軍事演習

Manoeuvre
1979年,アメリカ,115分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイビー

 毎年行われているNATOの合同軍事演習。今回は西ドイツで、米軍も参加して行われた。ワイズマンは米軍の一部隊に、米国出発から従軍し、一部始終を記録する。
 機銃を持ち、戦車を繰ってはいるが、あくまでも演習に過ぎず、兵士たちの間に緊迫感はない。ワイズマンが描き出すのは、そんな戦争のようで戦争ではない緩やかな空気。日常生活に突如闖入した戦争のようなもの。
 ずんずんと突き刺さり、眉間にしわを寄せざるを得ないような難しさはないけれど、これもワイズマンのひとつの方法であると感じる。

 全編から伝わってくるのは、これが壮大な「戦争ごっこ」でしかないということ。音を出して臨場感を高めるために戦車にすえつけられたダイナマイト、それを操る兵士たちにまったく緊張感はない。
 ワイズ漫画監督官(コントローラー)という役割の人々を特に映画の中盤以降執拗に追うのは、彼らこそがこの戦争ごっこの体現者であるからだ。彼らは文字通り鼓の戦争をコントロールし、笑いながら互いの戦果をそして被害を操作する。もちろんいく人かの人間にコントロールしうる戦争など戦争ではなく、それはルールに従って指揮官たちが戦果を上げようと争うゲームに過ぎない。兵士たちはそれを察して、自由気ままに振舞う。ワイズマンの撮影班はひとつの中隊につくが、そこで真剣なまなざしでこの演習に望んでいるのは中隊長である大尉だけで、兵士たちは気ままに雑談をし、除隊までの日にちを数える。
 戦場のようなところであるにもかかわらず、亡霊のように子供たちがいる。ワイズマンは明らかに意図的に彼らの姿を何度も捉える。兵士たちが彼らを気にも留めないというある種異様な光景。それもやはりこの演習が毒にも薬にもならない戦争ごっこに過ぎないということをあらわしている。

 そんなどうにもならない戦争ごっこをワイズマンが撮り続けるのはなぜなのか。ただこのくだらなさを伝えるためだけなのか。わたしが注目するのは(それはつまりワイズマンが注目させるということだが)演習が行われる土地の人々と、その土地自体である。アメリカ軍にはドイツ語をしゃべれるものすらいない。アメリカ軍の兵士たちも土地の人々と積極的に係わり合い、あるいはか係わり合わざるを得ない場合もあるが、アメリカ軍が交渉できるのは英語をしゃべれるドイツ人ばかりである。そして彼らはそんなドイツ人たちと交流し、アメリカがドイツ人に好かれているらしいと考えて満足する。英語をしゃべれず、彼らの通行を拒否するドイツ人の男は、彼らにとってはわけのわからないことを言うドイツ人に過ぎない。決まりがあるから、彼の権利を尊重しはするが、それはしぶしぶであり、明らかに納得してはいない。
 このようなワイズマンの描き方の裏には、根本的なアメリカに対する不信感があるのだろう。不信感というのは、私自身の気持ちの反映に過ぎないかもしれないが、少なくとも「アメリカ万歳」と唱えるアメリカ人とは明らかに国に対するスタンスが異なる。

 なんともだらだらとして張り合いのない映画だけれど、そのメリハリのなさにワイズマンのそんなメッセージが込められている気がする。将校と兵士、軍隊と市民、そのそれぞれのちぐはぐな感じ、ヨーロッパでアメリカ軍がヨーロッパ軍を敵として戦うという違和感、それはワイズマンがこのアメリカ軍に感じているちぐはぐさや違和感の表れなのではないだろうか。

チチカット・フォーリーズ

Titicut Follies
1967年,アメリカ,84分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・マーシャル

 ウォーターブリッジ矯正院では、収監者たちによる学芸会が行われている。踊り、唄を歌う彼らの表情はうつろだ。
 ワイズマンは矯正院の中で彼らをとる。収監者たちと看守たち。食事を取ることを拒否し、チューブで鼻から栄養を入れられるもの、自分は精神病ではないと強固に主張するもの、誰からかまわず演説をぶつもの、彼らを映しながら、ワイズマンは誰の見方でもない。
 ワイズマンの長編デビュー作は、ワイズマンにしてはカメラを意識させるような撮り方だが、基本的なスタンスはすでに出来上がっている。この映画は収監者のプライバシー保護という理由で上映禁止とされ、24年後、最後に断り書きを入れるという条件付で上映禁止が解かれた作品。

