ロード・オブ・ザ・リング

The Lord of the Rings: The Fellowship of the Ring
2001年,アメリカ=ニュージーランド,178分
監督:ピーター・ジャクソン
原作:J・R・R・トールキン
脚本:ピーター・ジャクソン、フランシス・ウォルシュ、フィリッパ・ボーエンズ
撮影:アンドリュー・レスニー
音楽:ハワード・ショア
出演:イライジャ・ウッド、イアン・マッケラン、リヴ・タイラー、ヴィゴー・モーテンセン

 世界的に有名なトールキンのファンタジー小説『指輪物語』。映像化は不可能といわれ、これまで映画化されていなかった作品をピーター・ジャクソンが1部作として映画化。この作品はその第1作に当たる。
 物語は現実の世の中とは全く異なる世界で展開される。人間以外の種族もたくさん生きている世界。はるか昔、闇の冥王サウロンが作った指輪。悪の力を秘めたその指輪がおよそ3000年後、ホビットの青年フロドの手に渡ったことから物語りは展開される。

 この世界観はあらかじめ知識を持たずに見る人には厳しいものかもしれない。ホビットやドワーフやエルフという人間ではないが姿かたちは人間に非常に似いる生き物があまり説明されないままに出てくる。映画を見ていれば徐々にその関係や性格がわかってくるけれど、それがわかるまでに映画は1時間から1時間半のとき費やし、ファンタジーになじみのない人なら飽きてしまっても不思議はない。
 だからこの映画は『スター・ウォーズ』とか『ハリー・ポッター』などのように一般的にヒットする映画ではなく、ある意味では特定の観客に向けた映画である。とはいっても、もともとの原作が非常に有名で読者も多いので、そのターゲットはある程度は広く、わたしも子供のころに小説を読んだ(ほとんど覚えていないけれど)ので、物語に入り込むのにあまり困難はなかった。
 監督のピーター・ジャクソンもいわゆるメジャー系の監督ではなく、悪趣味系、カルト系の監督であり、ファンタジー的な世界を作るのは得意かもしれないけれど、一般受けするような映画は作れない。さらに、これといったスターも出ていない。というような問題がたくさんあり、映画としては非常にじみ。
 それでもやはり映画として見ごたえがあり、ある程度世界的にヒットしたのも原作の力と、原作を忠実に映画化した監督の力。人間とホビットの縮尺とか、いろいろな怪異な生き物とか、CGを駆使したりしながらうまく作り上げる。ホビットがロングショットで写されるときに子供の代役が使われていることはちょっとあからさま過ぎるけれど、まあ映画に入り込むのを邪魔するほどではない。

 などなどなどと御託ばかり並べているのは、この映画が一本の映画といえるものではなく、一本の映画の3分の1でしかないものだからで、この映画の本当の評価というのは3本すべてを見なければ下せないような気がする。それでもこの映画は1本の映画としてリリースされているので、それに対する評価を下さざるを得ないが、そうなると不完全な映画であるとしかいえない。
 でも、わたしは続きに期待して見たいと思います。
 ひとつ不思議だったのは、主人公のフロドの目の色がころころ変わること、青、緑、グレーというようにいろいろな色に変わる。あからさまに処理してかえているところもあるけれど、自然に変わっているように見えるところもある。これは何かのなぞが秘められているのか?

 2度目は、スペシャル・エクステンテンデッド・エディションというので見たのだが、このバージョンでは、冒頭の部分に説明が加わってかなりわかりやすくなっている。これによって映画全体をすっきり見ることができるし、2度目ということで、物語の進み行きにイライラせず、ゆったりと見ることができるというのもいい。ゆったり見てみるとこの作品はさすがに作りこまれていて面白い。なんといっても作品の世界観がいい。原作に忠実に時代設定をして作っているわけだが、その時代設定というのが「動力」が開発される以前であるということが重要だ。車もなければもちろん戦車もないし、それ以前に火気というものがない。これはいわば『ベン・ハー』のようなもので、徹底的に人と人(必ずしも「人間」ではないが)の戦いというところが重要になってくるのだ。こういう設定ではヒーローが生まれやすく、ドラマが組み立てやすい。そして、この映画は複数のヒーローを用意し、それぞれにドラマを作り上げる。そのようにして編み上げられた物語は懐が深く、観客は誰かひとりに感情移入すればよく、観客を引き込みやすい。問題は、全てのドラマが密接にかかわりあっていないと、観客が飽きてしまうということだが、この第1話の段階ではそれに成功していると思う。

