少林サッカー

少林足球
2001年,香港,112分
監督:チャウ・シンチー、リー・リクチー
脚本:チャウ・シンチー、ツァング・カンチョング
撮影:クウェン・パクヒュエン、クォン・ティンウー
音楽:レイモンド・ウォン
出演:チャウ・シンチー、ン・マンタ、ヴィッキー・チャオ、カレン・モク

 「黄金右脚」といわれる名プレイヤーだったファンはチームメイトのハンが持ちかけた八百長に乗ってしまい、PKをはずして観客に襲われ右脚を折られてしまった。20年後、ファンは変わってスターとなったハンの下で働いていた。 そんなハンが街で少林寺拳法の普及を夢見るシンとである。最初はバカにしていたハンだったが、彼のキックが並々ならぬものであることに気づく…
 香港の喜劇王チャウ・シンチーが監督主演したアクション・コメディ。ワイヤー・アクションはバリバリ、ネタはベタベタ。

 映画は面白ければいい。ということをこれだけあっけらかんと示されると気持ちがいい。いろいろ言えば、いろいろ言える。しかし、あまり何も言わないほうが面白い。と言いつつ言わねばならないのですが。
 さて、なんといっても目につくのはワイヤー・アクションとCGですね。どちらもどうでもいいところに多用されているのがいい。これはまさに過剰なことが笑いを生むものなわけですが、すべてを笑いに持っていこうというベタベタな精神はちょっと残念です。コメディ映画だからしょうがないし、このままでも十分腹がよじれるほど面白いのですが、もしやっている本人たちはいたって真面目ということが画面に現れつつも、その果てしない過剰さで見ている者を笑わせずにはいないというものが作れれば、それはもう内臓が噴出すほど面白いものになったのではと思います。
 こんなことを真面目につらつらと書いていても仕方ないので、楽しい気分で行きましょう。オープニングのアニメーションは正統派でかっこいいのですが、その前のカンパニー・クレジットからしてパロディです。しかも脈略とは全く関係ありません。パロディといえば、この映画はたくさんのパロディが含まれていますね。踊ったり、ドラゴンだったり、いろいろです。キーパーの人はブルース・リーにそっくりですが、ユニフォームがそろったときにキーパーの服を見て誰かが「それ、かっこいいなあ。交換しようぜ」などといっているのもかなりのもの。このブルース・リー関係ではかなりいろいろなネタがあると思うのですが、ブルース・リーファンというわけではないわたしはたくさん見逃している気がします。 チャウ・シンチーさんは拳法とかやっていたんでしょうかね。それとも香港人にしてみるとこれくらいのことは常識なのか。少林拳とか崋山派とか太極拳とかいろいろ出てきます。そのあたりの違いは今ひとつわかりませんが、面白いからいいか。結局全部それ。
 あまり面白さが伝わっていない気がしますね。まあ、でもこの面白さを文章で伝えるのは無理というもの。
 この映画は熱狂的なファンが多く生まれ、DVDなども企画もののボックスなどが発売されました。そこまでマニアではなくてもチェックしたいのが、字幕版と吹き替え版の違い。セリフの長さが違うので、内容が微妙に変わってくるのはどの映画でも同じですが、この映画の場合、字幕版と吹き替え版でギャグがかなり違います。だから両方見れば、ギャグの量は2倍とは言わないまでも1.2倍くらいにはなるのです。さらに、日本版・香港版・インターナショナル版と3バージョンあるらしいので、それも見比べてみるといろいろと発見があるかもしれません。
 字幕と吹替えの間が開いてしまったので、どこが変わったということはわかりませんが、歌なんかはもちろん日本語になっていたりして、山寺宏一さんの吹替えは適度に音痴でなかなかよかったです。歌のシーンのみんなで踊るのは、なんとなく『ブルース・ブラザーズ』のパロディっぽい気がします。踊りもソウルな感じで、それも安っぽいパパイヤ鈴木的ソウルな感じ。このシーンも結構好きです。

 最後に、こらえられないネタひとつ(字幕にも吹替えにも登場)
 「地球は危ない。火星に戻れ」
 ぷぷぷぷぷ

おしゃれ泥棒

How to Steal a Million
1966年,アメリカ,126分
監督:ウィリアム・ワイラー
原作:ジョージ・ブラッドショウ
脚本:ハリー・カーニッツ
撮影:チャールズ・ラング
音楽:ジョニー・ウィリアムズ
出演:オードリー・ヘップバーン、ピーター・オトゥール、ヒュー・グリフィス、シャルル・ボワイエ

 オークションに出品されたセザンヌの名画、実はその持ち主ボネ氏は娘と2人で暮らす屋敷の屋根裏で日々贋作を作り続ける贋作者だった。そんなボネ氏が娘の反対を押し切って先代の作った「ビーナス」の彫像を展覧会に出品することにした。その展覧会が始まった日の夜、ボネ家に泥棒が忍び込む…
 パリを舞台にオードリーの活躍を巨匠ウィリアム・ワイラーが撮ったロマンティック・コメディ。間違いなく名作です。

