スペース カウボーイ

Space Cowboys
2000年,アメリカ,130分
監督:クリント・イーストウッド
脚本:ケン・カウフマン、ハワード・クラウスナー
撮影:ジャック・N・グリーン
音楽:レニー・ニーハウス
出演:クリント・イーストウッド、トミー・リー・ジョーンズ、ドナルド・サザーランド、ジェームズ・ガーナー

 1950年代に宇宙飛行士を目指したフランク・コービンらはアメリカ発の宇宙飛行士がチンパンジーに決まり、その夢を絶たれる。しかし40年後、フランクの設計した装置を積んだ人工衛星が軌道上で故障、協力を求めてきたNASAに対し、フランクは自分達が行って修理すると告げる…
 クリント・イーストウッド監督・主演のスペース・ロマン。爺さん達が大活躍。

 映画の中でも言っている通り、このときクリント・イーストウッドは69歳、文句のつけようのない爺さんだ。そのイーストウッドとチームを組む3人の中ではトミー・リー・ジョーンズだけが大分若く(46年生まれ)、彼は爺さんと呼ぶには忍びないが、他のふたりはイーストウッドとほぼ同じ年代である。

 そんな爺さん達が主役のこの映画は、いわば爺さんたちの夢をすべてかなえるような映画だ。第一線を退いた爺さん達が現場に復帰し、若者達にバカにされながらもその若者達を見返す活躍をし、若い娘と恋愛などもし、仲間と団結して一つのことを成し遂げる喜びを思い出す。そんな幸せな物語だ。

 そこには年をとったがゆえの問題もあり、過去の因縁もあり、若者とのギャップもある。しかしそれを乗り越えてゆくエネルギーを彼らはもっている。印象的なのは宇宙飛行士になれなかった彼らがついに宇宙にいけるかもしれないとなった今までの時間を「40年も前」と言っていたのを、最後には(意識的に)「たった40年」と言いなおすところだ。彼らは40年という時間を乗り越え、さらに成長したのだ。

 だからこれはいわば爺さんのためのおとぎ話であり、したがって物語はすべて予定調和に終わる。初めてみたはずなのになんとなく既視感があるのはそのすべてが予想通りに進む予定調和がためなのだろう。

 でも別にそれがつまらないと言っているわけではない。むしろ安心して楽しめるエンターテインメントだ。ベテラン俳優というのはどうしても脇役になりがちだけれど、こんな風にしてベテランが主役になるというのはいい。若い頃の切れはなくてもやはり経験がものを言い、いい味を出す。ドナルド・サザーランドなんてたいして何もしてないのだけれど、存在感がある。

 これは「爺さんの、爺さんによる、爺さんのための映画」だが、そのそこに流れるロマンは少年から爺さんまでみなが共通に持つものではないだろうか。だから予定調和のどこかうそ臭い話でも反発を覚えることなく楽しめてしまう。

 クリント・イーストウッドは偉大な映画監督だとは思わないが、観客を楽しませる術は知っている。それがこの作品にも表れていることは間違いない。

おいしいコーヒーの真実

アフリカ最大のコーヒーの産地エチオピア、そのエチオピアのオロミア州の農協連合会の代表タデッサ・メスケラはコーヒー価格の下落を嘆く。彼は貧困にあえぐコーヒー農家たちが正当な収入を得ることができるためにさまざまな対策を練り、時には海外に直接売込みにも行く。しかし、そこには巨大な多国籍企業の大きな壁が…

イギリスのドキュメンタリー作家フランシス兄弟の長編デビュー作。サンダンス映画祭で賞賛された硬派なドキュメンタリー。

この作品のチラシやポスターには緑色のロゴのカップが描かれ、330円のトールサイズのコーヒーのうち、コーヒー農家に行くのは3円から9円に過ぎないと書かれている。

が、映画を見るとこの広告の割合もまだましだということがわかる。実際にエチオピアの農家に支払われる額は当時で1キロ当たり約1ブル(=0.12ドル)、1キロの生豆から約80杯のコーヒーが取れるとして、1杯あたりではわずか0.15セントである。

いくら物価が安いとは言っても、さすがにそれではどうにもならず、コーヒー農家たちは貧困にあえぐ。その貧困が深刻化したのは80年代の国際コーヒー協定の破綻から。コーヒー価格の下落が直接生産者の収入源につながったというわけだ。

