忘れられた人々

Los Olvidados
1950年,メキシコ,81分
監督:ルイス・ブニュエル
脚本:ルイス・ブニュエル、ルイス・アルコリサ
撮影:ガブリエル・フィゲロア
音楽:ロドルフォ・ハルフター
出演:ロベルト・コボ、エステラ・インダ、アルフォンソ・メヒア

 ルイス・ブニュエル初期の代表作。メキシコシティのスラムに生きる少年を中心とした人々の暮らしを描く。貧しいゆえの不幸、精神の歪みを感情を押し殺して描き出すさまは見事。
 夢の描写、動的なカメラワークとブニュエルらしい映像美も味わえる。娯楽色の強いものが多いメキシコ時代の作品の中では異彩を放つシリアスな作品に仕上がっている。
 カンヌ映画祭監督賞受賞。 

 映像とセリフ以外のものをまったく使わずに、これだけ人の心理を表現するブニュエルの力量はさすがとしか言いようがない。特に、校長に信用され意気揚揚と出かけたペドロがハイボにつかまり、いらだたしさをつのらせてゆく辺りは、こちらまでもがこぶしを握り締めてしまうような見事な描写力である。
 ここに出てくる人々はみなが皆悪人ではなく、しかし貧しさのゆえに心を歪ませ、そのせいで自らの状況から抜け出せないという悪循環に陥っている。この設定はまさにブニュエル的といえる。人々の善の部分を信じ、社会の悪を告発する。そのようなブニュエルの信念が、作品全体から滲み出す。そして、救われない結末……
 観る側の精神の奥底に入り込んでくるような力のある映画だった。

マルチニックの少年

Rue Casses Necres
1983年,フランス,106分
監督:ユーザン・パルシー
原作:ジョゼフ・ゾベル
脚本:ユーザン・パルシー
撮影:ドミニク・シュピュイ
音楽:マラボア
出演:ギャリー・カドナ、ダーリン・レジティム、ドゥタ・セック、ヘルベルト・ナップ

 カリブ海に浮かぶフランス領の島マルティニック、時は1930年、貧しい村に住む少年ジョゼの生活を描いた佳作。原作者ジョゼフ・ゾベルの自伝的作品をマルティニック出身の女流監督ユージン・パルシーが映画化。
 純粋に映画としても楽しめるが、マルティニックという土地の風土やカリブの黒人が抱えるネグリチュード(黒人性)の問題を考える際のわかりやすい教材にもなりうる作品。 

 この映画のポイントは、マルティニックという島の黒人の抱える問題である。フランスの植民地の島にアフリカから連れてこられた黒人たちがどのようなアイデンティティを持ちうるのかという問題。
 ひとつのありうる形はフォール市の劇場の切符売りの女性のように、黒人性を否定するもの。そのためには白人と結婚し、フランス語をしゃべり、フランス人になることが必要である。
 もうひとつはアフリカへと行く道。フランツ・ファノンのようなネグリチュードの思想家が盛んに唱えたアフリカへの回帰の道をたどるものである。これはメドゥーズによって暗示される道である。
 しかしこれらふたつがともに平坦な道ではないこともこの映画は語っている。第一の道は混血児であるレオポルドの挫折によって、第二の道はメドゥーズが決してアフリカへは帰れないことによって(彼はジョゼに「あっちには知り合いもいないし」と語る。これは彼らにとっての故郷アフリカはあくまでも観念的なものでしかないことを象徴している)、否定される。
 したがって、ジョゼは第三の道を歩み始める。それは白人になろうとするのでもなく、アフリカに帰ろうとするのでもなく、フランス語圏(フランコフォン)の黒人としての立場を確立すること。そのためにフランス語を習得し、フランス文化を学んで、本国に認められること。ジョゼはそのためにフォール・ド・フランスへと戻ってゆく。
 ルーツを失い、言葉を奪われた民族がたどるべき道は何のか?そんな深い問いかけを内包した作品である。

ラン・ローラ・ラン

Lora Rennt 
1998年,ドイツ,81分
監督:トム・ティクヴァ
脚本:トム・ティクヴァ
撮影:フランク・グリエベ
音楽:トム・ティクヴァ
出演:フランカ・ポテンテ、モーリッツ・ブライトプトロイ、ハノイ・フェルヒ、ヘルベルト・ナップ、ニナ・ペトリ