 やっぱり、オードリーなのですよ。ウィリアム・ワイラーはすごいかもしれません。ジバンシーも素敵かもしれません。でもやっぱりオードリーなのですよ。どんなにすごい人たちでも引き立て役にしてしまうのがきっとオードリーなのですよ。この映画のオードリーはなんといってもサングラスですね。特徴的な大きな目を隠す大きなサングラス、これですね。そのサングラスをはずすと顔の半分くらいもありそうな大きな目。吸い込まれそうな目ですね(なんだか淀川長治のような文体になっていますが、気にしないように)。『昼下がりの情事』の時にはチェロでした。それが今回はサングラス。クレジットにジバンシーの名前が出ていましたが、あのサングラスもやっぱりジバンシーなのでしょう。そのあたりはあまり詳しくありませんが、今も『おしゃれ泥棒』モデルとして売られていることでしょう。それくらい魅力的なオードリーのサングラスでした。
 とはいってもサングラスだけで映画が作れるわけではありません。この映画の作りはかなり周到です。コメディとしてジャンルわけされる映画ですが実際のところ「謎解き」というか「気になる展開」が大きなウェイトを占めています。このダルモットという男は何者なのか、お父さんは捕まってしまうのか、ビーナスはどうなるのかなどなど。このように複数の「謎」があることで映画が展開力を持ちます(「展開力」というのはわたしが勝手に言っている用語ですが、要するに観客に先の展開を気にさせる力のことですね)。このような展開力のある映画は観客に受け入れられやすく、「面白かった」となりやすい。これはいいことですね。
 さて、この映画で一番よかったところといえば、クローゼットの一連のシーンですね。「鍵を動かすとき、角のところはどうしたんだ!」などという細かい疑問はありますが、あの狭い空間を表現するのにほぼ一つのフレームだけを使い、その固定されたフレームで十分なドラマを描く。それはかなりいいです。時間とともに変わっていく2人の間の緊張感と距離感がとてもよい。あの場面をもっとじっくり撮ってもよかったんじゃないかと思ってしまいます。
 そういえばひとつ不思議に思ったのは、オードリーの作品にヨーロッパが舞台のものが多いのは何故か?ということです。オードリーは(確か)ヨーロッパ系なので、それが理由といってしまってもいいのですが、何かそこに当時のアメリカ人のヨーロッパに対するイメージのようなものが見えてくるのかもしれないとも思いました。アメリカ人にとってオードリーとはある種のヨーロッパの鏡像であるというと大げさですが、アメリカ人にしてみると、オードリーはなんだかヨーロッパな香りなのでしょうかね?

市民ケーン

Citizen Kane
1941年,アメリカ,120分
監督:オーソン・ウェルズ
脚本:ハーマン・J・マンキウィッツ、オーソン・ウェルズ
撮影:グレッグ・トーランド
音楽:バーナード・ハーマン
出演:オーソン・ウェルズ、ジョセフ・コットン、エヴェレット・スローン

 フロリダに建てられた他に類を見ない豪邸ヴァロワ邸。そこで孤独のうちに死んだ元新聞王のチャールズ・F・ケーン。彼が臨終の際に残した「ローズバッド」という言葉。その言葉の謎を解こうと新聞社は生前の彼を知っていた人たちを訪ねてまわる。そこから経ち現れた新聞王の姿とは…
 斬新な手法とスキャンダラスな制作背景が話題を呼び、オーソン・ウェルズの名を不動のものとした作品。そのドラマと手法のすばらしさから現在でも名作の一つに数えられる。

 まずは、ドラマを見てみましょう。最初の長いニュース映画のプロローグ。この長さが尋常ではないことは確かです。そしてこのニュース映画が謎解きの大きなヒントにもなっている。「ソリ」というのが頭にインプットされてしまってみると、その複線のおき方はかなりあからさまです。そして始まる「ローズバッド」の謎解き。その謎解き自体はいわゆるサスペンス映画とか、推理もののようにはらはらするものではありません。しかし面白いのは、それぞれの証言者の語り口と再現ドラマ。オペラハウスの場面が全く同じ編集で2度繰り返されるというのもなかなか面白かった。
 さて、ドラマ自体はそれほどことさらに傑作というものではない。つくりは斬新だけれど、今見てもはらはらどきどきというほどに洗練されているわけではない。ということは、この映画が名作とされるゆえんはやはりその手法にあるのか?ということになります。
 一番よく言われるのは「パンフォーカス」。これはつまり、手前にある被写体と奥にある被写体の両方にピントがあっている状態で、奥行きのある画面でも、手前のものと奥のものの両方がくっきりと見えるということ。マニュアルのカメラなどを持っている人はわかると思いますが、そのためには絞りをゆるくする必要があるわけで、それはつまり光量がかなりないといけないということ。それはつまり、スタジオで撮る場合膨大な証明が必要となるということです。
 そんな技術的な話はさておいて、画面上でそのパンフォーカスがどのような効果を生むかというと、想像に難くないことすが、手前と奥で同時に2つの出来事を展開することができるということです。 ビデオカメラではかなり簡単にできてしまうので、テレビを見慣れてしまったわれわれには特に目新しいものでもなく、この映画を見ていても気づかずにすっと通り過ぎてしまうことが多いかと思います。
 このパンフォーカスにしても、激しい仰角のアングルにしろ、いろいろ言われていることもあって、それほど驚きはないものの、それが以外に自然に映画の中に取り込まれていることがすごい。斬新な手法を(実際はそれほど斬新でもないのですが)斬新なものとしてではなく、映画を作る一つのピースに過ぎないものとして扱うところにこの映画のスケールの大きさを感じました。それはつまり、ドラマと手法が分かちがたいものとしてひとつになっているということ。だから、そのそれぞれはことさらに傑作というものではなくても、それがあいまってすばらしいものになるということ。

