地獄の警備員

1992年,日本,97分
監督:黒沢清
脚本:富岡邦彦、黒沢清
撮影:根岸憲一
音楽:船越みどり、岸野雄一
出演:久野真紀子、松重豊、長谷川初範、諏訪太郎、大杉漣

 タクシーで渋滞に巻き込まれる女性、彼女は一流企業曙商事に新しくできた12課に配属された新人社員。同じ日、警備室にも新しい警備員が雇われる。ラジオでは元力士の殺人犯が精神鑑定により無罪となったというニュースが意味深に流れる…
 ホラーの名手黒沢清の一般映画監督第2作。日常空間がホラーの場に突然変わるという黒沢清のスタイルはすでに確立されている。怖いことはもちろんだが、映画マニアの心をくすぐるネタもたくさん。いまや名脇役となってしまった松重豊のデビュー作でもある。

 この映画にはいくつか逸話じみた話があって、その代表的なものは、大杉連が殴られて倒れるシーンは、日本映画で初めて殴られ、気絶する人が痙攣するシーンだという話です。実際のところ、人は痙攣するのかどうかはわかりませんが、普通の映画では殴られた人はばっさりと倒れて、そのままぴくりともしない。この映画では倒れた人がかなりしつこく痙攣します。アメリカのホラー映画なんかでは良く見るシーンですが、確かに日本映画ではあまり見ない。
 わたしはあまりホラー映画を見ていないのでわからないのですが、有名なホラー映画のパロディというか翻案が多数織り込まれているという話もあります。

 まあ、そんなマニアじみた話はよくて、結局のところこの映画が怖いかどうかが問題になってくる。一つのポイントとしては、最初から富士丸が怖い殺人犯であるということが暗示されているというより明示されている。というのがかなり重要ですね。誰が犯人かわからなくて、いつどこから襲ってくるかわからないという怖さではなくて、「くるぞ、くるぞ、、、、来たー!!」という恐怖の作り方。それは安心して怖がれる(よくわかりませんが)怖さだということです。 そんな怖さを盛り上げるのは音楽で、この映画では「くるぞ、くるぞ、、、、」というところにきれいに音楽を使っている、小さい音から徐々に音が大きくなっていって「くるぞ、くるぞ、、、」気分が盛り上がるようにできている。このあたりはオーソドックスなホラーの手法に沿っているわけです。だからわかりやすく怖い。
 しかし、(多分)一か所だけ、その音楽がなく、突然襲われる場面があります。どこだかはネタばれになるのでいいませんが、見た人で気付かなかった人は見方が甘いので、もう一度見ましょう。
 そういう場面があるということは、そういう音による怖さの演出に非常に意識的だということをあらわしていて、それだけ恐怖ということを真面目に考えているということ。もちろん、考えていないと、これだけたくさんホラー映画をとることはないわけですが、こういうのを見ていると、恐怖を作り出すというのは、本当に難しいことなんだと感じます。

 ホラー映画が好きでなくても、映画ファンならホラー映画を見なければなりません。ホラーというのは新たな手法を次々と生み出しているジャンルで、そこには映画的工夫があふれている。ホラーではそれが恐怖という目的に修練されていて、その工夫の部分がなかなか見えてこないけれど、実は工夫が目につくような映画よりも新しいこと、すごいことをやっている。
 だから、たまにはホラー映画も見ましょうね。

女は二度生まれる

1961年,日本,99分
監督:川島雄三
原作:富田常雄
脚本:井手俊郎、川島雄三
撮影:村井博
音楽:池野成
出演:若尾文子、山村聡、フランキー堺、藤巻潤、山茶花究

