夢の涯てまでも

Until the End of the World
1991年,アメリカ,158分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ピーター・キャリー、ソルベイグ・ドマーティン、ヴィム・ヴェンダース
撮影:ロビー・ミューラー
音楽:グラエム・レヴェル
出演:ソルベイグ・ドマーティン、ピエトロ・ファルコン、エンゾ・チューリン、チック・オルテガ

 1999年、インドの核衛星が軌道をはずれ地球に降ってくることがわかった。フランス人のクレアは渋滞を避けてわき道に入ったところで、銀行強盗の二人組みに出会い、彼らの運び屋をすることになる。そして金を運びながらパリへと帰る途中、追われる男トレヴァーに出逢うが…
 近未来の世界を飛び回る、ロードムーヴィーといってもいいかもしれない映画。映像へのこだわり、移動するということへのこだわりはいかにもヴェンダースらしいが、映像に新しい技術を用いたことの効果は疑問、個人的には幻想的で好きなタイプの映画だが、いわゆる「ヴェンダースらしさ」からは少しはずれている。 

 この映画には280分のディレクターズ・カット版があるらしい。
 と、聞いて大体の反応は「え?耐えられない」と来るだろう。しかし、私は個人的にはみてみたい。なぜなら、予想するに、そのときには旅をして映像を撮影して歩く部分が増えるだろうと予想できるから。150分のバージョンでは、世界中を鬼ごっこのように飛び回る部分と、実験室の部分の長さのバランスがどうもしっくりこなかった。前半をもっと長くするか、後半をもっとコンパクトにするか、そうしないとどうも落ち着きが悪い。
 ヴェンダースがこの映画で問うているのは、移動手段がこのように高速になってゆく世界で従来の「ロードムーヴィー」は可能なのか?という問いではないだろうか?そして、従来のロードムービーへのオマージュとしてあるいは、ロードムービーを捉えなおす手段としてこのような映画を作ったのではないだろうか?
 私はこの映画の理解しがたい冗長さをそう捉えた。だから、むしろこれでいいのだ。もっともっと冗長で退屈な映画になったほうがよかった。280分のほうがよかった。映画であることを拒否するような映画にして欲しかった。というのが個人的な感想である。 

レスキュアーズ~戦火に燃えた勇気/二人の女性

Rescures: Stories of Courage: Two Women
1997年,アメリカ,107分
監督:ピーター・ボグダノヴィッチ
脚本:カイ・ブロック、マーク・ドラッカー
撮影:ミロスラフ・バスザック
音楽:ヒュミー・マン
出演:エリザベス・パーキンス、アル・ワックスマン、セーラ・ウォード、アン・ジャクソン

 ポーランドとフランスにおいてユダヤ人を救った二人の女性を描いた二つの物語。第1話「マムーシャ」は雇い主の息子を救った家庭教師の物語、第2話「自転車に乗った婦人」は南フランスで司教を助けて多くのユダヤ人をかくまった司教秘書の物語。おそらくともに実話に基づいていると思われる。 もともとはアメリカでテレビ用に作られたシリーズもので、他にも「二組のカップル」「二つの家族」というシリーズがある。
 さすがにテレビ映画だけあって、凝った作りにはなっていないが、女性に焦点を当てた辺りがアイデア。「シンドラーのリスト」のような衝撃はないが、淡々と事実を伝えているという感じがして好感は持てる。 

