デュエット

Duets
2000年,アメリカ,112分
監督:ブルース・パルトロー
脚本:ジョン・バイラム
撮影:ポール・サロッシー
音楽:デヴィッド・ニューマン
出演:マリア・ベロ、アンドレ・ブラウアー、ポール・ジアマッティ、ヒューイ・ルイス、グウィネス・パルトロー、スコット・スピードマン、ロックリン・マンロー

警察署で小学校時代の先生が万引きで捕まったところに出くわしたタクシー運転手のビリーは家に帰ると今度は妻が共同経営者と浮気しているところに出くわし、そのまま家を飛び出す。元プロ歌手のロッキーは賭けカラオケをしながら各地を転々としているが、そこに昔かかわった女の死を知らせる電話が。テーマパークの営業マンのトッドは出張先を間違え、家に帰っても妻も子供もお帰りも行ってくれない。

さまざまな理由で旅する人々がカラオケという共通点で結ばれ、その人生がカラオケのチャンピオン大会で交差するというドラマ。グィネス・パルトローと父ブルース・パルトローの最初で最後の共作として話題になった作品。

グィネス・パルトローが主役だと思ってみていたら、ちっともそうではなくて、グウィネス・パルトローとヒューイ・ルイスの組はむしろ脇役で、残りの二組のほうが主役的な役割を果たす。この二組はなかなかうまいつくりになっている。私は特にマリア・ベローとアンドレ・ブラウアーがうまいキャラクターだと思いました。

ただ、6人もの登場人物を主役級として出したことで逆にそいれぞれが薄くなってしまった観もある。マリア・ベロー演じるスージー・ルーミスのキャラクターは彼女自身がでた『コヨーテ・アグリー』などでも描かれ得たアメリカ映画には比較的よく登場するキャラクターで、それを助ける一人の男という設定もわかりやすい。

アンドレ・ブラウアー演じるレジーとトッドの組がこの映画でもっとも秀逸なキャラクター。企業戦争に精神を破壊されてしまうという設定はこれまた映画に珍しい設定ではないけれど、テーマパークの営業マンというのはアメリカ社会を象徴的にあらわすものとしては非情にうまいキャラクターだし、そのトッドを完全にこわしてしまい、旅に出させて、レジーという不思議な相方をあてがい、ロード・ムーヴィーに持っていき、さらにカラオケという小道具を絡ませる。そこにはアメリカ社会への風刺も含まれ、基本的にほとんど白人しか出てこないこの映画の中で異彩を放っている。

わたしとしては欲張って3組の物語を描かずに、このふたりのロードムーヴィーにしてしまったほうが面白い映画になったような気もするけれど。

グウィネスとヒューイ・ルイスの組は客を集めるための客寄せパンダ(表現が古いか…)的な役回りに過ぎず、映画にとっては内容を薄めるものでしかない。ヒューイ・ルイスの歌は確かにうまいし、グウィネスの歌もなかなかのものだけれど、それだけで主役級にするには物足りない。

否定的にいうならば、アメリカの商業至上主義社会を批判するようでいながら、結局その商業主義に積極的に乗っかり、映画自体の面白さを犠牲にしてしまったような映画ということになる。

ただ、逆に言うと、商業主義に無批判に乗っかることでだめになってしまう映画が多い中、それに乗っかりながらそれ自体を風刺するというスタンスを取ったということは評価できるのかもしれない。

スパイダーマン

Spider-man
2002年,アメリカ,121分
監督:サム・ライミ
脚本:デヴィッド・コープ、スコット・ローゼンバーグ、アルヴィン・サージェント
撮影:ドン・バージェス
音楽:ダニー・エルフマン
出演:トビー・マグワイア、ウィレム・デフォー、キルステン・ダンスト、ジャームズ・フランコ、J・K・シモンズ、クリス・ロバートソン、ローズマリー・ハリス