 ところで、このスペシャル・エクステンテンデッド・エディションはエンドロールが30分くらいあって、そのうち20分くらいが”Special Thanks”に費やされているけれど、これはいったい何? と思いました。感謝したい気持ちはわかるけど、20分も見ないよねー、誰も。

親指ブレアサム

The Blair Thumb
2001年,アメリカ,30分
監督:トッド・ポーチガル
脚本:スティーヴ・オーデカーク
出演:スティーヴ・オーデカーク、ジム・ジャクソン

 前2作が話題を呼んで、続編が期待されていた「親指」シリーズ、オーデカークが満を持して出したのは、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』の親指版。そもそも、いろいろと物議をかもし、ヒットはしたものの揶揄されることも多かった映画なので、パロディするのは楽なはず。
 しかし、オーデカークが作ったのはパロディというよりは、映画をネタにしたコメディ。設定を借りて、ぜんぜん違うオチを用意して笑わせる。それがミソ。

 そもそもの『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』がどうしようもない映画だったので、それよりもつまらなくなることはないわけですが、オリジナルの処理に困ったのか、中盤と最後のオチは完全にもとネタからは離れたところで狙っている。ネタを明かすことはもちろんできませんが、その2ヶ所はなかなか笑える。そもそも『ブレア・ウィッチ』の大げささはパロディ化しやすい素材なわけで、『ボガス・ウィッチ・プロジェクト』というパロディもありました(未見)。『ブレア・ウィッチ2』(未見)も最初はパロディだといううわさもあったぐらいだし。
 しかし、それはパロディ作家としては作りにくいという点もあり、みんなが予想するネタではない予想外のネタで笑わせなければならない。冒頭の辺りの「手ブレ撮影法」なんかは面白いけれど、予想できるネタで、誰でもやるだろうこと。わたしが一番好きなのは、中オチのネタ(アー、言いたい!)で、多分オーデカークだか、監督だかも気に入っているらしく、映画後のおまけのところでも登場していた。いやいや、あれは不意を突かれたね。
 この映画はもとネタのいらいらする感じをそのまま使っている。そこをパロディ化してテンポよく行くのかと思ったら、もとネタのいやなところを生かしている。これは多分、ネタとのギャップを強調するためだろうけれど、ちょっと本当にイラつくので難しいところ。
 最初の2本と比べると、見慣れてしまったこともあり、爆発的な笑いはなかったけれど、なんだかんだいって新しいのが出たらまた見てしまうのでしょう。すでに2本作られてるらしいし。

親指バットサム

Bat Thumb
2001年,アメリカ,28分
監督:ディヴィド・ボウラ
脚本:スティーヴ・オーデカーク
出演:スティーヴ・オーデカーク、ジム・ジャクソン

 スティーブ・オーデカークが心血を注ぐ「親指」シリーズの第4作。前作から監督業を退き、脚本と出演(声と親指)に専念。とにかくオーデカークの親指好きとパロディ精神から始まったこの企画。いったいいつまで続くのか。
 今回は『バットマン』のパロディで、映画を下敷きにコミックやアニメのテイストを加える。とにかくくだらないのはいつものとおり、お下劣さは他の作品よりちょっと弱め。親指についた顔のCGがだんだん自然になってきているのがなんだかすごい。

 今回の目玉はなんといってもCGの多用。今までの作品より格段にいいCGを使っている。バットサムがビルから飛び降りるシーンにかなりリアルなCGが使われていて、バットサム自体もCGで作られていて、親指で演じているものよりそっちのほうがかっこいいけど、一瞬しか映らない。こんな高度な技術を使えるにもかかわらず、あくまでローテクでやるのがこのシリーズの面白さなので仕方がない。
 意味がわからないが笑えてしまうネタが多く、その中でもブルー・ジェイが何故かバットサムに常にくっつきたがるというのがいい。バットサムの登場シーンでチンピラとわけのわからない会話をしているのもいい。ここの会話は世の中にあふれる犯罪映画をパロディ化することで、それがいかにリアルではないかということを明らかにしている。
 オーデカークがこのシリーズを作り続けるのは、(親指がすきなのと)そのような風刺精神を遺憾なく発揮できるからだろう。人が演じるパロディよりも親指が演じるパロディのほうが当たりが優しくなるので、いろいろと言いたいことが言えるんじゃないでしょうか。とは言っても作るのは多分結構大変で、指にいちいち顔を入れるだけでも大変。衣装とかを作るのも多分大変。でも、顔のNGはなんだかどんどん自然になってきて、見ていて違和感がなくなってしまった。違和感があったほうが面白いんだけど、なれとは恐ろしいものだ…
 最近はCGもののNG週がはやっているのか、このビデオの最後にもおまけ映像としてボツカットやインタビューなんかが入ってました。これもまたパロディー。そういえば、シリーズに必ず登場する一つ目指がエンドクレジットで「as himself」となっていたのがかなりマニア心をくすぐります。

