私が女になった日

Roozi Khe Zan Shodam
2000年,イラン,78分
監督:マルジエ・メシキニ
脚本:モフセン・マフマルバフ、マルジエ・メシキニ
撮影:モハマド・アフマディ、エブラヒム・ガフォリ
音楽:アフマド・レザ・ダルヴィシ
出演:ファテメフ・チェラグ・アフール、シャブナム・トロウイ、アジゼ・セディギ

 9歳の誕生日を迎えた少女ハブア。彼女は友達のハッサンと遊びたいが、9歳になったらもう男の子とは遊べない。彼女はおばあちゃんに頼んで、生まれた時間の正午までハッサンと遊ぶことを許してもらう。
 このハブアの物語に加え、自転車レースに参加する人妻アフー、ひたすら買い物をする老女フーアを主人公にした3本のオムニバス。これまで描かれることの少なかったイランの女性を描いたメシキニの監督デビュー作。
 マルジエ・メシキニはモフセン・マフマルバフの二人目の妻で、死別した一人目の妻の妹。したがって、サミラの叔母にあたる。モフセンが娘のために作った施設の映画学校でサミラとともに映画作りを学んだマルジエにとって一種の卒業制作的作品。ベネチア映画祭に出品され高い評価をえた。

 ペルシャ湾に浮かぶキシュ島は、一種の自由市で、イランの各地から観光客がおとずれる。そのキシュ等の美しい自然を背景に、素直に映画を作ったという感じ。サミラと比べると、やはり静かな大人の映画を撮るという印象だ。そして、女性というものに対する洞察が深い。
 この映画は要するに、女性の一生を描いたもの。3つの世代を描くことで、女性たちがたどってきた歴史を表現したもの。それはすっかり映画が語っています。少女の時点で社会による束縛を味わい、成長し自立したと思ったら家族という束縛に縛られ、ようやく自由になった老年にはその自由の使い道がない。要約してしまえばそういうこと。
 こう簡単に要約出来てしまうところがこの映画の欠点といえば欠点でしょうか。しかし、メッセージをストレートに伝えるということも時には重要なことですから、必ずしも欠点とはいえないでしょう。
 この映画、かなり構図と色合いにこっているようですが、なんとなくまとまりがない。それぞれの映像はすごく美しいのだけれど、なんとなくそれぞれの映像が思いつき、というか、その場の美しさにとらわれているというか、あくまでなんとなく何ですが、全体としての「映像」像見たいな物が見えてこない。これもまた欠点といえば欠点ですが、その場の最良の瞬間を切り取るというのも映画にとっては重要なことなので、必ずしも欠点とはいえないのです。
 なんだかわからなくなってきましたが、まとめると、ここの瞬間は美しさにあふれ、メッセージもよく伝わるが、完成度にやや難アリというところですかね。

ブラックボード~背負う人

Takhte siah
2000年,イラン,84分
監督:サミラ・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ、サミラ・マフマルバフ
撮影:エブラヒム・ガフォリ
音楽:モハマド・レザ・ダルヴィシ
出演:バフマン・ゴバディ、サイード・モハマディ、ベフナズ・ジャファリ

 黒板を背負って山道を歩く歩く男たちの一団。彼らは、学校がなくなって職を失った教師らしい。時はイラン・イラク戦争の真っ最中、彼らは食べるため、各地の村々を回って子供たちに読み書きや算数を教えて歩いていた。その一団の中の二人の教師サイードとレブアル、それぞれ生徒をさがし、サイードはイラクとの国境に向かう老人の一団を見つけ、レブアルは大きな荷物を運ぶ子供たちの一団を見つけた。
 『りんご』で世界の中目を集めた若干20歳のサミラ・マフマルバフの監督第2作は『りんご』と同じように、ある種ルポ的な色彩を取り入れつつも映像にこだわって映画らしい映画に仕上げた。

