陸軍中野学校 竜三号指令

1967年,日本,88分
監督:田中徳三
脚本:長谷川公之
撮影:牧浦地志
音楽:池野成
出演:市川雷蔵、安田道代、松尾嘉代、加東大介

 第二次大戦中、大陸へ和平交渉のため派遣されるはずだった陸軍の高官が何者かに襲われ殺された。陸軍中野学校の草薙中佐はその事件の背後には大陸の陸軍内にいるスパイが絡んでいると考え、椎名を大陸へと派遣することにした。
 人気シリーズ「陸軍中野学校」の第3作。主役はもちろん市川雷蔵。毎回変わるヒロイン、今回は安田道代。

 全5作あるシリーズの3作目。シリーズとしてのパターンも確立され、安心して見れる反面、新鮮さはかけるというのは仕方のないところ。早川雄三演じる大陸の将校のような中野学校に対して何らかの反感を持つキャラクターがいるというのも一つのパターンとして面白い。
 映画としては結局みいってしまうよくできたサスペンスという感じで、日本映画ではなかなかスパイものというのは少ない中、かなりがんばっているという感想です。映像は職人監督田中徳三らしく、盛り上げるところは盛り上げるきちっとした演出が生かされたものになっています。市川雷蔵にすっとよるクローズアップが印象的でした。カメラマンの牧浦地志が「眠狂四郎」シリーズのカメラマンということなので、市川雷蔵とはじっ魂の仲ということでしょうか、第1作目の小林節雄に負けないいい映像を作り出しています。知らなかったなぁこの人。どんどんマニアックな知識になっていきますが、戦前に阪妻の主演で作られた雄呂血をこの3人(市川雷蔵‐田中徳三‐牧浦地志)のトリオでリメイクしているらしい。ちなみに「眠狂四郎」シリーズ一作目の監督も田中徳三です。
 と、相当マニアックな話になってしまいましたが、それだけ市川雷蔵を撮るのになれたスタッフによって撮られた作品ということです。その分増村の作品とは違って、市川雷蔵ひとりにスポットライトを当てた形の作品になったのでしょうか。そして印象的なクロースアップ。

白い花びら

Juha
1998年,フィンランド,78分
監督:アキ・カウリスマキ
原作:ユハニ・アホ
脚本:アキ・カウリスマキ
撮影:ティモ・サルミネン
音楽:アンシ・ティカンマキ
出演:サカリ・クオスマネン、カティ・オウティネン、アンドレ・ウィルム

 フィンランドの片田舎。ユハとマルヤの夫婦はサイドカーつきのオートバイで走り、自分達で作ったキャベツを町の市場で売る。仲睦まじく暮らす二人だったが、ある日ユハが車が故障して立ち往生していた男シュメイッカを家に連れてきたことで二人の関係が変化し始める。
 淡々としたスタイルを貫くカウリスマキ監督がサイレント風に描いた異色作。役者もおなじみのカティ・オウティネン。

 サイレント映画というよりはセリフのない映画。多彩な音楽に加え、効果音も入っているので、決してサイレント映画ではない。しかし、映画の作り方はサイレント映画の方法を踏襲し(少々誇張して)描いている。身振りだとか表情だとか、そういったものがセリフの変わりに様々なことを語るように描く。しかし、その大げささがいまひとつ。パロディにしているとは思えないけれど、ちょっと質の悪いサイレント映画風になってしまっている。
 それに対して、ものの描き方はうまいと思います。シュメイッカの車の名前というかエンブレムを映すことが効果的だったり、キャベツが夫婦の姿を端的に映していたりその辺りは面白かったですが、やはり全体として能弁すぎるというか、サイレント映画であるがために逆に説明しすぎたという気がしてしまいます。サイレント映画にはサイレント映画としてのもっと洗練されたスタイルがあったはずだとサイレント映画好き(初心者)の私としては思ってしまいます。
 カウリスマキのスタイルが進化していく一つの実験であるとして納得はしました。この映画を糧にもっととんでもないものを作ってくれるのではないかと期待したりします。(サイレントのミュージカルとかね)

ゴージャス

玻璃樽
Gorgeous
1999年,香港,121分
監督:ヴィンセント・コク
脚本:ヴィンセント・コク、アイヴィ・ホー
撮影:チェン・マン・ポー
音楽:デニー・ウォン
出演:ジャッキー・チェン、スー・チー、トニー・レオン、リッチー・レン

