コモド

Komodo
1999年,アメリカ,89分
監督:マイケル・ランティエリ
脚本:ハンス・バウアー、クレイグ・ミッチェル
撮影:デヴィッド・バー
音楽:ジョン・デブニー
出演:ジル・ヘネシー、ビリー・バーク、ケヴィン・ゼガーズ

 密売業者が捨てていった謎の卵。それから19年後、その島に毎年のように休暇にやってきた家族。息子のパトリックは島を探検に出て、恐ろしい怪物に遭遇した。パニックを起こして家に戻ったパトリックだったが、彼を探していた両親はその怪物に食べられてしまった…
 閉鎖空間である島で、コモドドラゴンを使ったパニック・ムーヴィー。パニック・ムーヴィーとしては並のでき。

 「ジョーズ」から連綿と受け継がれるパニック・ムーヴィーの伝統ですが、それにちょっとアクセントを加えた「ジュラシック・パーク」のままパクリという感じのこの映画ですが、おそらく低予算のせいでSFXもいまひとつ精彩がなく、登場人物のキャラクターも薄く、モンスターもいまいち弱いのです。しかし、まあパニックムーヴィーですから、「どっから現れるんだ?」というドキドキ感はしっかりと作りこんであるわけ。
 結局のところ精神科医だったり生物学者だったりする登場人物たちの背景は物語には全く関わってこず、淡々と進んでしまうのでした。少年のトラウマから不可解な行動に出るあたりで、予想もしない展開に発展するか? と思わせたものの、特に目覚しい展開はなく、おしいところではありました。
 これを読んだ時点で見ようと思う人はあまりいないとは思いますが、面白くないわけではないのです。パニック・ムーヴィーとしておしなべて平均点ということですが、「ロスト・ソウルズ」と同様、逆に普通のパニック映画の裏をかいていると思われるむきもあります。普通のパニック映画では盛り上げるところを逆に平板に描いている。それを退屈なパニック映画ととるか、革新的なパニック映画ととるかはあなた次第。

ツィゴイネルワイゼン

1980年,日本,145分
監督:鈴木清順
脚本:田中陽三
撮影:永塚一栄
音楽:河内紀
出演:原田芳雄、大谷直子、藤田敏八、大楠道代、磨赤児

 汽車で旅をする男は列車で琵琶を持った盲目の三人組を見かける。鄙びた駅で降りたその男・青地は偶然そこで殺人の嫌疑をかけられているみすぼらしい格好の元同僚・中砂にであった。うまく中砂を救った青地は中砂とともに橋のたもとで列車で見かけた盲人の三人組を見かけた。二人は地元の料亭へとゆき、小稲という芸者と出会う…
 日活を追われた鈴木清順が復活を遂げた一作。清順らしい不条理な世界観と磨き抜かれた映像センスがすばらしい。

 鈴木清純らしい代表作といえば、「陽炎座」か「ツィゴイネルワイゼン」というイメージが付きまとうくらいの代表作ですが、初期のハチャメチャさとくらべるとかなり落ち着いているというか、洗練されている感じがする。
 一番凄さを感じたのは、終盤の大谷直子の登場シーン。たびたび青地のところを訪ねてくる小稲は常に薄暗いところに立つ。上半身は明るく、足下は暗くて見えない。しかし、ライティングを感じさせないその明るさのグラデーションが凄まじい。これは照明技師(大西美津雄)の技量によるところが大きいだろうけれど、それを撮らせてしまう清順のセンスもやはり凄い。
 そんな映像の凄さに圧倒され続け、あまりプロットにかまけることができないくらい。しかし、物語の核のなさというのも、個人的には非常に好きな点で、その点、この映画もいろいろなエピソードが絡みあいそうで絡み合わないまま、なぞを残しつつ進んでいくところが中々。
 この映画はおそらく一度見ただけで語るのは失礼なくらい凄い映画だと思うので、あまり語らず、また見に行きたいと思います。