この作品はその生産者の窮状とそれを何とか改善しようと頑張る農業連合会代表のタデッサの活動を中心に描く。タデッサはコーヒーが消費者に届くまでの中間業者の多さを訴え、生産者が直接焙煎業者に売る方法を模索する。中間業者を省くことで正当な報酬を生産者に支払うことができる、つまりフェア・トレードである。

大学でのインテリであるタデッサは英語を駆使してイギリスやアメリカに飛び、直接アピールする。

この作品は映画としてははっきり言ってあまり面白くない。知らなかったことを知ることができるという意味では意義深いが、単純に事実を並べ、貿易の不公正や貧困をくり返し訴えるだけなのだ。貧困にあえぐアフリカの人々と、コーヒーを娯楽として楽しむ欧米の人々を対比させようという意図は見えるのだが、そのつながりが希薄で今ひとつ効果的ではない。出来れば、バリスタ世界大会の優勝者に「このコーヒーの価格のうち何パーセントが生産者に言ってるか知っているのか?」などという質問をぶつけて欲しかったろころだ。その行儀のよさが作品のインパクトを弱める結果になってしまっているのは残念だ。

ただ、このタデッサおじさんの人柄や姿勢は見る人をひきつける。彼は本当にエチオピアという国の将来を憂い、農民の一員として彼らの生活を改善することを願っている。外国からの援助に頼らなくてもすみ、子供たちが教育を受けられるようになること、ただそれだけが彼らの望みなのだ。農業保護政策で守られたアメリカの農家が作った小麦が援助物資としてアフリカにやってくる。コーヒーを正当な価格で買ってくれさえすれば、それは援助ではなく貿易品としてやってくるはずなのに。

この作品を見たらもうフェアトレードのコーヒーしか買えないという気がしてきてしまう。巨大な多国籍企業が流通させているコーヒーを買うたびに私たちはアフリカの農民達を苦しめることになるのだ。もちろんフェアトレードのコーヒーのほうが高い、しかしその価格差は1.5倍程度だ。その価格差は多くの場合フェアトレードのコーヒーのほうが質が高いことを考えるとそれほど大きなものではない。それで生産者には2倍3倍の収入になるのだ。

何気なく買い物をしていると目に付かないものだが、気をつけてみればフェアトレードのコーヒーというのは結構売っている。この作品で槍玉にあがっているスターバックスでさえ(わずか1種類だが)フェアトレードのコーヒーを売っている。イオンや西友でも売っている。通販でも売っている。

私たちは大企業を通して生産者からコーヒー豆を安く買い叩いている。この作品からコーヒー豆の流通の構造を知ることで、世界の経済の仕組みが少し見える。そして、それは多国籍企業体が支配する経済体制への抵抗の第一歩であるのだと思う。

DATA
2008/8/7
Black Gold
2006年,イギリス=アメリカ,78分
監督:マーク・フランシス、ニック・フランシス
撮影:ベン・コール、ニック・フランシス
音楽:クンジャ・シャタートン、マット・コールドリック、アンドレアス・カプサリス

キル・ビル

Kill Bill : vol.1
2003年,アメリカ,113分
監督:クエンティン・タランティーノ
脚本:クエンティン・タランティーノ
撮影:ロバート・リチャードソン
音楽:RZA、ラーズ・ウルリッヒ
出演:ユマ・サーマン、デヴィッド・キャラダイン、ダリル・ハンナ、ルーシー・リュー、ソニー・千葉、栗山千明、ヴィヴィカ・A・フォックス、ジュリー・ドレフュス、麿赤兒、國村隼、田中要次、風祭ゆき

 ひとりの女がある家を訪ねる。挨拶もなく、そこで闘いが始まる。その闘いはその家の娘が帰ってきたところでいったん幕を下ろす。その訪ねてきた女は実は元暗殺集団の一員で、4年余り前、結婚式のその場で仲間になぶり殺しにされたかに見えたが、奇跡的に一命を取り留めた女だった。彼女は自分をリンチした相手に復習することを誓い、復習するべき相手をリストにしていた…
 日本のB級映画を愛してやまないタランティーノが深作欣治にささげた仁侠映画風アクション映画。ルーシー・リューに和服を着せ、アクションはユエン・ウーピンと、アジアなら何でもありかい!的な匂いが漂う怪作。果たしてこれは名作なのか駄作なのか。その判断は1話分の尺に収まらず、2部立てとなってしまったその第2部をみて初めてつくのかもしれない。

