おとうと

1960年,日本,98分
監督:市川崑
原作:幸田文
脚本:水木洋子
撮影:宮川一夫
音楽:芥川也寸志
出演:岸恵子、川口浩、田中絹代、森雅之、岸田今日子

 作家の父と後妻の継母と暮らすげんと碧郎の姉弟。後妻の母は手足が悪く、弟の世話や家のことはほとんどげんが女学校に通っていながらやっている。しかし碧郎はどうにもぐれてしまって、ついには悪い仲間に入って盗みを働き、警察に捕まってしまう…
 互いにすれ違う家族の姿を描いた地味な映画。しかし、画面の隅々にまで注意の行き届いた緊張感漂う映画でもある。

 単純に物語を追うと、非常に地味でしかもギクシャクしていて、落ち着かない。言いたいことがあるようなないような、まとまるようなまとまらないような。その印象は圧巻のラストシーンが終わっても消え去らない。むしろラストシーンによって混乱は増すばかりだ。しかしそのなんともいえない緊迫した空気感のようなものこの映画の味といっていいのだと思う。
 その空気感を作り出すのはもちろん映像で、それはもちろん宮川一夫のカメラだ。普段のローアングルとは違い、上からのカットを多用しているのが印象的だが、そうなっても構図の美しさはいつもと変わりがない。しかし、宮川一夫はいわずとしれた名カメラマン。これくらいの仕事は黙っていてもしてくれるはず。そんなに驚くべきことではない。それでもこの映画が宮川一夫の撮影作品でも秀逸なもののひとつだと思えるのは、その光の入れ方である。非常に細かく計算された陰影の作り方。
 それに最初に気づいたのは岸恵子と川口浩が夕日をバックに土手に座っているシーン。立ち上がる岸恵子はバックに夕日を従えて、陰になる。しかしそのくらい中で表情は美しい。構図も秀逸だが、岸恵子の顔に入る光の微妙な入り方がその画面の美しさを引き出していると思った。その光の魔術は病院のシーンでいっそう明らかになる。薄暗い裸電球の灯り、廊下の明かり、廊下に漏れ入る外の眩い光、これらの光が壁や人の顔に落とす光と影の陰影はえも言われず美しい。もちろん岸恵子も美しい。画面のメリハリをつけるには照明が非常に重要な役割を果たすのだということがわかります。
 照明は伊藤幸雄という人です。ちなみにですが。市川崑作品だと他に『黒い十人の女』などを手がけています。宮川一夫と組んでいるのも『赤線地帯』(溝口)『浮草』(小津)など多数あります。照明から映画を選ぶということはなかなかないと思いますが、タイトルクレジットで伊藤幸雄という名前を見かけたらちょっと注目してみるのもいいかもしれません。

帰って来たヨッパライ

1968年,日本,80分
監督:大島渚
脚本:田村孟、佐々木守、足立正生、大島渚
撮影:吉田康弘
音楽:林光
出演:ザ・フォーク・クルセーダーズ、緑魔子、渡辺文雄、佐藤慶

 ベージュの詰襟を着た3人組が海へやってくる。3人が服を脱いで海に行っている間に砂浜の中からニョッキリと手が出てきて服を取り替えてしまう。海から帰って来た3人は仕方なく取り替えられた服を着てタバコ屋にタバコを買いに行く…
 ザ・フォーク・クールセダーズの同名曲を使い、非常に不思議な雰囲気を出す。

