羅生門

1950年,日本,88分
監督:黒澤明
原作:芥川龍之介
脚本:黒澤明、橋本忍
撮影:宮川一夫
音楽:早坂文雄
出演:三船敏郎、京マチ子、志村喬、千秋実、森雅之

 崩れかけた羅生門でボーっと雨宿りをする坊さんと百姓の男、そこにもう一人の男がやってきて、「さっぱりわかんねぇ」とばかり言っている百姓から話を聞く。その百姓の話は都に程近い山中で一人の侍の以外を見つけ、3日後にそのことで検非違使庁から呼び出しを受けたことに始まる…
 芥川龍之介の『藪の中』の映画化。大映製作ということもあり、黒澤作品には珍しく女性が重要な役割を果たす。三船敏郎も京マチ子もこの作品で世界的に知られるようになった。

 原作が芥川龍之介ということもあって、力強い余韻が残る。話としては事件の当事者である人たちの話が食い違うというだけの単純な話ではあるのだけれど、すべてが終わったあとでも何か背筋がぞっとするような感じが残る。
 私にはこの作品は黒澤明が自分らしさを殺してとった作品のように見える。そもそも黒澤作品でこの作品のように女性がクローズアップされることはあまりない。主役級といえるのは『わが青春に悔なし』の原節子くらいで、あとは『蜘蛛巣城』の山田五十鈴、『椿三十郎』の入江たか子がいい味を出しているというくらい。
 これは根本的に黒澤の映画が「男」の映画であるということである。男と男の対決や友情が常に物語の軸になっているということで、そこにあるのは至極単純なドラマトゥルギーであって、精神的なもの、つまり人間の心の葛藤とかそういうものをドラマの柱にすえることはあまりない。
 この映画もそういう意味では決して人間の心を主題にしているわけではないく、基本的には男の話なのだが、何かが違う。それは京マチ子が語るエピソードよりも志村喬が語るエピソードの異常さだ。そこには男と男の物語は存在せず、男と女の物語があるだけなのだ。それは黒澤らしからぬことだ。
 そしてこの終わり方。三十郎の捨て台詞「あばよっ」が象徴的に示すように黒澤の映画は大体の場合ばっさりと気持ちよく終わるものだ。しかし、この映画の余韻はすごい。これはいくら黒澤でも芥川龍之介の原作を自分のものとしきれなかったということなのか、東宝争議の影響で菊島隆三や小国英雄を欠いていたためなのかはわからないが、他の黒澤作品らしさがシナリオの段階から感じられないようだ。
 しかし、これはこれでひとつの完成形というか、作品として成立しているところが黒澤のすごさなのだろう。
 もうひとつ、この映画ではカットとカットの切れ目がすべてシンプルにつないである。黒澤は常日頃カットとカットの間が重要だといっており、普段はワイプ(次のカットが前のカットにかぶさる)やフェイド(画面が徐々に暗くなったり徐々に明るくなったりする)やオーバーラップ(二つのカットが重なり合う)を多用するだけに、この作品の単純なつなぎの繰り返しはとても気になる。それがどのような効果を生んでいるのかを分析するのはなかなか難しいが、とりあえず、現在と過去、現実と空想、現世と霊界などの位相とされるものを区別していないということはあるだろう。それを別物と考えるのではなく、すべてをひとつのつながりと考えているからこそ、カットの切れ目で断絶を表すことなくすんなりとつないだということ。そういうことだとは思います。巫女の登場もそのことを示しているし。このあたりがヨーロッパで受けた理由なのかもしれないとも思いました。

 それにしても、この作品の京マチ子はとてもいい。京マチ子この作品は数あれど、今まで見た中では一番いいと思う。三船敏郎と京マチ子は相性がよかったと誰かが書いていた気がするが、二人の競演作はこの作品と翌年にとられた木村圭吾監督の『馬喰一代』しかない。それを見て、その誰かの発言の真偽を問うてみたいが、もしそれが本当なのだとしたら、もっと共演作をとってほしかったところだが、それは仕方のないこと。
 なんだか話があっちゃこっちゃに行ってしまいましたが、京マチ子の話。京マチ子はこのとき26歳、それまでの出演作で目立つものは宇野重吉と共演した木村圭吾監督の『痴人の愛』(1949)くらいなので、この作品が事実上の出世作ということになります。この作品以降日本人離れしたグラマラスな肉体美を武器に大映の看板女優になったわけですから、ここでも黒澤の力はすごいものだと感じさせられます。

七人の侍

1954年,日本,207分
監督:黒澤明
脚本:橋本忍、小国英雄、黒澤明
撮影:中井朝一
音楽:早坂文雄
出演:志村喬、三船敏郎、加東大介、藤原釜足、木村功、千秋実、宮口精二、津島恵子

