オリーブの林をぬけて

Zir-e Derakhatan-e Zeyton
1994年,イラン,103分
監督:アッバス・キアロスタミ
脚本:アッバス・キアロスタミ
撮影:ホセイン・ジャファリアン、ファルハッド・サバ
出演:ホセイン・レザイ、モハマッド・アリ・シャハーズ、タヘレ・ラダニアン

 この映画は「映画監督役をする」という俳優のセリフから始まる。そして彼以外の出演者はみな素人であると宣言され、出演する女性を探すシーンで映画がスタートする。その後も映画の撮影そのものとそれにまつわる出演者たちのエピソードで映画は展開されていく。
 どの出演者も実名で登場することもあって、どこまでがフィクショナルな部分なのかはまったく判別がつかない。しかし、キアロスタミ本人は登場しないことから、全体としてはひとつのフィクションとして作られているということなのだろう。

 これはとても不思議な映画だ。おそらく多くの部分は素人の出演者たちの生な部分なのだろう。演じるように指示されたものかもしれないが、それは事実に基づく物語であるように思える。とはいえ、ここではどこまでが事実でどこからがフィクションであるのかの線引きをすることはまったく重要ではない。重要なのはこれがフィクションであるにしろ、イランの現実を反映しているということだ。「友だちのうちはどこ?」の撮影で訪れた土地が地震に襲われ、多くの死者が出たことから紡がれることとなった2つの物語。それは「そして人生はつづく」とこの「オリーブの林をぬけて」だが、その二つの物語に登場する人々はまったくの現地の人たちであり、たとえばホセインは映画の中で述べているように25人の親戚を地震で失ったのだろう。
 そのように非常に事実であるにもかかわらず、全体はフィクションであり、しかも映画の撮影を撮った映画であるという複雑さが全体を不思議な雰囲気にしているといえる。そして素人たちが映画作りに加わることから生じるさまざまな事態も不思議な雰囲気を醸し出す一因だ。これは推測だが、この素人が加わることによって生じる事態というのはキアロスタミ自身が前2作を撮るときに感じたものをそのまま映画に表現したものなのだろう。映画の中での監督が、どうしても「ホセインさん」といわないタヘレに怒りを爆発させそうになるが、相手役のホセインに「最近は夫にさんなんてつけない」とたしなめられて、自分の主張を引っ込める。これなどはキアロスタミが実際に経験したことなのだろうと思える。そのような事態はプロの役者を使ったら絶対に起こらないことだろう。
 このようなことが起きることでキアロスタミは映画のすべてをコントロールすることはできないと気づいたかもしれない。そしてそれを表現するべくこの映画を撮ったのかもしれないと思う。そう思うのはこの作品以後もキアロスタミが素人の役者たちを使い、それによって起こる予想外の事態を積極的に映画に取り入れているように見えるからだ。このような傾向はキアロスタミにとどまらず、イランの監督たち一般に言える傾向である。この監督に統御しきれないところから生まれた要素というのが私にとってのイラン映画の魅力のひとつである。
 しかし、キアロスタミはしっかりと自分の仕事もし、自己を強烈に主張する。それは、ラストシーンである。それまでまったく使わなかった音楽を使い、そしてあの圧倒的なロングショット。誰もがただの白い点になってしまった人物の一挙手一投足を目を細めてみてしまうだろう。それはもちろんこのラストシーンに至るまでの二人の物語にわれわれが入り込んでしまったからこそなのだろう。そんな非常に魅力的なラストシーンはキアロスタミの映画の中でも最上の5分間だと思う。そして映画史上においても屈指のものだと思う。

トラベラー

Mossafer
1974年,イラン,72分
監督:アッバス・キアロスタミ
原案:ハッサン・ラフィエイ
脚本:アッバス・キアロスタミ
撮影:フィルズ・マレクザデエ
音楽:カンビズ・ロシャンラヴァン
出演:マスード・ザンベグレー、ハッサン・ダラビ

