雲南の花嫁

少数民族はあくまで飾り、チャン・チンチューのアイドル映画。

花腰新娘
2005年,中国,91分
監督:チアン・チアルイ
脚本:チアン・チアルイ
撮影:ワン・ミン
音楽:トン・ウェイ
出演:チャン・チンチュー、イン・シャオティエン、ツイ・チェンミン

 雲南の少数民族イー族のファンメイは幼馴染のアーロンとめでたく結婚することに、しかしイー族のしきたりで結婚から3年間は一緒に暮らすことができなかった。現代っ子のファンメイはアーロンが指導する娘龍舞隊に入って一緒にいられるように画策するのだが…
 チアン・チアルイによる“雲南三部作”第2弾。主演のチャン・チンチューはこのあとハリウッドに進出。

 中国にはたくさんの少数民族がいるわけだけれど、この作品はそんな少数民族の一つイー族を扱っている。イー族に独特の結婚後3年は夫婦が一緒に住むことができないというしきたり、そして夫婦が一緒になる“帰家”前の娘だけが参加できる娘龍舞隊をテーマとしている。

 愛し合って夫婦になったはずなのにすぐには一緒になれないという理不尽、そしてそれにとどまらないしきたりの不自由さ、それを現代的な娘ファンメイがどう乗り切っていくのか、というのが物語の筋になりそうな話である。が、なかなかそうはならない。実際に展開されるのはアーロンの筋違いの嫉妬とよくわからない横恋慕。このプロットがなんとも古臭い。日本で言うなら50年代に量産されたメロドラマのような感じ、いまどき田舎の中学生でもそんな恋愛はしない。

 だからなんとも退屈だ。登場人物の誰にも感情移入することは出来ないし、せっかくのイー族の独特のしきたりという舞台装置もまったく生かされていない。そもそもそのしきたりがどのようなものなのか具体的に説明されることもない。

 ただイー族の民族衣装や歌、踊りは楽しめるしチャン・チンチューはかわいい。

 このチャン・チンチューは『ラッシュ・アワー3』でハリウッド進出を果たしたポスト・チャン・ツィイーと目される女優、素朴だけれど整った顔つきがとてもかわいい。この作品もそんなチャン・チンチューの魅力におんぶに抱っこという感じでとにかく彼女の正面からのアップを使い続ける。まあ50年代の日本映画だってそうやってスターの魅力で代わり映えしないプロットの映画を売り続けたのだから文句は言えないのだが、中国とて映画が大衆娯楽の王様という時代ではもはやないだろう。

 果たしてこの映画は一体何がしたかったのか。ただのアイドル映画だというのならそれでいいが、雲南という地域と少数民族について描こうとした映画だというのならあまりにひどい。チャン・チンチューも監督のチアン・チアルイも別に雲南出身というわけではないことを考えると、やはり中国というのは地方や少数民族が低く見られている国なんだという穿った見方もしたくなってしまう。結局のところこれは少数民族という演出によってアイドルを魅力的に見せようという局地的なオリエンタリズムに他ならないのかも知れないのだ。

 映画が退屈なためについついそんなことを考えてしまう悪循環な映画だった。

片腕マシンガール

危険!グロさ満点のスプラッターアクション、井口昇のワンステップ。

The Machine Girl
2007年,アメリカ=日本,96分
監督:井口昇
脚本:井口昇
撮影:長野泰隆
音楽:中川孝
出演:八代みなせ、亜紗美、島津健太郎、穂花、西原信裕、川村亮介

 弟をいじめの末殺された女子高生のアミはいじめグループのリーダーであるやくざの息子木村翔に復讐を果たすため、失った左腕にマシンガンを装着し、立ちはだかる敵を殺し続ける…
『恋する幼虫』の井口昇がアメリカで日本の映画作品の輸入を手がけてきた“メディアブラスターズ”の出資によって撮り上げたバイオレンス・アクション。残虐シーンが盛りだくさん。

 井口昇はスカトロもののAV出身で、AVも撮り続けつつ『恋する幼虫』なんて一般映画も撮ってきた。スカトロ出身なだけに人間の肉体に対する執着は凄まじく、人間の体のかたちが何らかの形で変貌を遂げるという現象を執拗に映像にしてきた。これまでもやたらと舌が長かったり、目ん玉を出し入れしてみたり、いろんなことをしてきた。