 映画としてはどうということもないが、少し考えさせられることがあった。ひとつは映画として、ドイツ人はドイツ語をしゃべるのに主人公たち(ポーランド人またはフランス人)は英語を(しかも流暢に)しゃべるというのはかなりの違和感があった。アメリカ人はこれに疑問を感じないのだろうか?確かにアメリカの映画の登場人物たちはみな英語をしゃべる。外国映画も吹き替えにしてしまう。だからポーランド人が英語をしゃべるのも当然なのか?これはまあ、だからどうしたという感じの疑問。しかし「映画産業」ということを考えると意外と問題なのかもしれない部分。
 もうひとつは映画からはなれて、この物語の構造が「ドイツ=男性」「ユダヤ=女性」という構図にのっかているように見えること。もっとも象徴的なのはゲートルードと彼女に言い寄る大家の甥の関係。大家の甥はナチスの協力者であって、ゲートルードを強引に口説こうとする男性的な人物。ゲートルードは彼を拒否するものの、被抑圧者でありつづけなくてはいけない。彼女がなしえたのはひそやかな抵抗。ユダヤ人たちがなしえたのは自らを解放することではなく、他者によって解放されること。第2話でも「女性は鍋をかき混ぜているのがいい」というセリフが出てくる。彼女たちはナチスに抵抗したのだから、女性のほうを賛美しているようにも見えるが、それはあくまで賛美であって、その母性の賛美であり、人道的立場からの肯定でしかなく、彼女たち=ユダヤ人たちを主体的な存在として描いているわけでは決してない。もっと言うならば、「ナチス=ロシア=ヴィシー=ドゴール=男性」であり、「ユダヤ=女性」である。「ユダヤ=女性」はたくさんの主体(=男性)に翻弄される、受動的な存在でしかないのである。
 などということを考えながら、映画を見てみました。映画を見てなんだかいろいろなことを考えてみるものいいものですね。 

ドクター・ドリトル

Dr. Dolittle
1998年,アメリカ,84分
監督:ベティ・トーマス
原作:ヒュー・ロフティング
脚本:ナット・モールディン、ラリー・レヴィン
撮影:ラッセル・ボイド
音楽:リチャード・ギブス
出演:エディ・マーフィ、オシー・デイヴィス、オリヴァー・プラット、ピーター・ボイル、リチャード・シフ

 子供のころ、飼っている犬と会話をしているところを父に咎められ、犬と引き離されてしまった経験を持つジョン・ドリトルは優秀な医師となっていた。友人と共同経営する委員の合併問題が持ち上がるころ、家庭では娘のマヤが動物に非常な興味を持つようになっていた。そんな時、ジョンは動物の言っていることを理解する能力を取り戻すのだが…
 1967年にも映画化されたことのある名作児童小説の映画化。今回はストーリーも大きく変えて、舞台は現代にして、コメディ映画に仕上げた。しかし、家族というテーマをかなり大きく出している。
 とりあえず、動物たちとドクター・ドリトルのやりとりが面白い。ファミリー向けには非常にいい映画でしょう。子供の頃、原作の小説が大好きだったんですが、そのイメージを壊すこともなく、しかしまったく違う話として作っているので、好感がもてました。 

 一言で言えば、面白いが、新鮮味はない。エディ・マーフィーでなくても別に良かった。動物が喋っているところ(CG)はかなりうまくできているが、ベイブに先を越されている。と、誉めているようには聞こえませんが、ファミリー向け映画としてみるなら、これでいいでしょう。
 映画を娯楽としてみるならば、ある程度対象を絞ってゆくことが必要であって、必ずしも一般論で映画をきってしまうことがいいとは言えないということでしょう。この映画はいわゆる(芸術としての)映画的な価値から言えば、ほとんど価値がない。なぜなら、新しいところがどこにもないから。何か新しいことを表現しているわけではないから。
 この映画が表現しようとしているのは家族(特に父と子)の問題や、動物や命の大切さ、拝金主義の否定などでしょう。このようなメッセージをコメディという形にくるんで提示すること。今まで幾度となく繰り返されてきたことですが、これはこれでいいということでしょう。 

金星怪人ゾンターの襲撃

Zontar, The Thing from Venus
1966年,アメリカ,80分
監督:ラリー・ブキャナン
脚本:ラリー・ブキャナン、H・テイラー
撮影:ロバート・B・オルコット
出演:ジョン・エイガー、スーザン・ビューマン、アンソニー・ヒューストン、パトリシア・デラニー

