怪盗ブラック★タイガー

Fa Talai Jone
2000年,タイ,114分
監督:ウィシット・サーサナティヤン
脚本:ウィシット・サーサナティヤン
撮影:ナタウット・キッティクン
音楽:アマンボン・メタクナウット
出演:チャッタイ・ガムーサン、ステラ・マールギー、スパコン・ギッスワーン、エーラワット・ルワンウット

 ダムはファーイに率いられた盗賊団で銃の名手として「ブラック・タイガー」と呼ばれていた。今日も同じくファーイの手下のマヘスワンと裏切り者の家を訪ね、皆殺しにした。一方、沼の中のあずまやに一人やってきた女性。彼女はダムの写真を持ち、一人待つ。仕事を終え、あずまやへと向かったダムだったが、ついたとき、そこにもう女性の姿はなかった。
 ごく彩色の不思議な色彩の映像に、古風なメロドラマ、西部劇、コメディといったさまざまな要素を詰め込んだタイ流エンターテインメント。作られた安っぽさが笑いを誘う。

 こういう映画は嫌いではない、というよりむしろ好きなんですが、この映画の場合、安っぽく作ることの意味を履き違えているというか、中途半端というか、笑えるところはあるけれど、全体としてはしまりがないというか、そんな気がしてしまいます。
 最初から、色みがおかしくて、なんだか昔のパートカラーの映画のようで、それは面白いんだけれど、それで全部を通すわけではなく、風景が多いところや、加工しやすいところにだけ、そういった風合いを出してしまっている。これは安いのではなく、安易。安い映画を作るのは非常に大変なもの。それもお金をかけて安い映画を作るのではなくて、本当に安い映画を作るのはさらに大変。そのあたりの努力が足りないことがこの色の使い方からも見えてしまう。
 この映画を見ていると、「もっとこうしたら」とか「こうなったら面白いのに」ということが結構ある。たとえば、オレンジ色のごく彩色の知事の家がありますが、最初3回くらい映るまではこの家を正面からしか捉えない。それを見たときに「これはきっと張りぼてだ」と思ったんですが、結局全体があって、ちゃんと映る。多分これは張りぼてだったほうが面白かったと思う。全体を写すのは正面だけで、部分部分は別に作る。そのほうが、非常に変な感じになって面白かったんじゃないかな。と思う。そんな場面が結構あります。
 あと、問題は主プロットのメロドラマがあまりにお粗末。恋愛ではなくて、ダムの人生というか、日常のほうが主プロットで恋愛はサブプロットだったなら、メロドラマのお粗末さ、ありきたりさも目立たなかったろうけれど、ここまで前面に押し出されてしまうとつらい。何せスリルがほとんどない。まあ、古典的メロドラマを使って、全体の時代性を統一しようという意図はわかるけれど、終盤はちょっと退屈してしまう。

 というように、全体としてみると、どうしてもあらが目立つというか、気になるところが多く見られますが、やはり面白いところも結構ある。カウボーイ風の強盗団がいること自体すごいけれど、彼らが馬で走るとき必ず掛かる音楽が一緒。この音楽はなかなか面白い。あとは、ダムがゴンだったか誰だったかの三人組とやりあう二つのシーンはいいですね。「血ぃ出すぎだよ!」とか「弁当箱忘れてるよ!」とか、突っ込みどころ盛りだくさんなので、一人で見るよりは、友達とがやがや見たいところ。
 そのあたりはなんだか「シベ超」的なところもありますが、ちょっとふざけすぎ。ふざけるならもっと真面目にふざけてよ。

チャーリーズ・エンジェル

Charlie’s Angels
2000年,アメリカ,98分
監督:マックG
脚本:ジョン・オーガスト、ライアン・ロウ
撮影:ラッセル・カーペンター
音楽:エド・シェアマー
出演:キャメロン・ディアス、ドリュー・バリモア、ルーシー・リュー、ビル・マーレイ

 とある飛行機のファーストクラス。アフリカ系の大男が挙動不審の男の隣に座る。合言葉というと、その男は胸に抱えた爆弾を見せた。アフリカ系の大男は爆発直前に爆弾を持った男を抱え、飛行機の扉を開けて外に飛び出した。空中で爆弾は爆発した。
 謎の男チャーリーに雇われ難事件を解決するナタリー、ディラン、アレックスの美女3人組。その名はチャーリーズ・エンジェル。
 70年代に人気を博したTVシリーズのリメイク版。ドリュー・バリモアが製作権を買い、自らキャストを集めたという入魂の作品。