 今回はそれが女子高生の腕がマシンガンになるというかたちをとり、さらにさまざまな暴力と特殊効果によって腕や首や胴がもげたり、穴があいたり、真っ二つになったり、焼け爛れたりする。これらの残虐シーンははっきり言って気持ち悪い。スプラッター映画に目を向けられないという人は吐き気を催すであろうほどのひどさだ。

 しかし、それは逆にそのスプラッターを演出する特殊効果のリアルさを裏打ちするものでもあるし、洗練されたアクションシーンがその印象をさらに強める。こういう過剰にリアルな残虐なアクションというものにはカルト的な需要が常にある。それはカルト≒異形という構図の範疇に収まるもので、それが暴力/アクションとつながることでそのマーケットは広がる。そのジャンルではかなり完成度の高い作品ということができるだろう。

 暴力的なカルト映画というとどうもいい印象をもたれないが、たとえばクローネンバーグやジョン・カーペンターなんてのも、もともとはそんなマーケットから現れたということも出来るだろう。

 残虐性というのは肉体の欠落と常に表裏一体であり、肉体の欠落とは異形とつながる。そして異形は畏敬につながる。“健康な”社会は異形を社会の前面から排除し、見えないものにしてしまうが、それは私たち自身と表裏一体のものとして存在しつづける。異形を描くカルト映画というのは私たちが抱え続ける“闇”の部分をそのように描くからこそ魅力を持っているのだ。

 だからカルト映画の中には私たちが日常の中で忘れがちな“闇”の中の事実を突きつける名作が時々表れる。たとえばクローネンバーグの『スキャナーズ』なんかがそれだし、日本ではこの井口昇監督の『恋する幼虫』なんかがまさにそうだ。

 というわけでこの作品にも期待していたわけだが、このような過剰な暴力との結びつきは私にとっては残念な方向性に進んだといわざるを得ない。彼の異形に対するまなざしは以前の作品ではもっと優しく、誇張しながらもわれわれに何かを投げかけていた。しかしこの作品は異形を圧倒的な暴力と結びつけることで単なる肉体の崩壊に堕してしまっている。異形と暴力を結び付けるにしても、その異形に対するまなざしにもっと深みを持たせて欲しかった。

 悪役が徹底的に悪役なのはいい。しかし肉親が殺された憎しみによって人々が残虐性を容易に獲得してしまうというプロットは絶望的過ぎはしないだろうか? 肉の塊となってしまった肉親を見て人々が感じるのは漏れなく憎しみなのだろうか? その単純化がこの作品に決定的な欠点となっている。

 カルト映画がカルト映画として一般映画ファンにも受け容れられるためにはそれが一般映画にはない複雑さをもっているときだけなのではないか。表面的には単純な暴力を描いていても、その裏には哲学的あるいは冷笑的な意図が潜んでいる。そんな意図がこの作品には欠如していると思う。

 もちろんこれは井口監督のアメリカ進出の第一歩であり、本格的に“暴力”に取り組んだ最初の作品でもある。いつの日か“暴力”を彼なりに消化して本当に世界に通用する傑作を撮ってくれるだろうと私は期待している。

俺たちニュースキャスター

ジャド・アパトーのいつものバカコメディ。でも豪華ゲストが出演。

Anchorman: The Legend of Ron Burgundy
2004年,アメリカ,94分
監督:アダム・マッケイ
脚本:ウィル・フェレル、アダム・マッケイ
撮影:トーマス・アッカーソン
音楽:アレックス・ワーマン
出演:ウィル・フェレル、クリスティナ・アップルゲイト、ポール・ラッド、スティーヴ・カレル、デヴィッド・ケックナー、セス・ローゲン、ルーク・ウィルソン、ベン・スティラー、ジャック・ブラック、ヴィンス・ヴォーン、ティム・ロビンス

 1970年代のサンディエゴ、地元で圧倒的な人気を誇るニュースキャスターのロン・バーガンディは仲間達と楽しい日々を送っていた。そこにアンカーを目指すヴェロニカがレポーターとしてチームに入ってくる。ロンがヴェロニカにアタックしふたりは恋愛関係になるが…
 ジョン・アパトー製作のおばかコメディ。ジャック・ブラック、ティム・ロビンスといった豪華ゲストが見もの。