 金星人との交信に成功した科学者のキースは、友人の科学者カートが打ち上げた衛星を利用して、金星人を地球に招く。金星人は進んだ科学力を生かして人間たちを操ろうとするのだが…
 50年代のSF「金星人地球を征服」(ロジャー・コーマン監督)のリメイク。いわゆるB級SFで、セットもちゃちい、役者もへたくそ、ストーリーもよめよめ、という感じですが、60年代のSFってこんなもんかということはわかる。 

 私はB級SFはかなり好きですが、これはかなりすごい。何がすごいって、セットが見るからに張りぼて、金星人が人間を襲わせる鳥みたいのが異常にちゃちい。役者がショボイ。あの将軍が死ぬシーンとか爆笑してしまいました。そして金星人の着ぐるみ加減。登場を引き伸ばすから、どんなのがでてくるのかと思えば、仮面ライダーの敵役よりひどい着ぐるみ具合。あー、脱力、苦笑。
 これを裏返して楽しめるほど、私の懐は深くなかったようですが、これでも楽しめてしまうあなたはきっとB級SFの達人。
 という感じですが、この映画を見て感じたのは、「デジタル」という発想の欠如。サンダーバードを見ているときも思ったんですが、60年代というのは、デジタルという発想がなくて、すべてがアナログです。あんなに高性能なロケットがあるのに、発射の秒読みをする時計はアナログ。「あー、そうなんだー、そうだよね」と妙に感心することしきりでした。 

シー・オブ・ラブ

Sea of Love
1989年,アメリカ,113分
監督:ハロルド・ベッカー
脚本:リチャード・プライス
撮影:ロニー・テイラー
音楽:トレヴァー・ジョーンズ
出演:アル・パチーノ、エレン・バーキン、ジョン・グッドマン、マイケル・ルーカー、ウィリアム・ヒッキー

 ニューヨークの刑事フランク(アル・パチーノ)は勤続20年のベテラン。今回の事件は全裸の男がベットでうつぶせになり、後頭部を打ち抜かれているというもの。最初は簡単な事件と思ったが、他の部署の刑事シャーマン(ジョン・グッドマン)から同じような事件を追っているといわれ、事件は連続殺人事件へと発展してゆく。
 正統派のサスペンスにラブストーリーを絡めた映画。プロットもまあまあ、演出もまあまあ、ジョン・グッドマンはいい味だしてる。アル・パチーノもいい。エレン・バーキンもなかなか。つまり、キャスティングがいいということですね。 

 アル・パチーノはかっこいい。それでいい。という映画。相手役がジョン・グッドマンというのもいいバランス。映画を真面目・渋々一辺倒にしてしまわないところがいい。
 とはいえ、プロットにビックリとはいかない。映像も普通。演出でスリラーっぽくしたいという意図はわかるが、あまり怖くはない。
 アル・パチーノ好きは堪能できるでしょう。渋さ十分堪能。相変わらず「顔」でいい演技をしてます。
 キャストにサミュエル・L・ジャクソンがクレジットされています。最初の「ヤンキースで一網打尽作戦」のところで出ていたような気がします。 

マグノリア

Magnolia
1999年,アメリカ,187分
監督:ポール・トーマス・アンダーソン
脚本:ポール・トーマス・アンダーソン
撮影:ロバート・エルスウィット
音楽:ジョン・ブリオン
出演:トム・クルーズ、メリンダ・ディロン、フィリップ・ベイカー・ホール、ウィリアム・H・メイシー