 台湾の島に住む少女プウ、イルカと仲良しの夢見る少女はボーイ・フレンドにプロポーズされる。そのプロポーズに悩む彼女は海辺で手紙の入ったビンを拾う。そこにはアルバートという男の名前で愛のメッセージが書かれていた。プウはそのメッセージを頼りに香港へと向かった。
 ジャッキー・チェン製作のアクション・ラブ・コメディ。スー・チーにトニー・レオンといういまをときめく役者陣を使ったが、かなりB級テイスト。しかし、B級映画としては相当なもの。

 ここまでプロットのつかめない映画も珍しい。ひとつひとつのエピソードの間に全く必然的なつながりがない。アランは一体なにがしたかったのか? というくらいいる理由のわからないキャラクターなのに、どうしてあそこまでアクションシーンを引っ張るのか?(それはジャッキーだから)、結局ラブ・ストーリーなのかこれは? あー、何のことやら。
 という疑問は致し方ないところですが、そんなことはおいておいて、かなり笑える映画であります。まず最初のイルカからしてわけがわからない。あのイルカの余りに不自然な動きは何なのか? そして明らかにアフレコで人間の声にしか聞こえないイルカの鳴き声は何なのか? という些細なことから始まって、どうして警官はいきなり人形なのか?(「裸足のピクニック」を思い出す) 感動を狙った(と思う)シーンの3方向アップつなぎはやっていいのか?
 ああ爆笑。ジャッキーはきっと狙ってはやっていないので、真面目にやった結果がこうなのだろうと考えることもできますが、もしかしたら監督がジャッキーにばれないようにB級爆笑映画に仕立て上げたのかもしれない。そうだとしたらこの監督はすごいかもしれない。水野晴夫と組ませたい。
 ということでこの監督についてちょっと調べたところ、監督は2作目で、前作は「008(ゼロゼロパー)皇帝ミッション」という明らかなB級コメディな題名の映画。見たことはありませんが、面白いのかもしれない。

黒い十人の女

1961年,日本,103分
監督:市川崑
脚本:和田夏十
撮影:小林節雄
音楽:芥川也寸志
出演:船越英二、山本富士子、岸恵子、宮城まり子、中村玉緒、岸田今日子

 夜道を歩くひとりの女。それを追いかける8人の女。ひとりの男・松吉を巡って8人の女は1人の女をつるし上げる。事の起こりはテレビ局のプロデューサーである松吉がたくさんの女と付き合っていたことだが、女たちもいつからか互いに知るようになり反目しあったり松吉の悪口を言い合ったりするようになっていた。
 豪華女優陣を使って1人の男と10人の女の愛憎劇を描くという壮大な映画。なんといっても唯一の男性船越英二の演技が秀逸。市川崑監督の代表作のひとつでもある。

 この映画はすごいです。60年代に入り、モダニズムが勃興し… という日本映画のちょっとした歴史に符合するようにモダニズムの空気が流れています。といっても斬新な画面の連続というわけではなく、ぱっと見た構図の妙が非常に美しい映画。有名な「十人の女が浜辺で船越英二を取り囲む」シーンなどはやはり非常に美しいです。そしてシネスコの画面の使い方が見事なのはやはりカメラマンが小林節雄だからでしょうか。増村映画をやったときに何度もいいましたが、小林節雄のシネスコの画面のつぶし方はすごいのです。この映画でも登場人物を偏らせて撮るカットはやはり面白い。小林節雄の定番、画面の前に遮蔽物を置いて画面の半分くらいを殺してしまう構図も出てきます。
 そして、なぜとはなく引き込まれてしまうプロットがこの映画の魅力。謎らしい謎もあまりないのに引き込まれてしまうのはやはり船越英二の煮え切らなさと十人の女(主には5人)のキャラクターのなせる技でしょう。ここからもっともっと話を膨らませてもう5本くらい映画が作れてしまいそうなそれくらいの濃さですから、それを2時間に押し込めてしまえば面白くないはずがない。ちなみに、十人の女たちは皆数字を絡めた名前になっているのですが、1が山本富士子(双葉)ではなくて、岸恵子(市子)であるというのも意味深な感じ。11人目になるか?と思わせた女が「百瀬桃子」というのもなかなか面白いところ。
 などなど不朽の名作ということはできませんが、いろいろな意味で面白い作品でした。伊丹一三とか、クレイジーキャッツなんかも出ているし。なんでも大映映画の何十周年かの記念作品らしいです。