 時は戦国時代、野武士の来襲に怯える山間の農村、村人たちは知恵を絞り、村の長老の忠告に従って、食事を供するという条件だけで村のために戦ってくれる浪人者を探すことに。そのために4人の百姓が町に出たが、なかなか見つからず仲間割れも起こりそうになったころ、ある村で子供を人質に立てこもった盗人を見事に成敗した侍に出会う。そしてその侍に話を持ちかけると、じっくり考えた末、侍が7人いれば村を守れるだろうといって百姓の頼みを聞き入れ、仲間探しが始まった。
 いわずと知れた日本映画の金字塔。3時間半もの上映時間、型破りのアクション、何をとっても偉大なる作品。三船敏郎よりも志村喬が光っている。1960年に、ハリウッドで『荒野の七人』として西部劇にリメイクされたのもいまさら言うには及ばぬ話。

 この映画の脚本と編集は本当にすばらしい。3時間半という長い時間をどのように配分するか。1時間半や2時間という上映時間になれた観客をどのようにそれだけ長い間引っ張っていくか。その点ではこの映画は本当にすばらしく、まったく飽きるということがない。ヨーロッパでの上映の際にあまりに長すぎるということでカットを余儀なくされたようだが、それは本当におろかなことで、黒澤明の言うとおりこの映画に削ることができる部分はまったくない(休憩はちょっと長いけど)。映画の序盤、村の水車だけに費やした3カットも必要なカットだったと思う。
 全体のバランスからすると、最後の合戦の場面が少々長いような気もする。それよりも7人を集める過程とか、村人たちとともに準備する過程とか、そのほうが面白い。しかしやはり、合戦の場面こそが見せ場で、それがあるからこそそれまでの話が面白いというのも事実。このあたりは個人の好みになるでしょう。おそらく村での場面がダレるという意見のほうが大勢を占めるかと思います。
 この物語の面白さというのは、基本的に「侍-百姓-野武士」という関係性によっている。まったく立場が違うようでいて、実は微妙に重なり合っている3者の戦い。最後に志村喬が言うように、この戦は百姓にとっての勝ち戦であって、侍と野武士にとっては負け戦であった。その3者の(主に侍と百姓の)関係性が刻一刻と変化していくところがこの映画が飽きることなく見られる映画になる最大の要因になっているといえる。
 その関係性の最大の鍵になっているのは、三船敏郎の存在で、三船が馬小屋でぼそりと「思い出すなぁ」というところは、私がこの映画のなかで最も好きなシーンのひとつである。そのシーンをはじめとして、三船演じる菊千代が存在するからこそこの映画が展開していけるということは確かである。

 しかし、その一方で私はこの映画の主人公というのは三船敏郎ではなく志村喬だと思うし、侍たちの関係だけを考えたなら、三船敏郎の存在というのはある種バランスを崩す存在になってしまっていると思う。映画全体として三船敏郎の役割を果たす存在は絶対に必要だった。しかし彼のキャラクターは危ういバランスの上に成り立っているということもいえる。彼が三船敏郎であるがゆえにようやくこなすことができた役、しかし逆に三船敏郎であるがゆえにこのような役になってしまったとも言える。
 つまり、この役はおそらく本来は一人でこなせるような役ではない。侍たちの間に漣をおこし、和ませ、一方で百姓と侍の橋渡しをし、百姓たちの中にもいろいろな種を植え、さらにさまざまな面倒の種にもなる。普通の役者なら2人か3人が役割を分担しなければ演じられないような役、それを一人で演じてしまう三船敏郎はすごい。しかし、同時にそれによってアンバランスも生じている。たとえば、千秋実演じる平八が果たすべき場を和ませる存在としての役割をも菊千代は奪ってしまった。タイトルに七人とある割にはその七人の役割分担がぼんやりとしているのは、このようにして菊千代がその構図を突き崩してしまっているからだろう。

 見方によって変わるであろうこの菊千代=三船の捉え方によってこの映画の評価は大きく変わる。それはこの映画を誰の立場で見るのかという見方にもよる。黒澤はいつものように特定の視点を設けず、第三者の視点からすべてを見通させる。しかし、「七人の」というタイトルの割には群像劇というわけではなく、誰でも好きな侍に、あるいは百姓たちにでも自己を没入させることができるように作っている。それはおそらくこの長時間をずっと客観的に過ごすのは退屈すぎると考えたからかもしれないが、とにかく2時間そこそこの映画とは少し趣が違っている。
 そのようなわけもあって、この映画はさまざまな見方を受け入れる。私は今回どのようにこの映画を見たのか自己分析してみたら、自分でも意外なことに加東大介演じる七郎次に肩入れしてみていたような気がした。多分それは加東大介という役者が好きだからというだけの理由だと思うが、だからなんとなく菊千代にある種の胡散臭さのようなものを感じていたのかもしれない。
 別の誰かに肩入れしてみたなら、菊千代の、そして映画の見方はがらりと変わったのだろうと強く感じました。それが「七人の」という冠にこめられた黒澤の意図のひとつであると私は信じます。そして、いろいろな人に愛される理由であるとも思います。『荒野の七人』とか『宇宙の七人』とか、を見るとその監督が誰に身を置いて見たかがわかるかもしれないとも思います。
 皆さんは自分が誰に身をおいてこの映画を見ましたか?