 この映画はすべてが「フェイク」である。元ネタがあり、それを模倣しているが、それのやり方はパロディではなく、フェイクである。パロディとは元となるモノを茶化し、笑いへと転置する方法であるが、フェイクとは単純な模倣、偽物を作ることに他ならない。同じようなものを作りたいためにまねするのか、あるいは元になるものを愛してやまないがために真似をするのか、あるいはただ真似したいから真似するのか、そのあたりの理由には関係なく、真似をして作られた偽物であるということがすなわち「フェイク」であるということだ。
 この映画のもっとも明らかな元ネタは梶芽衣子主演の『修羅雪姫』であることは様々な風評からすでに明らかなことだ。元ネタの詳細は忘れてしまったが、基本的な物語もどこか似ている(様な気がする)。それはそれとして、ラストにはテーマ曲が引用されることから、それは明らかなのだが、何といってもあの血飛沫である。『修羅雪姫』をみて、映画の筋を忘れることは簡単だが、あの血飛沫を忘れることは難しい。そして、血に真っ赤に染まった波打ち際もはっきりと記憶に刻まれる。この『キル・ビル』もヒトを斬った時には血が噴水のように噴出し、池が真っ赤に染まる。真っ赤に染まるのが海からちんけな(しかし金のかかった)セットの池に代わったというのもこの映画の「フェイク」精神の顕われかもしれない。
 「フェイク」と言えば、話される日本語もまるっきりの偽物だ「やっちまいな!」と言っているらしいオーレン・イシイの決め台詞。何度聞いても「ヤッチェマナウ!」(意味不明)にしか聞こえない。逆にソニー千葉の英語もフェイクだ。これはルーシー・リューの日本語がフェイクであることにきづかなそうなアメリカの観客へのサービスだろうか。あるいは名前も。「服部半蔵」あたりはフェイクを越えてパロディの感もあるが、ゴーゴー夕張あたりはかなりフェイクの匂いが漂う。

 フェイクとパロディ、これは本質的に違うはずのものだが、この映画は結果的にフェイクとパロディのあいだをさ迷っている。いわゆるアクション映画のパロディとフェイクの間をさ迷ってしまうのは、アクションシーンがユエン・ウーピンによる本物だからなのかもしれない。その本物のアクションシーンをいかにフェイクにするのか、タランティーノはそれに腐心して、ユマ・サーマンにブルース・リーの衣装を着せ、無理から手摺の上でアクションさせ、ありえない斬られ方をさせてみた。そのようにして何とかまっとうなアクションにならないようにした結果、それはフェイクに近づくと同時にパロディにも近づいてしまった。そんな印象がある。

 さて、タランティーノは何故ここまで執拗に「フェイク」たらんとしたのかを考えてみる。それはまず、そもそも元ネタにされている日本のB級映画というのが「フェイク」なのである。『修羅雪姫』もある意味では仁侠映画のフェイクである。もっとわかりやすい例を上げれば、この映画に登場する航空会社「エアO」の飛行機、これはあからさまに模型で、妙に赤い空のバックを飛んでいる風なわけだが、これを見るに付け思い出すのは京マチ子主演の『黒蜥蜴』である。そこで舟が登場するのだが、これがまた見事な模型。その舟は水槽の波に木の葉のように揺れるのだ。そしてこの『黒蜥蜴』がどう見てもフェイク・ミュージカルなのである。そこまで追求してしまうと自ら映画オタクと言い放つタランティーノの側に与してしまうことになるので、このあたりでやめるが、そんな「フェイク」が好きでたまらないタランティーノが自分も「フェイク」を作りたいと思ってきたであろうことは想像に難くない。