アイアン・ジャイアント

The Iron Giant
1999年,アメリカ,86分
監督:ブラッド・バード
原作:テッド・ヒューズ
脚本:ティム・マッキャンリーズ
音楽:マイケル・ケイメン
出演:ジェニファー・アニストン、ハリー・コニック・Jr、ヴィン・ディーゼル

 1956年アメリカ、海に落ちた飛行物体、しけの海でひとりの漁師が巨大なロボットを目撃した。近所に住む少年ホーガースはその話を聞いた夜、妙な物音がして、テレビが映らなくなってしまったのをみて、何か巨大なものが通ったあとを追って森へ行った。彼はそこで巨大な鉄人に出会う。
 ワーナー作のアニメーション、ディズニーともドリームワークスともちょっと違う雰囲気があり、温かみが伝わってくる作品。

 なんとなく単純なアメリカンアニメーションとは違うものを感じる。ディズニーのうそっぽさや、ドリームワークスの技術への過度の傾倒とは無縁の温かみのあるアニメーションといっていいのか。なんとなく日本のアニメの要素も取り入れつつという感じ。一番それを感じたのは、ジャイアントが変身(?)をするあたりの描写なんかがそう。細部の描写の緻密さがとてもいい。
 あとは、映像の作り方がすごく映画っぽい。特に目に付くのはパン移動。アニメーションなので、画面のサイズを変えるのは簡単なはずなのに、忠実にカメラを横や縦に振った感じの映像を作り出しているところに映画人としてのこだわりのようなものを感じた。
 ただ、惜しむらくは結局のところプロットの細部は子供だましで終わってしまっているところ。「そんなはずはない」と思ってしまうプロットや描写の細部が気になってしまう。たとえばあれだけどしどしと音を立てて歩いていたら、いくら実際に見なくてもいることには大概気づくはずだとか、いろいろ。最後クライマックスのあたりで特にその荒さが目に付いてしまったのが残念(ネタがばれるので詳細は自粛)。やはり、アメリカのアニメはいまだ子供向けなのか、という感想になってしまいます。
 もっとしっかり大人でも見れるアニメーションが作られない限り、アニメ市場の日本の天下は揺るがないでしょう。「メトロポリス」でも見に行こう。

ツイン・フォールズ・アイダホ

Twin Falls Idaho
1999年,アメリカ,110分
監督:マイケル・ポーリッシュ
脚本:マイク・ポーリッシュ、マイケル・ポーリッシュ
撮影:M・デヴィッド・ミューレン
音楽:スチュアート・マシューマン
出演:マイク・ポーリッシュ、マイケル・ポーリッシュ、ミシェール・ヒックス

 お金がないことに腹を立てながらアイダホ通りの安ホテルの部屋へと向かった娼婦のベニー。部屋でであったのはシャム双生児の兄弟だった。一度は逃げ出したベニーだったがかばんを忘れ、部屋にとりに戻り、そのまま寝入ってしまう…
 孤独なシャム双生児と娼婦の間で展開される淡いラブストーリー。双子の2人が脚本・監督・主演を果たした異色作。

 物語り方は非常にうまい。ゆったりとしているようで実はすばやいテンポで物語が展開してゆく。ゆったりしていると感じさせるのはおそらく双子の動きと、くすんだ色調。テンポを作り出すのは多くを語らず、不要な部分を切り捨てていく周到なカッティング。おそらくシャム双生児を扱うという珍しさに目が行ってしまいがちだけれど、それがむしろあだになったかもしれないと思わせるくらい見事な物語り方だった。
 例えば、2人がギターを弾くシーンで、二人がベットの方に歩き、視線を横にやるカットのあと、ギターのカットが1・2秒あって、すぐに2人はベットでギターを爪弾いている。このギターが映る一瞬でわれわれは2人の荷物がギターケースに入っていたことを思い出し、次のカットにすっと入れる。ここに2人の囁きあいやフラッシュバックが入ってしまうと、効果的なようで物語を遅延させるだけの無駄なカットになってしまうように思う。
 こういった無駄なカットを省いていくことで、非常にスリムないい作品に仕上がっていると思う。ただ最終的には詰めが甘い。終盤はほぼ予想がついている展開にもかかわらず語りすぎてしまったと思う。せっかくそこまでいいペースで来たのにもったいないような気がした。
 しかし、まあ全体としてはとてもいい雰囲気の映画ですね。語りすぎないことというのは映画にとって非常に重要なことだと思います。

