13デイズ

Thirteen Days
2000年,アメリカ,145分
監督:ロジャー・ドナルドソン
原作:アーネスト・R・メイ
脚本:デヴィッド・セルフ
撮影:ロジャー・ディーキンス
音楽:トレヴァー・ジョーンズ
出演:ケビン・コスナー、ブルース・グリーンウッド、スティーヴ・カルプ、ディラン・ベイカー、ルシンダ・ジェニー

1962年10月、アメリカの偵察機U2がキューバ上空から撮影した写真にソ連の核兵器らしい影が写っていた。キューバに核兵器が配備されれば、アメリカはその射程内に入ってしまう。大統領補佐官のケニー・オドネルは大統領ジョン・F・ケネディ、司法長官ロバート・ケネディとともに戦争の危機を回避する方法を考え出そうとするが、軍部は戦争は不可避と考え即時爆撃を要求していた…

最も全面核戦争に近づいた瞬間として知られる1962年のキューバ危機を題材にしたリアル・サスペンス。わずか40年前の史実を映画にするという難しいことをうまく裁いた印象がある。サスペンスとしてももちろん面白いが、現在のアメリカの姿と比較してみると、またいろいろ考えさせられるところもある。

結果がわかっているサスペンスが面白くないのは仕方のないことなので、キューバ危機について細部まで知っている人にとってはサスペンスとしては面白くもなんともないでしょう。しかし、キューバ危機についてまったく知らない、あるいは一応知ってはいるけれど細かくは知らないという人にとってはサスペンスとしても楽しめるし、歴史としてみることもできる。歴史としてはアメリカ側からの視点しかないという留保つきではありますが。

ということなので、2時間半という長さでも飽きることはなく見ることができる。物語展開としてはわかりやすいヒーロー物というか、プロデューサでもあるケヴィン・コスナーが必要以上にヒーローとして出てきてしまっているという印象はあるが、ちょっと腹が出て生え際も後退し、2枚目然としたところは薄れたのでこれは良しとしましょう。

ということで、映画としては面白いということでいいのですが、他にも書くべきことがあります。ひとつは視点の偏り、ひとつは現在のアメリカとの対比ですね。

視点の偏りというのはもちろん、一方的なアメリカの側からの視点のみで書かれているということ。フルシチョフも登場しないし、もちろんカストロも登場しない。大使やら国連大使やらは登場するけれど、それは常にアメリカが倒すべき敵、疑わしい嘘つきとして登場する。アメリカ(の3人)はいい人で他は悪い人、そんな主張が明確に現れる。

これがあまりにばかげていると思うのは、たとえば少ししか出てこなかった米州機構との関係、この映画では米州機構の支援を意図も簡単に、自主的に取ったように描いている。しかし実際のところ、米州機構というのはアメリカがアメリカ大陸を掌握し、事実上の植民化を図る機関であって、彼らがアメリカを支援するのはその代表がアメリカが支援している親米政権だからだ。そしてその親米政権というのはアメリカが武器援助なども含めた支援によってテロリストも含めた反体制勢力を政権に立てたものに他ならない。

ソ連によるキューバへのミサイル配備というのは、そのような米州機構の中でキューバが孤立していたという背景があるということも考える必要がある。つまり、キューバへのミサイル配備というのが必ずしもアメリカへの先制攻撃のためだと決め付けられるわけではないということだ。

もうひとつ、現在のアメリカとの対比というのはもちろんイラク攻撃のことで、軍部も大統領も挙国一致で戦争へ突入しようとするアメリカと比べると、このころのアメリカはまだ良心が残っていたという印象を持つということ。やられたらやり返すという報復の精神や、自国と同盟国の人々以外の命はなんとも思っていない点では変わっていないが、あいまいな理由で戦争には持ち込まないという理念は合ったような気がする。

それが今の、何でいいから空爆したいというブッシュ政権とは違う。この映画はもちろん9・11以前に撮られた映画で、だからこそこのような映画ができたのだろう。アメリカにおいて民衆の扇動装置としても働くハリウッドは9.11以降は現政権に疑問を投げかけるようなものは引っ込めて、毒にも薬にもならない映画ばかりを送り出す。

デュエット

Duets
2000年,アメリカ,112分
監督:ブルース・パルトロー
脚本:ジョン・バイラム
撮影:ポール・サロッシー
音楽:デヴィッド・ニューマン
出演:マリア・ベロ、アンドレ・ブラウアー、ポール・ジアマッティ、ヒューイ・ルイス、グウィネス・パルトロー、スコット・スピードマン、ロックリン・マンロー

