お伊勢詣り

1939年,日本,56分
監督:森一生
原作:依田義賢
脚本:依田義賢
撮影:広田晴巳
音楽:武政英策
出演:ミス・ワカナ、玉松一郎、森光子、平和ラッパ

 伊勢詣りの途上にある一軒の宿屋「伊勢屋」。そこの主人が瀕死の床に伏し、客引きは団体を呼び込むのを控えていたが、死にそうなはずの主人自ら客を入れろといってきた。主人の言いつけ通り客を入れた呼び込み。それが発端で巻き起こるどたばた騒動。
 おそらく戦時中の大衆娯楽用に作られた映画。映画という形を借りて漫才やら漫談やら芸人たちの芸を見せる。

 ミス・ワカナは玉松一郎と夫婦漫才で一時代を作ったということです。わたしは知りませんでしたが、関西圏ではかなり有名な人らしい。夫婦漫才なのに「ミス」とはこれいかに、という気もしますが、そんな細かいことは気にしない。映画に話を持っていくと、このミス・ワカナの登場シーンがそもそも玉松一郎とのシーンなわけですが、この絡むがやけに長い。普通の映画では考えられないくらい長く絡む。見ているとこの2人の絡みというのがこの映画の焦点なんだとわかってくる。つまり、ワカナ・一郎を中心とした漫才などなど上方お笑いの陳列棚。戦争で疲れている皆さんに笑いのプレゼントを。という感じ。『お伊勢詣り』と題されているけれど、それは別に伊勢でなくてもよかった。
 ということなので、この映画は当時の漫才を見る映画ということです。やはり戦争がネタになっていたりしますが、これまた当然のことながら戦争万歳日本万歳大東亜共栄圏万歳感じです。今見ると非常な違和感がありますが、こういう時代であったということはわかります。しかし、これで笑えたのだろうか?という疑問もわきます。おそらく一瞬でも戦争のつらさを忘れようと思ってみているであろうのに、わざわざ戦争をネタにする。敵を笑うネタは受けるかもしれませんが、それ以外はどうなんだろう? などなどつらつら考えます。
 ミス・ワカナについてちょっと調べました。ワカナ・一郎のコンビで活躍し、この作品が映画初主演作ということですが、戦争が終わってまもなく36歳の若さでなくなってしまったそうです。玉松一郎は二代目ミス・ワカナとコンビを組んだものの半年で解消。この二代目はもうなくなってしまいましたが後のミヤコ蝶々さん。その後さらに三代目ミス・ワカナとコンビを組んだということです。

助太刀屋助六

2001年,日本,88分
監督:岡本喜八
原作:生田大作
脚本:岡本喜八
撮影:加藤雄大
音楽:山下洋輔
出演:真田広之、鈴木京香、村田雄浩、岸田今日子

 助六はひょんなことから仇討ちの助っ人をしたのがきっかけで勝手に助太刀屋助六と名乗るようになった。なんといっても武士が自分に頭を下げ、ついでにお礼までもらえるというのが魅力だった。ヤクザモノと気取りながら刀を抜くのは大嫌い。そんな助六が15両の大金を手にして、7年ぶりに故郷に帰った。しかし、村はひっそりと静まり返っていた。
 御年78歳、岡本喜八6年ぶりの新作。全体に軽いタッチの仕上がりで、『ジャズ大名』以来のコンビとなった山下洋輔の音楽がよい。

 音楽の使い方がよい。こんな完全な時代劇を、何の工夫もせずに今劇場でかけるのはなかなか難しい。何か現代的な工夫を凝らさなくてはいけない、と思う。その工夫がこの映画では音楽で、ジャズのインストに笛(尺八かな?)の音などを絡ませながら、うまく映画の中に配する。これが映画のコミカルさ、盛り上がりに大きな助けになっています。音楽を担当するのはジャズ・ピアノの名手山下洋輔。『ジャズ大名』でも岡本喜八作品の音楽を担当したが、『ジャズ大名』がストレートにジャズをテーマとした作品だったのに対して、こちらは単純な時代劇、そこに和楽器を絡ませたジャズを入れるというなかなか難しいことをうまくこなした。
 そのほかの部分はそつがないという印象です。特に奇をてらった演出もせず、ドラマの展開も予想がつく範囲で、登場人物もコンパクトにまとめ、そもそも物語が一日の出来事であるというところからして、全体的にコンパクトな映画だということがわかります。そつがない、コンパクトということは無駄な部分がないということでもある。つまりストーリーがもたもたしたり、余計な挿話があったりしないということですね。それはつまり編集がうまいということ。やはり経験によって身につけた技なのか、見事であります。
 あとは、岸田今日子がいい味かな、と思います。ナレーションが始まった時点でも「おおっ」と思ったのですが、その後しっかり出演してさらに「おおっ」。あまり岸田今日子らしい味は出しませんが、因業婆らしさを見事にかもし出しています。最後には立ち回りでもさせるのかと期待しましたが、それはやらせませんでした。そのあたりは残念。たすきがけに、薙刀でもも持って後ろからばっさりなんていうシーンを想像して一人でほくそえんでいました。