 ワイズマンらしくないというのか、まだ固まっていないというような点が2点ある。
 1点はカメラの存在。ワイズマンの映画は極限までカメラの存在感を消し、そのことによって観客と映画を接近させる。われわれはスクリーンの中に透明人間のように存在し、観客の特権性という意味では劇映画と変わらないように映画の中に存在することができる。
 ところがこの映画では、時折被写体となる習慣者たちがカメラを凝視する。つまり、観客であるわれわれが凝視される。看守同士が監房の扉を開けるときの会話のシーンでもわれわれは看守仲間の一人であるように視線を注がれ、言葉をかけられる(実際に言葉を投げかけられるわけではないが)。そのとき、われわれは透明人間ではなくなり、視線の特権性を奪われてしまう。
 それ自体に問題はないはずだ。ワイズマンだってそのような映画を撮っていいはずだ。問題なのは、にもかかわらずカメラは特権的であるかのように振舞うということだ。見られているのに透明人間であるような不利をする。そこには他のワイズマンの映画にはない居心地の悪さがある。

 2点目は映画全体の構造である。この映画は矯正院の学芸会(と勝手に呼ぶ)とともに始まる。これ自体は問題はない。それは矯正院の行事の一つであり、院の活動、あるいは実態を描く上で効果的なものであるといえる。そこに参加する収監者たちと看守たち(特に院長と思われる人)の表情の違いは、何か言葉にならぬメッセージをわれわれに発する。
 しかし、この映画がその学芸会の閉幕とともに終わるというのはどうだろうか。このことによってこの映画は学芸会と等価のものとなってしまう、というと言いすぎかもしれないが、少なくとも、この映画がひとつの見世物であるという印象を残してしまう。施設の内部に入り込んだ冷静なレポートではなく、施設のひとつのスピーチになってしまう。
 この映画は学芸会と同じく、矯正院のひとつのプレゼンテーションに過ぎないということになりはしないだろうか? 観客は見ていたのではなく見せられていたということになりはしないだろうか?
 今、この作品を見るわれわれはワイズマンのスタンスを理解し、ワイズマンがそのようなスポークスマンとして映画を作っているわけではないことを知っているから、そのように思いはしないが、当時一人の新人ドキュメンタリストの作品に過ぎないものを見た当時の観客たちにこそ、強く感じられたはずではなかろうか? 

福祉

Welfare
1975年,アメリカ,167分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ウィリアム・ブレイン

 ポラロイド写真で次々と写真をとられる人々。おそらく、福祉を受け取るための身分証を作るのだろう。福祉センターにはたくさんの人がやってくる。そしてたくさんの人が待っている。職員たちはきびきびと働いているが、それでもやってくる人たちとの間に衝突は絶えない。役所ならどこでもありそうな風景だがどこか違う。そんな福祉センターと、その人々を映した作品。

 官僚主義的な役人たちとそれに振り回される貧しい人々、という構図がそこに浮かんでくるのだろうと予想して見る。それは福祉センターが舞台となる以上容易に予想できることだ。
 しかし、実際底に現れるのは、激昂し、だまし、何とかしてお金を得ようとする人々。自分の権利を強固に主張し、役人たちを批判する人々だ。もちろん、福祉を受けるのは彼らの権利であり、それを主張するのはかまわないはずだ。しかし、その感覚がなかなか理解できないのは日本人だからだろうか? そんな違和感を抱えたままみると、彼らはなんともエゴイスティックであるように見えてしまう。
 そのように見えてしまうのは、必ずしも受け手だけの問題ではなく、ワイズマンの作り方にも原因があるだろう。この映画に登場する福祉局の役人たちは基本的に忠実に仕事をこなし、むしろ親身になってやってくる人たちのために力を注いでいるように見える。つまり、そこに登場する人々の誰もが間違ってはおらず、非難を浴びるいわれもない。そんなカレラを反目させるのは、制度であり政府であるのだ。そこにワイズマンの力点があるような気がする。
 途中で登場するヒスパニック系のおばあさんは、ひたすらスペイン語でがなりたてる。字幕もないし、基本的には何を言っているのかわからないけれど、何度も「gobierno」という言葉を口にする。それはスペン語で政府という意味で、どのような文脈で発せられたかはわからないが、何らかの形で政府を非難していることは確かだろう。
 ワイズマンがこの老婆を、そしてこのセリフを生かしたのはなぜだろうか?ひとつは黒人女性との話しに傍若無人に割り込んでくる老婆の面白さがあるだろうが、この意味としては比較的とりにくい(アメリカ人のどれくらいがスペイン語を理解するのかわからないけれど)言葉による直接的な批判をあえて残したというのもあるのではないだろうか。