ザ・ロイヤルテネンバウムズ

The Royal Tenenbaums
2001年,アメリカ,110分
監督:ウェス・アンダーソン
脚本:ウェス・アンダーソン、オーウェン・ウィルソン
撮影:ロバート・D・イェーマン
音楽:マーク・マザースボウ
出演:ジーン・ハックマン、アンジェリカ・ヒューストン、ベン・スティラー、グウィネス・パルトロー、ルーク・ウィルソン、ダニー・グローヴァー、ビル・マーレイ

 天才児として知られたテネンバウム一家の3人の子供たち、長男チャスは投資家として、長女マーゴは劇作家として、次男リッチーはテニス・プレイヤーとして、成長した。しかし今は3人とも問題を抱え、チャスは事故で妻をなくし、マーゴはバスルームに閉じこもり、リッチーは長い船旅に出ていた。そんな3人の父親は20年前に別居していらいホテルで暮らしてきたが、破産し、ホテルを追い出されることになった。『天才マックスの世界』で認められたウェス・アンダーソンが豪華キャストでとったひねりの効いたコメディ。全体的に70年代テイストで統一されているのがなかなかいい。

 全体的にスピード感のあるコメディではなくて、妙なおかしさを狙ったコメディ。リアルに作ることを放棄し、すべてにおいて作り物じみたおかしさを狙う。これがこの映画の笑いの作り方。だからさいしょから人物を正面から中心に捕らえるショットが多い。会話の場面など、普通は空間を出すために斜めから人物をとらえるんだけれど、それをしないことで会話自体が不自然になる。それにともなって切り替えのタイミングもチョっとずらし、会話の間も不思議な感じにする。
 そのような妙なおかしさがそれほどギャグやネタがあるわけでもない映画をコメディとして成立させている。コメディ的なキャラといえば、わたしが好きなのはパゴダ。かなりボケが効いていて、ロイヤルの横で看護士の姿をしていたりするのはかなり笑える。あとはイーライの部屋に掛かっている絵とか、タクシーとか、バスとか。このタクシーとバスというのはとくに笑いを誘うわけではないのですが、とてもいいネタでここにこそこの監督のすごさが出ていると思います。最初に止めるタクシーのぼろさにびっくりしますが、その後出てくるどのタクシーも同じ「ジプシー・キャブ」、バスもずっと同じバス。こういう地味なネタはとてもいいですね。
 どんなに書いても多分おかしさは伝わらない。そういう映画だと思います。それにしても予告編が面白かった割りに、字幕が相当ひどかった。英語をなんとなく聞きながら主に字幕を見ているわけですが、なんだか面白くない。セリフのおかしさがちっとも字幕から伝わってきません。この人はきっとコメディを理解していないんだ、そんな疑問を抱きながら映画を見ていて、それが最後の最後で決定的に。最後の墓碑銘のネタ、映画中に伏線が張られていて、オチになるはずなのに、あの字幕はひどすぎる… やっつけ仕事かオイ!