 イラン南部の町に住むガッセムはろくに学校にも行かず、学校は落第、友達とサッカーばかりして親の心配の種だった。そんなガッセムがテヘランであるサッカーの試合見たさに、何とかお金を工面しようとするが、しかしその方法は…
 イランの巨匠キアロスタミの長編デビュー作。少年の日常の一ページを切り取った作品は「友だちのうちはどこ?」などに通じる世界がある。シンプルで余計なものが一切ないという作り方も最初からだったらしい。

 一番すきなのは、ガッセムが子供たちの写真を撮るシーン。次々とやって子供の写真を撮る、ただそれだけのシーン。お金をもらい、子供を立たせて、シャッターを押す。ただその反復。しかし、次々映る子供の姿や顔にはさまざまなものが浮かんでいる。おそらくこの子供たちは街で見つけたそこらの子供たちで、本当に写真をとってもらったことなどほとんどないような子供たちなのだろう。だからこの部分はある意味ではドキュメンタリーである。
 このシーンは、プロの役者ではない人たちを使ったイラン映画に特徴的な半ドキュメンタリー的なシーンであり、かつキアロスタミに特徴的な「反復」を使ったシーンである。この映画はほかの映画に使ってこの反復という要素は小さいけれど、それでもこの小さなシーンが反復によって成り立っているということは興味深い。キアロスタミの反復といえば、一番わかりやすいのはもちろん「友だちのうちはどこ?」のジグザグ道で、同じように少年が上っていく姿を反復することがこの映画の要になっているといっていい。このような反復がデビュー作の時点で姿を見せている(厳密に言えばデビュー作は短編の「パンと裏通り」であるが、この作品でも反復の要素は使われている)というのはとても興味深い。
 見ている時点では時間もすんなり流れ、物語もストレートで、すっと見れてしまうのだけれど、見終わった後でなんとなくじんわりと来る映画。いろいろなんだか考えてしまう。ガッセムと親友(名前は忘れてしまいました)との関係性とか、親や学校といったもの。イラン人の行動の仕方というものにすっとどうかすることはできないのだけれど、映画が終わって振り返ってみるといろいろなことが理解できてくる感じ。簡単に言ってしまえば少年の閉塞感というようなものですが、その息の詰まるような感じを感じているのは、少年だけではなくて母親だったり、先生だったりするのかもしれないと思う。

トゥルー・ストーリー

Yek Dastan-e Baghe’i
1996年,イラン,125分
監督:アボルファズル・ジャリリ
脚本:アボルファズル・ジャリリ
撮影:マスード・コラーニ
出演:サマド・ハニ、メヒディ・アサディ、アボルファズル・ジャリリ

 TV用の新しい映画制作のため、主人公を演じる少年を探すジャリリ監督。しかし、なかなか見つからない。そんな時に立ち寄ったパン屋でであった少年サマドが彼のめがねにかなった。ちゃんとした交渉をするため、次の日彼を呼びにやると、彼は店からいなくなっていた。
 撮影予定だったフィクションの撮影を取りやめ、少年サマドの実話をドキュメンタリーという形で映画化した作品。普段から素人の役者を使うジャリリ監督だが、これは完全なドキュメンタリー作品で、また違う趣き。