 最後に登場する男性、哲学的、あるいは文学的なことをしゃべりながらも、その発言はどこか狂人じみたところがある。狂っているというわけではないけれど、貧しく、孤独な人にありがちな(といっては語弊があるかもしれないが)行動。大きな声で独り言を言ったり、相手に通じにくい話をするということ。そんな男性を見て思う。ワイズマンは普通の人々を彼ら自身は強く意識しないままにフィルムという媒体に定着させてしまう。本来ならば誰も聞いていないような、聞いていたとしても数分も経てば忘れ去られてしまうような、その発言を、その文学を半永久的な言葉として残す。
 この人の姿を見て、「この映画はこの人で終わるんだ」と思った。それほどまでに彼はワイズマンの世界にぴたりとはまる。彼をフィルムに残したということ、そこにこそワイズマンの偉大さがあるのかもしれない。

病院

Hospital
1970年,アメリカ,84分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ウィリアム・ブレイン

 映画は外科手術の手技の1シーンから始まる。そのシーンは生々しいが、映画全編は医者と患者の関係性を主に描いていく。病院はメトロポリタン病院。貧しい人々がひっきりなしにやってくる。たくさんの人、アルコール中毒の人、子供、などなど、ワイズマンの冷徹な目は淡々と病院でおこっていることを映すだけだが、そこからは必ず何らかのメッセージが流れ出てくるはずだ。
 ワイズマンとしては4本目の長編作品。TV用の作品として製作されたらしいが、こんなのテレビでやって儲かるんだろうか?

(序)ワイズマン一般

 ナレーション、キャプションをともに排するというのは、ワイズマン作品のすべてに共通する特徴である。主人公も物語りも存在しない映画を見せられる。それでもそこに何らかの一貫性を求めてしまう。ワイズマンのどの映画もそうだけれど、この映画が(100時間にもわたる)膨大なフィルムの中から数パーセントを選び出して作られたものだと知っていれば、その一つ一つのシーンの積み重ねに作者の何らかの意図が存在すると考えたくなるのが道理だ。
 その気持ちに反さず、ワイズマンは無象の雑多なシーンの中から選別と組み合わせを行って、見事にひとつの『映画』を作り出す。

(本編)

 冒頭のシーン、この手術のシーンはこの映画の対象となる「病院」を端的に示すシーンで、それ以上ではない。この映画で主人公となるのは患者たち。始まって程なくして、この病院が貧しい地区にある病院(詳しく言うと、ニューヨークのハーレムにあるメトロポリタン病院)だとわかる。そのような病院をワイズマンが選んだのにはわけがあるはずだ。そんなことを考えながら映画を見ていると、浮かび上がってくるのは、すべてが現実だということ。すべてが特別でもなんでもないものだということ。病院とは特別な場所ではなく、医者とは特別な人間ではなく、病気すら特別な状態ではないのかもしれないということ。
 しかし同時に、そのようにすべてが特別なものではないという状態が正常な状態といえるのだろうかという疑問も頭をもたげる。日常的であるこのような病気が日常的であるということは、その背後にある問題を意識させずにはおかない。アルコール中毒や麻薬患者がたびたび登場すること、精神科の患者もまた多いことは、アメリカの現実がそもそもの問題であるということを示しているのだろう。肉体的な病気よりむしろ、精神的な部分にこそ病巣があるという状態、それは個人の問題ではなくて社会の問題である。とワイズマンはは言ってはいないだろうか。