赤線地帯

1956年,日本,86分
監督:溝口健二
原作:芝木好子
脚本:成沢昌茂
撮影:宮川一夫
音楽:黛敏郎
出演:京マチ子、若尾文子、木暮実千代、三益愛子、沢村貞子

 売春防止法が制定されるか否かという時期の吉原。その売春宿の一軒「夢の里」で働く売春婦たちの生活を描いた群像劇、店一番の売れっ子、結核の夫と子供を抱え通いで働く女、子供を養うために働く女、などなどそれぞれの物語が語られる。
 若尾文子、京マチ子など豪華な女優人に加えて、カメラは宮川一夫。助監督には増村保造というそうそうたる面々をそろえた作品。

 物語のほとんどを占めるのは売春婦たちの単純な生活。それぞれにドラマがあるけれど、行き着く先がわからないまま流れていく物語。それは行き着く先を思い描けない売春婦たちの人生と呼応するものだろう。ただその日その日の一喜一憂だけがそこには存在しているように見える。
 それをしっかりとらえるのはいつものように見事な宮川一夫のカメラだが、この作品では必ずしもどっしりと構えているわけではない。いつもの固定、ローアングルのショットは見事で、物語の前半ではカメラもそのようにどっしりと構えている。しかし物語が動いてくるにつれ、カメラも動いたり、俯瞰で撮ったりと自由になる。
 物語とカメラの両方が劇的に動き出すのは、映画もかなり終盤に入ったあたりで、そこまではなんとなくまとまりのないばらばらの物語の集合という印象だったものが急激にまとまってくる。それはおそらく最後の10分とか15分くらいのものだけれど、そのあたりは本当に食い入るように画面に見入ってしまう。これは今言ったカメラもさることながら、溝口のそこへの話のもっていき方に尽きるのだろう。ただ淡々と過ごしているように見えていた売春婦たちが、そこにかかえていたさまざまなもの。それが怒涛のように噴出してくるその最後の10分か15分は本当にすごい。しかもその怒涛のように噴出す、一人の人間にとって重要なはずのことごともそれまでの日常生活と同じように描いてしまうのが溝口だ。溝口は数々の事件もそれまでの日常生活と同じ淡白さで捕らえ、彼女たちの感情の噴出をことさらに表現しようとはしない。彼女たちの心に呼応するように動くのは宮川のカメラだけだ。そしてそのカメラも激しい彼女たちに擦り寄るのではなく、逆に遠ざかることによって表現しようとする。
 その控えめな描き方がまさに溝口らしさといえるだろう。廊下で倒れた若尾文子の顔を映すことなく、すっと画面転換してしまう。それがまさに溝口健二というものなのかもしれない。

欲望

Blow-up
1966年,イタリア,111分
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
原作:フリオ・コルタサル
脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ、トニーノ・グエッラ、エドワード・ボンド
撮影:カルロ・ディ・パルマ
音楽:ハービー・ハンコック
出演:デヴィッド・ヘミングス、ヴァネッサ・レッドグレーヴ、サラ・マイルズ、ジェーン・バーキン

 大勢の若者が白塗りの顔で車に乗って騒いでいる、簡易宿泊所(?)から無言で人々が帰ってゆく。そんな映像とハービー・ハンコックの音楽で始まるこの映画の主人公はカメラマンのトーマス。売れっ子カメラマンらしくわがまま放題に行動するトーマスはまた撮影の途中でスタジオを抜け出す。公園へとやってきた彼は、カップルのいる風景を写真に撮るが…
 アントニオーニの後期の代表作のひとつ。カンヌではパルムドールを受賞。

