未知との遭遇

Close Encounters of the Third Kind
1977年,アメリカ,135分
監督:スティーヴン・スピルバーグ
脚本:スティーヴン・スピルバーグ
撮影:ヴィルモス・ジグモンド、ラズロ・コヴァックス
音楽:ジョン・ウィリアムズ
出演:リチャード・ドレイファス、フランソワ・トリュフォー、テリー・ガー、リンダ・ディロン

 砂漠で、なぞの飛行物体が目撃され、そこには第二次大戦中に消息を絶った飛行機が一隊丸ごと新品同様でとまっていた。一方アメリカでは、子供部屋のおもちゃやレコードが動き出し、それを見たバリー少年は何かに誘われるようにして部屋を出て行った。電気工事員のロイは電話で呼び出され、停電を直しに車を走らせる途中、巨大な光る飛行物体を眼にする。そして何かに導かれるように山に行くと、何台ものUFOが道に沿って飛んでいった…
 スピルバーグが『激突』、『ジョーズ』に続いてとった、いわずと知れた名作。制作されたのは『スター・ウォーズ』と同年で、宇宙をスペクタクルとしてとるルーカスとの対比がこのころから明らかである。

 宇宙人が人々の頭にある種の共同幻想を植え付けるという発想はなかなかいい。この映画で一番面白いのは「山」で、「この山はいったい何なんだ」という謎解きが映画の展開に最も重要なものとなっている。これによってただ宇宙人がやってきたというだけの話しを2時間以上も引っ張れるんだと思う。本当は宇宙人がやってくるということ自体よりも、そのことが引き起こす社会的な問題。個人のレベルでおきるいろいろな問題を描きたかったんだと思う。
 しかし、映画としては宇宙人のほうが確実に人類より上である種の神のような存在として描かれているという問題もある。人類は宇宙人にすべてをゆだね、こちらから見れば固体の区別もつかないような宇宙人が人間を選ぶに任せる。これは宇宙人の一種の全能性を信じてしまっているということだ。
 スピルバーグの映画の魅力と欠点はいつもこの「素朴さ」に由来するような気がする。素朴にひとつのことを信じ、それを疑うことなく映画にしてしまう。この映画の場合はユダヤ的な選民思想の一変形という気もしなくはないけれど、それはまあおいておいて、とにかく神的な存在に対する信念というか、絶対的な何かが存在していることを手放しで信じているという節がある。そのあたりがどうも見ていて気持ちが悪いところ。帰ってきた人たちが遺伝子操作とかされていて、地球を何らかの形でコントロールしようとしているのかもしれないとか、時間に対する捕らえ方が違うかもしれないとか、いろいろと疑問がわくのが普通だろうに、特に何かコミュニケーションをとろうとすることもなく、一人の人間を宇宙人に渡してしまう。その素朴さがどうにも気にかかる。
 スピルバーグの「素朴さ」はある種のわかりやすさとなって映画に出現するので、それはそれでいいのだけれど、それが一面的な見方しか見せないために無視されてしまうものがあまりに多い。スピルバーグぐらいの人になると、世界に与える影響も強いだけに、その一面的であることに対して自己言及的に語ろうとしないのは問題であると思う。

 この映画自体は『2001年』の影響が如実に感じられ、しかし10年も前に作られた『2001年』のほうが緻密で美しく、キューブリックの域には達していないわけですが、特撮というか宇宙船なんかをリアルに見せる点ではかなりうまい。SFと現実をうまくミックスして映像化するという点においてはスピルバーグが先駆者であることは間違いない(ルーカスもすごいけど、ルーカスの場合は基本的に非現実/非日常のなかで映像を作っている)。
 ということで、やはりスピルバーグにはメッセージとか、ある種の思想とかではなくて、エンターテインメントを求めるべきだということでしょうか。作られてから25年がたち、名作となってもそこから思想性は出てきません。