警察署で小学校時代の先生が万引きで捕まったところに出くわしたタクシー運転手のビリーは家に帰ると今度は妻が共同経営者と浮気しているところに出くわし、そのまま家を飛び出す。元プロ歌手のロッキーは賭けカラオケをしながら各地を転々としているが、そこに昔かかわった女の死を知らせる電話が。テーマパークの営業マンのトッドは出張先を間違え、家に帰っても妻も子供もお帰りも行ってくれない。

さまざまな理由で旅する人々がカラオケという共通点で結ばれ、その人生がカラオケのチャンピオン大会で交差するというドラマ。グィネス・パルトローと父ブルース・パルトローの最初で最後の共作として話題になった作品。

グィネス・パルトローが主役だと思ってみていたら、ちっともそうではなくて、グウィネス・パルトローとヒューイ・ルイスの組はむしろ脇役で、残りの二組のほうが主役的な役割を果たす。この二組はなかなかうまいつくりになっている。私は特にマリア・ベローとアンドレ・ブラウアーがうまいキャラクターだと思いました。

ただ、6人もの登場人物を主役級として出したことで逆にそいれぞれが薄くなってしまった観もある。マリア・ベロー演じるスージー・ルーミスのキャラクターは彼女自身がでた『コヨーテ・アグリー』などでも描かれ得たアメリカ映画には比較的よく登場するキャラクターで、それを助ける一人の男という設定もわかりやすい。

アンドレ・ブラウアー演じるレジーとトッドの組がこの映画でもっとも秀逸なキャラクター。企業戦争に精神を破壊されてしまうという設定はこれまた映画に珍しい設定ではないけれど、テーマパークの営業マンというのはアメリカ社会を象徴的にあらわすものとしては非情にうまいキャラクターだし、そのトッドを完全にこわしてしまい、旅に出させて、レジーという不思議な相方をあてがい、ロード・ムーヴィーに持っていき、さらにカラオケという小道具を絡ませる。そこにはアメリカ社会への風刺も含まれ、基本的にほとんど白人しか出てこないこの映画の中で異彩を放っている。

わたしとしては欲張って3組の物語を描かずに、このふたりのロードムーヴィーにしてしまったほうが面白い映画になったような気もするけれど。

グウィネスとヒューイ・ルイスの組は客を集めるための客寄せパンダ(表現が古いか…)的な役回りに過ぎず、映画にとっては内容を薄めるものでしかない。ヒューイ・ルイスの歌は確かにうまいし、グウィネスの歌もなかなかのものだけれど、それだけで主役級にするには物足りない。

否定的にいうならば、アメリカの商業至上主義社会を批判するようでいながら、結局その商業主義に積極的に乗っかり、映画自体の面白さを犠牲にしてしまったような映画ということになる。

ただ、逆に言うと、商業主義に無批判に乗っかることでだめになってしまう映画が多い中、それに乗っかりながらそれ自体を風刺するというスタンスを取ったということは評価できるのかもしれない。

張込み

1958年,日本,116分
監督:野村芳太郎
原作:松本清張
脚本:橋本忍
撮影:井上晴二
音楽:黛敏郎
出演:大木実、宮口精二、高峰秀子、田村高広、菅井きん、高千穂ひずる、浦辺粂子

東京発鹿児島行きの汽車に駆け込んだふたりの刑事、電車は混みあってなかなか座れず、まる1日以上かけてようやくたどり着いたのは佐賀。まず地元の警察により、犯人がやってくるのではという目当ての家の目の前にある旅館に部屋をとる。犯人の元恋人と思われる女は毎日平凡な日常を送る主婦で、張り込みは成果のないまま何日も続いていく。

10本以上の清張作品を映画化した野村芳太郎による清張作品の第1作。脚本には黒澤作品で知られる橋本忍、音楽は市川崑、小津安二郎など数多くの作品に参加している黛敏郎と豪華な顔ぶれ。

映画はいかにも良質のサスペンスという感じだが、直接ストーリーにはかかわりのない部分を膨らませ、ゆったりとしたリズムで進むあたりが、味がある。

最初の汽車での長い旅から、徐々に事件の全貌と柚木の抱える事情が明らかになっていく展開の仕方がなかなかうまく、「どういうことなんだ?」という疑問を抱かせたまま中盤までトントンと進んでしまう。そして後半は一気に物語が展開し、サスペンスらしい面白さに満ちる。

とは言っても、決して派手な立ち回りなんかがあるわけではなく、非情に微妙な真理的な展開で話を転がしていくところがいい。

宮口精二扮する下岡刑事と旅館の仲居たちとのやり取りなんて物語にはまったく関係ないのにとても魅力的だ。こういう瑣末なことが実は重要で、隣に泊まったアベック(アベックという言葉もなかなか時代がかっていて印象的)が事件に絡んでくるんじゃないかとかいらない邪推をしてしまうのもサスペンス映画を見る楽しみなわけです。