スパイシー・ラブスープ

愛情麻辣湯
Spicey Love Soup
1998年,中国,109分
監督:チャン・ヤン
脚本:チャン・ヤン
撮影:チャン・ジァン
音楽:ジャ・ミンシュ
出演:チャオ・ミアオ、カオ・ユアンユアン、シュイ・ファン

 火鍋と呼ばれる激辛鍋を食べるカップル。二人は結婚を考え、翌日彼女の両親と食事をすることに。彼氏の方はその夜おなかをこわしたが、彼女の両親との食事もまた火鍋だった…
 というプロローグで始まる中国の様々な恋愛模様を描いた群像劇、火鍋のカップルを含めれば5つのエピソードで構成される。すごいところもあれば平凡なところもある。中国の新しい映画。

 まとめてしまうと、突き抜けそうな勢いがあるところもかなりあるけれど、基本的に「くさい」ので、全体としては微妙なところ。おそらく、総括してみれば平凡な映画なのかもしれない。でも、考えてみれば異常なほどのまとまりのなさ。愛に様々なバリエーションがあるというのなら分かるけれど、この映画のそれぞれのエピソードはあまりに共通点がなさ過ぎる。
 最初の話はすでにあまり覚えていませんが、いわゆる中国映画らしいオーソドックスな感じ、2話目も最初はそうかと思いきや、がたがたと崩れていき、人形劇の辺りでは壁を乗り越えて突き抜けた感じがした。しかし、それもつかの間またオーソドックスにもどり、3話目はなんだか説教くさい普通の話。4話目はできそこないのウォン・カーウァイかと思わせておいて、「何じゃその落ちは」と突っ込まざるを得ない終わり方。2話目と4話目に私のハートはわしづかみされましたが、他の部分が全体的に説教くささも含めてくさく、トレンディードラマかよと突っ込みたくなる場面も多い。それでもそこここにセンスを感じさせるシーンや画面がちりばめられているので、見ながら映画に対する評価も激しく上下していくという感じです。
 と、かなり微妙な映画ですが、もう一つ突き抜ければすごい監督なのかもしれない監督の可能性は見えた気がします。

幕末太陽傳

1957年,日本,110分
監督:川島雄三
脚本:田中啓一、川島雄三、今村昌平
撮影:高村倉太郎
音楽:黛敏郎
出演:フランキー堺、左幸子、南田洋子、石原裕次郎、芦川いづみ

 幕末の品川、南の遊郭街として知られた品川の一軒の女郎屋相模屋に居座る高杉晋作。そこに、どこの馬の骨とも知れない佐平次なる男がやってきて派手に飲み食いし、滞在していた。高杉は仲間の侍とともに異人館の焼き討ちを計画、しかし女郎屋への借金はかさむ一方…
 侍とおかしな町人と女郎達が繰り広げる群像劇。フランキー堺のキャラクターがなんといっても面白い。出演人も後にスターとなる人たちが多数出演の豪華版。川島雄三の代表作の一つ。