裏切り者

The Yards
2000年,アメリカ,115分
監督:ジェームズ・グレイ
脚本:ジェームズ・グレイ、マット・リーヴス
撮影:ハリス・サヴィデス
音楽:ハワード・ショア
出演:マーク・ウォールバーグ、ホアキン・フェニックス、シャーリーズ・セロン、フェイ・ダナウェイ

 仲間をかばって、服役していたレオが出所してクィーンズの家に帰って来た。そこには女でひとつでレオを育ててくれた母も、親友のウィリーもいとこのエリカもいた。レオは真面目に働こうとエリカの母の再婚相手(つまり叔父)のフランクの経営する会社に面接に行く。フランクは整備工の学校に通うように進めるが、病気の母のためにもすぐに金が欲しいレオは金回りのいいウィリーと同じ仕事をさせて欲しいと頼むが…
 マーク・ウォールバーグはじめキャストも渋いが、内容もとても地味なサスペンス。ハワード・ショアの音楽だけが『羊たちの沈黙』なみに仰々しい。

 ええ、本当に地味ですね。出所してきた息子のためにパーティーをやっているような家だからきっとマフィア一家か何かなのかと思いきや、ただ悪がきだっただけで、物語の筋になる裏社会の人がおばさんの再婚相手という微妙な関係で、しかもその裏社会というのが地下鉄の修理や保全という地味な業界で、しかも発端は普通の汚職事件。それによく考えるとわいろを贈る相手がクィーンズ区長というのだから、多分これはそんなに大規模な話じゃない。ちっちゃいところでちっちゃくおこるとっても地味な犯罪もの。「街から遠く離れた」はずのレオが電話してその日のうちに帰ってこれるんだからね。
 などなどと文句を言っていますが、本当はこれが正直なアメリカの現実というか、アメリカ人の世界観というか、日常というか、そんなものであるような気もする。自分の家族と友達と住んでいる地区の問題が生活の大部分を占めていて、それ以外のものはなんだか現実感がないというか、その規模の中ですべてがまかなえてしまうから、その外側を必要としないというか、そういうう感じがあるのかもしれない。だから、アメリカ人が見れば現実的というか、日常的というか、自分にもおこりえそうな身近なことに感じるのかもしれません。
 でも、これは映画なので、たぶん日常的なことなど見たくはなく、だからきっとこの映画はヒットしなかったはずで、キャストも地味ながらもなかなかの名前があるし、シャーリーズ・セロンもサービスカットを出しているので、多分赤字で製作会社いっこぐらいつぶれたかもしれません。それもアメリカの現実。 ホアキン君も今ひとつ光らない。もちろん兄ほどの光を求めはしませんが、もう少し光ってくれてもよかった。一番売れっ子のホアキン君がこれではフェニックス兄妹の先行きも地味なものになりそうですね。

三人三色

Digital Short Films by Three Filmmakers
2001年,韓国,92分
監督:ジャ・ジャンクー、ジョン・アコムフラー、ツァイ・ミンリャン
脚本:ジャ・ジャンクー、ジョン・アコムフラー、リサ・ハットニー、ツァイ・ミンリャン
撮影:ユー・リークウァイ、ジャ・ジャンクー、ドゥウォルド・オークマ、ツァイ・ミンリャン
音楽:ダリオ・マリネッリ

 香港のジャ・ジャンクー、イギリスのジョン・アコムフラー、台湾のツァイ・ミンリャンの3人が「デジタルの可能性」をテーマにデジタルビデオで30分の短編を作り、それをオムニバス作品にしたもの。
 ジャ・ジャンクーの『イン・パブリック』は多分中国の北部の鉄道の駅やバス停に集まる人々を淡々と撮影した作品、ジョン・アコムフラーの『デジトピア』はデジタルミックスされたラヴ・ストーリー、ツァイ・ミンリャンの『神様との対話』はデジタルビデオの機動力を生かして祭りやシャーマンを撮影した作品。
 3作品ともかなり見ごたえがあるので90分でもかなり疲れます。

 一番印象に残っているのは2番目のジョン・アコムフラーのお話なんですが、まず映像のインパクトがかなりすごくて、幻想的というか、妄想的というか、黙示録的というか、派手ではないけれど頭にはこびりつく感じ。物語のほうはすべてが電話での会話とモノローグで成り立っていて、映るものといえばとくに前半は男が一人でいるところばかり。たいした物語でもない(30分でたいした物語を作るのも大変だが)し、よくある話という感じだけれど、その映像のなんともいえない味が映画全体にも影響して、不思議な印象を受ける作品でした(だからといって特別面白いというわけではない)。
 他の2作品は一見普通のドキュメンタリーで、ツァイ・ミンリャンのものは完全に普通の(上手な)ドキュメンタリーになっているわけですが、ジャ・ジャンクーのほうは何かおかしい。というか面白い。

