愛しのローズマリー

Shallow Hal
2001年,アメリカ,114分
監督:ボビー・ファレリー、ピーター・ファレリー
脚本:ショーン・モイニハン、ボビー・ファレリー、ピーター・ファレリー
撮影:ラッセル・カーペンター
音楽:アイヴィ
出演:グウィネス・パルトロー、ジャック・ブラック、ジェイソン・アレクサンダー

 独身男のハルは少年時代、尊敬した父親がなくなる瞬間に一人立ち会った。その父親がモルヒネの譫妄状態で残した最後の言葉は「女は見た目だ」というものだった。それがトラウマのように働いて女を見かけでしか判断できない彼は、クラブでも美女ばかりにアタックしては振られるという生活を続けていた。そんな彼がある日テレビで有名な心理カウンセラーに出会って…
 コメディ映画のヒットメイカーとなったファレリー兄弟がグウィネス・パルトロー主演で作ったロマンティック・コメディ。グウィネスが特殊メイクで300キロの女を演じたというのも話題に。

 まあ、コメディということで、あまり細かいところにはこだわりたくないのですが、どうしても引っかかるのでいっておきます。ちょっくらネタばれ目ですが、あまり気にしないでください。
 えー、マウリシオが心理カウンセラーに会いに行って問い詰めるところで、「どうして、知らない人の心なんて見えるんだ?」と質問する場面があります。そこでカウンセラーは「見ようと思えば見える」と答えるわけですが、この会話を受け入れられるかどうかでこの映画を受け入れられるかどうかが決まってくる。
 この映画を見ていて誰もが感じる疑問は、どうして待ち行く知らない人々の心のよしあしがわかるのか? ということで、ファレリー兄弟はその根本的な疑問をわざわざ自ら持ち出してくる。しかし、その答えを観客に対して用意するのではなくて、さらりと流してしまう。この確信犯的なごまかしには何かあると考えるのは考えすぎなのか?
 そもそも、この映画における「心が美しい」という基準はあまりに短絡的過ぎる。ボランティアをやっていたり、病気のおばあさんの看病をしたり、ただそれだけで心が美しい人になってしまう。ハルが見ている心の美しさとはそんな短絡的な美しさなのだ。
 となると、この映画でいう心のよしあしが見えるというのはあくまで表層的な心のよしあしで、その程度のものならば知らない人でも見ようと思えば見えるものだといってしまっているということができるかもしれない。だとすると、この兄弟は相当シニカルでやなやつらだが、一応筋は通る。
 でも、本当のところはおそらくそんなことまでは考えておらず、あるいは考えたかもしれないけれど、考えなかったことにして、「見ようと思えば見える」という無理やりな論法で、しかも美しさの基準もわかりやすいものにして、その単純な構造から生まれる単純な物語を語る。その単純さを求めたのだろう。ファレリー兄弟のコメディの作り方にはそんな単純化の傾向が見られ、その単純な物語でとりあえず観客を映画に乗せて、周りのギャグで笑わせようという発想があるのではないか。
 なので、結論を言ってしまえば、細かいことにはこだわらず、面白いギャグがあったら笑えばいい。ということになります。

モンスターズ・インク

Monsters. Inc.
2001年,アメリカ,92分
監督:ピート・ドクター
脚本:ダン・ガーソン、アンドリュー・スタントン
音楽:ランディ・ニューマン
出演:ジョン・グッドマン、ビリー・クリスタル、メアリー・ギブス、ジェームズ・コバーン、スティーブ・ブシェミ

 子供部屋のクローゼットの扉の向こう側にはモンスターたちの世界がある。モンスター界ではエネルギーとして子供たちの悲鳴が使われるためモンスターズ・インク社ではクローゼットの扉からモンスターを派遣して子供たちの悲鳴を集めている。しかし、モンスターたちは子供に触れられると死んでしまうらしい。そんなある日、会社ナンバー1のモンスターであるサリーはあやまって子供をモンスターシティに引き入れてしまう…
 『トイ・ストーリー』『バグズ・ライフ』と同じくディズニーがピクサーと組んで作ったフルCGアニメーション。従来のCGアニメと比べると毛皮の質感の表現が飛躍的に向上、フワフワ感がとてもいい。