女の中にいる他人

1966年,日本,100分
監督:成瀬巳喜男
原作:エドワード・アタイヤ
脚本:井出俊郎
撮影:福沢康道
音楽:林光
出演:小林桂樹、新珠三千代、三橋達也、若林映子、草笛光子

 思いつめた顔をした男・田代。ひとりカフェに入り、ビールを飲んでいると偶然友人・杉本が通りかかった。鎌倉に住む古い友人同士の2人はそろって鎌倉の行きつけのバーに行く。そこで杉本は妻さゆりが事件にあったと聞かされ、東京にとんぼ返りした。田代はひとり家に帰るが…
 成瀬巳喜男の晩年のストレートなサスペンス映画。

 基本的にスリルを楽しむサスペンスというよりは、人間の心を描こうとしている作品だとは思う。もちろん表情やしぐさから感情の動きは存分に伝わってくるのだけれど、それが過ぎると物語としての面白みが削られてしまう。人々の表情やしぐさから伝わってくる感情や考えというものは物語と絡み合って、サスペンスならではの観客の意識に微妙な揺れを生み出すからこそ意味があるのであって、タダひたすら「我」を言葉なしに語ってしまうだけでは意味がない。
 しかしさすがに巨匠といわれる成瀬巳喜男、映画の作りにそつはなく、特にカットとカットのつなぎ方があまりにスムーズ。あまりに自然なので、するすると目の前を通り過ぎていってしまうけれど、よく見てみればこれほどのよどみない繋ぎを生み出すのは至難の技なのだろうなと感心する。それは専門技術的なことではなくて、単純にカット同士の繋ぎに違和感がないということ。1つのシーンを見ても果たしてそのシーンが1カットだったのか複数のカットからなっていたのか一瞬わからないくらいの自然さ。おそらく全編を綿密に見れば、いろいろなつなぎ方で見事な流れを作り出しているのでしょう。
 そんな巨匠ならではのすごさも感じつつ、サスペンスとしては「並」と判断せざるを得ません。小林桂樹が悪いわけではないのでしょうが、ちょっと眉間にしわを寄せすぎたか。

ベンゴ

Vengo
2000年,スペイン=フランス,89分
監督:トニー・ガトリフ
脚本:トニー・ガトリフ
撮影:ティエリー・ブジェ
音楽:アマリエ・デュ・シャッセ
出演:アントニオ・カナーレス、ビリャサン・ロドリゲス、アントニオ・ペレス・デチェント、フアン・ルイス・コリエンテス

 アンダルシアの小さな町で開かれるパーティー、それを主催するカコ。彼は体の不自由な甥ディエゴを溺愛し、娼婦の世話までしようとする。しかし陽気に振舞う2人はカコの娘ペパの面影を忘れることができなかった。
 途切れなくフラメンコの音楽がかかり、情熱的に迫ってくるこの映画は「観る」というより「浴びる」のがいい。

 映画を「浴びる」。圧倒的に迫る音楽は冷静に映画を見せてはくれない。ひたすらに降り注ぐ音楽と映像を浴び、その中に浸り、それによって押し付けられる感情に浸る。否応なく感じさせられる怒りあるいは苦悩にもいらだつよりは身を任せ、映画が押し進むその方向に押し流されていくことで何とか映画を消化できる。
 連続するクロースアップや(過度といっていいほどに)雄弁にものを語る登場人物の表情が暴力的ではあるけれど確実に見るものの感情をコントロールする。
 という映画です。確かに力強いけれど、ちょっと暴力的過ぎるかなという気がします(内容ではなく映画として)。そして音楽の映画ということで、さすがに音楽は素晴らしいですが、演奏シーンはすごく長い。兵隊が寄ってくるところのようにちょっとまわりにエピソードを加えたり、カコの夢と現の間のようなシーンみたいに映像的な工夫がなされているとその長さも苦にならないのだけれど、ひたすら演奏を映しているシーンはちょっと長すぎるかなという気はしました。
 音楽に浸って忘我したいという気分にはぴったりかもしれません。プロットもそれなりに練られていたし。やはりガトリフは自分の世界をしっかりと構築しているので、着実にいい作品を作ります。大きくはずすことはない。この映画はガトリフとしてはちょっと平凡な映画になってしまった感も無きにしも非ずですが、これが彼の世界なのでしょう。