 様々な親子関係を中心に、ロサンゼルスに住む人々の一日の出来事を描く。生き別れた息子に一目会いたいと願うアール(ジェイソン・ロバーズ)、女の口説き方をセミナーで教えるその息子フランク(トム・クルーズ)、天才クイズ少年スタンリー(ジェレミー・ブラックマン)、元クイズ少年ドニー・スミス(ウィリアム・H・メイシー)などなど。
 3時間はやはり長いが、最後まで見ればなんとなく納得。でも、もう少し短いほうがよかったような気もする。
 それぞれのキャラクターは生き生きとしていていい。こういうモザイク的な描き方というのはとても映画的。小説にしてしまうと誰が誰やらわからなくなってしまうことが多いが、映像という方法を取れば頭の中はすっきり。

 長い。3時間の映画を3時間に感じさせてしまっては、長い映画としては失格でしょう。映画の長さというのはじっさいに計測できる時間の長さと個人個人の主観的な体感的な長さというのがあるわけですが、私にはこの映画は長かった。じっさい、この映画には3時間の集中を保たせるほどの力はないと思う。映画自体は面白いのだけれど、2時間辺りで中だるみ。前半は音楽などを使って、テンポよく話を進めていくのだけれど、中盤にそれぞれの物語が緊張感をはらむ場面になり、それから徐々に解決らしきものに向っていくというそのあまりの遅さが長さを感じさせる。そこでは音楽もあまり使われず、長い長いひとり語りやトム・クルーズの脂っこい演技が長々と引き伸ばされる。
 そしてまた、集中してみるには疲れる映画でもある。それは1カットが短くてリズミカルなようでいながら、それを音楽やボイス・オーバーでつなぎ、テンポを落としていること、またクロースアップが多く、フォーカスが短い画面が多いので、注意が一点に集中されてしまい、漫然と見ることができない。
 だから、一般的に言うともう少し短くするか、もっとハチャメチャにしてしまうと良かったのだと思う。最初から「偶然」ということがテーマになっていると明示しているのだから、もっと不思議な偶然をどんどん繰り出して摩訶不思議な世界を作ってしまえば一つの面白い映画になったのだろうと思う。
 この映画の面白さは、この映画がそのようにつまらない映画であるということにある。「つまらない」というのは見る側がその映画に対して優越感を感じるというか、この程度の映画かとわかった気になってしまうということである。人間関係を解きほぐしたり、映画の作り方を分析したり、音の入れ方について考えてみたり、いろいろなことを考えてみると、この映画を理解することは決して難しくない。しかし、この映画をにわかるということは絶対にありえない。それはこの映画が絶対的な「意味」を欠いているからであり、映画全体として一つのメッセージを届けようとはしていないからだ。見た人それぞれがそれを読み取ろうとすることは自由だが、それに正解はない。どの読みが正しくてどの読みが間違っているのかという解答はそもそもないから、この映画はどのように見てもいいし、どのように見ても映画を「理解できた」ことになる。すると映画は面白くなる。だからこの映画は「つまらない」からこそ「おもしろい」ということになるのだが、そのような仕掛け自体を「おもしろい」ということが果たしてできるだろうか? 

プライベート・ライアン

Saving Private Ryan
1998年,アメリカ,170分
監督:スティーブン・スピルバーグ
脚本:ロバート・ロダット
撮影:ヤヌス・カミンスキー
音楽:ジョン・ウィリアムズ
出演:トム・ハンクス、トム・サイズモア、エドワード・バーンズ、バリー・ペッパー、マット・デイモン

 第二次世界大戦の転換点ノルマンディ上陸作戦。その戦いに参加していた中隊長ジョン・ミラー大尉(トム・ハンクス)に新たな任務が命ぜられた。それは、三人の兄が戦死し、本人も行方不明となっているライアン二等兵を探し出し、救出するというもの。命令の絶対性と一人の二等兵のために命をかける理不尽さに切り裂かれながら、ミラー中隊長と7人の兵士はライアン二等兵を探しに行く。
 この映画でいちばんすごいのは戦闘シーン。特に冒頭から30分ほどつづくノルマンディ上陸作戦の戦闘シーンは圧巻。長年にわたって培われてきたドリームワークスの特撮技術が細部に至るまで圧倒的なリアルさを生み出している。銃弾の中を走り回るハンディカメラの映像も臨場感を増す。

