ビバ!マリア

Viva Maria!
1965年,フランス,122分
監督:ルイ・マル
脚本:ルイ・マル、ジャン=クロード・カリエール
撮影:アンリ・ドカエ
音楽:ジョルジュ・ドルリュー
出演:ブリジット・バルドー、ジャンヌ・モロー、ジョージ・ハミルトン

 アイルランドのために爆破を繰り返す父親を手伝って育ってきたマリーだったがその父が警察に捕まり、涙ながらに警察もろとも爆破した。そして逃亡中に紛れ込んだ旅芸人の一座で踊り異なる。相棒のマリアとともにストリップまがいの踊りで人気を博したが、「マリアとマリア」という名で講演旅行中にサン・ミゲルで事件に巻き込まれる…
 ブリジット・バルドーとジャンヌ・モローというフランスの大女優二人が共演、監督はルイ・マルという作品だが、作品のほうはB級テイストにあふれた楽しいもの。BBの魅力全開という感じだが、物語もなかなか痛快で見ごたえがある。

 いろいろと理不尽なところはあるわけですよ。しかし、それはこの映画が基本的にハチャメチャな映画で(そもそもブリジット・バルドーが革命家という設定からして相当無理がある)、監督はそのことをがっちりつかんで、多少の脱線や理不尽は映画が消化してしまうということを理解している。だから、普通に映画を撮るとしたら何とか調整をつけようとすること、たとえばサン・ミゲルの人たちに映画の演説の意味が通じるとか、そういうことを全く放置して、映画をどんどん進めてしまう。これが映画に勢いをつけて、物語を魅力的にする。そのあたりのストーリーテリングの妙というか、映画の組み立て方が絶妙という気がしました。
 しかも、その辺のB級映画とは違って、それぞれのネタがただのバカネタではない。いろいろ元ネタとか含蓄があるような気がする(具体的に何なのかはわかりませんが)。最後のオチも、単純に笑わせようというネタではなく、神父が…(ネタばれ防止)というところに意味があるわけです。20世紀初頭という設定もただブリジット・バルドーにコスチューム・プレイをさせたいという理由だけではなく(もちろん、それも理由の一つではある)、メキシコの革命という時代設定にあわせてあるのです。そのあたりをしっかり考えている感じがとてもよいです。
 というわけで私はとてもいいと思ったわけですが、一般的に言うと、ルイ・マル映画としては主流を外れ、ブリジット・バルドーものとしてもお色気満点というわけではなく(30代に差し掛かっているし)、コメディというわけでもないので、ターゲットとする観客がはっきりしないのがなかなか難しいところなのかもしれません。でも、やはり、なんか、いいですよ。「古い映画はちょっと」とか、「ブリジット・バルドーって動物愛護の人でしょ」とか思っている人も、この映画ならなかなか楽しめるはず。

カレードマン大胆不敵

Kaleidoscope
1966年,アメリカ,102分
監督:ジャック・スマイト
原作:マイケル・アバロン
脚本:ロバート・キャリントン、ジェーン=ハワード・カリントン
撮影:クリストファー・チャリス
音楽:スタンリー・マイヤーズ
出演:ウォーレン・ビーティ、スザンナ・ヨーク、エリック・ポーター、クライヴ・レヴィル、ジェーン・バーキン

 赤いオープンカーに乗ったバーニーは町で見かけた通りすがりの娘エンジェルに一目ぼれ。一夜のデートを楽しんで、彼女を送っていく。バーニーはしばらく出かけるが、帰ったら連絡をするといって去っていった。その用事というのは実はジュネーブにあるカレイドスコープ社のトランプの原版に細工をしてカジノで大もうけしようという計画だった…
 60年代の雰囲気満載の、サスペンス・コメディ。ウォーレン・ビーティが若い。凝ったつくりというか、全体的に不思議な雰囲気がある。