修羅雪姫

1973年,日本,97分
監督:藤田敏八
原作:小池一夫、上村一夫
脚本:長田紀夫
撮影:田村正毅
音楽:平尾昌晃
出演:梶芽衣子、赤座美代子、中田喜子、黒沢年男

 明治6年、八王子の監獄で鹿島小夜は娘を産み落とす。娘の名は雪、小夜は雪に自分の仇をとり、恨みを晴らして暮れといいながら死んだ。時はたち、大人になった雪は蛇の目傘に仕込んだドスで人を斬る見事な暗殺者になっていた。そして彼女は母の仇を捜し求める…
 当時連載されていたコミックの映画化。とにもかくにも全体に徹底されているB級テイストがたまらない。もしかしたら、コメディかも。

 見た人には何を言わなくてもわかってもらえる。しかし見た人はあまりいないだろうということでちょっと説明しつつレビューしていきましょう。
 最初人が殺される場面の血飛沫の激しさ、そしてその血の色の鮮やか過ぎるところ。これを見て、なんか安っぽいなと思ってしまうのが素直な反応。しかしこの映画、その安っぽさを逆手にとってというか図に乗ってというか、とにかく血飛沫血飛沫血飛沫。とにかく飛び散る血飛沫。大量の血。しかし決して生々しくないのはその血があまりににせものっぽいから。伴蔵の血で染まった海の赤さ。「そんなに赤くならねーだろ、おい!」
 いとも簡単に血飛沫が飛び、急所をついてないのに糸も簡単に死んでしまう人たち。一太刀で出血多量にしてしまう雪の剣がすごいのか? そんなはずはないのですが、辻褄を合わせるにはそれくらいしか説明のできないすごさ。そのような映画の作り物じみさ、狙った過剰さ。そこに気づくと、映画の後半はひたすら忍び笑いの時間になります。そしてそのクライマックスは北浜おこの。これは見た人だけが共有できる思い出し笑い。
 こういうテイストの映画は日本にはあまりない。全くないわけではないですが、妙に茶化してしまったりして、こんなくそまじめなようでいて目茶目茶おかしいという映画はなかなかないのです。あるとすれば、60年代から70年代の埋もれた映画でしょう。京マチ子主演の『黒蜥蜴』などもかなり爆笑映画でした。最近では『シベ超』『DOA』といったところが、そんな映画の代表でしょう。うわさでは『幻の湖』という名作もあるらしい。そのような「バカ映画」といってしまうと語弊がありますが、そんな映画がはわたしは好き。

修羅雪姫

2001年,日本,92分
監督:佐藤信介
原作:小池一夫、上村一夫
脚本:佐藤信介、国井桂
撮影:河津太郎
音楽:川井憲次
出演:釈由美子、伊藤英明、嶋田久作、佐野史郎

 500年もの間、鎖国を続けるとある国に、隣国の帝政の崩壊で元近衛兵たちが流れてきた。彼らは建御雷(たてみかずき)と呼ばれる一族で、だれかれかわまず殺す暗殺集団となっていた。その中のひとり雪は逃亡者を追い、殺しに行ったところで元建御雷の男空暇に母親を殺したのが現在の首領白雷であることを告げられる…
 1970年代に梶芽衣子主演で映画化されたコミックの映画化。映画のリメイクではなく、原作が同じというだけ。香港のアクション俳優ドニー・イエンがアクション監督を務め、アクションは本格派。