サスペンスを見るとどうしても、いまのTVサスペンスと比べてしまう(いま日本映画ではこういうサスペンスというものはほとんど存在していない)けれど、それと比べるとやはり非情に慎ましやかでいい。扇情的な音楽を使うのでもなく、クロースアップを使うのでもなく、唯一映画的な効果といえば大木実のモノローグくらいでそれでも十分にサスペンスフルな展開にする。画面のサイズとか予算の違いもあるけれど、それだけ力強いものを現在の日本では作れなくなっているということなんだろう。

クロースアップといえば、ふたりの刑事のクロースアップはたまにはさまれる(1度などはおでことあごが切れるくらいのものすごいクロースアップ)のに、高峰秀子のクロースアップはまったく出てこない。これは張込みする刑事の側に視点を置くために非情に周到なやり方で、なかなかその表情をうかがい知ることができないところで張込みする刑事の焦燥感のようなものを観客が共有できるように作られている。

そんななか、ロングで捉えても高峰秀子はすばらしい演技をしている。背中で、肩で、そして傘でも感情を表す。高峰秀子はこのとき34歳で、3人の子がいる母親役をやってもおかしくないはずなのに、童顔のせいかすごく若く見えるし、そのような立場に不似合いに見えるというのも映画にぴたりとはまる。

高峰秀子はいいですねぇ。

テルマ&ルイーズ

Telma & Louise
1991年,アメリカ,128分
監督:リドリー・スコット
脚本:カーリー・クォーリ
撮影:エイドリアン・ビドル
音楽:ハンス・ジマー
出演:スーザン・サランドン、ジーナ・デイヴィス、ハーヴェイ・カイテル、マイケル・マドセン、クリストファー・マクドナルド、ブラッド・ピット

ウェイトレスをして暮らす独身のルイーズと抑圧的な夫と暮らす主婦のテルマ、仲のよい二人は週末をルイーズの勤める店のオーナーの別荘で過ごそうとしていたが、テルマはそれを夫のダリルに言い出せず、結局黙って家を出てしまう。そして、開放的になったテルマは立ち寄ったパブではめをはずし、男と夜通し踊ったが…

大作のイメージのあるリドリー・スコットがふたりの女性を主人公にしたロードムーヴィー現代作った。なんといっても主人公のふたりがはまり役で、物語にも力がある。それまで泣かず飛ばずだったブラッド・ピットがブレイクするきっかけとなった作品でもある。

とにかく痛快。女性版『明日に向って撃て!』という観もあるわけですが、逃亡というのは非常に映画的で面白くなります。やはり緊張感が持続するというのが最大の要因なんでしょうけれど、ただそれだけでは伸びっぱなしのゴムのようで面白くはならない。たまにふっと緩む場所があるとそこに抑揚がついて面白くなるわけです。

その点で、この映画は非常にうまい、最初から2人のキャラクターが対照的な正確に描かれている。象徴的なのはもちろん2人が旅の荷物をパッキングする場面ですね。ここできっちりと几帳面なルイーズと大雑把で行き当たりばったり、しかし心配性なテルマというキャラクター設定がはっきりとわかる。そして、事件がおきるまでは「何か起きそう…」という緊張感を保ちながら、テルマがそれを緩ませる役を負っている。その役割は事件後もしばらくは続くわけですが、ある一点で、その二人の立場が逆転する。ネタばれ防止のためどこかは言いませんが、それはあからさまにわかることなので、大丈夫でしょう。

ふたりの間には常に主導権争い(別に争っているわけではないと思うけど)があって、どちらがリードしていくのかが流動的に動いている。そしてそれを示すのが運転とタバコ。運転は結構しょっちゅう変わるわけですが、主導権を握っているほうが運転することが多い。そして、主導権を握っているほうはタバコをすっているカットが多い。そもそもタバコをすっているのはルイーズだけだったのに、いつの間にかふたりともすうようになっているわけですが、この映画ではタバコというものはかなり意識的に使われている。最近のアメリカ映画ではタバコが小道具として使われることはなくなってしまったわけですが(タバコを吸っている人が出てきただけでR指定にするという案も出ているらしい)、80年代くらいまではタバコというのは非常にいい小道具として使われていたなぁ… などとも思ったりします。

とにかく、そのような小道具なんかに注目してみると、また主人公ふたりの心理の動きとかが見えるようになって面白い。

そのようにして二人の役割とか立場が変化していくことがこの映画の大きな原動力になっているわけです。だから、このふたりはアカデミー主演女優賞にダブル・ノミネートされたのもまったくうなずける話です。