 ジャ・ジャンクーの『イン・パブリック』という作品は一見よくあるドキュメンタリーで、市井の人々を人が集まる駅やバス停で映した作品に見える。しかし、この作品で気になるのは映っている人たちがやたらとカメラのほうを見、カメラについてこそこそと話をすること。「台湾の有名な監督らしい」といったり、カメラに向かって髪形を整えてみたり、とにかくカメラを意識する。普通のドキュメンタリーだと、そういう場面はなるべく排除するか、あらかじめ了解を取ってあまりカメラを見ないようにしてもらう(あるいは共同することで自然にカメラを気にしなくなる)かするのだけれど、この映画はそのような努力をせずに、逆にカメラを意識させるようなショットを集めて編集している印象がある。
 最初のエピソードからして、メインの被写体となる男性はカメラを意識していないのに対して、そこにたまたま居合わせた男性はやたらとカメラのほうを見る。この対比を見せられると、メインの被写体となる男性は撮影者との了解があって、カメラを見ずに行動している(ある種の演技をしている)のだと思わずにはいられない。他の場面でも何人かの人は一度カメラを見つめ、それを了解した上で、そのあとは自然になるべくカメラを意識しないように行動しているかのように見えることがある。
 これらのことがどういうことを意味するのかと考えてみると、この『イン・パブリック』という映画は、イン・パブリックで、つまり公衆の中でカメラを回し、それを切り取った映画などではなくて、イン・パブリックにあるカメラがどのような存在であるのか、つまり公衆の中でカメラを回す行為というのがどういう意味を持つのかということを描こうとしている映画であると考えることができる。
 それはつまりドキュメンタリー映画を作る過程というものを浮き彫りにし、それが必ずしも日常を切り取ったものではないということ、カメラが存在するということがすでに人々を日常から切り離しているということ、カメラの前で自然に振舞っているように見える人々もカメラがあることに気付いている限りある種の演技をしていることを明らかにしている。それはまさにフィクションとドキュメンタリーの間について語ることであり、その観点から言うとこの映画は非常に意義深い映画であるといえる。
 マルセイユ国際ドキュメンタリー映画祭がそのような意味でこの映画をグランプリに選んだのだとしたら、それはとても正当なことだと思う。

平原の都市群

Cites de la Plaine
2000年,フランス,110分
監督:ロバート・クレイマー
撮影:リシャール・コパンス
音楽:バール・フィリップス
出演:ベンアメリー・デリュモー、ベルナール・トロレ、ナタリー・サルレス

 盲目の男ベンは少年に導かれて市場を歩き、なじみの人たちと会話を交わす。女性と一緒に医者のところに行き、治療について話をする。場面はいつの間にか同じ名前のベンという男を映し出し、工場で働き、カフェで何か悩んでいる彼の姿を映す。
 全体に暗いトーンで統一されたドキュメンタリーの映像素材とフィクションの映像素材をを幻想的な一編の物語/詩篇に構成する。クレイマーの遺作となったこの作品は非常に難解で、グロテスク、人の心を騒がせる作品になっている。

 はっきり言ってよくわからなかったです。とくに、おそらく盲目のベンの目に映っていると思われる空想の風景、砂漠と母とイグアナと、それらがつむぎだすイメージの意味というか映画全体の中での位置づけが。
 物語自体は一応筋が通っていて、何の解説もなく時系列が交わっていくのもひとつの仕掛けてして面白いし、盲目のベンの心のありようが非常にうまく伝わってくるのがいい。利己中心的で激しい気性のベンが自ら招いてしまった悲劇と、それによる心の変わりよう。本人が演じる(?)盲目のベンがとてもいい。
 最初のほうの仕掛けは、盲目ということを意識させるための黒画面に音声という仕掛け。これは非常にわかりやすく、お手軽な感じがする。しかし、その後もこの映画は音というかノイズを大きくすることで、聴覚に対する鋭敏さをを表現しているようだが、これがなかなか精神をさかなでされるというか、どうも落ち着いて見られない。わたしはどうもノイズに弱いようで、こういう作品はなんだか苦手。
 逆に意味はわからないけれど、静謐で美しい幻想世界のイグアナのほうに心惹かれる。光るうろこ、恐竜のような背中の棘、イグアナはベンなのか、それとも全体がベンでイグアナは彼の心に潜む何者かなのか、立ち去っていったものは誰か、肉の塊は何を意味していたのか、などなど疑問は尽きないのですが、イメージで語られるものはイメージで理解しろ、ということが映画を見る際に
重要なことだと思うので、イメージで考えてみます。
 寂莫、孤独、乾いた感じ、愛の欠如、生命、孤独、恐怖、愛、悲劇、ある種の適応、、、、、
 という感じですかね。
 イメージの言語化。