かなり理解しがたい物語であるが、それは登場人物たちの関係性やトーマスの行動原理がまったく見えてこないことにある。スタジオの程近くの家に住む美女はいったい誰なのか? なぜ料理を注文しておいて車で去ってしまうのか?
 この映画の原作者のフリオ・コルタサルはラテンアメリカの多くの作家と同様に幻想的な作品を多く書いている作家である。
 そんなことも考えながら映画を反芻していると、なんとなくいろいろなことがわかってくる。現実と非現実を区別するならば、誰が現実の存在で誰が非現実の存在なのかということ。トーマスがエージェントらしい男に見せる老人たちの写真。映画に写真として現れるのは、この老人たちの写真と公園の写真だけである。映画の冒頭で簡易宿泊所(?)から出てきたトーマスがおそらくそこで撮ったのであろう写真。トーマスの行動は若者が夢想する典型的な自由であるように思える。
 すべてが幻想であり、虚構であると考えることは容易だ。しかしこの映画がそんな単純な「夢」物語なのだとしたら、ちっとも面白くないと思う。何でもありうる「夢」の世界で起こる事々を単純な仕組みで描いただけであるならば、ありがちな映画に過ぎない。この映画の優れている点はこれが「夢」物語であるとしても、少なくともある程度は「夢」物語ではあるわけだが、誰の「夢」であるのかがはっきりとしないことだ。いくつもの解釈の可能性があり、どれが正解であるとは決まらない。単純な「夢」の物語と考えず、その現実とのつながり方を考え、いくつもの可能性を考えたほうが面白い。
 少なくとも一部は「夢」であると考えられるのにこの映画は「リアル」である。トーマスが一人になる場面がいくつかあるが、そこで彼は完全に無言である。不要な独り言やモノローグは存在しない。大仰な身振りも存在しない。トーマスを見つめるカメラの目が彼の行動を解釈しているに過ぎない。

風の谷のナウシカ

1984年,日本,116分
監督:宮崎駿
原作:宮崎駿
脚本:宮崎駿
音楽:久石譲
作画:小松原一男
出演:島本須美、納谷悟朗、永井一郎

 「火の七日間」と呼ばれる文明滅亡のときからから1000年、地球は猛毒の瘴気を放ち、巨大な昆虫が飛び交う「腐海」と呼ばれる森林で覆われていた。海からの風によって腐海の毒から守られている風の谷、平和に暮らすその谷に虫に襲われた軍事国家トルメキアの船が墜落する…
 文明と自然の関係性を問題化しながら、映画としては一人のヒロインをめぐる娯楽作品に仕上げるところがさすが宮崎アニメ。

 今改めてみると、気づくことがいくつかあります。ひとつはこの世界のモデルがコロンブス以前の中南米であるということ。マヤやアステカといった文明をモデルとした神話的な世界でしょう。トルメキアの旗に双頭の蛇が使われているのも、蛇を神格化していたインカの影響が感じられます。山際に立つ石造りの建物などもそう。イメージとしてはマチュピチュでしょうかね。
 もうひとつは「顔」です。風の谷の人々は常に顔があり、表情があるのに対して、トルメキアの兵士たちはほんの一部を除いてほとんど顔が見えない。顔を奪われるということは個性を奪われるということであり、人間性を奪われるということだと思います。つまり、トルメキアの人たちの顔を描かないことによって、彼らは非人間的な印象を持つということ。これに対して虫たちには顔がある。トルメキアの兵士たちより、むしろ虫のほうが人間性を持っているとあらかじめ宣言するようなこの構造が宮崎駿の演出のうまさなのかなとも思います。
 あとはキャラクターのデザインの秀逸さでしょうか。特に虫のデザインは本当にすばらしい。もともとSF出身だけにそのあたりは細かいのでしょう。さらに作画監督が「銀河鉄道999」などので知られる小松原一男だというのも大きいかもしれません。
 というところでしょうか。内容に関しては小学校の教科書に載せてもいいようなものなので、特にコメントはいたしません。むしろこの映画を教科書の一部にするべきだと思うくらい。

<日本名画図鑑でのレビュー>

 まず、なぜ『ナウシカ』なのか。『トトロ』や『千尋』ではなく『ナウシカ』なのか、『AKIRA』ではなく『ナウシカ』なのか、である。
 それはこの作品がアニメを“漫画映画”から“アニメーション”に、つまり後に“ジャパニメーション”と呼ばれる新たなメディアへと変化させた記念碑的作品だからである。大人、子供を問わず観客を引き込む物語の面白さとダイナミックな映像というハリウッドにも比肩するスペクタクルの出発点がここにあるからなのだ。宮崎駿という作家の出発点はもちろんこれ以前にあった。しかし、ひとつの映画としてひとつの完成された世界を提供したのはこれが最初だったのである。
だからこの作品は日本の映画史、というよりは世界の映画史に残る名作であるわけだが、そのことをわざわざここで断らなければならないところに若干の歯がゆさはある。