科学好きの高校生ピーターは遅刻ばかりするさえない男、6歳のころから想いを寄せる隣に住むメリー・ジェーンにも気持ちを打ち明けることができない。そんなピーターの親友は高名な科学者ノーマン・オズボーンの息子であるハリーだけだった。ピーターはクラスで見学に出かけた大学の研究所で遺伝子組み換えしたクモに咬まれてしまう。そして翌朝起きると、ピーターの体にさまざまな異変が起きていた…

世界中で読まれ、アニメにもなった「スパイダーマン」を現代版として映画化。VFX技術を駆使して、スパイダーマンの超人的なアクションを可能にした。監督は『死霊のはらわた』をはじめとしたホラー映画で知られるサム・ライミ。

原作がアニメだからなのか、それとも監督のキャラクターなのか、エンターテインメントに徹してあまり細部にこだわらないところがいい。こういうアクション映画を撮ろうとするとき、VFXまで駆使してリアルに描こうとしているので、ストーリーテリングの部分までリアルにしたくなるのが人の性というような気もするが、この監督はそんなことはしない。ピーターを咬んだクモがそのあとどうなったとか、スパイダーマンの衣装は何で燃えたり破れたりしないんだとか、そういう瑣末なことにはこだわらず、ただただ観客を楽しませることに専念する。

だから、VFXもそれを見せるために使うのではなく、スパイダーマンやグリーン・ゴブリンにいかに存在としての立体感を出すかというために使われる。アクションの場面でこれ見よがしにスローモーションで見せたりするシーンはあまりない。けれど、まったくないわけではなく、どう考えても『マトリックス』のパロディ(翻案?)という場面もはさまれる。

パロディといえば、単純にアクション映画にするのではなく、奇妙な笑いを挟むのも独特なホラー映画を撮ってきたサム・ライミの感性というような気がする。グリーン・ゴブリンが歌うスパイダーマンの歌とかもあるけれど、ホラー映画を数多く作っているだけに、人が死ぬときにさまざまな工夫がなされているような気がする。そこに感動を入れるのか、笑いを迷い込ませるのか、そのあたりがなかなか考えられているのです。

などということも含めて、何も考えずに楽しめるという意味ではなかなかいいでしょう。子供が見て喜ぶというよりは、結構大人向けの娯楽映画という気がします。もちろん子供でも楽しめるわけですが、子供はたぶんアクションとかかっこよさとかそういうものにとらわれてしまって、皮肉な笑いなんかは見ないと思うのでちょっともったいない。よく言えば、大人でも子供でも楽しめるということになると思いますが、楽しむ以上のものはまったく持って何もありません。

それにはひとつの要素として、これが今後も続編が作られて、これは連続ドラマの第1話みたいな役割をしているというのもあるでしょう。全体像を明らかにして、これからいろいろと発展させていこう見たいな感じ。サム・ライミも最近駄作ばかり作っていたので、このシリーズ化でお金もうけて、自分の好きな売れないどろどろホラーでも作ろうと思ってるのかね?

MONA(モナ) 彼女が殺された理由(わけ)

Drowing Mona
2000年,アメリカ,95分
監督:ニック・ゴメス
脚本:ピーター・ステインフェルド
撮影:ブルース・ダグラス・ジョンソン
音楽:マイケル・タヴェラ
出演:ダニー・デヴィート、ネイヴ・キャンベル、ベット・ミドラー、ケイシー・アフレック、ジェイミー・リー・カーティス、ウィリアム・フィクトナー

町中の嫌われ者の中年女モナの運転する車ががけから転落して、モナは死んでしまった。警官のラッシュは殺人事件として捜査を始めるが、夫のフィルをはじめとして疑わしい人物ばかりで、一向に捜査は進まず、小さな町だけに人間関係も複雑で…