主人の館と奴隷小屋

Casa Grande & Senzala
2001年,ブラジル,228分
監督:ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス
撮影:ホセ・ゲラ
音楽:エイトール・ビジャ=ロボス

 ジウベルト・フレイレが1933年に著した『主人の館と奴隷小屋』という書物はブラジルという国がどういうものであるかを記したものだった。この映画はその著作を検証しながら、ブラジルという国について解説していく。
 映画は四部構成で、フレイレの著作にだいたいそって進む。教授という男が1軒の”Casa Grande”をアシスタントとともに訪れて解説をする。そこではその著作をモチーフにした映画をとっているという設定で、若い役者たちがいて、彼らへのインタビューも交えられる。

 ドキュメンタリー映画というよりはテレビの教養番組という感じで、ただただ淡々と教授という人とアシスタントがフレイレの著作について話をするということが映画の筋になっている。この話自体はブラジルという国と社会を解説しているだけなので、特に面白くもないが、ブラジルでこのようにブラジルという国を解説するテレビ番組をやらなければならないというところに、ブラジルという国の国家的アイデンティティの希薄さを感じる。それは、インタビューを受けている青年の一人がアメリカ(合衆国)の大学に行ったとき、「ブラジルという国を知らなかったことに気付いた」と言った言葉に象徴されている。国家的アイデンティティのよしあしは別にして、国家としてはそのようなアイデンティティが国民の間で形成されることを求めており、この映画はそのような国家の欲求を実現しようというものになっている。

 というまさに教養番組という映画ですが、ドス・サントスはそこに微妙な「ずらし」を加える。まず、映画の舞台となる”Casa Grande”で映画が作られているという設定だが、その映画が本当に作られようとしているののかどうかはわからない。おそらくこの映画のために作っているフリをしているだけで、だとすると、役者として登場する人たちも実際のところはこの映画のために集められた人々で、なんだかさらにうそ臭くなってしまうが、まあそれはいいとして、この劇中劇となる映画が妙にエロティックだったりする。そんなエロティックなシーンを取り上げる必要があるのかといえば、ことさらそういうわけでもなく、教養番組としての意図とは別のものがありそうな気がしてしまう。
 さらには、教授と一緒に”Casa Grande”を訪ねるアシスタントが4話で毎回違うのですが、人種構成が違うので、最初はブラジルという国の多様性を強調するためなのか、と最初は思ったわけなのですが、第四部あたりになるとどうもおかしくて、そのアシスタントがやたらとクローズアップで取られ、カメラ目線で話してきたりする。さらには昼から夜になるにつれ、服装はどんどん薄着になり、夜のシーンでは教授と立ち話をする彼女の背後に思わせぶりにベットがのぞいていたりする。
 これは、そのような余分なものを徹底的に排除しようとする日本の教養番組と違うというだけのことかもしれませんが、それにしてもなんだかおかしい。そもそもこれのどこがドキュメンタリーなんだ、という疑問に駆られます。なんだか変な映画だったなぁ…

鳥のように – ラ・ドゥヴィニエール

La Deviniere
2000年,ベルギー,90分
監督:ブノワ・デルヴォー
撮影:ブノワ・デルヴォー
音楽:ブノワ・デ・クラーク

 いくつもの精神病院をたらいまわしにされ、どこでも受け入れてもらえなかった十代の少年少女たちのために作られた開放型の精神療養施設「ラ・ドゥヴィニエール」。それから20年後の療養所の様子を比較的軽度なジャン=クロードを中心に描いていく。
 監督はカメラマンとして『ロゼッタ』などに参加したブノワ・デルヴォー。初の長編作品となる。