 いわゆる「映画の映画」なのかと思ったらそうではなく、一人の少年を追ったドキュメンタリーとなる。確かにひとつのドラマとして、人道的というか道徳的というか、そういう物語であり、かつ独善的ではないという点でとてもいいお話だと思う。しかし、これを一本の映画として成立させてしまっていいのかという気もする。
 ジャリリ監督は、素人の少年を映画の主人公に使い、撮影が終わった後もその少年たちを援助し、良好な関係を結んでいるという。それはとてもすばらしいことだし、いい映画が撮れて、かつそのような少年たちが幸福になるならそんなすばらしいことはないと思う。
 しかし、その少年を救うひとつの物語を一本の映画としてしまうと、それは映画監督ジャリリのひとつの行為というよりは、一人の人間であるジャリリがたまたま映画監督であったがためにその行為を記録しただけということになってしまいはしないか? という疑問が起きる。彼はこれをひとつの映画として完成させようと奮闘し、撮影を許可してくれる医師を探した。しかし、それは映画監督であることと一人の人間であることを両立させるということにはつながらず、一人の少年を救うということと映画を完成させるという二つの目標の間で宙ぶらりんになってしまったところから来る妥協のように見えてしまう。
その中途半端さがあるために、映画(つまり作り物)としてまとめるために挿入されたと思われる、カットとカットの間の電子音と暗い一瞬のカットにも空虚さが漂う。そして最後につけられたメッセージもその中途半端さを補うためのつじつまあわせの言葉のように聞こえてしまう。実際のところは心から少年を救いたいと思い、行動したのだろうけれど、映画としての中途半端がそんなうがった見方をさせる余地を残す。
 私は、この映画が映画として完成するためには、本来の目的であった「時計の息子」という作品を何らかの形で制作するか、あるいはサマドを主人公にした(フィクションの)映画を作る必要があると思う。そのそもそも映画として作られた映画と互いに補完することによってようやくひとつの映画世界が完成するように思えて仕方がない。この作品がTV用のものならなおさらそうなんじゃないかと思う。

スプリング-春

The Spring
1985年,イラン,86分
監督:アボルファズル・ジャリリ
脚本:アボルファズル・ジャリリ
撮影:メヒディ・ヘサビ
音楽:モハマド=レザ・アリゴリ
出演:メヒディ・アサディ、ヘダヤトラ・ナビド

 イラン・イラク戦争が激しさを増す中、老人シナが一人暮らす森の小屋へ連れられてきた一人の少年ハメド。両親から一人離れ、疎開生活をする彼はなかなか森とシナになじむことができない。それでもシナはハメドを温かく見守り、彼につらい思いをさせないように勤めるのだが…
 「ぼくは歩いていく」などのジャリリ監督の長編デビュー作。イラン・イラク戦争というモチーフも、北部の寒い土地という設定もいわゆるイラン映画とは異なる趣き。

 夜の森でシナが聞いたという音。その場面でかぶせられた音はいろいろな音が交じり合い、その後の昼間ハメドが「同じ音を聞いた」という音。それは夜の場面とは明らかに違う音。しかしどちらも複雑に混ざり合い、しかも大きく増長された音。ハメドが聞いたという音は列車の音。しかしそこに混じるいろいろな音。
 ほかにもキツツキの音やラジオなど、「音」が非常に強調された映画である。その描き方にはいろいろな理由付けが考えられるだろう。ジェット機や爆撃といった音と悲劇を結び合わせるハメドの心の反映。主に音を頼りにして森の生活を送るシナの鋭敏さの表現。
 どちらにしても増長された音の表現は彼らの音に対する敏感さを表すのだろう。われわれが日常聞いている音の中に埋もれたさまざまな音をも聞きだす鋭敏な耳。その独特な表現にこの間得な非凡なところを感じるけれど、その表現によって意味されるものを感じ取るのはなかなか難しい。なかなか交わることのできない二人の心。あるいは共通の過去の痛みか…
 ところで、この映画の風景はイランらしくない。やたらと雨が降り、しかも寒そう。砂っぽい砂漠やキシュ島みたいな南の島のイランとは違うイラン。こんなイランもあるんだ、という感じ。
 もうひとつところで、イランには傘がないのだろうか? こんなに雨が振っているのに誰も傘を差していない。「サイクリスト」でも雨が降ってきても、みんな傘をささず、なぜかビニール袋をかぶっていたりする。あまり雨が降らいというなら、傘を差さないというのも理解できるけれど、結構雨が降っているのに傘がないのはなぜ? と思ってしまいます。余談でした。