 ちょっと眠くて、あまり覚えていないんですが、画面が変わるときに、なんだか不思議な幾何学模様が使われていたりするのが不思議。ついでにそこで流れる音楽はインド風、ガムランってやつですかね。映画の展開もなかなか不思議。半分過ぎるくらいまで映画の要点が見えてこない。
 「カレイドスコープ」といえば、多分万華鏡という意味だった気がするんですが、なぜそれがトランプ会社の名前でしかも映画のタイトル(原題)になってしまっているのか、という疑問もある。しかも、イギリスのケイジ風情にわかってしまうような仕掛けがカジノの人たちにわからないのか、という疑問も浮かぶ。 まあ、そんなこんなを考えながらみていたら、ようするにこの映画は完全におふざけというか、サスペンスという形はとっているけれど、わたしにとってはコミカルな部分とか、60年代風の雰囲気というもののほうが興味を引かれる。
 ちょっとネタばれ気味になってしまいますが、後半に出てくる敵のボス(という表現がいいかどうかはわからないけれど)のキャラもなかなかいい。ナポレオンを信奉しているということで、髪形なんかがナポレオン風で変わっているのもいいけれど、背を低い人をキャスティングするその細かさがなかなかいい。
 この監督はかなり地味ですが、いい作品をとっているのかもしれないという気がします。たぶんコメディ向き。

フォー・ルームス

Four Rooms
1995年,アメリカ,99分
監督:アリソン・アンダース、アレクサンダー・ロックウェル、ロバート・ロドリゲス、クエンティン・タランティーノ
脚本:アリソン・アンダース、アレクサンダー・ロックウェル、ロバート・ロドリゲス、クエンティン・タランティーノ
撮影:ロドリゴ・ガルシア、フィル・パーメット、ギレルモ・ナヴァロ、アンジェイ・セクラ
音楽:コンバスティブル・エディソン、エスクィヴェル
出演:ティム・ロス、マドンナ、リリ・テイラー、アントニオ・バンデラス、クエンティン・タランティーノ、ブルース・ウィリス

 ロサンゼルスのホテル・モンシニョール。ある年の大晦日、そこでお客さんの対応をしているのはのベル・ボーイのテッドだけ。そのテッドが呼び出され、騒ぎに巻き込まれる4つの部屋。その4つの部屋の物語を4つの短編にしたオムニバスをインディーズ系の4人の監督が競作した作品。
 最初の2本はなんだかボヤンとしているが、後半2本はなかなかのでき。特に3本目のロバート・ロドリゲスの作品は、一本の映画にしてもいいのかも、と最初に見たときには思っていて、今考えるとそれが『スパイキッズ』になったのかもしれない。

 最初の作品にマドンナが出ています。アーティストとしては、イメージチェンジしたマドンナですが、どうも女優としてはパッとしないようです。しかし、この映画を見る限り、コメディエンヌとしてならやっていけそうな気もする。この1篇はすべてがすごく無意味です。40年前にのろわれた魔女をよみがえらせてどうなるのか。果たしてコメディなのか、コメディとして笑えるのは呪文というか、儀式のときの魔女たちの悩ましげな声と謎の動き。とても真に迫っていなくて、うそっぽいところがいい。じわりじわりとおかしさがわいてくるような作品。
 2本目は本当によくわかりません。気になったところといえば、ティム・ロスが窓から首を出しているところを断面図的に捉えている場面がどう考えても、画面どおりの向きで撮っていないということ。このあたりのリアリティのなさが笑いにつながればいいのだけれど、ここでは今ひとつならなかった。
 3本目はいいですね。この映画を見ていない人はこれだけのためにでも見る価値はあるかもしれません。広角な感じの画面をうまく使っているのもなかなかいい。最近のアクション映画によくある作風という気がしますが、この時代にはかなり新しい感じであったと思います。
 4本目は、まあ、タランティーノさんどうしたの? という感じでしょうか。『レザボア』と『パルプ』でなかなかうまい使われ方をしていたティム・ロスもこの映画では今ひとつ切れがない。タランティーノはコメディコメディ下コメディはあまり向いていないのかもしれない。と思いました。

旅の途中で FARDA

2002年,日本=イラン,106分
監督:中山節夫
脚本:横田与志
撮影:古山正
出演:宍戸開、オスマン・ムハマドパラスト、忍足亜希子、寺田農、保坂尚輝

 自動車の部品メーカーでサラリーマンで忙しく働く井沢、学生時代の友人で画家の木田の個展に呼ばれ、出かけると、そこに浩子が来ていた。浩子は井沢がかつて世話になっていた町工場の社長村田の娘で、昔は親しく付き合っていたが、井沢の会社が切り捨てたことで工場は倒産してしまっていた。そのとき、村田が心臓発作で倒れたという知らせが入る…
 競争社会に飽み疲れたサラリーマンがイランを旅するというロードムービー。アッバス・キアロスタミ監修の下でイラン・ロケを敢行。日本人の目からイランを見ることができるという面ではいい。