椿三十郎

1962年,日本,98分
監督:黒澤明
原作:山本周五郎
脚本:菊島隆三、小国英雄、黒澤明
撮影:小泉福造、斎藤孝雄
音楽:佐藤勝
出演:三船敏郎、仲代達矢、加山雄三、志村喬、田中邦衛

 藩内で賄賂が横行していることを発見した若い侍たちが神社の八代で相談をしていた。その相談は侍の一人井坂の叔父である城代家老に相談したところ、うやむやにされたため、大目付の菊井に話を持っていき、協力するといわれたというものだった。そのとき、社の奥から薄汚れた浪人の男が現れ、彼らに意見した。侍たちはその浪人をもちろん信用しなかったが、そのとき男の言ったとおり菊井の軍勢が社にやってきて…
 『用心棒』の三十郎が再び登場し、若侍たちと活躍する痛快時代劇。黒澤明の映画の中ではユーモラスなもので、黒澤ビギナーでも楽しく見ることができる。もちろんそれにとどまらない深みもある作品。伝説的なラストシーンも必見。短いのもいい。

 なんといっても椿三十郎というキャラクターのつくりがすばらしい。黒澤明のテーマのひとつであるといえる「人情」の塊であり、ユーモアがあり、男らしく、かっこいい。このキャラクターを作るには過去がないといけない。もちろん『用心棒』を先に見ていれば、それを過去として認識できるわけだが、見ていなかったとしても、そこにさまざまな過去を暗示する。
 物語の展開はスピーディーで、それも黒澤らしくないという面がある一方で作品としての完成度を増している。「長さ」によって「間」を作り、観客に考えさせるという黒澤のスタイルはここでは鳴りを潜め、モダニズム的なスピード感を作り出す。60年代という時代、「俺だってこれくらいはできるんだ」とでも言いたそうな黒澤明の根性を感じる。
 しかし、この作品の完成度は非常に高い。無駄なカットはまったくない。登場人物にも無駄がなく、そのキャラクターとプロットが非常にうまいバランスをとりながら展開していく。椿三十郎、侍たち、室戸半兵衛、だけではなく、城代家老夫人、押入れの侍など脇役のキャラクターも映画に欠かせない要素となる。侍たちの半分くらいは別にいなくてもかまわないかもしれないけど。
 このように登場人物を無駄なく使うというのは実は非常に難しいことだ。脚本や撮影の段階ではすべてがつながっていても、編集によって余分なものをそぎ落としていくうちに、ただ笑いのためだけにいるキャラクターや、説明的な役割のキャラクターが出てきてしまうものだ。しかし、この映画は100分弱という短い時間にまで削りながらも絶妙のバランスを維持している。

 さて、内容のほうに行きましょう。この映画、なんと言ってもすごいのはラストシーン、このラストシーンは文字通り映画史に残っているわけです。しかし、このラストシーンはただ観客を驚かせるためだけに存在しているわけではない。このラストシーンに至るまでには椿三十郎と室戸半兵衛の間の微妙な関係があるわけです。この二人は出会ったときから互いに非常に意識しあっている。それは三十郎が言うように二人が同じ種類の人間だからであり、室戸半兵衛が言うように二人が組めば無敵だからである。
 特に室戸は三十郎にとことんほれ込む。それがこの映画を転がすのに重要な役割を果たす。三十郎と侍たちは最後の最後に大きなミスをするのですが、映画を見ているとそのミスに気づくのは室戸であると感じる。しかし室戸はそのミスには気づいていないように振舞う。本当に気づいていないのか、それとも気づいていないふりをしているのかは微妙なところだが、おそらく本当は気づいている。しかしそれをおそらく無意識に押し殺してしまっている、のだと思う。
 室戸は三十郎に惚れている。仲代達矢は何だかゲイっぽいので、なおさらそんなことを感じる。明確な同性愛的な意識があるとは思えないけれど、友情や敵意や尊敬といったものを越えた何かが二人の間にあることは確かだ。それによって二人は惹かれあい、そして反発しあう。二人は同じ穴のムジナでありながら、決して同じ方向に進むことはできない。そのように惚れていることで、三十郎たちのミスを見逃し、その思いの強さがラストシーンに現れているのだと思います。