 ひとつのケースをとりあえげてみよう。「毒を飲んだ」といって病院にやってくる青年。「メスカリンは前にも飲んだけど違う」とか「公園で丸薬をもらって飲んだ」などといいながら「死にたくない」と叫び続ける。医者は彼の毒を飲んだという主張が真実ではないと判断し、彼が納得するように一通りの胃洗浄をして、精神科に引き渡そうとする。青年は精神科医がやってくるまでの間も「死にたくない、死にたくない」といいながら、またも大量に嘔吐する。
 彼の肉体の反応は「死にたくない」という発言とは裏腹に生を拒否するような反応だ。死にたくないという彼の意思と生きたくないと言う彼の体、病んでいるのはもちろん彼の心なのだけれど、この病み方こそがアメリカの抱える問題なのだという気がした。
(それは30年以上たった今でも変わっていないだろうし、むしろその病理は世界に広がっているのかもしれない)

日本の夜と霧

1960年,日本,107分
監督:大島渚
脚本:大島渚、石堂淑朗
撮影:川又昴
音楽:真鍋理一郎
出演:桑野みゆき、津川雅彦、渡辺文雄

 1960年、安保闘争で出会った二人が結婚披露宴を執り行うところで、当時の同士、さらには1950年、破防法反対運動時代の同士たちが演説をぶち始める。披露宴の時間から抜け出ることはせず、追想による再現映像で物語を語っていくリアルタイムの学生運動映画。
 人材刷新のため登用された大島渚だったが、会社の逆鱗に触れ、4日で公開中止になったといういわくつきの作品。

 始まってしばらくは、独特の演説調の台詞まわしと、時折セリフがつまり、言い直すという斬新といっていいのかなんといっていいのか、そんな破天荒な語り方に魅了され、じっと映画を見ることができる。
 しかし、物語が進み、それがあまり変化しないことがわかると、その演出というか語り方の大胆さだけでは補えない退屈さが顔を覗かせる。おそらく、リアルタイムで同じような体験をしていた若者たちには、突き刺さるものあるいは共感できるものとして、没頭できるものがあったのだろう。しかし40年後の今、この映画を見るとき、その思想的な面が今も考えるべきものがあるとはいえ、心に突き刺さってはこない。
 演説調のセリフたちが、本当に演説でコミュニケーションとして成り立っていないのもいらだたしい。果たして大島渚が彼らのディスコミュニケーションを、アジテーションの投げかけあいでしかない現状を嘆き、描いたのか。最後までアジテーションで終始し、しかもそれが完結しないところを見ると、そのような意図を持って描かれた作品なのだろう。
 しかし、そのような批判によって何を描こうとしたのかは判然としない。おそらく、これは一種のドキュメンタリーであり、何かを描こうという意図はなかった。果てしないアジテーションを捉えることで、そこから浮き上がってくる何かを画面に定着させる。そのために、つっかえたり言い直したりしてもそのままとにかく続けて撮る。それは一回性を是とするドキュメンタリーの手法に通じる。そんななか、津川雅彦だけは流暢にセリフをしゃべる。しかし、これまた演出ではないだろう。
 なんだか結局よくわからない。すごいのかすごくないのかもわからない。いろいろな文脈でいろいろなことがいえるような気もするけれど、素朴に見るとなんだかわからないまま終わってしまう。何が問題なのか、何が解決したのか、何が解決していないのか。それがわからない。

薔薇のスタビスキー

Stavisky
1973年,フランス,118分
監督:アラン・レネ
原作:ホルヘ・センプラン
脚本:ホルヘ・センプラン
撮影:サッシャ・ヴィエルニ
音楽:ステファン・ソンダイム
出演:ジャン=ポール・ベルモント、シャルル・ボワイエ、フランソワ・ペリエ

