死んでしまったら私のことなんか誰も話さない
Nadie Hablara de Nosotras Cuando Hayamos Muerto
1995年,スペイン,104分
監督:アグスティン・ディアス・ヤネス
脚本:アグスティン・ディアス・ヤネス
撮影:パコ・フェメニア
音楽:ベルナルド・ボネッティ
出演:ヴィクトリア・アブリル、フェデリコ・ルッピ、ピラル・バルデム
メキシコのとある場所で麻薬の取引が行われていた。その取引相手の金が贋金ばかりなことに気付いたマフィアは相手が警察であることを見破り、殺し合いに。そこに居合わせた売春婦のグロリアは警察の一人の勧めに従いそこにあったマフィアの裏金の世界中のありかをしるしたファイルを持って逃げ出したが、故郷のスペインへと送還されてしまった。
複数のプロットが重なり合って重厚なドラマを作り出している秀作。単純なクライムアクションでもなく、ヒューマンドラマでもない生々しい映画。
ひとつのドラマを作るのに、登場人物に複数の物語を用意すると話は面白くなる。しかし、それらがうまく絡まないと全体として散漫になってしまう。この映画では主人公のグロリアに関して言えば、その複数の物語がうまく絡み合って面白いドラマを生み出している。男の欲望の目にさらされることや、お酒への渇望を克服できないこと。だらしなさややさしさといったもの。様々なことがらが重層的に積み重なってキャラクターが出来上がっているように見える。酔っ払ってスーパーで買い物をするシーンは素晴らしく、そのときのグロリアの表情を見、その気持ちを考えるといたたまれない気持ちになってくる。
もう一人、マフィアの側の男もいい物語を持っている。だから、この追う男と追われる女の物語はそのおっかけっこ自体が重要なのではなくて、追う男と追われる女それぞれの物語が重要なのである。結局のところその2人のそれぞれがどうなるのかということが興味の対象になるのであって、本来プロットの中心に置かれるべきファイルのことなんてどうでもよくなる。
私はグロリアが拷問に耐える姿を見て、そのことを思いました。物語の展開がどうなるかよりも、それぞれの人間がどうするのかが重要なんだと。だから、犯罪映画というか、アクション/サスペンスとして見てしまうとちっとも面白くない。のろのろしてて、派手なアクションもないし、すぐわき道にそれるし。
でも、それぞれの人間についてのドラマとしてみればかなり面白く、深みがあるのです。だからこの映画はいい映画だと断言します。
さて、枝葉のことが2つほど。
この映画の題名は原題ではおそらく「私」ではなく「私たち」になっていると思います。英語題でもそうなっているので、訳し間違いではなく、なんか理由があってのことと思いますが、私としては「私たち」の方が意味がとおるような気がします。語呂が悪いのかなぁ? そんなことないよな。
2つめ、この監督さんはこの映画が初監督作品ですが、私は結構期待できる気がしたので、いろいろ調べたところ、いまペネロペ・クルス主演で映画を撮っているらしい。しかもスペインにとどまっているらしいので、期待できるかもしれません。スペインといえば、ビクトル・エリセの寡作ぶりが思い浮かびますが、この監督もそういう人なのかしら。