ニンゲン合格

1998年,日本,109分
監督:黒沢清
脚本:黒沢清
撮影:林淳一郎
音楽:ゲイリー芦屋
出演:西島秀俊、役所広司、菅田俊、りりイ、麻生久美子、哀川翔

 10年間昏睡状態で眠っていた24歳の豊(西島秀俊)が奇跡的に意識を取り戻す。彼は藤森(役所広司)という男と自分がかつて住んでいた家に住み、生活を始めるが、そこには家族の姿はない。
 これは豊と家族との物語なのだけれど、それが説明されることはまったくない。セリフが極端に少なく、状況が説明されないまま、話は展開してゆく。
 14歳の精神を持った24歳の青年とバラバラになった家族、ということは、彼をきっかけにして家族が再び集まって…、と古典的物語ならば展開するはずですが、果たしてどうでしょうかね。 

 この映画を評価する(あるいは批判する)材料はいくつかある。
 ひとつは物語。つまり、家族の捉えかた。この映画で描かれている家族像とは何なのか?黒沢監督は今まで執拗に家族を描くことを避けてきた。これまでの映画で主人公の肉親が登場することはまったくなかった。それはなぜなのかがこの映画を見ればわかる。黒沢監督はあるインタビューで「家族が登場すると物語が混乱する」と言っていた。つまり家族は敵・味方がはっきりしない存在であり、そういう存在が物語りに紛れ込んでくると人物関係の整理がつかなくなるということ。家族をそのような存在として捉えているがゆえに、家族を登場させようと思ったら、それは「家族の映画」になってしまう。その微妙な関係性をうまく表しているのは、遭難した父親がテレビに映っているところを見守る一瞬の(バーチャルな)家族団欒を見つめる哀川翔の視線。反発しあっていたはずのものたちが一瞬でも理解しあってしまう不可解さ。
 もうひとつは映像。古典的な意味での視点というものを壊してしまった映像はある種の違和感を感じさせる。頻繁に繰り返される横移動、ほとんど映されることのない建物より高い部分の景色(ここは東京で少し上を見れば高層ビル群が見えるはず)。産廃物を運ぶトラックでふたりが会話するときの風景の微妙なずれ(この場面はトラックが実際には移動しておらず、フロントガラスに映りこむ風景が合成されたものであることは容易に見て取れる)。これらが意味しているのはどのようなことなのか?ただ単に映像作家として「いい画」を追求するがゆえに生まれた画なのか?それともここで描かれている空間が「夢」であることを暗示しているのか?その判断は見る側にゆだねられているようです。この映画が「夢」なのか「現実」なのか、藤森は死に行く豊に「現実だ」と言ってはいるものの、果たしてそれが信用できるのか? 

シー・オブ・ラブ

Sea of Love
1989年,アメリカ,113分
監督:ハロルド・ベッカー
脚本:リチャード・プライス
撮影:ロニー・テイラー
音楽:トレヴァー・ジョーンズ
出演:アル・パチーノ、エレン・バーキン、ジョン・グッドマン、マイケル・ルーカー、ウィリアム・ヒッキー

 ニューヨークの刑事フランク(アル・パチーノ)は勤続20年のベテラン。今回の事件は全裸の男がベットでうつぶせになり、後頭部を打ち抜かれているというもの。最初は簡単な事件と思ったが、他の部署の刑事シャーマン(ジョン・グッドマン)から同じような事件を追っているといわれ、事件は連続殺人事件へと発展してゆく。
 正統派のサスペンスにラブストーリーを絡めた映画。プロットもまあまあ、演出もまあまあ、ジョン・グッドマンはいい味だしてる。アル・パチーノもいい。エレン・バーキンもなかなか。つまり、キャスティングがいいということですね。 