 本当に、この映画の戦闘シーンはすごい、足がもげたり、頭を打ち抜かれたり、それが現実にそこで、目の前で起きているような錯覚を起こさせる特撮。特撮といえばSF、という認識が誤りだったことを認識させられる。そして戦闘シーンのリアルさは、そこにいる兵士たちの心理さえも映し出しているような生々しさを持っている。しかし、よく考えると、重火器レベルであんなに人が吹き飛んだりするのかという疑問も沸く。これはやはりあくまで、スペクタクルのためのリアリズム。戦争映画というスペクタクルへのあまりに圧倒的な導入。
 映画の最後も戦闘シーンなわけですが、そこもやはりすごい。最初のシークエンスにも増してなんだかヒーローもののような胡散臭さは漂うけれど、それでもすごいことはすごい。
 と、スペクタクルな部分は褒めておいて、ですが、
 この映画はシンメトリーな構造になっています。星条旗から始まり、戦没者墓地→戦闘シーン→移動→戦闘シーン→戦没者墓地→星条旗です。このシンメトリー構造というのはこの映画の徹底的な姑息さで、アメリカのパトリオティズムのプロパガンダのための構造になっています。星条旗と戦没者墓地は全くそのままですが、戦闘→移動→戦闘という部分も、最初の戦闘シーンで人(アメリカ兵)をバンバン殺して、ドイツ軍の冷酷さと戦争の悲惨さのようなものを描き、移動シーンでは隊の個人個人の人間性を描くことで最後の戦闘シーンでは完全に自分も戦闘に加わっているかのような気分になる。そしてだめを押すように戦没者墓地での敬礼と星条旗。この語り方によってこの映画はアメリカ人を戦争に駆り立てるものでしかありえなくなってしまう。アメリカ人でなくてもそれを感じてしまう。その要素を取り去ってひとつのスペクタクルとしてみることは可能だけれど、そのことがこの映画がプロパガンダ映画であるということを覆い隠しはしないのです。だから見終わってどうも、(優しい言葉で言えば)居心地が悪い、あるいは(簡単に言ってしまえば)むかつくのです。
 文句のつけどころは他にいくらでもある。題材に第二次大戦をしかも隊ナチス戦を選ぶ。これがヴェトナム戦争や朝鮮戦争でないのは何故か。ドイツ兵の描き方が余りに画一的なのは何故か。ドイツ兵はすぐに投降し捕虜になるのに、アメリカ兵は決して降参しない。どれもこれもアメリカ万歳に結びつく要素で、ただただむかつく、あるいはあきれる要素が増えていくばかり。
 こんな映画をアメリカ人以外の観客にもしっかりと見せ、感動すらさせてしまうスピルバーグの手腕には恐れ入りますが、その才能をこんなところに使ってしまうのはどうにも納得がいかない。これならば、『インディー・ジョーンズ4』でもとってた方がよかったんっじゃないの?

セルロイド・クローゼット

The Celluloid Closet
1995年,アメリカ,104分
監督:ロブ・エプスタイン、ジェフリー・フリードマン
原作:ヴィットー・ルッソ
脚本:ロバート・エプスタイン、ジェフリー・フリードマン、アーミステッド・モービン、シャロン・ウッド
撮影:ナンシー・シュライバー
音楽:カーター・バーウェル
出演:トニー・カーティス、ウーピー・ゴールドバーグ、トム・ハンクス、スーザン・サランドン、リリー・トムソン(ナレーション)

