しさがないというだけ。

ダンサー・イン・ザ・ダーク

Dancer in the Dark
2000年,デンマーク,140分
監督:ラース・フォン・トリアー
脚本:ラース・フォン・トリアー
撮影:ロビー・ミューラー
音楽:ビョーク
出演:ビョーク、カトリーヌ・ドヌーヴ、デヴィッド・モース、ピーター・ストーメア

 60 年代のマメリカの田舎町、チェコから移住してきたセルマは工場で働きながらひとりで息子を育てていた。つらい中でも、大好きなミュージカルをすることさえできる充実した生活を送っていた。しかし実は彼女は遺伝的な病気で失明しつつあり、息子のジーンもまたその運命になるのだ。セルマは息子に手術を受けさせるために必死で働いていたのだった。しかし…
 カンヌの常連、デンマークの名監督ラース・フォン・トリアーがビョークを主演に迎えて撮ったミュージカル映画。とはいっても、今までのミュージカルの概念を突き崩すという意味で革命的な名作。『奇跡の海』に続いてカメラを担当したロビー・ミューラーの映像もさすがに素晴らしい。

 いきなり3分30秒の黒い画面から始まる映画。もちろん暗い映画館で黒い画面を眺めさせることは盲目の疑似体験だろう。この映画の主人公が視力を失いつつあるという予備知識をもって映画館に入れば、その事実は容易に受け入れられる。しかし、そんな予備知識は追いやって画面に見入るほうがいい。そこでは自分の位置間隔が失われたような感覚に襲われるはずだから。
 そして、映像は手持ちカメラのドキュメンタリー風映像に切り替わる。執拗なクロース・アップと手持ちカメラの移動撮影。短いピントが用いられるときにはそれはセルマの視野を象徴しているのだろう。しかし、執拗な手持ちの映像。さすがのロビー・ミューラーの映像でも飽きが来はじめた頃、カメラが止まる。工場で最初のミュージカルシーンが始まり、フィックスのカメラの短カット(そんな言葉はありませんが)の映像に切り替わる。その変化の激しさを色合いの変化がさらに強調する。
 私はこの瞬間にこの映画に捕えられてしまいました。そこから先はリズムに乗って、手持ちと固定が繰り返される。そこから先はカメラは意識から遠のいて、映画のないようにすっと入り込めた。
 もちろん、周到に計算された設定がこの映画を成功に導いている。観客は他のよりよい方法をそれこそ必死で探そうとするけれど、セルマの選ぶ道に同意せざるを得ないことに気がつく。そのストーリーテリングの巧妙さも注目に値する。 しかし、結局のところこの映画はカメラとビョークに主役の座を譲る。つまり映像と音に。
 しかし、あえて難をいうとするならその映像かな。中盤あたりはもっといじってもよかったかなという気もします。具体的にいうと、セルマが視力を失ったということを実感できるような映像的工夫がひとつ欲しかった。焦点の短さがセルマの視野狭窄を象徴しているならば、セルマが視力を失ったということを象徴するようなシーンが、あってもよかったなという感じです。
 でも、ラストのクライマックスはすごくよかった。最後のシーンは現実とミュージカル(あくまで便宜的区別ですが)を融合させるシーンであるわけだから。色合いは現実でカメラはフィックス(つまりミュージカル)。よいです、非常に。

はつ恋

2000年,日本,115分
監督:篠原哲雄
脚本:長澤雅彦
撮影:藤澤順一
音楽:久石譲
出演:田中麗奈、原田美枝子、真田広之、平田満、佐藤充

 予備校に通う聡夏(サトカ)は突然母が入院することを知らされる。一時退院したとき、母が戸棚の奥から取り出したオルゴール。鍵がなくなってあかなくなってしまったそのオルゴールを残し再入院した母。サトカはそのオルゴールをこじ開けた。その中には母がそのむかし藤木真一路という人に出せなかったラブレターが入っていた。サトカはその人を探しに母の郷里へ向かった。
 田中麗奈が主演、篠原哲雄が監督と話題性は十分のハートウォーミング・ストーリー。ゆったりと、しかし退屈せずに見られる佳作です。

 特に苦言を呈するべきこともございませんが、ちょっと細部がずさんかなと。ペースはゆったりとしていて、日本映画らしい日本映画なんですが、小津のような(小津までやれといっているわけではありませんが)繊細さが足りない。例えば25年前の手紙があんなにきれいなはずないとか、そういうことです。要するに「汚し」が足りないということです。
 しかし、それはこういったゆっくりとした「見せる」映画にはつき物のことです。アクション映画とか勢いで見せる映画は1カットも短いし、そんな細部に目をやる暇はないけれど、この映画のように長回しを使ったりすると、そんな細部がどうしても目に入ってきてしまう。だから小津のように、徹底的に「汚さ」ないといけないわけです。
 そういう細部を置いておけばこの映画かなりいい。はっとさせられる美しいショットがあったり(桜とか、田中麗奈が雨の中走っていくとことか)、なるほどと思わせるエピソードがあったり(ダムに沈んでることや、友達を母の身代わりにすることとか)、カメラの使い方にも工夫があったり(真田広之が病院に行くところが主観ショットになっているとか)、うまい作りです。