トップガン

Top Gun
1986年,アメリカ,110分
監督:トニー・スコット
脚本:ジム・キャッシュ、ジャック・エップス・Jr
撮影:ジェフリー・キンボール
音楽:ハロルド・フォルターメイヤー、ジョルジオ・モロダー
出演:トム・クルーズ、ケリー・マクギリス、ヴァル・キルマー、アンソニー・エドワーズ、メグ・ライアン、ティム・ロビンス

 海軍で戦闘機のパイロットをするマーベリックは国籍不明機を追う。接近するとそれはソ連の戦闘機ミグ28だった。1台にミサイルロックをかけて追い払う。もう一台は、背面飛行でコックピットに近づいた。マーベリックはその事件で自信をなくしたエースパイロットに代わり、相棒のグースとともに、海軍最高のパイロットが集まる「トップガン」に派遣された。
 いわずと知れたトム・クルーズの出世作。他にも、ヴァル・キルマー、メグ・ライアン、ティム・ロビンスといった今はスターとなっている役者たちが出演。監督はリドリー・スコットの弟トニー・スコット。

 久しぶりに見てみると、何の映画なんだこれは? という気になってくる。パイロットだからもちろん軍隊ものなんだけれど、そこにハリウッド映画らしくラブロマンスが加わり、友情も映画のメインプロットになっていく。ということで、商店がどこにあるのか全くもってわからない。どのプロットも中途半端というか、納得する形では結末を迎えない。今から言えばなんとなく80年代の雰囲気とはそういうもので、時代にあっているということはできるかもしれないが、それにしても、何の映画なのか? 冷戦時代にこんなぼけた映画とってていいのか?
 冷戦といえば、実は結構ひどい映画で、最後のミッションに向かう理由が、自国の船が外国に入ってしまったというものなのに、そこで戦闘機で空中戦を繰り広げてしまう。そんなのアリ?
 などなどと、不思議な腑に落ちないことがいっぱいありますが、結局のところこの映画が「いい」のは、飛行機が滑空する空中のアクションシーンと音楽。結構長めに空中アクションが入ることで、それに目が行く。そのシーンはかなりかっこいいので、だまされてしまう。後は音楽。おなじみの音楽たちがいやがおうにも場面を盛り上げるので、プロットとしては対して盛り上がっていないんだけど、盛り上がった気分になってしまう。大画面大音響で、このシーンを見せ、この音楽を聞かせる。それでなんだか「いいな」と思ってしまう。そんなマジカルな映画なのでした。
 それにしても、メグ・ライアンは15年間全く変わっていないというのがすごい。キャラクターはちょっと違うけど、顔かたちはほとんど同じ。トムがずいぶんと違う顔になってしまったのとは対照的。後は、グースがERのグリーン先生だったということに気付きました。髪の毛が…。ティム・ロビンスもちょっとわかりにくいですね。

去年マリエンバートで

L’Annee Derniere a Marienbad
1960年,フランス,94分
監督:アラン・レネ
脚本:アラン・ロブ=グリエ
撮影:サッシャ・ヴィエルニ
音楽:フランシス・セイリグ
出演:デルフィーヌ・セイリグ、ジョルジュ・アルベルタッツィ、サッシャ・ピエトフ

 不思議な庭を持つ豪華なホテル、あるいは邸宅でである男と女。女には夫があり、男は去年女とマリエンバートで会ったと主張する。
 物語を語っても全く無意味な、空間と空想が、あるいは夢が人々を捕らえた様を描く映画。果たしてこの映画で物語られることのひとかけらでも現実でありえるのか。それは夢と呼ぶにはあまりに儚な過ぎ、記憶と呼ぶにはあまりに…
 ノスタルジックであるような、近未来的であるような、カフカ的迷宮であるような、とにかく理解という言葉が無意味に感じられる作品。