 こういう映画は黒澤ファンには好まれないかもしれない。黒澤らしい重厚さがなく、沈思黙考する間もない。しかし、私はこれが黒澤明の作品の中で(いまのところ)ナンバー1だと思っています。

未知との遭遇

Close Encounters of the Third Kind
1977年,アメリカ,135分
監督:スティーヴン・スピルバーグ
脚本:スティーヴン・スピルバーグ
撮影:ヴィルモス・ジグモンド、ラズロ・コヴァックス
音楽:ジョン・ウィリアムズ
出演:リチャード・ドレイファス、フランソワ・トリュフォー、テリー・ガー、リンダ・ディロン

 砂漠で、なぞの飛行物体が目撃され、そこには第二次大戦中に消息を絶った飛行機が一隊丸ごと新品同様でとまっていた。一方アメリカでは、子供部屋のおもちゃやレコードが動き出し、それを見たバリー少年は何かに誘われるようにして部屋を出て行った。電気工事員のロイは電話で呼び出され、停電を直しに車を走らせる途中、巨大な光る飛行物体を眼にする。そして何かに導かれるように山に行くと、何台ものUFOが道に沿って飛んでいった…
 スピルバーグが『激突』、『ジョーズ』に続いてとった、いわずと知れた名作。制作されたのは『スター・ウォーズ』と同年で、宇宙をスペクタクルとしてとるルーカスとの対比がこのころから明らかである。

 宇宙人が人々の頭にある種の共同幻想を植え付けるという発想はなかなかいい。この映画で一番面白いのは「山」で、「この山はいったい何なんだ」という謎解きが映画の展開に最も重要なものとなっている。これによってただ宇宙人がやってきたというだけの話しを2時間以上も引っ張れるんだと思う。本当は宇宙人がやってくるということ自体よりも、そのことが引き起こす社会的な問題。個人のレベルでおきるいろいろな問題を描きたかったんだと思う。
 しかし、映画としては宇宙人のほうが確実に人類より上である種の神のような存在として描かれているという問題もある。人類は宇宙人にすべてをゆだね、こちらから見れば固体の区別もつかないような宇宙人が人間を選ぶに任せる。これは宇宙人の一種の全能性を信じてしまっているということだ。
 スピルバーグの映画の魅力と欠点はいつもこの「素朴さ」に由来するような気がする。素朴にひとつのことを信じ、それを疑うことなく映画にしてしまう。この映画の場合はユダヤ的な選民思想の一変形という気もしなくはないけれど、それはまあおいておいて、とにかく神的な存在に対する信念というか、絶対的な何かが存在していることを手放しで信じているという節がある。そのあたりがどうも見ていて気持ちが悪いところ。帰ってきた人たちが遺伝子操作とかされていて、地球を何らかの形でコントロールしようとしているのかもしれないとか、時間に対する捕らえ方が違うかもしれないとか、いろいろと疑問がわくのが普通だろうに、特に何かコミュニケーションをとろうとすることもなく、一人の人間を宇宙人に渡してしまう。その素朴さがどうにも気にかかる。
 スピルバーグの「素朴さ」はある種のわかりやすさとなって映画に出現するので、それはそれでいいのだけれど、それが一面的な見方しか見せないために無視されてしまうものがあまりに多い。スピルバーグぐらいの人になると、世界に与える影響も強いだけに、その一面的であることに対して自己言及的に語ろうとしないのは問題であると思う。

 この映画自体は『2001年』の影響が如実に感じられ、しかし10年も前に作られた『2001年』のほうが緻密で美しく、キューブリックの域には達していないわけですが、特撮というか宇宙船なんかをリアルに見せる点ではかなりうまい。SFと現実をうまくミックスして映像化するという点においてはスピルバーグが先駆者であることは間違いない(ルーカスもすごいけど、ルーカスの場合は基本的に非現実/非日常のなかで映像を作っている)。
 ということで、やはりスピルバーグにはメッセージとか、ある種の思想とかではなくて、エンターテインメントを求めるべきだということでしょうか。作られてから25年がたち、名作となってもそこから思想性は出てきません。

トップガン

Top Gun
1986年,アメリカ,110分
監督:トニー・スコット
脚本:ジム・キャッシュ、ジャック・エップス・Jr
撮影:ジェフリー・キンボール
音楽:ハロルド・フォルターメイヤー、ジョルジオ・モロダー
出演:トム・クルーズ、ケリー・マクギリス、ヴァル・キルマー、アンソニー・エドワーズ、メグ・ライアン、ティム・ロビンス