 すごく普通というか、まともな映画で、設定や物語は古臭ささえ感じるほどオーソドックスである。人を探すたびが自分探しのたびになるというロードムービーの王道を臆面もなく堂々と展開する。もちろんそれが悪いというわけではないけれど、それではあまりに話が予想通りに進みすぎる。
 言葉をしゃべれないヒロインを登場させて、ちょっとアクセントをつけてはいるものの、その恋愛物語は映画の主プロットからは完全に外れていて、なんだかとってつけたような内容。しかも手話の場面でBGMが流してしまうのもなんともわかりやすいというか、わかりやすくしようとしすぎている。
 この映画の新しさはイランということ。イラン映画はこれまでも数多く日本に入ってきて、イランがどのようなところであるかはそれらの映画を見ればなんとなくわかる。しかしそれはあくまでイラン人が作ったイラン映画であって、日本人が見たとしても、それはイラン人としてその映画世界に入っていく。しかし、この映画を見ることは日本人としてイランに入っていく体験だ。その意味では映画において始めてイランと日本が本当に出会ったといっていいのだろう(私の知らない映画があるかもしれないけど)。
 この映画を見ていいと感じるのは、ほとんどすべてがイランのよさである。その風景、その音楽、その人間、それらイランなるものがすべていい。「急ぐのは悪魔の仕業」ということわざはこの映画のことは忘れてしまっても、忘れることのできない言葉だ。あまりに日本語をしゃべれるイラン人に出会いすぎという気はするが、それもまたイランと日本の「近さ」を表現しようとするひとつの誇張であると捉えれば首肯できる。

 しかし、この映画の主人公の幼稚さにはちょっと辟易する。恋愛話でも言葉が通じないからとか、そんなことをいっているが、そんな段階でくよくよ悩んでいるんじゃどうしよううもないわけで、そんなことわざわざイランまで来なくてもわかるだろうという気がしてしまう。
 わざわざイランまで来て受け取るべきものはもっと違うものだったはずで、たとえば、彼が敬虔な仏教徒のように手を合わせて祈ること。もちろん彼は日本ではそんなことはしていないはずで、神の国イランにふさわしいと思うから普段やらないそのような所作を思わずしてしまう。ということについて思いをはせれば、もっと深い部分にある何かを受け取れたんじゃないか。
 映画を見ているわれわれのほうが実際にイランに行ったはずの主人公よりイランから多くのものを受け取っているような気がしてしまい、その分この主人公が薄っぺらな感じがしてしまう。

天才マックスの世界

Ruchmore
1998年,アメリカ,96分
監督:ウェス・アンダーソン
脚本:ウェス・アンダーソン、オーウェン・ウィルソン
撮影:ロバート・D・イェーマン
音楽:マーク・マザースボウ、ピート・タウンゼント
出演:ジェイソン・シュワルツマン、ビル・マーレイ、オリヴィア・ウィリアムズ、シーモア・カッセル

 名門ラシュモア校に通うマックスは奨学生だが、フェンシングや養蜂などなどさまざまな課外活動に没頭して成績は一向に上がらない。落第したら退学だと校長に告げられたマックスだったが、勉強をする様子はなく、今度は学校の先生の一人に恋をしてしまう…
 ウェス・アンダーソンの出世作となったとても不思議なコメディ映画。この監督の作品は爆笑作品ではないけれど、映像のつくりなどに非常に味があっていい。