 さて、前口上はそれくらいにして、映画の内容に入るが、この映画は基本的な形としては「人類滅亡後の世界」というSFの基本的な形を踏襲している。しかし、滅亡といい切れないほどの多くの人々が生き残っているし、文明も残っている。しかし、それは滅亡の日=“火の七日間”から千年もの月日が流れたからかもしれない。つまり、滅亡の危機に瀕した人類はいったん原初の生活に戻り、千年かけてこの映画の段階まで取り戻してきたのだというように考えるのが自然なのではないか。
 まあしかし、それはたいした問題ではない。そのような前提はあくまでもひとつの世界観を構築する土台になっているというだけで、そこを突き詰めて行っても特にえられるものはないだろう。
 それでも、この千年というときには意味があるのだと思う。この千年という時の隔たりがあるからこそ新たな神話が生まれ、それが神話化したことについて説得力を持つ。そして神話が説得力を持つからこそ、この物語にも説得力が生まれるのだ。神話の実現、それはつまり神の到来であって、決定的な救済の徴だ。この映画がそのような神話の実現をめぐる物語であるからには、そのようにして神話を産む前提となる歴史を作り上げる必要があったのだ。
 そしてさらにこの映画は、その神話の説得力を高めるために、語られはしなくともより精密な神話を用意しているように思われる。それは、タイトルクレジットのぶぶんで絵巻物のように神話が語られている部分からもわかる。そして、それを見る限りではその神話というのはマヤやアステカといったアメリカ大陸の旧文明をモデルとしているのではないかと思う。それはトルメキアの旗に双頭の蛇が使われているのも、蛇を神格化していたインカの影響が感じられるし、山際に立つ石造りの建物なども伝説的な都市国家であるマチュピチュを髣髴とさせる。そのような現実的なモデルを使って精密な神話的世界を作ること、それが実は非常に重要だったのではないかと思う。
 そのような強固な前提が存在しなければ、すべてが空想から成り立っているSFの世界は成立し得ない。そういう意味からいえば、この作品は純粋なSFとしてみても、非常に優れた作品だということになる。

 そして、その神話化はさらに進み、ある意味ではこの物語時代が神話化されているともいえる。この映画は現在から見れば未来を舞台にしたSFであり、映画の時間軸から観ればリアルタイムの物語である(つまり昔話などではない)。にもかかわらず、この映画は全体的に神話くさい。それはおそらく、この物語が神話の構図(つまりは原物語なもの)にピタリとはまるということだろう。
 それが端的に現れるのは、この物語の善悪二分論とそれと矛盾する形でその対立項から逃れる人間の存在である。善悪二分論の部分は非常に明確だ。善の側の極にいるのはナウシカであり、悪の側の極にいるのは巨神兵である。そして風の谷に人々は善であり、トルメキアは悪である。
 そのことは物語を知らなくても、その画面を一瞬見ればわかる。それは、風の谷の人々には全員に顔があるのに対して、トルメキアの人々には顔がない。顔があるのは姫と参謀ともうひとりだけで、その他の兵士たちは常に仮面を下ろしていて顔がないのだ。顔がないということはつまり個人ではなく、したがって人間ではないのだ。ならば彼らはいやおうなく“悪”とみなされざるをえない。
 さらにいうならば、虫には顔がある。つまり虫たちはトルメキアの兵士たちよりも善の側に近い。宮崎駿はこのことをまったく説明せずに、画面だけで感覚的にわからせてしまう。感覚的にわかるということは映画を言葉で理解するということではなく、体のどこかで感じるということにつながるのだ。このあたりが宮崎駿の演出の巧妙さであり、彼の作品がハリウッド映画に比肩するスペクタクルになる得る要因であるのだと思う。

 そしてそれを実現するもとにはキャラクターデザインの秀逸さがあった。宮崎駿や高畑勲はまだ若手と言っていい新進気鋭のクリエーターだったのに対し、作画監督の小松原一男はすでに松本零士作品などで定評を得ている「名前のある」クリエーターだった。当時のアニメファンにしてみれば「コナン」の宮崎と「ハーロック」の小松原、このふたりの組み合わせでどんな世界が描き出されるのか、にわくわくしたことだろう。
 そして、それは見事に結実し、すべてのキャラクターが見事にその世界をきっちりと構成する空間が出来上がった。人も、虫も、乗り物も、そして人々の世界観も、すべてがパズルのピースのようにピタリとはまったのである。
 私がどうしてもこのナウシカを宮崎作品のベスト1に上げる理由はここにある。確かに物語の質などを考えると、いい作品はたくさんあるのだが、小松原一男を失ってしまった宮崎駿はどこかノスタルジーに傾きすぎてしまう傾向があるように思われる。小松原一男はその世界観をSFのほうに、つまり未来のほうに引っ張っていこうとしたが、宮崎駿は過去のほうへと引っ張っていこうとするのだ。
 そのノスタルジーを使うやり方のほうが、今の時流にはあっている(つまりスペクタクルとして観客をひきつけることが出来る)のだとは思うが、それはやさしすぎるというか、わかりやすすぎるというか、単純すぎると思うのだ。過去というすでに整理された時間から現代への教訓を見つけるということは言ってしまえば簡単なことなのだ。歴史を忘却から引き戻すこと、それももちろん大切だが、日本のアニメというものは手塚治虫以来ずっと未来を見つめ続けてきたのではないかと思うのだ。宮崎駿にももう一度、未来に目を向けて欲しいと思う。