 九段で「ミズテン芸者」をやっているこえんは芸者といいながら、芸はなく、お客と寝てお金をもらう。そんな彼女は芸者屋の近くでしょちゅうすれ違う学生やお得意さんに連れてこられた板前の文夫なんかにも気を遣る。
 そんな女の行き方を川島雄三流にハイテンポに描く。若尾文子が主演した川島雄三の作品はどれも出来がいい(他に『雁の寺』『しとやかな獣』)。この作品も単純なドラマのようでいて、非常に不思議な出来上がり。細部の描写が面白いのはいつものことながら、この映画は若尾文子演じるこえんのキャラクターの微妙さがいい。

 淡々としているようで、驚くほど展開が速い。スピード感があるというのではなく、時間のジャンプが大きい。そのあいだあいだを省略する展開の早さが川島雄三らしさとも言える。このテンポによって描かれるのは主人公こえんの心理の変化である。心理の変化といっても、その内面を描こうとするのではなく、外面的な描写からそれを描こうとする。つまり実際に映画に描かれるのは、主人公の心理に与える影響が大きいエピソードだけで、その出来事と出来事の間は時には1日、時には1年離れているという感じ。
 いろいろな「男」が登場しますが、一番気になったのはフランキー堺の板前ですね。必ずしも彼が一番好きだったというシナリオではないと思いますが、わたしはそのように見ました。藤巻潤の学生さんはそれほどではないように思えるのは、やはり一度(ではないけれど)肌を合わせたかどうかの違いなのでしょうか。こえんのこのキャラクターならば、そのことが意外に大きな要素になるような気もします。その辺りが川島雄三というか、この時代の日本の(というより大映の)映画らしいところということもできるかもしれません。
 フランキー堺の板前といえば、この映画で一番好きだったシーンが、こえんが二の酉の日に一人ですし屋を尋ねていく場面。シーンが切れてすし屋が映ると、何故かベートーベンの『運命』がかかる。それがラジオかレコードか何かだということはすぐわかるんだけれど、すし屋このBGMというミスマッチが気をひく。そして、風邪気味だといった文夫にこえんが「熱があるの?」ときくと「いいえ」とそっけなく言う。それはその前のシーンのこえんと全く同じセリフで、その辺りが非常に詩的。

 プロットの展開の仕方は川島雄三「らしい」ものといえるけれど、このあたりの描写は川島雄三「独特」のもの。この細部の描写を描く感性は川島雄三しか持っておらず、彼の映画でしか見ることができない独自性だと思う。もちろんそれが絶対的にいいというわけではないけれど、この日本映画の黄金時代に独特のキャラクターを持つことができた川島雄三の偉大さを今でも認識できるのは、この独特さにある。
 山村聡のキャラクターが他の映画とちょっと違うのもステキ。べらんめい調で話しながら、ちっちゃいエプロンをしてすき焼きの用意なんかをしているところを見ると、これも一種のミスマッチで、しかしそれが面白みを出しているそんな場面。
 ミスマッチと奇妙な符合。それがこの映画のキーになっていて、物語は奇妙な符合で展開され、映画の細部はミスマッチで彩られる。その辺りがなんだか微妙でいい感じ。最初はそうでもないけれど、見ているうちになんだかだんだん気持ちよくなっていく、そんな映画でした。

チキン・ハート

2002年,日本,105分
監督:清水浩
脚本:清水浩
音楽:鈴木慶一
出演:池内博之、松尾スズキ、忌野清志郎、荒木経惟

 「殴られ屋」をしながら、なんとなく暮らしている元ボクサーの岩野。そんな彼と一緒にいるのは、ティッシュ配りや取立て屋をしながらいい歳してプータローのサダと、親戚の帽子や店番をしながら、占いばかり見ている丸。そんな3人の環境が徐々に変わっていく中、何かが変わっていく…
 北野組の助監督を勤め、『生きない』で監督デビューした清水浩の第2作。個性的なキャストを集めたことで、物語云々にかかわらず、面白い映画を作ることができた。

