ふたつの時、ふたりの時間

那邊幾點
2001年,台湾=フランス,116分
監督:ツァイ・ミンリャン
脚本:ツァイ・ミンリャン、ヤン・イーピン
撮影:ブノワ・ドゥローム
出演:リー・カンション、チェン・シアンチー、ルー・イーチン、セシリア・イップ、ジャン=ピエール・レオ

 シャオカンは父をなくした。ひっそりと葬式をして、シャオカンはいつものように路上で腕時計をする生活に戻るが、母親は父親の霊を呼び戻すことのかたくなになる。腕時計を売っていると、翌日パリに行くという女性アンチーがシャオカンのつけている腕時計を売ってくれと強引に買っていく。シャオカンはそのときからパリのことが気に掛かり始めた。
 カメラマンに『青いパパイヤの香り』などで知られるブノワ・ドゥロームを迎えたが、基本的には淡々としたツァイ・ミンリャンの世界は変わらない。

 リー・カンションの佇まいはいい。無言でも何かを語る。それは必ずしもうまいということではなく、雰囲気があるということ。時計の卸やで時計をたたきつける前から、そんなことをやりそうな雰囲気がある。時計を売っているだけで絵になる。何が起ころうともそれが運命であるかのような顔をしている。
 そのような佇まいをジャン=ピエール・レオも持っている。この映画の中で引用されるのは、『大人は判ってくれない』の牛乳を盗むシーンだが、このシーンだけでも、その雰囲気は感じられる。おそらくわざとらしくない演技ということなのだろうが、何かそれを超えた自然さというか、もとから持っている雰囲気なんじゃないかと思わせる何かがある。それは本人の登場シーンでの、なんだかなぞめいた薄い微笑みからも感じられる。
 そして孤独だ。ツァイ・ミンリャンの同情人物たちはみな孤独だが、今回もまた孤独だ。しかし、いつもどおり、その孤独にはどこか救いがある。『Hole』では最後に救われた。この映画ではずっと孤独でありながら、ずっとどこかに人とのつながりを感じさせる。それは非常に希薄なつながりではあるのだけれど、つながりであることは間違いない。シャオカンとシアンチー、シャオカンの父と母、シャオカンと母、そのつながりははかなく、明確に語られことはないけれど、この映画はまさにそのつながりを描いた映画なのだと思う。だからこの映画は本当は孤独を描いた映画ではなく、孤独ではないことを描いた映画なのだ。人は本来的に孤独だということと、本来的に孤独ではないということ、この相反する2つのことが、決して相反するわけではないということを描いているような、つまり、それは同時に真実でありえるということを描いているような、そんな微妙な映画。
 しかし、よく考えると、そんなことはこの映画に限らず、あるいは映画に限らず、どんなことからも導き出せる結論なのかもしれない。

Hole


1998年,台湾=フランス,93分
監督:ツァイ・ミンリャン
脚本:ツァイ・ミンリャン
撮影:リャオ・ペンロン
出演:ヤン・クイメイ、リー・カンション

 2000年まであと7日と迫った台湾。あるマンションで謎のウィルスが蔓延し、隔離する措置がとられていた。そこに住む若い男は地下の市場で乾物屋を営む。その男のところに下の階で漏水しているので調べさせてくれと水道屋がやってくる。下の階には女性が住み、異常なほどの水漏れで家はビチョビチョだった。
 近未来を舞台に、ミュージカル的な要素も織り交ぜた異色作。かなり不可思議な空間だが、何故か心地よい。