 アル・パチーノはかっこいい。それでいい。という映画。相手役がジョン・グッドマンというのもいいバランス。映画を真面目・渋々一辺倒にしてしまわないところがいい。
 とはいえ、プロットにビックリとはいかない。映像も普通。演出でスリラーっぽくしたいという意図はわかるが、あまり怖くはない。
 アル・パチーノ好きは堪能できるでしょう。渋さ十分堪能。相変わらず「顔」でいい演技をしてます。
 キャストにサミュエル・L・ジャクソンがクレジットされています。最初の「ヤンキースで一網打尽作戦」のところで出ていたような気がします。 

第三の男

The Third Man
1949年,イギリス,105分
監督:キャロル・リード
原作:グレアム・グリーン
脚本:グレアム・グリーン
撮影:ロバート・クラスカー
音楽:アントン・カラス 
出演:ジョセフ・コットン、オーソン・ウェルズ、アリダ・ヴァリ、トレヴァー・ハワード、バーナード・リー

 第二次大戦直後のウィーンに招かれた一文なしの小説家ホリー・マーチンスは着くなり招待してくれた友人はリー・ライムの死を知らされる。事故死といわれたが納得いかないホリーは現場にいたという第三の男を探しはじめる。
 非常にうまくトリックが隠されたサスペンス。非常に凝った構図が多く見られ、映像へのこだわりが感じられる作品。フレームによって切り取られた、瓦礫に埋もれたウィーンの風景は暗く、重苦しいが、美しさにあふれている。 

 オーソン・ウェルズがこの映画への出演を渋っていたというのはあまりに有名な話ですが、なぜ出たかということについては諸説あります。ひとつは、撮影現場を覗きにいってみたら、意外と気にいったというもの、ちょっと宣伝臭い匂いがしますね。もうひとつは、当時製作中だった映画の資金繰りが悪化し、その資金集めのために出演することにしたというもの。
 まあどちらにしろ、この映画にとって重要なのは、オーソン・ウェルズがでたということ。彼がいるといないとでは大違いですね。初登場のシーンから、きゅっと頭に刻まれる彼の表情、渋い声、眉間の皺、などなど。
 プロットもいいし、映像もいいので、オーソン・ウェルズがいなくても映画として成立はしたと思いますが、やっぱり、いるといないとでは大違い。 

ライフ・イズ・ビューティフル

La Vita e Bella 
1998年,イタリア,117分
監督:ロベルト・ベニーニ
脚本:ヴィンセンツォ・セラミ、ロベルト・ベニーニ
撮影:トニーノ・デリ・コリ
音楽:ニコラ・ピオヴァーニ
出演:ロベルト・ベニーニ、ニコレッタ・ブラスキ、ジョルジオ・カンタリーニ、ジョスティーノ・デュラーノ、セルジオ・ブストリック

 お調子者のグイド(ロベルト・ベニーニ)は、ローマへと向かう途中、車が故障して止まった町で美人のお嬢様ドーラに出逢う。そして、ローマで再会、しかし彼女には婚約者がいて…
 と、前半は1930年代のハリウッド映画のようなラブ・コメディが展開されるが、後半は一転、戦争が彼らの上に大きくのしかかってくる。カンヌ・グランプリ、アカデミー・外国語映画賞を受賞した良質のヒューマンドラマ。
 映画としての新しさは特にないが、巨匠トニーノ・デリ・コリの映像はいつまで見ていても飽きない透明感を持っている。子役のジョルジオ・カンタリーニも愛らしい。 

 ロベルト・ベニーニが、塀の中、なんだか見たことがあると思ったら、「ダウン・バイ・ロー」ですね。うーん、しかし比べるのは無理があるかな。
 さて、この映画はなかなか評価が難しいでしょう。前半部分は非常にいい。なんだか昔懐かしい感じで。しかし、あれで一本撮るには弱いでしょう。しかも、映画の眼目は後半にあるわけです。で、後半ですが、ドラマとして取ると、脚本の細部が弱い。収容所の監視があんなにずさんでいいのかとか、疑問が湧いてきます。コメディとしてとるなら、問題はありませんが、そうすると説教臭さが鼻につく。個人的にはそういう評価です。
 とにかく、全体をまとめている澄んだ映像がこの映画を救っています。決して目立つ効果は何もないのだけれど、それはつまり自然だということ。そして終盤はジョルジオ・カンタリーニの笑顔に救われています。
 私はアカデミー賞の審査員とは意見が合わないようです。