 果たして自分は映画を見ているのかということが不安になる。映画が何かを伝えようとするものならば、果たしてこの映画から何が伝わってくるのか。映画を見ながら眠ることが悪いことだとはわたしは思わない。この映画もおそらく、目をらんらんと輝かせ、集中してみても、果たしてどれがどの時間に属し、どれが想像で、どれが空想で、どれが現実で、どれが記憶であるのかははっきりしないだろう。そのことはこの映画のどの瞬間を切り取っても明らかだ。
 たとえば、女がベットに倒れこむ瞬間を4度くらい繰り返すシーンがある。その倒れこみ方はそのそれぞれで異なっている。このそれぞれの所作はいったいなんなのか? 似て非なる瞬間を4つ連続で見せる。着ているものも同じでベットも同じ、異なるのは倒れこむ角度だけ。そのことが伝えるのはやはり記憶や現実や夢や空想のそれぞれのはかなさでしかない。

 現実の不条理さを表す空間を「カフカ的迷宮」と呼ぶことがある。この映画の空間は果たしてカフカ的迷宮なのだろうか? ある意味ではそうだろう。この邸宅にいる人々はおそらくここから抜け出すことはできない。いったんは出て行ったとしても必ずここに戻ってきてしまう。男と女は来年再びここで再会し、同じことを繰り返すのだろう。そのような意味でこの映画も「カフカ的迷宮」であるけれど、その言葉で語ることができるのはこの映画の一部分でしかない。
 そもそもこの映画は「語り」として整合性をもって理解することができない。たとえば序盤でパーティーのように人々が集うシーンがある。カメラは滑らかに移動し、人々を映すが、人々は時折静止し、不意に動き出す。それは画面が静止するのではなく、人間がマネキンのように静止するのだ。果たしてこの「語り」が意味するものはなんなのか。そのような細部(というほど細部ではないが)にまで考えを及ぼしていくと、これは果たして映画であるのか、あるいは映画とはなんなのか、までがわからなくなっていく。
 果たして映画とはなんなのか。

サイコ

Psycho
1960年,アメリカ,109分
監督:アルフレッド・ヒッチコック
原作:ロバート・ブロック
脚本:ジョセフ・ステファノ
撮影:ジョン・L・ラッセル
音楽:バーナード・ハーマン
出演:アンソニー・パーキンス、ジャネット・リー、ジョン・ギャビン、ヴェラ・マイルズ

 フェニックスの不動産会社に勤めるマリアンは、たまに出張で町にやってくるサムと昼休みに逢い引きをし、会社に戻る。そして、売り上げの4万ドルを銀行に預けにいくように言われるが、マリアンは頭痛を口実に、帰りに銀行によるといってその4万ドルを持って会社をあとにした。
 ヒッチコックの代表作のひとつであると同時に、映画史上でも古典的ハリウッド映画からアメリカン・ニューシネマへの移行に際する重要な作品と位置づけられるという作品。
 ヒッチコック自身が上映館に「観客の途中入場を禁ずる」というお達しを出したほどなので、見たことない人は、なるべくこれ以上の予備知識を入れないようにしてとりあえず映画を見ましょう。