 物語を追ったら全くたいしたことありません。でも、一つ一つのエピソードはなんとなく面白い。世の中きちんと生きている人が見たら、いらいらするのかもしれないけれど、そんな人はおそらくこんな映画は見ない。なんとなく、のらりくらりと生きている人がこの映画を見る。でも、この映画は必ずしもそののらりくらりを肯定するわけではない。その辺は居心地が悪いけれど、そういったポジティブなメッセージも込めないといけないんでしょうねやはり。
 その辺りはなんだか不満というか、もやもやしますが、岩野が借金を取り立てに行くところとか面白い。わたしとしてはなんといっても松尾スズキがおもしろい。映画としては池内博之と清志郎がメインのような気はするけれど、ネタとして面白いのはさすがに松尾スズキ。そのダサさ加減は愛するしかないという感じです。
 わたしの好みからすると、そんなキャストの裁き方にも少し不満が残るけれど、世間的には松尾スズキが脇にまわるのは仕方がないのでしょう。
 これはこれでいいんじゃないの。

 さて、北野武がどうしてもバイオレンスとかシリアスなものに行き、コメディはどうしてもうまくいかない中、この清水浩はなかなか面白い映画をとる。いつも北野武も本当にやりたいのはコメディなんじゃないかという気がして仕方がない。だから助監督からこのような監督が出るというのは北野武としても喜ばしいことのような気がする。オフィス北野から、このようにいろいろな監督が出てくると、日本映画も面白くなるのではないでしょうか?

日本の夜と霧

1960年,日本,107分
監督:大島渚
脚本:大島渚、石堂淑朗
撮影:川又昴
音楽:真鍋理一郎
出演:桑野みゆき、津川雅彦、渡辺文雄

 1960年、安保闘争で出会った二人が結婚披露宴を執り行うところで、当時の同士、さらには1950年、破防法反対運動時代の同士たちが演説をぶち始める。披露宴の時間から抜け出ることはせず、追想による再現映像で物語を語っていくリアルタイムの学生運動映画。
 人材刷新のため登用された大島渚だったが、会社の逆鱗に触れ、4日で公開中止になったといういわくつきの作品。

 始まってしばらくは、独特の演説調の台詞まわしと、時折セリフがつまり、言い直すという斬新といっていいのかなんといっていいのか、そんな破天荒な語り方に魅了され、じっと映画を見ることができる。
 しかし、物語が進み、それがあまり変化しないことがわかると、その演出というか語り方の大胆さだけでは補えない退屈さが顔を覗かせる。おそらく、リアルタイムで同じような体験をしていた若者たちには、突き刺さるものあるいは共感できるものとして、没頭できるものがあったのだろう。しかし40年後の今、この映画を見るとき、その思想的な面が今も考えるべきものがあるとはいえ、心に突き刺さってはこない。
 演説調のセリフたちが、本当に演説でコミュニケーションとして成り立っていないのもいらだたしい。果たして大島渚が彼らのディスコミュニケーションを、アジテーションの投げかけあいでしかない現状を嘆き、描いたのか。最後までアジテーションで終始し、しかもそれが完結しないところを見ると、そのような意図を持って描かれた作品なのだろう。
 しかし、そのような批判によって何を描こうとしたのかは判然としない。おそらく、これは一種のドキュメンタリーであり、何かを描こうという意図はなかった。果てしないアジテーションを捉えることで、そこから浮き上がってくる何かを画面に定着させる。そのために、つっかえたり言い直したりしてもそのままとにかく続けて撮る。それは一回性を是とするドキュメンタリーの手法に通じる。そんななか、津川雅彦だけは流暢にセリフをしゃべる。しかし、これまた演出ではないだろう。
 なんだか結局よくわからない。すごいのかすごくないのかもわからない。いろいろな文脈でいろいろなことがいえるような気もするけれど、素朴に見るとなんだかわからないまま終わってしまう。何が問題なのか、何が解決したのか、何が解決していないのか。それがわからない。

PARTY7

2000年,日本,104分
監督:石井克人
原作:石井克人
脚本:石井克人
撮影:町田博
音楽:ジェイムス下地
出演:永瀬正敏、浅野忠信、原田芳雄、堀部圭亮、佐藤明美