 この映画をどう見るかといえば、笑うしかない。アクション映画だと思って真面目に見てしまうと、確実にどうしようもない映画になってしまう。いかに早くそのことに気付くのかが勝負。
 といっても、冒頭の飛行機のドアを開けて外に飛び出す時点でそのことにはすっかり気付くわけで、そこから先は全く持って破天荒な滅茶苦茶な、アクションによる笑いを楽しめばいい。それはもちろん、わかりやすいワイヤー・アクションでみんなが空を飛び(今のアメリカ人は空くらい飛べたないと映画には出れないらしい)、爆風に跳ね飛ばされ、ドアや壁にぶち当たる。それでも怪我ひとつしない。
 この映画でむしろ邪魔なのは、逆として存在するギャグの部分。パーティーでの相撲レスラーとか(後ろにいたのがどう見てもトンガ人なのは面白かったけど)ビル・マーレイのコメディアンらしい動きとか。そんなことをしなくてもこの映画は笑える。
 とはいえ、この映画は基本的にはアクション映画のようで、作る側もそのように作っているらしい。いわゆる「マトリックス後」のハリウッド・アクションの典型的な例で、ワイヤーアクションと映像加工を駆使して、ありえないことをさまざまやってしまう。一番面白かったのは、レーシングカー同士が橋の上でチキンレースをするところ。ありえなさもここまで行き着くとものすごい。大爆笑してしまいました。「マトリックス後」のアクションの過剰さ。その過剰さを笑いに持っていくのも一つの方法。作る側は狙っていないかもしれないけれど、できた映画を見れば、見事に笑えるところに落としている。あるいはわたしのツボに落としている。
 おそらく、この映画を批判する人はたくさんいるでしょう。アクションがつたない。ストーリーが荒唐無稽。話の辻褄が合わない。リアリティがなさ過ぎる。いろんな映画の真似に過ぎない。何で肝心のときに銃をつかわねーんだ。アジトのわりに警備が薄すぎるぞ。
 まあ、どれも当たっているんですが、それでもあえて、この映画を笑うことのできる余裕のある大人、そして心の広い映画ファンでありたい。皆さんにもそうあって欲しい。そのような願いを込めております。だって、ドアは全部蹴って開けるんだよ。

DV-ドメスティック・バイオレンス

Domestic Violence
2001年,アメリカ,195分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイビー

 映画はドメスティック・バイオレンスの現場に駆けつけた警察官らの映像から始まる。喉から血を流しながらパニックになり、叫ぶ女性。そんな映像をプロローグとして、映画はDV被害者保護施設である「スプリング」の内部に入ってくる。「スプリング」にはDV被害にあった人々からの電話を受け、彼らを受け入れる。
 これまでどおり、一つの施設を取り上げ、そこの内部に深く入っていく。DVがアメリカで非常に大きな問題となっていることは知られているので、問題意識を持ちやすく、映画に入っていきやすい。

1回目
 ドメスティック・バイオレンスという話題自体は耳新しいものではない。しかしその実態となると、あまり耳には入ってこない。日本で話題になるのは、親による子供の虐待死が多い。しかし、アメリカでは夫や恋人による女性への肉体的虐待が多い。という程度の知識。だからこの映画はまず、興味はあるけれど、内容はよくわからないものへの知的好奇心を刺激する。DVとはいったいどのようなものなのか。この映画がそれを明らかにすることは確かだ。
 そういった面で一番印象に残ったのは、一人の女性が、カウンセラーの質問項目に答えていく場面。彼女は「突かれたか?」とか「殴られたか?」とか「他人の前で侮辱されたか?」といった質問のすべてに当てはまっていく。その質問に答えることによって彼女は、あんなこともDVにあたるのだと気づき、自分がいかに虐待にさらされてきたのかということを知る。この映画の中で「洗脳」ということが何度か出てくるけれど、その「洗脳」に自分がさらされていたのだということに気づく瞬間の表情をワイズマンは見事にとらえる。
 この「スプリング」では(それはおそらくアメリカのDV対策においてはということだろうが)この「洗脳」ということを非常に重く見ている。主に男性が女性を自分の支配下に置くために洗脳する。虐待に当たることを当たり前のことと受け取らせてしまう。だから50年もの間、虐待を受けながらそれに耐えることになる。そしてそれが虐待だとはわからなかったということになる。
 だから、ここではグループカウンセリングにより、それに気づかせ、そうならないようにするためにはどうするべきかということを話し合わせる。いろいろな人の体験を聞くことによって今後の対策を考えることができる。