 話がくどい。物語の背景説明をくどくどと、しかもモノローグで語る。それを語る(場面上の)必然性もないし、物語の上でその背景説明が絶対的に必要であるとも思えない。だから、この背景説明は無駄なもので、特に隆の両親が殺されたとかそんなことはどうでもよく、建御家がどうして暗殺者集団になったのかというのも別にどうでもよいことのような気がする。もっと雪の物語に全体を絞って、話を凝縮すれば面白くなったのにと思ってしまう。くどくどした説明がはさまれることで、そこで映画のペースが落ち、アクションシーンにあるスピード感が損なわれてしまう気がする。
 なので、どうしても映画に入り込めない感はありましたが、アクションシーンはなかなかのもの。アクション監督はドニー・イエンで、香港アクション流行のワイヤーバリバリ、いたるところでワイヤーです。これだけ徹底して使われると気持ちのいいものかもしれない。日本映画のアクションシーンとしてはかなりいいものなのではないかと思います。
 そして、意外といいのが釈由美子。アクションシーンにはたどたどしさが見えるものの、ワイヤーのおかげで何とかこなしているし、演技も意外とうまかったりする。無表情さと、感情が表れる顔と、そして終盤のなんともいえない顔と。けっしてうまくはないけれど、何かが伝わってくる感じ。日本アカデミー賞の主演女優賞くらいあげてもいい気がしました。
 しかし、この映画は細部をおざなりにしすぎ。車の汚しは雑だし、血の飛び方や吐き方などもそうとうに安っぽい。(特に必要であるとも思えない)変な特急電車や街並みのCGに金をかけるより、そういった細部をリアルにしていくことにお金をかけてほしいと思いますね。いくらアクションに迫力があっても、流れる血がどう見てもにせものでは面白さも半減です。雪が手の甲をぐさりと刺され、どう考えても骨も神経もばっさり切れているのに、あんなにすぐに回復してしまうのもどうかと思う。
 そういった詰めの甘さが日本の娯楽大作にたびたび見られ、だから巨額を投じた作品はたいていこける。地味な部分にお金をかけるその心の余裕かマニアなこだわりがいい作品を生むのではないかと思ったりします。

東海水滸伝

1945年,日本,77分
監督:伊藤大輔、稲垣浩
脚本:八尋不二
撮影:石本秀雄、宮川一夫
音楽:西梧郎
出演:阪東妻三郎、片岡千恵蔵、花柳小菊、市川右太衛門

 清水の次郎長がヤクザ家業から足を洗うことを決意し、刀を封印し、酒を断って石松に金毘羅代参を命じる。無事お参りを済ませ、近頃評判の草津の親分のところにより、香典を言付かった石松は道で都鳥の吉兵衛に出会う。ついつい気を緩め酒を口にしてしまった石松は、香典に預かった百両を吉兵衛に貸してしまう。
 なんといっても石松を演じる片岡千恵蔵が見事。阪妻もさすがに迫力があるけれど、やはりこの物語の主役は石松か。

 片岡知恵蔵演じる石松は切符のよさがうまく表現されてていい。「正直の上に馬鹿がつく」というセリフがよく似合う石松をうまく演じているといえる。だからこの映画は間違いなく石松の映画で、片岡知恵蔵の映画であるといいたい。
 清水の次郎長と森の石松の話はよく知られているが、年月とともにいろいろなバリエーションが生まれ、この映画もそのバリエーションの創作に一役買っているらしい。石松の幼馴染というのが出て来るのも、画面に花を添える映画らしい演出だ。
 ドラマはよく整理され、片岡知恵蔵もうまく、画面もさりげなくて言うことはない。旅館の部屋で石松が外ばかり眺めている場面や釣りをしている場面など、人物により過ぎずとてもさりげないのがよい。川(湖?)に落ちるところはちょっと演出過剰かもしれないが…
 しかし、そんなさりげなさが唐突に崩れる場面がある。それは盆踊りの場面。この場面は本当にすごい。動きの激しい短いカットを無数につないぐ。一つ一つのカットが異常に短い。このような編集の効果はもちろん画面に大きな動きを生み、激しさを生むということだ。
 この映画はおそらく、最初の撮影編集のあと再編集されたものだと思う。主要な登場人物が出てきたときに唐突に出る人物紹介のキャプション。石松のたびに際してカットとカットの間に挟まれる状況を説明するキャプション。これらはあとからつけられたものだろう。単純にわかりやすくするためなのか、それともフィルムの一部が失われ、それを補うためにつけられたのかはわからないけれど、映画全体からするとなんとなく異質なものに見える。だからどうということもないですが、このような映画が保存されている喜びとともに、オリジナルの何かが失われてしまっているのだとしたら、それを惜しまずにはいられない。