 海軍で戦闘機のパイロットをするマーベリックは国籍不明機を追う。接近するとそれはソ連の戦闘機ミグ28だった。1台にミサイルロックをかけて追い払う。もう一台は、背面飛行でコックピットに近づいた。マーベリックはその事件で自信をなくしたエースパイロットに代わり、相棒のグースとともに、海軍最高のパイロットが集まる「トップガン」に派遣された。
 いわずと知れたトム・クルーズの出世作。他にも、ヴァル・キルマー、メグ・ライアン、ティム・ロビンスといった今はスターとなっている役者たちが出演。監督はリドリー・スコットの弟トニー・スコット。

 久しぶりに見てみると、何の映画なんだこれは? という気になってくる。パイロットだからもちろん軍隊ものなんだけれど、そこにハリウッド映画らしくラブロマンスが加わり、友情も映画のメインプロットになっていく。ということで、商店がどこにあるのか全くもってわからない。どのプロットも中途半端というか、納得する形では結末を迎えない。今から言えばなんとなく80年代の雰囲気とはそういうもので、時代にあっているということはできるかもしれないが、それにしても、何の映画なのか? 冷戦時代にこんなぼけた映画とってていいのか?
 冷戦といえば、実は結構ひどい映画で、最後のミッションに向かう理由が、自国の船が外国に入ってしまったというものなのに、そこで戦闘機で空中戦を繰り広げてしまう。そんなのアリ?
 などなどと、不思議な腑に落ちないことがいっぱいありますが、結局のところこの映画が「いい」のは、飛行機が滑空する空中のアクションシーンと音楽。結構長めに空中アクションが入ることで、それに目が行く。そのシーンはかなりかっこいいので、だまされてしまう。後は音楽。おなじみの音楽たちがいやがおうにも場面を盛り上げるので、プロットとしては対して盛り上がっていないんだけど、盛り上がった気分になってしまう。大画面大音響で、このシーンを見せ、この音楽を聞かせる。それでなんだか「いいな」と思ってしまう。そんなマジカルな映画なのでした。
 それにしても、メグ・ライアンは15年間全く変わっていないというのがすごい。キャラクターはちょっと違うけど、顔かたちはほとんど同じ。トムがずいぶんと違う顔になってしまったのとは対照的。後は、グースがERのグリーン先生だったということに気付きました。髪の毛が…。ティム・ロビンスもちょっとわかりにくいですね。

去年マリエンバートで

L’Annee Derniere a Marienbad
1960年,フランス,94分
監督:アラン・レネ
脚本:アラン・ロブ=グリエ
撮影:サッシャ・ヴィエルニ
音楽:フランシス・セイリグ
出演:デルフィーヌ・セイリグ、ジョルジュ・アルベルタッツィ、サッシャ・ピエトフ

 不思議な庭を持つ豪華なホテル、あるいは邸宅でである男と女。女には夫があり、男は去年女とマリエンバートで会ったと主張する。
 物語を語っても全く無意味な、空間と空想が、あるいは夢が人々を捕らえた様を描く映画。果たしてこの映画で物語られることのひとかけらでも現実でありえるのか。それは夢と呼ぶにはあまりに儚な過ぎ、記憶と呼ぶにはあまりに…
 ノスタルジックであるような、近未来的であるような、カフカ的迷宮であるような、とにかく理解という言葉が無意味に感じられる作品。

 果たして自分は映画を見ているのかということが不安になる。映画が何かを伝えようとするものならば、果たしてこの映画から何が伝わってくるのか。映画を見ながら眠ることが悪いことだとはわたしは思わない。この映画もおそらく、目をらんらんと輝かせ、集中してみても、果たしてどれがどの時間に属し、どれが想像で、どれが空想で、どれが現実で、どれが記憶であるのかははっきりしないだろう。そのことはこの映画のどの瞬間を切り取っても明らかだ。
 たとえば、女がベットに倒れこむ瞬間を4度くらい繰り返すシーンがある。その倒れこみ方はそのそれぞれで異なっている。このそれぞれの所作はいったいなんなのか? 似て非なる瞬間を4つ連続で見せる。着ているものも同じでベットも同じ、異なるのは倒れこむ角度だけ。そのことが伝えるのはやはり記憶や現実や夢や空想のそれぞれのはかなさでしかない。

 現実の不条理さを表す空間を「カフカ的迷宮」と呼ぶことがある。この映画の空間は果たしてカフカ的迷宮なのだろうか? ある意味ではそうだろう。この邸宅にいる人々はおそらくここから抜け出すことはできない。いったんは出て行ったとしても必ずここに戻ってきてしまう。男と女は来年再びここで再会し、同じことを繰り返すのだろう。そのような意味でこの映画も「カフカ的迷宮」であるけれど、その言葉で語ることができるのはこの映画の一部分でしかない。
 そもそもこの映画は「語り」として整合性をもって理解することができない。たとえば序盤でパーティーのように人々が集うシーンがある。カメラは滑らかに移動し、人々を映すが、人々は時折静止し、不意に動き出す。それは画面が静止するのではなく、人間がマネキンのように静止するのだ。果たしてこの「語り」が意味するものはなんなのか。そのような細部(というほど細部ではないが)にまで考えを及ぼしていくと、これは果たして映画であるのか、あるいは映画とはなんなのか、までがわからなくなっていく。
 果たして映画とはなんなのか。