 『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』を見ていると、はじめから終わりまであまりに似ているのに驚くのですが、もちろん本当はその逆で『テネンバウム』のほうがこの映画に似ているわけです。ここまで似ていると、それはこの監督のスタイルと考えざるを得ないわけです。
 そのスタイルにはいろいろありますが、まず目につくのは紙芝居型のプロット展開。この映画では月ごとに幕が下りて区切られています。このスタイルが作り出すのは、これが徹底的に劇であるという雰囲気。マックスが演劇をやっているというのも理由にはなっているんでしょうが、基本的にこの映画は「劇」であるということです。
 あとは、物語や人物の描写に深みをもたせてあること。普通のコメディのようにわかりやすく単純なキャラクターを立てるのではなく、普通のドラマに登場するような人物をキャラクターにたて、その関係性も「ボケ-突っ込み」のような固定した関係ではなく、変化する関係である。もちろん普通のコメディ映画でも、ラブ・コメとか、ヒューマン・コメディとか、人間の関係が変化するものはありますが、それはあくまで主の2人とか3人とかの関係で、この映画のように主人公を中心とした相互関係がゆっくりと変化していくところを描くものはなかなかない。
 ここまで見ると、この映画はまったくコメディ映画などではなく、ただのドラマのようなんですが、確かにそうで、筋立てとかキャラクター自体に面白い人はあまりいない。面白いといえば、マックスのやっている課外活動が面白い。こういうネタは私は大好きです。それはそれとしても、コメディアンのビル・マーレイすらコミカルなキャラクターとして登場しているわけではない。
 この映画のおかしさを演出しているのは映像で、一番特徴的なのは、人物を正面から画面の中心に捉えるバスト・ショット。これは非常に不自然なショットで、リアリズムを追求する映画ではほとんど使われないわけですが、この映画はやたらとそのショットを使う。これは最初の「劇」的ということともかかわってきますが、作り物じみた感じを演出する。その作り物じみた感じがおかしさを誘う。他にも作り物じみた感じが結構あって、またマックスの課外活動の話ですが、その紹介場面も非常に作りこまれた感じ。
 という感じでなかなか地味ながら味わい深いいい映画でした。

 ところで、主演のジェイソン・シュワルツマン君は巨匠フランシス・フォード・コッポラの甥で、タリア・シャイアの息子。つまりコッポラ・ファミリーで、ソフィア・コッポラやニコラス・ケイジの従兄弟ということ。ちなみに弟はロバート・シュワルツマンといって、『シュレック』に(声で)出ているらしい。そして兄のジェイソンはPhantom Planetという(結構メジャーな)バンドのメンバーらしい。恐るべしコッポラ・ファミリー!

ステューピッド/おばかっち地球防衛大作戦

The Stupids
1996年,アメリカ,94分
監督:ジョン・ランディス
原作:ハリー・アラード、ジェームズ・マーシャル
脚本:ブレント・フォレスター
撮影:マンフレッド・グーテ
音楽:クリストファー・L・ストーン
出演:トム・アーノルド、マーク・メトカーフ、ジェシカ・ランディ

 郊外の住宅地に住むスタンレーとジョアンに子ども2人ののジュテューピッド一家。朝になると家の前のゴミがなくなっていることに気づいたスタンレーはゴミの盗難事件だと騒ぎ出し、その犯人を突き止めようと家の前で寝ずの番をする。そして、目撃したマスクの怪しい男たちを追ってローラーブレイドを飛ばす…
 日本で言えば馬鹿田さんとでもいう、ステューピッドという名前からしてふざけているが、とりあえずふざけておこうという感じのオーソドックスなどたばたコメディ。ネタもテンポも古典的、スタイルも狙いすぎの感あり。