カンダハール

Safar e Ghandehar
2001年,イラン,85分
監督:モフセン・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ
撮影:エブラヒム・ガフォリ
音楽:モハマド・レザ・ダルビシ
出演:ニルファー・パズィラ、ハッサン・タンタイ、サドユー・ティモリー

 カナダに亡命したアフガン人ジャーナリストのナファス。20世紀最後の日食の日に自殺するという手紙を妹から受け取った彼女はカンダハールにいる彼女を救うため、戦火のやまぬアフガニスタンに入りカンダハールへ向かう。まずはイラン国境のキャンプへ行き、アフガニスタンに帰る難民の家族に紛れさせてもらったが、簡単にカンダハールにたどり着くことはできなかった。
 キアロスタミと並ぶイランの巨匠マフマルバフが実話を元にアフガニスタンを描いた話題作。一種のロード・ムーヴィーの形をとり、アフガニスタンの現状がわかる形でドラマが展開してゆく。

  まずは「9・11」に触れなくてはならない。隣国に住むマフマルバフはアフガニスタンに気づいていた。そしてアフガニスタンを世界に思い出させようとした。しかしマフマルバフでさえ遅すぎたのかもしれない。マフマルバフが「カンダハール」を完成させたころ、タリバーンはバーミヤンの石仏を破壊した。マフマルバフは「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない。恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」という文章を発表し、世界にアフガニスタンを思い出させようとした。
 しかし世界は9月11日までアフガニスタンのことを思い出さなかった。私もまたその一人だ。「カンダハール」がもう少し早くできていたなら、何かが変わっていたかもしれない。もう少し早く世界がアフガニスタンを思い出していたならば、何かが変わっていたかもしれない。
 ナファスは妹を救うことができなかったのかもしれない。運命を変えることができなかったのかもしれない。この映画ができたのはナファスを演じるニルファー・パズィラが自殺を図ろうとしている友人を救うためマフマルバフに助けを求めたことに始まった。彼女の友人は自殺を思いとどまったのだろうか?この映画は何かを変えることができたのだろうか?
 しかし、少なくとも、この映画は今後何かを変えることができると思う。ビン・ラディンとタリバーンをEvil(悪)と決め付けてしまったアメリカと世界がこの映画を見たらどう思うか。報道統制をしてまでビン・ラディンを絶対的な「悪」に祭り上げたブッシュはこの映画を見て自らを恥じ入るだろうか? ホワイトハウスからこの映画を見たいという要請があったらしいが、ブッシュは彼が虐殺したタリバーンなるものはこの映画の中で小銃を握りながら列になってクルアーン(コーラン)を読む少年たちに他ならないことに気づくだろうか?個々の人間から遊離したタリバーンという概念を「悪」と決め付けることでそれを構成する人々もまた「悪」であると決め付けるその暴力性。あちこちで言われているように「爆弾でブルカを脱がすことはできない」のだ。
 われわれはアメリカの報復の醜さと非道さをもっと声高に叫ばなければならない。暴力を更なる暴力で打ち消そうとすることのむなしさを訴えなければならない。