 ここでもう少し真面目に考えると、映画とはそもそもが現実の「フェイク」であるという事実も考えたい。映画とは現実を模造しようと始まった芸術である。いまでは必ずしもそうではないが、映画の本質には現実のフェイクであるという面が必ずどこかにある。
 そのような映画がわざわざ「フェイク」たらんとするということはどういうことか。おそらくタランティーノは世の中に「いかにも現実であろうとするフェイクが多すぎる」ということを憂えているのではないかと思う。憂えてはいないにしても、面白くないと思っているのではないかと思う。「いくら現実ぶったってフェイクはフェイクだ」ということを真摯に見つめない限り、映画なんて成り立たないとでも言いたげなのである。
 そのように思ったからこそ、フェイクのフェイクであるこの映画を作ろうとしたのではないか。そもそもフェイクである映画のフェイクであるような映画。そんな映画のフェイクという三重化されたフェイクを作ることで映画がフェイクであるという忘れがちな当たり前のことを想起させる。そんな狙いがあったのではないかと邪推してしまう。多分そんなことは考えていないと思うが、というよりそもそもタランティーノがどう考えていようとどうでもいいのだが、そんな風なことに目を向けさせてくれるこの映画はただのバカ映画ではないのだと私は見る。あるいは、この映画はただのバカ映画だが、バカ映画であるがゆえに見えてくるものもあるということだ。

 この映画が映画として面白いのかどうなのかは、vol.2を待たねばならないだろうが、二部構成にしてしまったがために、少し冗長な感じになって、タランティーノ独特のスピード感が薄れてしまった気がするのは残念だ。vol.2がどれくらいのものかはわからないが、何とか頑張って2時間半か長くて3時間弱に収めて1本の映画にしてくれたほうが、タランティーノらしい面白い映画になったのではないかとも思ってしまう。

ハリー・ポッターと賢者の石

Harry Potter and the Sorcerer’s Stone
2001年,アメリカ,152分
監督:クリス・コロンバス
原作:J・K・ローリング
脚本:スティーヴン・クローヴス
撮影:ジョン・シール
音楽:ジョン・ウィリアムズ
出演:ダニエル・ラドクリフ、ルパート・グリント、エマ・ワトソン、リチャード・ハリス、マギー・スミス、アラン・リックマン、イアン・ハート

額に傷を持つ赤ん坊のハリー・ポッターは魔法使いによって伯母夫婦に預けられ、その家で冷遇されて育てられていた。ハリーが11歳になろうというとき、ハリーのところにふくろうから次々と届くようになるが伯父はそれをハリーに読ませようとしない。しかし、11歳の誕生日の日、ついに魔法学校からの使者が現れ、ハリーを魔法学校へ連れて行く…

原作が世界中でベストセラーとなった「ハリー・ポッター」シリーズの第1作目の映画化。映画としても世界中で大ヒット、小説も次々と続編が書かれ、映画も次々と作られるはずのファンタジー巨編。

ものすごい観客を集めた映画にありがちな酷評があちこちで聞かれますが、私はそれほど悪い映画ではないと思います。原作をまったく読んでいなかったこともあって、物語の導入部分などはかなり興味深く見ることができました。魔法使いの世界という一つのパラレルワールドを作って、そこで物語を展開させるという方法は非常に巧妙でいくらでも面白く出来る要素がある。紀元前300年だったか創業の杖屋なんていう小ネタも自由自在。動物や植物だっていくらでも創造することが出来る。この自由さがファンタジーにとっては非常に重要なのです。

なので、長いシリーズの1作目としてはまずまずの出来なのではないかと思います。ただ、ちょっと長すぎますね。特にクライマックスに至る前の30分から1時間くらいはぎゅっと凝縮して映画を短くするか、映画には盛り込めなかった原作のエピソードをもう1つ2つ入れるかして濃度を高めたほうが飽きることなく見れるようになった気がします。

というのが全体的な感想で、第2作も2本立てかビデオかで見ようかなという感じです。

さて、この映画を見て最初に感じたのは『スター・ウォーズ』っぽいなということ。映画全体としてもちょっとそんな感じはしますが、主に話がそれっぽい。細かく何処がどうと言ってしまうとこじつけっぽくなってしまいますが、親が死んで親戚に育てられる設定とか、なぞの敵がいるとか、力を得るために教えを受けるとか、そういうところですね。これはある意味では冒険ファンタジーものの王道といえるストーリー展開なのかもしれません。だから万人に受け入れられる。『スター・ウォーズ』ファンには怒られるかもしれませんが、なんだか似てるなぁという印象は最後まで変わりませんでした。音楽もジョン・ウィリアムズだしね。主人公が運命で定められた英雄だというのも。

もちろん『ハリー・ポッター』のほうが子供だましっぽさが付きまとうし、出てくるキャラクターや物はほとんどが今まであったものばかりで創造性という点ではかけるのですが…