ダニー・デヴィートがプロデュースも担当したミステリー・コメディ。全米ではボックス・オフィス第1位にもなった映画で、日本ではビデオリリース後に劇場公開という不思議な展開を見せた映画。コメディに定評のある渋めのキャストとこれからという若手の役者たちがうまく絡み合う。

基本的にはコメディということになるんでしょう。こういうブラックな笑いというものが受ける土壌がアメリカにはある。日本にはあまりない。ベット・ミドラーは最近は忘れられているかもしれないけれど、本当は歌手で、でも俳優としてのほうが売れてしまい、しかもコメディエンヌとしての才能がある。基本的にこの映画みたいなうるさい嫌な女を演じることが(コメディ)では多く、シリアスでは優しいお母さんみたいな役が多い気がしますが、やはり嫌な女のほうがうまい。

よく考えたらこの映画、『殺したい女』の焼き直しじゃない? あれは確か、ダニー・デヴィートとベット・ミドラーが夫婦だったはず。あの映画は面白かったなぁ…

ちょっと違う映画の話になりそうになりましたが、この『MONA』でもベット・ミドラーは(死んでるのに)いい味を出している。いろいろと役者がいるわけですが、(死んでいるのに)一番目立つ。殺された人が主人公という映画もなかなか珍しいんじゃないでしょうか。

そういえば、ベット・ミドラーとキャシー・ベイツって時々ごっちゃになりませんか? キャシー・ベイツはあの『ミザリー』の人ですが、二人ともまるっこくて、おばさんで怖い役をやらせたらうまい。それから、ダニー・デヴィートとジョー・ぺしも。これはちっちゃくてはげてるってだけだけど…

また関係ない話に言ってしまいました。この映画の話をすると、エーと面白いですが、なんとなく全体に暗い感じがする。ずっと曇っている感じ。たぶん低予算映画なので照明をたけなかったのかもしれませんが、とにかく曇り。でも、この曇りってのがモナの怨念みたいな感じでいい。死んでも目立ち、死んでもひとをやな気持ちにさせる。それがモナ。という感じです。

全米1位というのはよくわかりませんが、アメリカ人も超大作ばかり見ちゃいられないってことですかね。こういう普通の映画をみるのも楽しい。

わすれな草

半支煙
2000年,香港,101分
監督:イップ・カムハン
脚本:イップ・カムハン
撮影:ピーター・パウ
音楽:チウ・ツァンヘイ
出演:エリック・ツァン、スー・チー、ニコラス・ツェー、サム・リー

ブラジルから30年ぶりに香港に帰ってきたヒョウ、銃を握り締め変わってしまった街を歩く彼はとある本屋で娼婦の体に触ったといって男にでかいナイフで切りつける若者を目にする。その後、その若者スモーキーがチンピラにからまれているところを助けたヒョウは30年前の復讐のために香港に戻ってきたといい、スモーキーに殺しの手伝いをしないかと持ちかける…

香港の俳優/監督/プロデューサーのエリック・ツァンが若手監督イップ・カムハンと組んだ作品。ウォン・カーウァイを思わせる構成と70年代風の雰囲気がミックスされた感じ。

映画の始まりは外国で、どう見てもメキシコだけど、設定はブラジルということでそういうことにしておきます。

それはさておき、香港に入るとなんともウォン・カーウァイな感じ映像の感じや色彩の感じもそうだし、なんといってもスモーキーが連れている娼婦がウォン・カーウァイの世界のひとである。それでも、全体的にみると70年代の日本映画(ATGあたりの雰囲気)も感じさせるちょっとレトロなイメージになっている。香港映画自体が日本から見るとレトロな感じがするけれど、ウォン・カーウァイはそれを同時代的なものに引き上げたはずだ。

にもかかわらずレトロな感じというのは、戻ってしまったということなのか、と思うけれど、おそらくそのあたりは意識的にやっている気がする。設定からしてベースに70年代があり、主人公のヒョウは70年代を引きずっているのだから、コレはある種の懐古趣味、70年代をリバイバルしようという意図の表れと見ることができるだろう。日本でも清順がリバイバルされるように70年代的な雰囲気が出来上がっていた(この作品の日本での公開は2001年)。