 軽妙な川島映画の典型のような時代劇。松竹時代から川島映画に多数出演してきたフランキー堺はここでも抜群のキャラクターを発揮している。全体としてすごく軽い感じで、時代劇らしさも昔の映画という感じも一切ない。
 川島雄三というのは不思議な監督で、映画を見るたびに全く違う感じがして、何が川島雄三らしさなのかということは一向に見えてこない。この映画から感じるのは、何気なくリズムよく進んでいくこの映画にあふれる映像センスというか、計算し尽くされた映像というよりは作るほうもテンポよくセンスで作ってしまったように感じられる映像のすごさ。とおりを横切りながら伸びをする犬とか、飛び込む前はものすごく勢いよく流れていたのに、飛び込んだとたんに凪いでしまう海とかそんな細かい部分の何気ない配慮。小難しく構図がどうとか繋ぎがどうとか言うことを意識させないあたりがやはり監督のセンスなのかと感じさせる。
 ところで、川島雄三といえば有名な遊び人だったということなので、こんな女郎屋ものはお手のものというところでしょう。もしかしたら、実際に通ってた遊郭にヒントになるような人がいたんじゃないかと邪推してしまう。

ザ・ハリケーン

The Hurricane
1999年,アメリカ,145分
監督:ノーマン・ジュイソン
脚本:アーミアン・バーンスタイン、ダン・ゴードン
撮影:ロジャー・ディーキンス
音楽:クリストファー・ヤング
出演:デンゼル・ワシントン、ダン・ヘダヤ、ヴィセラス・レオン・シャノン、クランシー・ブラウン

 1960年代、ミドル級の世界チャンピオンになったルービン・ハリケーン・カーター。殺人罪で終身刑を宣告され、獄中で回想記を書く彼は冤罪を訴えていた。しかし、再審請求も却下され社会から忘れ去られた彼の本を古本位置で偶然手に入れた少年レズラはその本に強く心打たれ、ハリケーンに手紙を書く。
 人種偏見に基づく実際の冤罪事件を元にした映画。モハメド・アリやボブ・ディランも当時の映像で登場する。

 ありがちな題材といっては失礼かもしれないが、人種偏見による冤罪という、60年代アメリカらしい題材。しかし、黒人と白人の対決という面を一方的に押し出すことはせずに、静かに描く。淡々と、しかし虐げられた黒人たちの怒りと憎しみははっきりと表す。このあたりはなかなかうまい。
 しかし、逆にそのせいで映画全体が平板なものになってしまっているのかもしれない。いまひとつ山場がないので、エンターテイメント性にはかけるというところ。そしてメッセージもいまひとつ強調されない。
 私は扇動的な映画よりはこういった淡々とした映画のほうが的確にメッセージが伝わっていいと思いますが、その割にこの映画はメッセージが弱いのかもしれません。差別に反対していることは分かるけれど、結局のところ、いまのアメリカは差別もなくなっていい国になったよみたいな結論で終わってしまっている。それが事実であるかどうかは別にしても、そのあたりのメッセージ性の弱さがこの映画を平凡なものにしてしまっている要因なのかもしれません。
 でも、2時間半も長さがあるわりには飽きさせず、すっと映画に入り込めるなかなかの作品。やはりデンゼル・ワシントンに尽きるのか。人相まで変わってしまうくらい役作りに徹底しているところがすごい。せっかくだからもっとハリケーンの内面を掘り下げてほしかったところです。
 要するに、いいところはたくさんあるけれど、どれをとってもあと一歩の踏み込みが足りないというところでしょうか? 踏み込んで描くにはちょっと近過去過ぎたのかもしれません。

2001年宇宙の旅

2001 : A Space Odyssey
1968年,アメリカ=イギリス,139分
監督:スタンリー=キューブリック
原作:アーサー・C・クラーク
脚本:スタンリー=キューブリック、アーサー・C・クラーク
撮影:ジェフリー・アンスワース、ジョン・オルコット
出演:ケア・デュリア、ゲイリー・ロックウッド、ウィリアム・シルヴェスター