 “ウーマンリブ”運動が盛り上がりつつある70年代、まだまだ男社会のニュースチームに一人の女性が入ってくることで展開されるドタバタ。ジャド・アパトーが映画に本格的に進出した最初の作品ともいえベン・スティラー、ジャック・ブラックらコメディ界のスター達がゲスト出演している(多くはノン・クレジット)。その後、『40歳の童貞男』、『無ケーカクの命中男/ノックトアップ』など下らないコメディを量産するジャド・アパトー・ファミリーの記念すべき第1作といえるかもしれない。

 内容のほうは、そんな記念碑的な作品にふさわしい下らなさ。テーマは70年代の男と女、女性の実際的なところと男のバカさ加減。常に男がバカでコドモだということを描き続けるジャド・アパトーらしい設定だ。人気を誇るニュースキャスターチームだが言葉もろくに知らず、酒と女にしか興味がない。それがバカバカしい笑いを生むというわけだ。いいのは小さなネタがいろいろとちりばめられているところ、2×2のルービックキューブなんかをわざわざ用意するあたりのこだわりが好きだ。

 そしてその男のバカさ加減が極まったところで豪華ゲスト出演の乱闘シーンとなる。ここもなかなか面白い。最後の最後にはIQ48のブリックがブッシュ政権のブレーンになるというブラックジョークまで披露される。

 大爆笑というわけではないが、くすくすニヤニヤしてしまうようなネタは十分、これくらいの下らなさ、これくらいの面白さなら、ウィル・フェレルの下品さも我慢できるかも。

 アダム・マッケイは何か社会批判というか社会問題を笑いにするのが好きなようだが、結局あまりたいしたことは言えないのだからやめたほうがいいと思う。この作品もどこかで男社会のバカさ加減を皮肉るという意図があったのだろうけれど、それにはまったく成功していない。変なこと考えずにあまり下品にならないバカバカしいコメディを撮っていればなかなかの監督だろうとおもう。

 ジャド・アパトー・ファミリーのコメディに支持者は少ないと思うが、うまくはまれば爆発的に面白い作品が出来るかもしれないという予感はする今まで見たところではセス・ローゲン主演の『スモーキング・ハイ』が一番面白かった。下手な鉄砲も数打ちゃあたるさ。

俺たちステップ・ブラザース-義兄弟-

コドモな大人の姿が悲しすぎて笑えない、不完全燃焼のコメディ映画

Step Brothers
2008年,アメリカ,98分
監督:アダム・マッケイ
原案:ウィル・フェレル、アダム・マッケイ、ジョン・C・ライリー
脚本:ウィル・フェレル、アダム・マッケイ
撮影:オリヴァー・ウッド
音楽:ジョン・ブライオン
出演:ウィル・フェレル、ジョン・C・ライリー、メアリー・スティーンバージェン、リチャード・ジェンキンス、アダム・スコット

 40歳にもなって仕事もせずジャンクフードを食べテレビばかり見ているブレナンとデール。その母親と父親が再婚したことからふたりは義兄弟に。その環境の変化を受け容れられないふたりは互いを嫌うが、やがて趣味の一致を見出し“義兄弟”として仲良くやるようになるのだが…
 ウィル・フェレルがジョン・C・ライリーを相棒に迎えたナンセンスコメディ。

 39歳と40歳で仕事もせず家でTVを見てジャンクフードを食べているばかりのブレナンとデール。その母親と父親が再婚したことで、ブレナンがデールの家にやってくるのだが、このふたりが本当に痛々しい。ただ仕事をせずにぶらぶらしているというのではなく、完全にコドモなのだ。やることなすこと考え方から好きなものまですべてがコドモ、見た目はおっさんなのに完全なコドモ、この姿があまりに痛々しい。

 だいたいコメディ映画というのは「こんな奴いねーよ」と思わせながらどこかでそれに近い人は存在しているような気にさせないとそこに笑いは生まれない。この映画の場合、だいの大人が子供みたいなことをしているのを笑えということなのだろうけれど、あまりにコドモすぎて気持ち悪くて笑えない。下ネタのえげつなさもその気持ち悪さを助長する。

 結局キッズ・ムービーでやるのとまったく同じことをおっさんでやったというわけだけれど、果たしてそこに何の意味があるのか。子供なら笑えることも大人じゃあ笑えない。展開としては当然自立の道を歩き始めるということになるのだが遅きに失し、いきなり大人になったふたりを見てデールの父親は「お前たちのよさをなくすな」見たいな事を言うが、本当にそうなのか?