 まっとうな映画を見ている人のまっとうな反応はおそらく「なんじゃ、コリャ」というもの。全くわけがわからない。ストーリーもわからなければ、途中で挿入される妙に長い歌のシーンもわけがわからないということになる。小難しく映画を見ている人は、何のかのと解釈をつける。世紀末とか、懐古主義とか、閉鎖空間とかそういった感じで、多分精神分析的に見たりすることもできる。
 しかし、わたしはこの映画はなんとなく見るべきだと思う。目に飛び込んでくるもの、耳に流れ込んでくるものをただただ受け入れる。そこに間があって、何かを思考できる時間があっても、そんなことはやめて映画がパズルのように頭の中に納まっていくのを待つ。答えを得ようとするのではなく、そこに何かひとつの空間が立ち上がってくるのを受け入れる。そのような見方をしたい。
 と、言いながら、それを解釈してしまうのですが…
 そのようにしてみると、この映画に存在するのはひとつのカフカ的な空間であり、しかしそれは決して悲劇的ではない。階上の男は孤独という迷宮に、階下の女は水という迷宮にとらわれているわけだが、その独立して存在するはずの2つのカフカ的迷宮がひとつの穴によってつながったらどうなるのか、全体としてはそのような映画なのだと思う。
 そこに挿入される歌はいったいなんなのか? この解釈はおそらく自由、投げ出されたものとして存在しているでしょう。映画とは直接関係のなさそうな歌詞と映像。映画のために作られたのではなく、もともとあった音楽なので、それは当たり前なのですが。おそらくこの映画は音楽のほうから作られている。ひとつの高層があり、そこにあう音楽を探したのではなく、まず音楽があって、そこから映画ができた。グレース・チャンという一人の昔の(50年代ころらしいですが)スターがいて、その音楽がつむぎだす時代と世界というものがある。それに対して現代(あるいは近未来)というものがある。そこのすりあわせで生まれてきた世界がこの映画であるということなのだと思います。
 「Hole」は2つの部屋(カフカ的迷宮)をつなぐ空間的な穴であると同時に、過去と現在をつなぐ時空間的な穴でもあるのかもしれません。
 このレビューを読んでさらにわからなくなった人。あなたは正しい。

鬼が来た!

鬼子来了
2000年,中国,140分
監督:チアン・ウェン
原作:ユウ・フェンウェイ
脚本:チアン・ウェン、シー・チュンチュアン、シュー・ピン、リウ・シン
撮影:クー・チャンウェイ
音楽:リー・ハイイン、ツイ・チェン
出演:チアン・ウェン、香川照之、チアン・ホンポー、ユエン・ティン

 1945年、日本軍占領下の中国の小さな村掛甲台、日本軍の砲台があり毎朝、軍艦マーチがなる村に住む馬大三は愛人と暮らしていた、そんなある夜、謎の中国人が大三に銃を突きつけ、「荷物を預かってくれ」と言った。実はその荷物は日本兵と日本軍の通訳だった…
 『紅いコーリャン』などで知られる俳優チアン・ウェン(姜文)の監督第2作。難しく重いテーマを扱いながら、ブラックユーモアで包み隠し、軽く見られるように仕上げている。

 目につくのは過剰なクロースアップと手持ちカメラで追うアクションシーン。映画のテーマとなるべき部分が語られるとき、カメラは執拗に発話者を追う。丹念に、忠実に発話者の顔を正面からクロースアップで捉える。そのしつこさは耳に聞こえてくる言葉を振り払う。もちろん字幕で読んでいるのだけれど、そもそも耳に聞こえてくるのは言葉であり、その言葉が聞こえなければ、字幕も頭に入ってこない。この映画の言葉は頭に入ってこない。しつこく映されるでかい顔の口が動き、音が出ているのだけれど、その音が意味を成すことはない。
 アクションシーン、手持ちカメラで、動く人を至近距離で捕らえようとするその映像には肝心の人が映っていない。ただ動く何者かがあるだけ。人を斬る瞬間も、走る勢いもそこには映っていない。ただ乗り物酔いを誘うような揺れる画面があるだけ。そこからは中国人と日本軍の関係性は伝わってこない。
 アクションやユーモアでテーマの重さをカヴァーする。それは決して悪いことではない。しかし、そのカヴァーの下のどこかでそのテーマを追求するべきではないだろうか? この映画でその追求されるべきテーマは上滑りするセリフの中にしかない。
 要するに、この映画にはリアルさがない。このリアルでなさの原因は何か。誤解を恐れずに言えば、それはカットの多さ。もちろんカットが多くてもリアルな映画はある。しかし、この映画の場合カットを多く割ることによって、画面と画面のつながりが、そして人と人とのつながりが希薄になる。クロースアップの繰り返しである会話の画面のセリフがなぜ真に迫らないのかと言えば、その一つ一つの発言(一つ一つのカット)が全体から浮いていて、それぞれがひとつの一人語りでしかないからだ。つまりそこには会話が成立していない。役者自身がその人になりきれていないのかもしれない。とにかく、この画面に登場する人たちは生きていないのだとわたしは思う。