張り込み

2000年,日本,79分
監督:篠原哲雄
原作:華倫変
脚本:豊島圭介
撮影:上野彰吾
音楽:村山達哉
出演:若林しほ、小市慢太郎、堺雅人

 買い物をして団地に帰ってきた主婦スミレは人だかりと警察の姿を見つける。覗き込むとそこには布をかけられたルーズソックスの死体。その団地では自殺が相次いでいた。部屋に戻ったスミレのところに刑事と名乗る男が来る。男は向かいの部屋に爆弾犯人が潜伏していると言い、ここに張り込んでいいかときく。しぶしぶ中へと入れたスミレだったが、男の態度は張り込みをしているようにはとても見えなかった。いったい男は何者?そして目的は?
 ほのぼのとしたイメージのある篠原監督のサイコ・サスペンス。白黒を主体にした映像は恐怖感をあおるには最適なのかもしれない。

 現在が白黒で回想がカラーという普通とは逆の描き方のこの映画。確かに白黒画面のほうが不思議な怖さがある。あるいは、白黒というのは赤外線スコープの色なのだろうか。密室で起きるサスペンス劇を見つめるわれわれはどこから見ているのか?
 まあ、そんなことはいいんですが、この映画はなかなか怖いです。しかも徐々に徐々に怖くなっていく。最初からは予想もしない展開だけれど、振り返ってみると、最初部屋に戻ったスミレがなぜビールを飲み、何か物思いにふけるように座っていたのかという謎(といっても、最初見たときにはそんなあまり気にならない)も解けてくる。投身自殺という出来事が過去の出来事を想起させたということ。そのあたりの構成が巧妙である。だから恐怖をあおるあおり方も巧妙で、吉岡をあくまで不気味な男として描く。何かされているわけではないのに、何かされると決まったわけではないのに、しかし何も出来ない恐怖。ある意味ではカフカ的な抜け出せない迷宮に押し込まれてしまったような恐怖感。そしてそれは決して終わることがない。出口のない迷路に終わりはないということ。
 しかし、この映画で一番気になるのは吉岡役の小市慢太郎。笑ったり、無表情になったり、その表現力がすごい。何でもこの人は京都の劇団MOPの役者さんで演劇界ではかなり有名な人らしい。演劇の人が必ずしも映画で成功するわけではないけれど、この役者さんはいいかもしれない。

趣味の問題

Une Affaire de Gout
2000年,フランス,90分
監督:ベルナール・ラップ
原作:フィリップ・バラン
脚本:ベルナール・ラップ
撮影:ジェラール・ド・バティスタ
音楽:ジャン=ピエール・グード
出演:ジャン=ピエール・ロリ、ベルナール・ジロー、フロランス・トマサン、シャルル・ベルリング

 レストランでウェイターのアルバイトをしていたニコラはそこの常連客で実業家のフレデリックに声をかけられ、料理の味見をし、仕事を紹介するといって名刺を貰う。後日ニコラはフレデリックに呼ばれ、彼の味見係として雇われた。
 映画はそのエピソードと、いまは刑務所に入っているらしいニコラと周囲の人々に対する弁護士の質問で構成される。
 ある種のサスペンスではあるが、実業家と味見係という馴染みのないモチーフだけに難しいが、逆に不思議なスリルもある。

 結局何なんだ…
 ニコラの人格が刻一刻と換わっていくのはわかるし、それが不自然ではない形で示されているので、すんなりと物語自体には入っていけるのだけれど、結局なにがどうなっているのかわからない。ただ単にフレデリックがそもそも狂っていただけなのか、ただのサディストなのか… ただなんとなく怖い感じ。しかし、その怖い感じはわれわれの視点はニコラの友達の側にある場合に起きるわけで、ニコラやフレデリックの立場に立つと怖さはなくなってしまう。フレデリックはわけがわからないので、入り込めず、ニコラに入り込むのも難しく、結局中途半端な位置で映画と対峙しなければならなくなってしまう。そのあたりがこの映画のなじみにくいところなのでしょう。
 そう、なんだか釈然としない作品。ニコラがフレデリックを殺したという結末は映画半ばくらいで予想出来てしまうわけだし… いまひとつ釈然としないわけです。

