GO fish

GO fish
1994年,アメリカ,85分
監督:ローズ・トローシュ
脚本:ローズ・トローシュ、グィネヴィア・ターナー
撮影:アン・T・ロセッティ
音楽:ブレンダン・トーラン、ジェニファー・シャープ
出演:グィネヴィア・ターナー、T・ウェンディー・マクミラン、V・S・ブロディ、アナスタシア・シャープ、ミグダリア・メレンデス

 レズビアンの日常を、マックスとイーレイの関係を軸に描く。全編白黒の画面は非常にセンスがよい。「センスがよい」という安易な言葉は使いたくはないのだけれど、この言い方がいちばんぴったり来る。フレームの切り方だとか、ワンカットの短さだとか、挿入される抽象的なカットの具合だとか、「あー、カッコイイ」と思わせる。
 レズビアンムーヴィーとしては画期的な作品。ゲイムーヴィーはかなり前から作られ、認められていたが、レズビアンのものは案外歴史が浅く、この作品あたりから世間的に認められるようになってきた。決して深刻にならずに、しかし伝えたいことはしっかり伝えるという姿勢が、一般的に受け入れられた要因だろうと思う。

EM EMBALMING

1999年,日本,96分
監督:青山真治
原作:雨宮早希
脚本:橋本以蔵、青山真治
撮影:西久保維宏
音楽:山田勲生、青山真治
出演:高嶋礼子、柴俊夫、松重豊、三輪ひとみ、鈴木清順

 死体に防腐処理を施すエンバーマーである村上美弥子(高嶋礼子)のもとに、刑事・平岡(松重豊)から仕事の依頼がある。今回の依頼は、ビルから飛び降りた(あるいは落ちた)高校生の大里ゆうきのエンバーミングだった。
 案の定、他殺の疑いがあるということから話は展開してゆくが、新興宗教、多重人格、人体売買など様々な要素がそこに絡み合ってゆき、サイコホラーの色合いを帯びて来る。
 青山真治監督らしく、無表情な登場人物と閑散とした風景が非常に作られたイメージを作り出す。
 原作者の雨宮早希は故松田優作の元妻である松田美智子。原作を読んでいないのでわからないが、この映画の面白い部分は原作にはなかったところなのではないかと思える。言葉ではなく画面で説明する様々なこと。スピーカーの上に置かれていたくまのぬいぐるみだとか。

 青山監督の作品は、いい悪い以前に考えさせられる。それは彼の作品が取り扱っている問題についてではなく、映画そのものについて。彼の取る映画とはなんなのか?全体的に漂う作り物じみた雰囲気はなんなのか?現実に近づこうとしてきたはずの映画が現実から遠ざかろうとしている。映画が作り物であるという我々が無意識に持っている前提条件を彼は敢えて露わにしようとしているのか?
 鈴木清順の棒読みといい、セリフを言い終わった登場人物たちが人形のように動きをとめてしまうことといい、映画の虚構性を強調しているように映る。それは映画ということを問題化しているのか?それとも、「画」へのこだわりがそのような固定化された画面を作らせるのか?
 多重人格に対する捉え方が浅薄に見えるのも、それらの問題化と同じ意味を持っているのだろうか?果てしない疑問の羅列が残るのは「Helpless」でも「Shady Globe」でも同じこと。
 確実なことは、彼にとってプロットやリアリティというものがそれほど重要な意味を持っていないこと。彼にとってはフレームによって切り取られた画によって生み出されるものこそが映画であり、それは彼にとっては現実を切り取るということなのだということだろう。

ピクチャー・パーフェクト/彼女が彼に決めた理由(わけ)

Picture Perfect
1997年,アメリカ,102分
監督:グレン・ゴードン・キャロン
脚本:アーリーン・ソーキン、ポール・スランスキー、グレン・ゴードン・キャロン
撮影:ポール・サロッシー
音楽:カーター・バーウェル
出演:ジェニファー・アニストン、ジェイ・モーア、ケヴィン・ベーコン、オリンピア・デュカキス、イレーナ・ダグラス