 1931年、南フランス、トロツキーがロシアから亡命して来る。スタビスキーはホテル、新聞社、銀行などを持つ大実業家。しかし、彼の素性ははっきりとしたものではなかった。
 実際にあった事件をもとに作られた物語。実話なので、ストーリー・ラインがしっかりしているのかと思いきや、そこはアラン・レネなので、単純なドラマにはならない。複雑なシーンとシーンのつなぎ方によって、またも観客を迷宮のような空間に誘いこむ。

 最初のトロツキーの亡命シーンはまだしもとして、この映画には謎のシーンが多すぎる。謎というのは、そのシーンが果たして映画の中でどのような位置にあるのかが判然としないという意味での謎。トロツキーのシーンはそのシーン自体は理解できるので、それほど謎ではないのだけれど、映画を最後まで見てもいったい何のシーンだったのかわからないシーンがあったりする。普通は唐突に登場人物が出てきたら、その人があとで物語の主プロットにかかわってくるものだけれど、この映画にはそんな発想はない。しかも、そんな謎のシーンに混じって、プロットにとって重要な複線となるシーンがあるのだから、映画は理解しがたくなるばかりだ。

 このような映画を見て思うのは、アラン・レネにとってシーンに重要さの違いはないということなんじゃないかということだ。映画にプロットがあって、そのプロットに寄与するシーンが重要なシーンで、それ以外のシーンは余談というか、それほど重要でもないシーン、映画にとってのスパイスのようなものという発想は映画の一面的な見方でしかないということ。
 考えてみれば、コメディ映画なんかを見る場合には、別にプロットを追ってばかりいるわけではなく、一つ一つのシーンをネタとして楽しむ。それはコメディというジャンルに限ったことでなくてもいいはずだ。単純に一つ一つのシーンを楽しむ。そのようなことが映画のジャンルによってできたりできなかったりするのは、必ずしも映画そのものにその原因があるのではなく、見るわれわれのほうの映画に対する姿勢に何らかのバイアスがかかっているというか、ある種の固定観念にとらわれているということなのかもしれない。

 どうも、アラン・レネを見ると、映画そのものよりも、見ている側の自分に何か疑問がわいてくるというか、映画を構成するフィルムそのもの以外のものについて考えざるを得ないというか、そんな気分になってしまいます。それも、アラン・レネの作戦なのか?

去年マリエンバートで

L’Annee Derniere a Marienbad
1960年,フランス,94分
監督:アラン・レネ
脚本:アラン・ロブ=グリエ
撮影:サッシャ・ヴィエルニ
音楽:フランシス・セイリグ
出演:デルフィーヌ・セイリグ、ジョルジュ・アルベルタッツィ、サッシャ・ピエトフ

 不思議な庭を持つ豪華なホテル、あるいは邸宅でである男と女。女には夫があり、男は去年女とマリエンバートで会ったと主張する。
 物語を語っても全く無意味な、空間と空想が、あるいは夢が人々を捕らえた様を描く映画。果たしてこの映画で物語られることのひとかけらでも現実でありえるのか。それは夢と呼ぶにはあまりに儚な過ぎ、記憶と呼ぶにはあまりに…
 ノスタルジックであるような、近未来的であるような、カフカ的迷宮であるような、とにかく理解という言葉が無意味に感じられる作品。

 果たして自分は映画を見ているのかということが不安になる。映画が何かを伝えようとするものならば、果たしてこの映画から何が伝わってくるのか。映画を見ながら眠ることが悪いことだとはわたしは思わない。この映画もおそらく、目をらんらんと輝かせ、集中してみても、果たしてどれがどの時間に属し、どれが想像で、どれが空想で、どれが現実で、どれが記憶であるのかははっきりしないだろう。そのことはこの映画のどの瞬間を切り取っても明らかだ。
 たとえば、女がベットに倒れこむ瞬間を4度くらい繰り返すシーンがある。その倒れこみ方はそのそれぞれで異なっている。このそれぞれの所作はいったいなんなのか? 似て非なる瞬間を4つ連続で見せる。着ているものも同じでベットも同じ、異なるのは倒れこむ角度だけ。そのことが伝えるのはやはり記憶や現実や夢や空想のそれぞれのはかなさでしかない。