サイコ

Psycho
1960年,アメリカ,109分
監督:アルフレッド・ヒッチコック
原作:ロバート・ブロック
脚本:ジョセフ・ステファノ
撮影:ジョン・L・ラッセル
音楽:バーナード・ハーマン
出演:アンソニー・パーキンス、ジャネット・リー、ジョン・ギャビン、ヴェラ・マイルズ

 フェニックスの不動産会社に勤めるマリアンは、たまに出張で町にやってくるサムと昼休みに逢い引きをし、会社に戻る。そして、売り上げの4万ドルを銀行に預けにいくように言われるが、マリアンは頭痛を口実に、帰りに銀行によるといってその4万ドルを持って会社をあとにした。
 ヒッチコックの代表作のひとつであると同時に、映画史上でも古典的ハリウッド映画からアメリカン・ニューシネマへの移行に際する重要な作品と位置づけられるという作品。
 ヒッチコック自身が上映館に「観客の途中入場を禁ずる」というお達しを出したほどなので、見たことない人は、なるべくこれ以上の予備知識を入れないようにしてとりあえず映画を見ましょう。

 この映画はさすがに、何度も見ていて話も覚えているので、何も知らないつもりで見ることはできませんが、わたしの気分としては、初めて見る場合の事にも触れたい。
 この映画を初めて見ると、おそらくあの衝撃シーンにまさしく衝撃を受けるだろう。それは、シーン自体の主人公であったはずのヒロインが死んでしまうということから来る衝撃だ。当時の古典的ハリウッド映画(乱暴に言ってしまえば、観客の視点を主人公と一致させ、最初から最後まで主人公の視点から物語を語る映画)しか見てこなかった観客と比べると、その事実を受け入れることは容易だけれど、その場面を「え?」という一種の驚きを持ってみることは確かだろう。それこそが映画史的に言って非常に重要なことなのだけれど、映画史のことは別にどうでもいいので、今見た場合を語りましょう。今見ると、結局のところ、後半こそが映画の主題で(だからこそ『サイコ』という題名がついている)前半は後半の謎解きへと観客をいざなうための導入であるような気がする。だから、衝撃的であるはずの殺人シーンがイメージとして流布していても、映画の本質的な部分は失われないということだ。
 ということなので、現在では内容を知っていようと知っていまいと、『サイコ』という作品の見え方にそれほど違いはないということになるだろう。そのように考えた上で、この作品のどこがすごいのか? と考えると、それはどうしても歴史的な意味によってしまう。それは『サイコ』以後、サイコのような作品がたくさん作られ、初めて見るにしろ、何度目かに見るにしろ、サイコ的な要素をほかの映画ですでに見たことがあるからだ。音の使い方。それはまさにサイコがサイコであるゆえん。観客の恐怖心をあおるための音の使い方。それはサスペンス映画あるいはホラー映画の基本。むしろそのサイコ的なオーソドックスな使い方を避けることによって映画が成立する。精神分析的な謎解き、あるいは恐怖の演出、それはまさしく「サイコ・スリラー」というもの。
 つまり、『サイコ』を見ると、映画史を意識せずには入られないということ。それはそれより前のいわゆる古典を見るときよりも、である。まあ、見るときはそんなことを意識せず見て、楽しめばいいのですが、見終わってちょっと振り返ってみると、そんな歴史が頭に上ってしまいます。
 マア、細部に入れば、いろいろとマニアックなコメントもあるのですが、そのあたりはまた次の機会に。

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ

Hedwig and the Angry Inch
2001年,アメリカ,92分
監督:ジョン・キャメロン・ミッチェル
原作:ジョン・キャメロン・ミッチェル、スティーヴン・トラスク
脚本:ジョン・キャメロン・ミッチェル
撮影:フランク・G・デマーコ
音楽:スティーヴン・トラスク
出演:ジョン・キャメロン・ミッチェル、マイケル・ピット、ミリアム・ショア、スティーヴン・トラスク

 ヘドウィグはロックシンガー。今アメリカでドサまわりのようにしてオリジナル曲を歌っている。生まれは東ベルリン、名はハンセル。米国兵の父と東ドイツ人の母の間に生まれ、母の手一つで育てられた。ある日、米兵に見初められ、結婚を申し込まれた彼だったが、その条件は性転換手術を受けること。しかし、手術は失敗し、股間には1インチが残ってしまう…
 オフ・ブロードウェイで大ヒットしたミュージカルの映画化。ミュージカルでも主演・演出のジョン・キャメロン・ミッチェルがそのまま監督・脚本・主演を努める。