 この作品のもうひとりのキーパーソンはブレナンの弟のデレクだ。若くして成功した彼は文句なしのいやな奴だが、はやく大人になり成功したデレクとブレナンたちの対比には意味がある。そしてデレクの妻アリスがデールにぞっこんになってしまうというところは非常に面白い。価値観というのは人それぞれで気持ち悪い大人コドモを好きになる人もいるわけだ。ここを発展させて行ってそれをブレナンたちの未来につなげたらもう少し納得できる展開になったような気がする。

 90年代の白人ラップのパロディPVとか、ゾンビのパロディなんかを使うところは面白いし、最後には白い鳩が飛ぶ。そんなこんなで笑いどころがないわけではなく、センスもさすがに悪くないと思うのだが、どうも気持ちが悪い。ウィル・フェレルの顔が気持ち悪いのは、自分でネタにしていることからも織り込み済みなのだろうが、やっぱりちょっと…

 ところで、この作品には一昨日の『スモーキング・ハイ』の主演だったセス・ローゲンもちょい役で出演している。セス・ローゲンがウィル・フェレル作品出ることが多いのは、彼らが“ジャド・アパトー・ファミリー”であるからのようだ。下品なナンセンスコメディばかり製作しているこのファミリーの作品は当たりはずれが激しいような気がするが、好きな人にはたまらないのかもしれない。アメリカンコメディ好きな方はジャド・アパトーの名前は要チェックだ。

スモーキング・ハイ

Pineapple Express
2008年,アメリカ,112分
監督:デヴィッド・ゴードン・グリーン
原案:ジャド・アパトー、セス・ローゲン、エヴァン・ゴールドバーグ
脚本:セス・ローゲン、エヴァン・ゴールドバーグ
撮影:ティム・オアー
音楽:グレーム・レヴェル
出演:セス・ローゲン、ジェームズ・フランコ、ダニー・R・マクブライド、ゲイリー・コール、ロージー・ペレス

 召喚状の配達人をしているデールは無類のマリファナ好き。馴染みの売人のソールから“パイナップル・エクスプレス”という珍しいマリファナを手に入れ上機嫌で仕事に出かけるが、そのソールの元締めだというテッド・ジョーンズのところに召喚状を届けに行くと運悪く殺人を目撃していしまう。パニックに陥ってすいかけのマリファナを捨ててきてしまったデールはそこから足がつくと思いソールのところに駆け込むが…
 カナダの若手コメディ俳優セス・ローゲンが脚本・主演を務めたクライム・コメディ。ハイテンポな展開と小ネタがケッサク。

 このコメディは相当面白いと私は思う。もちろんコメディというのは見る人によって面白いと思えるかどうかが大きく変わるし、見る時期や気分によってもその面白さは大きく左右されてしまう。しかしこの作品は名作とは言わないまでもかなりの人が笑える作品だろうと思う。

 この作品の主人公デールはマリファナが好きなだけの無害な男。しかしたまたま殺人を目にしてしまって危険な男たちに追われる羽目になる。逃げる相棒となるのは売人のソール。ふたりして間抜けなことを繰り返し、どんどん追い詰められていってしまう。しかし、この2人が善人だというのがこの映画のミソである。善人というよりはガキなのかもしれないが、私欲のために相手を裏切ったりすることはなく、ある意味ではロマンティックな男たちなので安心してみることができる。そんなキャラクターの構築の仕方がとてもうまい。

 そしてもうひとつ面白いと思ったのは私たちがアクション映画を見ているときに「ほんとかよ!」と思うような突込みどころを見事に笑いにしているというところ。カーチェイスをしているときに何かの理由で前が見えなくなり、フロントガラスを蹴破るというのはアクション映画で時折見られる光景だが、この作品でもそれをやろうとして足がガラスに突き刺さって抜けなくなってしまう。運転しながら見事に割って運転し続けるよりも、そのようが「さもありなん」という感じがする。しかも足を突き刺したまま運転している状況を外からも撮影しているその画が笑える。

 ほかにもそんな小ネタが結構ある。そしてそのたびに間抜けな画で観客を笑わせる。このノリが映画ファンの心をくすぐる。

 下ネタも満載だが、そんなに下品なものではなく、大人なら笑い飛ばせる類のもの。2人のガキっぽさを演出するのに欠かせない要素ともいえるので、あって正解。ただ劇場公開されればPG12くらいにはなっただろうという感じはする。