ということで、懐古趣味のように見えて実は同時代的な作品であったということは言える。

スタイルはそのようなことなわけですが、肝心の内容はといえば今ひとつテンポがない。どうしてもウォン・カーウァイと比較してしまうけれど、ウォン・カーウァイの流麗さにかけている。ウォン・カーウァイの流麗さはクリストファー・ドイルのカメラによるところが多いわけだけれど、この映画はそれを欠き、なんとものんべんだらりとした映画になってしまっている。

ラストあたりはなんだか不思議な空間ができていていい感じだけれど、そこまでは謎解きという感じの話の持って行き方をしながら、最後は不思議な感じをだしてごまかしたような観もある。

つまらないわけではないけれど、特に面白いわけでもない。現代的な香港映画としては平均点という感じなのでした。

三姉妹日記

2002年,日本,39分
監督:清水信貴
脚本:清水信貴
撮影:森田敬二、西浜梓珠子、福本明日香
出演:植村奈緒美、日高真弓、三国由奈、小林正志、若林裕太

川でおぼれていたところを助けられた智子は三姉妹で暮らす家にその命の恩人中山を住まわせる。次女の久美子はそんな智子に納得がいかないが、ちょっと頭の弱い中学生の三女の結子は中山に恋心を抱く。ある日、結子が中学生の三人組にちょっかいを出されているところを見かけた中山は結子を助けようと三人組に詰め寄るが…

映画美学校の卒業制作として作られた作品の一本。不思議なテンポで笑いを織り交ぜながら展開していくシュールなコメディ。映画としてまとまっている一方でコメディにしては遊びに欠ける。

月のある場所』と比べると、こちらは映画としての安定感がある。もちろん映像もそうだが、話の展開もわかりやすく、スムーズに流れていく。映画には必ずリズムというものがある。リズムが整っていればいい映画というわけではないが、この映画には一貫したリズムがあり、それが映画の見やすさにつながっていると思う。

しかし、この映画の性質からすると、そんなにすんなり見られてしまっていいのかという感じがしてしまう。ブラックな笑いをちりばめながら、それすらもスーっと流れてしまうような感じ。せっかくのネタも強調されることなく、「笑える人は笑えばいいよ」とでもいいたげな間がそこにある。

あとは、全体的になんだかセンスが古い、90年代前半か、下手すると80年代くらいのセンス。狙いなのかもしれないけれど、その違和感は最後までぬぐえず、今ひとつ映画に溶け込むことができなかった。

そして、その雰囲気に全体が絡め撮られてしまって、なかなか面白い三姉妹のキャラクターも80年代のぼけたアイドルに見えてきてしまうのももったいないような気がした。

面白かったところといえば、中山が始終同じ格好をしている点か。全体的にはリアリズムとは無縁な、あるいは逆にリアリズムを無視した物になっているのに、そこだけは妙なリアリズムが感じられて面白い。ずっときれいだから、洗濯はしてるんだろうなぁ

月のある場所

2002年,日本,43分
監督:杉田協士
脚本:杉田協士
撮影:松田岳大、川越真樹、西浜梓珠子
音楽:松川光弘
出演:田子真奈美、中村小麦、塩見三省、天光真弓、青木富夫

母親の見舞いに訪れた真奈美は隣のベットで寝ていた少女と枕に置かれていた鈴に目を奪われる。真奈美の声に反応したように見えた少女だったが、少女の叔母の話では反応はするけれど植物状態なのだという。そんな少女の元を何度も訪れるようになった真奈美だったが、ある日枕もとの鈴を持っていってしまい、次に訪ねていったときには少女はすでにいなくなったあとだった…