 とりあえず、黒板を背負って歩くという発想が面白い。監督いわく、もともとのアイデアは父親のモフセンの発想から得たらしいが、それをうまい具合に映画世界にはめ込んだところがうまい。
 この映画はやはりかなり社会的なメッセージ性の強い映画で、最近の出来事であるイラン・イラク戦争をいまだに問題として残っているクルド人難民の問題と関わらせつつ描き、かつ戦争に対する人々の姿勢を生々しく描こうという野心が感じられる。しかも、子供、老人という二つの世代を対象とし、そこにストーリーテラーとしてのいわゆる大人が入っている構造から行って、全体像を描こうという構想なのだろう。
 したがって、物語そのものは収斂するのではなくむしろ散逸してゆく方向ですすみ、結末もはっきりとしたメッセージを打ち出すわけではない。漠然とした反戦のメッセージ。あるいは「生きる」ということに対する漠とした渇望。
 全体には非常に出来のよい映画ですが、ちょっと手持ちカメラの多用が気になりましたかね。主観ショットのときに手持ちを使うのはとても効果的でいいのですが、主観ではないと思われるところでも手持ちのぶれた画像が使われていたので、その効果が薄れてしまった感じがするし、あまりに手持ちの映像が多い映画は酔うのでちょっと厳しいです。山道の移動撮影で、ぶれない画像を撮るのも難しかろうとは思いますが、それを感じさせないように作るのが映画。映画の世界の外の状況を考えさせてしまってはだめなのです。そこらあたりが減点。

 今回見てみると、いろいろと味わい深い部分があります。メッセージ性などは置いておいて、映っている人々の生き生きとした感じというか、非常に厳しく、本当に生きていくのがやっとという生活(といえるかどうかも怪しい移動の日々)のなかでもいくばくかの喜びがある。あるいはただ苦しみが和らぐだけであってもそれを喜びと感じる。それがこの映画の非常によい味わいであると思います。故郷へと向う一団の中で「黒板さん」と結婚することになる女性。彼女は精神的に参ってしまっているのだけれど、周囲はそれをどうとも思わない。それは一つの不幸ではあるけれど、皆が抱えている不幸と質的に差があるわけではない。そしてその父親は膀胱炎でおしっこが出ない。しかし出さなければならない。おしっこが出た瞬間、彼が感じた幸せはどれほどのものだったか。ズボンへと伝う暖かいおしっこの感触が幸せであるというちょっと笑ってしまうようなこと。それが幸せであるということ。少年レブアルが自分の名前を黒板に書くことができたとき、彼の表情は真剣でありながら喜びに溢れていた。その文字はたどたどしいものであっても彼にとっては無上の喜びを与えてくれるものだった。それを書き上げた瞬間に待ち受ける運命がどのようなものであっても。
 そのような生きる喜び。クルド人の一団が「黒板さん」に導かれてついに故郷にたどり着いたことをしる歌が鳴り響いたとき、彼らの喜びはいかほどのものだっただろうか。故郷に帰っても彼らの運命は悲惨で未来など霞のようなものだということは見ているわれわれにも、旅する彼ら自身にもわかってはいるに違いないのだが、故郷に着いたということの喜びは他には変えがたいほどのものなのだ。そのような悲惨な中にある喜びを無常のものとして描きあげたこの映画はどこを切っても味わい深い。

忘れられぬ人々

2000年,日本,121分
監督:篠崎誠
脚本:篠崎誠、山村玲
撮影:鈴木一博
音楽:リトル・クリーチャーズ
出演:三橋達也、大木実、青木富夫、内海桂子、風見章子

 老境を迎えた三人の戦友。飲食店を営む、家族に疎まれながらすごす、一人引きこもる。 それぞれの老後を過ごす3人が「金山」という戦死した戦友の思い出をきっかけに再び誇りのために立ち上がる。
 『おかえり』で多数の国際映画祭で賞を受賞した篠崎誠監督の長編第2作。今年のナント三大陸映画祭で男優賞と女優賞をダブル受賞。