 エンド・ロールに注目しよう。まず、エンドロールのほぼ全編にわたって流れるNGシーン、香港映画やアメリカのB級映画によくあるおまけだが、もちろんアニメにNGがあるわけもなく、わざわざこのために作られた映像であるわけだ。それにはかなりの費用と時間が掛かる。しかし、本編を作った後で、それを作る作業はとても楽しいものだろう、あーでもない、こーでもないといいながら、笑える演出を探す、そんな楽しい作成現場が目に浮かぶようだ。
 さらに、エンドロールの最後のほうに出てくる一文、「No monster was harmed in this motion picture.」という感じの文だったと思うが、これはもちろん普通の(実写)映画で動物虐待をしていないことを断るための一文のパロディだ。こんな人が気付くか気付かないか(そもそもエンドロールを最後まで見る人も少ない)というところまで遊びを加えるその精神に、この映画のすべてが象徴される。
 そう、この映画はすべてが遊び心でできていて、楽しく遊ぶためならどんな努力も惜しまない、そんな映画だ。言い古されて言い方でいえば、子供に夢を与えるために、ということだが、そんな言い古された言い方がぴたりとくるような、ウォルト・ディズニーがアニメを作る始めたころの精神がよみがえってくるようなそんな映画だ。

 まあ、物語などは単純というか、お決まりというか、あれですが、子供というのは単純な物語をくり返し見ることを好むようなので、この映画は子供にも非常によろしいのではないかと思います。
 大人としては、ストーリーがもっと複雑だったらいいのになぁ、とは思うものの、キャラクターのかわいさ(特にブーのしゃべり方や笑い方がなんともいえない)なんかを見て、母性本能だか父性本能だかをくすぐられるもよし、アニメにしてはよくできたアクションシーンを堪能するもよし(わたしはここが一番よかった。ドアのアクションシーンは最高!)、物語のからくりの奥にある現代社会を反映したような不正や巨悪について考えるもよし。単純に癒されるもよしです。
 関係ないですが、この映画に出てくるドアって、どうしても「どこでもドア」を思い出してしまう。『ライオン・キング』の『ジャングル大帝』のパクリ方といい、なんだか納得いかないものがありますね。日本はディズニーにとってかなり大きな市場のはずなのに、こんな商売してていいのかね? というディズニーへの反感も(いくらいい映画であるとはいっても)やはりわきます。

11’09″01/セプテンバー11

11’09″01 – September 11
2002年,フランス,134分
監督:ケン・ローチ、クロード・ルルーシュ、ダニス・タノヴィッチ、ショーン・ペン、今村昌平、アモス・ギタイ、サミラ・マフマルバフ、ユーセフ・シャヒーン、イドリッサ・ウエドラオゴ、ミーラー・ナーイル、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
脚本:ユーセフ・シャヒーン、サブリナ・ダワン、アモス・ギタイ、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ、ポール・ラヴァーティ、クロード・ルルーシュ、サミラ・マフマルバフ、イドリッサ・ウエドラオゴ、ショーン・ペン、マリー=ジョゼ・サンセルメ、ダニス・タノヴィッチ、天眼大介、ピエール・ウィッテルホーヘン、ウラジミール・ヴェガ
撮影:リュック・ドリオン、エブラヒム・ガフォリ、ピエール・ウィリアム・グレン、ヨハヴ・コシュ、ムスタファ・ムスタフィク、ホルヘ・ムレール・シルバ、モフセン・ナスール、岡正和、デクラン・クイン、ナイジェル・ウィローフビー
音楽:マイケル・ブルック、モハマド・レザ・ダルヴィシ、マニュ・ディバンゴ、オズワルド・ゴリジョフ、岩城太郎、サリフ・ケイタ、ヘイトール・ペレイラ、グスタフォ・サンタオラーラ
出演:エマニュエル・ラボリ、タチアナ・ソジッチ、ウラディミール・ヴェガ、田口トモロ、オケレン・モー、タンヴィ・アズミ

 2001年9月11日、NYのワールド・トレード・センターなどアメリカ全土で起こった同時多発テロ、このテロに対する反応として映画界が作ったのは、世界中の11人の監督に、11分9秒1フレームの短編を撮らせ、それを一本の映画とすることだった。
 かくして、アメリカ、イギリス、フランス、日本、イラン、イスラエル、インド、ボスニア、ブルキナファソなどの監督が自らの思いを映画にした。同時多発テロを直接描いたものから、その後について描いたもの、直接的には関係ない戦争の話を描いたものなど、内容は多岐にわたる。
 日本からは今村昌平監督が参加。