 現実の不条理さを表す空間を「カフカ的迷宮」と呼ぶことがある。この映画の空間は果たしてカフカ的迷宮なのだろうか? ある意味ではそうだろう。この邸宅にいる人々はおそらくここから抜け出すことはできない。いったんは出て行ったとしても必ずここに戻ってきてしまう。男と女は来年再びここで再会し、同じことを繰り返すのだろう。そのような意味でこの映画も「カフカ的迷宮」であるけれど、その言葉で語ることができるのはこの映画の一部分でしかない。
 そもそもこの映画は「語り」として整合性をもって理解することができない。たとえば序盤でパーティーのように人々が集うシーンがある。カメラは滑らかに移動し、人々を映すが、人々は時折静止し、不意に動き出す。それは画面が静止するのではなく、人間がマネキンのように静止するのだ。果たしてこの「語り」が意味するものはなんなのか。そのような細部(というほど細部ではないが)にまで考えを及ぼしていくと、これは果たして映画であるのか、あるいは映画とはなんなのか、までがわからなくなっていく。
 果たして映画とはなんなのか。

プルーフ・オブ・ライフ

Proof of Life
2000年,アメリカ,135分
監督:テイラー・ハックフォード
脚本:トニー・ギルロイ
撮影:スワヴォミール・イジャック
音楽:ダニー・エルフマン
出演:メグ・ライアン、ラッセル・クロウ、デヴィッド・モース、パメラ・リード

 南米の国テカラに駐留し、石油会社でダム建設を指揮している技師のピーターは、会社が買収され、ダム建設が棚上げにされそうなことに怒りを覚え、妻とも諍いを起こしてしまう。その翌日、工事現場へと向かう彼は、突然武装した集団に襲われ、トラックで運びされられてしまった。
 そんなピーターの妻アリスの前に現れたのは、ロンドンにある人質事件を専門に扱う会社から派遣されたプロの交渉人テリー。アリスとピーターの姉ジャニスとともに解決に向けて歩き出すのだが…
 メグ・ライアンとラッセル・クロウの共演というのが最大の売り文句。しかし、メインはサスペンス。といっても、いろいろな要素が入っているので、楽しめる一面もあり、中途半端な一面もあるという感じ。

 最近、古典的ハリウッド映画というものを学びまして、それによるとメインのプロット(たとえば社会的な事件)があって、それに加えて必ずサブプロットとしてメロドラマがある。ということだそうです。そして、社会的事件は解決したんだかしないんだかわからないまま、サブプロットのメロドラマがめでたしめでたしとなって映画が終わるというのが古典的ハリウッド映画のパターンだということらしい。いわれてみれば、そんな気がするという程度ですが、ここで言いたいのは、それが「古典的」というくくりをはずしても、多少の変化こそあれ、ハリウッド映画に存在し続けているルールだということです。
 この映画でも、メインは誘拐の話。そしてサブプロットにメロドラマがある。しかし、この映画の場合そのメロドラマというのはメグ・ライアンをはさんで二つある。夫との関係とラッセル・クロウとの関係。古典的ハリウッド映画に照らしてみると、結局のところこの映画の解決はメグ・ライアンと夫とのメロドラマでしかない。確かに、誘拐事件は解決されたけれど、それはあくまでひとつのケースであり、その誘拐事件の前と後で何かが変わったわけではない。だから古典的ハリウッド映画の文法にしっかりと従っているといえるわけです。
 その中でラッセル・クロウがかかわるメロドラマについて考えてみると、これはあくまで主となる夫との関係への味付けに過ぎない。乗り越えるべきひとつの障害であるということ。ラッセル・クロウはこの映画全体を見ている中では主役なんだけれど、物語から見るとあくまでもバイ・プレイヤーでしかないということ。振り返ってみると、デヴィッド・モースはかなり主体的な人間として描かれており、主人公を担うにたるだけのキャラクターでもあるわけです。
 メインのプロットにしても、それほどその展開が重要ではないというのはその解決が結局のところ偶然によっているということ、そして最後の一連の戦闘シーンのスペクタクルを見ればわかってしまう。それはあくまで最後のスペクタクルに向けた助走であり、最終的なこの映画の持って行き所はスペクタクル(ラッセル・クロウの見せ場)と、メロドラマ(メグ・ライアンの見せ場)であったということを明らかにする。
 もちろん、それがわかりやすく、面白ければ文句はないわけで、そのような映画もたくさんあるけれど、この映画はちょっとわかり安すぎたという気がする。