映画美学校の卒業制作として作られた作品の一本。映画の展開にひねりがあり、物語に引き込まれるが、少々わかりにくいという面もある。映像もみずみずしさを感じさせる部分も多いが、映像が先走った感もある。

ちょっと展開を追うのが難しいというか、話がどう展開しているのか理解するのにちょっと考えないといけないというのはありますが、私は結構そういう映画は好きなのでその点はそれほど苦にはなりませんでした。逆に、その展開の飛び方が非常に映画的というか、観客を映画の側に引き込む効果として面白いという感じ。役者も真奈美と小麦のふたりはなんともいい雰囲気があっていいです。

問題はといえば、なんといってもカメラが語りすぎるところでしょう。この映画は結構パン撮影が多いわけで、それ自体が悪いということではないし、カメラもそれほどぶれたりするというわけでもない。問題は役者が動いたり話したりする前に、繰り返しますが前にカメラが動いてしまう。役者が何かアクションを起こす前に、「そこに何かある」とカメラが語ってしまう。そこがどうも問題です。

やはり映画とはドラマであり、ドラマとは映画の中で演じられるべきものである。それははなから否定することも可能ではありますが、この映画はそれを否定しようとしているわけではない。となると、映画の中でドラマは進行しなければならない。にもかかわらず、観客にとっては映画の「外」であるべきカメラがドラマをおし進める役目を果たしてしまっている。これはやはり映画として大きな問題だと思います。

映像的にはドキュメンタリー風の映画の悪い見本と言わざるを得ないでしょう。光の使い方もなんだか揺らぎがあった気がします。

とはいえ、けなしてばかりもいられない。私がこの映画を評価する点は映画が立ち現れる箇所があったということですね。それを一番感じたのは、微妙に色の違う鈴がぐっとクロースアップになったところ。その画面はこの映画が捉えることのできた何か非常に「いいもの」が映っていました。

他には、縁側に座った真奈美をふっと(ぐっととかふっととかよくわかりませんが)ロングで捉えたところなんかもよかったと思います。

トスカ

Tosca
2001年,フランス=ドイツ=イタリア=イギリス,126分
監督:ブノワ・ジャコー
原作:ヴィクトリアン・サルドゥ
脚本:ジョゼッペ・ジャコー、ザルイジ・イリッカ
撮影:ロマン・ウィンディング
音楽:ジャコモ・プッチーニ
出演:アンジェラ・ゲオルギュー、ロベルト・アラーニャ、ルッジェロ・ライモンディ、マウリツィオ・ムラーロ

 プッチーニのオペラ『トスカ』をスクリーン上で演じた作品。舞台を映画化する、あるいはオペラをドラマとして見せるのではなく、映画という舞台装置の中でオペラを表現するという珍しい表現形式をとる。
 1800年のローマ、教会で壁画を描いていたマリオ・カヴァラドッシのところに政治犯として投獄されていた友人のアンジェロッティがやってくる。そこにカヴァラドッシの恋人トスカがやってきてマリオはアンジェロッティを隠した。そしてトスカが去った後アンジェロッティを逃がすが、そこに警視総監のスカルピアがやってきて…

 オペランファンにはたまらないのだろうか? 出ている人たちはオペラ界ではかなり名の売れた人たちらしい。オペラを愛好する人たちは結構いるとは思うけれど、一般的に知られているといえば、三大テノールくらいのもので、なんともマニアックな世界という気がしてしまう。だからこの映画がオペラファンにはたまらないものであっても、私には映画ですらない映画としか思えない。
 オペラとして面白いのかどうかはおいておいて、これが映画になっているのかどうかを考えてみると、オペラをそのまま映画にしたものではなく、映画のためにオペラを作り変えたものなので、多少は映画よりになっているということはいえる。そしてより映画的にするためにドキュメンタリー的要素も取り入れたということになるのだろう。
 しかし、このドキュメンタリー的要素として導入された収録現場の風景が逆にこの映画の映画との隔たりを物語る。映画にはやはり物語が必要であり、オペラ自体には物語がある。しかしこの収録場面には物語がない。これはつまり香港映画なんかでエンドロールに流れるNG集が映画の中に織り込まれてしまったようなもので、とりあえずの間は続くべきである映画空間を切り刻み、映画に擦り寄っただけの単調なオペラの切り売りに出してしまう。オペラによる劇がリアルであるかどうかという問題以前に、この映画は映画的空間を現出させるのに失敗しているといわざるを得ない。