   面白いと思ったのは、2本目のクロード・ルルーシュのと、真ん中へんのブルキナファソのやつですかね。特に、ルルーシュのは非常にうまい、という気がします。それは、同時多発テロという世界的な大事件があったにもかかわらず、彼女は彼との分かれの手紙を書くことばかりに気をとられていた。もちろんそのようなことが起こっていることに気づいていれば、彼のことを心配し、手紙を書くのをやめていたのだろうけれど、そうではなくて手紙を書き続けた。それは彼女が聴覚障害者であったというのも理由の一つではあるけれど、そういうことはどこでも誰にでも起こっていた。日本でも翌朝起きるまで知らなかった人もかなりいただろうし、ワールド・トレード・センターの中にいた人もまた、いったい何が起こっているのかはわからなかっただろう。
 それはイランの子供たちも同じで、メディアから隔絶された生活をしている彼らにはそんな事件が起こったことは伝えられないし、伝わったとしても、高層ビルがどんなものであるかわからないのだから、どれほどまでに悲劇なのかを伝えることはできない。その意味でサミラ・マフアルバフの作品もわれわれに一つの示唆を与えてくれる。

 などと、言葉を並べていますが、9.11についてはこれまで散々言葉で語られてきて、それに反して映像で語ろうとする試みがこの映画なのである。だから私はこの映画に関してはあまり言葉で語らず、いろいろに解釈されうる断片の集合をそのまま無言で受け取りたい。いろいろな人がこの事件をいろいろな受け取り方をした。そのほとんどは言葉にならないような感情で、私自身も心の中で言葉にならない何かが起きた。この映画はそのような言葉にならない体験を思い起こさせ、反芻させ、忘却の淵から引き上げる。そのようなものだから、私はこれ以上ことばによってこの映画の力をそぐことはしたくない。

バガー・ヴァンスの伝説

The Legend of Bagger Vance
2000年,アメリカ,125分
監督:ロバート・レッドフォード
原作:スティーヴン・プレスフィールド
脚本:ジェレミー・レヴェン
撮影:ミヒャエル・バルハウス
音楽:レイチェル・ポートマン
出演:ウィル・スミス、マット・デイモン、シャーリーズ・セロン、ジャック・レモン

 ゴルフ場で倒れた老人が、回想する昔話。
 南部の町サバナ一のゴルファーといわれていた青年ジュナは第一次世界大戦に参戦し、戦場で受けたショックからゴルフをやめてしまった。一方、ジュナの元恋人アデールは不況のあおりを受けて父親の残したゴルフ場が危機にさらされる。そこで、彼女は名ゴルファー二人のエキシビジョンマッチを企画するが、何故かそこにジュナが出場することになってしまい…
 レッドフォードが古きよきアメリカを描いたヒューマンドラマ。

 ノスタルジックな感じですね、つまり。グッド・オールド・デイズというやつですね。しかも南部というと、特にそんなイメージがつきまといますね。それが悪いというわけではないですが、あまり目新しさはないですね。しかも、そのノスタルジックな世界はおそらく現実とは違っていて、それはノスタルジーだから当たり前ではあるんだけれど、現実の姿よりも美しく描かれているに違いない。不況だといっているのにみんなこぎれいな格好をしているのもどうも気になるし、そもそも第二次大戦前の南部で黒人と白人があんなに対等な立場でいられたものかと考えるとかなりの疑問が生じてくる。
 しかも、映画のテーマも物語の展開もさして面白くはない。それでもなんとなく見させてしまうのは、映像の(月並みな)美しさと映画空間の閉鎖性だろう。主に自然の風景を映す映像の美しさというのはレッドフォードの得意技という感じで、『リバーランズ・スルー・イット』とかわんねぇジャン!という気もするけれど、それはそれでいいのでしょう。