 この主演のセス・ローゲンはカナダ出身のコメディ俳優。16歳で「フリークス学園」というTVシリーズに抜擢されたが、予定放送回数を終えることなく打ち切りとなる。しかし『ボラット』のサシャ・バロン・コーエンの「Da Ali G Show」に脚本家として参加、2006年には『40歳の童貞男』で映画デビュー。2007年の『スーパーバッド 童貞ウォーズ』では脚本にも参加した。

 この『スモーキング・ハイ』は「フリークス学園」のプロデューサで『40歳の童貞男』の監督でもあるジャド・アパトー、「Da Ali G Show」の共同脚本家であるエヴァン・ゴールドバーグとセス・ローゲンの3人で原案から作り上げた作品である。この3人の誰しもが決して有名とはいえないが、これからヒットメイカーになっていくのではないかという予感がする。

 この作品のセス・ローゲンは非常にうまいと感じさせる。面白いというよりはうまい。すごく普通な感じなのでシリアスなシーンも演じることができるのに、瞬発力があって笑えるシーンでは面白さが爆発する。『40歳の童貞男』という映画はあまり面白くなかったが、主人公の同僚を演じていたセス・ローゲンのことは記憶に残っている。

 ハリウッドのコメディ映画にはその時代時代にスターが生まれる。このセス・ローゲンがスターになるかどうかはわからないが、脚本もかける器用さがあるから、近い将来アダム・サンドラーのような存在にはなるだろうと思う。

MID ミッション・イン・ザ・ダーク

Connors’ War
2006年,アメリカ,90分
監督:ニック・キャッスル
脚本:D・カイル・ジョンソン
撮影:シュキ・メデンセヴィック
音楽:ジェームズ・ベアリアン、ルイス・キャッスル
出演:アンソニー・“トレッチ”・クリス、ブル・マンク、マニア・ピープルズ、ガーウィン・サンフォード

 大統領夫人を人質として閉じこもる事件が発生。シークレットサービスが駆けつけると、そこではすでにブルックス率いるチームがいて、彼の部下コナーズが単独で救出に向かう。そして見事に救出に成功するのだが…
 アメリカでオリジナルビデオとして作られたクライム・アクション。SF的要素や陰謀の要素などいろいろ盛りだくさんだが、凡庸な印象は否めない。主演は“Naughty by Nature”のラッパー“トレッチ”ことアンソニー・クリス。

 最初に大統領夫人を人質に立てこもるという事件が置き、シークレットサービスとは別のチームとしてブルックスとコナーズというエージェントが現れる。彼らはシークレットサービスのボスのグリーンとは対立しており、先んじて事件を解決することで鼻を明かそうと考えるのだ。そしてコナーズは見事に犯人達を倒し、大統領夫人の救出に成功するのだが、シークレットサービスが突入させたスワットの行動によって失明してしまう。その3年後、無為に過ごすコナーズををブルックスが訪ね、仕事に戻るよう誘いをかける。

 つまり、盲目のエージェントが活躍する話ということ。そこにブルックスとグリーンの対立、二人の過去、戦争、陰謀、などが絡んでサスペンスを展開する。そしてもちろんコナーズをめぐるちょっとしたロマンスも入れ込まれる。

 アイデアに意外性があるわけでもなく、アクションに新しさがあるわけでもなく、出ている誰かが光っているわけでもない。愛国心と功名心の相克といういかにもアメリカらしいテーマがアクセントになってはいるが、あくまでもアクセントであってそこを追求した作品というわけでもない。つまらなくはないので、90分という時間を過ごすことは出来るけれど、見たことすら忘れてしまうような作品でもある。

 引っかかることといえば、筋肉はムキムキだが演技も特にうまくなく、アクションがうまいわけでもないこの主演の俳優。知っている人は知っている90年代に売れたラップグループ“ノーティ・バイ・ネイチャー(Naughty by Nature)”のラッパーであるトレッチだというじゃないか。知らない人にしてみれば「誰それ?」としかならないが、記憶に留めている人なら懐かしさを感じるんじゃないかという感じ。