 こういう地味な映画がヒットしないのは仕方のないことだと思いますが、日本映画が好きな人なら、きっと引っかかる隠れた豪華キャスト。三橋達也に大木実に青木富夫、それに風見章子とはね。50年(青木富夫は70年)も映画俳優としてやってきたキャリアは伊達ではありません。小津に成瀬に川島と名だたる監督とともに仕事をしてきた人たち。そんな名優たちが埋もれたままではもったいないということなのだと思います。ということなので、やはり彼らの存在感・キャラクターはこの映画の中でも際立っている。
 なのでもちろん、彼らを中心に映画は展開されていくわけですが、そこから見えてくるものは何か? それは戦争体験の重み、戦争を体験していないものとのギャップ、生きていることの重み、他人というものの捉え方の違い。戦争を体験していない者には本当には理解できないその体験の重み。
 それを映画全体のメッセージと受け止めるのはあくまで私の見方ですが、このように戦争の記憶というものが前面に押し出され、現在との対比がなされると、そのようなことを考えずにいられない。その本当には理解できない体験の重みを、それでもあきらめずに理解しようと感覚を鋭敏にしていなければならないと思わせられたわけです。
 とはいっても映画全体は全く重苦しいものではなく、むしろ明るい感じ。それもまたお年寄りたちの明るさがなせるわざ。劇中で百合子が言っていた「元気をもらう」という言葉、それがまさに画面にあふれている感じ。
 あとは細かいところまで配慮が行き届いていてよかったということ。本筋とは関係なさそうなところまで含めて、何かひっかればいいという意図が感じられます。たとえば、病院の屋上で百合子が後輩の看護婦と話をするところなど、プロットとは無関係ですが、なんとなく意味のあるメッセージがこめられているような気がする。そのようなところが結構ある。ケンの存在もそうだし、店にやってきた2人連れのヨッパライとか、伊藤の家の家族とか、金山が朝鮮人であるらしいこととか、そういったいちいちがなにかメッセージを持っていそうな気がする。
それは人それぞれ引っかかるところが違うということも意味するような気がします。それは同じ人でも見るたびに引っかかるところが違うということも意味するかもしれない。まあ、とにかくいろいろに考えることができるということでしょう。映画は哲学するのですよ、やはり。

アンゴウ

2000年,日本,74分
監督:古本恭一
原作:坂口安吾
脚本:古本恭一
撮影:三本木久城
音楽:野口真紀
出演:古本恭一、高井純子、平出龍男、小林康雄

 タクシードライバーの矢島は、妻の交通事故で二人の娘を失い、妻自身も入院してしまった。妻の退院が間近というある日、妻が延滞していた図書館の本から数字が書かれたメモのようなものが出てきた。
 カラーとモノクロの映像が混在し、中心となる物語に、ラジオから流れてくる原発事故のニュースが挟み込まれる。淡々とした展開ながら、様々な要素が織り込まれ、見ごたえのある作品になっている。
 2000年ぴあフィルムフェスティバル審査員特別賞を受賞した自主制作映画。

 まず、プロットがとてもよく、映画に入り込むことができた。とにかく、自主制作映画と思ってみているから、どうしても見下すというか、批評してやろうという気になってみてしまうけれど、ストーリーテリングが巧妙でそんな者に構えた態度を払拭してくれるくらいの力があった。
 モノクロとカラーの映像の混在も、特にどういう意味があるというわけではないのだけれど、静と動、緩急つけるという効果はあったと思う。出演している役者たちもなかなか達者で、「十分いけるじゃん」という感想でした。
 ひとつ難点を挙げるなら、音楽や音響効果が単調になってしまったこと。映像やプロットにはかなり強弱があり、緩急がついているのに、使われている音楽が全体に似たトーンで(一度だけ、図書館でロック系の音楽が使われてはいるが)ちょっとだれるというか間延びするというか、そんな感じになってしまったような印象。
 しかし、全体的にはかなりいいです。

少年と兵士

The Child and The Soldier
2000年,イラン,90分
監督:セイエッド・レザ・ミル=キャミリ
脚本:モハマド・レザイ=ラド
撮影:ハミド・コゾーイ
出演:メヘディ・ロテフィ、メヘラン・ラジャビ、ルーホリラ・ホセティ、ビザン・ソルタニ

 ある基地の大晦日、若い兵士が軍曹に正月休暇を早めてくれと頼みに行くが、もちろん聞き入れられない。そんな時、盗みでつかまった少年をテヘランの少年院へ連れてゆくという任務がしょうじた。軍曹は少年を送り届けることを条件に、休暇を早めることを認めるのだが、そこは大晦日、テヘランへの交通手段はやすやすとは見つからず、二人はヒッチハイクをすることに。
 非常にオーソドックスで良質のイラン映画。少年が出てきて、教訓めいたお話で、ちょっと感動的で、風景が美しくて、そんないい映画です。