 映画空間の閉鎖性というのは、この映画が外に広がっていく映画ではなくてあくまで映画の内部で閉じているということ。物理的にも、サバナという町から出ることはなく、登場する人々も少数の外から来る人意外はサバナの人々。
そして、そのサバナの町というのが映画のとしても前面に押し出されている。そして、物語的にもこの映画のはじめから終わりまでで完全に物語りは閉じていて、他に広がりようがない。バガー・ヴァンスは誰なんだ?とか、ジュナはどうなったんだ?とか、後日談のようなものは作れても、概念的な広がりを持つということはありえない。
 それは、否定的に見ればテーマ的な貧しさというか薄っぺらさととることもできるけれど、このようなすべてがイメージでできている映画においては、そのイメージがイメージとしてとどまれる範囲内で映画を作ってしまったほうがいい。この映画を素直に見ると、その見た人は自らをサバナという場に、そしてこの時代に置き、この映画で語られている時間だけを生きる。その閉鎖空間から出るきっかけを与えてしまうと、その空間が現実とあまりにかけ離れてしまうことに気がついてしまうから、その閉鎖空間を作り上げるイメージでがんじがらめにしてそこから逃がさない。しかも物語としても閉じているから、映画を見終わった後でも、別世界の出来事として現実から突き放して簡単に処理することができる。

 ちょっと、わかりにくいですかね。簡単に言ってしまえば、簡単に入り込めるし、映画を見ていてつまらないことはないけれど、終わってみれば何も残らず、3日か1週間か経ったら映画を見たことすら忘れてしまうような映画ということです。
 しかし、気をつけなければいけないのは、そのイメージはなんとなく残っていて、意識しないままにそのイメージを受け入れてしまうかもしれないということ。つまり、この映画が「おかしい」ということ(つまらないというのではなくておかしいということ)に気付く目を失わないように気をつけなければならないということ。だと思います。

花子

2001年,日本,60分
監督:佐藤真
撮影:大津幸四郎
音楽:忌野清志郎
出演:今村花子、今村知左、今村泰信、今村桃子

 今村花子は重度の知的障害を持ち、両親と一緒に住んでいるが、その両親と会話をすることもできない。そんな彼女が意欲を発揮するのは芸術的な側面。キャンパスに絵の具を塗りたくり、ナイフで傷をつける。それよりもユニークなのは、食べ物を畳やお盆に並べる「食べ物アート」。それを発見した母親の知左が面白いと思って写真に撮り、それが数年にわたって続いている。
 そんな家族とともに生きる花子の姿を描いたドキュメンタリー。

 映画は忌野清志郎の歌声で始まる。少し割れたようなこの歌が妙に映画にマッチしている。歩き回る花子の姿と清志郎の歌声は映画への期待感を高める。
 映画自体は最初からアート、視覚アートの世界を描く。原色の油絵の具をキャンパスに塗りたくり、そこにペインティングナイフで傷をつけていく。それは何気ない、でたらめのように見える作業だが、そこから生まれてくる色彩のバランスは決してでたらめではない。意識的に何かをつくろうとはしていなくても、できてくるものに対する美醜の感覚を花子は持ち合わせているのだということをその絵を書くシーンは物語る。
 食べ物を並べて作る「食べ物アート」はほとんどの場合、父親が言うように「汚いことをしている」ようにしか見えない。にもかかわらずそれをアートとして捉え、写真に残すことにし、花子に好きなようにやらせることにした母親の知左はすごい。この映画はその知左という母親にほとんど集約していく。家族のそれぞれが対花子の関係を持って入るんだけれど、そこには必ず母親の知左が存在する。そんな微妙な家族の関係をこの映画はさりげなく描く。
 その家族の関係というのが非常に重要な問題で、それを考えさせることを主眼としているのだろう。しかし、それを眉間に皺を寄せて考えるのではなく、なんとなく考える。重度の障害者を抱えながらも、ゆったりと生きる両親を見ながらそんなことを感じる。

 話は音に戻って、音楽から始まるこの映画は花子の立てる言葉にならない言葉が大きく観客に作用する。声だけでなく、花子が自分の頭をたたいたり、頭を床にぶつけたりするその音も重要だ。おそらく音は現場での同時録音の時点の大きさよりも増長され、より観客に届くように編集しなおされている。少し画面と音がずれているところがあったりして、それはちょっと気になるところだが、それだけ、その音を伝えることがこの映画にとって重要だったということだ。言葉を話せない花子にとって、意思を伝えるために使えるのは、その音と強引に体で主張するという手段だけだ。だから、花子の家族たちも常に音に対して敏感になり、物音にすばやく反応する。そのような音に対する意識もこの映画は伝えようとしている。
 一つの事柄では表せない複数の要素が重なり合い、難しい問題を提起しているけれど、しかしそれを難解なものとして提示するのではなく、日常的なものとして提示する。この映画はそのような提示の仕方に成功している。