ヤンヤン 夏の想い出

a one & a two
2000年,台湾=日本,173分
監督:エドワード・ヤン
脚本:エドワード・ヤン
撮影:ヤン・ウェイハン
音楽:ベン・カイリー
出演:ウー・ニエンジェン、エレン・ジン、イッセー尾形、ケリー・リー、ジョナサン・チャン

 今日はヤンヤンの叔父さんの結婚式。しかし、小学生のヤンヤンはいつものように女の子にいじめられ、結婚式の前には叔父さんの元恋人が殴りこんできたりと大変。そんな中ようやく結婚式を終えて帰ってみると、具合が悪いといって一人家に帰ったおばあさんが病院に運ばれたと近所に人に言われる。
 エドワード・ヤンらしい群像劇だが、台湾の裕福な一家族のそれぞれが抱える問題をクロスオーバーさせながらじっくりと味わい深く描いた非常に丁寧さが感じられる作品。
 出てくる役者たちがみんないい。日本人プログラマーを演じるイッセー尾形もかなりいい。

 本当に丁寧な仕事をする。役者の選定も相当大変だったらしいが、それが感じられるいい配役。ヤンヤンはすごくいい表情を持った子供だし、なんといってもお父さんのNJは素晴らしい。なんだかすごく普通で、しかしうまい。
 フレーミングも非常に丁寧で、これ、と決めたフレームでカメラを固定してしっかりと撮る。同じフレームがくりかえしでてくるから、説明がなくても徐々にそれに馴れていく。映った瞬間にどの場所かわかるようになってくるし、オフフレームの部分との位置関係もわかりやすい。居間で窓に向かっているときに左側から声が聞こえたら… とかね。そしてもちろんそのフレームの一つ一つは周到に計算されていて、鏡の置き方とか、壁に貼ってある写真とか、微妙なアンバランス加減がとてもいい。印象的だったのは母親のミンミンが泣いている場面で、ミンミンは画面の右半分を占めていて、背後に鏡があり、聞き手のNJは位置的にはカメラの右隣にいて映っていない。それでその鏡の左端にヤンヤンとティンティンの写真が貼ってある。それは何てことない画なんだけれど、その人物と空間のバランスがすごくいい。同じようなバランスがあったのは、台北のカラオケやでNJが一人カウンターに座って舞台側(カメラ側)を向いている場面。NJは画面の右半分にいて、左側にはカウンターにポツリとイッセー尾形が飲んでいたグラスが置いてある、その間には山盛りのピスタチオ。そんなバランス。
 全体的にはエドワード・ヤンもすっかり落ち着いたという感じですが、バランスがよくて、繰り返しになりますが丁寧な映画。これまでの作品の流れから言って落ち着くところに落ち着いたというか、完成された反面、驚きは減ってしまったというか、微妙なところですね。でも、やはりいろいろなプロットを重ねていくストーリーテリングと画面へのこだわりはさすがだなという作品でしたね。

ペイ・フォワード 可能の王国

Pay it forward
2000年,アメリカ,123分
監督:ミミ・レダー
原作:キャサリン・ライアン・ハイド
脚本:レスリー・ディクソン
撮影:オリヴァー・ステイプルトン
音楽:トーマス・ニューマン
出演:ヘイリー・ジョエル・オズメント、ケヴィン・スペイシー、ヘレン・ハント、ジェイ・モーア、ジョン・ボン・ジョヴィ

 中学1年の新学期、顔中にやけどの傷跡を持った社会科教師シモネットは生徒たちに「世界を変える」ことを課題にするように言う。生徒の一人トレヴァーは母と二人暮しだが、母は昼はカジノで夜はナイトクラブで働いてなかなか話も出来ない。そして彼は母がアルコール依存症から抜けきれないことを心配していた。
 そんなトレヴァーがシモネット先生の最初の授業の後、ホームレスを一人家に招いたのだが、彼はいったい何をしようというのか…
 「ピース・メーカー」「ディープ・インパクト」などを監督したミミ・レダーが挑むヒューマンドラマ。中心となる三人の役者がなかなかよく、わかっていても感動してしまう有無を言わせぬ感動作。

 本当に力ずくでも感動させてやろうという作品。なんか見え透いていていやなんだけど、感動しないわけには行かないという感じ。最後主人公の少年が… というのはちょっと予想してなくて、それに驚いている隙をついて感動させるという感じ。
 そんなひねくれたことを言いながら、全体としてはうまくまとまっていた気がする。ラス・ヴェガスという場所もよくて、「ヴェガスってこんなに田舎なんだ」と思ったが、その田舎具合が映画にはとても効果的。映像的にもきれいなコントラストが描けている。難点といえば、ちょっと中盤ストーリーの進行が停滞したという感じかな。といっても、わずかなものですが。もう10分くらい切れるかなという気はしました。記者の人がトレヴァーを轢きそうになるところとかね。物語に関係あるのかと思ったら全然なかった。あるいは逆にもう少しエピソードを詰め込んで長くしてみるとか。
 ということで、「また見たい」とはそれほど思わないけれど、人には薦められる作品かと思われます。

