アラン

Man of Aran
1934年,イギリス,77分
監督:ロバート・J・フラハティ
脚本:ジョン・ゴールドマン
撮影:ロバート・J・フラハティ
音楽:ジョン・グリーンウッド
出演:コールマン・キング、マギー・ディーレン、マイケル・ディーレン

 アイルランドの西に位置する島アラン。過酷な自然に囲まれた不毛の土地で暮らす人々の姿を描いたドキュメンタリー。ほとんど草も生えず、始終激しい波にさらされる土地でも人々は力強く生きる。
 20年代から30年代を代表するドキュメンタリー作家のひとりフラハティの代表作の一つ。

 最初、字幕による説明があり、オーケストラに合わせて淡々と映像が流れる。「サイレント?」と思うが、始まって10分くらいしてセリフが話される。しかしセリフは極端に少ない。音楽を背景に映像を流しつづけるドラマ。セリフはなくともドラマとして成立し、しかも紛れもなくドキュメンタリーだ。
 しかし、ドキュメンタリーとしては少々作りこんだ感がある。一台のカメラで追っただけでは作れないような映像が多々ある。一つ印象的な場面である。少年とサメのカットバックのシーンなどもそうだ。この映画はおそらく、基本的にはドキュメンタリーだが、それをドラマ化するために、不足した部分を後から足したのではないかと思われる。それでドキュメンタリーではないということは自由だが、この映画は単純に現実の脅威というものを表していることに変わりはない。 誰しもが目を見張りひきつけられるのはやはり波の表情。断璧に打ち付けられた波は高々とその壁を登り地面をぬらす。その迫力はすさまじい。ただただ浜辺に打ち寄せる波もすさまじい。あとは、ボートに打ちつけられるサメの尾鰭の立てる音、ボートが波のまにまに消えるそのひとたび毎にふっと襲ってくる緊迫感、そんなものが心に迫ってきた。
 こんな映画を見ていると、やはりドキュメンタリーというのは現実の一瞬間をふっと切り取るものであり、それはあまりにドラマチックであるのだということを実感させられる。フィクションでは作り上げることのできない現実ならではの迫力というものがやはりある。

あの頃ペニー・レインと

Almost Famous
2000年,アメリカ,123分
監督:キャメロン・クロウ
脚本:キャメロン・クロウ
撮影:ジョン・トール
音楽:ナンシー・ウィルソン
出演:ビリー・クラダップ、フランシス・マクドーマンド、ケイト・ハドソン、パトリック・フュジット、アンナ・パキン

 サン・ディエゴに住む少年ウィリアムは大学教授の母親のもの、非常に厳しく育てられた。そんな厳しい家庭環境でウィリアムの姉はハイ・スクールの卒業とともに家出、ウィリアムスにロックのレコードを残していった。それからロックの世界にのめりこんでいったウィリアムスは15歳で地元の音楽雑誌に評論を載せるほどになった。
 キャメロン・クロウの実体験を元に、70年代のロック界を描いた作品。少年の成長物語でもあり、時代へのオマージュでもあり、などなどといろいろな要素が盛り込まれた秀作。

 結局のところ少年の成長物語なのだけれど、そこにうまく音楽を使い、時代性を持ち込み、まとまりのある世界を作り出す。実体験に基づいているというだけにプロットの進め方に力があり、物語にすっと引き込まれる。これがこの映画の全てかもしれない。映像も普通で、つまりさりげなく、時間の流れ方も滞りない。特に緊張感が高まるシーンもなく、先の見えないミステリーというものがあるわけでもない。それでもこれだけ力強く物語を転がしていけるのだから、なかなかのものといわざるをえないというわけ。
 この映画で印象的なのは、どうしてもペニー・レイン=ケイト・ハドソンの顔です。もちろんアップが多いというのもありますが、なんとなくパッとひきつけられる表情を浮かべています。それほど美人というわけでもなく、好みでいえばアンナ・パキンのほうが好きだけど、この映画ではケイト・ハドソンが映るとはっとしてしまう。ウィリアムスに自己同一化していたという事なのか、それともケイト・ハドソンの力なのか、キャメロン・クロウの撮り方なのか?
 撮り方で言えば、これはあくまで印象ですが、ケイト・ハドソンのクロースアップでは、背景がぼやけているシーンが多かったような… クロースアップというのは概して背景にはピントがあっていないものですが、この映画のケイト・ハドソンの場合は意識的にそんな演出がなされていたのかもしれないとふっと思いました。気のせいかも。
 でも、それは効果として幻想的な、夢うつつなイメージを生むものだから、ウィリアムスの心理とは一致していていいのではないの? やっぱり意識的なのかも。それは監督かカメラマンか当人だけが知る意図ですが、こんな疑問を見つけると、同じ映画をくり返し見たくなります。