燃えよドラゴン

Enter The Dragon
1973年,香港=アメリカ,103分
監督:ロバート・クローズ
脚本:マイケル・オーリン
撮影:ギルバート・ハッブス
音楽:ラロ・シフリン
出演:ブルース・リー、ジョン・サクソン、ジム・ケリー、シー・キエン

 少林寺でも随一の実力を持つリーは師から少林寺の精神を裏切ったハンの話を聞かされ、アメリカの役人からハンの島への潜入操作を依頼される。さらに、自分の妹が命を落とした真実を聞かされ、ハンの島で開かれる武芸トーナメントに参加することに決めた。
 香港で名声を極めたブルース・リーがアメリカンメジャー初の香港ロケ映画に主演。しかし、公開直前に謎の死を遂げてしまった。映画はブルース・リーの死後、約3分間がカットされて公開。現在はその3分間を入れなおしたディレクターズ・カット版が発売されている。

 ブルース・リーがいなければどうしょうもない映画になっていたでしょう。話の筋もよくわからないし、プロットに必然性があまりにもないわけです。ハンが謎の人物ということですべての不合理が片付けられる。鏡の部屋がなぜあるのかは見当もつかない。そんな映画なわけですが、そのすべてをブルースリーのアクションと、筋肉と、目と、眉間の皺で補って余りある。なんといっても、倒れた相手の内臓に蹴り込むシーンの顔のアップ。うーん、こんなに切なく人を殺せる人は映画史上他にいません。
 監督としては(あるいはブルース・リーが)いろいろなメッセージをこめようとして、おそらく監督のほうは、ウィリアムスとローパーにヴェトナム帰りという背景を持たせ、ウィリアムスと警官のいざこざや、その語りでメッセージをこめようとしているのだけれど、それはあけすけ過ぎて今ひとつ伝わってこない。それよりもブルース・リーが自らの体(たとえばやはりあの顔)で語る哲学のようなもののほうが観客の心に伝わってくるわけです。
 だから、どう振り返ってみてもこれはブルース・リーの映画で、パラマウントのブルース・リーをアメリカ映画に取り込もうという作戦は失敗している。確かにブルース・リーは英語をしゃべっているけれど、それは香港を体現するものでしかなく、アメリカ映画にはならない。むしろアメリカ人たちはお客様で香港人による香港の物語となってしまう。
 つまり、ブルース・リーはかっこいい、他に並ぶもののないアクターだということ。この映画はそれが香港だけではなくて、ハリウッドにも通じるのだということを証明しているのだと思います。ブルース・リーの映画で他に面白いものもありますが、ブルース・リーを評価する上ではこの事実を逃すわけには行かないということでしょう。
 余談を2つ。娘のシャノン・リーは1998年に『エンター・ザ・イーグル』という作品に主演しています。しかし邦題は『燃えよイーグル』ではなくて、原題のまま。『燃えよイーグル』にしたらヒットしたかもしれないのに。
 あとは、最初にブルース・リーと組み手をしているのはどう見てもサモ・ハン・キン・ポー。ちょっとやせていますが、やはり身軽でバック転を軽々としているので確かでしょう。

少林サッカー

少林足球
2001年,香港,112分
監督:チャウ・シンチー、リー・リクチー
脚本:チャウ・シンチー、ツァング・カンチョング
撮影:クウェン・パクヒュエン、クォン・ティンウー
音楽:レイモンド・ウォン
出演:チャウ・シンチー、ン・マンタ、ヴィッキー・チャオ、カレン・モク

 「黄金右脚」といわれる名プレイヤーだったファンはチームメイトのハンが持ちかけた八百長に乗ってしまい、PKをはずして観客に襲われ右脚を折られてしまった。20年後、ファンは変わってスターとなったハンの下で働いていた。 そんなハンが街で少林寺拳法の普及を夢見るシンとである。最初はバカにしていたハンだったが、彼のキックが並々ならぬものであることに気づく…
 香港の喜劇王チャウ・シンチーが監督主演したアクション・コメディ。ワイヤー・アクションはバリバリ、ネタはベタベタ。