 監督はジョン・カーペンターの『ニューヨーク1997』の脚本で名を上げたニック・キャッスル。監督に転じて『わんぱくデニス』なんかを監督しているが泣かず飛ばずという感じだ。

 こんな映画はたくさんある。まあそんな映画だ。

グーグーだって猫である

2008年,日本,116分
監督:犬童一心
原作:大島弓子
脚本:犬童一心
撮影:蔦井孝洋
音楽:細野晴臣
出演:小泉今日子、上野樹里、加瀬亮、大島美幸、村上知子、黒沢かずこ、楳図かずお、マーティン・フリードマン

 人気漫画家の小林麻子はアシスタント4人とともに久しぶりの読み切りを書き上げる。しかしその間に愛猫のサバが死んでしまっていたことを知る。15歳という大往生だったが、サバを失った麻子は仕事も手につかなくなってしまう。しかししばらく後ペットショップで子猫を見かけた麻子はその子猫を買って“グーグー”と名づける。
 大島弓子の同名漫画を犬童一心が映画化。吉祥寺を舞台に暖かい人間ドラマが展開される。

 締め切りを間近にした人気漫画家とアシスタント達。そのアシスタントが森三中であってもその雰囲気には緊張感があり、その間に静かに別れを告げる猫のサバの存在もあって、この最初のシーンは魅力的である。だから、語り手の上野樹里演じるナオミも主人公の麻子もすんなりと受け入れられ、その世界にすっと入ることができる。

 だから、その後の猫を失った哀しみというか虚しさや、その中で出版記念パーティーに出るということのわずらわしさ、ペットショップの前で躊躇する感覚、それらもよくわかる。しかし、ここで入り込んでくる楳図かずおとマーティン・フリードマンはどうにも邪魔だ。マーティン・フリードマンは吉祥寺という街を紹介するからまだいいが、楳図かずおのほうは吉祥寺で漫画家といえば…というだけで出ているだけで、本編には一切関係がない。彼が悪いわけではないが、その存在が作品の雰囲気を壊してしまっているといわざるを得ないだろう。

 それを除けば決して悪い映画ではない。ただ、原作者のファンだという犬童一心監督の思い入れが強すぎたのか、多分に映画的とはいえない語り口になっているのは気になる。物語の語り手は麻子のアシスタントのナオミなわけだが、その麻子への思い入れがそのまま作品に反映され、漫画そのもの(大島弓子の作品)がたびたび登場し、その中の言葉が文脈とあまり関係なく引用される。その語り方が今ひとつテンポを生まないのだ。

 それはこの物語の前半が麻子が猫を失い、新しい猫を飼い、一人の男性に出会うということに終始してしまっているかもしれない。それに比べて物語の核となる最後の30分ほどは内容も濃く、プロットの構築も秀逸で非常に見ごたえがある。

 それだけに大部分を占める中盤部分の緊張感のなさがどうにも気になる。冒頭でぐっと引き込まれたものが1時間ほどのゆるい時間の中でほどけてしまい、せっかくの内容の濃い最後にも乗り切れなくなってしまう。もっと中盤部分を圧縮して、麻子の再生を描いたとある意味ではいえる終盤に時間を割くことでこの作品のコンセプトがはっきりし、メリハリもついたのではないかと想像する。そうすれば『グーグーだって猫である』という題名が持つメッセージの重みももっとはっきりしたのではないか。

 それでも小泉今日子と上野樹里で映画としては成立する。特に小泉今日子は本当にうまいと感じさせる。彼女ももはや中年に入ったわけだが、中年に差し掛かった雰囲気を体中から発しているようだ。加瀬亮も悪くないのだが、小泉今日子の前ではかすんでしまい個性を出そうともがいているのが少しこっけいにも見えてしまう。上野樹里は小泉今日子とは対照的な存在感があるので2人が打ち消しあうことはなく、非常にいいコンビだと思った。

 猫と女優を見るためならばなかなかいい作品かもしれない。

アイ・アム・レジェンド

I Am Legend
2007年,アメリカ,100分
監督:フランシス・ローレンス
原作:リチャード・マシスン
脚本:マーク・プロセヴィッチ、アキヴァ・ゴールズマン
撮影:アンドリュー・レスニー
音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
出演:ウィル・スミス、アリシー・ブラガ、ダッシュ・ミホク、チャーリー・ターハン