あとは、脇役にも存在感があります。ブラッド・ピットもいいし、ハーヴェイ・カイテルもいい。ブラッド・ピットは実はウィリアム・ボールドウィンの代役で出演したらしいですが、これ以前にはほとんどテレビ俳優だったようです。ハーヴェイ・カイテルのほうもこの年『レザボアドッグス』にも出演し、ブレイクの年となったわけです。『レザボアドッグス』といえばルイーズの恋人役のマイケル・マドセンも『レザボア』で印象的な役を演じていました。

そう考えると、タランティーノを中心とした90年代のアメリカ映画とも関係がありそうなこの映画。その流れはウォシャウスキー兄弟あたりまでつながりそうな気がします。ウォシャウスキー兄弟の出世作も女性2人が主人公の『バウンド』だったし、リドリー・スコットといえば『ブレード・ランナー』で、90年代あたりのSF(あるいはオタク文化)の流れを先取りしたという印象もある。

ということなのかもしれませんが、そんなことはともかくこの作品は面白い。特に女性にはよいでしょう。痛快爽快。

聖山

Der Heiling Berg
1926年,ドイツ,90分
監督:アーノルド・ファンク
脚本:アーノルド・ファンク
撮影:アーノルド・ファンク、ヘルマー・ラースキー、ハンス・シュニーベルガー
出演:レニ・リーフェンシュタール、ルイズ・トレンカー、エルンスト・ペーターセン、フリーダ・リヒャルト、ハンネス・シュナイダー

踊り子のディオティーマと登山家のコリ、コリの友人でスキーヤーのヴィゴ。ディオティーマが2人の山の男に出会い、恋物語が始まる。牧歌的な雰囲気だが、冬になると山は激変し人を死へと誘い込む世界になる。そんな冬の山に果敢に挑戦する男たち、それを待つ女。

『スキーの脅威』『アルプス征服』など山岳を舞台にした映画を主に撮るアーノルド・フィンクが後の女性監督となるレニ・リーフェンシュタールを主役に起用して撮ったサイレントのドラマ。レニ・リーフェンシュタールの女優デビュー作でもある。レニ・リーフェンシュタールは同監督の『死の銀嶺』『モンブランの嵐』などにも出演している。

レニ・リーフェンシュタールはそもそもダンサーで、それが女優になり、監督になって、ナチスにからめとられて、ナチスの宣伝映画のようなものを撮ってしまい、戦後は映画監督として世に出ることはできず、アフリカの先住民の写真などを撮ってカメラマンとして地位を築いたというものすごい人なわけですが、そのレニ・リーフェンシュタールの女優としての出発点がこの作品。

決して美人ではなく、しかしダンサーというだけに表現力はものすごい。やはりサイレントの時代には肉体に表現力のある人が好まれたのでしょう。とくにこの映画のように精神的というよりはある種のスペクタクルを見せる映画の場合は、ぱっとビジュアルで表現できる人が重宝される。だから、この監督はこれ以後もレニを使い続けたということ。

レニ・リーフェンシュタールのことは勉強不足で語ることができないので、この映画について書くことにしましょう。

この映画はドラマとしてはあまり面白いものではない。おそらく上映された当時もドラマとして観客を引き込むというよりは「自然の驚異!」みたいな、今で言えば「ディスカバリー・チャネル」、ちょっと前なら「野生の王国」的なものとして人々の好奇心を満たすものだったのではないかと推測できます。

そのような点から見ると、この映画はとてもよくできている。当時の編集や特殊効果の技術を差し引いても、見るべきものはある。

なんといっても感心するのは縦の構図の使い方。映画の画面というのはスタンダード・サイズ(今のテレビと同じ1×1.33の画面)でも横長なわけで、基本的には横に構図を考えざるを得ない。だから縦の構図というのは非常に作りずらい。しかし、この映画では大胆に画面を切り取って縦の構図を作ってしまう。本当に画面の左右を黒で埋めて細長い画面を作ってしまう。これはちょっと反則という気もしますが、とりあえず縦の構図というものに意識を持っていくことには成功する。

圧巻はこの映画最大の見せ場とも言える、「聖なる北壁」の登頂場面。ここでは画面サイズはそのままに縦の構図をしっかりと見せる。このシークエンスは断崖絶壁を上るシーンの連続で、とにかく上へ上へと映画は進む。これが縦の構図で非常に美しい。崖以外の部分はそれで埋めて、時間や天気の変化を表現するので画面に無駄もない。

さらに、ここにインサートされるレニ・リーフェンシュタールの部屋のシーンの構図がうまい。ものすごいロングで部屋を捉え、ものすごく立てに長い窓がある。この縦長が縦の構図という共通性を山登りのシーンとの間に築くことでシークエンスに一体感を与える。