 郊外もかなり田舎に経つホテル・ニューメキシコ、めったに客もこなさそうなホテルにやってきたチンピラ三木、薄暗いどう見てもまとうではないが、三木の知り合いらしいおばさんのやっている旅行会社の紹介でやってきた。
 一方、オキタはのぞきで何度も刑務所に入っていた男、その父親の友人がそのホテル・ニューメキシコのオーナーで、のぞき部屋を作ってあった。
 奇才石井克人がなんとも不思議な作品を作った。

 オープニングのアニメは長すぎると思う。それはさておき、こういういわゆるスタイリッシュな現代風の映画は、とっぴな発想が重要な要素となるだけに、下ネタに笑いを求めたりする。下ネタ字体は悪くないけれど、それが下品になってしまうと、どうにも苦い映画になってしまう。この映画は時折下品な方向に偏ってしまいがちで、そのあたりが問題なのかもしれない。
 ノゾキ部屋の浅野忠信と原田芳雄の会話などはなかなか面白い。しかし、それが父親の話になって、言い争いになったあたりから収拾がつかなくなり、ユーモアの範囲にとどまらなくなってくる。永瀬正敏のいる部屋のほうでも、3人でもめている段階では、悪くないのだけれど、堀部がやってきたあたりから、どうも切れがなくなる。それでも、時折面白いネタがはさまれるので見通すできるけれど、映画が進むにつれて面白くなくなっていくことは確かだ。
 それは何故かと考えると、映画として全体の脈略がない。特殊な効果をねらう(松金よね子が高速にページをめくったり、永瀬正敏がトランクを隠すとき、ジャンプカットの連続になる)こと自体はいいし、ここの場面は面白いものになっているのだけれど、それが映画の脈略の中で必要かというと特に必要でもないし、全体のスタイルも統一されていない。そのような(チープな)特殊効果を使って映像を見せようというなら、それで押し切ればいいのに、時々思い出したように使われるだけ。その単発的な感じが今ひとつというところ。
 いいところをあげるなら、浅野忠信。浅野忠信は最初から最後まで一人で頑張る。それほどセリフがあるわけでもないけれど、キャラクターもしっかりしているし、おかしさを全身で表現しているような気がする。どうせなら、のぞき部屋の視点だけで全編を見てみたかった。親切にすべてのいきさつやネタをばらしていくのはくどいというか、観客をバカにしているというか、観客の想像力をもっと信用して映画を作ってもいいような気がした。そのような意味でものぞき部屋視点で作ってもいい気がした。

吾輩は猫である

1975年,日本,116分
監督:市川崑
原作:夏目漱石
脚本:八住利雄
撮影:岡崎宏三
音楽:宮本光雄
出演:仲代達矢、伊丹十三、岡本信人、島田陽子、岡田茉莉子

 中学校の教師苦沙弥の家に迷い込んだ野良猫。苦沙弥は妻と3人の娘と暮らしている。そこに日参する独身の迷亭、たまにやってくる研究者の寒月、話はその寒月が苦沙弥の家の近くの実業家の金田の娘と知り合ったことから始まる。
 筋があるのかないのかわからない「吾輩は猫である」を見事に映画化。このとりとめのない物語を映画にするのは大変だ。