 この映画はさすがに、何度も見ていて話も覚えているので、何も知らないつもりで見ることはできませんが、わたしの気分としては、初めて見る場合の事にも触れたい。
 この映画を初めて見ると、おそらくあの衝撃シーンにまさしく衝撃を受けるだろう。それは、シーン自体の主人公であったはずのヒロインが死んでしまうということから来る衝撃だ。当時の古典的ハリウッド映画(乱暴に言ってしまえば、観客の視点を主人公と一致させ、最初から最後まで主人公の視点から物語を語る映画)しか見てこなかった観客と比べると、その事実を受け入れることは容易だけれど、その場面を「え?」という一種の驚きを持ってみることは確かだろう。それこそが映画史的に言って非常に重要なことなのだけれど、映画史のことは別にどうでもいいので、今見た場合を語りましょう。今見ると、結局のところ、後半こそが映画の主題で(だからこそ『サイコ』という題名がついている)前半は後半の謎解きへと観客をいざなうための導入であるような気がする。だから、衝撃的であるはずの殺人シーンがイメージとして流布していても、映画の本質的な部分は失われないということだ。
 ということなので、現在では内容を知っていようと知っていまいと、『サイコ』という作品の見え方にそれほど違いはないということになるだろう。そのように考えた上で、この作品のどこがすごいのか? と考えると、それはどうしても歴史的な意味によってしまう。それは『サイコ』以後、サイコのような作品がたくさん作られ、初めて見るにしろ、何度目かに見るにしろ、サイコ的な要素をほかの映画ですでに見たことがあるからだ。音の使い方。それはまさにサイコがサイコであるゆえん。観客の恐怖心をあおるための音の使い方。それはサスペンス映画あるいはホラー映画の基本。むしろそのサイコ的なオーソドックスな使い方を避けることによって映画が成立する。精神分析的な謎解き、あるいは恐怖の演出、それはまさしく「サイコ・スリラー」というもの。
 つまり、『サイコ』を見ると、映画史を意識せずには入られないということ。それはそれより前のいわゆる古典を見るときよりも、である。まあ、見るときはそんなことを意識せず見て、楽しめばいいのですが、見終わってちょっと振り返ってみると、そんな歴史が頭に上ってしまいます。
 マア、細部に入れば、いろいろとマニアックなコメントもあるのですが、そのあたりはまた次の機会に。

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ

Hedwig and the Angry Inch
2001年,アメリカ,92分
監督:ジョン・キャメロン・ミッチェル
原作:ジョン・キャメロン・ミッチェル、スティーヴン・トラスク
脚本:ジョン・キャメロン・ミッチェル
撮影:フランク・G・デマーコ
音楽:スティーヴン・トラスク
出演:ジョン・キャメロン・ミッチェル、マイケル・ピット、ミリアム・ショア、スティーヴン・トラスク

 ヘドウィグはロックシンガー。今アメリカでドサまわりのようにしてオリジナル曲を歌っている。生まれは東ベルリン、名はハンセル。米国兵の父と東ドイツ人の母の間に生まれ、母の手一つで育てられた。ある日、米兵に見初められ、結婚を申し込まれた彼だったが、その条件は性転換手術を受けること。しかし、手術は失敗し、股間には1インチが残ってしまう…
 オフ・ブロードウェイで大ヒットしたミュージカルの映画化。ミュージカルでも主演・演出のジョン・キャメロン・ミッチェルがそのまま監督・脚本・主演を努める。

それは今まで見た中で最も感動的な喧嘩のシーンだった。エスカレートするヘドウィグの歌に怒りを募らせ、ついに「このオカマ!」とわめいた一人のデブ(あえて差別的に)。そのデブに向かって思い切り、プロレスラーのように跳躍するバンドメンバー。デブのわめき声からデブが倒されるまでの間の絶妙さ。それは一面では笑いではあるけれど、本質的にはヒューマニックな感動を呼ぶシーンなのだ。だからその後のヘドウィグの長い跳躍シーンはなくてもよかった。飛ぶまではとても美しかったけれど。
 それに限らずこの映画は非常に感動的な映画だ。ヘドウィグの歌う「愛の起源」もとても感動的だし(歌に詠われている神話はギリシャの喜劇作家アリストパネスの話としてプラトンが「饗宴」が伝え、ホモセクシュアルにとっては一種の創世神話的な位置づけがなされる有名な神話である。たとえば、フランスの作家ドミニック・フェルナンデスの「ガニュメデスの誘拐」p107)、もちろんラスト近くも感動的だ。この映画のすばらしいところはその感動が常に音楽か笑いに裏打ちされているということだ。恣意的な感動を誘おうというドラマではなく、音楽があり、笑いがあり、それで感動がある。そこにはもちろん人間がいて、人生がある。それは肉体をともなっているという印象であり、それはリアルなものと感じられるということでもある。笑いながら、あるいは体でリズムを取りながら感じる感動はただ言葉を聞き、映像を見て感じるだけの感動とは質の違うものとなるのだ。そこをひとつの戦略と言ってしまえばそれまでだが、ヘドウィグのアングリー・インチがそのような肉体的な感動を可能にするダイナモであることは確かだ。
 音楽が最高なのは言うまでもないかもしれない。ロック、グラムロック、パンク、そのあたりをソフトにたどり、大人が眉をひそめるようなものではなく(いまどきなかなか眉をひそめる大人もあまりいないが、映画の世界ではいまだによくある)、わかりやすく、しかし格好いい。映画のプロットに寄与する歌詞とヘドウィグのビジュアルが映画の中で音楽を浮き立たせていることは確かだ。そのように映画を引き立てる、それは逆に映画によって引き立てられているということでもあるけれど、それは映画音楽として最高のものだと思う。おそらくそれはもともとがミュージカルであったということも関係すると思うけど。