 えーと、バカが偶然に偶然を重ねて、うまいこといったり、地球を救ってしまったりするのはよくある話ですが、この映画もそんな話。とはいっても、結局うまいこといっているのかというとそれは微妙なところ。そもそもドタバタコメディの巨匠ジョン・ランディスだけに結論なんてどうでもいいわけですが。 それにしてもこの映画はなんだかね。ギャグも弱いし、面白そうな題材を掘り下げないし、邦題のせいもあるけれど、せっかくの宇宙人もあまり活躍しないし。個人的にはもっとあの宇宙人を活躍させて欲しかったと思いますね。なんといっても映画の中で一番面白いキャラだったし。あとは、謎のCGの猫。なぜあの猫はCGなのか? そして、それが全く生かされていないのはなぜなのか? それもギャグ?
 この映画を見ていて思ったのは、ハリウッド映画は、特にコメディは、後ろを振り返らないということ。いろいろなことがおき、どんどん話が展開していくのがハリウッド映画で、どんどんどんどん転がって、どんどんどんどん話が変わって、めでたしめでたしハッピーエンド! で終わるわけですが、別にハッピーエンドでなくてもいいんですが、よく考えるとそれまでに起こったことの始末は何一つつけていない。よく考えると、「あれはどうなった?」「これはどうなった?」という疑問符のオンパレードなわけですが、それはとにかく置いておいて、「よかったよかった」とか、「なんていい話でしょう」とかいっている。まあ、別にそれでいいんですが、脚本家とか、原作者がいるときとかはそれで納得してもらえるのだろうか? などといろんな疑問が頭をよぎります。
 この映画でよかったところといえば、ステューピッド家の家の内装のエキセントリックさかな。おもにピンクと水色で構成されていたのは、多分精神医学的な裏づけを取った符合でしょう。チェックのものがいっぱいあったのも考え合わせると、幼児化傾向とか未発達とか、そういうことをあらわしている(勝手な想像)。その色彩の組み合わせがエキセントリックでよろしい。

誘拐騒動/ニャンタッチャブル

That Darn Cat
1996年,アメリカ,90分
監督:ボブ・スピアーズ
脚本:S・M・アレクサンダー、L・A・カラゼウスキー
撮影:ジャージー・ジーリンスキー
音楽:リチャード・ギブス
出演:クリスティナ・リッチ、ダグ・E・ダグ、ジョージ・ズンサ、ピーター・ボイル

 田舎町で暮らす少女パティは、あまりに平和で何もおこらない田舎町がきらいで、都会に行くことばかり考えて、友達といえば猫のBJだけ。母親はそんなパティに説教ばかりするが、パティは聞く耳を持たない。そんなある日、BJが腕時計を首につけて帰って来た。パティはそれが新聞に載っている誘拐された家政婦のものだと騒ぎ出して…
 65年のディズニー映画『シャムネコFBI/ニャンタッチャブル』のリメイク。動物と子どもを使ったいかにもディズニーらしい穏やかなコメディ。

 いちおう猫中心に回っているようですが、よく考えると別に猫が活躍しているわけではなく、猫に振り回されるFBIという面白さを追求しているだけ。しかも笑いのネタになっているのは事件にかかわらないことばかり。誘拐事件を扱っているにもかかわらず、あまりいさかいが起きないというのも不思議。 などなどいかにもディズニーという展開は子どもが見ていても安心ということはありますが、やはりコメディなんてものはばかばかしかったり、お下劣だったり、したほうが面白いわけです。
 要するに、特に面白くないということがいいたいわけですが、そもそもサスペンスでもあるはずなのに、犯人が誰かという謎解きの部分は全くない。面白いところといえば、パティとジークの夫婦漫才のようなところ。ジークはなかなか面白いですが、『クール・ランニング』のひとだそうです。
 やはり、ディズニーのコメディはなかなかヒットしないと確認したしだいでした。

隣のヒットマン

The Whole Nine Yards
2001年,アメリカ,99分
監督:ジョナサン・リン
脚本:ミッチェル・カプナー
撮影:デヴィッド・フランコ
音楽:ランディ・エデルマン
出演:ブルース・ウィリス、マシュー・ペリー、ロザンナ・アークエット、マイケル・クラーク・ダンカン

 歯科医のオズの隣に一人の男が引っ越してきた。なんだか見たことがあると思ったオズはすぐにその男が17人もの人を殺し、マフィアのボスを売って短い刑期で出てきた名高い殺し屋ジミー・チュデスキだということに気付く。そしてオズは、折り合いのよくない妻のソフィアに半ば脅されるようにシカゴにジミーを密告にいくはめに…
 ブルース・ウィリスと『フレンズ』のマシュー・ペリー共演のサスペンスコメディ。物語の転がり方が面白く、なかなか楽しく見ることができる。監督はヒット作はないものの地味にコメディを採り続けている監督ジョナサン・リン。