メトロポリス

2001年,日本,100分
監督:りんたろう
原作:手塚治虫
脚本:大友克洋
音楽:本多俊之
出演:井元由香、小林桂、富田耕生

 巨大都市メトロポリス、そこではそれを象徴する「ジグラット」の式典が行われていた。メトロポリスを事実上支配するレッド候は国際手配犯である科学者のロートン博士に巨額の資金を払って一体のロボット“ティマ”を作らせていた。その時、そのロートン博士を追って日本から探偵の伴俊作と甥のケンイチがやってきていた。
 手塚治虫の短編を大友克洋が戯曲化し、りんたろうが監督したという豪華な作品。その期待にたがわず豊穣な世界がそこには描かれている。本多俊之の音楽も秀逸。

 やはりアニメはこうじゃなくっちゃ。「アイアン・ジャイアント」もたしかに面白いけれど、あの単純さはやはり子供向けという観を免れない。それに比べてこの映画はすごい。勧善懲悪に表面的には見える(表面的にも見えないかもしれない)その実は非常に哲学的な善と悪の概念が交錯する。果たしてなにを「悪」とみなすのか。それが問題なのである。
 ここに出てくる登場人物たち。ロック、レッド候、アトラス、彼らは異なるものを「悪」と考えていた。その様々な「悪」に対して絶対的な「善」なるものが存在するのか。純粋無垢な存在であるケンイチとティマはその「善」なるものになれるのか?
 解釈的にあらすじを述べるとそういうことだと思います。かなり物語へのひきつけ方もうまく、キャラクターも素晴らしい。特にロボットの描き方はすごく面白い。映像はそれほど「すげえ!」ということはありませんが、やはり完成度は高いと思いました。
 そしてそして、個人的には音楽の使い方がすごくいいと思いました。デキシーランドジャズ風(でいいのかな?)を中心にジャズナンバーをうまく使う。こういう叙事詩的なものを描くとどうしてもクラッシックを使いたくなるものですが、そこをジャズで行ったというところは素晴らしいし、映像と音楽の兼ね合いがまた素晴らしい。ラスト前のあのシーン(ネタばれ防止のためシーンはいえない)にかかる曲(そして曲名もわからない)。何のことやら分かりませんが、そこだけを切り取っても一つの作品となりうるような素晴らしさでした。

ポイズン・ボディ

Deadly Sins
1995年,アメリカ,95分
監督:マイケル・ロビソン
脚本:マルコム・バーバー、ジョン・ラングレー
撮影:バリー・グラヴェル
音楽:バロン・アブラモヴィッチ
出演:アリッサ・ミラノ、デヴィッド・キース、アン・ウォーレン・ペグ、テリー・デヴィッド・ミュリガン

 海に浮かぶ小さな島、そこにある修道院で自殺事件が起こった。折りしも、その島に新しい保安官ジャックがやってくる。その事件をきっかけに修道院を調べ出すジャックは修道院長の秘書だというシスターと一緒に調査をはじめるが、そこにまた事件が…
 アリッサ・ミラノが主演したサスペンス。無意味なラブ・シーンが多いので、エロティック・サスペンスだと思います。サスペンスとしては悪くはないけれどちょっと分かりやすいかも。

 昨日も、書きましたが、アメリカ映画のわかりやすさというのがここでも出てきます。基本的に「さあ、犯人を探してください!」というスタンスで作られているので、見ている側としては犯人を探してしまうわけですが、結構分かりやすい。みえみえというほどではないけれど、なんとなく直感で分かる感じ。
 たぶん、エッチシーンを一つの見ものにしている映画なので、この程度のものでいいのだろうというところです。しかし、エロティックものに限らず、アメリカの娯楽サスペンスの推理度はこの程度のものが多い。「これが鍵だよ」って物が分かりやすく強調されるところが特徴(これ以上いうと、ネタばれになってしまうのでやめます。見る人いないと思うけど…)だと思います。
 ここからはアリッサ・ミラノに関わる全くの余談ですが、この映画はアリッサ・ミラノ低迷期の映画。このちょっと前の作品「レディ・ヴァンパイア」というのでヌードにもなっているそうです(この映画でもちょっとなってたけど)。しかし、現在は「チャームド魔女」がヒットしてアメリカではシャナン・ドハティーと共に復活。昔はもちろんアイドルでした。「コマンドー」に出てました。