 前半は本当に取り留めなく、まさに「吾輩は猫である」の世界のごとく展開してゆく。こういうのをなんというのでしょう。わびさび? ちょっと違う。しかし、劇中で出てきた句「行水の 女にほれる カラスかな」とはまさに作品の感じで、ちょっとしたおかしさと余韻のようなものを含んでいるような気がします。迷亭というのがその不思議な感じを出す最大の要因で、原作でもそんなキャラクターだったかどうかは思い出せませんが、この映画では前半部の主役といっていいキャラクターなわけです。
 しかし、この映画そのまま最後まで行ってしまうのではなく、中盤からちょっとした物語性を帯びて、苦沙弥が主役らしい主役になっていく。苦沙弥の苦悩というものが映画のテーマになっていくわけです。とりとめのないまま最後まで行ってもいいのかと思いますが、この映画の展開の仕方はなかなか見事ですね。いつそんなまっとうな物語が始まったのかわからないまま、気付いてみればその物語に巻き込まれている。とりとめのない話の間に苦沙弥&迷亭の味方になってしまった観客は苦沙弥の苦悩に呼び込まれていってしまうわけです。そこにさらに猫がうまく絡み合って… とラストまでドラマを帯びながらもどこかシュールで、依然としてどこか俳句の世界のような余韻を残しながら映画が展開していくところがいい。のでした。
 やはり市川崑は市川崑。面白い映画を作り続けるのでした。そうえいば、1955年には「こころ」も映画化しています。みたことないですが、見たほうがいいのかもしれない。この『吾輩は猫である』を見る限り市川崑はなかなか漱石と相性がいいのかもしれない。イメージとしては谷崎なんかのほうがありますが、志賀直哉の『破戒』なんかもあるし、古典文学といわれるものを映画化するのが得意なのかもしれませんね。

我が人生最悪の時

1994年,日本,92分
監督:林海象
脚本:林海象、天願大介
撮影:長田勇市
音楽:めいなCo.
出演:永瀬正敏、南原清隆、楊海平、宍戸錠

 黄金町の名画座・横浜日劇の2階に事務所を構える私立探偵の濱マイク(本名)やってくる以来は人探しばかりだが、人探しのスペシャリストとして仕事はしっかりこなしていた。そんなある日、仲間と雀荘でマージャンを打っていたところ、やくざ風の男が、日本語のたどたどしい店員のヤンにいちゃもんをつけたことがきっかけで、喧嘩に巻き込まれてしまう。
 林海象×永瀬正敏の「濱マイク」シリーズの1作目。コミカルさも併せ持つスタイリッシュな1作。

 鈴木清順が掘り起こされたのは90年代、アメリカでタランティーノが『レザボア・ドックス』を撮ったころ。この作品も鈴木清順に敬意を払い、エースの錠を復活させて、鈴木清順の流麗なカメラをまねる。拳銃を持ってにらみ合う二人を切り返しではなく、移動カメラで捉える。その捉え方に清順の影を見る。
 日本映画にはありえないようなスタイリッシュな格好よさも清順ゆずりか、あるいは、ともに清順を消化したアメリカのインディーズ映画の影響か。懐から武器を取り出そうとするヤンをほんのわずかな動作で止める濱マイクの格好よさは日本映画にはなかなかない。ともあれ、全体を通じるスタイリッシュな感じというのは、清順であり、タランティーノであるとわたしは思います。
 ところで、その武器を取り出そうとしたところですでにヤンの素性にある程度感ずいていたはずのマイクを最後まであくまでヤンの味方に、ヤンを信じさせるように仕向けるものはなんなのか? マイクがそこまでヤンに肩入れする理由はなんなのか? 映画の中でも問いが投げかけられるがそれに対する答えはない。そして映画の中からそれが伝わってくることもない。そのあたりを緻密に描ければ、スタイリッシュであると同時にロマンティックな映画となれたのだと思う。そのロマンティックさの欠如がラストへの盛り上がりと観客の感情移入を妨げる。
 ロマンティックさを排除するならば、あのようなウェットな終盤は不必要で、あくまでクールにばっさりと終わってしまったほうがよかった。あの終盤を描きたいのなら、もっとマイクの視点に観客を引き込むべきだった。そのどちらにも徹しきれなかったところがこの映画の残念なところだと思います。