SELF AND OTHERS

2000年,日本,53分
監督:佐藤真
撮影:田中正毅
音楽:経麻朗
出演:西島秀俊、牛腸茂雄

 1983年、36歳という若さで夭逝した牛腸茂雄という写真家がいた。
 彼の生い立ちからの一生を、数々の作品を通して、映像作品や、本人の録音も交え、物語として紡いでいく。映画作家佐藤真を自己主張しながらも、牛腸茂雄の世界を再現することに心を配る。
 何かの物語が展開していくというよりは、漠然としていて、どこか夢のような、心地よい映画。

 ゆっくりとしたテンポと、繰り返し。それがこの映画の特徴であり、リズムである。同じ写真が何度も登場する。坂道でおかしなポーズを取ってこちらに笑いかける少年。斜めに日が射す壁の前に立つ青年、花を抱えた少女…
 それらの写真が何度も繰り返し写されることによって、そのまなざしがじわりじわりと染み入ってくる。「見つめ返されているような気がする」という言葉も出てきたように、この映画に登場する写真に特徴的なのは被写体の視線がまっすぐカメラのほうを向いているということだ。それはつまり写真を見ている、映画を見ているわれわれを見返しているまなざし。佐藤真は牛腸の写真にあるその眼差しを捕らえたかったのだろう。
 その試みは成功し、われわれ牛腸の世界に捉えられる。彼が捉えた眼差しに絡めとられ、夢の世界へといざなわれる。その夢のような感覚を作り出すのは自然の映像である。牛腸の故郷の水田とショベルカーの対比、その現実の風景と牛腸茂雄という夢。

 この映画はいわゆるドキュメンタリーというよりは、作家の思い込みを映像化したエッセイのようなもので、どこかフィクションに近い。まあ、ドキュメンタリーとフィクションとの区別というのはあくまで便宜的なもので、これがドキュメンタリーだといわれるのは「牛腸茂雄という写真家が実在した」という事実によってでしかない。
 しかし、この映画で描かれる佐藤真に思い込まれた牛腸茂雄は、あくまで佐藤真にとっての牛腸茂雄であって、それは一種のフィクションである。これはルポルタージュではなくてエッセイであって、客観性などというものははなから求めていない。だからもちろんフィクショナルな牛腸茂雄を描いてもいいわけで、この映画はそのようなものとして存在する。
 だから、この映画をドキュメンタリーというのはむしろ間違いで、「事実に基づいたフィクション」と呼ぶほうがふさわしい。とはいえ、これも単なる言葉遊びで、本当に存在するのは映画だけなのだ。見る側がこの映画をどう見るかということが問題で、その捉えたものをどう呼ぶかは見た人おのおのの問題でしかないはずだ。わたしがこれを「事実に基づいたフィクション」と呼ぶのは、わたしが捉えた(と思っている)この映画の性質をこの言葉がよくあらわしている、と思うからに過ぎない。

60セカンズ

Gone in Sixty Seconds
2000年,アメリカ,117分
監督:ドミニク・セナ
脚本:スコット・ローゼンバーグ
撮影:ポール・キャメロン
出演:ニコラス・ケイジ、アンジェリーナ・ジョリー、ジョヴァンニ・リビシ、ジェームズ・デュヴァル、ロバート・デュヴァル

 車泥棒のキップは強引な手口でポルシェを泥棒、アジトに持ってくるが、警察にアジトを突き止められ、これまでに盗難した車を放置して逃げてしまう。そのキップに50台の車を手配するように注文したカリートリーは、キップの兄で今は引退した伝説の車泥棒メンフィスに弟の尻拭いをするように言うが…
 1974年の『バニシングIN60』をもとに作られたクライム・アクション。車好きにはたまらない映画だと思うが、普通にアクション映画としてみるとちょっと退屈するかも。監督は『カリフォルニア』以来何故か沈黙していたドミニク・セナ。この映画に続いて『ソード・フィッシュ』を撮って復活。

 アクション映画としては中の中というところでしょうか。元ネタの『バニシングIN60』を見ていないのでわかりませんが、おそらく元ネタの方が面白いのでしょう。そもそも車を盗むというところにアクションの緊張感を求めるのはどうも間違っているようで、どんなに見事な手際でも、それ自体が面白いというわけには行かない。それでどうしても、カーチェイスということになるわけですが、そのカーチェイスの見せ場が出てくるのは後半だけ。ということでなんとなくだれたアクション映画になってしまうわけ。
 となると、ニコラス・ケイジとアンジェリーナ・ジョリーのセクシー・コンビのセクシー光線で攻めていくのかと思いきや、そうでもなく、ラブ・シーンらしきものも尻切れトンボで終わり、そこにも見所を求められません。なので、まっとうにアクション映画、ハリウッド映画を楽しもうとしてみると、どうにもならない映画といわざるを得ないということです。