 人類の夜明け、そこには黒く巨大な直方体があった。それに触った猿達は道具を使うことを覚え、他の猿の群れに優位に立てるようになった。それから数百万年後、月へと向かう宇宙船に乗り込んだフロイド博士は極秘の任務を帯びていた。それからさらに数年後、最新鋭の人工知能HAL9000を搭載したディスカバリー号が初の有人木星航海に向かう。
 壮大に映像でひとつの宇宙像を描き出した言わずと知れたキューブリックの代表作。まだまだ赤子に過ぎない人類への壮大な子守歌だと私は思う。

 この映画を見るといつも寝てしまう。劇場で見れば大丈夫かと思ったけれど、劇場で見てもやはり寝てしまった。何も考えず、物語を追い、映像に浸り、ただスクリーンを目で追っていると、どうしようもない眠気が襲う。その心地よさは何なのか。私はこれは一種の子守歌だと思う。宇宙を舞台とした壮大な子守歌。原作を読むと、かなりプロットも複雑で、物語の背景が説明されていて、SF物語として読むことができるけれど、この映画は原作とは別物であるだろう。
 もちろんこの映画にはいろいろな解釈ができ、じっくり考えて自分なりの解釈を導き出すという営為はキューブリックが狙ったことに一つなのだろうけれど、そのために原作なんかの周辺知識を利用することは私はしたくはないので、ただただ「これは子守歌だ」とつぶやくだけで満足する。

2007年のレビュー
  この映画は私にとって映画探求の端緒となった作品のひとつであった。それは何年か前、私がこの作品を劇場とビデオで立て続けに2度見たとき、同じところで眠ってしまったことから起きる。この作品の最終版、サイケな映像でトリップをするあたりからラストのスペースチャイルドが登場する辺りまでうつらうつらと眠ってしまうということが2度続いたのだ。
  そんなことから考えたのは、眠ることもまた映画を見るあり方の一つだということである。眠っていたら映画を見てはいないのだけれど、しかし途中眠っていたとしても映画は見たことになる。その眠ってしまった時間もあわせて映画の体験なのだ。そんなことを考えながら私はこの作品を「宇宙を舞台とした壮大な子守歌」と名づけた。まだまだ赤子に過ぎない人類への壮大な子守歌、それは映画を見ながら眠ってしまった自分自身への言い訳であると同時に、このように心地よく眠れてしまう映画への自分なりの解釈でもあった。
  そこから私は映画を見るということへの魅力にひきつけられて行ったのだ。

 まあ、それはいい。今回改めて見直してみて、最後まで眠ることなく見て思ったのは、この作品が本当に面白い作品だということだ。序盤の類人猿が登場するシーンの、その類人猿のぬいぐるみ然とした演技には40年という隔世の感を感じざるを得ないし、宇宙船などに使われている技術にもSF的想像力の豊穣さを感じると同時に、限界をも感じるわけだが、作品全体としては本当に40年前の作品とは思えない完成度と面白さを保っている。
  まず思うのは、イメージとサウンドによる絶対的な表現力である。この作品は2時間半という時間の作品にしては極端にセリフが少ない映画である。その代わりに映像によるイメージとサウンドによって観客の想像力を刺激し、様々なイメージや想念を喚起する。とくにサウンドは「美しき青きドナウ」のような音楽に加えて、ノイズの使い方が非常にうまい。船外作業をするときのノイズと呼吸音、ただそれだけで彼らの緊迫感が手に撮るように伝わり、「何かが起こるのではないか」という緊張をわれわれに強いる。そして、そのような明確な効果がない部分でも、この作品にはノイズが溢れ、それが静に私たちに働きかけ続けるのだ。
  そして、イメージも実に豊富だ。モノリスという空白をも意味するのではないかと考えうる漆黒の平面と対照的な形で様々なイメージがわれわれに提示される。もちろん円を回転させて擬似重力を作るという方法を映像化したのも見事だが、それ以上にハルのカメラに点る赤いランプや宇宙飛行士のヘルメットに映る明かりによって観客のイメージを喚起するそのやり方が実に見事だ。特殊な技術を使わずとも、そして言葉を使わずとも、観客の側で何かを考えてしまう。実に綿密に計算された映像であると思う。