スナッチ

Snatch
2000年,アメリカ,102分
監督:ガイ・リッチー
脚本:ガイ・リッチー
撮影:ティム・モーリス=ジョーンズ
音楽:ジョン・マーフィ
出演:ブラッド・ピット、デニス・ファリナ、ベニチオ・デル・トロ、ヴィニー・ジョーンズ

 ベルギーの宝石業者から盗まれた86カラットのダイヤモンド、これを持ってロンドンに降り立ったフランキー、早速ニューヨークのボスに電話を入れるが、賭博好きのフランキーは罠にはまって監禁されてしまう。これを機にダイヤを巡って男達の汚いバトルが始まった。
 「ロック・ストック・トゥー・スモーキン・バレルズ」と同じく、イギリスを舞台にしたクライム・ムーヴィー。「ロック~」と同様脚本がよく練ってあり、映像も現代的。いかにも流行にイギリス映画という風情の作品。アメリカ映画だけど。

 結構面白いけれど、なんだか雰囲気が「ロック・ストック・トゥー・スモーキン・バレルズ」に似すぎ、その分、「ロック~」と比べるといまいちという部分が際立ってしまったという感じ。
 しかし、スタイリッシュな映像感覚と、入り組んだプロットの組み立て方はかなりのもの。やはりガイ・リッチーは並みの監督ではないということでしょう。ブラッド・ピットも大物俳優を袖にして切れ具合はピカイチ、かなりの存在感を発揮する。ブラピのおかげかどうなのか、「パンキー」たちの存在は個人的にはかなり好き。描き方がというよりはその存在の仕方自体が気に入ったという事で、映画そのものとはあまり関係ありませんが。
 ヨーロッパの監督がアメリカに行くと毒を抜かれがちですが、この作品もそんな感じがしなくもない。ガイ・リッチーはいい仕事をしていますが、いい仕事以上のことはしていない。もっと何かをぶち壊すパワーのようなものが感じられない。
 面白いことは面白い。でももっとすごいものを期待してしまう。そんな映画。そんな監督。次の作品は別の方向性に行くか、もっと突き抜けるかして欲しいところです。

 ところで、この映画、振り返ってみると女の人がほとんど出てきません。ブラピのあ母さんとノミ屋の店員さん以外はセリフのある人もいなかった気がする。気のせいかな? 

人狼

2000年,日本,98分
監督:沖浦啓之
原作:押井守
脚本:押井守
撮影:白井久雄
音楽:溝口肇
出演:藤本義勝、武藤寿美、木下浩之

 大きな戦争が終わり、10数年がたったころ、日本のような国の東京のような場所、自衛隊、自治警察、首都圏警察という3つの警察組織が存在していた。首都圏警察は甲冑に身を固めた特殊部隊。そんな武装化に対抗するかのように反政府勢力も先鋭化しゲリラ化していた。
 異なった歴史の道筋を描くという一つのSFのパターンをアニメ化した映画。いまやアニメにとどまらず、様々な活動を繰り広げる押井守が原作と脚本という作品。

 はっきり言ってSFとしては劣悪だ。ありえない過去を描くという発想はSFにとって無益だと思う。それが起こる可能性があったというだけのことで、物語を構築し、そこに何らかの教訓を見出せるほどわれわれは自己批判に積極的ではない。
 この物語自体は、押井守が「ケルベロス」などで描いてきた世界の延長にあるのだろうけれど、私はこういうディストピア(ユートピアの逆)的な世界観は気に入らない。ナレーションに頼る長い導入部というのも気に入らない。
 確かに映像としては、昔ながらの古風な平面アニメーションであるようで、光や透明感の出し方が非常に秀逸で、目を見張るものはある。特に光と影の表現は秀逸。画自体は非常に平面的なのに、光の強弱と影の作り方で奥行きを作り出しているところはかなりすごい。
 これだけいいアニメーション(映像という意味)を作りながら、どうしてこんな退屈な物語を作ってしまったのか、とかなりの疑問が湧いてくる作品。登場人物の無表情さもおそらくアニメのパターンを壊そうという演出なのだろうけれど、それによって人物の深みが奪われてしまっているような気がする。
 やはり、こういうアニメーションを見ていると、アニメはマニアのものというところから脱しきれていないような気がしてくる。マニア向けということもないのだろうけれど、アニメをアニメとして気構えて見ないと、この世界にはのめりこめないと思う。