 ローラの恋人マニはマフィアの運び屋。しかし、ある日とちって、ボスに渡すはずの10万マルクを紛失してしまう。残された時間は20分、20分のあいだに10万マルク用意しなければ、マニは殺されてしまう。最愛のマニを救うため、ローラは家を飛び出し、走る走る。
 まったく無名のドイツの新鋭監督トム・ティクヴァが斬新な映像と音楽でつづる、まったく新しいドイツ映画。98年あたりから、ニュー・ジャーマン・シネマとしてもてはやされている映画群の走りとして画期的な一本。
 多少荒削りなところはあるが、いわゆるアヴァンギャルドな映像をうまく使って、シナリオも面白く、まとまった映画に作られている。 

 この映画は、アニメーションを入れたり、ストップモーションを多用したり、いわゆる今風の演出がなされているのだけれど、実験映画的なとげとげしさがないので、見る側としてもスッと映画に入り込める。新しいけど、難しくない。トレインスポッティングもそんな映画だったけれど、それよりさらに単純でわかりやすい。しかも、音楽の使い方が非常に効果的で、映像だけでは狙いが伝わりにくい部分をうまく補っている。
 3回というのもいい。4回だとちょっとしつこいし、2回だと物足りない。しかもこの映画の面白いところは、3回がすべて別々のパターンというわけではなく、2回目は1回目が起きた後で展開されているところ。(たとえば、2回目のローラは拳銃の使い方を覚えている。3回目の銀行の守衛がローラの顔を見て目を見開いて何かを思い出している。)
 「それから」といって展開されるすれ違う人々のその後の人生というのも、本筋とはまったく関係ないのだけれど、面白い。これがあるのとないのとでは、観客の興味のひきつけ具合が大きく異なってくるだろう。
 細かいところまで計算され、しかし全体的に警戒で、笑えるところもあり、まさに「新しいドイツ映画」というにふさわしい作品だったと思います。少し「人間の運命ってのは…」という説教臭さもありますが、それを補って余りある楽しい映画でした。

狂わせたいの

1998年,日本,60分
監督:石橋義正
脚本:石橋義正
撮影:岡本孝司
音楽:アーティスティック・コンセプツ
出演:石橋義正、岡本孝司、分島麻実、キララはずき、木村真束、砂山典子

 山本リンダの名曲「狂わせたいの」をタイトルにしたエロティックコメディ?
 気弱な男と謎の女たち。アナーキーな白黒世界の映像美となんともいえない笑いのセンスが絶妙のハーモニー。これはバカバカしいのか不可解なのか?全体に散りばめられた70年代歌謡曲とそれにあわせたダンスが最大のみどころか?
 百聞は一見にしかず。これを「傑作!」と思う人もいれば、「最低!」と思う人もいる。ここまで評価が分かれる映画もめずらしいのでは?

 監督の石橋義正はパフォーマンス・アートやビデオ・インスタレーションといった現代美術作家。昨年(1999年)、東京都現代美術館でやっていた「身体の夢」展にも出展していたはず。その他のスタッフ・キャストも美術関係の人々が多いらしい。ダンスを見せるのは京都のパフォーマンス集団「ダムタイプ」。
 確かに、音楽と踊りは素晴らしい。白黒の映像も深みが合って面白い。しかし、笑いという点になると、少し物足りない。個人的には作品全体のプロットにこだわるより(はじめと終わりがつながるというドグラマグラ的な使い古されたプロットを使ったりせずに)、もっと歌と踊りに特化して、踊って踊って踊りまくるくらいの映画にしてくれたほうが楽しめたかもしれない。最初の電車の部分は本当に面白かった。ダンスも最高、振り付けが最高。このレベルが最後まで保たれていれば、5点満点、「グル魂」並だったのだけど。
 芸術性と笑いというものを同時に成立させるということはやはし難しいことなのでしょう。それは映画に限らずあらゆる分野において。

セントラル・ステーション

Central do Brasil
1998年,ブラジル,111分
監督:ヴァルテル・サレス
脚本:ホアン・エマヌエル・カルネイロ、マルコス・ベルンステイン
撮影:ヴァルテル・カルヴァロ
音楽:アントニオ・ピント、ジャック・モレレンバウム
出演:フェルナンダ・モンテネグロ、マリリア・ペーラ、ヴィニシウス・デ・オリヴェイラ、ソイア・ライラ

 ブラジル、リオデジャネイロのセントラル駅で代書屋をするドーラのもとに、ある日行方知れずの父親に手紙を書こうとする親子がやってくる。しかし、その直後、その母親が事故で死んでしまい、少年はドーラを頼ってくる。
 ブラジル版「グロリア」とでも言うような雰囲気をもつフェルナンダ・モンテネグロがとてもの味があっていい。
 ゴールデングローブ賞外国語映画賞受賞