 それでもわたしはこの映画は悪くないと思うわけですが、それはこの映画が全体的に持っている「へん」な雰囲気。アクション映画として物足りない部分を補うためか、それとも監督の性癖か、どうも「へん」な感じがあります。
 最初に感じたのは、スフィンクスがメンフィスを助けるシーン、スフィンクスは基本的にへんで、最後のオチまでへんで、わたしはとても気にってるんですが、とにかくその登場シーンのおおげささというか、過剰さというのがどうもへん。全体的に地味な映画を補うためなのか、豪勢に爆発します。最後のオチというのもかなりへんで、せっかくのオチなので言いませんが、映画の脈略から全く浮いているし、その意味がよくわからん。しかもそれでぷつりと終わってしまう。なんじゃありゃ?という感じ。
 あとは、犬のエピソードとか、ケイジがボロ車をガンガンにふかすシーンとか、なんか「へん」なんですよ。映画のプロットには乗っているんだけど、映画全体の雰囲気を壊すというか、全体的に一つの雰囲気にまとめるのを拒否するというのか、こちらがイメージするアクション映画というものや登場人物のキャラクターからはずした描き方をしていく。それも、あまり伏線もなく突然に。
 キップがメンフィスに料理を作ってて、塩のふたが取れちゃって、でも何事もなかったようにそのままさらに持ってメンフィスに食べさせて、メンフィスは、「ゲッ」と吐き出すんだけど、「うまい」というシーン。あれも相当へんだった
なー

 という、なんだか不思議な映画でした。
 あとは、「フレンズ」のコアなファンは気がついたかもしれませんが、キップはフィービーの弟(腹違いの弟)でしたね。

HYSTERIC

2000年,日本,110分
監督:瀬々敬久
脚本:井土紀州
撮影:斉藤幸一
音楽:安川午朗
出演:小島聖、千原浩史、鶴見辰吾、諏訪太郎、寺島進、阿部寛

 「太く短く生きて死ぬ」といつも口走るトモに引きずられるように生きるマミとあるアパートで過ごす二人は、コンビニでマミを知る隣の住人に出会う。トモは男から金を奪おうと、マミが男を部屋に誘う計画を立てる…
 それと平行して、トモとの出会いから現在までに至るマミの回想が始まる。映画は現在と過去を交互に描き、二人の物語をつむぎだしていく。
 ピンク映画と一般映画の両方を撮り続ける瀬々敬久のいっぺんのラブ・ストーリー。破壊的な日常を送る男女というテーマは両ジャンルにまたがる監督らしいものといえる。

 映画はとてもいい映画だけど、それは普通の映画ではなく、やはり普通に映画監督となった人とは違う何かがそこにはある。そもそもこの映画は、主人公への感情移入を拒否する。「好きなように遊んで、早死にする」といいながら、果たしてトモは日々を楽しんでいるのか。これで遊んでいるといえるのか、そんな素朴な疑問が常に頭をよぎる。
 トモは自分の好き勝手にいき、自由な人間であるように見える。しかし、彼は決して自由ではない。悲劇という衣を常にまとっていなければいられない、悲劇に縛られた人間。だから安穏とした日常に(たとえそれが楽しいものでも)安住することはできず、それを捨て、それを壊し、再び悲劇へと突き進む。
 それに付き従うマミは逆に自由な人間だけれど、その自由をもてあまし、それをトモに明け渡す。それが破滅に向かうことが予見できようと、それを取り替えそうとはしない。時折自由が戻ってきてもそれをもてあます。

 そのような人間像を理解はできる。そして面白い。しかし、どうしてもそれをひきつけて考えることができない。1時間半ほどの映画を見ながら感じるのは、それがあくまでもスクリーンの向こうの出来事であるということだ。日常とは違う空間、自分とは無関係な人間、その受け取り方には個人差があるのだろうけれど、わたしには完全な絵空事にしか見えなかった。
 脚本のもとにあるのは実話らしいが、もとが実話だからといってそれが現実的であるとは限らない。
 あくまでもハードボイルドに描くのは、この監督のスタイルのような気もするが、わたしが見たいのは、このような行動の原動力となる一種の「弱さ」で、行動そのものではなかったというのが大きい。このような行動を描く一種のパンク映画はたくさんあって、それ自体は新鮮なものではない。モノローグまで使ってストーリーテリングさせるんだったら、もっと内心の葛藤のようなものを描いても良かった気がする。それとも葛藤がないこと自体が問題なのか?