 2012年ニューヨーク、癌の特効薬として開発された薬でニューヨークの住人のほとんどが死滅。一人残ったロバート・ネヴィルはそのウィルスに対する特効薬を開発しようとする研究者だった。彼は相棒の犬のサムとともに食料を求めて街をさまよう…
 リチャード・マシスンのSFの古典「地球最後の男」の3度目の映画化。

 原作は「地球最後の男」、生き物をゾンビ化させるウィルスによってニューヨークの住人が一人を残して全員死滅、感染者たちは陽の光のもとでは活動できず、夜のみ活動する。そんな中、唯一を免疫を持ち、生き残った研究者のロバート・ネヴィルが感染者たちを治療する特効薬の研究に望みをつなぐ。

 そんな内容だがら、想像されるのは圧倒的なパニック映画。逃げて逃げて逃げまくり、数少ない生存者と出会い、戦いを挑むという。

 しかし、この映画は非常に穏やかに展開する。無人で廃墟と化したニューヨークをウィル・スミスがひとり犬と闊歩するのみ。研究室でマウスを実験台に実験をし、DVDショップでマネキンに話しかける。

 後半に入ると展開は一変し、いわゆるゾンビ映画/パニック映画の様相を呈するのだが、この後半にあまり新しさはない。ゾンビと化した感染者はかなり怖いので、それで迫力はあるが特段すごいというわけでもない。ウィル・スミスはいい役者になったと感じさせるが、この結末はちょっと臭すぎるというかあまりにあまりという感じで脚本で損をしているんじゃないかという気がする。

 そんな後半だからむしろ面白いのはゾンビ映画/パニック映画にしては長すぎて穏やか過ぎる前半だ。ここでの彼と犬のコンビはかなり見せてくれる。同じ原作で3度目の映画化というのがこのちょっと変わった構成にさせたのか、この構成は成功だと思うが、それでもやはりそれほど面白い作品にはならなかった。

カランジル

Carandiru
2003年,ブラジル,145分
監督:ヘクトール・バベンコ
原作:ドラウジオ・バレーリャ
脚本:ヘクトール・バベンコ、フェルナンド・ボナッシ、ビクトル・ナバス
撮影:ウォルター・カルバーリョ
音楽:アンドレ・アブジャムラ
出演:ルイス・カルロス・ヴァスコンセロス、ミウトン・ゴンサウヴェス、アイルトン・グラーサ、ロドリゴ・サントロ

 ブラジル最大の刑務所の一つであるカランジル刑務所、80年代にそこに医師として派遣された“先生”は劣悪な環境におかれた囚人たちとの間に絆を結び、信用されるようになっていた。しかし、そこはやはり囚人たちの世界、思いもかけないことが次々とおこる。
 実話をもとにした原作を『蜘蛛女のキス』のヘクトール・バベンコが映画化。信じがたい現実の迫力がある。

 定員以上に詰め込まれたカランジル刑務所に新たに派遣された医師、彼は人にあふれた刑務所の劣悪な環境を目にする。観客は同時にその刑務所の囚人たちに許された自由に驚く。そもそも囚人たちを仕切るのも囚人で、彼らは房の中で煮炊きをし、金属を加工した刃物までもっている。タバコはもちろん、マリファナ、クラックなどさまざまなドラッグが蔓延している。

 医師はそのドラッグや性交によって刑務所内に広がっているエイズの予防を主な仕事としているがもちろんさまざまな怪我や病を抱える囚人もやってくる。そして彼らが語る刑務所に入れられるまでの人生が小さなエピソードとして一つ一つ語られる。ふたりの女を愛しどちらとも別れられない男、姉に対する暴行の復讐で人を殺してしまった青年など。

 ここで驚くのはその話も含めて驚くべきことがすべて当たり前のことのように受け取られてしまっていることだ。この刑務所で起こっていることや彼らが語ることは私たち日本人の想像を越えてしまう。この医師は囚人の一人がクラックをやりながら別の囚人の傷を縫合しているのを見ても驚かず、縫合が正確なのを見ると何もいわない。

 場所は刑務所で、環境は劣悪ではあるけれど、そこには自由があり、刑務所の厳しさよりは楽園のようなのどかさが感じられるのだ。

 この作品の監督ヘクトール・バベンコといえばウィリアム・ハートが主演した『蜘蛛女のキス』で日本でも知られている。この作品はアルゼンチンの作家マヌエル・プイグの原作で、ラテンアメリカ文学の特徴であるマジック・レアリズムの要素を感じさせる作品だ。そして今回の『カランジル』に登場する“レディ”は『蜘蛛女のキス』でウィリアム・ハートが演じたモリーナを髣髴とさせる。