 ミュージカル映画はそれが徹底して映画的空間であるがゆえに、ひとつのジャンルとして成立しえた。そこに違和感を感じる人がいたとしても、それはミュージカルそのものに対する違和感であり、いわゆるリアリズム的な映画との齟齬であり、映画というジャンルの中での差異による違和感である。いくら違和感を感じても、ミュージカル映画が映画的空間から逸脱するとこは(大部分の映画では)ない。
 この映画も収録場面の部分をはずすか、最後にもってくればある種の「オペラ映画」にはなったかもしれない。それはオペラの舞台装置を映画に変えたオペラファンに向けた映画にはなってしまうけれど、それはそれでひとつの映画になったはずだ。
 この映画がこのようにドキュメンタリー的な要素や異なった画面を使うことによって狙ったのは、オペラファン以外の観客に受け入れられようということだろう。しかしオペラファンではない私がこの映画を見る限りでは、「こんな映画を見るよりは生でオペラを見たほうが何十倍も面白いんだろうなぁ」という当たり前な感慨だけだ。

 だから、この映画はオペラファン以外にはまったく受け入れられる余地はないし、そもそも映画ではない。これも見て「オペラ見てみたいなぁ」と思ったらオペラを見に行けばいいし、私にもオペラのよさは多少伝わってきたけれど、やはりこれは映画ではない。

マーサの幸せレシピ

Bella Martha
2001年,ドイツ,105分
監督:サンドラ・ネットルベック
脚本:サンドラ・ネットルベック
撮影:ミヒャエル・ベルトル
音楽:キース・ジャレット、アルヴォ・ペルト、デヴィッド・ダーリン
出演:マルティナ・ゲデック、セルジオ・カステリット、ウルリク・トムセン、マクシメ・フェルステ

 ハンブルクのレストランでシェフとして働くマーサはすばらしい料理を作るが、スタッフには厳しく当たり、あまり打ち解けることもない。家に帰ってもしっかりと料理を作るが、食は進まず拒食症気味。休日に遊びに行くこともない。マーサを「街で2番目のシェフ」と評する友人でもあるオーナーの命令でセラピーにも通っている。そんなマーサのところに姉が交通事故死したという知らせが入る…
 女性監督であるサンドラ・ネットルベックが等身大のキャラクターを主人公にロマンティックな映画を撮った。ドイツを始めたヨーロッパでヒットし、さらにアメリカでもヒットした作品。女性ならほぼ全員が満足するでしょうという作品。料理もおいしそう…