 イラン映画といえば少年。この映画もやはり少年。しかし、今度の少年は盗みをした少年。と、いうことは教訓じみた話になるはず。と、思ったらやはりそう。少年は最後「二度としないよ!」と怒ったように言い放つのでした。
 しかし、この映画のいいところは、一方的にそういう教訓話にしてしまわないところ。軍隊の融通の利かなさや、おとなの身勝手さもしっかり欠いているところ。なんだか久しぶりにいい話を見たわ。という感じです。
 ところで、この映画で一番好きなキャラクターは運転手のおじさん。レスリングをやっていたというデブのおじさん。そのおじさんが一年歳後の夕暮れに、トラックの上でお茶を飲んでいるシーンは最高です。いいぞおじさん。
 さらにところで、この映画で、主人公が家族と新年を迎える場面が昼間なんですが、イランでは日付は昼間に変わるんですかね? そうなんでしょうねおそらく。これはイスラムの暦の問題なんでしょうか? どなたか知っていたら教えてください。やはり我々(私だけ?)はイランとかイスラムについてあまり知らないんですね。イラン映画を見るたびにそう思います。今日は本気でペルシャ語を習おうかと思いました。
 ほのぼのといい映画でした。

インビジブル

Hollow Man
2000年,アメリカ,112分
監督:ポール・ヴァーホーヴェン
原案:ゲイリー・スコット・トンプソン、アンドリュー・W・マーロウ
脚本:アンドリュー・W・マーロウ
撮影:ヨスト・ヴァカーノ
音楽:ジェリー・ゴールドスミス
出演:エリザベス・シュー、ケヴィン・ベーコン、ジョシュ・ブローリン、キム・ディケンズ、ジョーイ・スロトニック、メアリー・グランバーグ

 「透明人間」のハイテク・ポール・ヴァーホーヴェン版。
 苦労の末ついに生物の透明化と復元をゴリラの段階まで成功させた天才科学者のセバスチャンは、自らを実験台に人体実験をやることを決意する。透明にして3日後に戻すという計画で、軍部の委員会には内緒で。そうして透明になったセバスチャンはいったいどうなるのか?
 SFXを駆使して「透明人間」に現実感を持たせたところはさすが、SFXを使った映像には迫力がある。しかし、いつものっヴァーホーヴェン節と比べるとプロットにはちゃめちゃさがなく、普通の映画になってしまっているのが残念。

 たしかに、映像はすごい。消えてくとこも戻ってくとこも、本当にすごいし、透明なケヴィン・ベーコンが透明なのに、やっぱりケヴィン・ベーコンなところもすごい。しかし、やはりプロットがね。透明になって、精神的にきつくて(つまりストレスね)、それがいつしか周りに対する憎悪に… なんて、普通のハリウッド映画じゃん。やっぱり、ヴァーホーヴェンは警官がロボットとか、宇宙人が昆虫とか、そう言った奇想天外な設定があってこそじゃないですかねえ。  と思いました。
 (ここからは、勝手な話になって行きますが)たとえば、精神的なストレスが原因とかじゃなくて、透明になったがゆえに殺人鬼になるとか(これは怖い。とりあえず意識を取り戻したとたん、近くにいた人を殺してしまう)。
 そのあたりが、不満ですね。しかし、これだけエロイ、グロイ映画を作ったということは素晴らしいと思います。とかくヒューマニズムに傾きがちで、SFX使ってヒューマンドラマを作ってしまうようなハリウッドで、彼の存在は貴重です。PG12くらいはつけてもらわないと、ヴァーホーヴェンも泣きます。
 と、いうことで、懲りずに次回作も見に行くことでしょう。

オータム・イン・ニューヨーク

Autumn in New York
2000年,アメリカ,107分
監督:ジョアン・チュン
脚本:アリソン・バーネット
撮影:クー・チャンウェイ
音楽:ガブリエル・ヤーレ
出演:リチャード・ギア、ウィノナ・ライダー、ジリアン・ヘネシー、アンソニー・ラパグリ、アシェリー・ストリングフィールド、エレイン・ストリッチ

 枯葉舞う秋のニューヨーク、高級レストランのオーナーでプレイボーイのウィルはまたも恋人との短い付き合いに終止符を打った。その時公園で見かけた美女に自分の店で再会した。ウィルは彼女を口説き落とすが、彼女は思い病気であと1年も生きられない体だった。
 すべてが教科書通りのラブ・ロマンス。ストーリーも先の展開が読め、セリフもクサイし、ああ、べたべた。救いとなるのはウィノナ・ライダーのかわいさか、リチャード・ギアの笑い皺か。あとは映像が澄み渡るようにきれいだったこと。