ザッツ・エンタテイメントPART2

That’s Entertainment, part 2
1976年,アメリカ,120分
監督:ジーン・ケリー
脚本:レナード・ガーシュ
撮影:ジョージ・フォルシー
音楽:ネルソン・リドル
出演:ジーン・ケリー、フレッド・アステア

 ジーン・ケリーとフレッド・アステアがミュージカル映画の名作を紹介するアンソロジーの第2弾。有名なシーンや有名なスターが次から次へと登場する。
 ミュージカル映画が好きな人なら、ふんふんとうなずきながら見れます。映画マニアは薀蓄をたれられます。まったく知らない人でも歌と踊りを単純に楽しめるはず。

 これだけ歌と踊りの場面だけを集まるというのはやはり凄い。司会もしているジーン・ケリーの映画がやたらと多かったものの、それもご愛嬌、偉大なミュージカル俳優であることは確かなので、いたしかたありません。
 個人的にはあまりミュージカルには入り込めないほうなのですが、この時代のハリウッド映画の凄さというのは感じさせられます。途中で「見事な合成」といっている場面がありますが、それは電波少年より拙い合成。それくらいの技術レベル、つまりCGなんてまったくない技術で、この映像を作りには相当なことをしなければならない。全盛期のハリウッド映画が膨大な数のエキストラを使ったというのは有名な話ですが、ここで出てる映画で、題名は忘れましたが、異常にたくさんのダンサーが出てくるシーンがある。しかもそれがかなりうまい。ただの素人でもいいエキストラならまだしも、ある程度のダンサーを集めるのは大変だったろうな、それくらい映画産業が脚光を浴びていたんだろうなと考えてしまいました。
 それと、出てくる映画群を見ていて気づいたのは1カットが長い。街中で踊るシーンなんかでも、移動するのを追いながらなかなかカットが切れない。大変だったんだろうな、撮影。

ロスト・ソウルズ

Lost Souls
2000年,アメリカ,98分
監督:ヤヌス・カミンスキー
脚本:ピアーズ・ガードナー
撮影:マウロ・フィオーレ
出演:ウィノナ・ライダー、ベン・チャップリン、ジョン・ハート、フィリップ・ベイカー・ホール

 教会の施設で暮らすアンは助手として神父の悪魔払いの儀式についていく。彼女も以前、悪魔払いをされて経験があった。その悪魔払いの場から持ち出した暗号文を解くアンはそこに隠された「ケルソン」という名前に気がつく。
 ウィノナ・ライダー主演のオカルト・ホラー。監督のヤヌス・カミンスキーはスピルバーグ作品のカメラマンとして活躍してきたカメラマンで、監督はこの作品がはじめて。プロデューサーにはメグ・ライアンも名を連ねるという不思議な作品。

 まったく期待せずに見た割には、なかなかいい作品。しかしかなり地味なのでオカルトファンやホラーファンはうけつけないでしょう。そして、あくまでオカルト映画なので、普通の映画好きはうけつけないでしょう。
 という事なので、ヒットする要因もなく、あまり面白いという人もいないだろうと予想される作品ですが、私は「なかなか」と思いました。
 それはなぜか? なんといっても物語がありきたりであり、意外性がない。これはホラー映画にとって致命的であるように見えますが、実際のところホラー映画の眼目は謎解きにはない。こういうと乱暴ですが、ホラー映画は怖ければいい。それがこの映画の眼目であるわけです。しかしさらにこの映画の凄いところは怖くない。というところ。ストーリーに意外性もなく、怖くもないホラー映画っていったい…
 と書くと「なかなか」というのが皮肉に聞こえてきますが、そうではなくて、この映画はある意味で見る側の裏をかいている。当然予想されるべき意外な展開や恐怖という期待を裏切る凄さ。にもかかわらず物語り展開とかかわりのないところで単純に観客を「驚かせる」。怖がらせるのではなくて驚かせる。
 これは凄いんじゃないの… とふっと思ったりしたわけです。
 かなり説得力がないと思うので、もうひとついい点を上げればやはりそれは映像。この映画はシネスコですが、オカルト映画なので画面の大半が暗く、画面の一部が殺されている映像が多いのです。これが構図として面白い場合がたまにあります。