 この映画は非常に哲学的であると同時に、具体的な問題をも提起する。哲学的という面はこの映画の時間の流れ方にある。単純な繰り返しでもなく、単純なやり直しでもない時間の流れ。一種の螺旋を描く時間の流れ方。果てしなく続く螺旋の一部を切り取った線分。この映画が「おらは死んじまっただ~」という歌から始まることが示すのは、この前にも螺旋の一巻きがあったということを意味する。そしてもちろん終わったあとにも螺旋の時間は進み続ける。この螺旋という(キリスト教的な)直線とは異なった時間の概念の使い方が哲学的な思索を促す。
 『ラン・ローラ・ラン』という映画があった。1998年のドイツ映画で、ひとつの選択から異なってくる結末を描くという映画だったが、その映画では同じ時間の(異なるパターンの)繰り返しであるにもかかわらず、前のエピソードが次のエピソードに多少の影響を及ぼす。この映画ではそのことが不思議なこととして描かれているのではあるけれど、完全な直線よりは多少螺旋に近しい時間のとらえ方がそこにあると思う。
 この「螺旋」というのは結末に向かって直線的に突き進むハリウッドをはじめとした西洋の映画とは異なった映画を作る重要な要素になっていると思う。そこには西洋と東洋の時間のとらえ方の根本的な違いがあるわけだが、それを60年代の時点でとらえていた大島はさすがである。
 さて、話は変わって、この映画から提起される具体的な問題はもちろん「朝鮮」との関係性である。ふたまわり目で主人公たちが「僕らは朝鮮人だ」と主張するとき、そこには日本人が朝鮮人に成りすますという単純な「ふり」とは違う何かが生まれる。彼らがそのように言う視線は真剣で、心からそのことを信じているように見える。ただ「ふり」がうまいというだけではなく、その真相には「日本人」と「朝鮮人」なんていつでも交換可能なものだという気持ち、あるいは違いなんてないという気持ち、いやより正確に言うならば「日本人」は「朝鮮人」であるという気持ち。がそこにはあるように見える。監督本人も登場する街頭インタビューを模した場面「いえ、朝鮮人です。朝鮮人だからです」という連呼には日本人の誰しもが朝鮮人でありうるという主張が見て取れる。監督自身どこかで「日本人は朝鮮人だ」といっていた。
 フォークル(ザ・フォーク・クルセダーズ)はこの映画が製作された68年、「イムジン河」という曲をリリースしようとしていた。これに対して北朝鮮からクレームがつき、発売が中止になるという事件があったということも映画に影響を及ぼしているのかもしれない。
 そもそも大島渚は「朝鮮」という問題をさまざまな映画で取り上げてきたので、この映画だけからその解答を見つけようとするのは難しいだろう。

害虫

2001年,日本,92分
監督:塩田明彦
脚本:清野弥生
撮影:喜久村徳章
音楽:ナンバーガール
出演:宮崎あおい、蒼井優、沢木哲、石川浩司、りょう、田辺誠一

 父親をなくし母と二人で暮らす中学一年生の北サチ子、そのサチ子の母親が手首を切って自殺未遂を図った。そのころから徐々に学校に行かなくなったサチ子はタカオやキュウゾウといった人たちと出会う。一方学校では同級生の夏子がサチ子のことを心配していた。
 塩田明彦監督が『EUREKA』で話題を呼んだ宮崎あおいを主人公として、またも少年・少女ものを撮った。『月光の囁き』と通じるどこか「イタイ」ドラマ。

 物語の前半から、状況を説明する要素がほとんどなく、台詞もあまりしゃべられない。いきなり挟み込まれるキャプションの相手も最初は誰だかわからない。このわからないことだらけの始まり方というのは見る側の集中力を高めていい。人物の関係性や展開を考えるために、何も見逃さないように画面に意識を集中せざるを得ない。
 この映画の物語は非常にいい。とても痛く、とても濃い。よくある話といえばよくある話だが、そのよくある話を説明や解釈抜きにしてしまうところがいい。たとえば、普通はキュウゾウがいったいどのような人なのかを説明するようなシーンを加えてしまう。それをせずに、キュウゾウはただのキュウゾウであるとするところがいい。その説明がするりと抜けたところに入り込むのは、見る側の解釈である。本当に画面(とキャプション)だけがこの映画のすべてである。余計なものは一切ない。余計な台詞をそぎ落とし、ずっと緊張感が保てるようにしてある。台詞を削り落としたぶん、代わりにわれわれに語りかけてくるのは「モノ」である。
 この映画は「門」の映画だ。繰り返し画面に登場する門、一番頻繁に映るのはサチ子の家の門。このサチ子の家の門の繰り返しでわれわれの意識は門に注がれるようになる。この門に注意を注ぐということが行われていないと、ラストシーンがまったくわからなくなってしまう。ラストシーンの「意味」の解釈は見る人それぞれであるけれど、それが何であるかを見間違えるわけには行かない。監督はそれを見間違えないように繰り返し「門」を映してきたのだから、私がわざわざそんなことを強調することもないのだけれど、そのように周到にモノによって語らせる映画の作り方が気に入ったのだ。
 門といえば、これは余談ですが、学校の校門も出てきた。むかし校門で生徒が圧死するという事件があって、それを思い出したりもしたけれど、そこで小さく映っていた先生は… この映画はいい役者や見たことある人がちょっとした役で出てきます。これは結構映画を見ていて楽しみなので、ここでは明かしません。見つけたときに喜びましょう。校門の先生はわかりにくいので、注意してみていましょうね。