おぼろ駕籠

1951年,日本,93分
監督:伊藤大輔
原作:大仏二郎
脚本:依田義賢
撮影:石本秀雄
音楽:鈴木静一
出演:阪東妻三郎、田中絹代、月形龍之介、山田五十鈴、佐田啓二

 江戸時代、権勢をほしいままにし、その権力は将軍をも上回るといわれた沼田家。その下には全国各地から贈り物と請願が届き、その贈り物いかんでどうにでもなる世の中。そんな時代、沼田家に対抗する家臣の家に推され将軍の中藹になろうかというお勝が殺された。そんな話が生臭坊主夢覚和尚の耳にも届く。阪妻演じる和尚が活躍する推理時代劇。
 若い阪妻もいいけれど、わたしはむしろ年を重ねて十分に味が出てきた阪妻が好き。50歳にしてこの色気を出し、同時に笑わせることもできる芸達者振りが今阪妻を振り返って魅力的なところ。

 阪妻はもちろんいいです。たしか『狐の呉れた赤ん坊』でも描いたと思いますが、スタートは思えないほどコミカルに動く顔の表情が最高。立ち回りも、坊主であることによってコミカルなものにはやがわり。若かりしころの緊迫感漂う、颯爽とした立ち回りもいいですが、コミカルに立ち回りができるというのは得がたき才能なのでしょう。
 立ち回りといえば、この映画で印象的だったのは橋の上での立ち回り。多勢に無勢、多数の軍勢を阪妻一人で受けて立つわけですが、それを橋の上に展開させる監督の(あるいは脚本の)周到さ、いかに剣豪ばりの刀捌きを見せる和尚であっても(そして阪妻であっても)、何もない平原で多勢に無勢じゃ歯がたたない。多勢に対抗するときには細いところで一度に相手にする敵の数を減らす。これは戦いの基本であるようです。そのあたりをきっちり守るところがなかなかよい。そういえば、準之助を逃がす場面の立ち回りも一方が塀、一方が堀の細い道でした。
 映画の作りのほうの話をすれば、監督は巨匠の、そして阪妻と数多くの作品で組んでいる伊藤大輔。さすがに見事な画面構成といわざるを得ません。何度か使われる手持ちカメラでのトラックアップ、たまに出てくることで、そのシーンの緊迫感が増す。使いすぎるとうるさくなる。しかし、他のシーンからあまりに浮いていても映画にまとまりがなくなる、そのあたりのバランスをうまく取って、抜群の効果を挙げています。
 そう、監督の演出も手法もさすがという感じですが、まあ伊藤大輔ならこれくらいやってくれるさと(生意気にも)思うくらいのものです。それよりもやはり阪妻の顔。それは面白いだけではなく、その場面場面でセリフ以上のことを語る顔。伊藤大輔はさすがにそれを知ってズームアップを多く使う。そして顔から伝わる物語。そういえば、阪妻最初の登場は坊主の笠で顔を隠し、隠したままで1シーン、2シーンと進んでいました。その登場の仕方からしても、監督は阪妻の顔の魅力を十全に知っていたということでしょう。ついでに、終盤は田中絹代と、山田五十鈴の顔がクロースアップされます。阪妻には負けますが、彼女たちも女優魂をかけてかどうかはわかりませんが、懸命に顔で演技をする。
 いい顔がじっくり見れます。

残菊物語

1939年,日本,146分
監督:溝口健二
原作:村松梢風
脚本:依田義賢
撮影:三木滋人、藤洋三
音楽:深井史郎
出演:花柳章太郎、森赫子、河原崎権十郎

 六代目尾上菊五郎を継ぐべくして歌舞伎の修行をする尾上菊之助。周囲は大根と陰口をたたくが、本人の耳には届かない。しかし、自分の才能に疑問を抱く菊之助はいたたまれない毎日を送っていた。そんな時、夜道であった弟の乳母お徳が菊次郎に世評を伝える…
 江戸の歌舞伎の世界における浮沈を描いた重たいドラマ。溝口の戦中の作品のひとつで、歌舞伎というあまり知らない世界を描くという点でも非常に興味深い。