 この作品が“名作”とされながらどこかで無条件に絶賛されるわけではないのは、理解しがたい部分があるからだ。見終わって誰しもが感じるであろう「だから何なの?」という感覚、この消化不良な感じが引っかかりとして残るのだ。そして、そこから何かを導き出すことができなければ、結局この作品はなんでもなくなってしまう。ただ退屈なだけの映像詩となってしまうのだ。
  そしてそれはこの作品が持つ必然的な欠点である。この作品は基本的に哲学として作られている。それはこの作品のテーマ曲のひとつが「ツァラトゥストラはかく語りき」というリヒャルト・シュトラウスの交響詩であることからも明確に示唆されている。
  哲学とは問であり、それに対峙する人はそれに対する答えを求めるのではなく、答えを探すのだ。哲学に答えはない。哲学にとって重要なのはその答えを探す過程であるのだ。だからこの作品を見ることも、作品が何を言っているかが重要なのではなく、作品が何を言っているのかを考えることが重要なのだ。
  しかし、それは無駄かもしれない。それは結局何の役にも立たないかもしれないのだ。私はそのような無駄も尊いものだと思うからこの作品は絶賛されるべきものだと思うが、果たして本当にそうなのだろうかという疑問は当然だ。
  あるいは、何らかの答えを出して、その答えから演繹して作品に対して否定的な態度をとるというあり方もありえるだろう。そのあり方に対しては私は間違っていると言いたい。なぜならば、この作品自体は何も結論じみたことを行っていないからだ、見る人それぞれが導き出した結論は、作品よりもその見る人それぞれを反映している。人それぞれの世界と人類に対する見方を反映しているのだ。それをもって作品を批判するというのは、結局は思い込みによって世界を観ている自分自身の姿を露呈しているにすぎないのではないか。

 この作品が投げかける、世界とは何か、人類とは何かという問、類人猿と人類の境界はどこにあるのか、そして人間とコンピュータの境界はどこにあるのか。この広大な宇宙において独立独歩歩んできたと一般的には考えられている人類と宇宙との関係をどう捉えるか、それらの問に対する答えは用意されていないし、導き出すこともできない。類人猿は棒を持った瞬間にヒトとなったのか、ハルは機械に閉じ込められた人間ではないのか、デイブの新宇宙での経験は果たして何なのか、それらの問に答えようと真摯に考えること、それこそがこの作品の意味なのではないか。

ポーラX

Pola X
1999年,フランス=ドイツ=スイス=日本,134分
監督:レオス・カラックス
原作:ハーマン・メルヴィル
脚本:レオス・カラックス、ジャン・ポル・ファルゴー、ローランド・セドフスキー
撮影:エリック・ゴーティエ
音楽:スコット・ウォーカー
出演:ギョーム・ド・パルデュー、カトリーヌ・ドヌーヴ、カテリーナ・ゴルベワ、デルフィーヌ・シュイヨー

 フランス・ノルマンディ、古城で暮らす小説家のピエール。正体を明かさぬまま小説を出版し、成功した彼は婚約者のリュシーとも仲良く付き合っていた。しかし、母マリーのところには無言電話がかかり、ピエールの周りには謎の黒髪の女がうろついていた。
 レオス・カラックスがハーマン・メルヴィルの『ピエール』を映画化。2つの天才と狂気がであったこの作品は全編にわたってすさまじい緊張感が漂う。「ポンヌフの恋人」とは違うカラックスらしさがぐいぐいと迫ってくる作品。