このシークエンスはうなります。この監督立てに山の映画(「山岳映画」というらしい)ばかり撮っているわけではないらしい。

こういう場面に出会うと、映画があまり面白くなくても、我慢してみていてよかったと思います。

スパイダーマン

Spider-man
2002年,アメリカ,121分
監督:サム・ライミ
脚本:デヴィッド・コープ、スコット・ローゼンバーグ、アルヴィン・サージェント
撮影:ドン・バージェス
音楽:ダニー・エルフマン
出演:トビー・マグワイア、ウィレム・デフォー、キルステン・ダンスト、ジャームズ・フランコ、J・K・シモンズ、クリス・ロバートソン、ローズマリー・ハリス

科学好きの高校生ピーターは遅刻ばかりするさえない男、6歳のころから想いを寄せる隣に住むメリー・ジェーンにも気持ちを打ち明けることができない。そんなピーターの親友は高名な科学者ノーマン・オズボーンの息子であるハリーだけだった。ピーターはクラスで見学に出かけた大学の研究所で遺伝子組み換えしたクモに咬まれてしまう。そして翌朝起きると、ピーターの体にさまざまな異変が起きていた…

世界中で読まれ、アニメにもなった「スパイダーマン」を現代版として映画化。VFX技術を駆使して、スパイダーマンの超人的なアクションを可能にした。監督は『死霊のはらわた』をはじめとしたホラー映画で知られるサム・ライミ。

原作がアニメだからなのか、それとも監督のキャラクターなのか、エンターテインメントに徹してあまり細部にこだわらないところがいい。こういうアクション映画を撮ろうとするとき、VFXまで駆使してリアルに描こうとしているので、ストーリーテリングの部分までリアルにしたくなるのが人の性というような気もするが、この監督はそんなことはしない。ピーターを咬んだクモがそのあとどうなったとか、スパイダーマンの衣装は何で燃えたり破れたりしないんだとか、そういう瑣末なことにはこだわらず、ただただ観客を楽しませることに専念する。

だから、VFXもそれを見せるために使うのではなく、スパイダーマンやグリーン・ゴブリンにいかに存在としての立体感を出すかというために使われる。アクションの場面でこれ見よがしにスローモーションで見せたりするシーンはあまりない。けれど、まったくないわけではなく、どう考えても『マトリックス』のパロディ(翻案?)という場面もはさまれる。

パロディといえば、単純にアクション映画にするのではなく、奇妙な笑いを挟むのも独特なホラー映画を撮ってきたサム・ライミの感性というような気がする。グリーン・ゴブリンが歌うスパイダーマンの歌とかもあるけれど、ホラー映画を数多く作っているだけに、人が死ぬときにさまざまな工夫がなされているような気がする。そこに感動を入れるのか、笑いを迷い込ませるのか、そのあたりがなかなか考えられているのです。

などということも含めて、何も考えずに楽しめるという意味ではなかなかいいでしょう。子供が見て喜ぶというよりは、結構大人向けの娯楽映画という気がします。もちろん子供でも楽しめるわけですが、子供はたぶんアクションとかかっこよさとかそういうものにとらわれてしまって、皮肉な笑いなんかは見ないと思うのでちょっともったいない。よく言えば、大人でも子供でも楽しめるということになると思いますが、楽しむ以上のものはまったく持って何もありません。

それにはひとつの要素として、これが今後も続編が作られて、これは連続ドラマの第1話みたいな役割をしているというのもあるでしょう。全体像を明らかにして、これからいろいろと発展させていこう見たいな感じ。サム・ライミも最近駄作ばかり作っていたので、このシリーズ化でお金もうけて、自分の好きな売れないどろどろホラーでも作ろうと思ってるのかね?

獅子座

Le Sugne du Lion
1959年,フランス,100分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:ニコラ・エイエ
音楽:ルイ・サゲール
出演:ジェス・ハーン、ヴァン・トード、ミシェル・ジラルドン、ステファーヌ・オードラン、マーシャ・メリル、ジャン=リュック・ゴダール

音楽家を名乗って遊び暮らすピエールのもとに大金持ちのおばが死んだという電報が届く。遺産で大金持ちだといきまくピエールはパリ・マッチで記者をするジャン=ピエールをはじめとする友達を呼び、ジャン=ピエールにお金を借りて派手なパーティをする。しばらく後、ピエールは姿を消し、人々はピエールに遺産がはいらなっかったのだとうわさする…

「カイエ・ドゥ・シネマ」の編集長として理論面でヌーベル・ヴァーグを支えてきたエリック・ロメールが39歳にして始めて撮った長編映画。現在ではヌーベル・ヴァーグを代表する監督のひとりとなっているロメールの見事なデビュー。