 というのが、この映画で描かれたDV対策だ。もちろんそれは必要だ。「自分の心は自分のものだ」ということは当たり前のことであり、重要なことだ。特に「スプリング」にきている彼女たちは心を他人に譲り渡してしまいやすに人たちで、だからそれを強く言い聞かせることは必要だ。しかし、好きな人がいて、その人に心を明け渡したいという欲求が生まれることも確かだ。好きなのに、心の一端も譲り渡すことができないというのはあまりに寂しい。
 問題はおそらく、その相互依存が力の関係に変わってしまうということだろう。力関係が均等でなくなると、それは相互依存でありながら、力の弱いものにとっては一方的な依存であるように見えてしまう。そのようにならないための努力というのがこの映画に描かれていることだ。
 しかし、その先にある問題は、それが結果的に支配の奪い合いになってはしまわないかということだ。望ましいのは、奪い合う関係ではなく、与え合う関係であるはずなのに、それを教えることすら叶わないこの状況はあまりに悲しいと同時に、考えなくてはならない状況である。
 この映画は非常に引き込まれるが、決して後味はよくない。ワイズマンが自分の価値判断を示さないのはいつものことだが、この映画の最後に、ドメスティック・バイオレンスに及ばない現場が、虐待をしそうな本人が警察に通報した場面を挿入したことは、ワイズマン自身この問題があまりに複雑で、解決しがたいことであると認識していることを示しているように見えた。

2回目
 まず、われわれは警察が駆けつけたDVの現場を見せられる。驚くほどの血を流し、うろたえる女性、DVというと殴ったとか蹴ったという程度を思い浮かべがちだが、実際には刃物や銃を使ったものもある(これが非常に多いことは後々わかってくる)ということを認識させられ、その深刻さに気づかされてから、われわれはその被害者の駆け込み寺とでもいうべき施設“スプリング”の中に誘われる。
 そのスプリングにやってくる女性たちは予想通り、傷つき、打ちひしがれている。重要なのはそれが単なる暴力なのではなく、長年にわかる抑圧であるということだ。問題なのは物理的な傷が治癒することではなく、ずたずたに切り裂かれた精神を癒すことこそが必要なのだということがわかる。
 彼女たちは精神を押さえつけられ、閉じ込められ、逃げ出すことが出来なかった。物理的には可能であっても「逃げたら殺される」と思い込まされ、閉じ込められてきたのだ。そんな彼女たちが着の身着のまま逃げ込んだスプリングでの最初の面談が、まず映されるが、そのカウンセリングから徐々にその抑圧が解けていく過程を見ることが出来る。

 そして、彼女たちの問題は「知らない」ということだ。暴力を伴わない関係を「知らない」、逃げる方法を「知らない」。そこで、ここに登場するDV被害者の多くが母親もDVの被害にあっていたと語ることが重要になる。そして、DVの被害を受けた人の多くが大人になって加害者に回るというのも問題になる。
 それは、DVが存在する環境で育つことで、それが存在しない環境を知ることがないということが原因なのではないか。暴力の介在しない人間関係があることを知らない。DVはそこからひたすら再生産されるのである。そのようなことが明らかになるのは、被害者たちが教室のようなところで体験を語る場面である。ここではしゃべる人は限られているのだが、しゃべり始めると関を切ったように喋り捲るのだ。それはまさに抑圧が取り払われたことを象徴的に示している。抑圧され、閉じ込められていたものを一気に解き放つ感じ、それがその爆発的なしゃべり方に現れている。

 「知らない」のはスプリングにやってくる被害者ばかりではない。映画の中盤で老婦人の集団がスプリングを見学にやってくるのだが、彼女たちはアメリカの女性の約3分の1が虐待を受けた経験があるということを聞いて驚く。そしてその割合は昔と比べて増えているわけではないという説明を聞く。それはつまり、彼女たちの3分の1もかつて虐待を受けていたか、今も受けているということを意味するのだ。彼女たちは自分たちには関係ないかわいそうな人たちの世界としてスプリングを見ていたわけだが、実は彼女たちも無関係ではないということを知る。
 そして私たちも自分も無関係ではないということを知る。日本でどれくらいの割合の人が虐待を受けた経験がるのかはわからないが、決して少なくはないだろうと思う。実は自分は虐待を受けて知るのかもしれない、あるいは虐待しているのかもしれない。そのような疑問がこの映画を見ている中で必ず沸く。