その点で言えば、同時期に公開された『ロード・オブ・ザ・リング』と比べても見劣りする。しかし、やはり『ロード…』の世界観は万人受けするものではなく、そのあたりでヒットするかどうかが別れてしまったのかもしれないという気がします。原作とのかかわりも『ハリー…』のほうがうまい感じですね。原作を読んでいれば、おそらく映画に出てきた呪文とか道具なんかのことがよくわかる。魔法学校の教科書まで発売されているのだから、はまればどんどんはまっていける。そのあたりは原作者ももうなくなってしまって、かなりマニア感が高くなってしまっているい『ロード…』とは違うのでしょう。

ヒット作にはそれなりの理由があり、映画としての出来がそれほどよくなくても人を惹きつけられるんだといういい見本だと思います。

リリイ・シュシュのすべて

2001年,日本,146分
監督:岩井俊二
原作:岩井俊二
脚本:岩井俊二
撮影:篠田昇
音楽:小林武史
出演:市原隼人、忍成修吾、蒼井優、伊藤歩、田中要次、大沢たかお、稲森いずみ、市川美和子、杉本哲太

中学生の蓮見雄一は不良仲間とつるんでいるが、どこか気弱なところがあり、リリイ・シュシュというアーティストにはまっている。雄一は万引きをしてつかまり、彼らのボス的な存在である星野修介と仲間にリンチされる。しかし、雄一と修介は中学1年生のころは中のいい友達だった…

現代の中学生の3年間をイメージとして物語に閉じ込め、それを音楽でひとつにまとめた作品。ウェブサイトの掲示板を利用して、読者との対話の中から岩井俊二が生み出したインターネット小説から生まれた映画。フィルム用いずデジタルビデオだけで撮影したというのも特徴のひとつ。

個人的な感想からいえば、あまり好きな映画ではない。映画の作り方としては新しいところもあり、面白いところもあるけれど、冗長で退屈だ。随所に登場人物たち自身が持つビデオカメラの映像が挿入され、安定した映画本体の映像と対照を成すが、その過剰な手ぶれが痛ましい。

そして、この映画は「痛み」とか「癒し」ということをいっていながら、決してその痛みに本体に入って行こうとはしない。「痛み」を抱える存在として描かれる登場人物たちの痛みを作り手が共有していないというか、それは言葉としてあるだけでちとなり肉となっていないという印象がどうしてもしてしまう。

それは、この映画があまりにスタイリッシュというか、映像としてのスタイルを重視しているがために起こるような気がする。「痛み」というようなものをひとつのテーマとしながら、そこにメッセージをこめてそれを映画の主題とするよりも、スタイルを重視してしまった感じ。それが私がこの映画に感じる根本的な嫌悪感だ。だから、面白くないとはいわないが、好きではない。

それでも、この映画を見るなとはいわないし、むしろ見てもいいと思う。たぶん、こういうスタイルで作られた映像のほうがスッと心の中に入ってくる人もいるのだと思う。そういう人は非常に現代的な心の持ちようをしていると思うし、それは悪いことではない。

しかし、私はこの映画にスッと入り込めてしまうような心の持ちように対して胡散臭さを感じる。この現実を切り取ったようなさまをしながら、あくまでもすべてがイメージの産物であるような映画を、自分の現実に引き込んでリアルだと感じられるということは、その現実に何か瑕疵があるのではないかと思ってしまう。その瑕疵に気づかないまま映画の世界に浸ってしまうことにはある種の危うさが伴う。

そのような現実感覚、つまり自分の現実をイメージで覆い隠してしまうというか、バーチャルな異なったリアルを作り出してしまうような現実との対峙の仕方をどうにも受け入れがたいということだ。

映画の中の掲示板のメッセージのひとつで、ノストラダムスの予言について言及したとき、「世の中は滅びた。今あるのはマトリックスだ」みたいな言葉があって、それは映画の中ではそれほど重要な言葉として出てくるわけではないけれど、この映画の要素を凝縮したような言葉であるという気がした。

マトリックスで起きているさまざまな出来事であるがゆえに、彼らのとる行動はこうなってしまうのだと。

岩井俊二がそのような現実感覚に対してどのようなスタンスをとっているのかはこの映画からはわからない。ここで描かれているようなものに対する危機感をもって作っているのか、それともただ現実(あるいは未来)をなぞっているのか、特に意識していないのか。