DISTANCE

2000年,日本,132分
監督:是枝裕和
脚本:是枝裕和
撮影:山崎裕
出演:ARATA、伊勢谷友介、寺島進、夏川結衣、浅野忠信

 カルト教団が水道水にウィルスを混ぜ、多数の被害者を出す事件がおきてから3年。3年目のその日、年齢も職業もばらばらな4人が事件の起きた貯水池へと向かう。彼らは事件を起こした後死んでしまった加害者の遺族達。彼はそこで元信者に出会った。
 監督3作目にしてすでに評価の定着した是枝監督は、淡々とした中に複雑な思いを織り込んだ物語をつむぐ。この映画もそんな味わいの作品。
 「グループ魂」でおなじみ大人計画の村杉さんも出演。

 いくつかのテレビドキュメンタリーを手がけてきた是枝監督ならではのドキュメンタリー要素を取り込んだ作品。カメラマンもTVドキュメンタリーで有名な山崎裕を「ワンダフル・ライフ」に続いて起用。手持ちカメラの映像がドキュメンタリーらしさをさらに演出する。
 私はいつも最近のいわゆる「ドキュメンタリータッチ」を毛嫌いしていますが、この作品は違う。ドキュメンタリーとフィクションの違いとわれわれが思う一番多い要素はドキュメンタリーの予測不可能性で、シナリオがないドキュメンタリーでは計算どうりに映像を作り上げることはできないということである。いわゆるドキュメンタリータッチのフィクションの多くはその予測不可能性を演出によって作り出そうとすることでそこに幾らかの「うそ臭さ」が漂ってしまう。
 この映画は脚本の時点で細かいセリフやカメラ割の指定を排除することで、予測不可能性を作り出す。つまりカメラを回し始めるとき、そこで何が起こるのかの予測が不可能であるわけだ。もちろん、設定や人物の位置や動くタイミングなどは決められているし、うまく取れなければ取り直しをするということだろうが、ここで実現されるのは意外性のある映像である。
 監督の頭の中で作品が組み立てられ、その要素をとっていくという典型的なフィクションの手法はここでは取られない。ある種の意外性が監督の頭の中のイメージに付加されていくことで映画自体に様々な価値が加わってくる。これは是枝監督がドキュメンタリーとフィクションを融合させるということを実現させつつあることの証明なのかもしれない。
 前もってドキュメンタリーであるかフィクションであるかを告げられない限り、単純に見ただけではその区別をつけることは難しい場合がある。つまりフィクションとドキュメンタリーの間には映画としての絶対的区別は存在しない。そのそもそも存在しないはずの区別によって意味もなく分類されているドキュメンタリーとフィクションというの境界を消滅させつつあるのがこの映画なのかもしれない。

鬼教師ミセス・ティングル

Teaching Mrs.Tingle
1999年,アメリカ,96分
監督:ケヴィン・ウィリアムソン
脚本:ケヴィン・ウィリアムソン
撮影:イエジー・ジェリンスキー
音楽:ジョン・フリッセル
出演:ケイティ・ホームズ、ヘレン・ミレン、バリー・ワトソン、マリサ・コグラン

 優等生のリー・アンは卒業生壮大になって奨学金をもらわなければ大学へ行き、小説家になるという母親との夢がかなわない。そこに立ちはだかるのは歴史の鬼教師ミセス・ティングル。リー・アンは自信作の課題を持って歴史の授業に臨むのだが…
 「スクリーム」の脚本家ケヴィン・ウィリアムソンがはじめて監督した風変わりな青春スリラー。ホラー畑の人なので映画の作りはホラーだが、内容はちょっと違うなかなか風変わりなバカ映画。

 好きですよ私は、こういうバカ映画。映画としては忠実にホラー映画の作法に従っておきながら、内容としてはなんて事のない青春映画。
 しかし全てのよさはあくまでもホラー映画の作法に従ったというところ。キャラクター設定しかり、撮り方しかり。
!!注意!!
 ちょっとネタばれ目になっていくので、これから見ようという人は読まないでね。
!!!!!!
 やはり悪者は一貫して悪者であるのがホラー映画の作法。途中から改心していい人になってしまっては成り立たない。そんなヒューマンドラマはいらない。 悪者に襲われるヒロインの視界を中心にあらゆるところを映して恐怖心をあおるのがホラー映画の作法。前から後ろから横から物陰まですっかり映して緊張感を高めていく。
 最後の屋敷での心理戦は完全にホラー映画として描ききった。そのあたりの徹底したところがこの映画のバカさ加減を助長していい。ここでいうバカさ加減というのはもちろん誉め言葉ですが、これだけばかばかしいことを真面目に撮るというのは非常にいい。
 個人的には「スクリーム」は中途半端で気に入らないけれど、こっちの映画は徹底していて好きなのです。狙いすましたB級映画という感じです。ぜひ、ミセス・ティングルには他の学校に転勤してもらって、次なる生徒をいじめて欲しい。今回の教訓を生かしてね。