燃えよドラゴン

Enter The Dragon
1973年,香港=アメリカ,103分
監督:ロバート・クローズ
脚本:マイケル・オーリン
撮影:ギルバート・ハッブス
音楽:ラロ・シフリン
出演:ブルース・リー、ジョン・サクソン、ジム・ケリー、シー・キエン

 少林寺でも随一の実力を持つリーは師から少林寺の精神を裏切ったハンの話を聞かされ、アメリカの役人からハンの島への潜入操作を依頼される。さらに、自分の妹が命を落とした真実を聞かされ、ハンの島で開かれる武芸トーナメントに参加することに決めた。
 香港で名声を極めたブルース・リーがアメリカンメジャー初の香港ロケ映画に主演。しかし、公開直前に謎の死を遂げてしまった。映画はブルース・リーの死後、約3分間がカットされて公開。現在はその3分間を入れなおしたディレクターズ・カット版が発売されている。

 ブルース・リーがいなければどうしょうもない映画になっていたでしょう。話の筋もよくわからないし、プロットに必然性があまりにもないわけです。ハンが謎の人物ということですべての不合理が片付けられる。鏡の部屋がなぜあるのかは見当もつかない。そんな映画なわけですが、そのすべてをブルースリーのアクションと、筋肉と、目と、眉間の皺で補って余りある。なんといっても、倒れた相手の内臓に蹴り込むシーンの顔のアップ。うーん、こんなに切なく人を殺せる人は映画史上他にいません。
 監督としては(あるいはブルース・リーが)いろいろなメッセージをこめようとして、おそらく監督のほうは、ウィリアムスとローパーにヴェトナム帰りという背景を持たせ、ウィリアムスと警官のいざこざや、その語りでメッセージをこめようとしているのだけれど、それはあけすけ過ぎて今ひとつ伝わってこない。それよりもブルース・リーが自らの体(たとえばやはりあの顔)で語る哲学のようなもののほうが観客の心に伝わってくるわけです。
 だから、どう振り返ってみてもこれはブルース・リーの映画で、パラマウントのブルース・リーをアメリカ映画に取り込もうという作戦は失敗している。確かにブルース・リーは英語をしゃべっているけれど、それは香港を体現するものでしかなく、アメリカ映画にはならない。むしろアメリカ人たちはお客様で香港人による香港の物語となってしまう。
 つまり、ブルース・リーはかっこいい、他に並ぶもののないアクターだということ。この映画はそれが香港だけではなくて、ハリウッドにも通じるのだということを証明しているのだと思います。ブルース・リーの映画で他に面白いものもありますが、ブルース・リーを評価する上ではこの事実を逃すわけには行かないということでしょう。
 余談を2つ。娘のシャノン・リーは1998年に『エンター・ザ・イーグル』という作品に主演しています。しかし邦題は『燃えよイーグル』ではなくて、原題のまま。『燃えよイーグル』にしたらヒットしたかもしれないのに。
 あとは、最初にブルース・リーと組み手をしているのはどう見てもサモ・ハン・キン・ポー。ちょっとやせていますが、やはり身軽でバック転を軽々としているので確かでしょう。