火垂

2000年,日本,164分
監督:河瀬直美
脚本:河瀬直美
撮影:河瀬直美、猪本雅三
音楽:河瀬直美、松岡奈緒美
出演:中村優子、永澤俊矢、光石研、小野陽太郎

 あやこは幼いころ両親と別れ、今はストリッパーをして生活をしている。あやこが妊娠し、中絶をした帰り、道端に倒れた彼女を見かけた大司。大司は死んだ祖父の残した窯を引き継ごうとしていた。そんな2人が出会う。
 火の赤みと自然の風景。舞台は奈良。監督・脚本・撮影・音楽とすべてをこなす河瀬直美の淡々とした世界。

 ながながと、きりきりと、たんたんと、映画はつむがれていくけれど、ばっさりと単純化してしまえば、これは親子(特に母親)の映画だと思う。あやこも大司も親はほとんど登場しない。このことがそもそも意味深く、象徴的である。しかし、親の存在は常に重くのしかかる。大司の引き継いだ祖父の窯を見に来たおじちゃんが「母親の胎内のようだ」みたいなことを言っていた。そう。この映画では窯が母親(あるいは親一般)の暗喩になっている。あやこが一緒に暮らす「姐さん」踊り子の恭子もあやこにとっては母親の一人である。
 あやこと大司がいつまでも衝突するのは、ふたりが人との係わり合いを持ちづらいからであるのは明らかだ。その原因を親との関係性の希薄さに求めているというのも理解しやすい。だから、このふたりが正常な、というか円滑な関係を結ぶにはその「親」と和解しなければならない。あるいは「親」を完全に殺してしまわなければならない。それはつまり、実在しない(実在していた)親ではなく、彼らにとっての象徴的な意味での「親」をである。
 私はそのようなことをこの(わかりにくい)映画をわかりやすく解釈するためのテーマとして掘り出してみた。淡々と進んでいく映画を一つのつながりと見るためには何らかの縦糸を見出していかなければならない。私が見出した縦糸はその「親殺し」ということだった。それはラストシーンをみながら「なるほどね」という実感だった。和解することと殺すこと。一見背反するように見えることだけれど、こと「親」と対するときにはこの二つの事柄は理念的に両立しうると思う。
 などと書いてもぜんぜん言葉が足りないという感じですが、より明確な言葉で語ろうとするとすべてがうそ臭くなってしまうのでやめます。むしろこの映画はそのことをうまく表現しているように私には思えました。ので、映画を見てじっとりと考えてくださいませ。
 ちょっとよくわからない話になってしまいました。
 もうひとつ全体をつなげるのは「赤」の色彩。光や夕日の赤い色に照らされた風景や人物。ただその美しさをとらえたかっただけという印象も受ける。理解しようとすると難解だけれど、その美しさをとらえるのは難しくない。ストリップ小屋の紅い照明も燃え盛る窯の炎も、無数のロウソクがともる寺の風景も。

赤線地帯

1956年,日本,86分
監督:溝口健二
原作:芝木好子
脚本:成沢昌茂
撮影:宮川一夫
音楽:黛敏郎
出演:京マチ子、若尾文子、木暮実千代、三益愛子、沢村貞子

 売春防止法が制定されるか否かという時期の吉原。その売春宿の一軒「夢の里」で働く売春婦たちの生活を描いた群像劇、店一番の売れっ子、結核の夫と子供を抱え通いで働く女、子供を養うために働く女、などなどそれぞれの物語が語られる。
 若尾文子、京マチ子など豪華な女優人に加えて、カメラは宮川一夫。助監督には増村保造というそうそうたる面々をそろえた作品。