マグノリア

Magnolia
1999年,アメリカ,187分
監督:ポール・トーマス・アンダーソン
脚本:ポール・トーマス・アンダーソン
撮影:ロバート・エルスウィット
音楽:ジョン・ブリオン
出演:トム・クルーズ、メリンダ・ディロン、フィリップ・ベイカー・ホール、ウィリアム・H・メイシー

 様々な親子関係を中心に、ロサンゼルスに住む人々の一日の出来事を描く。生き別れた息子に一目会いたいと願うアール(ジェイソン・ロバーズ)、女の口説き方をセミナーで教えるその息子フランク(トム・クルーズ)、天才クイズ少年スタンリー(ジェレミー・ブラックマン)、元クイズ少年ドニー・スミス(ウィリアム・H・メイシー)などなど。
 3時間はやはり長いが、最後まで見ればなんとなく納得。でも、もう少し短いほうがよかったような気もする。
 それぞれのキャラクターは生き生きとしていていい。こういうモザイク的な描き方というのはとても映画的。小説にしてしまうと誰が誰やらわからなくなってしまうことが多いが、映像という方法を取れば頭の中はすっきり。

 長い。3時間の映画を3時間に感じさせてしまっては、長い映画としては失格でしょう。映画の長さというのはじっさいに計測できる時間の長さと個人個人の主観的な体感的な長さというのがあるわけですが、私にはこの映画は長かった。じっさい、この映画には3時間の集中を保たせるほどの力はないと思う。映画自体は面白いのだけれど、2時間辺りで中だるみ。前半は音楽などを使って、テンポよく話を進めていくのだけれど、中盤にそれぞれの物語が緊張感をはらむ場面になり、それから徐々に解決らしきものに向っていくというそのあまりの遅さが長さを感じさせる。そこでは音楽もあまり使われず、長い長いひとり語りやトム・クルーズの脂っこい演技が長々と引き伸ばされる。
 そしてまた、集中してみるには疲れる映画でもある。それは1カットが短くてリズミカルなようでいながら、それを音楽やボイス・オーバーでつなぎ、テンポを落としていること、またクロースアップが多く、フォーカスが短い画面が多いので、注意が一点に集中されてしまい、漫然と見ることができない。
 だから、一般的に言うともう少し短くするか、もっとハチャメチャにしてしまうと良かったのだと思う。最初から「偶然」ということがテーマになっていると明示しているのだから、もっと不思議な偶然をどんどん繰り出して摩訶不思議な世界を作ってしまえば一つの面白い映画になったのだろうと思う。
 この映画の面白さは、この映画がそのようにつまらない映画であるということにある。「つまらない」というのは見る側がその映画に対して優越感を感じるというか、この程度の映画かとわかった気になってしまうということである。人間関係を解きほぐしたり、映画の作り方を分析したり、音の入れ方について考えてみたり、いろいろなことを考えてみると、この映画を理解することは決して難しくない。しかし、この映画をにわかるということは絶対にありえない。それはこの映画が絶対的な「意味」を欠いているからであり、映画全体として一つのメッセージを届けようとはしていないからだ。見た人それぞれがそれを読み取ろうとすることは自由だが、それに正解はない。どの読みが正しくてどの読みが間違っているのかという解答はそもそもないから、この映画はどのように見てもいいし、どのように見ても映画を「理解できた」ことになる。すると映画は面白くなる。だからこの映画は「つまらない」からこそ「おもしろい」ということになるのだが、そのような仕掛け自体を「おもしろい」ということが果たしてできるだろうか? 

ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ

Hilary and Jackie
1998年,イギリス,121分
監督:アナンド・タッカー
原作:ヒラリー&ピエール・デュ・プレ
脚本:フランク・コトレル・ボイス
撮影:デヴィッド・ジョンソン
音楽:バーリントン・フェロング
出演:エミリー・ワトソン、レイチェル・グリフィス、ジェームズ・フレイン、デヴィッド・モリセイ、チャールズ・ダンス

 実在のチェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレの生涯を姉妹の関係にスポットを当てて描いた感動作。
 二人の姉妹が海辺で遊ぶ謎めいたシーンから映画は始まる。ヒラリーとジャクリーヌの姉妹は音楽好き、姉のヒラリーはフルート演奏で将来を嘱望され、BBCから出演依頼が来るが、一緒に連れて行ってもらったジャクリーヌは演奏の邪魔をしてしまう。悔しいジャクリーヌはその日から毎日チェロの練習に励むようになった。
 全編にわたって流れるチェロの音色が心に染み入ってくる。映像もさりげない工夫が凝らされていてよい。

 まず、邦題に難ありというところ。「ほんとうの」とかいってしまうとなんだか堅苦しい伝記映画みたいに見える。原題の”Hilary and Jackie”のほうが、映画の内容を端的に表していていいのでは。
 この映画はかなり「いい」と思う。さりげないんだけどよくできた映画。女性チェロを持つと凄くエロティックだし、魅力的に見えると前から思ってはいたのだけれど、この映画を見てかなり実感。特に、黒いバックで全身(ドレスの色が変わってゆく)と手のアップを交互に映し出してゆく場面が印象的。ダニエルとジャッキーが初めて出会ったパーティーで協奏するシーンも非常に良かった。
 あまり期待していなかっただけに、思わぬ収穫でした。

プライベート・ライアン

Saving Private Ryan
1998年,アメリカ,170分
監督:スティーブン・スピルバーグ
脚本:ロバート・ロダット
撮影:ヤヌス・カミンスキー
音楽:ジョン・ウィリアムズ
出演:トム・ハンクス、トム・サイズモア、エドワード・バーンズ、バリー・ペッパー、マット・デイモン

 第二次世界大戦の転換点ノルマンディ上陸作戦。その戦いに参加していた中隊長ジョン・ミラー大尉(トム・ハンクス)に新たな任務が命ぜられた。それは、三人の兄が戦死し、本人も行方不明となっているライアン二等兵を探し出し、救出するというもの。命令の絶対性と一人の二等兵のために命をかける理不尽さに切り裂かれながら、ミラー中隊長と7人の兵士はライアン二等兵を探しに行く。
 この映画でいちばんすごいのは戦闘シーン。特に冒頭から30分ほどつづくノルマンディ上陸作戦の戦闘シーンは圧巻。長年にわたって培われてきたドリームワークスの特撮技術が細部に至るまで圧倒的なリアルさを生み出している。銃弾の中を走り回るハンディカメラの映像も臨場感を増す。