 そしてこの映画は、未来に目を向けているがゆえに、そこから現代へと跳ね返ってくる課題も浮き彫りにしている。それは、憎しみの連鎖、あるいは恐怖の連鎖である。いま世界を襲っている未曾有の悲劇の根幹にあるのは恐怖の連鎖/憎しみの連鎖である。恐怖からその恐怖のもとと目される他者を攻撃し、そこに憎しみと恐怖が生まれ、逆向きの攻撃がなされる。その際限ない連鎖が現在の(アメリカからいえば)「アメリカ対テロ」という構図を生み出した。アメリカが恐怖に縁取られた国だということはマイケル・ムーアが盛んに言っているけれど、アメリカに限らず人間は恐怖に弱いのである。
 この映画はそのことを見事に描き出す。恐怖におびえた人々は次々と武器を強力にしてゆき、人間の力の及ばないものまで持ち出してしまう。ナウシカはそれを収める超人的な存在として現れてくるが、そのカリスマの力もどれくらい続くのだろうか…

さすらい

Il Grido
1957年,イタリア,102分
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ、エリオ・バルトリーニ、エンニオ・デ・コンチーニ
撮影:ジャンニ・ディ・ヴェナンツィオ
音楽:ジョヴァンニ・フスコ
出演:スティーヴ・コクラン、アリダ・ヴァリ、ドリアン・グレイ

 イタリアで暮らすイルマのもとに夫が死んだという知らせが届く。イルマはアルドとアルドとの間の娘ロジナと3人で暮らしていた。夫の死を機にアルドは結婚しようというが、イルマは別の男性に心惹かれており、アルドに別れを告げ、家を出てしまう…
 イタリアの巨匠アントニオーニの初期の名作のひとつ。淡々と進む物語と鋭く洗練された映像はまさにアントニオーニらしい。

 アントニオーニの物語は決してまとまらない。この映画もぶつりと切れて終わる断片が時間軸にそって並んでいるだけで、それが一つの物語として完結しはしない。そしてそれぞれの断片も何かが解決するわけではない。その独特のリズムには、ある種の不安感/いらだちを覚えるものの、同時にある種の心地よさも覚える。この物語に反抗するかのような姿勢が1950年代(つまりヌーヴェルヴァーグ以前)に顕れていたというのは、映画史的にいえばイタリアのネオリアリスモがヌーヴェルヴァーグと並んで重要であるということの証明なのだろうけれど、純粋に映画を見るならばそんな名称などはどうでもよく、ここにもいわゆる現在の映画の起源があったことを喜びとともに発見するのみだ。アントニオーニはやっぱりすごいな。
 さて、この映画でもうひとつ気になったのは「水辺」ということ。アルドが出かける土地はどこも水辺の土地で、必ず水辺の風景が登場する。これが物語に関係したりはもちろんしないのだけれど、それだけ反復されるとそこになんらかの「意味」を読み取ろうとしてしまう。本来はアルドがあてもなくさすらってたどり着いたという共通点しかないはずの土地土地が「水辺」という全く別の要素で結びついていることの意味。それはやはりアルドの心理的な何かと結びついているのだろうか? 分かれる直前にイルマがじっとみつめていた水面に映っていた何かを求めて水辺にたどり着いてしまうのだろうか? 映画はそんな疑問も解決することなくぶつりと終わる。それはまるでその「意味」を語ることを拒否しているように見える。
 反「物語」そして反「意味」。すべてに反抗することこそがアントニオーニの映画だということなのだろうか?

ハッシュ!

2001年,日本,135分
監督:橋口亮輔
脚本:橋口亮輔
撮影:上野彰吾
音楽:ボビー・マクファーリン
出演:田辺誠一、高橋和也、片岡礼子、秋野暢子、富士真奈美、光石研

 直也はペットショップで働きながら気ままなゲイライフ送っていた。ゲイであることを隠しながら研究所で船の研究をする勝裕は、思いを寄せていた同僚が結婚してしまったことにショックを受ける。歯科技工士の朝子は自分の殻にこもり、周囲との関係をたって孤独な生活を送っていた。付き合い始めた直也と勝裕がふとしたことで朝子に出会ったことである物語が始まる…
 橋口亮輔が「渚のシンドバット」以来久々に監督した作品。自身もゲイである監督は今回もゲイの世界を描いた。今回はコメディ的な要素を強め、明るく楽しく見ることができる。