 物語のほとんどを占めるのは売春婦たちの単純な生活。それぞれにドラマがあるけれど、行き着く先がわからないまま流れていく物語。それは行き着く先を思い描けない売春婦たちの人生と呼応するものだろう。ただその日その日の一喜一憂だけがそこには存在しているように見える。
 それをしっかりとらえるのはいつものように見事な宮川一夫のカメラだが、この作品では必ずしもどっしりと構えているわけではない。いつもの固定、ローアングルのショットは見事で、物語の前半ではカメラもそのようにどっしりと構えている。しかし物語が動いてくるにつれ、カメラも動いたり、俯瞰で撮ったりと自由になる。
 物語とカメラの両方が劇的に動き出すのは、映画もかなり終盤に入ったあたりで、そこまではなんとなくまとまりのないばらばらの物語の集合という印象だったものが急激にまとまってくる。それはおそらく最後の10分とか15分くらいのものだけれど、そのあたりは本当に食い入るように画面に見入ってしまう。これは今言ったカメラもさることながら、溝口のそこへの話のもっていき方に尽きるのだろう。ただ淡々と過ごしているように見えていた売春婦たちが、そこにかかえていたさまざまなもの。それが怒涛のように噴出してくるその最後の10分か15分は本当にすごい。しかもその怒涛のように噴出す、一人の人間にとって重要なはずのことごともそれまでの日常生活と同じように描いてしまうのが溝口だ。溝口は数々の事件もそれまでの日常生活と同じ淡白さで捕らえ、彼女たちの感情の噴出をことさらに表現しようとはしない。彼女たちの心に呼応するように動くのは宮川のカメラだけだ。そしてそのカメラも激しい彼女たちに擦り寄るのではなく、逆に遠ざかることによって表現しようとする。
 その控えめな描き方がまさに溝口らしさといえるだろう。廊下で倒れた若尾文子の顔を映すことなく、すっと画面転換してしまう。それがまさに溝口健二というものなのかもしれない。

まらそん侍

1956年,日本,90分
監督:森一生
原作:伊場春部
脚本:八木隆一郎
撮影:本多省三
音楽:鈴木静一
出演:勝新太郎、夏目俊二、大泉滉、嵯峨三智子、トニー谷

 安中藩はでは年に一度「遠足(とおあし)」という今で言うまらそん大会が開かれる。その大会の各部門で優勝したものには藩の宝である純金の煙管で煙草を賜ることができた。ある年の優勝者に名を連ねた和馬と一之輔は親友でライバル。藩校に入学した2人は、東京から帰ってきた筆頭家老の娘千鶴に恋をする。
 スター勝新太郎がまだ若いころ主演したコメディ映画。脇にはトニー谷らコメディアンが並び、わかりやすい娯楽作品にしている。

 なんですかねえ、勝新がこんな映画に出ているのはなかなか見れない。結局のところこれは時代劇でもなんでもなく、普通のコメディ映画にちょんまげをかぶせただけでしょう。トニー谷がそろばんはじいているのは愛嬌にしても、トニー谷も大泉滉も動きが面白い。特にマラソンシーンの大泉滉のふざけ方はどうなんだろう? あんなへろへろ走って一位になれるはずがない。とは思いますが、その辺の厳密さをまったく求めていないところがまたいいとところ。かなりいい加減な映画です。いい加減なところを上げていくと本当にキリがなくなるのでやめますが、たとえば五貫目(約20キロ)あるキセルをひょいと持ち上げるお嬢さんなんかいやしない。
 まあまあ、コメディとしては面白いです。トニー谷と盗賊の姉御が掛け合いで唄を歌うところなんかは当時のコメディならではの味がある笑いだと思います。今では絶対に作れない。謡曲風で今見ると違和感はありますが、それはそれで結構面白いもの。トニー谷というひとはかなり芸達者だったのだと思ったりもします。
 コメディというのはやはり昔から軽く見られていたのでしょう。たくさん作られていたはずなのに、今見られるものは非常に少ない。フィルムは結構残っていますが、ビデオなんかになって簡単に借りられるものはあまりないと思います。そんな中この作品は勝新が主演だというせいではありますが、ちゃんとビデオになっている希少な作品です。
 昭和30年代の日本映画黄金時代を見るならば、見ておいて損はない作品かと思います。これだけ低予算な映画というのもなかなか見られません。それは勝新がまだ若かったころだから。立ち回りもなんだか勢いがなく、肝心の純金の煙管も白黒で見ても明らかにしょぼい。こう安いと衣装なんかも他の映画の使いまわしなんじゃないかと考えてしまいます。まあ、それはそれでいいのです。