 さて、言わなくてはならない、そしてまたもっとも言いたかった「9・11」についてはひとしきり言ったので、その文脈からちょっと距離を置いたところで映画を見てみましょう。
 義足にパラシュートをつけて投下するヘリコプターが結び目となってひとつの円を描く時間。この円の概念はマフマルバフのひとつのイメージだ。「行商人」も一つの時間の円還を描き、「サイクリスト」は回ること自体が映画であり、「パンと植木鉢」にも円を描く時間が出てきた。この円のイメージはハリウッドに代表される西洋の映画の線形の時間に対するアンチ・テーゼだろう。西洋の独善的なものの見方を否定するための足がかりとして時間の概念から突き崩す。そんな意図の現われだと思う。だから線形の時間の捉え方で物語のつじつまを合わせようとしてもそれは無理な話だ。そしてこれをファンタジー、あるいはファンタジックと決め付けて簡単に片付けてしまって疑問を覚えないのは一つの見方でしかものを見られない狭量さである。
 そんな狭量な見方でこの映画をマフマルバフを見ると、映画の中の人々を感じ取ることができない。義足を騙し取ろうとする男や妻の義足を取りに来た男に対処する赤十字の医師の困惑や苛立ちを共有し、彼らを邪険に追い返してしまうことになる。それはこの映画をも追い返してしまうことだと思う。映画の外部から映画の世界に入るには、ブラック・ムスリムの医師のように付け髭をつけて彼らを感じ取ろうとしなければならないのだろう。貧しさですべてを片付けてはいけないと思う。貧しさからすべてを説明しようとしてはいけないと思う。歌を歌うのを見られるのが恥ずかしいという少年ハクとナファスの聞こ
えないところで録音を吹き込むブラック・ムスリムの医師のその相似に、この映画へと入り込む鍵があるのかもしれないと思った。
 円ということに話を戻すと、映画自体も日食に始まり、日食に終わる。その日食はもちろん同じ日食で、これもまたひとつの円還であるのだ。フィルムの最初と最後をつなげば、それは終わることのないエンドレスの物語となる。物語がそのように繰り返されたならば、そこに浮かび上がってくるのはどのようなものだろうかと考えるのは考えすぎだろうか?

アタック・ザ・ガスステーション!

Attack the Gas Station
1999年,韓国,108分
監督:キム・サンジン
脚本:パク・チョンウ
撮影:チェ・ジョンウ
音楽:ソン・ムヒョン
出演:イ・ソンジェ、ユ・オソン、カン・ソンジン、ユ・ジテ

 ガソリン・スタンドを襲う4人の若者。店を破壊し、金を奪った彼らはその数日後「退屈だから」という理由で再び同じスタンドを襲う。しかし、そこに金はなく、金を持ってこさせるために店員たちを監禁するのだが、その間にも客はやってくる。客からもらった金をそのままいただこうと考えた彼らは接客を始めるのだが…
 韓国で大ヒットしたアクション・コメディ。わかりやすい展開とわかりやすい笑いが安心して見られます。

 B級な作品かと思ったら、意外にちゃんとした作品で、はちゃめちゃなコメディというよりは、現代の若者を描いたまともなドラマという感じ。だからヒットしたのかな、という気がします。
 しかし、個人的には最初の勢いを続けて、最後まではちゃめちゃなコメディでいってほしかった。韓国の映画を見ていると、結末が甘っちょろいというか、結局いいお話で終わっていくものが多い。突き放すような終わりかたや救いようのない終わり方をする映画がなかなかない。
 この映画も既成の価値観をぶち破るような若者っぽく最初は登場するのに、ふたを開けてみれば、価値観の枠にはまってしまうような人たち。価値観を根本から覆すようなことはしない人たちである。別に検閲があるわけではないと思うので、そういう映画が受け入れられるような雰囲気が醸成されているということなのだろうし、それが悪いわけではないけれど、何かを壊していく映画が好きな立場からはなんとなく物足りない気がしてしまう。
 でも、コメディとしてはなかなかいいギャグもあったので、良しとします。キャラとしては「無鉄砲」がかなりいいキャラで、「連想ゲーム」あたりはかなりよろしいですね。後は地味ながら4人のうち絵を書いている人(「リメンバー・ミー」に出ていた)もなかなかいいですね。後は社長の家族はどうなってるのかってのもあり。

LIES/嘘

Lies
1999年,韓国,108分
監督:チャン・ソヌ
原作:チャン・ジョンイル
脚本:チャン・ソヌ
撮影:キム・ウヒョン
音楽:タル・パラン
出演:キム・テヨン、イ・サンヒョン