 ブラジル映画というとなかなかなじみが薄いものですが、1960年代に作品を撮ったグラウベル・ローシャやネルソン・ペレイラ・ドス・サントスらの映画は<ラテンアメリカの新しい映画>の波の先駆的なもので、フランスの「ヌーヴェル・バーグ」と呼応する形で新しい映画の形を築こうとするものでした。現代では、ハリウッドに進出した映画監督エクトル・バベンコがかろうじて知られているというところでしょうか。
 レヴューではなく、ただのブラジル映画の紹介になってしまいましたが、この映画は、そのようなブラジル映画の歴史を背景に新たなブラジル映画の地平(国際的な意味での)を開くものとして評価できるのではないかということです。

ロミオ&ジュリエット

William Shakespear’s Romeo & Juliet
1996年,アメリカ,120分
監督:バズ・ラーマン
原作:ウィリアム・シェークスピア
脚本:クレイグ・ピアーズ、バズ・ラーマン
撮影:ドナルド・マカルパイン
音楽:ネリー・フーパー
出演:レオナルド・ディカプリオ、クレア・デインズ、ジョン・レグイサモ、ポール・ラッド

 シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の舞台を現代に置き換え、映画化。セリフはシェイクスピアの原作に忠実に再現した。全体的に新さというものはないが、映像もきれいで、何よりもレオナルド・ディカプリオとクレア・デインズのコンビは見ていてほほえましい。
 演劇のセリフをそのまま使ったことで、映画としての面白さがそがれてしまった観があり残念。

 この映画の最大の問題は、シェイクスピアのセリフを忠実に再現したこと。監督としてはそこに新しさを見いだそうとしたのだろうけれど、映画としては致命的な欠陥になりかねない。そもそも映画というものが、演劇との差異化から始まっており、演劇にはないさまざまな手法を取り入れることで独自の芸術しての立場を成立させてきたという経緯がある。
 舞台と違って、大声を張り上げてせりふを言う必要がないとか、クローズアップなどの言葉以外の表現方法が革命的に増えたとか、そのような要素こそが映画を映画として成立せしめているのだから、セリフを原作の演劇に戻してそのまま使ってしまうということは映画であることの意義を根底から覆してしまう可能性があるのだ。
 と、理屈臭くなってしまいましたが、どうにも、この映画を見ているとセリフまわしがまどろっこしくて、映画に入り込んでいけない。しかも、原作があまりに有名なので、あまりストーリー展開にハラハラできない。
 と、いうわけで、純粋に映画としてみるなら、問題多しですが、スターを中心に作られる映画というのも映画産業にとっては非常に重要なものですから、このような映画がある意味はあると思います。大好きなスターが出ていれば、どんなに面白くなさそうでも見る!それがファン。

ブルー・イン・ザ・フェイス

2000/5/6
Blue in the Face
1995年,アメリカ,85分
監督:ポール・オースターウェイン・ワン
脚本:ポール・オースターウェイン・ワン
撮影:アダム・ホレンダー
音楽:デヴィッド・ハーン
出演:ハーヴェイ・カイテルミラ・ソルヴィーノジャレッド・ハリスジャンカルロ・エスポジートジム・ジャームッシュマイケル・J・フォックスマドンナルー・リード

 「スモーク」のキャスト・スタッフが、現場の雰囲気を映画にしてしまおうというアイデアから生まれた作品。「スモーク」のキャストに加え多彩なゲストが登場する。
 話は、ブルックリンで煙草屋を経営するオギー・レン(ハーヴェイ・カイテル)とそこに訪れる客たちとの間で繰り広げられる。タバコを止めると宣言し最後の一本をすいにくる常連、インチキくさい時計売り、ベルジャンワッフルを探すヒッピー風の男(?)、などなどいろいろなキャラクターが笑いをふりまいては帰っていく。
 さしたるストーリはなく、アドリブがかなりを占める各出演者の演技が見所。セリフを決められた演技よりも生き生きとしているかもしれない。マイケル・J・フォックスが元気な姿を見せているのもうれしい。

 この映画で、個人的に最大の注目はマドンナ。「歌う電報配達人」として登場するわけだが、マドンナの出演作の中でいちばんのできだと思う。マドンナもここまで吹っ切れてしまえば、じゅうぶん役者としてやっていけるのでは?
 この映画は「スモーク」のシリアスな雰囲気とはうって変わって軽快なテンポの映画だが、こっちの方がポール・オースターのよさを引き出しているのではないかと思う。ポール・オースターの小説というと、不思議な静けさがあって映像にするとどうしても重たくなりがちなので、これくらいくだけたとり方をしてしまったほうがよくなるのかもしれない。(あまり知られていないが、ポール・オースター原作の映画では「ミュージック・オブ・チャンス」というのがあって、これはまれに見る駄作だった。)
 ちなみに、「ブルー・イン・ザ・フェイス」というタイトルは、顔が真っ青になるまでセリフをしゃべらせるという案からつけられたタイルらしい。