 これは完全にコメディなんですよ。ゲイ・ムーヴィーというとなんだか思想的なものがこめてあるという印象ですが、面白いゲイ・ムーヴィーというのはたいていコメディ。だからとにかく笑えばいい。かなり人間関係のドラマを濃厚に描いてるけれど、それも結局は笑いにもっていく。
 もちろん、ゲイであることを隠す勝裕(すべてはここからはじまる)という問題もあるし、ゲイに対する誤解(たとえば富士真奈美)という問題も提起されてはいるけれど、それはあくまでそのことに今まで気付かなかった人達が気付けばいいという程度のもの。そこにことさら何か主張が込められているわけではないと思います。
 どこが面白かったかといえば、「うずまさ」かな。一番は。ゲイとは関係ないけれど。でもこういうゲイとは関係ないネタも含まれているからこそこれはあくまでコメディだと言い切れるという面もあります。
 私がここまでコメディであることを力説するのは、ゲイ映画が(特にメディアによって)何か特別のもののように扱われ、そこで投げかけられている問題意識のようなものを取り上げてしまう。もちろんそれは意義のあることではあるけれど、逆にゲイ映画というものを特別なものとしてしまい、客足を遠のかせてしまう。そんな気がしてしまいます。コメディ映画としてみてきた人が「ああ、これってゲイの映画なんだね」と思うくらいがいいと思う。
 私はゲイの人たちのクリエイティビティというものを非常に買っているので、そのようにして彼らの活躍の場が広がることはとても喜ばしいことだと思うのです。この映画はゲイカルチャーはゲイだけのものであるというような考え方を打ち崩すきっかけになりそうな勢いを持っています。
 あるいは、ゲイ映画ではない。ゲイというカテゴライズを越えたすべての人間が持つ「孤独」という問題、それを描いた映画だということもできる。

 さて、「ゲイ映画」というジャンルわけをいったん無視して、この映画を見つめなおして見ます。この映画でもっともすばらしいのはその自然さ、それはつまりリアルさ。細部まで行き届いた現実感。自然な台詞回しは最近流行の役者のアドリブを取り入れようという方法かと思いきや、ほぼすべて台本通りリハーサルにリハーサルを重ねて作り上げたものだそうです。そう考えると、この映画の緊迫感や生々しさは非常に驚異的なものかもしれません。役者の身にせりふが染み込んでいる感じがする。小物なども注意が行き届いている。直也と勝裕が一緒に住む部屋のファーストカットで直也と直也の部屋にあった緑のチェックのクッションが映る。これが(今までの)直也の部屋でないことは明らかなので、くどくど説明しなくてもこの1カットだけで引っ越して二人ですんでいるということがわかる。このあたりは秀逸。
 さて、今回気づいたことは勝裕が直也の着ていた服を着ているということ。太陽みたいな柄のTシャツや、シャツなんかを共有しているのかお下がりで着ているのかはわかりませんが、とにかく直也が勝裕のダサさを克服しようと着せていると思われます。そのあたりの細かい設定も現実感を増しているのでしょう。
 後は、シーンからシーンのジャンプ。シーンの終わりが唐突で、いきなり次のシーンに飛ぶ。一瞬の黒画面やフェードアウトが入ることはあっても、かなり唐突な感があります。これは上映時間の都合上カットしたということもあるようですが、基本的には橋口監督のスタイルということですね。映画がテンポアップするとともに勝裕が風呂場で口を真っ青にするところのようなシーンの面白いつながり方をも生み出しています。

 これは余談ですが、誰もが心に引っかかる「怒るといつもアイス食べるじゃん」のアイスクリームはハーゲンダッツのバニラアイスクリームですが、橋口監督曰く、それは「世界で一番おいしい食べ物」だそうです。それはステキ。

アモーレス・ペロス

Amores Perros
1999年,メキシコ,153分
監督:アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ
脚本:ギジェルモ・アリアガ・ホルダン
撮影:ロドリゴ・ブリエト
音楽:グスターボ・サンタオラヤ
出演:エミリオ・エチェバリア、ガエル・ガルシア・ベルナル、ゴヤ・トレド、バネッサ・バウチェ

 メキシコのスラムで母と兄と兄嫁と暮らすオクタビオは兄の兄嫁に対する暴力に腹を立てていた。そんなオクタビオの犬コフィが闘犬で稼ぐチンピラ・ハロチョの犬を噛み殺してしまった。それに重なるように挿入される犬を連れた老人による殺人は後に続く断章へのプロローグ。
 重なり合う3つの断章からなる作品。血と暴力にあふれているが、そこにあるのはメキシコシティという都市に住む人々のなまの人生であるのだろう。