 そしてそのことに気づかないというありそうにないことが起こるのは、DVというものが「洗脳」のメカニズムを備えているからだということが映画の後半に説明される。被害者は加害者に「洗脳」され、虐待されること/虐待することを普通のことだと思うようになってしまうということだ。「そんなバカな」と思うけれど、スプリングにやってくる彼女たちは見事にその「洗脳」の餌食になってしまっているのだ。
 そして、この「洗脳」は被害者だけでなく加害者をも犯している。加害者もまた虐待を当たり前のものとして「洗脳」されているのだ。彼らには虐待をしているという意識がない。あるいは意識があったとしても自分で止めることが出来ない。
 そのように加害者もまた「知らない」ことが映画の最後に挿入されるエピソードで明らかになる。この最後のエピソードは警察が呼ばれていくと、そこでは男性と女性が口論していて、それは虐待をした経験のある男性が、「このままだと大変なことになる」と思って警察を呼んだのだという。つまり彼は自分で止める自身がないから警察を呼んだということなのだ。彼は自分が虐待に及ぶ可能性を知ってはいるが、それを止めることが出来ないのだ。

 このように、この映画で示されているのは、ことごとく「知らない」ということである。被害者も加害者もそしてわれわれもDVのことを本当には「知らない」のである。そしてさらに、この映画を見たからと言って、それでDVのことを知ったことになるわけではないということもわかる。われわれはただ「知らない」ということを知っただけなのだ。あとは、自分が何を「知らない」のかを自分自身で考えることだ。もしかしたらあなたもDVの被害者/加害者かもしれないのだから。

ノー・マンズ・ランド

No Man’s Land
2001年,フランス=イタリア=スロヴェニア他,110分
監督:ダニス・タノヴィッチ
脚本:ダニス・タノヴィッチ
撮影:ウォルター・ヴァン・デン・エンデ
音楽:ダニス・タノヴィッチ
出演:ブランコ・ジュリッチ、レネ・ビトラヤツ、フイリプ・ショヴァゴヴイツチ、セルジュ・アンリ・ヴァルケ、カトリン・カートリッジ

 交代兵として全線へと向かうチキとニノとその仲間たち。闇の中をガイドに従ってやってきたものの、深い霧に視界を奪われ、朝まで待機することに。朝目覚めてみると、そこはセルヴィア軍の塹壕の目の前だった。銃弾の雨を浴びせられる中、チキはかろうじて中間地帯の塹壕に逃げ込んだ。そしてそこに、セルビア兵が偵察にやってくる…
 戦争を真正面から取り上げているにもかかわらず、コメディとしたところにこの映画の成功の鍵がある。国連軍まで巻き込んで展開される展開は笑いを誘いながら、決してふざけてはおらず、しっかりとしたメッセージも伝わってくる。

 戦争を戦争映画としてではなく描こうとすると、パロディ化するかヒューマンドラマ化するかという方法論が多い。パロディ化とは一種のコメディ化だけれど、この映画のようにパロディではない形で笑いを中心とするというのは珍しい。ヒューマンドラマの方向性で、暖かい笑い見たいなものもあるけれど、それとも違う。それがこの映画のいいところであり、それがリアルというかわざとらしくない秘密だと思う。
 果たしてこの映画はコメディかということになると、それはなかなか難しい。確かに笑いが映画の中心となっているけれど、それはすっきりとした笑いではなく、シニカルな笑い。しかし物語りは非常に突き放した感じで、すっきりしている。終わり方などを見れば、「このどこがすっきりしているんだ!」と思う向きもあるかもしれないけれど、へんにうまくいってしまったりすると、きっとそのわざとらしさというか、つくりものじみた感じになってよくないと思う。ポイントはこの徹底的に突き放した感じ。しかも、ヒューマンドラマを見慣れてしまった観客にはこの描き方は新鮮に映る。
 見終わった後でも、この映画の印象はなかなか強く、後に引きずる。パッと見はなんともやるせない終わり方、ちょっと考えるとこの突き放し方がさっぱりしている、後で振り返るとさまざまなことがわだかまりとして残っている。そんな重層的な感想が持てる。
 わだかまりというのは、おそらく監督がこの映画で描きたかったことで、結局何も変わっていないということ。表面的には国連の役立たず振りというか、むしろ火に油を注ぐ役目しかしていないということが笑いのネタにもなっているし、中心的な批判の対象になっているように見える。あるいは、マスコミの問題も見ている側が憤りやすい存在である。
 しかし、本当にえぐりたかったのはそのさらに奥にある問題で、それは決して直接的に描くことはできない問題。たとえば、殺し合いをしているのは言葉が通じるもの同士で、敵の通訳によってしか仲裁者の言葉を理解できないということ。その落とし穴。その落とし穴に落ちてしまったのはなぜなのかということは描かない。あるいは描けない。落とし穴に落ちてしまった人々と落とし穴の上から見ている人々を描く。上にいる人々は落とし穴を生めることはせずに、ふたをしていってしまう。問題は落とし穴の中にあるのか、外にあるのか、穴自体にあるのか、
 この映画の舞台が塹壕なので、穴というメタファーが浮かびましたが、逆にわかりにくくなってしまったような気もします。笑われていることが問題であることのように見えるけれど、本当に深刻な問題は笑われていない問題のほうにあるということだと思います。

es[エス]