 私はこの映画は好きですが、男性の中にはまったくもって面白くないという人も結構いるのではないかと思います。それに対して女性はほぼ全員が気に入る映画だとも思います。
 なんといってもこの映画は徹底的にロマンティックな映画。心を閉ざしていた主人公が徐々に心を開き、しかも成長していくわけですが、そこに一人の男性が現れ… とラブストーリー的な部分とシリアスな人生ものというか、ラブストーリーの枠からはみ出た部分でもちゃんと展開があり、それと主人公の心情がうまく結びついて、観客の共感を呼ぶようにできている。音楽の使い方なんかも、男っぽい観客には甘すぎる感じがするとは思いますが、映画にフィットした非常にロマンティックな音楽。それを奇をてらわずに盛り上がる場面にドンと流すので、それはもう盛り上がりをあおること請け合いです。とくにキース・ジャレットのナンバーが効いています。
 という感じですばらしいロマンティシズムの映画ということなので、展開の妙とかハラハラ感なんかはないわけです。「こうなって欲しい!」と思うとおりに物語りは展開する。マーサが運転し、リナが後部座席に座るというシーンが同じショットで2度出てくるなど映画の構成もわりにきちっとしていて、物語に入り込めるように作られているのも非常にうまいわけです。物語に入る込むことができて、あとは思うとおりに物語が展開してくれれば、それは一種の御伽噺の世界になるので、そこに浸るのは非常な快感。瞳を輝かせながら最後まで一気に… となるのです。これは皮肉でもなんでもなく、そのように観客を引き込める映画をきちっと作ったのはすごいことだと思うわけです。
 ただ、私はわずかながらロマンティックすぎると感じたわけで、それは男っぽさに価値を置いているような世にいる男性には受け入れがたい世界だということも意味しているのだと思います。

 そして、料理もとてもおいしそう。料理をおいしそうに撮るにはライティングなんかの工夫が必要なので、厨房という動きのあるところで料理をおいしそうに見せるというのはなかなか難しいと思うのですが、この映画の料理はとてもおいしそう。見終わったあとフレンチかイタリアンが食べたくなるのは男性も女性も一緒でしょう。

夜を賭けて

2002年,日本=韓国,133分
監督:金守珍
原作:梁石日
脚本:丸山昇一
撮影:チェ・ジョンウ
音楽:朴保
出演:山本太郎、ユー・ヒョンギョン、山田純大、李麗仙、六平直政、不破万作、風吹ジュン

 1958年、大阪城近くの大阪砲兵工廠跡地の近くには在日朝鮮人のバラック街があった。そこにすむばあさんが工廠跡地から拾ってきた鉄くずが高く売れたことからバラック街の男たちが総出で立ち入り禁止の工廠跡地に夜忍び込んで鉄くずを掘り起こすことになった。鉄くずは次々と出てきて、見る見る金が儲かっていったが、警察の取り締まりも日に日に厳しくなっていった。
 在日の作家・梁石日の代表作を劇団新宿梁山泊の座長・金守珍が映画初監督作品として送り出した。韓国に大規模なロケセットを作り、韓国のスタッフも参加して作られた日韓同時公開の日韓合作映画。

 原作が手に汗握る面白さだけに、「映画も…」と期待する反面だいたい原作に映画が及ばないのが通例だという気持ちもぬぐえない。この映画は後者で、やはり原作には及ばずという感じ。同じ原作の「月はどっちに出ている」は映画も十分面白く、原作とそれほど見劣りしなかったのは、原作と映画では作風が違ったからだろう。この映画は原作を忠実に映像化しようという姿勢がある反面、映画的な見せ場としてなのか、韓国へのサービスなのか、ラブストーリーを織り交ぜたり、ちょっとばたばたしてまとまりがなくなってしまった。
 あとは、出てくる人が叫びすぎ、喧嘩しすぎ。喧嘩のほうは多分事実に近いのだろうけれど、私はあまりこういうやたらに暴力的な映画というのはどうもなじめないので、今ひとつという感じでした。
 それから、まったく何の説明もなくチェジュド(済州島)の「四三事件」なんかが出てくるのはちょっとわかりにくいのではという気もします。このあたりは日本版と韓国版で編集を変えるなどして日本人にもわかりやすいように作ってほしかったと思います。チェジュドといえば、『シュリ』でも出てきた朝鮮半島の南にある島ですね。

 それでも、躍動感やわくわくとする感じはあって、悪くないなという気はする。それはやはり原作のアイデアというか、こういう事実を掘り起こして物語にしたというところに最大の面白さがあるのだと思う。
 それから、バラック街はなかなかのもので、これがロケセットというのはそんな大規模な映画を撮れる環境にある韓国をうらやむ気持ちが生まれてきます。大規模なロケセットといえば、なんと言っても黒澤ですが、黒澤までの作りこみは望むらくもないとしても、なかなかよくできたセットなんじゃないでしょうか。贅沢言うなら、もう少しぼろっちくしてほしかった。ちょっと道が平らすぎる気がするし、家がちょっとしっかり立ちすぎている気がします。あれが本当なら結構立派なバラックだったということになってしまいますが、そうだったんだろうか?