 本当に、この映画の戦闘シーンはすごい、足がもげたり、頭を打ち抜かれたり、それが現実にそこで、目の前で起きているような錯覚を起こさせる特撮。特撮といえばSF、という認識が誤りだったことを認識させられる。そして戦闘シーンのリアルさは、そこにいる兵士たちの心理さえも映し出しているような生々しさを持っている。しかし、よく考えると、重火器レベルであんなに人が吹き飛んだりするのかという疑問も沸く。これはやはりあくまで、スペクタクルのためのリアリズム。戦争映画というスペクタクルへのあまりに圧倒的な導入。
 映画の最後も戦闘シーンなわけですが、そこもやはりすごい。最初のシークエンスにも増してなんだかヒーローもののような胡散臭さは漂うけれど、それでもすごいことはすごい。
 と、スペクタクルな部分は褒めておいて、ですが、
 この映画はシンメトリーな構造になっています。星条旗から始まり、戦没者墓地→戦闘シーン→移動→戦闘シーン→戦没者墓地→星条旗です。このシンメトリー構造というのはこの映画の徹底的な姑息さで、アメリカのパトリオティズムのプロパガンダのための構造になっています。星条旗と戦没者墓地は全くそのままですが、戦闘→移動→戦闘という部分も、最初の戦闘シーンで人(アメリカ兵)をバンバン殺して、ドイツ軍の冷酷さと戦争の悲惨さのようなものを描き、移動シーンでは隊の個人個人の人間性を描くことで最後の戦闘シーンでは完全に自分も戦闘に加わっているかのような気分になる。そしてだめを押すように戦没者墓地での敬礼と星条旗。この語り方によってこの映画はアメリカ人を戦争に駆り立てるものでしかありえなくなってしまう。アメリカ人でなくてもそれを感じてしまう。その要素を取り去ってひとつのスペクタクルとしてみることは可能だけれど、そのことがこの映画がプロパガンダ映画であるということを覆い隠しはしないのです。だから見終わってどうも、(優しい言葉で言えば)居心地が悪い、あるいは(簡単に言ってしまえば)むかつくのです。
 文句のつけどころは他にいくらでもある。題材に第二次大戦をしかも隊ナチス戦を選ぶ。これがヴェトナム戦争や朝鮮戦争でないのは何故か。ドイツ兵の描き方が余りに画一的なのは何故か。ドイツ兵はすぐに投降し捕虜になるのに、アメリカ兵は決して降参しない。どれもこれもアメリカ万歳に結びつく要素で、ただただむかつく、あるいはあきれる要素が増えていくばかり。
 こんな映画をアメリカ人以外の観客にもしっかりと見せ、感動すらさせてしまうスピルバーグの手腕には恐れ入りますが、その才能をこんなところに使ってしまうのはどうにも納得がいかない。これならば、『インディー・ジョーンズ4』でもとってた方がよかったんっじゃないの?

バタフライ・キス

Butterfly Kiss
1995年,イギリス,85分
監督:マイケル・ウィンターボトム
脚本:フランク・コトレル・ボイス
撮影:シーマス・マッガーヴェイ
音楽:ジョン・ハール
出演:アマンダ・プラマー、サスキア・リーヴス、リッキー・トムリンソン、キャシー・ジェイミソン

 「ウェルカム・トゥ・サラエボ」などで知られるマイケル・ウィンターボトム監督の初長編作。
 ハイウェイのガソリンスタンドで「ジュディス」という女性を探すユーニス。「ジュディス」ではないとわかった店員を殺し、次のスタンドへ。そこで出会ったミリアムは、ガソリンを体に振り掛ける彼女を心配し、自分の家に連れてゆく。ユーニス(ユー)に惹かれてゆくミリアム(ミー)、ふたりは果たして…
 物語はミリアムの告白を語り部に展開してゆく。レズビアン版シド&ナンシーと例えることもできるし、神話世界のメタファーとして読み解くこともできるだろう。ユーとミーという呼び名に何らかの示唆を読み取ることもできるかもしれない。現代的な映像の奥に、深みを感じさせるウィンターボトム監督の力作。

 「ジュディス」は旧約外典のひとつ『ユディト書』の主人公ユディトに由来していると思われる。未亡人ユディトは敵国の将ホロフェルネスを誘惑し、油断させ、寝首を掻き切ったイスラエルの女性。グスタフ・クリムトが描いた『ユディトⅠ』という絵が有名だが、この絵でユディトはホロフェルネスの首を抱えて微笑んでいる。このことから考えるとユーニスは「ジュディス」、つまり自分を殺しに来る何者かを探していると解釈することができる。しかもそれは自分を愛してくれる誰かでなくてはならない。そう考えると、ミリアムの「私がジュディスの代わりになる」というセリフが意味を持ってくるわけだ。ミリアムはユーリスにとってのジュディスになり、ユーリスはホロフェルネスになれる。
 キリスト教圏の人が「ジュディス」と「ユディト」とをすぐに結びつけることができるのかはわからないが、私は映画を見てから調べるまでそんなことはまったく知らなかった。このようなメタファーが映画に出てくることはままあるが、それを理解できないことが多い。あとから史ってなんとも残念な気分になることがありますが、今回もそうでした。ちなみにミリアムはモーゼの姉の名だが、これも何か関係あるのかもしれない。