Dar Experiment
2001年,ドイツ,119分
監督:オリヴァー・ヒルシュビーゲル
脚本:ドン・ボーリンガー、クリストフ・ダルンスタット、マリオ・ジョルダーノ
撮影:ライナー・クルスマン
音楽:アレクサンダー・フォン・ブーベンハイム
出演:モーリッツ・ブライブロロイ、クリスチャン・ベルケル、オリヴァー・ストコウスキ

 タクシー運転手のタレクは「被験者求む」という広告を見つけ、それに応募する。その実験は集まった被験者たちを囚人役と看守役に分け、それによる精神の変化を見ようという実験だった。その実験が行われる直前、タレクは美しい女性に車をぶつけられ、そのまま一夜を過ごすという不思議な体験をする…
 過去に実際に行われ、被験者たちへの精神的影響があまりに大きく、途中で中止されてしまった。現在は心理上の問題もあり、全面的に禁止されている。この映画は実際に行われた実験をもとにして作られている。

 怖すぎます。
 この恐怖はどこから来るのでしょう。それはあまりに起こりえる出来事だから。簡単に想像できる恐怖だから。簡単に想像はできるけれど、同時にその恐怖に耐えられないことも容易に想像できる恐怖だから。
 この映画は実験を行う側についても描かれ、恋愛の話なども挟まれ、ちょっとこねたプロットになっているのだけれど、そんなことはどうでも良く、とにかく実験の中身、行われている実験のほうにしか興味は行かないし、それだけで十分であるともいえる。
 言葉にしてしまうと月並みになってしまうけれど、普通の人がいかに攻撃的に、あるいは暴力的になりうるのか、自制心を、良心を失うことができるのか。その変化は劇的なようでいて、意外に簡単なものである。結局はそういうことだ。この映画はもちろんそういうことを示唆するし、そこから考えるべきことも多く、恐怖の源もここにある。
 しかし、わたしはこの映画が成功している最大の秘密は具体的な恐怖の作り方にあると思う。ホラー映画の基本は観客に「来るぞ、来るぞ」と思わせておきながら、それでも予想もしない瞬間に観客を襲うという方法。その盛り上げ方が周到で、その遅い方が意外であるほど、観客を襲う恐怖も大きい。この映画はそんなホラー映画の文法をしっかりと守る。観客が頭の中で恐怖心を作り出せるように周到なプロットを練り、それを意外なところで爆発させる。

 なんだろう、映画の途中で囚人役の一人が「ナチス!」と口走るように、この心理作用はあらゆる集団操作に使われているし、この後も使われる危険はある。そのことを説得的に語るのではなく、純粋な恐怖として語るというのは作戦としてすごい。見ている間は完全な娯楽作品というか、サスペンスとしてみることができるけれど、見終わって「アー、怖かった」と振り返ってみると、また現実における恐怖がわきあがってくる。そういう意味では一度で二度怖いという言い方もできる。
 ファシズムには負けないぞ!

キング・イズ・アライブ

The King is Alive
2000年,デンマーク=スウェーデン=アメリカ,108分
監督:クリスチャン・レヴリング
脚本:クリスチャン・レヴリング、アンダース・トーマス・ジャンセン
撮影:ジャン・スクロッサー
出演:ロマーヌ・ボーランジェ、ジェニファー・ジェイソン・リー、ジャネット・マクティア、デヴィッド・ブラッドリー

 アフリカのどこかの国、エメラルド・シティーへと向かうはずのバスだが、なかなか目的地に着かない。朝になり、どこを向いても一面砂漠の道を走っていることに気付いた一行は目的地を示すコンパスが壊れていたことを発見する。 何とか廃墟となった小さな村にたどり着いたが、そこには一人の老人が何もせずに暮らしているだけ。一人の男を救援を呼ぶために送り出し、残りの人々はただただ砂漠で待つ生活を始めた。
 デンマークの90年代の映画運動「ドグマ95」の4作目。手持ちカメラでサスペンスフルな雰囲気を作り出しているが、今ひとつ緊迫感が足りない。