それは今まで見た中で最も感動的な喧嘩のシーンだった。エスカレートするヘドウィグの歌に怒りを募らせ、ついに「このオカマ!」とわめいた一人のデブ(あえて差別的に)。そのデブに向かって思い切り、プロレスラーのように跳躍するバンドメンバー。デブのわめき声からデブが倒されるまでの間の絶妙さ。それは一面では笑いではあるけれど、本質的にはヒューマニックな感動を呼ぶシーンなのだ。だからその後のヘドウィグの長い跳躍シーンはなくてもよかった。飛ぶまではとても美しかったけれど。
 それに限らずこの映画は非常に感動的な映画だ。ヘドウィグの歌う「愛の起源」もとても感動的だし(歌に詠われている神話はギリシャの喜劇作家アリストパネスの話としてプラトンが「饗宴」が伝え、ホモセクシュアルにとっては一種の創世神話的な位置づけがなされる有名な神話である。たとえば、フランスの作家ドミニック・フェルナンデスの「ガニュメデスの誘拐」p107)、もちろんラスト近くも感動的だ。この映画のすばらしいところはその感動が常に音楽か笑いに裏打ちされているということだ。恣意的な感動を誘おうというドラマではなく、音楽があり、笑いがあり、それで感動がある。そこにはもちろん人間がいて、人生がある。それは肉体をともなっているという印象であり、それはリアルなものと感じられるということでもある。笑いながら、あるいは体でリズムを取りながら感じる感動はただ言葉を聞き、映像を見て感じるだけの感動とは質の違うものとなるのだ。そこをひとつの戦略と言ってしまえばそれまでだが、ヘドウィグのアングリー・インチがそのような肉体的な感動を可能にするダイナモであることは確かだ。
 音楽が最高なのは言うまでもないかもしれない。ロック、グラムロック、パンク、そのあたりをソフトにたどり、大人が眉をひそめるようなものではなく(いまどきなかなか眉をひそめる大人もあまりいないが、映画の世界ではいまだによくある)、わかりやすく、しかし格好いい。映画のプロットに寄与する歌詞とヘドウィグのビジュアルが映画の中で音楽を浮き立たせていることは確かだ。そのように映画を引き立てる、それは逆に映画によって引き立てられているということでもあるけれど、それは映画音楽として最高のものだと思う。おそらくそれはもともとがミュージカルであったということも関係すると思うけど。

燃えよドラゴン

Enter The Dragon
1973年,香港=アメリカ,103分
監督:ロバート・クローズ
脚本:マイケル・オーリン
撮影:ギルバート・ハッブス
音楽:ラロ・シフリン
出演:ブルース・リー、ジョン・サクソン、ジム・ケリー、シー・キエン

 少林寺でも随一の実力を持つリーは師から少林寺の精神を裏切ったハンの話を聞かされ、アメリカの役人からハンの島への潜入操作を依頼される。さらに、自分の妹が命を落とした真実を聞かされ、ハンの島で開かれる武芸トーナメントに参加することに決めた。
 香港で名声を極めたブルース・リーがアメリカンメジャー初の香港ロケ映画に主演。しかし、公開直前に謎の死を遂げてしまった。映画はブルース・リーの死後、約3分間がカットされて公開。現在はその3分間を入れなおしたディレクターズ・カット版が発売されている。

 ブルース・リーがいなければどうしょうもない映画になっていたでしょう。話の筋もよくわからないし、プロットに必然性があまりにもないわけです。ハンが謎の人物ということですべての不合理が片付けられる。鏡の部屋がなぜあるのかは見当もつかない。そんな映画なわけですが、そのすべてをブルースリーのアクションと、筋肉と、目と、眉間の皺で補って余りある。なんといっても、倒れた相手の内臓に蹴り込むシーンの顔のアップ。うーん、こんなに切なく人を殺せる人は映画史上他にいません。
 監督としては(あるいはブルース・リーが)いろいろなメッセージをこめようとして、おそらく監督のほうは、ウィリアムスとローパーにヴェトナム帰りという背景を持たせ、ウィリアムスと警官のいざこざや、その語りでメッセージをこめようとしているのだけれど、それはあけすけ過ぎて今ひとつ伝わってこない。それよりもブルース・リーが自らの体(たとえばやはりあの顔)で語る哲学のようなもののほうが観客の心に伝わってくるわけです。
 だから、どう振り返ってみてもこれはブルース・リーの映画で、パラマウントのブルース・リーをアメリカ映画に取り込もうという作戦は失敗している。確かにブルース・リーは英語をしゃべっているけれど、それは香港を体現するものでしかなく、アメリカ映画にはならない。むしろアメリカ人たちはお客様で香港人による香港の物語となってしまう。
 つまり、ブルース・リーはかっこいい、他に並ぶもののないアクターだということ。この映画はそれが香港だけではなくて、ハリウッドにも通じるのだということを証明しているのだと思います。ブルース・リーの映画で他に面白いものもありますが、ブルース・リーを評価する上ではこの事実を逃すわけには行かないということでしょう。
 余談を2つ。娘のシャノン・リーは1998年に『エンター・ザ・イーグル』という作品に主演しています。しかし邦題は『燃えよイーグル』ではなくて、原題のまま。『燃えよイーグル』にしたらヒットしたかもしれないのに。
 あとは、最初にブルース・リーと組み手をしているのはどう見てもサモ・ハン・キン・ポー。ちょっとやせていますが、やはり身軽でバック転を軽々としているので確かでしょう。