ISOLA 多重人格少女

2000年,日本,94分
監督:水谷俊之
原作:貴志祐介
脚本:水谷俊之、木下麦太
撮影:栗山修司
音楽:デヴィッド・マシューズ
出演:木村佳乃、黒澤優、石黒賢、手塚理美、渡辺真紀子

 震災直後の神戸、人の心を読める「エンパス」である由香里は心のケアのボランティアをするために東京から神戸にやってきた。彼女はそこで、12の人格を持つ少女千尋に出会う。そして、彼女には震災後もう一人「ISOLA」という人格が加わっていたが、その人格は他の12の人格とは明らかに異なっていた。
 『黒い家』などで知られる貴志祐介の原作の映画化。黒澤明の孫娘黒澤優が映画初出演で千尋を演じる。原作はかなり怖いホラーだが、映画のほうはホラーではあるもののそれほど怖くはない。

 原作を読んでいてしまったので、怖さはほとんど感じず、長い小説をこなしきれていないという印象が残った。原作では「ISOLA」という名前の意味が終盤まで謎として怖さをあおるのに、映画ではいとも簡単にその名前の意味が明らかになってしまうのに拍子抜け。
 しかし、原作は読んでいないつもりで、この映画について考えると、出来はそんなに悪くないかもしれない。木村吉乃と黒沢優がいい。石黒賢はどうもいけない。CGなどの特殊効果が安っぽくてTVドラマ並。原作を読んでないつもりになっても、時間に対して内容が盛りだくさん過ぎたかなという印象は否めない。
 震災、多重人格、性的虐待、エンパスなどの要素を映画の中で生かしきれていない気がした。

プラットホーム

站台
Platform
2000年,香港=日本=フランス,194分
監督:ジャ・ジャンクー(賈樟柯)
脚本:ジャ・ジャンクー(賈樟柯)
撮影:ユー・リクウァイ(余力為)
音楽:半野善弘
出演:ワン・ホンウェイ(王宏偉)、チャオ・タオ(趙濤)、リャン・チントン(梁景東)、ヤン・ティェンイー(楊天乙)

 1979年、山東省の小さな町フェンヤン、そこの文化劇団に所属する人々を4人の若者を中心に描いてゆく。70年代、文化大革命の影響で盛んだった文化活動も80年代には陰りを見せ、文化劇団の立場も不安定になってゆく。そんな80年代の中国の移り変わりとそこで暮らす人々の変化をじっくりと描いた秀作。
 3時間以上の長尺だけに、映画全体のペースに余裕があり、物語もじっくりと進んでいく。しかし、決して単調になることなく、物語、音楽、撮り方などで変化をつけ、それほど苦痛ではなく見終わることが出来た。

 最初の数シーン、固定カメラの長回しが連続する。舞台のシーン、バスのシーン、家でのシーン、それぞれヒトの動きがあり、セリフも多く、これをしっかりこなすのは相当大変だったろうと苦労が忍ばれるが、その苦労の甲斐はあって、冒頭から(そういうマニアックな意味で)引き込まれていく。  そこからいろいろな登場人物が出てきて、人物関係が明らかになってゆく展開はオーソドックスだが、なかなかまとまっていて、今度は物語へと人を引き込んでいく。
 そこから先様々な工夫が凝らされていて、かなりすごい。まず、カメラについて言えば、いつのまにかカメラは平気でパン移動をするようになっていて、それが非常に自然。そして最後の最後には手持ちカメラでの移動撮影までが使われる。この辺の画面の変化もなかなか巧妙。それから、時間の経過の表し方。ミンリャンがロックバンドになっていて、チャンチェンの髪の毛がすっかり伸びているところはかなり笑ったが、もうひとつ重要なのは、どこから流れているかわからない、犯罪者のアナウンス。最初は江青で、この人は毛沢東の第3夫人で文化大革命期には4人組と呼ばれる指導者の一人として暗躍、しかし1977年に党を追放され、81年に死刑判決を受けたというひと。なので、このアナウンスがされる時期はおそらく70年代末。次にアナウンスが出てくるのはだいぶ後、名前は覚えていませんが天安門事件の指導者が二人。名前がわからなくても時期的なものと、フランス語が堪能などの特徴を加味すれば大体判るという感じになっている。天安門事件は89年なので、それで大体の時期がわかる。
 江青については詳しいことは今調べてわかったんですが、映画を見るにも一般常識って必要なのね、と実感してしまった次第です。