祇園囃子

1953年,日本,85分
監督:溝口健二
原作:川口松太郎
脚本:依田義賢
撮影:宮川一夫
音楽:斎藤一郎
出演:木暮実千代、若尾文子、河津清三郎、斎藤英太郎、浪速千栄子

 芸者の娘栄子は、母を亡くし、叔父に邪険にされ、零落した父親を頼ることもできず、母の昔の仲間を頼って祇園にやってきた。一軒の館を構える芸者美代春は保証人のなり手もない栄子を芸者として仕込むことに決めた。一年あまりの稽古を終え、美代春の妹美代栄としてはれて舞妓になった栄子だったが、その世界ははたから見るほどきれいなものではなかった…
 溝口、宮川に脂の乗り切った木暮美千代、そして出演2作目で若々しい若尾文子と役者はすっかりそろい、駄作が生まれるはずもない。

 溝口の「間」。この映画の前半、溝口はふんだんに「間」をとる。ひとつのシーンの始まりや終わりで、シーン自体とは無関係なものや人を映す。わかりやすいのはシーン頭に何度かあるカメラの前を通過する人々だろう。最初のシーンでもまず目を引くのは物売りの女。しかしこの女は物語とは関係がない。その後シーンの頭でカメラの前を人や自転車が通過する。その後本来の登場人物がフレームに入ってくるという構成がとられる。この「間」がゆったりとした映画の流れを作る。しかし映画の後半になるとこの「間」ははぶかれ、物語はテンポを持って展開してゆくようになる。シーンとシーンの間に挟まれるのはせいぜいフェードアウト程度だ。
 話を戻して、この「間」を作り出しているのは、完全な固定カメラの映像。舞台に登場人物が入ってくることからシーンが始まることが多い演出。この固定カメラというのは、もちろん宮川一夫の得意の範疇だ。低目から固定カメラで丹念にひとつのカットを作り上げる。舞台の奥で展開される主な物語に対して前景で演じられる遊び。美代春が生活に困窮しているあたりの場面で、薄暗い屋敷の中で、しかし前景の右端に大きく過敏に生けられた花が写っていた場面が非常に印象的でった。いくら困窮していても芸者であるからには華やかさを失ってはいけないという気持ち。その奥で起こっている出来事はその華やかさとは無縁のつらい物語なのだけれど、その花があるだけでそのシーンの印象は大きく変わった。
 溝口としては、戦後の様変わりした日本で、彼が愛した(と思う)祇園の町がどう変わっていくのかを描きたかったのだろう。完全に古い風習の上に立っている町と新しい日本とのかかわり方は確かに面白い話だ。復興に頭を取られる人たちは祇園のことなど忘れ、それが廃れようとどうしようとかまいはしないだろうけれど、依然そこには生きている人たちがいて、生きている風習がある。そのことを溝口は忘れずに考えていた。祇園のお茶の先生の「外国人はフジヤマ、ゲイシャとばかり言う」という台詞は今も生きている。そして、祇園は多くの外国人が訪れる観光地になる。祇園が祇園であり続ける姿をとろうと考えた溝口は懐古趣味のようでいて、実は先見の明があったのかもしれない。

ウォーターボーイズ

2001年,日本,91分
監督:矢口史靖
脚本:矢口史靖
撮影:長田勇市
音楽:松田岳二、冷水ひとみ、田尻光隆
出演:妻夫木聡、玉木宏、平山綾、真鍋かをり、竹中直人

 唯野高校水泳部の唯一の部員鈴木は最後の大会でも成績を出すことができなかった。そこに新しく若くて美人の教師佐久間が赴任してきて、水泳部の顧問をやることになったため、急に部員が集まった。しかし、その先生は学生時代シンクロをやっていて、生徒たちに「シンクロをやろう」と言い出した…
 実際に男子校でシンクロをやっているという話から矢口史靖が作ったお話。発想の面白さが目を引く。実際のシンクロのシーンはかなり見ごたえがあってよい。