 広告代理店に勤めるケイト(ジェニファー・アニストン)は企画会議でアイディアが認められるが、実際のチームには加えてもらえずいライラがます。一方で母親には孫の顔が早く見たいといわれ、職場で気になる存在のサム(ケヴィン・ベーコン)には善人過ぎてダメといわれる。そんな中ケイトは友人の結婚式に出席するのだが…
 仕事・恋愛・結婚を絡ませ、微妙な心の揺れ動きを描くまっとうなラヴストーリー。ジェニファー・アニストンが等身大(と思わせる)のキャラクターを演じていて非常に魅力的。途中で挿入される、メイシー・グレイの歌声も心に響く。

 こういう、まっとうなラヴストーリーを撮ってしまうところがハリウッド映画なわけだが、この映画はそれなりに成功している。ジェニファー・アニストンはかわいいし、ケヴィン・ベーコンも虚勢をはった感じをよく演じていると思う。この映画で最期まで臆病者でありつづけるのはケヴィン・ベーコン演じるサムだけ。その他の人は勇気を振り絞って大団円ということね。ハリウッド映画だから、ハッピーエンドで終わるんだろうなと予想はつくものの、「もしかしたら」と思わせる展開もなかなかうまい。
 問題はあまりに無難なところか。2箇所くらいいい画があったけれど、それも偶然かもしれない。これはハリウッドの典型的な娯楽映画(それはつまり映画として本質であるということかもしれない)であり、娯楽映画としてはなかなかの出来栄えなので、そんなことを言う必要もない。でも、言いたい。うーん、たわごとですね。
 気分ほんのり、後も引かない。朗らかな日常の清涼剤に。そんな映画でした。 

301・302

301・302 
1995年,韓国,100分
監督:パク・チョルス
脚本:イ・スォグン
撮影:イ・ウンギル
音楽:チョイ・ジョンファ
出演:パン・ウンジン、ファン・シネ、パク・ヨンノク

 301号室に男が訪ねてくる。向かいの302号室の女が消えたと言う。301号室の過食症の女と302号室の拒食症の女。二人の間に何があったのか?二人の過去を明かしていきながら彼女たちの不安定な心を描く。 ストーリーには関心できないが、描写力はなかなか。見ている側の精神にまで痛みが伝わってくる。色彩と構図にかなりのこだわりがあるようで、原色の組み合わせと、上からの俯瞰ショットが多用される。少しざらついた映像も観衆の精神を逆なでする。 我々はこういう、映画の中の何かを否定しようとする映画を評価しなくてはいけないのかもしれない。 

 少し、ふたりの主人公の人物像のつくりが浅かったかもしれない。過去の出来事と現実の精神障害がこれほど直接的につながるほど人間の心は単純ではないと思う。それに、プロットももう少し練って欲しかった。最初の10分ほどを見れば、最後のからくりは簡単に予想できてしまう。それが映画の後半の冗長さにつながっているのだろう。その辺りまでぶち壊してしまえば、映画としてかなり新しいものになれたかもしれないと思うと、惜しいところだ。
 原色の組み合わせや、物を食べる口のアップなど、美しさをぶち壊してゆくところにはなかなか迫力がある。
 いかにも若い監督の映画という感じの映画なので、熟練してゆくとどのような作品を作るようになるのかが楽しみ。新しい作品としては、柳美里原作の「家族シネマ」の監督をしているようなので、これも見てみようかな。

スリーメン&リトルレディ

Three Men and a Little Lady
1990年,アメリカ,104分
監督:エミール・アルドリーノ
原作:コリーヌ・セロー
原案:サラ・パリオット、ジョーサン・マクギボン
脚本:チャーリー・ピーターズ
撮影:アダム・グリーンバーグ
音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
出演:トム・セレック、スティーヴ・グッテンバーグ、テッド・ダンソン、ナンシー・トラヴィス、フィオナ・ショウ