何が“ヌーヴェル・バーグ”か? という疑問は常に頭から離れることはないが、この映画が“ヌーベル・ヴァーグ”であることは疑いがない。それはある種の新しさであり、50年代後半にフランスの若い映画監督たちが作り出した共通する独特の「空気」である。緻密に分析すると、編集の仕方とか音の入れ方とかいろいろと分析することはできるのだろうけれど、そういう小難しいことを抜きにしても、“ヌーベル・ヴァーグ”っぽさというものを経験として蓄積することはできる。この映画はまさにその“ヌーベル・ヴァーグ”っぽさを全編に感じさせる映画だ。

などといっても、実質的には何も言っていないような気がする。イメージとしてのヌーベル・ヴァーグはこんなものだといっても、何にもならない。だから、これがヌーベル・ヴァーグかどうかはおいておこう。

この映画にもっとも特徴的に思えるのは、パン・フォーカス。パン・フォーカスとは焦点距離を長くして、画面の手前にあるもの遠くにあるものの両方にピントをあわせる撮影方法で、ビデオ時代の今となっては簡単にできる方法だが、フィルムでやる場合、(カメラをやる人はわかると思いますが)絞りを大きく(ゆるく)する必要があるため、大きな光量が必要になる。日本ではパン・フォーカスといえば黒澤明で、それをやるために隣のスタジオからも電源を引っ張ってくるのが日常的な光景だったというくらいのものなわけです。

光量の問題はいいとしても、この作品でもパン・フォーカスが多用される。この映画ではそのパン・フォーカスが画面に冷たい感じを与える。パン・フォーカスをしていながら、画面の奥にあるのがものだけだったりすると画面がさびしい感じがして、そこから冷たさが生まれてくるものと思われる。これが一番発揮されるのはピエールがパリの街をさ迷う長い長いほとんどセリフのないシーン、画面に移るパリの街や人々のすべてにピントが合いながら、それらと交わりあうことのないピエールの姿の孤独さを冷酷なまでに冷静に見つめる視線。その迫力は圧倒的な力を持って迫ってくる。

「絶望」という無限の広がりを持つ言葉を一連の映像として見事に表現したシーン。その言葉には言葉にならないさまざまな感情、怒り、あきらめ、などなどが含まれながら、それは非常に空疎で、やり場がなく、しかし自分には跳ね返ってきたり、などなど。やはり言葉にはならないわけですが、その言葉にならないある種の宇宙をそこに見事に表現したロメールの技量の見事さ。これはなんといってもパン・フォーカスとモンタージュの妙だ。最後にパリの空撮ショットが入れ込まれるのも非常に効果的になっている。

このシーンがものすごくいいシーンだったわけですが、いまのロメールにつながる物を拾うなら、自然さというかアドリブっぽさ、偶然性、というものでしょう。こっちのほうの典型的なシーンは最初のほうのパーティーのシーンで、たしかジャン=フランソワがドアを開けるときに、ドアが一回では開かず、2回か3回がたがたとやる。これが果たして演出なのか偶然なのかはわかりませんが、このアクションひとつでこのシーン、この映画に自然さとリアルさが生まれる。今に至るまでこのような自然さというのがロメールの映画にはあふれている。何気なく見ていると何気なく見過ごしてしまう。だからこそ自然なわけだけれど、そのようなカットやアクションをさりげなくはさんでいく。それこそが“ヌーベル・ヴァーグ”というよくわからない枠組みを越えて、ロメールがロメールらしくあるひとつの要素であると私は思うので、デビュー作のこの作品にもそれが垣間見えたことは非常にうれしいことだったわけです。

王将

1948年,日本,94分
監督:伊藤大輔
原作:北条秀司
脚本:伊藤大輔
撮影:石本秀雄
音楽:西悟郎
出演:坂東妻三郎、水戸光子、三條美紀、小杉勇、斎藤達雄、滝沢修

関西で素人名人として名の通った坂田三吉は今日もいそいそと将棋大会に出かけた。次々とプロ棋士を倒して賞品をもらい、賞金をもらい、新進気鋭の関根七段と対戦ことに… 一方三吉の将棋道楽に苦しめられ、チンドン屋でビラをまいて帰ってきた妻の小春は三吉が仏壇をうっぱらって将棋大会の参加費を捻出したことを知り、家出を決意する…

明治から大正に実在した関西の棋士坂田三吉をモデルにした北条秀司の戯曲を伊藤大輔が映画化した作品。伊藤大輔はこの「王将」を3度にわたり映画化しており、これがその1回目。

やはり阪妻。私は若くてかっこいい阪妻より、40代くらいの味のある阪妻のほうが好き。だれっとたれ目になる笑顔、くっとよる皺、などなど。これくらいの年になってやっと味が出てきたという感じでしょうか。その点ではおそらく田村正和も同じで、若いころも確かに男前でよかったのですが、やはり年をとってからのほうが味があってよろしい。そう考えると、阪妻が50歳そこそこでなくなってしまったのは残念という以外に言葉はありません。