チョコレート

Monster’s Ball
2001年,アメリカ,113分
監督:マーク・フォースター
脚本:ミロ・アディカ、ウィル・ロコス
撮影:ロベルト・シェイファー
音楽:アッシュ・アンド・スペンサー
出演:ビリー・ボブ・ソーントン、ハル・ベリー、ピーター・ボイル

 州刑務所の看守ハンクは病気の父と同じく看守をする息子のソニーと暮らしている。ハンクは父の人種差別意識を引き継ぎ、息子のソニーを訪ねてきた黒人の少年たちを銃で追い返す。
 黒人の死刑囚マスグローヴの死刑執行の日、息子のソニーは執行場へと付き添う途中に戻してしまう。執行後、ハンクはソニーを激しく怒り、殴りつける。
 演技には定評のあるビリー・ボブ・ソーントンと、この作品でアカデミー主演女優賞を獲得したハリー・ベリーなんといってもこの二人がいい。特にハリー・ベリーはとても美人でいい。

 映画自体はたいした映画ではありません。アメリカの白人の中にいまだ人種差別主義者がいっぱいいることなどは繰り返し描かれてきたことだし、実際にそうであることも理解できる。この映画は人種差別を中心として、家族や死刑というさまざまな問題を含んではいるけれど、それが行き着く先は結局のところ恋愛で、セックスで、人を愛するということが異性間の関係に集約されてしまっている。
 ハンクが息子を「憎んでいる」といってしまったり、父親を施設に入れてしまったりする、そのことを考える。そのことを考えると、この男はやはり自己中心的で、他人を思いやっていると見える行動もヒューマニスティックなものというわけではなく、実は弱さの顕れでしかない。もちろん人間は弱いものだけれど、この映画はそこには突っ込まない。
 この映画から人種の問題を取り去ったら何が残るだろうか。それは単なるメロドラマ、息子を失った男女が出会い、互いに慰めあう。新たな愛に出会う。そういう話。

 果たして、ハンクは人種差別主義を克服したのだろうか? この2時間半の時間を見る限り、それは克服されていない気がする。レティシアに大しては差別もないが、それはおそらく「黒人」という意識がないだけのこと。近所の自動車修理工場の家族とも仲良くし始めるけれど、それも彼らを「黒人」の枠からはずしただけのことのような気がする。「黒人」一般に対する差別は温存したままで、「仲間」として認められる黒人は受け入れる。そのような態度に見えて仕方がない。
 そう見えるからこそわたしには、この映画が人種差別主義の根深さを示す映画だと思うのだけれど、製作者の側にはそんな意識はなく、一人の男が差別を克服する映画という考えだろうし、見るアメリカ人もそういう映画としてみているような気がする。
 それは、本来は黒人と白人のハーフである、ハリー・ベリーを「黒人初のアカデミー賞女優」といってしまうアメリカの人種意識から推測できることだ。それはアメリカの人種意識が「白人」を中心として作られていることを示している。「白人」でなければ、白人の血が半分入っていようと「黒人」になってしまう。つまりちょっとでも黒ければ「黒人」、ちょっとでも黄色ければ「アジア系」となる。
 この映画はそんなアメリカの人種意識をなぞっているだけで、何も新しいものもないし、アメリカの人種意識を変えるものではないと思う。だからわたしは、「たいした映画ではない」という。

 たいしたことない話が長くなってしまいましたが、わたしがこの映画で一番気に入ったのはハリー・ベリー。『X-メン』などではちょっとわかりませんでしたが、この映画のハリー・ベリーは本当に美人。さすがミス・オハイオ、ミス・コンも捨てたものではないですね。わたしはこのハリー・ベリーの美しさはいわゆる「ブラック・ビューティー」ではない、一般的な美しさだと思います。黒人でなくても受け入れられる美しさ。この映画は本当にハリー・ベリーの映画。主演女優賞をとっても当然、という感じです。
 映画にとって美女が重要だということもありますが、人種の問題に立ち返っても、彼女のような美女の存在こそが人種の壁を突き崩すきっかけになる可能性を持っている。そんな気が少ししました。