セルロイド・クローゼット

The Celluloid Closet
1995年,アメリカ,104分
監督:ロブ・エプスタイン、ジェフリー・フリードマン
原作:ヴィットー・ルッソ
脚本:ロバート・エプスタイン、ジェフリー・フリードマン、アーミステッド・モービン、シャロン・ウッド
撮影:ナンシー・シュライバー
音楽:カーター・バーウェル
出演:トニー・カーティス、ウーピー・ゴールドバーグ、トム・ハンクス、スーザン・サランドン、リリー・トムソン(ナレーション)

 ゲイやレズビアンを扱った映画の歴史をヴィトー・ルッソの原作を元に映画化。古い映画の映像を見せるとともに、実際にカミングアウトした映画関係者や同性愛者の役を演じた役者のインタヴューを豊富に集めた。対象をアメリカ映画に限定しているため、話はわかりやすくまとまっている。ドキュメンタリーとしてはそれほど優れたものとは思えないが、知らなかったことを実感をもって知るためには役に立つ。1995年頃はゲイやレズビアンの映画がムーヴメントとして盛んだった頃なので、こういった映画も作られたのだろう。
 パゾリーニなどヨーロッパに関係することは対象からはずされているのが残念。
 映画のからくりといえるものは特にありません。ハリウッド映画史の勉強にはなります。20・30年代には検閲が強化されていたということで思い出したのが、何の映画だったか、有名な映画だったはずですが、男女がひとつのベットで寝る時に、間にシーツをたらして敷居にしていた場面。その頃はベットシーンというものが禁止されていたために、そのような工夫がされたんだという話を聞いたことを思い出しました。何の映画だったっけかなぁ… 

ウォーターメロン・ウーマン

The Watermelon Woman
1995年,アメリカ,80分
監督:シェリル・デュニエ
脚本:シェリル・デュニエ
撮影:ミシェル・クレンショウ
出演:シェリル・デュニエ、グィネヴィア・ターナー、ヴァレリー・ウォーカー、カミール・パグリ、アリサ・マリー・ブロンソン

 「GO fish」に影響を受けたと思われるシェリル・デュニエが、レズビアンと黒人女性という二重のマイノリティ性を問題化した作品。30年代のハリウッド映画で“ウォーターメロン・ウーマン”とクレジットされている黒人女性を発見したレズビアンの映画作家志望シェリルは彼女の生涯を映画にしようと考える。その映画作成の過程を映画として作り上げた。
 「GO fish」と比べると、レズビアンや黒人女性というものを問題化する意識が強いように見える。ハリウッドで黒人女性とレズビアンが無視されつづけてきた状況を問題化することこそがこの映画の目的なのだろう。映像や物語のつくり、映画としてのつくりを見ると「GO fish」のほうが明らかに上だが、この映画も「黒人」独特のリズムがあって飽きることはない。

 「GO fish」の脚本と主演を担当したグィネヴィア・ターナーがシェリルの恋人ダイアナとして「ウォーターメロン・ウーマン」に登場する。「ウォーター」の舞台はフィラデルフィアだが、ダイアナはシカゴで映画を取っていたという設定。「GO fish」がシカゴの映画であることを考えると、ダイアナは「GO fish」の作家として「ウォーター」に登場していると解釈できる。それぐらいこのふたつの映画のつながりは深い。
 「GO fish」が映画として完成されていたがゆえに、一般に受け入れられ、それによって「ウォーター」はより深い問題を扱うことができた。そんなことを考えながらも、「レズビアン」という問題は映画で扱われることがあまりに少ないんだと実感せざるを得ない。