スパイキッズ

Spy Kids
2001年,アメリカ,88分
監督:ロバート・ロドリゲス
脚本:ロバート・ロドリゲス
撮影:ギレルモ・ナヴァロ
音楽:ダニー・エルフマン
出演:アントニオ・バンデラス、カーラ・グギーノ、アレクサ・ヴェガ、ダリル・サバラ、アラン・カミング

 冷戦時代、敵対するスパイとして活躍していたグレゴリオとイングリッドが恋に落ちて結婚、それを機に2人はスパイを引退し2人の子供の子育てに専念していた。しかし、ある日グレゴリオに仲間の行方不明情報が伝わり、彼らを救出する任務につくことを決める。しかし、すぐに敵に捕まり、子供たちにも敵の手が迫るが…
 ロバート・ロドリゲスとアントニオ・バンデラスのコンビがファミリー向けスパイアクションを作成。ファミリー向け“007”という雰囲気で、楽しい仕掛けがたくさんある。

 基本的には「笑い」が中心にあると思います。といってもコメディというのではなく、「笑いのたえない家庭」みたいな幸せさの象徴みたいな意味での笑い。設定としては近未来という感じで、あのしょぼい番組が人気番組というところを見ると、「笑い」そのものが失われかけている次代なのかもしれません(深読みすぎ)。その中で「笑い」を求めるというのがこの映画がファミリーにヒットする秘密だと思います。
 基本的にはロバート・ロドリゲスの凝り性ぶりが面白いわけですが、凝り性から来るのかどうか、反復ネタがなかなかいい。しかも、反復ネタというのは子供にもわかりやすいわけですね。道具がしょぼいとか、バカっていうと怒るとか、そのあたりで笑いを誘うところが非常に良心的だということです。
 子供2人ともすっかりハリウッド・スターというか役者ぶりを発揮している感じ。ハリウッドではやはり子供もただの子供ではない。特におねえちゃんのほうは「私は女優」光線がバリバリと出ていました。きっと、ドリュー・バリモアみたいにもと子役としてしっかり女優になっていくことでしょう。「やっぱりヒット・シリーズに出るのがスター女優への近道よ」とか思っているに違いない。
 そういう、プロな感じの子供がやるということは、なんか後ろ寒いものもあるけれど、出来上がった作品としては良質のものができるという感じがします。きっと子供が見たら、面白くてしょうがないんでしょう。大人が小ばかにされている感じもいいし。

 大人といたしましては、これを楽しめないようでは子供の心を失っているということなんだ、という気になる感じ。この映画はちっとも子供だましではなく、子供向けの映画というだけなので、これをみて「こんな子供だまし」と思ってしまったあなた。「子供の純真な心」を忘れています。
 とはいえ、私は子供に純真な心などないと思いますね。純真さを演じるは子供の仕事だから、そうしているだけで、本当は純真でもなんでもないのではないかしら。この映画も最後はハッピーエンドのようで、大人が押し付けたい子供像みたいなものが浮き彫りになっていてなんだか納得がいきません。作品全体の展開からすると、家族が大事というのは自然な話のような気もしますが、それも一時のことという気がします(だから続編が作れるのか?)。
 全体的には子供向き。最後は子供に見せていいと親に思わせるために親向きに作ったんじゃないかとかんぐりたくなる終わり方。でも、大人なんてそうやってだませばいいんじゃないの?とも思います。