傷だらけの山河

1964年,日本,152分
監督:山本薩夫
原作:石川達三
脚本:新藤兼人
撮影:小林節雄
音楽:池野成
出演:山村聡、若尾文子、船越英二、村瀬幸子

 有馬勝平は自ら築き上げた企業グループの会長を務め、辣腕を振るっていた。彼には正妻のほかに3人の妾がおり、そこにも子供がいた。時折妾の下もたずねながら、息子たちに自分の哲学を語る。そんな彼が娘婿との会談にお茶を持ってきた事務員に目をかける…
 事業の鬼と化した男をめぐる事件とスキャンダル。豪華キャストで、しっかりとしたスタッフが作り出した骨太の力作。

 映画を製作会社で見るのはなんだかマニアックな印象がありますが、この当時(昭和30年代前後)の映画を見ていると、製作会社ごとの色彩というのがわかってきます。役者たちも製作会社が同じなら、同じ人が出てくることが多いので、製作会社を意識せざるを得ない。で、この映画は大映のわけですが、わたしは大映ファンということで、この映画を見てかなりつぼに入るわけです。大映といえばやはり増村ですが、山本薩夫もかなりのもの。監督はさておいたとしても、脚本が新藤兼人、カメラが小林節雄と来れば、大映らしさが感じ取れます。役者で言っても、若尾文子はもちろんのこと、船越英二や川崎敬三、高松英郎などが出てきて、「やっぱ大映だね」と思わされるのでした。
 他には松竹、東映、日活などがあるわけで、一番の大手といえば松竹となりますが、わたしは大映が好き。ということです。
 さて、製作会社の話はさておき、この映画ですが、映画の全体を通して、非常に激しく、なんだか戦争映画のような印象です。最初のほうはカメラも遠めで、落ち着いた始まりですが、物語が進むにつれ、山村聡がクロースアップで恫喝する場面などがかなり出てきて、激しくなる。当時の企業間の競争はいわば戦争のようなもので、それを見事にフィルムに写し撮ったということなのでしょう。だからかなりの迫力があって、2時間半という時間もあっという間に過ぎます。白黒、シネスコという今は敬遠されがちなフォーマットながら、全くそんなことは関係なく面白い。これは女性関係と事業という二つの軸をうまく絡み合わせているからでしょう。どちらかが中心になってしまって、物語が平行するというようなことになってしまうとおそらく全体が散漫な印象になってしまう。それをプロットの段階でうまくより合わせて、複雑な一つの物語にしたことがこれだけの迫力ある映画を作れた要因だと思います。さすが新藤兼人というところですね。
 そして、この映画は画面から人と人との距離感がよく出ていると思います。横長の画面いっぱいを使って、端と端に人を配す場面、片側に寄せて密着させる場面、その距離感が関係をわかりやすく表現する。さすが小林節雄ということころですね。
 そして、若尾文子はやっぱりいいな。となります。やはり。

四畳半襖の裏張り

1973年,日本,72分
監督:神代辰巳
原作:永井荷風
脚本:神代辰巳
撮影:姫田真佐久
音楽:菊川芳江
出演:宮下順子、丘奈保美、絵沢萌子、江角英明

 大正中期の東京の花街、芸者の袖子は客に呼ばれ座敷に上がる。客は30代くらいのちょっといい男。男は早速袖子を寝屋へと連れて行く。「初会の客には気をやるな」という黒地に白の字幕が出て、ふたりは蚊帳の中布団の中で格闘し始める…
 永井荷風の小説を映画化した日活ロマンポルノの名作。ポルノはポルノだが、非常に不思議な映画。