 この作品の何が気に入らないのかといえば、ドラマです。菊之助はさまざまな人に支えられ生きていて、本人もそれを受けて成長しているように描かれているけれど、実のところ彼は非常にエゴイスティックなキャラクターだと思う。世間知らずのボンボンであるという人間形成でそれも許されるものとされているのかもしれないけれど、苦労を重ねて芸は磨かれたのかもしれないけれど、人間性はちっとも磨かれていない。にもかかわらず、立派な歌舞伎役者になれた=立派な人間になれたという描き方で描ききってしまうところが気に入らない。エゴイスティックであるにもかかわらず人の意見をすぐに聞き入れてしまうところも気に入らない。
 などと、映画の登場人物のキャラクターに文句ばかり言っても仕方がないのですが、これはおそらく感動を誘う作品であるにもかかわらず、こんな主人公ではとても感情移入ができんといいたかったわけです。感情移入できるのはお徳さんのほう。しかし、菊之助が歌舞伎役者として立派になればそれですべてよしという(愛が故の)徹底的な利他主義というのは納得がいかない。そもそもいつから菊之助にそんなに思い入れるようになったのかもわからない。それじゃ映画に入りこめんわい、といいたい。
 ということで、文句ばかり言っていますが、それでも溝口、他の部分で補います。たとえば、不必要に長いと思えるほどの歌舞伎の場面。大根の時代の場面がないだけに比較対照はできないものの、その歌舞伎の迫力が画面から伝わってくることは確かでしょう。それだけに観客の拍手の多さはちょっとわかり安すぎるかなという気もさせましたが。後は、茶店の場面なども溝口らしさが漂います。町外れの茶店で、そこの婆と菊之助がやり取りをするだけなのですが、そのロングで撮ったさりげなさが溝口っぽい。ドラマティックには演出せず、さりげなくさりげなく撮る。これが溝口だと思いました。
 となるとこれは、可もなく不可もなく、ではなく、可もあり不可もある作品、ということです。

狐の呉れた赤ん坊

1945年,日本,85分
監督:丸根賛太郎
原作:谷口善太郎、丸根賛太郎
脚本:丸根賛太郎
撮影:石本秀雄
音楽:西梧郎
出演:阪東妻三郎、橘公子、羅門光三郎、寺島貢

 大井川で川越人足をする張子の寅こと寅八は今日も飲み屋で馬方人側の丑五郎と喧嘩を始める。そこに寅八の子分六助が青白い顔で入ってきた。何でも狐に化かされたらしい。それを聞いた寅八は狐を退治してやろうと六助の言った場所へと向かう。しかし、そこにいたのは赤ん坊。狐が化けているに違いないと待つ寅八たちだったが、赤ん坊はいつまでたっても狐にならない…
 阪妻の戦後初主演作は人情喜劇。阪妻はシリアスな立ち回りもかっこいいが、顔の動きがコミカルなので喜劇もいける。
 1971年には勝新主演、三隅研次監督でリメイクされている。

 いわゆるヒューマンコメディを時代劇で撮ったという感じ。
 戦後すぐということで、環境が恵まれたものではなかったろうと感じさせるのは舞台装置の少なさ、画面に登場する場所が非常に少ない。なので、話は小さくなりがちだが、渡しという設定は多くの旅人が登場しうるということを意味し、話にダイナミズムを与えることができる。このようなある種の制限をアイデアで乗り越えようという姿勢はとても好感が持てる。
 そしてもちろん、あらゆる制限を補って余りある阪妻の存在。武士もやれば、浪人もやれば、将軍もやれば、人足もやる。変幻自在が阪妻らしさか。この阪妻は『無法松の一生』の佇まいを髣髴とさせる。話もなんだか似たような感じではあるし。
 そんなこんなでさりげなく面白い映画になっている。このさりげなさというのはとてもすごいと思う。作られてから50年以上がたち、制作環境も恵まれず、にもかかわらず、今見てもさりげない映画に見えてしまう。50年後100年後に見てもすごい映画というのもすごいけれど、50年後100年後に見てもさりげなく面白い映画というのはもっとすごいんじゃないだろうか? すごさというのは語り継がれるけれど、さりげなさというのはなかなか語り継がれない。にもかかわらず、ふらりと見て、くすりと笑い、ほろりと感動して、「ああ面白かった」と映画館を出る。
 それにしても阪妻の顔のよく動くこと。眉をしかめ、目をむき、唇を突き出す。このような演技までして喜劇を演じられるのは、一度はスタートして君臨しながら零落し、再起を遂げた阪妻ならではなのか。阪妻が今でもすごい役者として語り継がれるのは、単なるスターにとどまらず、さまざまな表情を持っているからだと思いました。