 映画は面白ければいい。ということをこれだけあっけらかんと示されると気持ちがいい。いろいろ言えば、いろいろ言える。しかし、あまり何も言わないほうが面白い。と言いつつ言わねばならないのですが。
 さて、なんといっても目につくのはワイヤー・アクションとCGですね。どちらもどうでもいいところに多用されているのがいい。これはまさに過剰なことが笑いを生むものなわけですが、すべてを笑いに持っていこうというベタベタな精神はちょっと残念です。コメディ映画だからしょうがないし、このままでも十分腹がよじれるほど面白いのですが、もしやっている本人たちはいたって真面目ということが画面に現れつつも、その果てしない過剰さで見ている者を笑わせずにはいないというものが作れれば、それはもう内臓が噴出すほど面白いものになったのではと思います。
 こんなことを真面目につらつらと書いていても仕方ないので、楽しい気分で行きましょう。オープニングのアニメーションは正統派でかっこいいのですが、その前のカンパニー・クレジットからしてパロディです。しかも脈略とは全く関係ありません。パロディといえば、この映画はたくさんのパロディが含まれていますね。踊ったり、ドラゴンだったり、いろいろです。キーパーの人はブルース・リーにそっくりですが、ユニフォームがそろったときにキーパーの服を見て誰かが「それ、かっこいいなあ。交換しようぜ」などといっているのもかなりのもの。このブルース・リー関係ではかなりいろいろなネタがあると思うのですが、ブルース・リーファンというわけではないわたしはたくさん見逃している気がします。 チャウ・シンチーさんは拳法とかやっていたんでしょうかね。それとも香港人にしてみるとこれくらいのことは常識なのか。少林拳とか崋山派とか太極拳とかいろいろ出てきます。そのあたりの違いは今ひとつわかりませんが、面白いからいいか。結局全部それ。
 あまり面白さが伝わっていない気がしますね。まあ、でもこの面白さを文章で伝えるのは無理というもの。
 この映画は熱狂的なファンが多く生まれ、DVDなども企画もののボックスなどが発売されました。そこまでマニアではなくてもチェックしたいのが、字幕版と吹き替え版の違い。セリフの長さが違うので、内容が微妙に変わってくるのはどの映画でも同じですが、この映画の場合、字幕版と吹き替え版でギャグがかなり違います。だから両方見れば、ギャグの量は2倍とは言わないまでも1.2倍くらいにはなるのです。さらに、日本版・香港版・インターナショナル版と3バージョンあるらしいので、それも見比べてみるといろいろと発見があるかもしれません。
 字幕と吹替えの間が開いてしまったので、どこが変わったということはわかりませんが、歌なんかはもちろん日本語になっていたりして、山寺宏一さんの吹替えは適度に音痴でなかなかよかったです。歌のシーンのみんなで踊るのは、なんとなく『ブルース・ブラザーズ』のパロディっぽい気がします。踊りもソウルな感じで、それも安っぽいパパイヤ鈴木的ソウルな感じ。このシーンも結構好きです。

 最後に、こらえられないネタひとつ(字幕にも吹替えにも登場)
 「地球は危ない。火星に戻れ」
 ぷぷぷぷぷ

夏至

A La Verticale de Lete
2000年,フランス=ベトナム,112分
監督:トラン・アン・ユン
脚本:トラン・アン・ユン
撮影:マーク・リー
音楽:トン=ツァ・ティエ
出演:トラン・ヌー・イェン・ケー、グエン・ニュー・クイン、レ・カイン、ゴー・クアン・ハイ

 ハノイに住む4人の兄弟。長女スオン、次女カインの上の2人は夫や子供とともに暮らし、3女リエンと長男のハイは2人で暮らしていた。母の命日に客を呼び、料理を作った姉妹は両親の話をし、母が初恋の人をずっと愛していたと話し合った…
 トラン・アン・ユンが『シクロ』以来で撮った長編作品。今回も舞台はベトナム。淡々とそこに住む人々の生活を描く。