 「スリーメン&ベビー」の続編。メアリーはすくすくと成長して5歳。「父親」たちと幸せに暮らしていたが、母親がイギリスのお金持ちと結婚することになり、イギリスへ行くことに。3人の父親は、メアリーの幸せのためと心に言い聞かせるが…
 監督は代わったものの、スタッフはほとんど同じで、話の展開の仕方も前作をしっかり踏襲している。ただ、前作のシナリオに比べ、少し練り足りないという気もする。続編にありがちなマンネリ化を逃れることはできなかったようだ。 すべてにおいて単純明快だが、細かいハプニングを散りばめて展開力をつけることで、観衆をひきつけることには成功しているようだ。女学院の校長がなかなかいいアクセントになっている。

 フランス映画をリメイクした上、続編まで作ってしまうハリウッドのしたたかさには感心させられてしまうが、ふたつともなかなかよくできた映画。レナード・ニモイの監督というのも話題性があったし、個人的には、ポリス・アカデミーシリーズで人気者になったスティーヴ・グッテンバーグの作品ということで注目したことを思い出す。スティーヴ・グッテンバーグはこの作品にほれ込んで、当時計画されていたポリス・アカデミー5の出演を断った(んだったと思いますが、いかんせん10数年前の記憶なもので)というほどこの作品に力をいれていたらしい。確かにこの3人を主人公に据えたのがこの映画の最大の成功の理由だと思う。3人ともがなんだかホモっぽく見えてしまうところもいい。
 といっても、やはりこの作品は元の「赤ちゃんに乾杯!」に負うところが大きいのだろう。「赤ちゃん」のほうを見ている方はわかると思いますが、ほとんど同じと言っていい。「プリシラ」と「三人のエンジェル」よりはるかにそっくり。いい発想は、もらってリメイク。これもハリウッドの常套手段。それで面白い映画ができるなら文句はないわけですがね。

スリーメン&ベイビー

Three Men and a Baby
1987年,アメリカ,103分
監督:レナード・ニモイ
原作:コリーヌ・セロー
脚本:ジェームズ・オア、ジム・クルークシャンク
撮影:アダム・グリーンバーグ
音楽:マーヴィン・ハムリッシュ
出演:トム・セレック、スティーヴ・グッテンバーグ、テッド・ダンソン、ナンシー・トラヴィス、セレステ・ホルム

 フランスで大ヒットした「赤ちゃんに乾杯!」をハリウッドでリメイク。共同生活をしていた三人の独身男の家の前にある日赤ん坊が置き去りに。誰の子供なのかもわからないまま、三人は手探りで子育てをするはめに…
 スター・トレックシリーズのミスター・スポックとして有名なレナード・ニモイのスター・トレックシリーズ以外では初の監督作品。ハリウッド得意の、ホロリと感動させるコメディなんて、見た目からは想像つかない映画を撮るものだ。
 映画の出来としては、シナリオがよくできているので、何も考えることなく楽しめる。10数年前の新鮮さはなくなったが、古さを感じさせることはない。ただ、全体的な浮かれた雰囲気が80年代を感じさせる。

 フランス映画をリメイクした上、続編まで作ってしまうハリウッドのしたたかさには感心させられてしまうが、ふたつともなかなかよくできた映画。レナード・ニモイの監督というのも話題性があったし、個人的には、ポリス・アカデミーシリーズで人気者になったスティーヴ・グッテンバーグの作品ということで注目したことを思い出す。スティーヴ・グッテンバーグはこの作品にほれ込んで、当時計画されていたポリス・アカデミー5の出演を断った(んだったと思いますが、いかんせん10数年前の記憶なもので)というほどこの作品に力をいれていたらしい。確かにこの3人を主人公に据えたのがこの映画の最大の成功の理由だと思う。3人ともがなんだかホモっぽく見えてしまうところもいい。
 といっても、やはりこの作品は元の「赤ちゃんに乾杯!」に負うところが大きいのだろう。「赤ちゃん」のほうを見ている方はわかると思いますが、ほとんど同じと言っていい。「プリシラ」と「三人のエンジェル」よりはるかにそっくり。いい発想は、もらってリメイク。これもハリウッドの常套手段。それで面白い映画ができるなら文句はないわけですがね。