 卒業を間近に控えた女子高生のYは親友のウリとウリが大好きな彫刻家Jとの仲を取りもとうとJに電話をしてみるのだが、電話をしているうちにY自身がJのとりこなってしまう。落ち合ってそのままホテルへと直行したYとJは危険な倒錯愛に落ち込んでゆく…
 過激な内容で賛否両論話題を呼んだ小説の映画化。映画もまたその過激さから話題を呼んだが、衝撃的なほど性描写が過激なわけではない。

 最初の30分はひどいもの。ドキュメンタリーっぽくビデオで撮られたの出演者へのインタビュー。安物のAVまがいのラブ・シーン。手ぶれやぼかしも鼻につく。たとえば、JがYを駅で待つシーン、ショットはJの主観なのだけれど、改札口から出てくるYの姿にピントはあっていない。そのピンボケの状態はYがJのすぐそばに来るまでつづく。この撮り方に何の意味があるのか、どんな効果があるのか? 何かの効果を求めて作っているのだとしたらあまりに的外れではないかと思う。
 内容もたいしてショッキングではなく、ただのSM好きのおやじの話でしかないよとおもう。韓国においてセンセーショナルで、パイオニアであったとしても、それは韓国という国の国内事情によるものに過ぎず、映画という世界においてはひとつも新しいものはない。
 そんな新しさもないところで、何か救いを求めるとするならば、二人が逃避行をする部分での救いのなさだろうか? しかしそれも最後には周到に救われてしまうことで、意味を奪われてしまう。ただひたすら落ち行く二人を描ききれば、二人は救われないにしても映画としては救われるものになったかもしれないと思う。
 結局のところこれはポルノに過ぎないということ。それもいわゆる「ポルノ」に。きのうのアナベル・チョンのような思想のあるポルノではない単なるポルノ。しかし、ポルノであるものが一般映画として作られたということが韓国では意味のあることなのかもしれない。ひとつの壁というか規制を崩すという意味では意味があったのかもしれないと思う。この映画によって崩された壁を越えた作品の中からいいものが出てくれば、ちょっとは救われるのかしら、とも思う。

男達の挽歌

英雄本色
1986年,香港,95分
監督:ジョン・ウー
脚本:ジョン・ウー
撮影:ウォン・ウィハン
音楽:ジョセフ・クー
出演:チョウ・ユンファ、ティ・ロンレス、リー・チャン、エミリー・チョウ

 偽札製造と麻薬取引を生業とする香港マフィアの幹部のひとりロンは弟のチャンが警官になることを決めたことで、足を洗おうと決意する。そしてロンは親友で弟分のユンファを置いて、最後の仕事を済ませるために台湾へと旅立った…
 いまやハリウッドでも大物となったジョン・ウーの初期の傑作。「香港ノワール」と呼ばれるジャンルの先駆け伴った作品で、香港=カンフーという概念をつき崩した記念碑的作品。

 今から見ればやはり15年前の作品で、なつかしさすら漂います。もちろん、スローモーションの使い方など当時は相当斬新であっただろうことは、今ある幾多のアクションに引けを取らない迫力からも容易に想像できます。しかし、そこは日進月歩のアクション業界。なかなか今も手に汗握って見られるかと、それはなかなか難しいのではなかろうかと思いました。
 しかし、チョウ・ユンファの咥えマッチとレスリー・チャンの甘いマスクは今だからこそいっそう味わい深いのかもしれない。そして人間ドラマとしても濃い。そのあたりにジョン・ウーがブレイクしていった背景が見えるとも思います。
 それにしてもやはり、アクション映画には鮮度が重要なのだと改めて思わされました。これだけの映画でも15年経つと、こんなものかと思ってしまう。それはこの映画の影響力の強さゆえだとはわかっていても、そう感じてしまうもの。それが鮮度ということでしょう。

きらめきの季節/美麗時光

美麗時光
2001年,台湾=日本,100分
監督:チャン・ツォーチ
脚本:チャン・ツォーチ
撮影:チャン・イーミン
出演:ファン・チイウェイ、ガオ・モンジェ、ウー・ユゥジィー、ツェン・イーチャア、ツァイ・ミンショウ