 映画が始まりまず思うのはその部屋のかっこよさ。緑色の壁、掛かった絵など、非常にセンスあふれている。これは美術のセンスの良さなのだろうと思いつつ、兄弟の関係性の描き方もなかなか面白い。リエンのハイに対する思いの寄せ方は近親相姦を予想させ、そんなどろどろのはなしかと思うが、映像はあくまでさわやかでしなやか。
 果たして淡々と物語は続き、それぞれの苦悩が浮かび上がってくるわけだけれど、その中で離縁の人間像がわかってくると最初の心配は杞憂でしかなかったことがわかる。そこで明らかになった人間関係、そしてリエンのあまりに純粋で素朴な人間像がこの物語の生命線だ。
 それ以外の姉妹(とその夫)の物語は、どこにでもあるような物語、さんざん描かれてきた愛の物語。それをアジアテイストに焼き直しただけだ。すべてがこの物語に染まってしまってはこの映画は苦しい。そんな中でリエンの存在ははかなくも貴重である。だから、普通だったらあまりに臭いラストのの裏切りがすっと理解できるのかもしれない。
 さて、それにしてもこの映画、あまりにアジアを売り物にしすぎていやしないか、と思う。ベトナムには行ったことがないので実際のところどうなのかはわからないけれど、ベトナムとは描くも欧米人のアジア像に一致する風景の国なのか?すべての風景がアジア的で、出てくる人たちもアジア的。女の人は黒く長く真っ直ぐな髪、誰もがいわゆるベトナム風のシャツを着ている。それは本当だろうか?確かに、それが本当ではなく、アジア的なるものを売り物にしているとしても、それを非難する理由はないが、アジア的なもので世界的な名声を得て、賞まで取った監督には、一人のアジア人として、そのようなアジア像が欧米人の幻想に過ぎないということを表現する映画をとってほしいという思いを抱く。
 欧米人はいまだにこのような純粋で素朴なイメージをアジアに求めているのかもしれない。だから、彼らに認められるためにはそのようなアジア像を映像にすることがいいのだろう。しかし、それは続けることはその(おそらく)誤ったアジア像を強化することに過ぎず、映画作家ともあろうものがそのような自分たちの文化に対する誤解を放置するだけでなく強化することをしていいのだろうか?という疑問を覚えずにはいられないのだ。
 この映画が与えてくれる長大な(あるいは長すぎる)余白に、わたしはそんなことを考えずにいられなかった。

スケッチ・オブ・Peking

民警故事
1995年,中国,102分
監督:ニン・イン
脚本:ニン・イン
撮影:チー・レイウー・ホンウェイ
音楽:コン・スー
出演:リー・チャン、ホーワン・リエンクイ、リー・リー

 新しく地区警察に配属された新米警官を指導する国力(クーリー)は警官としては熱意あふれて、すばらしいが、家では奥さんに小言ばかり言われている。いわゆる事件から夫婦喧嘩まであらゆることに対処する北京の地区警官。そんな国力の担当区域で人が犬にかまれるという事件が続発する。
 『北京好日』で国際的な評価を得たニン・インの監督作品。プロの役者ではなく実際の警察官を出演者とし、新たな中国映画の形を模索する。

 素人を使う。という手法といえば、キアロスタミやジャリリといったイランの監督たちを思い出す。この映画も同じアジアで作られた映画ということもあり、同じような傾向を持つのかと思えば、ぜんぜん違う。この映画に登場する人物たちはプロの役者顔負けの演技をする。イラン映画の出演者たちが素人っぽさを残し(監督がそれをあえて残し)たのとは逆に、言われなければ素人であると気づかないかもしれないほどの演技を見せる。
 これはどういうことかと考える。素人を使うということの意味を素直に考えると、それはリアリズムの追求だろう。役者として演じることなく、自分のままで映画に出演すること。そのことによって生じるリアリズム。フィクションとドキュメンタリーのはざまに存在することのできる映画。そのような映画を作りたいから素人を役者として使うのだろう。この映画の場合、出演者たちが実際の警官であり、確かに映画全体にリアルな感じはある。しかし、それがドキュメンタリー的なリアルさなのかというと、そうではない。そこにあるのはフィクションであると納得した上でのリアルさである。
 つまり、この映画が素人を使う目的は「リアルさ」というものを求めるレベルにとどまっているということだ。つまり、イラン映画と並列に論じることはできないということだ。まあ、素人を使うのはイラン映画の専売特許ではなく、ヨーロッパなどでも古くから使われてきた手法なので、ことさらにイラン映画イラン映画ということもないんですが、今は素人を使うといえばイラン映画、見たいな図式が出来上がっているので、一応比較してみました。
 そんなことは置いておいてこの映画をみると、映画自体もいまひとつ踏み込みが足りない。まさに邦題の「スケッチ」というにふさわしい軽いタッチ。警官たちを描くことで何が言いたいのかが今ひとつ浮き上がってこない。おそらくこの地区警官と住民委員会とアパートの林立(都市化)は北京において問題になっていることなのだろう。その問題のひとつとして飼い犬の問題があることはわかる。しかし、この映画が語るのはそこまでで、そこから先は個人の物語にすりかわってしまう。そのあたりにどうも不満が残る。果たして中国の映画状況がどのようなものなのかはわからないけれど、そこに自らの判断をぐっと織り込むことができないような環境なのだろうか?
 ここまでは文句ばかりですが、決して悪い映画ではない。映画自体は非常にエネルギッシュで熱気が伝わってきてよい。登場する人々も非常に魅力的。素直な目で見れば、中国のいろいろな状況もなんとなく伝わってきて、「ほー、へー」と納得しながら見ることができる映画だと思うのです。いろいろなことを考え出すと、ちょっといろいろ考えてしまうということ。