 すごいです。こんなに潔いハリウッド映画は久しぶりに見ました。いまどきセントラルパークの空撮から入る映画なんてそうはない。そして、最初のシーンで使われているエキストラたちの白々しいこと。
 楽しみといえば、次ぎのシーンがどんなシーンかを予想すること。すべては典型的なラブ・ロマンスの撮り方、つくりかた。二人は思っていることをすべてセリフにしてしゃべる。クライマックスはスローモーション。
 リチャード・ギアはあそこまで行くと病気だとか、忙しいはずの医者がどうしてシャーロットのためにはニューヨークまで飛んでくるのか(クリーブランドの患者はどーすんだ)とか、シャーロットはばあちゃんに思いやりのあるせりふをはきながら、クリスマスはウィルと二人っきりで過ごしている(ばーちゃんは置き去りかい)とか、突っ込んでいけばきりもない。
 監督は「シュウシュウの季節」で監督デビューした女優さんだそうです。カメラは「さらば、我が愛 覇王別姫」で知られる人だそうで、なるほど。という感じ、確かに映像はきれいだった。
 そういえば、コックの奥さんをやっていたシェリー・ストリングフィールドは「ER」でスーザン・ルイスをやっていた人ですよね。それはなんだかうれしかった。ちょっと太ったかな。

2000年,日本,123分
監督:阪本順治
原案:宇野イサム
脚本:阪本順治、宇野イサム
撮影:笠松則通
音楽:coba
出演:藤山直美、豊川悦司、國村隼、牧瀬里穂、内田春菊、佐藤浩市

 昔ながらのクリーニング店で母親といっしょに働く少々アタマの弱い正子と、家を出てスナックで働く妹の由香里。二人はいつも衝突していた。そんなある日、二人の母常子が急死してしまう。その母の通夜の夜、ショックで母の通夜に出席できなかった正子は由香里を殺してしまう。そこから正子の逃亡生活が始まった。
 「どついたるねん」「トカレフ」などで知られる阪本順治監督が藤山直美を主演に撮った笑いに溢れたサスペンス。藤山直美の個性が前面に押し出されていて面白い。

 この映画面白かったのですが、監督の才能というより、出演者たちそしてカメラが素晴らしかった。まあ、それを引き出すのが監督の才能と考えれば阪本順治はすごい監督ということになるのでしょうが、さらっと見てしまうと、藤山直美はいいね。ということになるでしょう。何と言っても役者を見る映画、それぞれの出演者がやはりそれなりにいい個性を出していて、それが混沌とした魅力を編み上げているといった感じでしょうか。物語全編を通して登場する人物が少ないというのも役者の個性を重層的に積み上げる上で非常にいい作り方だと思います。
 もう一ついいのはカメラワーク。映像が斬新だとかいうのではなくて、非常に自然なカメラワーク。ほとんどが人の視線で撮られていて、見る側にまったく違和感を与えない。しかしその裏には相当な苦労があったとうかがわせる。そのようなカメラ。例を二つ上げると、一つは鏡のシーン。おそらく4回か5回鏡が出てきたと思いますが、映画で鏡を使うのは非常に気を使う。とくに、トイレで由香里の幻覚を見るシーン。正子ひとりが映っているところと後にいる由香里が映るところは多分ワンカットで撮られていたと思いますが、そのためには牧瀬里穂が映り込まないようにカメラを移動させなければならないという問題がある。そこがなかなか難しいポイント。もう一つは、由香里が殺されているシーン。かなりのローアングルで、正子の足から横にパンして由香里の死体、再び足を追ってパンして、正子がカメラから遠ざかって全身がカメラに収まる。というなんでもないようでいるけれど、これはかなり計算し尽くされたカメラでしょう。「うまい!」とうなりたくなるところでした。
 という感じです。いい感じの映画ですね。すごく面白いというほどではないけれど、見て損はなかった。

DRUG GARDEN

2000年,日本,89分
監督:広田レオナ
脚本:広田レオナ
音楽:坂井洋一
出演:広田レオナ、吹越満、マーク、クリスティーヌ・ダイコ★、マーガレット、HOSSY