 台湾の下町に暮らす一家。働きもせずギャンブルにほうける父親たち、癌に苦しむ娘を抱えながら息子たちはチンピラの仲間入りをしてしまう。この一家の2人の少年を主人公にどことなくファンタジックに描いたドラマ。
 チャン・ツォーチは前作「最愛の夏」が話題を呼んだ新鋭監督。

 普通に見えたドラマが級に転換する面白さ。最後映画が思わぬ展開をしていくために様々な複線が張られている。一番大きいのはもちろん川に飛び込んだ二人というエピソードだけれど、それ以外でも時間の感覚をどこか狂わせるような工夫が凝らされている。そもそも家の周りの迷路のような道。どこがどうなっているのか、最初は全くわからないが、繰り返し家への道をたどっていくうちに分かってくる。しかし結局のところ全体像を把握することはできない。そしてすぐに切れる街灯。熱帯魚。いろいろな要素が見る側の時間の感覚を失わせ、物語り全体を迷路のように構成してゆく。
 あとはどうですかね。道とのかかわりでロングショットが多くて、結構映像的にも面白かったですね。その物語的な特異さを除けば、アジア的なアジア映画という感じです。

囁く砂

Whispering Sand
2001年,インドネシア=日本,106分
監督:ナン・アフナス
出演:クリスティン・ハキム、ディアン・サストロワルドヨ、スラメット・ラハルジョ

 インドネシアのある島の浜辺で暮らす母と娘。父親はいなくなり、母がお茶の屋台と産婆の手伝いをして生計を立てていた。ある日、そこに踊り子をしている叔母が訪ねてくる。叔母は旱魃のせいで街は治安が悪化し、放火までが起こっていると知らせ、ここから逃げるよう勧めるが母親はそれを受けいらない。しかし、あるよ村にも火の手が上がり、母娘も逃げざるを得なくなった…
 いかにもアジアらしい寡黙な映画。映画の中に登場するインドネシアの風景に新鮮な驚きがある。

 まずプロットが分かりにくい。放火をして回る人たちは誰なのか? 迷彩服に身を包んだおそらくゲリラの人たちは何なのか? インドネシアの人なら見ただけでその背景は分かるのだろうか? 私には全くわからなかった。放火する人たちは、雨が降らない事が理由とされている。しかし、雨が降らなくてなぜ放火をするのか全くわからない。そのあたりの脈略のつながらなさに引きずられていまひとつ映画に入っていけない。むしろ超自然的な力とか魔術的な力で説明されている方がまだ入りやすかったような気がする。お父さんというのもいまひとつ人物像がはっきりしない。
 この映画は題名のとおり「砂」の物語で、毎朝砂に埋もれてしまう家というのも出てきて、どうしても安部公房のあるいは勅使河原宏の「砂の女」を思い出してしまう。そんなことを考えながら見ると、この映画では砂に埋もれてしまう家がいまひとつ生かされていない気がする。ただそこに家があるというだけで、「砂に埋もれてしまう」という設定は全く物語には関係してこない。「砂の女」を知っていると、それがなんだかもったいなく感じてしまう。あの家使ってもっと面白いことができるんじゃないか、などと考えて、またも映画の本筋から心が離れてしまう。
 けなしてばかりですが、それはやはり映画に入り込めなかったから。そうすると、主人公の母娘の気持ちにも共感ができない。となるとどうしても批判的な目で見てしまうのです。しかし、気に入ったシーンがひとつ。それは母娘が山を旅するシーン、砂嵐がやってきて去るとひとりの男が隣にいる。そして、その周りの砂の中からたくさんの人が這い出てくる。ただそれだけのシーンですが、インパクトがあるし、なんだか「砂」の持つ別の一面が語られているような気もしました。