 サスペンス・コメディというジャンルはどうかと思いますが、この映画は間違いなくサスペンス・コメディで、なかなかうまくいっている。ひとつは脚本のうまさで、サスペンスの展開として重要な出来事をうまく笑いに結び付けている。ネタはばらせませんが、オズのアシスタントのジルが・・・だったというのはなかなかうまい展開と舌を巻きました。
 あとは、キャスティングのうまさでしょうか。『フレンズ』のマシュー・ペリーはもちろん、ジル役のアマンダ・ピートも『ジャック&ジル』というコメディに出ていて(こっちでの役名はジャックなので、多分意識している)、少なくともアメリカ人にとっては喜劇役者として一応知られている人たちなわけです。ブルース・ウィリスも今はムキムキマッチョ君になってしまいましたが、もとはといえば、『こちらブルームーン探偵社』でとぼけた役をやっていたわけで、それを考えると、これは喜劇役者を集めてサスペンスをとってみた映画。ということなのかもしれません。
 だからなんとなく全体的にサスペンスの「間」ではなくて、コメディの「間」になっている。もちろん監督がコメディ畑の監督だというのもあるんでしょうけれど。しかし、だからといって笑えるかといえば、別に笑えるわけでもなく、はらはらするかといえばそれほどはらはらするわけでもなく、中途半端といってしまえばそれまでの作品ですが、わたしはこういう根本的にうそっぽいドラマは大好きです。ここまで明るく人を殺せる人はなかなかいないね。
 好みは分かれるところかとは思いますが、いろいろ辻褄が合っていないと、落ち着かない人は見ないほうがいいと思います。テキトーなことが好きな人は結構つぼにはまるかと思います。

ロード・オブ・ザ・リング

The Lord of the Rings: The Fellowship of the Ring
2001年,アメリカ=ニュージーランド,178分
監督:ピーター・ジャクソン
原作:J・R・R・トールキン
脚本:ピーター・ジャクソン、フランシス・ウォルシュ、フィリッパ・ボーエンズ
撮影:アンドリュー・レスニー
音楽:ハワード・ショア
出演:イライジャ・ウッド、イアン・マッケラン、リヴ・タイラー、ヴィゴー・モーテンセン

 世界的に有名なトールキンのファンタジー小説『指輪物語』。映像化は不可能といわれ、これまで映画化されていなかった作品をピーター・ジャクソンが1部作として映画化。この作品はその第1作に当たる。
 物語は現実の世の中とは全く異なる世界で展開される。人間以外の種族もたくさん生きている世界。はるか昔、闇の冥王サウロンが作った指輪。悪の力を秘めたその指輪がおよそ3000年後、ホビットの青年フロドの手に渡ったことから物語りは展開される。

 この世界観はあらかじめ知識を持たずに見る人には厳しいものかもしれない。ホビットやドワーフやエルフという人間ではないが姿かたちは人間に非常に似いる生き物があまり説明されないままに出てくる。映画を見ていれば徐々にその関係や性格がわかってくるけれど、それがわかるまでに映画は1時間から1時間半のとき費やし、ファンタジーになじみのない人なら飽きてしまっても不思議はない。
 だからこの映画は『スター・ウォーズ』とか『ハリー・ポッター』などのように一般的にヒットする映画ではなく、ある意味では特定の観客に向けた映画である。とはいっても、もともとの原作が非常に有名で読者も多いので、そのターゲットはある程度は広く、わたしも子供のころに小説を読んだ(ほとんど覚えていないけれど)ので、物語に入り込むのにあまり困難はなかった。
 監督のピーター・ジャクソンもいわゆるメジャー系の監督ではなく、悪趣味系、カルト系の監督であり、ファンタジー的な世界を作るのは得意かもしれないけれど、一般受けするような映画は作れない。さらに、これといったスターも出ていない。というような問題がたくさんあり、映画としては非常にじみ。
 それでもやはり映画として見ごたえがあり、ある程度世界的にヒットしたのも原作の力と、原作を忠実に映画化した監督の力。人間とホビットの縮尺とか、いろいろな怪異な生き物とか、CGを駆使したりしながらうまく作り上げる。ホビットがロングショットで写されるときに子供の代役が使われていることはちょっとあからさま過ぎるけれど、まあ映画に入り込むのを邪魔するほどではない。

 などなどなどと御託ばかり並べているのは、この映画が一本の映画といえるものではなく、一本の映画の3分の1でしかないものだからで、この映画の本当の評価というのは3本すべてを見なければ下せないような気がする。それでもこの映画は1本の映画としてリリースされているので、それに対する評価を下さざるを得ないが、そうなると不完全な映画であるとしかいえない。
 でも、わたしは続きに期待して見たいと思います。
 ひとつ不思議だったのは、主人公のフロドの目の色がころころ変わること、青、緑、グレーというようにいろいろな色に変わる。あからさまに処理してかえているところもあるけれど、自然に変わっているように見えるところもある。これは何かのなぞが秘められているのか?