 「ドグマ95」はロケ撮影、自然音、手持ちカメラを徹底し、特殊な撮影方法、特別な照明などを排した映画。基本的にジャンル映画を拒否し、リアリズムに徹する方法論である。しかも監督の名前をクレジットしないという決まりもある。(「ドグマ95」については詳しくは公式サイトを見てください。)
 そのようなルールがあるので、この映画もそれに従っているわけだが、このルールの結果生じるのはまずは劇的ではない映画だ。リアリズムの中でいかに独自性を出していくか。それはアイデアに多くをよることになる。この映画の場合、砂漠に取り残され(これ自体は新しくない)、そこで演劇を演じる(これは聞いたことない)というアイデアになるわけだ。しかし、その結果生じたのは、なんとも緊張感のないドラマだ。極限状態で演劇をやるという行為の意味がいまいちはっきりしてこない。それが彼らの心理にどのような影響を与えたのか。
 そんな、アイデア自体にも今ひとつ納得できないし、細部にも納得がいかない。なぜわざわざ炎天下の日向で演劇の練習をするのかとか、ちゃんと水は集めているのかとか、あの村に住んでいたおじいさんは結局なんなのかとか、疑問ばかりがわいてくる。結局この物語の難点はちっともリアルではないところなのかもしれない。
 もっと極限状態になってもいいような気もするし、演劇を始めるヘンリーの考えもいまいちわからない。それぞれの行動の動機付けが今ひとつわからないのが、ドラマに入り込めない一因だろう。だからといって狂気に取り付かれているわけでもなさそうだ。
 こういうひとつのテーゼに沿って映画を作るということは難しいことだ。映画には常に制約がつき物だけれど、これはその趣向に賛同して参加するものなので、自己規制でもあるわけだ。だから規制の中で工夫するというよりは規制を忠実に守ってやるということになる。そのようなフォーマットの中ではやはり独創性というのは生まれにくいのではないだろうか?

チキン・ハート

2002年,日本,105分
監督:清水浩
脚本:清水浩
音楽:鈴木慶一
出演:池内博之、松尾スズキ、忌野清志郎、荒木経惟

 「殴られ屋」をしながら、なんとなく暮らしている元ボクサーの岩野。そんな彼と一緒にいるのは、ティッシュ配りや取立て屋をしながらいい歳してプータローのサダと、親戚の帽子や店番をしながら、占いばかり見ている丸。そんな3人の環境が徐々に変わっていく中、何かが変わっていく…
 北野組の助監督を勤め、『生きない』で監督デビューした清水浩の第2作。個性的なキャストを集めたことで、物語云々にかかわらず、面白い映画を作ることができた。

 物語を追ったら全くたいしたことありません。でも、一つ一つのエピソードはなんとなく面白い。世の中きちんと生きている人が見たら、いらいらするのかもしれないけれど、そんな人はおそらくこんな映画は見ない。なんとなく、のらりくらりと生きている人がこの映画を見る。でも、この映画は必ずしもそののらりくらりを肯定するわけではない。その辺は居心地が悪いけれど、そういったポジティブなメッセージも込めないといけないんでしょうねやはり。
 その辺りはなんだか不満というか、もやもやしますが、岩野が借金を取り立てに行くところとか面白い。わたしとしてはなんといっても松尾スズキがおもしろい。映画としては池内博之と清志郎がメインのような気はするけれど、ネタとして面白いのはさすがに松尾スズキ。そのダサさ加減は愛するしかないという感じです。
 わたしの好みからすると、そんなキャストの裁き方にも少し不満が残るけれど、世間的には松尾スズキが脇にまわるのは仕方がないのでしょう。
 これはこれでいいんじゃないの。

 さて、北野武がどうしてもバイオレンスとかシリアスなものに行き、コメディはどうしてもうまくいかない中、この清水浩はなかなか面白い映画をとる。いつも北野武も本当にやりたいのはコメディなんじゃないかという気がして仕方がない。だから助監督からこのような監督が出るというのは北野武としても喜ばしいことのような気がする。オフィス北野から、このようにいろいろな監督が出てくると、日本映画も面白くなるのではないでしょうか?

プルーフ・オブ・ライフ

Proof of Life
2000年,アメリカ,135分
監督:テイラー・ハックフォード
脚本:トニー・ギルロイ
撮影:スワヴォミール・イジャック
音楽:ダニー・エルフマン
出演:メグ・ライアン、ラッセル・クロウ、デヴィッド・モース、パメラ・リード

 南米の国テカラに駐留し、石油会社でダム建設を指揮している技師のピーターは、会社が買収され、ダム建設が棚上げにされそうなことに怒りを覚え、妻とも諍いを起こしてしまう。その翌日、工事現場へと向かう彼は、突然武装した集団に襲われ、トラックで運びされられてしまった。
 そんなピーターの妻アリスの前に現れたのは、ロンドンにある人質事件を専門に扱う会社から派遣されたプロの交渉人テリー。アリスとピーターの姉ジャニスとともに解決に向けて歩き出すのだが…
 メグ・ライアンとラッセル・クロウの共演というのが最大の売り文句。しかし、メインはサスペンス。といっても、いろいろな要素が入っているので、楽しめる一面もあり、中途半端な一面もあるという感じ。