 最初、元ドラッグ常用者のインタビューで始まるこの映画だが、それが終わると雰囲気は一転し、3人のドラァグ・クイーンが登場。
 レオナは夫のフッキー、息子のマーク、3人のドラァグクイーンとシンケンとチル(ともにモデル)と同居生活を送っている。みんなで食べる朝ご飯の席でレイナはパニック・ディスオーダーの発作で倒れてしまった。レオナはトラウマからパニック・ディスオーダーに陥り、8年前から大量の薬を常用しているのだった。
 レオナの物語、ドラァグ・クイーンコンテストを目指す3人、マーク、チル、それぞれの物語が交錯し、みんなの中で何かが変わっていく。
 広田レオナが自らの体験を映画化。シリアスなドラマを斬新な映像で切り取り、ドラァグ・クイーンの笑いの要素をうまくはめ込んだ秀作。

 まず批判。果たして最初と最後のドラッグ常用者のインタビューは必要だったのか? 確かに、これがあればテーマがストレートに伝わるが、そこまで丁寧に説明しなくても、伝わるし、むしろ全体の映画のカラーを乱している印象を受けた。  という点はありますが、全体的にはかなりいい作品でした。この映画ではパニック・ディスオーダーというのは実はそれほど大きなテーマではなくて、むしろドラッグとやはり「人間」一般がテーマになっている。「ドラッグ」の持つ意味や人はなぜドラッグをやるのかということを言葉すくなに語っている。
 かなりさまざまな語り方が出来る映画だが、私が注目したいのは「ドラァグ・クイーン」。この映画に出てきたドラァグ・クイーンは本当に有名なドラァグ・クイーンたちで、本名(ではないか、現実での名前)で映画に出演している。彼ら(彼女ら?)がコンテストに出るというテーマ自体はどうでもよくて(カレンダーにバツをつけて行く映像はかなりいいけれど)、彼らの摩訶不思議な存在がこの映画を成立させている鍵だと思う。これだけ重いテーマを普通の(というとドラァグ・クイーンに失礼か)人たちだけでやってしまうと、深刻になりすぎる。そこにドラァグ・クイーンを入れることで映画全体がファンタジックで面白いものに変わってしまう。それはドラァグ・クイーンがゲイカルチャーの中で演じている役割と同じものであって、それこそがドラァグがドラァグである所以なのだ。
 映像についても語ることが結構ありそうだけれど、別に難解な映像を作り上げているわけではないので、単純に見た感じで「面白い」とか「きれい」だとか言っていればいいような気もする。チルの葬式の場面でひとりひとりを正面から映す過露出の映像はかなりきれいだった。じっと魅入ってしまうような澄んだ美しさだった。他にもサイレント映画風に仕上げたり、フレームを落としてコマ送りのようにしたりとさまざまな工夫が凝らされていて非常によかった。

TAXi2

TAXI2
2000年,フランス,89分
監督:ジェラール・クラヴジック
脚本:リュック・ベッソン
撮影:ジェラール・ステラン
音楽:アル・ケミア
出演:サミー・ナセリ、フレデリック・ディーファンタル、マリオン・コティヤー、エマ・シェーベルイ、ベルナール・ファルシー

 マルセイユの公道でのレース中、トップの車をあおる純白のプジョー406が現れた。運転手はもちろん暴走タクシードライバーのダニエル。産気づいた妊婦を乗せ病院へと急いでいた。無事子供が生まれ、ダニエルは急ぎ恋人リリーのもとへ。
 一方、警察ではマフィア対策の視察にくる日本の防衛庁長官の警護の準備。署長が「コンニショワ~」と怪しい発音で日本語を教える。
 何はともあれ、今回は日本のヤクザが相手。黒塗りの3台の三菱車との対決。日本人にはつぼに入ること請け合いの突込みどころ多数。映画館で見ると、突っ込めなくてストレスがたまります。 

 どうしようもなく笑える。前作を見ていれば、ストーリーは考えなくてもわかる。しかしあまりにばかばかしいギャグセンスがたまらない。とくに日本人には、突っ込まずに入られないボケどころ多数。
・テレビ電話で話すボスの後ろに映っている和服の女の子はなんだ!
・なんで千葉ナンバーなんだ!
・日本語下手すぎるよ!
・あんなばればれなSPいねーよ!
・飛びすぎだよ長官!
などなど、まだまだ突っ込み足りませんが、この辺で勘弁しといたろ。
 とにかく、映画うんぬんよりばかばかしさに笑ってそれでいい。リュック・ベッソンが本当に撮りたい映画ってのはこれのような気がする。でも、立場的にこんな映画は撮れない。巨匠もつらいね。