 とても変な映画ですよこれは。ポルノ映画なので、袖子は冒頭からセックスシーンに突入し、それは延々と30分くらいまで続くわけですが、それと平行して花枝の物語が語られる。兵隊さんが出てきて「時間がないんだよ~」といっているのも面白いですが、それはともかくその二つの物語の間の切り替えが不思議。袖子のあえぎ声からいきなりトイレ掃除のシーンに飛んだり、その飛び方が尋常ではないわけです。
 そのミスマッチに笑ってしまうけれど、真面目な顔して考えてみると、それが現実というものなのかもしれない。映画というものは概してセックスにロマンティシズムを持ち込みすぎ、それを何か現実と乖離したもののように描いてしまいがちではないですか。ポルノ映画は一般的にはロマンティシズムとは逆の方向で現実からかけ離れたものとするけれど、この映画はセックスを見事に現実の只中に投げ込む。
 同時に描かれる戦争というものも本来は現実とはかけ離れたところにあるものだけれど、セックスというものを介在させることによってそれを現実に近づける。生活とセックスと戦争とが密接にひとつの現実として立ち現れてくるような空間。そんな空間がこの映画にはあるのではないでしょうか。
 そんな風に空間が成り立ちうるのはこの映画が描いているのが花街であり、セックスと非常に近いところにいる人たちだからだという風に最初は思うのですが、話が進むにつれその考えが間違っていたと思うようになる。後半は花街の人たちだって他の人たちとちっとも変わらないということが描かれているような気がする。それに気づかせてくれるのは最後のシークエンス。そして(ついつい笑ってしまう)終わり方。

阿賀に生きる

1992年,日本,115分
監督:佐藤真
撮影:小林茂
音楽:経麻朗
出演:阿賀野川沿いに住む人々

 新潟県を流れる阿賀野川。沿岸に住む人は愛情を込めて「阿賀」と呼ぶ。佐藤真はスタッフとともにこの阿賀沿いに3年間にわたってキャンプを張り、そこに生きる人たちを撮影した。昭和電工の垂れ流す有機水銀によって引き起こされた新潟水俣病の問題もひとつの焦点となる。
 ドキュメンタリーとはかくありなん。というストレートなドキュメンタリーだが、完成度はかなりのもの。

 ドキュメンタリーを撮るというと、常に問題になってくるのは相手との距離感。それを克服するひとつの方法は時間だ。佐藤真とスタッフは3年間という時間によって阿賀の人たちとの距離感をつめていった。住み着いた初期のエピソードは語られはするもののおそらくあまり使われてはいないだろう。それよりも阿賀の人たちが彼らに慣れ、カメラに慣れて初めて使える映像が撮れるということなのだろう。
 この映画は新潟水俣病の未認定患者という問題はもちろん、他にも主に過疎がもたらすこの地方の問題を提示する。しかし、それを眉間にしわを寄せてみるようなシリアスなものに仕上げるのではなく、生活のほうからその生活に含まれるものとしてあらゆる問題を描く。このあたりがジャーナリズム的な問題の捉え方とは違うところだろう。それを可能にしたのもやはり「時間」だ。
 そして映画としても、しっかりと計算されている。最初のほう、つつが虫除けのお祈りをするシーンで、最初カートを押すおばあさんが映り、右のほうからなにやら祈る音が聞こえる。おばあさんから右にスーッとパンしていくと祈っている光景が映り、字幕で「つつが虫除けのお祈り」と入る。そこからもう一度、左にゆっくりパンするとおばあさんがちょうどついたところで、その祈りの輪に入る。この1カットの描写がとてもいい。他にも風景も非常に美しく捉えられ、ひとつの魅力となる。
 もちろん、被写体となる阿賀の人たちの魅力こそがこの映画の最大の魅力であることは確かだ。船大工の遠藤さんの舟を見つめる目や、長谷川さんが鈎流しをやる時の目は実にさまざまなことを物語る。いくらナレーションしても足りない言葉をその目は語りかけてくる。
 3年間の映像を120分にまとめる。ドキュメンタリーとはそんなものだといってしまえばそれまでだが、この映画を見ていると、その血のにじむような作業で落とされていったフィルムの存在も感じられる。それだけ研ぎ澄まされた、無駄のない編集。「ドキュメンタリー映画の監督っていったい何をするんだ?」と思ってしまうものですが、編集をはじめとしてこの映画はかなり監督の力量が反映されているのではないかと思いました。