 最近、古典的ハリウッド映画というものを学びまして、それによるとメインのプロット(たとえば社会的な事件)があって、それに加えて必ずサブプロットとしてメロドラマがある。ということだそうです。そして、社会的事件は解決したんだかしないんだかわからないまま、サブプロットのメロドラマがめでたしめでたしとなって映画が終わるというのが古典的ハリウッド映画のパターンだということらしい。いわれてみれば、そんな気がするという程度ですが、ここで言いたいのは、それが「古典的」というくくりをはずしても、多少の変化こそあれ、ハリウッド映画に存在し続けているルールだということです。
 この映画でも、メインは誘拐の話。そしてサブプロットにメロドラマがある。しかし、この映画の場合そのメロドラマというのはメグ・ライアンをはさんで二つある。夫との関係とラッセル・クロウとの関係。古典的ハリウッド映画に照らしてみると、結局のところこの映画の解決はメグ・ライアンと夫とのメロドラマでしかない。確かに、誘拐事件は解決されたけれど、それはあくまでひとつのケースであり、その誘拐事件の前と後で何かが変わったわけではない。だから古典的ハリウッド映画の文法にしっかりと従っているといえるわけです。
 その中でラッセル・クロウがかかわるメロドラマについて考えてみると、これはあくまで主となる夫との関係への味付けに過ぎない。乗り越えるべきひとつの障害であるということ。ラッセル・クロウはこの映画全体を見ている中では主役なんだけれど、物語から見るとあくまでもバイ・プレイヤーでしかないということ。振り返ってみると、デヴィッド・モースはかなり主体的な人間として描かれており、主人公を担うにたるだけのキャラクターでもあるわけです。
 メインのプロットにしても、それほどその展開が重要ではないというのはその解決が結局のところ偶然によっているということ、そして最後の一連の戦闘シーンのスペクタクルを見ればわかってしまう。それはあくまで最後のスペクタクルに向けた助走であり、最終的なこの映画の持って行き所はスペクタクル(ラッセル・クロウの見せ場)と、メロドラマ(メグ・ライアンの見せ場)であったということを明らかにする。
 もちろん、それがわかりやすく、面白ければ文句はないわけで、そのような映画もたくさんあるけれど、この映画はちょっとわかり安すぎたという気がする。

 さて、古典的といえば、もうひとつこの映画で古典的と思ったのは、そのステレオタイプ化。映画にわかりやすさを求める古典的ハリウッド映画はキャラクターのステレオタイプ化を図ります。舞台となるテカラは仮想国家だけれど、そのモデルはニカラグアで、実際にはメキシコの映像を使っている。ここに登場する人たちはいわゆる「メキシコ人」、そこには多様性のかけらもない。
 もっと面白いのは、ラッセル・クロウの息子がラグビーをやっている。それまでは、ラッセル・クロウがどこの人であるかという解説は(多分)なくて、いきなりラグビーをやっている絵を見せることで、イギリス人と納得させる。そのステレオタイプ化はどうなのか。やはりここもわかり安すぎたという気がする。
 現代の素朴な感覚ではわかりやすさとリアルさというのはどうも背反するらしいので、このようにわかりやすい映画はどうもリアルと感じられない。その辺りがこの映画の最大の問題なのだろう。

ガールファイト

Girlfight
2000年,アメリカ,110分
監督:カリン・クサマ
脚本:カリン・クサマ
撮影:パトリック・ケイディ
音楽:セオドア・シャビロ
出演:ミシェル・ロドリゲス、ジェイミー・ティレリ、ポール・カルデロン、サンティアゴ・ダグラス

 今年で高校を卒業するダイアナはブルックリンの公営住宅に住み、学校ではけんかばかり繰り返していた。ある日、弟のボクシングジムに月謝を払いに行ったダイアナは、弟に汚い手を使った少年を殴る。次の日、ダイアナは再びジムへ赴き、トレーナーにボクシングを教えてほしいと頼み込んだ。
 単純なスラムの少年少女という映画ではなく、上品に、しかし堅実にその姿を描いていく。監督は日系アメリカ人で、この作品がデビュー作となるカリン・クサマ。サンダンスで最優秀監督賞も受賞。人種が混交する状況を地味だけれどリアルに描いた佳作。