 陽光にあふれた昼と、街灯の明かりすらまばらな夜。この昼と夜、明と暗の対比がこの映画の全てを語る。最初は多かった明の部分が物語が進むに連れて陰っていく。リュシーのブロンドとイザベルの黒髪までも明と暗を比喩的に表しているのではないかという思いが頭をかすめる。暗闇から現れたイザベルに、暗闇で語られたことによって、ピエールはぐんぐん闇へと引きずり込まれる。ここで暗闇は狂気と隣り合わせの空間で、明の象徴であったはずのリュシーまでも暗部へと引きずり込む。
 映っているものすらはっきりしないほど暗い画面は見ている側に緊張を強いる。そして、カットとカットの繋ぎの違和感が焦燥感をあおる。エレキギターとパーカッションで奏でられる交響曲もわれわれの神経を休めはしない。ただいらいらしながら、結局何も解決しないであろう結末を予想しつつも、ことの成り行きをみつめる。
 「汚れた血」は厳しすぎ、「ポンヌフの恋人」はゆるすぎたと感じる私はこの「ポーラX」がぐっときた。どれもカラックスの世界であり、同じ描き方をしているのだけれど、狂気と正気のバランスというか、物語と映像のバランスというか、その偏りがちょうどいい感じ。
 カラックスの映画はカットとカットの間がスムーズにつながらないところが多々あって、この違和感というのは相当に見ている側にストレスになると思う。それがカラックスの映画の緊張感の秘密だと私は思います。この映画でいえば、一番はっきりと気づいたのはピエールとティボーがカフェで会っている場面。ティボーがカウンターに行って、ティボーの視点でピエールを(正面から)映すカットがあって、次のカットで画面全体をバスが横切り、その次のカットではピエールを後ろから映す。これは後ろからのぞいているイザベルの視点であることが直後にわかるのだけれど、この瞬間には「え?」という戸惑いが残る。こんな風に見ている側をふっと立ち止まらせ、映画に入り込むことを拒否するような姿勢が緊張感を生み、カラックスらしさとなっているのではないでしょうか。

雁の寺

1962年,日本,98分
監督:川島雄三
原作:水上勉
脚本:舟橋和郎、川島雄三
撮影:村井博
音楽:池野成
出演:若尾文子、三島雅夫、木村功、高見国一、中村鴈治郎

 時代は昭和の初期、京都の襖絵師の妾をして暮らしていた里子だったが、その襖絵師が亡くなり、ゆくあてもなくなった。しかしその襖絵師南嶽が世話になっていた禅寺の住職に囲われることになった。その寺で暮らし始めた里子だったが、その寺には無口で奇妙な小坊主慈念がいた。
 変幻自在の映画監督川島雄三が大映で撮った3本の作品のうちの一本。軽妙な川島のイメージとは裏腹な重苦しい物語に若尾文子の妖艶さが加わってかなり見応えのある力作となっている。

 本当に川島雄三という監督は変幻自在で、どんな映画でも撮れるというか、撮るたびに違う映画を撮るというか、不思議な監督である。フランキー堺などを起用したコメディが川島流かと思いきや、ここでは重厚な作品を撮る。
 この映画は物語りもかなり重く、淫靡で暗澹としているが、映画としてもかなり見応えがある。川島としても晩期の(といっても夭逝の作家なのでそれほど歳ではないが)作品で、完成度は高い。特に映像面ではぐっと心に刺さってくる映像が度々出てくる。最初にぐっときたのは慈念が肥汲みをしている場面、肥溜めの汲み出し口から慈念を写す映像なのだが、その思いもがけない構図に驚かされる。今になって思えば、この場面のような普通では用いられない視点がこの映画には数多く出てくる。その違和感がこの映画にテンポ(重いテンポ)をつけ、映画へと入り込むのを容易にしている。
 この映画は、結果的に慈念が主役的な役割を演じるようになるわけだが、そのプロットの持っていき方(ネタばれになるので内容は言わない)と映像の変化のつけ方がともにラストに向かって緊張感をましていく。そして最後(エピローグ前)に非常に芸術的なラストが待つ。このもっていき方は本当に感心。最後のエピローグは個人的にはちょっとねという感じだが、これが川島流という気もする。まあ、それは置いておくとすれば、最後にくっと心をつかまれて、「いや、よかった」と言わざるを得ない映画になったと思う。