 そしてそれはこの『カランジル』にもどこかマジック・レアリズム的雰囲気を漂わせるのに一役買っている。この作品が描いているのは紛れもない現実だ。劣悪な環境の刑務所、そして物語の終盤に起きる暴動、これらは厳然たる現実である。しかし刑務所内の彼らの生活や彼らが語る暴動の推移はどこか現実離れした雰囲気も持つ。

 マジック・レアリズムとは現実ではありえないことを現実のように感じさせるものだが、この作品から感じられるのはラテンアメリカの(ここではブラジルの)現実というのは私たちにとってはまるで魔術的なもののように見えるということだ。果たして本当にこんなことが起こりうるのか。まったく信じがたいけれどこれは本当に実際に起こったことなのだ。

アフター・デイズ

Aftermath
2008年,ドイツ,87分
監督:クリストファー・ロウリー
脚本:スティーヴ・ミルトン
撮影:フランク・ヴィラカ
音楽:クリストファー・デトリック
出演:マイク・マッカーリー(声)

 今から1分後に全世界の人類が消滅したとしたら… 人類のいなくなった世界では数時間後に電力が止まり、動物が自由を得る。しかし同時に汚染物質や原子力発電所などは危機を招きうる…
 緻密な理論とCG技術によって人類消滅後の世界をシュミレートしたドキュメンタリーというかなんというか。

 「今突然人類が消滅したら」というまったくもってありえない前提ではじまるこのドキュメンタリーはもやはドキュメンタリーではないわけだがでもまあ劇映画ではないわけで、一応ドキュメンタリーの範疇に入れておく。

 この映画のよさは前提が完全にありえないために、どのような結果になってもそれはあくまで想像上のことでしかないということが明らかになっている点だ。この作品は決して人類に警句を発しているわけではない。環境をテーマにしたドキュメンタリーというとどうしても見ている人を脅かすような警鐘になっている場合が多いが、これはそうではないということだ。

 見ている人はただ淡々と変わり行く世界を眺める。発電所が止まり、電力が止まることで汚染物質が流れ出したり、最終的には原子力発電所が臨界を起こしたりする。しかし人間のいない地球の時間は止まらない。人間の作り上げた多くの構造物は時間とともに劣化し、崩壊する。動物や植物は生き残り、環境は変化し、気候も変わる。

 ただそれだけだ。退屈といえば退屈だが、この作品からはいろいろなことが考えられる。今人間が地球に対して行っていることの意味、もし“人類が消滅しなかった”場合にどうなるかという予測、人類が今の生活を維持するために必要としているさまざまなこと。そんなことが頭をよぎり、いろいろと考える。

 この作品のシュミレーションはおそらく正確ではないだろうし、もしかしたら実際にはまったく違うことが起きるのかもしれない。シュミレーションの対象となっている地域が北米とヨーロッパの一部に限られているのも納得がいかない。しかし、そもそもが絵空事なのだから、そんな欠点にいちいち目くじらを立てる必要はない。足りないものは自分の頭で補って自分なりにこの素材を消化して、自分のものにすればいいのだ。

 そして、CGの質もかなりのものだ。明らかにアニメーションにしか見えないところもあるが、かなりリアルなところもあって、人間のいない世界を創造するのに十分なリアリティを備えている。絵空事ではあるけれど、ありえないことではない。そんな感覚を与えてくれる。

 この作品が与えてくれる人類が唐突にいなくなった地球のビジョンが私に語りかけてきたのは、まだ取り返しはつくということだ。人類が突然消滅するという大変革がおきなくとも、私たちは自分達人類の存在を薄めて地球の回復力を助けることができる。今の地球を病気の人だと考えるなら、人類の消滅というのはいわば決定的な特効薬だ。副作用もあるけれど病をもとから絶つことができる。しかし人類としてはそんな特効薬を使われてしまっては困るわけで、それならば地球に寄生する生き物のとして、宿主がなるべく長生きでき、かつ自分達が快適にいられるようにできる限りのことをするべきだ。そんなことを私は思ったが、果たして皆さんはどうでしょうか?