わたしはこの映画はあくまでスタイルを重視した映画だから、そのあたりはあまり意識せず、現代的なスタイルと一致する世界観を構築するということに重点が置かれているのだと思う。

そこで作られたこのような現実感覚の希薄な世界に私は共感できない。

Jam Films

2002年,日本,109分
監督:北村龍平、篠原哲雄、飯田譲治、望月六郎、堤幸彦、行定勲、岩井俊二
脚本:高津隆一、渡部貴子、飯田譲治、望月六郎、三浦有為子、行定勲、岩井俊二
撮影:古谷巧、石山稔、高瀬比呂志、田中一成、唐沢悟、福本敦
音楽:森野宣彦、矢野大介、山崎将義、池瀬広、遠藤浩二、野見祐二、めいなCo.、岩井俊二
出演:北村一輝、山崎まさよし、篠原涼子、大沢たかお、吉本多香美、麿赤兒、秋山奈津子、妻夫木聡、綾瀬はるか、広末涼子

7人のクリエーターが共通するテーマなどを設けず自由に作った7本の短編を集めた企画もの。エピソードは「the messenger -弔いは夜の果てで」「けん玉」「コールド スリープ」「Pandora -Hong Kong Leg-」「HIJIKI」「JUSTICE」「ARITA」の7本。本当に何か共通点があるわけではないので、共通した感想をあげることもできないが、多くの作品が笑いに走り、それに成功しているのはわずかという悪循環がある。

ぎりぎり合格点なのは「けん玉」「Pandora -Hong Kong Leg-」「JUSTICE」「ARITA」の4本か。

ちゃんと1本目から見ていきましょう。

1本目「the messenger -弔いは夜の果てで」

笑いに走らず、ハードボイルドに仕上げたのはなかなかよく、いけるかと思ったが、最後のカメラ目線で台無し。違う落としどころにそっと落とせたら見られる作品になったと思うが、これではどうにも。バイオレンスシーンもあまり迫力がない。

2本目「けん玉」

最初の肉のミンチのショットからなかなかという感じで、さすがは篠原哲雄となるが、ちょっと偶然性を物語の必然に織り込みすぎた感があるし、ラストも少々しつこい感じ。それでもアイデアの面白さと、山崎まさよし&篠原涼子の雰囲気で○。

3本目「コールド スリープ」

コメントのしようもない感じですが、結論から言えば発想におぼれたというところ。一種の謎解きと意外性を狙ったのだろうけれど、発想が陳腐というか定型的過ぎていかんとも。

4本目「Pandora -Hong Kong Leg-」

7本の中で一番まとまっている。けれどまとまっているぶん、面白みもあまりない。麿赤兒がうまく全体をまとめていて、吉本多香美もなかなかいいけれど、話としては意外性がなく、映画として特殊なアイデアがあるわけでもない。古ぼけた劇場の画はなかなか。

5本目「HIJIKI」

山盛りのひじき以外はどこかで見たことがある感じ。天井が低い家というのは『マルコビッチの穴』を思い出させていけない。オチも大体読めるし。途中いくつか面白いネタがあったのが救い。

6本目「JUSTICE」

ポツダム宣言をえんえん英語で朗読するというなんとも不思議な授業風景がいい。全体としても本当にどうでもいいことで、どうでもいいことというのは若者にとって大事なことのような気がする。そんな気持ちがふっとわく佳作。

7本目「ARITA」

最後にもってこられるだけあってアイデアは一番。広末涼子のひとり芝居という形態にしたのも短編としてまとめる上ではプラスになっている。ただ、途中のCGが妙にリアルなのに違和感を持つ。光量の調整やフォーカスの仕方などにもうまさが光る。

全体として、結局テーマを絞らなかったのが裏目に出たというか、まとまりのなさと作品の質の低下を招いたかもしれない。撮影自体は簡単に済むかもしれないが、短編のアイデアを練るにはおそらく長編と同じくらいの苦労があるだろう。多分、制約があったほうがアイデアのひねりようもあり、制約の中でどのようにオリジナリティを出すかという発想が生まれてくる。

それに対して、「どうぞ自由にやって」といいながら、時間だけは区切られているとなると、そこに自分が積み込めるものは何か、それでいて観客を楽しませることができるものは何か、という問題に突き当たるはずだ。しかもこの映画の監督たちは短編映画のスペシャリストではないわけだからなおさらのはずで、イメージ先行の安易な企画だったといわざるを得ない。