 最初の断章がすごくいい。何者かに追われ、怪我をした犬を連れてくるまで逃げ回るという1つの場面から始まり、そこに至るまでを過去の時点から描きなおすという技法事態は新しいものではないが、観客の興味をひきつけるひとつの方法としては非常に効果的である。
 そして、そのシーンの映像がエネルギッシュであればなおさらである。手持ちカメラのクローズアップで展開されるスピード感が観客の期待をあおる。そしてその期待は、殺された男から流れた血が鉄板で煮えたぎり、血に飢えた闘犬が相手の犬の血を口から滴らせるのにあおられる。
 そんなシーンの連続に興奮させられたわれわれは闘犬のよう血を求め、血なまぐさいシーンが続くのを期待する。あるいは目をそむける。最初の断章はあくまでも暴力的で血なまぐさく進む。
 この血なまぐささは2つ目の断章でやわらげられるが、これは絡み合う断章のひとつというよりは、1つめから3つめに続く物語から派生したひとつの余話であるだろう。しかしもちろん共通する要素もある。ひとつは題名からも分かる犬であり、愛である。そして、この断章が加わることによって見えてくることもある。それはメキシコあるいはメキシコシティの全体像である。この3つの断章が存在することによってメキシコシティという町の多様性が見えてくる。そして、違う世界に住んでいる人であってもどこかで関わりあわざるを得ないとうことが。
 この映画で描かれるメキシコシティは「男」だと思う。それはラテン・アメリカに付き纏うイメージである「マチョ」でもある。最初の2つの断章に登場する男達は皆怒りっぽく、攻撃的だ。やさしそうに見えたオクタビオもダニエルも最後にはその攻撃的な正確をあらわにする。それに対してスサナとバレリアの2人が閉じ込められた存在であるというのは象徴的だ。女を支配しようとする男、そんな構図があからさまに浮かび上がってくる。そんな中ひとり異なった相貌を見せるエル・チーボ。私は彼をそのマチスモをひとつ乗り越えた存在と見る。女性を支配しようということをやめ、それよりも自分を支配することを目指す。かれもまた攻撃的な正確をあらわにするが、その攻撃は男にしか向けられない。マチスモを発揮して革命へ身を投じた彼がそこから戻ってきてマチスモを乗り越えた。そのように見える。しかし彼の娘への過剰な愛はまた別のマチスモを象徴しているのではないかという気もしないでもない。

天井桟敷の人々

Les Enfants du Paradis
1945年,フランス,195分
監督:マルセル・カルネ
脚本:ジャック・プレヴェール
撮影:ロジェ・ユベール、マルク・フォサール
音楽:モーリス・ティリエ、ジョセフ・コズマ
出演:アルレッティ、ジャン=ルイ・バロー、マリア・カザレス、ピエール・ブラッスール

 19世紀のパリ、犯罪大通りと呼ばれる通りは今日も人で賑わう。その通りにある劇場に役者になりたいといってやってきた男パトリック、その彼が通りで目を止めた美女ガランス、その劇場の看板役者の息子バチスト、女優のナタリー、ガランスの友人で犯罪を繰り返しながらも詩人を自称するラスネールといった人々が繰り広げる壮大なドラマ。
 物語は2幕からなり、1部が犯罪大通り、2部が白い男と題された。プレヴェールの脚本は非の打ち所がなく、カルネの造り方にも隙がない。まさにフランス映画史上指折りの名作。

 3時間以上の映画ほぼ全編にわたって、あきさせることなく見せつづける。それはこの映画のテンポがとても心地いいから。第2部の途中で少しスローダウンしてしまうが、そこでようやくこの映画のスピード感に気づく。長い映画にもかかわらず、一般的なドラマよりもテンポが速い。つまり量的には普通の2時間の映画の3倍くらいの量がある(概念的な量ですが)。それでも辟易せずに、勢いを保ったまま見られるのは、そのプロットの巧妙さ。常に見る側に様々な疑問を浮かべさせたまま次々と物語を展開していく。実に巧妙な脚本と周到な映像化のなせる技。
 劇中劇が非常に面白いというのも素晴らしい。なんとなく映画の劇中劇というと、おざなりで退屈なものが多く、時間も大体短い。しかしこの映画の劇中劇はすごく面白い。映画の中では一部分しか見られないのが残念なくらい面白い。特にバチストの演じる劇は途中で途絶えてしまったときには「終わっちゃうの?」と思ってしまうほど魅力的だった。
 しかし、なんといっても4人4様のガランスへの想い、彼らが抱える想いを描くその繊細さ、そのロマンティシズムはいまだどの映画にも乗り越えられていないのではないかと思う。もちろん中心となるのはバチストとパトリックで、他の2人は障害として作られたようなものだけれど、それでもそこには一種のロマンティシズムがある。4つのロマンティシズムの形が衝突し、それを受け止める女は何を想うのか。
 個人的に少々不満だったのは、第2部途中のスローダウンと、ガランスの配役ですかね。ガランスは魅力的だけれど、絶世の美女というわけではなく(目じりの小皺も目立つし)、ナタリーといい勝負くらいだと思う。好みの問題ですが、そこに映画と一体化するのを邪魔するちょっとした要素がありました。
 そんなことはいってもやはり名作中の名作であることに変わりはなく、何度見てもいいものです。5時間くらいのディレクターズカット版とか、あるわけないけどあったらいいななどと思ってしまいます。淀みなく、美しい。それが永遠に続けばいいのにと思う映画。そんな映画にはなかなか出会えません。