 こういう映画はヒロイズムに陥りやすい。一人の少女がボクシングに目覚めるとすると、彼女はたとえば女子ボクシング界で頂点に立つとか、そういった筋立てに。しかし、この映画はそのような筋立てにはしない。
 かといって、人種問題を前面に押し出すかといえば、そうでもない。最終的にメインとなる恋物語の相手がプエルトリカンであったり、ボクシングのコーチもヒスパニックであったりして、混交している状況は示されているけれど、必ずしもそれが貧困や差別につながるとは表現していない。
 そのような微妙なスタンスの取り方が映画全体を地味にしている。ひとつの見方としては、人種などを超えた普遍的な物語として描きたかったという見方もあるだろう。なら、どうして黒人なんだと思うけれど、もし白人の女の子がボクシングをやったとしたら、それは全く異なる物語になってしまっただろうし、そこからたち現れてくるのはやはりやはりヒロイズムか、『チアーズ』のような平等の幻想だけだろう。だから、このような人種混交の状況の中にある一人の貧しい少女を描こうとすると、人種は必然的に有色人種になってしまう。
 ということは、人種を超えた普遍的な物語などありえないという主張であるのかもしれない。「普遍」というまやかしをまとうことなく、映画を作る。それは一種、観客を限定することであり、産業的には不利に働くかもしれない。たとえば、スパイク・リーの映画はあくまで黒人映画であり、全米であまねく見られうというわけではない。そのような意味でこの映画も(黒人映画ではないけれど)観客を限定しているのだろう(映画祭によってその不利はある程度払拭されただろうけど)。

 逆に問題なのは、最終的にラブ・ストーリーに還元してしまったことだろうか?物語の最初も恋愛の話で始まり、主人公はそれに反発しているのだけれど、それが最終的にラブ・ストーリーに還元されてしまうと、なんだかね。途中、父親に食って掛かるシーンなどはかなり秀逸で、そういう勢いのあるシーンを物語にうまくつなげていければ、すばらしい映画になったような気がします。
 この展開だと、ひとつの少女の成長物語で、学校も家族も乗り越えるべきひとつのもので、最終的にたどり着くものは愛(恋)だというような話になってしまう。そのように単純化できてしまう物語はなんだかもったいない気がしてしまいます。

PARTY7

2000年,日本,104分
監督:石井克人
原作:石井克人
脚本:石井克人
撮影:町田博
音楽:ジェイムス下地
出演:永瀬正敏、浅野忠信、原田芳雄、堀部圭亮、佐藤明美

 郊外もかなり田舎に経つホテル・ニューメキシコ、めったに客もこなさそうなホテルにやってきたチンピラ三木、薄暗いどう見てもまとうではないが、三木の知り合いらしいおばさんのやっている旅行会社の紹介でやってきた。
 一方、オキタはのぞきで何度も刑務所に入っていた男、その父親の友人がそのホテル・ニューメキシコのオーナーで、のぞき部屋を作ってあった。
 奇才石井克人がなんとも不思議な作品を作った。

 オープニングのアニメは長すぎると思う。それはさておき、こういういわゆるスタイリッシュな現代風の映画は、とっぴな発想が重要な要素となるだけに、下ネタに笑いを求めたりする。下ネタ字体は悪くないけれど、それが下品になってしまうと、どうにも苦い映画になってしまう。この映画は時折下品な方向に偏ってしまいがちで、そのあたりが問題なのかもしれない。
 ノゾキ部屋の浅野忠信と原田芳雄の会話などはなかなか面白い。しかし、それが父親の話になって、言い争いになったあたりから収拾がつかなくなり、ユーモアの範囲にとどまらなくなってくる。永瀬正敏のいる部屋のほうでも、3人でもめている段階では、悪くないのだけれど、堀部がやってきたあたりから、どうも切れがなくなる。それでも、時折面白いネタがはさまれるので見通すできるけれど、映画が進むにつれて面白くなくなっていくことは確かだ。
 それは何故かと考えると、映画として全体の脈略がない。特殊な効果をねらう(松金よね子が高速にページをめくったり、永瀬正敏がトランクを隠すとき、ジャンプカットの連続になる)こと自体はいいし、ここの場面は面白いものになっているのだけれど、それが映画の脈略の中で必要かというと特に必要でもないし、全体のスタイルも統一されていない。そのような(チープな)特殊効果を使って映像を見せようというなら、それで押し切ればいいのに、時々思い出したように使われるだけ。その単発的な感じが今ひとつというところ。
 いいところをあげるなら、浅野忠信。浅野忠信は最初から最後まで一人で頑張る。それほどセリフがあるわけでもないけれど、キャラクターもしっかりしているし、おかしさを全身で表現しているような気がする。どうせなら、のぞき部屋の視点だけで全編を見てみたかった。親切にすべてのいきさつやネタをばらしていくのはくどいというか、観客をバカにしているというか、観客の想像力をもっと信用して映画を作ってもいいような気がした。そのような意味でものぞき部屋視点で作ってもいい気がした。