 一番面白かったのはなんといってもシンクロの場面。そこに至る過程よりもシンクロそのものが映画のメインになっているので、その場面が面白いというのはいいことだ。そのかわり、そこいいたるまでの展開は映画が始まって早々にほとんどわかってしまうので、はらはらどきどきということにはならず、気を持たせようという努力も、ただ間延びしてしまうだけであまり効果的ではない。
 この映画で一番気になったのは登場人物たちがあまりに型にはまっていること。見た目とキャラクターが待ったくずれることなく、あまりに一致しすぎているというあまりに漫画的なキャラクターの作り方。ここまで型にはまっていると、何か裏があるんじゃないかとかんぐってしまうが、特に何かあるわけでもなさそう。この映画はすべてが漫画的なつくり。ちょっと懐かしいところで「奇面組」のようなお決まりのギャグ漫画のような雰囲気と駄洒落的な要素を持つ。まず高校が「ただの」高校というのもわかりやすい。そして、主人公は鈴木と佐藤。ゲイの男の子は早乙女、イルカの調教師は磯村、学園祭の実行委員はみんなメガネ、などなどなどなど。
 矢口監督の作品はどれもこのような漫画的な要素を持っていて、それはそれでいいのだけれど、それを突き破れないのが問題である。『ひみつの花園』では見事にそれを突き破っていたのに、それ以後の作品はその漫画的空間の中に漫画的なままでとどまってしまっている。この作品名アイデアの面白さに救われて入るけれど、結局のところ「漫画」でしかない。これは別に漫画やアニメ一般を卑下しているわけではない。それよりむしろ、いわゆる漫画的なものを超えた漫画やアニメと比べて、この作品がいわゆる漫画的なもの(乱暴な言葉で言い換えるなら、子供だましのもの)でしかないということだ。
 この作品は決してつまらないわけではなく、さらりと見れば十分に面白い。2年目のジンクスではないけれど、最初に面白いものを作ってしまうと、ついつい過剰に期待してしまって、普通に面白い作品では満足がいかなくなってしまう。ので、そのあたりが大変。この作品のよさは第一は題材選びだが、その次は音楽の使い方かもしれない。誰もが聞いたことのある、少し昔の、しかも楽しげな曲。今いるアーティストとタイアップして、話題やら動員やらを狙う選択肢もあっただろうけれど、このような選択をして正解だったと思う。この音楽を聴けば、映画を見ている人たちも、プールサイドの観客同様盛り上がること間違いなし。

1957年,日本,103分
監督:市川崑
脚本:久里子亭
撮影:小林節雄
音楽:芥川也寸志
出演:京マチ子、船越英二、山村聡、菅原謙二、石原慎太郎

 文芸誌に自分の汚職記事が載ったと憤慨した猿丸刑事はその出版社に殴りこむ。編集長に詰め寄ると、当のライター北長子はすでにクビになったとだった。クビになった北長子は自殺しようと遺書をしたためるがそこにやってきた隣人の赤羽にしばらくの間行方不明になって、そのルポを書くという提案をされ、そのアイデアを売り込みに出版社に行くことにした。
 市川崑らしいスピード感あふれるサスペンス・コメディ。

 なんとなく見て安心という感じ。1950年代後半から60年代と口をすっぱくして言っていますが、その昭和30年代的なもののひとつの典型。スピード感とモダンさと途中ではいる脈略にあまり関係のない唄といろいろな要素がそう思わせます。
 この映画は京マチ子がいいですね。船越英二はいつもどおりおんなったらしな感じの役でいいですが、京マチ子はこういうアクティヴな役のほうがいいのかもしれません。変装と言えるのかわからないような変な変装もかなりいい。水商売ふうの女はまだしも田舎娘の格好は似合いすぎていて怖いです。眉毛がやけに太くなっているのもいい。眉毛といえば、菅原謙二もある意味相当な変装です。
 当時の2500万というのはどれくらいだったのか… それで銀行が買収できてしまうくらいの金額ということは、相当な金額のような気はしますが、本当にそんな額なのかという気もします。そもそも、支店長風情が急に銀行の大株主になったら怪しまれんじゃないの? という疑問もつきません。まあ、そんな細かいことはどうでもよろしい。
 京マチ子の話でした。京マチ子は美人なんだか美人じゃないんだかよくわからない女優さんですね。『女の一生』(増村)などでは、どうもその不美人振りが目立つのですが、基本的には『雨月物語』(溝口)や『千羽鶴』(増村)などの魔性の女っぽさというのが基本的なキャラクターなのかもしれません。そもそも若いころには『痴人の愛』(木村恵吾)ではナオミをやっていた。そして『黒蜥蜴』(井上梅次)も忘れられません。若尾文子や山本富士子のように看板美人女優ではないけれど、非常に個性的なところがいいのでしょう。しかも映画の中では美人といわれることが多いのも不思議。
 ついでに京マチ子の話を続けましょう。『寅さん』にも出ているらしい。見たことないんですが、マドンナなの? 後は、おととしかな、大河ドラマにでたらしい(これも見ていませんが…)。80年代以降ほとんど映画にも出ていなかったのですが、どうなっているのかしら…
 ということで、今日は京マチ子に注目してみました。