 これは精神病院ではなくて療養所だけれど、精神病院を描いたようなドキュメンタリーは結構ある。フィクションも結構ある。それらと比べてこの映画に何か光るものがあるかといえば、あまりないといわざるをえない。全く解釈をせず、ただただ映し続けるだけという姿勢はいいのだけれど、そこから何かが浮かび上がってくるのかというと、それはなかなか難しい。映画の後半になってジャン=クロードが主人公のようになり始めると、映画は一種のメッセージのようなものを持ち始めるのだけれど、前半部分とのつながりは希薄である。最初からジャン=クロードが主人公然としていれば、彼を中心に映画を見ることができるのだけれど、前半にはただのひとりでしかなかった彼が急に主人公に成り上がってしまった印象があって、それが残念でならない。
 こういう映画はなんだかドキュメンタリーということに胡坐をかいたというか、ドキュメンタリーであることに価値を置きすぎている映画という気がする。ドキュメンタリーであっても映画なのだから、観客を楽しませたり、観客に伝わりやすくしたりする努力が必要なのに、この映画を見ていると、「わたしたちは現実を提示しているのだ」というある種の傲慢さが映画作りの根底にあるような気がしてしまう。
 この映画は時間について言及しないけれど、おそらく時系列どおりに構成されており、映画が主人公を発見していく過程と撮影者たちが主人公を発見していく過程は一致する。しかし、その過程にあまり必然性はなく、被写体との距離やたまたまおきたイベントによって左右される。だから映画の物語にまとまりがなく、観客の注意も散漫になってしまう。

 まあ、映画を見て、現実を見て、いろいろ考えさせようというのが意図であり、もちろん考えさせられることはあるわけですが、それだけでは映画としては並みの域を出ることはできないということです。

追臆のダンス

2002年,日本,65分
監督:河瀬直美
撮影:河瀬直美
出演:西井一夫

 画面に映っているのは病院のベットに寝ている男。河瀬直美は写真評論家の西井一夫に呼び出され、末期ガンでホスピスにいる彼の人生最後の日々を撮影してくれるよう頼まれる。映画は何の説明もないまま滑り出し、あいだに風景ショットなどを挟みながら、ただただ病人の姿を映し出す。
 人も、時間も、場所も全く説明がないが、それを映画から理解することは容易であり、その理解していく過程にある濃密な時間は観客が映画に参加するための重要な手がかりである。この映画は観客を観客としておいておかず、映画の中へ中へといざなってゆく。

 これを映画にすることができたのは紛れもない河瀬直美の才能だ。死期が迫るの病人が寝るベットの傍らに座り、カメラを回す彼女は冷徹な観察者とはならず、看護の手伝いをしいろいろな話をする友人としている。片手でカメラを持ちながら、もう一方の手で水の入ったボトルを差し出す。そのようにして被写体との距離を置くことをやめた映像は、ホームビデオのように映画であることをやめてしまうことが多い。しかし、この映画はそうはならず、映画が進むとともに被写体と撮影者との距離も変化し、その変化が手探りの試行錯誤であるがゆえに、観客と被写体の距離の変化に呼応する。そのように映画を構成することのできる河瀬直美の才能に賛辞を送る。

 この映画は何を語っているかを考える。被写体となった西井一夫は「記録」と言った。自分が生きてきたことの記録、それを残すために映画をとってもらうんだと言った。河瀬直美もまた自分が生きるために映画を撮るんだと言った。しかし、他方で河瀬は「記録」(という言葉)は嫌いだと言う。映画の中では言葉の問題として片付けられているこの「記録」の問題は決して言葉だけの問題ではなく、映画全体にかかわる問題となっている。
 この映画はある意味では「記録」である。それは間違いない。西井一夫が息を引き取る瞬間に回っていたカメラが切り取ったものは紛れもない生の記録であった。しかしその記録は映画の中に埋没する。この映画を構成する要素である「記録」は監督河瀬直美によって映画の要素へと還元され、「記憶」あるいは「追体験」の材料にされてしまう。これらの記録の断片はそのことが呼び起こした感情や考えを再び呼び起こすための材料であり、観客にとっては河瀬直美がどう感じどう考えたかを追体験するための材料となるのだ。
 そうならば、何を語っているのか。
 それは…

 ただひとついえるのはこれが河瀬直美にとっての死の現実であると同時に死のイメージであるということだ。自分が「死」というものに対峙したときに受け取ったものをそのままイメージ化して提示する。それは大部分は静かで淡々としている。しかし烈しくもある。静かではあるが平和ではない。そのようなイメージが提示されるので、何かを語っているとは言い難い。語るべき言葉はなくなり、沈黙があたりを支配し、鎮魂歌が流れ、語るべき言葉などないことを死者自らが認めて映画は終わる。