花様年華

花様年華
2000年,香港,98分
監督:ウォン・カーウァイ
脚本:ウォン・カーウァイ
撮影:クリストファー・ドイル、リー・ピンビン
音楽:ミカ・ギャロッソ、梅林茂
出演:トニー・レオン、マギー・チャン

 1962年、香港。新聞社に勤めるチャウは貸し部屋を訪ねるが、一歩の差で借りられてしまう。それでも隣に部屋を借りたチャウ夫妻は隣のチャン夫妻と同じ日に引っ越した。ともに仕事に忙しい二つの家の夫婦だったが、チャウはある日妻がチャンの夫と浮気していることに気づく。
 若者向けのスタイリッシュな映画を撮ってきたカーウァイが一転、落ち着いた大人のドラマを撮った。しかし基本的なスタンスは一緒かもしれない。

 ウォン・カーウァイは他の映画と違うというところに価値を置いているような気がする。クリストファー・ドイルのカメラに助けられて『恋する惑星』などなどのヒット作を撮っていたころ、その映像のスピード感は他の映画では見たことのないものだった。しかし、ヒットすれば似たような映画が続々登場するのは映画業界の必然。香港にとどまらず、日本でもアメリカでも似たような映画が続々登場した。
 カーウァイはこの映画でそれに抵抗し、限りなく「遅い」映画を撮る。異常なほどに含まされた「間」。シーンとシーンの間に挟まれる黒い画面、台詞のない長い長いシーン、さらには多用されるスローモーション。執拗なまでにスローダウンさせられた映画。それがこの映画だと思う。もちろん映画を遅くすれば、描ける物語は少なくなる。しかし一定の時間に限ってみればその描写は濃くなっていく。だからこの映画は全体にじっとりとしていて、いろいろなことがそこから染み出てくるのだけれど、あまりに「間」が長すぎてついつい寝入ってしまうというのもある。
 それでも、唐突に時間がジャンプするところがあったりして、その間や、言葉にならないしぐさや表情を見る側に読み取らせようとする意図が感じられもする。しかし、実際のところ、カーウァイが求めるのはただ映像と音に浸ることだろう。ついつい物語を追ってしまうと苛立ちを感じたりするけれど、ただただ映画に浸っていればなかなか気持ちいい映画だと思う。
 ただひとつ気に入らなかったのは、舞台を過去にしてしまったこと。過去を舞台にし、いわゆる中国的なものを香港に当てはめる。そのいわゆる中国的なものを道具化してしまったカーウァイは最後に「過去は想うのみ」ということでその矛盾を顕わにしてしまう。
 あるいは映画に描いた中国的なものなどはすでにアンコールワットと同じく遺跡でしかないといいたかったのだろうか。

反則王

THE FOUL KING
2000年,韓国,112分
監督:キム・ジウン
脚本:キム・ジウン
撮影:ホン・ギョンピョ
出演:ソン・ガンホ、チャン・ジニョン、パク・サンミョン、チャン・ハンソン

 銀行に勤めるデホは今日も朝礼に遅刻し、しかも契約を一つも取れないことを副支店長にどやされる。その日、デホはトイレで出会った副支店長にいつものようにヘッドロックをかけられた。その夜、デホはたまたま通りかかったプロレス団体にヘッドロックのはず仕方を教えてもらおうと尋ねてみた。
 シリアスな役の多いソン・ガンホがコメディに主演。覆面レスラーというアイデアとソン・ガンホだけで持っているといっていいかもしれない映画。でも、結構ドツボにはまる人もいるかもしれないと思う。