天国にいけないパパ

Short Time
1990年,アメリカ,97分
監督:グレッグ・チャンピオン
脚本:ジョン・ブルメンタール、マイケル・ベリー
撮影:ジョー・コナー
音楽:アイラ・ニューボン
出演:ダブニー・コールマン、マット・フューワー、テリー・ガーバ、リー・コーヴィン、ジョー・パントリアーノ

 シアトルの警察に勤める定年間近の老刑事、定年間際で死ぬことを恐れ、犯人追跡にもしり込みする。そんな彼が生命保険のために健康診断を受けに行く。そこにドラッグ検査に来ていた男が自分のドラッグしよう発覚を恐れ検査用の血液を交換。老刑事は余命2週間半と診断されてしまう…
 よくある、という言葉がぴったりくるハリウッド・ハートフル・コメディ。どこにでもあるような映画ですが、ハリウッドらしくてよし。

 いろいろと設定面で不可解なところ(再検査しないとか)はありますが、プロットの進行上仕方ないということでしょう。そしてすりかえた相手の運転手の方はあんな扱いでいいのか。という気もしますが、分かりやすさをよしとするハリウッドでは許されるのでしょう。
 そう、ハリウッド映画のわかりやすさというのは子供向けの絵本のようなもの。先の展開が読めるのが楽しい。先を予想しながら見て、それがすべてあたっていく快感。本当は2・3ヶ所裏切られるのが一番気持ちいのですが、この映画は全てが予想通りでした。
 まあ、つまりはハリウッド映画のわかりやすさの見本という感じです。見ている側の期待を裏切らない。こんな映画なら5本立てくらいで見てもちっとも疲れない。だからアメリカのファミリーはシネコンで一日を過ごしたりするわけですね。そんなアメリカンなサバーバン・ライフを想像しながら見ていました。(筋がわかっているから、いろいろなことを考える余裕がある。)
 夏の猛暑、家を出る気もせず、しかし心に余裕があるときにお勧め。ビールとポップコーンを片手にね。

友だちのうちはどこ?

Khane Doust Kodjast
1987年,イラン,85分
監督:アッバス・キアロスタミ
脚本:アッバス・キアロスタミ
撮影:ファラド・サバ
音楽:アミン・アラ・ハッサン
出演:ババク・アハマッド・プール、アハマッド・アハマッド・プール、ゴダバクシュ・デファイエ

 主人公の少年アフマドが学校から帰り、カバンを開けるとノードがふたつ。その日も遅刻して宿題を忘れ、先生に叱られたばかりの隣の子のノートを間違えて持ってきてしまったのだ。やさしい少年アフマドは彼を探して遠くの村まで走ってゆく。無事にノートは帰すことができるのか?
 少年を描かせたら世界一のキアロスタミ監督作品の中でも最も少年が輝いてる作品。素朴にして重厚、キアロスタミ映画のひとつの到達点であるこの作品は映画史に残る名作。

 すでに古典という感じすらするイラン映画の名作だが、新鮮さを失うことはない。この作品以後についても作品が作られ、三部作のようになっているが、何度もアフマドが駆け上がり駆け下りるジグザグ道から名づけられた「ジグザグ三部作」と呼ばれる。
 このジグザグ道の反復がこの映画の最大のミソで、同じ道を上り下りしているだけなのに、徐々に心細くなってゆく少年の心理が手にとるようにわかって心揺さぶられる。この反復という要素はキアロスタミの映画ではよく用いられる要素で、反復の中に生じる微細な変化がその反復をする人の心理を言葉以上に如実に表現する。この映画でいえば、アフマドの足取りが重かったり軽かったり、うつむいていたり正面をじっとみつめていたり、その変化がとても面白い。