狂っちゃいないぜ

Pushing Tin
1999年,アメリカ,124分
監督:マイク・ニューウェル
脚本:グレン・チャールズ、レス・チャールズ
撮影:ゲイル・タッターサル
音楽:アン・ダッドリー
出演:ジョン・キューザック、ビリー・ボブ・ソーントン、ケイト・ブランシェット、アンジェリーナ・ジョリー

 ニューヨークの航空管制官ニックは、自他共に認めるナンバー1の管制官。過度のストレスがかかり、セラピストにかかる同僚も多い職場だが、そんなこともなんのそのいつも仲間と楽しくやり、妻と最中睦まじく暮らしていた。しかし、ある日その職場にやってきたラッセルは変人だが腕は凄いという評判の男だった…
 航空管制官というなかなか目に付かないところをクローズアップして描いたドラマ。特に可もなく不可もなくという感じ。

 航空管制官というのはいいところに目をつけたのかもしれない。航空管制官を描いた映画は以前に何か一本見たことがあって、題名は忘れてしまい、この映画を見ながら、内容がごっちゃになってしまったけれど、とにかくあまり頻繁に映画に取り上げられるようなものではないわけで、そういう意味では未知のものに対する好奇心というのがある程度映画に対する興味をもひきつける要因にはなる。
 しかし、この映画は結局のところ管制官の心理を掘り下げていくわけではなく、夫婦関係と仕事というものに還元していってしまうので、逆に物語が進むに連れて興味をそがれてしまう。果たしてニューヨークにこんな古きよきアメリカ的な職場が存在するのか、という疑問も感じるし、一人一人に人物に深さがない。
 掘り下げようと思えば掘り下げるところは結構ありそうなのに、それをするりと逃してしまい、通り一辺倒の物語にしてしまったところが最大の問題なのではないでしょうか。
 全てが惜しい作品ですが、ただ一つよかったのは飛行機が行き交うところ。冒頭のクレジットが出るところからかなり飛行機が飛び交い、かなり気持ちいい。これは映画全体にいえて、空中を飛行機が何台も飛んでいるというシーンは他では見たことがないくらいリアルで、緊張感があった。それは結構見る価値のある映像かも。

けんかえれじい

1966年,日本,122分
監督:鈴木清順
原作:鈴木隆
脚本:新藤兼人
撮影:萩原憲治
音楽:山本丈晴
出演:高橋英樹、浅野順子、川津裕介

 高校生の麒六は下宿する家の娘道子に思いを寄せる。しかし、カトリックの家でもあり、思いを伝えることのできない麒六はそのエネルギーを喧嘩に向ける。果たして麒六の運命や…
 鈴木清順の代表作のひとつに数えられるこの作品。モノクロの画面に登場人物たちがよく映える。

 この映画は確かに面白い。ドラマとして面白い。喧嘩に明け暮れる番カラ男とマドンナが出てくるわかりやすい青春映画というところ。その番カラ男がキリスト教に縛られているというのも一つひねりを加えてあって面白い。
 という非常に雄弁な物語に映像の美しさが加わって、有名な桜のシーンなどは確かに色を感じさせるモノクロの映像となっているわけです。
 しかし、何かが物足りない。それは多分、これが日活映画らしい日活映画だからかもしれない。高橋英樹というスターを主役に配し、そのスターをヒーローとして描く作品。それを清順は崩そう崩そうとして入るけれど、崩しきれなかったという感じ。そう、その崩そうという努力は感じられるのだけれど、やはりスターの看板を崩すわけにはいかず、ちょっとずれた部分の面白み(有名なピアノのシーンとか)や映像的な工夫(パチンコだまのシーンとか)といった形で表現するほかなかったという不満。
 これはやはり日活という映画会社が60年代石原裕次郎をはじめとするスター映画を大量に世に送り出していた映画会社だったからなのでしょう。決して監督中心ではない映画。だから清順のやりたいことを完全にはできなかった。そんな不満が垣間見えてしまうような作品でした。