 さて、古典的といえば、もうひとつこの映画で古典的と思ったのは、そのステレオタイプ化。映画にわかりやすさを求める古典的ハリウッド映画はキャラクターのステレオタイプ化を図ります。舞台となるテカラは仮想国家だけれど、そのモデルはニカラグアで、実際にはメキシコの映像を使っている。ここに登場する人たちはいわゆる「メキシコ人」、そこには多様性のかけらもない。
 もっと面白いのは、ラッセル・クロウの息子がラグビーをやっている。それまでは、ラッセル・クロウがどこの人であるかという解説は(多分)なくて、いきなりラグビーをやっている絵を見せることで、イギリス人と納得させる。そのステレオタイプ化はどうなのか。やはりここもわかり安すぎたという気がする。
 現代の素朴な感覚ではわかりやすさとリアルさというのはどうも背反するらしいので、このようにわかりやすい映画はどうもリアルと感じられない。その辺りがこの映画の最大の問題なのだろう。

ガールファイト

Girlfight
2000年,アメリカ,110分
監督:カリン・クサマ
脚本:カリン・クサマ
撮影:パトリック・ケイディ
音楽:セオドア・シャビロ
出演:ミシェル・ロドリゲス、ジェイミー・ティレリ、ポール・カルデロン、サンティアゴ・ダグラス

 今年で高校を卒業するダイアナはブルックリンの公営住宅に住み、学校ではけんかばかり繰り返していた。ある日、弟のボクシングジムに月謝を払いに行ったダイアナは、弟に汚い手を使った少年を殴る。次の日、ダイアナは再びジムへ赴き、トレーナーにボクシングを教えてほしいと頼み込んだ。
 単純なスラムの少年少女という映画ではなく、上品に、しかし堅実にその姿を描いていく。監督は日系アメリカ人で、この作品がデビュー作となるカリン・クサマ。サンダンスで最優秀監督賞も受賞。人種が混交する状況を地味だけれどリアルに描いた佳作。

 こういう映画はヒロイズムに陥りやすい。一人の少女がボクシングに目覚めるとすると、彼女はたとえば女子ボクシング界で頂点に立つとか、そういった筋立てに。しかし、この映画はそのような筋立てにはしない。
 かといって、人種問題を前面に押し出すかといえば、そうでもない。最終的にメインとなる恋物語の相手がプエルトリカンであったり、ボクシングのコーチもヒスパニックであったりして、混交している状況は示されているけれど、必ずしもそれが貧困や差別につながるとは表現していない。
 そのような微妙なスタンスの取り方が映画全体を地味にしている。ひとつの見方としては、人種などを超えた普遍的な物語として描きたかったという見方もあるだろう。なら、どうして黒人なんだと思うけれど、もし白人の女の子がボクシングをやったとしたら、それは全く異なる物語になってしまっただろうし、そこからたち現れてくるのはやはりやはりヒロイズムか、『チアーズ』のような平等の幻想だけだろう。だから、このような人種混交の状況の中にある一人の貧しい少女を描こうとすると、人種は必然的に有色人種になってしまう。
 ということは、人種を超えた普遍的な物語などありえないという主張であるのかもしれない。「普遍」というまやかしをまとうことなく、映画を作る。それは一種、観客を限定することであり、産業的には不利に働くかもしれない。たとえば、スパイク・リーの映画はあくまで黒人映画であり、全米であまねく見られうというわけではない。そのような意味でこの映画も(黒人映画ではないけれど)観客を限定しているのだろう(映画祭によってその不利はある程度払拭されただろうけど)。

 逆に問題なのは、最終的にラブ・ストーリーに還元してしまったことだろうか?物語の最初も恋愛の話で始まり、主人公はそれに反発しているのだけれど、それが最終的にラブ・ストーリーに還元されてしまうと、なんだかね。途中、父親に食って掛かるシーンなどはかなり秀逸で、そういう勢いのあるシーンを物語にうまくつなげていければ、すばらしい映画になったような気がします。
 この展開だと、ひとつの少女の成長物語で、学校も家族も乗り越えるべきひとつのもので、最終的にたどり着くものは愛(恋)だというような話になってしまう。そのように単純化できてしまう物語はなんだかもったいない気がしてしまいます。