ムーン44

Moon 44
1990年,アメリカ=西ドイツ,100分
監督:ローランド・エメリッヒ
脚本:ディーン・ハイド、ローランド・エメリッヒ
撮影:カール・ウォルター・リンデンローブ
音楽:ジョエル・ゴールドスミス
出演:マイケル・パレ、マルコム・マクダウェル、リサ・マイクホーン、ディーン・デヴリン、ブライアン・トンプソン

 「インディペンデンス・デイ」の監督ローランド・エメリッヒの初期の作品。地球の資源が枯渇し、他惑星からの鉱物輸送が必要となった21世紀、資源豊富な惑星“MOON44”を巡る多国籍企業同士の攻防戦が巻き起こる。
 宇宙戦闘機や高性能ヘリコプターなどによって、近未来的な戦いが繰り広げられる。ただ、この物語の焦点はSFであることよりも、サスペンスでありドラマであること。ムーン44を守る側の囚人と10代の青年たちとの関係に焦点が当てられる。 

 この映画がSFであり、外惑星を舞台とする必要などこにもない。エイリアンがでてくるわけでも、地球ではないことがストーリーに大きな影響を与えるわけでもない。エメリッヒの作品は、考えてみれば「インディペンデンス・デイ」も「スターゲイト」もSFの仕掛けを使った人間ドラマだということができるのかもしれない。
 それを置いておけば、ドラマとしては悪くはない。安価な労働力として集められた囚人と青年たちという設定も自然だし、彼らの間の抗争関係もありきたりといえばありきたりだが、プロットを引っ張ってゆく要素としてはうまくできていた。映像も動きがって、引き込まれる。ただ、全体に暗い映像で作られているのは、意図はわかるが少ししつこい気がした。狙いすぎか、それとも稚拙なセットを隠すための仕掛けか。

りんご

The Apple
1998年,イラン=フランス=オランダ,86分
監督:サミラ・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ、サミラ・マフマルバフ
撮影:エブライム・ガフォリ、モハマド・アーマディ
出演:マスメ・ナデリー、ザーラ・ナデリー、ゴルバナリ・ナデリー、ソグラ・ベロジ、アジジェ・モハマディ

 イラン映画の巨匠モフセン・マフマルバフの娘サミラ・マフマルバフの初監督作品。父モフセンも脚本で参加している。
 父親が娘を家に11年間閉じ込めて外に出さなかったという実際の事件を元に、本人たちの出演で、その子達がはじめて外に出たときの様子を映画化。世間というものをまったく知らない少女たちの目から見た世界の不思議さを描いた。
 監督はこの事件を社会的な問題として描くのではなく、外の世界をはじめてみた少女たちを中心に描いた。彼女たちから見た世界がいかに驚きにあふれ素晴らしいものであるのか。
 傍若無人な彼女たちの行動がとてもほほえましく、爽やかな気分で見ることができる。 

 この映画は、サミラが父が撮影のためにとってあった機材をかりて、ほとんど準備もせず撮影に入った。ぶっつけ本番、1日撮影しては次の日のプロットを考えてゆくという方法でとられたらしい。しかも、父モフセンは撮影には立ちあわず、サミラが持ち帰った膨大なフィルムを一緒に編集したということらしい。
 この映画にはなかなか楽しい場面がたくさんあるが、ひとつ気に入っているのは、マスメとザーラが一人の少女と友だちになって、その子をたたいてしまうが、りんごを渡して許してもらおうとする場面。りんごは彼女たちにとって宝物のようなものだから、彼女たちにとってはすごく意味のあることなんだろうけど、普通に考えると、理不尽なこと。しかしその辺りがかわいいのではある。
 この作品はカンヌ映画祭の<ある視点>部門に正式出品され、カンヌ映画祭史上最年少監督(18歳)として話題になった。

フランケンシュタイン

Mary Shelly’s Frankenstein
1994年,アメリカ,123分
監督:ケネス・ブラナー
原作:メアリー・シェリー
脚本:スティーヴン・レディ、スランク・ダラボン
撮影:ロジャー・プラット
音楽:パトリック・ドイル
出演:ロバート・デニーロ、ケネス・ブラナー、トム・ハルス、ヘレナ・ボナム=カーター