しとやかな獣

1962年,日本,96分
監督:川島雄三
原作:新藤兼人
脚本:新藤兼人
撮影:宗川信夫
音楽:池野成
出演:若尾文子、川畑愛光、伊藤雄之助、山岡久乃、浜田ゆう子、高松英郎、船越英二

 息子が会社の金を着服し、娘は作家の妾に納まって優雅な生活を送っている岡田家。息子の会社の社長が殴りこんでくるというので、普段の豪勢な内装をみすぼらしいものにかえ、そ知らぬ顔で社長を迎える。そこには会計係の美しい女がついてきたが、実は彼女こそが…
 川島雄三がアパートの一室を舞台に、作り上げた一風変わったドラマ。サスペンスというかなんというか、とにかく川島雄三の天分と自由さがいかんなく発揮された作品。登場する人たちもはまり役ばかり。特に若尾文子はすごいですね。

 川島雄三は自由である。その自由が許されるのはやはり才能ゆえなのであろう。ゴダールも自由だが、彼もまた天才であるからこそ自由でありえる。
 最初のシーンから、窓から2つの部屋を同時に見るというショットである。2つの部屋を同時に撮ること自体はそれほど新しいことではない。しかし、この仕掛けが映画を通して繰り返され、窓からにとどまらず、上から下からのぞき穴から、区切られた二つの空間をさまざまな形で同時に移しているのを見ると、この監督がいかに空間というものから自由であるかがわかる。ひとつの部屋をひとつの空間としてとらえることは容易だけれど、複数の部屋をひとつの空間と考えて、それが作り出すさまざまな空間構成を操作することは難しい。そこに必要なのは自由な発想である。天井があるはずのところにカメラをおく、ありえないようなのぞき窓を作ってしまう。そのようなことができる自由さが保障されるのは、やはりそこから出来上がるものがあってこそ。それが自由と才能を結びつけるものだと思う。
 しかし、天才というのは理解できないからこそ天才であるという面もある。この川島雄三の映画も、そんな空間の扱い方にとどまらず、やたらと画面の中に人物を詰め込むやり方などを見ても、「すごい」とは思うけれど、そのそれぞれにどのような意味や効果がこめられているのかを理解することは(私には)できない。それらのつながりが見えてこず、ばらばらな印象を受けることもある。だから手放しにその才能を賛美することはできないが、どの作品を見ても感じられる自由な感覚には酔うことができる。
 川島雄三はすごい画面を作り、なかなか理解しがたい仕掛けを映画に仕込む。それは天才であるということかもしれないし、人とは違う感性を持った理解できない人間であるだけかもしれない。重要なのはそのどちらであるのかという判断は、川島雄三という映画監督にかかわることに過ぎず、それが個々の映画の見方を縛るわけではないということだ。川島雄三という名に固執して映画を見ること彼が最も重要視していたと推測できる「自由」に反することだ。川島雄三が撮った自由な映画を見るとき、見る側もまた自由でなければならないと思う。この映画で言えば、すべてのドラマが展開されるアパートの一室を中空に浮いたひとつの透明な箱ととらえたい。見るものはその透明な箱の周りを自由に飛び回ることのできる翼を持った存在だ。そのような自由な存在にわれわれをしてくれるのが川島雄三だ。
 川島雄三はこのように、閉じられた空間をとらえることによって自由な感覚を生み出したけれど、それができたのは、彼が誰にもまして自由だったからだろう。