シャイニング

The Shining
1980年,イギリス,119分
監督:スタンリー・キューブリック
原作:スティーヴン・キング
脚本:スタンリー・キューブリック、ダイアン・ジョンソン
撮影:ジョン・オルコット
音楽:ベラ・バートック、ウェンディ・カーロス
出演:ジャック・ニコルソン、シェリー・デュヴァル、ダニー・ロイド

 小説家のジャックはコロラドの山の中にあるホテルが冬期閉鎖される間の管理人として仕事を得る。以前孤独感に耐えられず、家族を殺し、自分も自殺した管理者もいるという話を聞いても動じずジャックは仕事を請けたが、予知能力のある息子のダニーは血が川のように流れ、二人の少女がたっているというホテルの夢を見る…
 キューブリックがスティーヴン・キングの原作からは離れ、ホラーという形式を借りて、独自の世界観を表現した作品。全体的なメッセージを読み取ることは難しいが、観客に何かを感じさせる力強さを持っている。

 ジャック・ニコルソンの顔は常に怖い。それだけで十分にこの映画は怖いのだけれど、わたしの頭にこびりついていたのは「REDRUM」という文字だった。映画の中で果たす役割は決して高くないけれど、意味もわからない赤い文字が何度もフラッシュバックのように映りこむことの恐怖、その恐怖がはじめてみた10数年前に感じた恐怖であったことを今見て思い出す。
 それはそれとして、この映画はかなり完成度が高い映画だ。キューブリックらしく、『2001年』のように難解で、全体としてそのメッセージを捉えることは難しい。しかし、映画としての世界を捉えることはできる。ジャックの幻影ともとらえられるはずの彼ら(たとえば舞踏会のシーン)が決して幻影ではないということ、あるいは少なくともジャックにとっては幻影ではないということ。それは最初に、ジャックがゴールド・ルームで酒を飲んでるときにウェンディが入ってくると、そこはただのがらんとした部屋であるということからもわかる。ジャックの、ダニーの、そしてウェンディのそれぞれにとっての非現実的世界が存在し、それが物理的な存在でもあるということは、明らかだ。そのそれぞれにとって幻影ではない物理的存在であるという点が他のホラー映画とは違うところだ。ゴーストを扱うホラー映画はそのゴーストが全員にとって幻影でないことによって物語が成立するはずだ。それぞれにとってしか現実ではないゴーストは単なる妄想に過ぎず、恐ろしくなどない。この映画はそれぞれにとって現実でしかない(確実に現実であることは重要だけれど)にもかかわらず、そのゴーストが直接的な恐怖とならないことで、恐怖映画として成立しうることになる。その複雑な恐怖の想像の仕方がキューブリックオリジナルのものだ(原作の内容は忘れましたが、そんな内容ではなかった気がする)。
 そしてその幻影(幻影ではないのだけれど、便宜上そういっておきます)のある場所(あるいは時間)がどこなのか、それがこの映画の鍵になるのだと思う。ダニーはそもそもトニーという幻影があり、その時間は未来に設定されている。ジャックは過去だ、舞踏会の行われていた1920年代。ウェンディの場合はいつなのだろうか? そしてどこなのだろうか? それはこの映画からはわからない。映画でもっとも問題となるのはジャックの1920年代(具体的には1921年だか、1923年だか)という幻影。ここにキューブリックはこの映画のホラー映画を越えた部分をこめているはずだ。ちょっと難しくて読み取りきれませんでしたが、その時代を借りておそらく現代に対する何らかの批判的なメッセージを述べているのだと思います。そのヒントは前任の管理人が吐く「ニガー」という言葉、そしてディックの存在辺りでしょう。そして前任の管理人がジャックと会話しているシーンの最後に停止しているように見えること、そしてラスト。その辺りからなんとなく滲み出してくる「意味」を味わいつつ、根本的にはやはり恐怖映画であると思いました。