 ゲイやレズビアンを扱った映画の歴史をヴィトー・ルッソの原作を元に映画化。古い映画の映像を見せるとともに、実際にカミングアウトした映画関係者や同性愛者の役を演じた役者のインタヴューを豊富に集めた。対象をアメリカ映画に限定しているため、話はわかりやすくまとまっている。ドキュメンタリーとしてはそれほど優れたものとは思えないが、知らなかったことを実感をもって知るためには役に立つ。1995年頃はゲイやレズビアンの映画がムーヴメントとして盛んだった頃なので、こういった映画も作られたのだろう。
 パゾリーニなどヨーロッパに関係することは対象からはずされているのが残念。
 映画のからくりといえるものは特にありません。ハリウッド映画史の勉強にはなります。20・30年代には検閲が強化されていたということで思い出したのが、何の映画だったか、有名な映画だったはずですが、男女がひとつのベットで寝る時に、間にシーツをたらして敷居にしていた場面。その頃はベットシーンというものが禁止されていたために、そのような工夫がされたんだという話を聞いたことを思い出しました。何の映画だったっけかなぁ… 

ウォーターメロン・ウーマン

The Watermelon Woman
1995年,アメリカ,80分
監督:シェリル・デュニエ
脚本:シェリル・デュニエ
撮影:ミシェル・クレンショウ
出演:シェリル・デュニエ、グィネヴィア・ターナー、ヴァレリー・ウォーカー、カミール・パグリ、アリサ・マリー・ブロンソン

 「GO fish」に影響を受けたと思われるシェリル・デュニエが、レズビアンと黒人女性という二重のマイノリティ性を問題化した作品。30年代のハリウッド映画で“ウォーターメロン・ウーマン”とクレジットされている黒人女性を発見したレズビアンの映画作家志望シェリルは彼女の生涯を映画にしようと考える。その映画作成の過程を映画として作り上げた。
 「GO fish」と比べると、レズビアンや黒人女性というものを問題化する意識が強いように見える。ハリウッドで黒人女性とレズビアンが無視されつづけてきた状況を問題化することこそがこの映画の目的なのだろう。映像や物語のつくり、映画としてのつくりを見ると「GO fish」のほうが明らかに上だが、この映画も「黒人」独特のリズムがあって飽きることはない。

 「GO fish」の脚本と主演を担当したグィネヴィア・ターナーがシェリルの恋人ダイアナとして「ウォーターメロン・ウーマン」に登場する。「ウォーター」の舞台はフィラデルフィアだが、ダイアナはシカゴで映画を取っていたという設定。「GO fish」がシカゴの映画であることを考えると、ダイアナは「GO fish」の作家として「ウォーター」に登場していると解釈できる。それぐらいこのふたつの映画のつながりは深い。
 「GO fish」が映画として完成されていたがゆえに、一般に受け入れられ、それによって「ウォーター」はより深い問題を扱うことができた。そんなことを考えながらも、「レズビアン」という問題は映画で扱われることがあまりに少ないんだと実感せざるを得ない。 

GO fish

GO fish
1994年,アメリカ,85分
監督:ローズ・トローシュ
脚本:ローズ・トローシュ、グィネヴィア・ターナー
撮影:アン・T・ロセッティ
音楽:ブレンダン・トーラン、ジェニファー・シャープ
出演:グィネヴィア・ターナー、T・ウェンディー・マクミラン、V・S・ブロディ、アナスタシア・シャープ、ミグダリア・メレンデス

 レズビアンの日常を、マックスとイーレイの関係を軸に描く。全編白黒の画面は非常にセンスがよい。「センスがよい」という安易な言葉は使いたくはないのだけれど、この言い方がいちばんぴったり来る。フレームの切り方だとか、ワンカットの短さだとか、挿入される抽象的なカットの具合だとか、「あー、カッコイイ」と思わせる。
 レズビアンムーヴィーとしては画期的な作品。ゲイムーヴィーはかなり前から作られ、認められていたが、レズビアンのものは案外歴史が浅く、この作品あたりから世間的に認められるようになってきた。決して深刻にならずに、しかし伝えたいことはしっかり伝えるという姿勢が、一般的に受け入れられた要因だろうと思う。