幻影は市電に乗って旅をする

La Ilusion Viaja en Tranvia
1953年,メキシコ,83分
監督:ルイス・ブニュエル
脚本:マウリシオ・デ・ラ・セルナ、ルイス・ブニュエル、ルイス・アルコリサ、ホセ・レヴエルタス
撮影:ラウル・マルチネス・ソラレス
音楽:ルイス・ヘルナンデス・ブレトン
出演:ギリェルモ・ブラボ・ソーサ、リリア・ブラド、カルロス・ナバロ、フェルナンド・サト

 メキシコシティの市電局の車掌カレイレスと修理工タラハスは、担当していた133号の解体によって自分たちも解雇されるであろうことを知る。133号に別れを惜しむ彼らは酔っ払い、気づけば133号のところにきていた。彼らは勢いで133号に乗り込み、夜の町へと出発する。
 カレイレスとタラハスを中心としたやりとりがおかしく、カフカが喜劇を書いたならこんな風になっていたのではと思わせるコメディ。
 ルイス・ブニュエルのメキシコ時代の代表作のひとつ。

 帰りたいけど帰れない。そこに現れる乗客たちの多様性が暗示しているものは何なのだろうか?単なるコメディではなく、その乗客たちにブニュエルは何らかの意味を託したのだろう。社会(階層)・宗教・政治(共産主義)・アメリカなどを象徴的に示す人々が乗り込み、我々にじんわりと何かを訴えかけては下りてゆく。
 そして、全体がまた現実であるのか幻想であるのかもわからない構造。一貫して現実として描かれた入るのだけれど、それがどうして現実だとわかるのか?果たして133号は本当に町を走ったのか?カレイレスとタラハスの夢物語では?町の人々の見た幻影では?最後のナレーションを聞いてそんなことを考えた。

引き裂かれたカーテン

Torn Curtain
1966年,アメリカ,128分
監督:アルフレッド・ヒッチコック
脚本:ブライアン・ムーア
撮影:ジョン・F・ウォーレン
音楽:ジョン・アディソン
出演:ポール・ニューマン、ジュリー・アンドリュース、リラ・ケドロヴァ、デヴィッド・オパトッシュルド、ウィッグ・ドナス

 シカゴ大学の教授マイケル・アームストロング(ポール・ニューマン)は学会を抜け出し東ドイツへと亡命を企てる。しかしそこに、置いてきたはずの婚約者サラがついてきてしまい……
 冷戦時代のベルリンを舞台にしたスパイ映画。アルフレッド・ヒッチコック監督50作目という記念すべき作品。いかにもヒッチコックというからくりといかにもヒッチコックという展開。しかし、それは展開を読みやすいという欠点にもなっているかもしれない。過去の名作と比べると見劣りするが、ヒッチコックは駄作は作らない。若いポール・ニューマンもかっこいい。

 「ヒッチコックはハッピーエンド」そう思いながら見てしまうと、ここでも助かる、ここでも助かる、と考えながら見てしまう。どういう助かり方をするのか、どういうふうに警官を巻くのか、そこに興味は移ってしまう。
 ハラハラどきどきのサスペンスというより、クイズのようなもの。劇場での「火事だ!」は予想通り。しかし、”fire!!”と叫んで、ドイツ人はわかるのだろうか?
 冷戦も終わって10年、スパイ映画も作りにくくなってるんだとしみじみ感じた一作でした。

恋のじゃま者

Nothing in Common 
1986年,アメリカ,119分
監督:ゲイリー・マーシャル
脚本:リック・ボーデル、マイケル・プレミンジャー
撮影:ジョン・A・アロンゾ
音楽:パトリック・レナード
出演:トム・ハンクス、ジャッキー・グリーソン、エヴァ・マリー・セイント、ヘクター・エリゾンド、バリー・コービン

 シカゴの広告代理店に勤めるやり手の広告マン・デヴィッド(トム・ハンクス)。彼のもとにある日父親から電話があり、両親が別居したことがわかる。そしてしまいには父親が転がり込んできて、それまで順風満帆、女性関係も華やかだった彼の生活に暗雲が立ち込めてゆく……親子の関係を描いたハートフルコメディ。
 初期のトム・ハンクスの主演作は当たり外れが大きい。これは文句なしにはずれ。80年代アメリカの浮かれ気分をそのまま映画にしてしまったという映画。この頃はこんな映画が氾濫していたことを考えると、一見の価値はあるかも。