ゴースト・オブ・マーズ

John Carpentert’s Ghost of Mars
2001年,アメリカ,115分
監督:ジョン・カーペンター
脚本:ラリー・サルキス、ジョン・カーペンター
撮影:ゲイリー・B・キップ
音楽:ジョン・カーペンター、アンスラックス
出演:アイス・キューブ、ナターシャ・ヘントリッジ、ジェイソン・ステーサム、クレア・デュヴァル、パム・グリア

 西暦2176年、火星。84パーセントまでに地球化が進んだ火星の都市に到着した列車。無人のように見えた列車には手錠をかけられた一人の生存者が。彼女は火星の警察の副隊長。いったい何があったのか。他の隊員たちはどこに消えてしまったのか。会議の席上、お偉方が並ぶ中、彼女はことの起こりから語り始めた…
 アメリカホラー界の奇才ジョン・カーペンターが火星を舞台に繰り広げるSFホラー・アクション。舞台を火星にしたところで、カーペンターはカーペンター。トリップ感さえ覚えてしまうほどの勢いで押しまくる。万人に受けるものではないけれど、とにかく痛快。

 いいですねこれは。渓谷についてからはとにかく殺し合いをしているだけなんだけれど、それが痛快。殺し合いが痛快というのはどうも語弊があるけれど、ジョン・カーペンターの殺し合いはあまりに痛快。それは一つはあまりに非現実的であるからであり、もう一つはとにかく徹底的だから。中途半端なヒューマニズムをひけらかしながら殺しを見せるより、こういう風に徹底的に殺す。躊躇なく殺す。とにかく殺したほうが害が少ない。害が少ないというのは娯楽として消化できるということで、「面白かったね」といって現実に戻ることができるというもの。
 同じように痛快な映画に『スターシップ・トゥルーパーズ』というのがあったけれど、これは相手が同じ宇宙人にしても形が昆虫で、だから殺すのに全く躊躇がなかったということ。コミュニケーションも全く取れないし。この映画は姿はほぼ人間なので、『スターシップ・トゥルーパーズ』よりある意味ですごい。人間の姿の敵なのに、殺戮が痛快であるというのはかなりすごい。それでも、自傷行為によってあまりヒトに見えなくするということや、やはりコミュニケーションは全く取れないという点で人ではないということは言える。

 徹底的という点で言えば、徹底的に残酷で、徹底的にグロテスク。CGではなくて特殊メイクで傷なんかを作るのもジョン・カーペンターらしい味で、リアルさは損なわれるけれど、逆にグロテスクさは増すような気がする。
 でも、やっぱり一番感心するのは徹底的に冷たいところだろうね。物語のつくりからして、登場人物たちも観客たちも突き放すような作り方。途中で主役級のヒトがあっさり死んでしまったり(一人しか生き残ってないからどこかで死ぬのはわかっているんだけれど)、とにかく分けもなく殺す。
 結局のところすべての話は殺戮ということに行き着いてしまう。アクションがしょぼいとか、現実的な考察がまるでないとか、行動が理不尽とか、いろいろ文句のつけようはありますが、どれもこれも「殺戮」という話に行き着くということは、そこの部分でこの映画は評価すべきということで、その部分ではこの映画は本当に素晴らしい。だからこの映画は素晴らしい映画だと思う。
 最後の最後の1シーンも、すごくいい。あれがあるとないとでは大違い。さらに観客を突き放すというか、わだかまりを残さないというか、ともかくこれも徹底的なものの一つ。
 その最後も含めて、なんとなくニヤニヤしながら見てしまう。ホラー映画で、結構怖いのに、全体的に言うとニヤニヤという感じ。もちろん生理的に受け付けない人や、怒って席を立ってしまう人もいると思いますが、映画に没入すれば一種のトリップ感を得られる。

 今、思い出しましたが、音楽もカーペンター自身が担当していて、相棒はスラッシュ・メタルの大御所アンスラックス。スラッシュ・メタルとかハード・コアなんて普段は全く聞かないけれど、この映画には非常にフィットしていていい。とてもいい。映画を盛り上げるというよりは、映像と音楽で一つの形になっていて、映画のリズムを作り、映像よりむしろ音楽が観客を操作している。そんな印象もありました。