 2度目は、スペシャル・エクステンテンデッド・エディションというので見たのだが、このバージョンでは、冒頭の部分に説明が加わってかなりわかりやすくなっている。これによって映画全体をすっきり見ることができるし、2度目ということで、物語の進み行きにイライラせず、ゆったりと見ることができるというのもいい。ゆったり見てみるとこの作品はさすがに作りこまれていて面白い。なんといっても作品の世界観がいい。原作に忠実に時代設定をして作っているわけだが、その時代設定というのが「動力」が開発される以前であるということが重要だ。車もなければもちろん戦車もないし、それ以前に火気というものがない。これはいわば『ベン・ハー』のようなもので、徹底的に人と人(必ずしも「人間」ではないが)の戦いというところが重要になってくるのだ。こういう設定ではヒーローが生まれやすく、ドラマが組み立てやすい。そして、この映画は複数のヒーローを用意し、それぞれにドラマを作り上げる。そのようにして編み上げられた物語は懐が深く、観客は誰かひとりに感情移入すればよく、観客を引き込みやすい。問題は、全てのドラマが密接にかかわりあっていないと、観客が飽きてしまうということだが、この第1話の段階ではそれに成功していると思う。

 ところで、このスペシャル・エクステンテンデッド・エディションはエンドロールが30分くらいあって、そのうち20分くらいが”Special Thanks”に費やされているけれど、これはいったい何? と思いました。感謝したい気持ちはわかるけど、20分も見ないよねー、誰も。

親指ブレアサム

The Blair Thumb
2001年,アメリカ,30分
監督:トッド・ポーチガル
脚本:スティーヴ・オーデカーク
出演:スティーヴ・オーデカーク、ジム・ジャクソン

 前2作が話題を呼んで、続編が期待されていた「親指」シリーズ、オーデカークが満を持して出したのは、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』の親指版。そもそも、いろいろと物議をかもし、ヒットはしたものの揶揄されることも多かった映画なので、パロディするのは楽なはず。
 しかし、オーデカークが作ったのはパロディというよりは、映画をネタにしたコメディ。設定を借りて、ぜんぜん違うオチを用意して笑わせる。それがミソ。

 そもそもの『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』がどうしようもない映画だったので、それよりもつまらなくなることはないわけですが、オリジナルの処理に困ったのか、中盤と最後のオチは完全にもとネタからは離れたところで狙っている。ネタを明かすことはもちろんできませんが、その2ヶ所はなかなか笑える。そもそも『ブレア・ウィッチ』の大げささはパロディ化しやすい素材なわけで、『ボガス・ウィッチ・プロジェクト』というパロディもありました(未見)。『ブレア・ウィッチ2』(未見)も最初はパロディだといううわさもあったぐらいだし。
 しかし、それはパロディ作家としては作りにくいという点もあり、みんなが予想するネタではない予想外のネタで笑わせなければならない。冒頭の辺りの「手ブレ撮影法」なんかは面白いけれど、予想できるネタで、誰でもやるだろうこと。わたしが一番好きなのは、中オチのネタ(アー、言いたい!)で、多分オーデカークだか、監督だかも気に入っているらしく、映画後のおまけのところでも登場していた。いやいや、あれは不意を突かれたね。
 この映画はもとネタのいらいらする感じをそのまま使っている。そこをパロディ化してテンポよく行くのかと思ったら、もとネタのいやなところを生かしている。これは多分、ネタとのギャップを強調するためだろうけれど、ちょっと本当にイラつくので難しいところ。
 最初の2本と比べると、見慣れてしまったこともあり、爆発的な笑いはなかったけれど、なんだかんだいって新しいのが出たらまた見てしまうのでしょう。すでに2本作られてるらしいし。