それでも、いま売れているクリエーターたちのスタイルが一望できるという点では見る価値があるのかもしれない。

13デイズ

Thirteen Days
2000年,アメリカ,145分
監督:ロジャー・ドナルドソン
原作:アーネスト・R・メイ
脚本:デヴィッド・セルフ
撮影:ロジャー・ディーキンス
音楽:トレヴァー・ジョーンズ
出演:ケビン・コスナー、ブルース・グリーンウッド、スティーヴ・カルプ、ディラン・ベイカー、ルシンダ・ジェニー

1962年10月、アメリカの偵察機U2がキューバ上空から撮影した写真にソ連の核兵器らしい影が写っていた。キューバに核兵器が配備されれば、アメリカはその射程内に入ってしまう。大統領補佐官のケニー・オドネルは大統領ジョン・F・ケネディ、司法長官ロバート・ケネディとともに戦争の危機を回避する方法を考え出そうとするが、軍部は戦争は不可避と考え即時爆撃を要求していた…

最も全面核戦争に近づいた瞬間として知られる1962年のキューバ危機を題材にしたリアル・サスペンス。わずか40年前の史実を映画にするという難しいことをうまく裁いた印象がある。サスペンスとしてももちろん面白いが、現在のアメリカの姿と比較してみると、またいろいろ考えさせられるところもある。

結果がわかっているサスペンスが面白くないのは仕方のないことなので、キューバ危機について細部まで知っている人にとってはサスペンスとしては面白くもなんともないでしょう。しかし、キューバ危機についてまったく知らない、あるいは一応知ってはいるけれど細かくは知らないという人にとってはサスペンスとしても楽しめるし、歴史としてみることもできる。歴史としてはアメリカ側からの視点しかないという留保つきではありますが。

ということなので、2時間半という長さでも飽きることはなく見ることができる。物語展開としてはわかりやすいヒーロー物というか、プロデューサでもあるケヴィン・コスナーが必要以上にヒーローとして出てきてしまっているという印象はあるが、ちょっと腹が出て生え際も後退し、2枚目然としたところは薄れたのでこれは良しとしましょう。

ということで、映画としては面白いということでいいのですが、他にも書くべきことがあります。ひとつは視点の偏り、ひとつは現在のアメリカとの対比ですね。

視点の偏りというのはもちろん、一方的なアメリカの側からの視点のみで書かれているということ。フルシチョフも登場しないし、もちろんカストロも登場しない。大使やら国連大使やらは登場するけれど、それは常にアメリカが倒すべき敵、疑わしい嘘つきとして登場する。アメリカ(の3人)はいい人で他は悪い人、そんな主張が明確に現れる。

これがあまりにばかげていると思うのは、たとえば少ししか出てこなかった米州機構との関係、この映画では米州機構の支援を意図も簡単に、自主的に取ったように描いている。しかし実際のところ、米州機構というのはアメリカがアメリカ大陸を掌握し、事実上の植民化を図る機関であって、彼らがアメリカを支援するのはその代表がアメリカが支援している親米政権だからだ。そしてその親米政権というのはアメリカが武器援助なども含めた支援によってテロリストも含めた反体制勢力を政権に立てたものに他ならない。

ソ連によるキューバへのミサイル配備というのは、そのような米州機構の中でキューバが孤立していたという背景があるということも考える必要がある。つまり、キューバへのミサイル配備というのが必ずしもアメリカへの先制攻撃のためだと決め付けられるわけではないということだ。

もうひとつ、現在のアメリカとの対比というのはもちろんイラク攻撃のことで、軍部も大統領も挙国一致で戦争へ突入しようとするアメリカと比べると、このころのアメリカはまだ良心が残っていたという印象を持つということ。やられたらやり返すという報復の精神や、自国と同盟国の人々以外の命はなんとも思っていない点では変わっていないが、あいまいな理由で戦争には持ち込まないという理念は合ったような気がする。

それが今の、何でいいから空爆したいというブッシュ政権とは違う。この映画はもちろん9・11以前に撮られた映画で、だからこそこのような映画ができたのだろう。アメリカにおいて民衆の扇動装置としても働くハリウッドは9.11以降は現政権に疑問を投げかけるようなものは引っ込めて、毒にも薬にもならない映画ばかりを送り出す。