 まあ、とにかくマスクをつけた男というビジュアルありきの映画でしょうか。街中でスーツにマスク。このミスマッチ感はとてもいい。しかし、その割には、マスクの画が多用されるわけでもない。映画の内容としては可もなく不可もなく。言いたいことはわかるし、織り込みたいネタのふりもなかなかなのだけれど、物語の重点というか、プロットの核のようなものがない。ソン・ガンホが演じるデホという男が中心となるものの、そこから出てくる物語はあまりに散漫。いろいろな物語が混在すること事態は悪くないけれど、そのそれぞれの物語の間のつながりがあまりに希薄。それが映画全体の冗長さを生んでしまったのではないかと思われます。コメディ映画はやはりテンポが命。テンポよくやってくれないとネタも生きないということで。
 それを補うのはソン・ガンホ。この人はかなりいい役者らしい。「どこが?」といわれると困りますが、キャラクターの作り方が自然。この映画のデホはどうにも情けない男なのだけれど、その情けなさをしっかりと出しながら、決して暗くはならない。そのあたりがうまいといっていいのではないでしょうか?
 あと、『アタック・ザ・ガス・ステーション』を見たときにも思ったことですが、韓国映画の音楽はかなりいい。いわゆる洋楽の要素を取り入れながら、しかし今の日本の音楽とも違う太い感じの曲を作る。映画はどうにもならなかった『LIES』ですら、音楽はなかなかのものでした。ただ耳新しいというだけのことかもしれませんが、予告編に流れる音楽を聴いて、なんとなく見に行ってみたくなるのでした。

愛情萬歳

愛情萬歳
1994年,台湾,118分
監督:ツァイ・ミンリャン
脚本:ツァイ・ミンリャン、ヤン・ビ・リン、ツァイ・イチャン
撮影:リャオ・ベンジュン
出演:ヤン・クイメイ、リー・カンション、チェン・チャオロン

 セールスマンのシャオカンはある日、高級アパートで扉に刺さったままになっている鍵を見つけ、それを抜き取って持っていく。その夜、そのアパートに行ってみると、そこは空き家のようだった。夜の街で何度かすれ違う男と女が言葉を交わさぬまま、そのアパートにやってくる…
 台湾ニューウェーヴの旗手の一人ツァイ・ミンリャンを一躍世界の舞台へと引き上げた作品。せりふもあまり交わされず、まったく音楽を使わないというところも印象的な作品。

 映画全体にわたって、何かが起こりそうという期待感を抱かせながら、何も起こらないというパターンの繰り返し。その「何かが起こりそう」という期待感は映像の構成の仕方にある。たとえばメイがベットに横たわる場面。画面の左側が大きく開き、メイの視線はその空白の向こう側に注がれている。この画面をぱっと見ると、その視線の先に何かありそうな気がする。そこで何かが起きそうな気がする。しかし、メイの視線はうつろになり、そのまま何も起こらずにシーンが切り替わる。同じように、シャオカンがベットに横たわるシーン。シャオカンのクロースアップから仰向けになったところを正面から写すショットに変わる。そのとき、シャオカンの顔や視線は映らない。このように近いショットから、いわば他者の視線へと移ると、そこには具体的にその画面を見つめる誰かがいるのでは?という気持ちにさせられる。しかし、それは具体的な誰かのショットではなく、誰もおらず、言葉にならないシャオカンの一人語りが続くだけだ。
 このような裏切りというか肩透かしは、われわれが映画による感情の操作に慣らされているせいでおきるのだと気づく。映画を見るということを繰り返すうちに、そこにあるひとつのパターンに染まり、ひとつの典型的な映像の作り方が出てくると、その後起こるべきことを勝手に想像する。もちろんそれは常にあたるわけではないけれど、あたることが多いからこそ一つのパターンとして無意識のうちに認識されるようになるのだ。
 そのようなパターンを裏切ることが映画に驚きを加え、映画を面白くするということもわかる。だから、そのようなパターンはたびたび裏切られる。しかしそれはあくまで驚きを「加える」ためだ。この映画はすべての場面でその期待を裏切る。それは最初のうちは生じていた驚きを最後には拭い去ってしまう。裏切られることを当然として映画を見るようになる。
 最後の一連のシーン。ただただ歩くメイを映すカット、長い長いパン移動のカットこれらはその後に何かが起こることを期待させるカットであるはずだ。しかし、2時間この映画に浸ってしまうと、普通にこのシーンを見た場合とはなんだか感触が変わってしまっている気がする。それはこの映画が執拗に浮き出させようとする「孤独」というものとも関連があるかもしれないが、今日のところは画面に映ったものだけにこだわって考えてみた。