 フランシス・フォード・コッポラがケネス・ブラナーに監督を任せて製作した古典ホラー「フランケンシュタイン」。コッポラは92年に「ドラキュラ」も製作しているので、この当時古典ホラーにこっていたのかもしれない。
 しかし、映画の内容はホラーというよりはクリーチャー自身とその周りの人々の人間関係に焦点を当てたもの。人造人間クリーチャーを巡る一編の悲劇映画に仕上がっている。
 見所はロバート・デ・ニーロのなりきり具合と、ロジャー・プラットのかなり動的なカメラワーク。あとはコッポラらしくお金をかけたセットとデ・ニーロの特殊メイクの凝りよう。 

 原作に忠実ということが、フランケンシュタインのホラーとしての面白さを奪ってしまった。フランケンシュタインを古典ホラーと考えるなら、この作品はまったくの的外れ。今まで幾度も映画化されてきたフランケンシュタインは1931年のジェームズ・ホエール監督版のリメイクとしての色が濃かったが、それをあえて拒んで、原作に立ち返ったコッポラの試みは成功したのか?
 それを判断するには私たちは、ジェームズ・ホエールの描くフランケンシュタイン像に影響されすぎているのかもしれない。ロバート・デ・ニーロが完璧に演じるクリーチャーに我々は新鮮さを覚えると主に違和感を感じざるを得ない。「フランケンシュタイン」を映画化する以上、そのような過去の映画と決別することは不可能なのだから、それを考慮に入れないで、という考えは現実的ではないのだけれど、あえてそう考えるとするならば、この作品はある程度は成功している。ロジャー・プラットの「画」とロバート・デ・ニーロの「顔」に支えられているとはいえ、映画としてのまとまりはとりあえず保たれている。人造人間の孤独と悲惨を表情の乏しい顔で表現するデ・ニーロの演技は素晴らしい。 

 とはいえ、ある程度のフランケンシュタイン像ができてしまっている映画ファンにとっては期待はずれの一作に過ぎないこともまた事実ではある。

鳩の翼

The Wings of the Dove
1997年,イギリス,101分
監督:イアン・ソフトリー
原作:ヘンリー・ジェームズ
脚本:ホセイン・アミニ
撮影:エドゥアルド・セラ
音楽:エド・シェアマー
出演:ヘレナ・ボナム=カーター、ライナス・ローチ、アリソン・エリオット、シャーロット・ランプリング

 20世紀初頭のイギリスを舞台に、貴族という没落してゆく階級の誇りが生み出す悲喜劇を織り込んだ恋愛映画。原作はイギリス文学界の巨匠ヘンリー・ジェームズ。
 貴族の伯母の元に引き取られたケイト(ヘレナ・ボナム=カーター)には新聞記者の恋人がいる。しかし伯母が新聞記者との結婚を許さないことは目に見えていた。古典的なテーマで物語りは進行する。偉大なる凡庸さ。本当にうまくまとまったという感じだけを残す映画だが、その単純な物語と平凡な映像でも私たちは感動させられてしまう。これが古典的な物語の力なのだろうか?

 この映画のつくりは本当に普通だ。カメラワークに工夫があるわけでもはっとさせられるフレームがあるわけでも、ドキドキさせられるようなセリフがあるわけでもない。物語りもいたって古典的で、その展開にハラハラすることもない。しかし、その淡々と進んでゆく物語の奥で展開する人々の心の葛藤に私たちは感動する。果たしてこれは映画の力ではないのかもしれないが、このような味わいの映画もたまにはいいものだ。
 でも、それはあくまでたまにであって、この映画を傑作ということはできない。このような味わいでこれくらいのレベルの映画ならたくさんあるだろうし、その中からこの映画を選ぶ理由とすれば、「ファイト・クラブ」で挑発的な演技を見せたヘレナ・ボナム・カーターのゴシックな姿を見ることくらいか。ヘレナ・ボナム=カーターはこの映画でも、性格的には非常に感情的な人間として描かれている。彼女の凛とした顔は気が強そうな印象を与えるので、なかなかのはまり役だったと思う。