この映画の阪妻で一番いいと思ったのは首の振り。といっても何のことかは判らないと思いますが、阪妻がよく首を振る。いわゆる歌舞伎的な動きという感じで頭を左右に振ったりする動きがありますが、そんなようなものだと考えてください。とはいえ、それを大げさにやるわけではなく、動作の一貫としてふっと自然にやる。くくくくくっと首を振る。日常には普通ありえない動作のようでありながら阪妻がやると非常に自然で、とても絵になる。その首振りにはっと目が留まりました。よくよく思い出してみると他の作品でもやっていたような気もします。

こういう役者さんの癖というか味というか特徴というのは非常に重要な気がします。時には役柄にかかわらず出てくる特徴であったり、時にはその特徴があるためにいつもとは違う役柄をやるとなんだかピンとこなかったり、その特徴を逆手にとってある効果を生んだり。それは癖ではなくてなんとなくのイメージ姿かたちのパターンでもいい。例を上げようと思ったんですが、ちょっと思い出せません。田中絹代のほつれ毛…? ロビン・ウィリアムスはうれしいときにサイドステップを踏む?

まあ、いいか。とにかく阪妻は首の振りということです。田村正和なら眉間に皺。勝新なら着流し…

この映画はなんだか前半のほうが面白かった。前半の三吉が素人名人として破天荒にやっているところは面白い。将棋版に張り付くようにして将棋を打つ姿もすごく絵になる。ドラマとしても妻と子と近所の人たちと、親密な空間があって、とてもいい感じ。みていて「こりゃ名作だ」と思いました。

しかし、後半に入ると、ネタばれ防止のために詳しくはいえませんが、なんだか普通の話になってしまっている。映画の画面上の空間の密度が薄まってしまったというか、映画から密度が伝わってこない。私の個人的な気持ちとしては前半の話を引き伸ばして引き伸ばして、後半の話は最後の10分くらいでばたばたばたとやっちまってもよかったんじゃないかと思います。それくらい前半部分(ちょうど真ん中あたりでインタータイトルが入る前まで)はよかったのでした。

ところで、伊藤大輔(日本の黄金期を支えた映画監督のひとり。職人っぽい扱いをされてきたが、近年見直しが進む。阪妻作品を5本、他に『鞍馬天狗』『丹下左善』『大江戸5人男』など)は「王将」を3度も映画化しています。1度目がこの『王将』、2度目は55年に辰巳柳太郎と田中絹代で『王将一代』を、3度目は62年に三国連太郎と淡島千景で『王将』を撮っている。伊藤大輔が好きだったというよりは、この物語が受けたというのが大きいのではないかと思います。3度目の62年には映画にも出演した村田英雄が歌う『王将』が大ヒットというのもあります。

それにしても同じ監督が同じ題材で3度も映画を作るというのはかなり珍しい。ちょっと見比べてみたい気もします。

パリの恋人

Funny Face
1957年,アメリカ,103分
監督:スタンリー・ドーネン
脚本:レナード・ガーシュ
撮影:レイ・ジューン
音楽:ジョージ・ガーシュイン、アドルフ・ドイッチ
出演:フレッド・アステア、オードリー・ヘップバーン、ケイ・トムソン、ミシェル・オークレール、スージー・パーカー

女性ファッション雑誌の編集長マギーはファッションのテーマとしてピンクを選びこれが大ヒット、さらに次のテーマとして知的な演出を考え付く。その写真を撮るためカメラマンディックと秘書たちを連れて古ぼけた本屋に撮影に行く。ディックはそこのさえない店員ジョーも写真に収めた。後日彼はジョーをスターに仕立てようとマギーに提案して…

フレッド・アステアとオードリー・ヘップバーンの新旧スターが競演したミュージカル映画。フレッド・アステアはこのときすでに60歳近いが、見事なステップを見せる。オードリーの踊りもなかなかのもの。監督に『踊る大紐育』『雨に歌えば』などのスタンリー・ドーネン、音楽にはジョージ・ガーシュインでミュージカルオールスターという感じ。

いくらフレッド・アステアがいても、オードリーの魅力に尽きるわけです。確かに歌と踊りの場面ではフレッド・アステアのほうが何倍も輝いていて、とくにケイ・トムソンとのコンビ芸なんかは見ているだけで楽しくなってくるわけですが、それ以外の部分ではやはりこれはオードリーの映画。いくらオードリーの歌が眠くなってしまう代物でも(下手ということではなくて、歌い方に抑揚がないので眠くなる)、オードリーはオードリーだということなのです。