将軍と参謀と兵

1942年,日本,109分
監督:田中哲
原作:伊地知進
脚本:北村勉
撮影:長井信一
音楽:江口夜詩
出演:阪東妻三郎、中田弘二、林幹、押本映治、小林桂樹

 昭和16年、北支戦線、作戦中の兵団に斥候が帰ってくる。そのデータを下に参謀長以下参謀は作戦を練り直す。将軍もその会議に顔を出し、作戦の変更を認めた。後は敵を殲滅し、突き進むのみ。意気盛んな兵士はシナ軍をどんどんと追い込んでいく。
 戦時中、陸軍省の協力で中国ロケが敢行された戦争モノ。まさに戦場の中国で撮影されていることを考えているとすごいものがあるが、基本的には戦意高揚映画で、阪妻もまたそれに参加したという形。終始戦闘が繰り返され、兵士たちの勇敢な姿が映し出される。

 このようなストレートな戦意高揚映画というのははじめて見ました。そのようなものだとは意識せずに見始め、30分ほどしたところでそれに気づいたという感じ。戦闘シーンはあれど、血も出なければ、腕ももげなければ、死体も出てこない。戦闘の汚らしい部分は全く出てこず、具体的な敵の姿も出てこない。このあたりがまさにという感じです。
 しかし、このようなことを今取り上げて批判するというのは、全く持ってナンセンスな話で、当時はこのような映画が必要とされ、阪妻もまた参加したということ。進んでかいやおうなくかはわかりませんが、スター役者が参加するということは国民に一種の一体感が生まれるということは確かでしょう。阪妻のような将軍の下で戦いたいと思う若者も多かったかもしれません。この全く血なまぐさくない戦争映画から見えてくるのはこの映画が映す戦闘そのものではなく、戦争がその中に含むそれ以外の戦い。国民意識や戦闘意欲、国民の動員という現代の戦争になくてはならない要素でしょう。だから、この映画はある意味では戦争の一部。陸軍の軍事力の一部であったわけです。つまり、この映画を見るということは、あたかも実際に戦争で使用され銃剣や機関銃を見、手に触れるようなものだと思います。単なる一つの映画を見ているのではなく、映画であると同時に兵器であるものを見ているということ。
 これを推し進めていくと見えてくるのは、映画の持つデマゴギーでしょうか。つまり観客を操作する力。『SHOAH』で書いたことにもつながりますが、映画は見るものをコントロールする可能性を持っているということ。
 今となってはこの映画は、観客をコントロールすることはおそらくなく、それはつまりそのような映画の操作力を冷静に分析する材料になるということです。この映画はとても素朴なものですが、上映された当時は十分にその操作力を持っていた。そのことを考えると、現在の技巧を凝らされた映画には大きな潜在的な力が潜んでいるような気がします。
 そのせいなのかどうなのか、阪妻の演技も控えめです。スターは必要だけれど、スターが目立ちすぎては本来の目的が果たせない。スターにばかり目が行って果敢な兵士たちの姿に目が行かないのでは仕方がないということでしょうか。しかし、阪妻演じる将軍は冷静で、部下を信頼し、決して誤らず、決してあせらず、兵士たちに安心感を与えるのです。わたしがもし、当時若者で、本土でこれを見たならば、「俺も戦争に行かなければ!」と思ったのかも知れません。あくまで「かも知れない」ということでしかないですが、現在から冷静に眺めると、この映画は明らかにそのような効果を狙っていると見えるのです。