悪魔のいけにえ

The Texas Chainswa Massacre
1974年,アメリカ,84分
監督:トビー・フーパー
脚本:トビー・フーパー、キム・ヘンケル
撮影:ダニエル・パール
音楽:ウェイン・ベル、トビー・フーパー
出演:マリリン・バーンズ、ガンナー・ハンセン、エド・ニール

 墓から死体が掘り起こされるという事件が相次いだテキサスのある街。フランクリン兄妹とそのともだちは、祖父の墓の安全を確認しつつ、今は廃屋となっている昔住んだ家を訪れようと計画していた。途中、気の狂ったハイカーを乗せ、ガソリンスタンドではガソリンがないといわれ、それでもとりあえず家にたどり着いた…
 実際に起きた事件をもとに、ホラー映画界の伝説的な一本が生まれた。衝撃的な内容と演出はこれ以降のホラー映画に多大な影響を与えた。

 「ホラー映画なんて…」とか「ホラー映画は嫌い」という前に、この映画は見なくてはならない。もちろん怖い、神経に障る、非常にいらだたしい映画。しかし、それは同時にこの映画がすごいということでもある。観客の心理をそれだけ操作する映画。しかも、血飛沫が飛び散ったり、グロテスクなシーンがあったりするわけではない。人が殺されるシーンでも、切られるシーンでも、首が飛んだりすることはない。それにしてこの恐ろしさ。それは緻密に計算された画面の構成、音楽の利用の仕方。惨劇のシーンを直接見せるのではなく、そのシーンを直視したものを映すことによって、その衝撃を伝えるというやり方が、非常に効果的。
 最初の殺人シーンはでは、何かありそうでいながらも、彼らの心情に合わせるかのように淡々と日常を切り取っていく。しかし、最初の殺人、そしてその痙攣(死ぬ人が痙攣するというのは映画史上初だという話もある)の後、カメラも音楽もいかにもホラー映画という調子に変わっていく。そのあたりの転調も見事だし、その変わる部分のシークエンスが最高。ちょっとネタばれになりますが、最初の殺人が起きるシーンには全く音楽が使われておらず、しかもロングショットで起きるというアンチクライマックス。その不意をつく見せ方がすばらしい。
 そして、後半の叫び声。これはかなり神経に来る。これだけ徹底的にやるのは本当にすごいと思う。チェーンソーとか、ハンマーとか、即物的なものに恐怖があると思われがちだけれど、この映画で一番恐ろしいのはこの叫び声だと思う。見ているものの心をつかんで引っ掻き回すような叫び声。このシーンにもう映像はいらないのかもしれない。彼らが何をやっていても、ただひたすら続く叫び声でその恐ろしさがあらわされてしまう。だから彼らが何をやっていてもあまり関係ない。そしてその叫び声がやむ瞬間、映画は新たに展開し、その終わり方もまたすばらしい。なんともいえない終わり方というのでしょうか。すべてが終わったとはわかるけれど、どこかに残る後味の悪さ。という感じです。
 怖いです、とても怖いです。最後まで見られないかもしれません。しかし、それはこの映画が面白いということの証明でもあるのです。現在も映画監督たちはこの映画を見て、その魅力にとりつかれ、引用を繰り返す。それほどまでにすごい映画。なのです。

 逃げ出す瞬間に感じる美しさは、それまでの不安感が一因にある。単純なくらい画面から明るい画面への転換、夜明けの空の美しさだけに還元できない心理的な美しさ。脳に直接突き刺さるかのような叫び声がやんだ瞬間に無意識に生まれる安堵感が、その画を「美しい」と感じさせる一因になっていると思う。
 つまり、この美しさは映画の文脈を離れては味わうことのできない美しさであるということ。しかもその原因がすぐには意識に上ってこないというのも面白い。ただ「美しい」と感じたとき、その原因は画面の美しさにあると感じる。しかし、仮にそのカットだけを見せられたときにそれほどの美しさを感じるかといえば、そんなことは無いように思える。