悪魔のいけにえ

The Texas Chainswa Massacre
1974年,アメリカ,84分
監督:トビー・フーパー
脚本:トビー・フーパー、キム・ヘンケル
撮影:ダニエル・パール
音楽:ウェイン・ベル、トビー・フーパー
出演:マリリン・バーンズ、ガンナー・ハンセン、エド・ニール

 墓から死体が掘り起こされるという事件が相次いだテキサスのある街。フランクリン兄妹とそのともだちは、祖父の墓の安全を確認しつつ、今は廃屋となっている昔住んだ家を訪れようと計画していた。途中、気の狂ったハイカーを乗せ、ガソリンスタンドではガソリンがないといわれ、それでもとりあえず家にたどり着いた…
 実際に起きた事件をもとに、ホラー映画界の伝説的な一本が生まれた。衝撃的な内容と演出はこれ以降のホラー映画に多大な影響を与えた。

 「ホラー映画なんて…」とか「ホラー映画は嫌い」という前に、この映画は見なくてはならない。もちろん怖い、神経に障る、非常にいらだたしい映画。しかし、それは同時にこの映画がすごいということでもある。観客の心理をそれだけ操作する映画。しかも、血飛沫が飛び散ったり、グロテスクなシーンがあったりするわけではない。人が殺されるシーンでも、切られるシーンでも、首が飛んだりすることはない。それにしてこの恐ろしさ。それは緻密に計算された画面の構成、音楽の利用の仕方。惨劇のシーンを直接見せるのではなく、そのシーンを直視したものを映すことによって、その衝撃を伝えるというやり方が、非常に効果的。
 最初の殺人シーンはでは、何かありそうでいながらも、彼らの心情に合わせるかのように淡々と日常を切り取っていく。しかし、最初の殺人、そしてその痙攣(死ぬ人が痙攣するというのは映画史上初だという話もある)の後、カメラも音楽もいかにもホラー映画という調子に変わっていく。そのあたりの転調も見事だし、その変わる部分のシークエンスが最高。ちょっとネタばれになりますが、最初の殺人が起きるシーンには全く音楽が使われておらず、しかもロングショットで起きるというアンチクライマックス。その不意をつく見せ方がすばらしい。
 そして、後半の叫び声。これはかなり神経に来る。これだけ徹底的にやるのは本当にすごいと思う。チェーンソーとか、ハンマーとか、即物的なものに恐怖があると思われがちだけれど、この映画で一番恐ろしいのはこの叫び声だと思う。見ているものの心をつかんで引っ掻き回すような叫び声。このシーンにもう映像はいらないのかもしれない。彼らが何をやっていても、ただひたすら続く叫び声でその恐ろしさがあらわされてしまう。だから彼らが何をやっていてもあまり関係ない。そしてその叫び声がやむ瞬間、映画は新たに展開し、その終わり方もまたすばらしい。なんともいえない終わり方というのでしょうか。すべてが終わったとはわかるけれど、どこかに残る後味の悪さ。という感じです。
 怖いです、とても怖いです。最後まで見られないかもしれません。しかし、それはこの映画が面白いということの証明でもあるのです。現在も映画監督たちはこの映画を見て、その魅力にとりつかれ、引用を繰り返す。それほどまでにすごい映画。なのです。

 逃げ出す瞬間に感じる美しさは、それまでの不安感が一因にある。単純なくらい画面から明るい画面への転換、夜明けの空の美しさだけに還元できない心理的な美しさ。脳に直接突き刺さるかのような叫び声がやんだ瞬間に無意識に生まれる安堵感が、その画を「美しい」と感じさせる一因になっていると思う。
 つまり、この美しさは映画の文脈を離れては味わうことのできない美しさであるということ。しかもその原因がすぐには意識に上ってこないというのも面白い。ただ「美しい」と感じたとき、その原因は画面の美しさにあると感じる。しかし、仮にそのカットだけを見せられたときにそれほどの美しさを感じるかといえば、そんなことは無いように思える。