なので、逆にさえない本屋の店員という役回りからして不自然なわけですが、そのあたりは力技で持っていってしまう。ドレスを着て、メイクをして、すっかり変身! といっているけれど、あまり変身している気がしない。まあ、そんなことはいいわけですが。

私はあまりミュージカル映画というのはなじめないんですが、この映画はミュージカル映画というよりは要所要所に歌と踊りがちりばめられた映画という感じなので、それほど違和感なく見ることができました。ミュージカル映画に拒否反応を起こす人にはいいかもしれません。アステアの映画をもう少し見てみたい気になりました。

あと、この映画でいいのは美術ですね。最初のカラフルな扉から始まって、パリの街並みとか、ファッションショーの会場やら、本屋もそうですが、とてもいい。たぶんミュージカルの舞台から来ているんでしょうね。ミュージカル映画を撮る場合には歌って踊れるセットを組まなければならないので、きっと普通の映画とはセットの作り方が違うという気がするし。衣装もなかなか素敵だと思いますが、大部分がジバンシーのものだということらしい。アカデミー賞にもノミネート(美術監督・装置・衣装デザイン)されたらしい

ちょっとプロット的に無理があるのはやはりミュージカル映画ならではという感じでしょうか。特に共感主義っていうのとその教授って言うのがどうにもならない。もうちょっとましな生涯は思いつかなかったのか? という疑問がわいてしまいます。とくに教授のパーティーだか読書会だかなんだかわからない前ヒッピー見たいなあつまりとそこでの展開はアステアとケイ・トムソンのショー以外はまったく退屈で仕方がない。

ということなので、この映画は見所もたくさんあってかなり楽しいわけですが、ミュージカル映画に対するなじめなさは払拭されはしなかったのです。でも、楽しいからいい。

MONA(モナ) 彼女が殺された理由(わけ)

Drowing Mona
2000年,アメリカ,95分
監督:ニック・ゴメス
脚本:ピーター・ステインフェルド
撮影:ブルース・ダグラス・ジョンソン
音楽:マイケル・タヴェラ
出演:ダニー・デヴィート、ネイヴ・キャンベル、ベット・ミドラー、ケイシー・アフレック、ジェイミー・リー・カーティス、ウィリアム・フィクトナー

町中の嫌われ者の中年女モナの運転する車ががけから転落して、モナは死んでしまった。警官のラッシュは殺人事件として捜査を始めるが、夫のフィルをはじめとして疑わしい人物ばかりで、一向に捜査は進まず、小さな町だけに人間関係も複雑で…

ダニー・デヴィートがプロデュースも担当したミステリー・コメディ。全米ではボックス・オフィス第1位にもなった映画で、日本ではビデオリリース後に劇場公開という不思議な展開を見せた映画。コメディに定評のある渋めのキャストとこれからという若手の役者たちがうまく絡み合う。

基本的にはコメディということになるんでしょう。こういうブラックな笑いというものが受ける土壌がアメリカにはある。日本にはあまりない。ベット・ミドラーは最近は忘れられているかもしれないけれど、本当は歌手で、でも俳優としてのほうが売れてしまい、しかもコメディエンヌとしての才能がある。基本的にこの映画みたいなうるさい嫌な女を演じることが(コメディ)では多く、シリアスでは優しいお母さんみたいな役が多い気がしますが、やはり嫌な女のほうがうまい。

よく考えたらこの映画、『殺したい女』の焼き直しじゃない? あれは確か、ダニー・デヴィートとベット・ミドラーが夫婦だったはず。あの映画は面白かったなぁ…

ちょっと違う映画の話になりそうになりましたが、この『MONA』でもベット・ミドラーは(死んでるのに)いい味を出している。いろいろと役者がいるわけですが、(死んでいるのに)一番目立つ。殺された人が主人公という映画もなかなか珍しいんじゃないでしょうか。

そういえば、ベット・ミドラーとキャシー・ベイツって時々ごっちゃになりませんか? キャシー・ベイツはあの『ミザリー』の人ですが、二人ともまるっこくて、おばさんで怖い役をやらせたらうまい。それから、ダニー・デヴィートとジョー・ぺしも。これはちっちゃくてはげてるってだけだけど…

また関係ない話に言ってしまいました。この映画の話をすると、エーと面白いですが、なんとなく全体に暗い感じがする。ずっと曇っている感じ。たぶん低予算映画なので照明をたけなかったのかもしれませんが、とにかく曇り。でも、この曇りってのがモナの怨念みたいな感じでいい。死んでも目立ち、死んでもひとをやな気持ちにさせる。それがモナ。という感じです。

全米1位というのはよくわかりませんが、アメリカ人も超大作ばかり見ちゃいられないってことですかね。こういう普通の映画をみるのも楽しい。