死んでしまったら私のことなんか誰も話さない

Nadie Hablara de Nosotras Cuando Hayamos Muerto
1995年,スペイン,104分
監督:アグスティン・ディアス・ヤネス
脚本:アグスティン・ディアス・ヤネス
撮影:パコ・フェメニア
音楽:ベルナルド・ボネッティ
出演:ヴィクトリア・アブリル、フェデリコ・ルッピ、ピラル・バルデム

 メキシコのとある場所で麻薬の取引が行われていた。その取引相手の金が贋金ばかりなことに気付いたマフィアは相手が警察であることを見破り、殺し合いに。そこに居合わせた売春婦のグロリアは警察の一人の勧めに従いそこにあったマフィアの裏金の世界中のありかをしるしたファイルを持って逃げ出したが、故郷のスペインへと送還されてしまった。
 複数のプロットが重なり合って重厚なドラマを作り出している秀作。単純なクライムアクションでもなく、ヒューマンドラマでもない生々しい映画。

 ひとつのドラマを作るのに、登場人物に複数の物語を用意すると話は面白くなる。しかし、それらがうまく絡まないと全体として散漫になってしまう。この映画では主人公のグロリアに関して言えば、その複数の物語がうまく絡み合って面白いドラマを生み出している。男の欲望の目にさらされることや、お酒への渇望を克服できないこと。だらしなさややさしさといったもの。様々なことがらが重層的に積み重なってキャラクターが出来上がっているように見える。酔っ払ってスーパーで買い物をするシーンは素晴らしく、そのときのグロリアの表情を見、その気持ちを考えるといたたまれない気持ちになってくる。
 もう一人、マフィアの側の男もいい物語を持っている。だから、この追う男と追われる女の物語はそのおっかけっこ自体が重要なのではなくて、追う男と追われる女それぞれの物語が重要なのである。結局のところその2人のそれぞれがどうなるのかということが興味の対象になるのであって、本来プロットの中心に置かれるべきファイルのことなんてどうでもよくなる。
 私はグロリアが拷問に耐える姿を見て、そのことを思いました。物語の展開がどうなるかよりも、それぞれの人間がどうするのかが重要なんだと。だから、犯罪映画というか、アクション/サスペンスとして見てしまうとちっとも面白くない。のろのろしてて、派手なアクションもないし、すぐわき道にそれるし。
 でも、それぞれの人間についてのドラマとしてみればかなり面白く、深みがあるのです。だからこの映画はいい映画だと断言します。

さて、枝葉のことが2つほど。
 この映画の題名は原題ではおそらく「私」ではなく「私たち」になっていると思います。英語題でもそうなっているので、訳し間違いではなく、なんか理由があってのことと思いますが、私としては「私たち」の方が意味がとおるような気がします。語呂が悪いのかなぁ? そんなことないよな。
 2つめ、この監督さんはこの映画が初監督作品ですが、私は結構期待できる気がしたので、いろいろ調べたところ、いまペネロペ・クルス主演で映画を撮っているらしい。しかもスペインにとどまっているらしいので、期待できるかもしれません。スペインといえば、ビクトル・エリセの寡作ぶりが思い浮かびますが、この監督もそういう人なのかしら。

春のソナタ

Conte de Printenmpsr
1989年,フランス,107分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:リック・パジェス
音楽:ジャン=ルイ・ヴァレロ
出演:アンヌ・ティセードル、フロランス・ダレル、ユーグ・ケステル

 ジャンヌは研修のためパリにやってきた従妹に部屋を貸し、自分は出張中の彼氏のアパートで過ごしていた。従妹が帰るはずの日、従妹の部屋に行くと従妹とその彼氏がまだ家にいた。従妹の滞在が伸び、ジャンヌは彼の部屋に戻ることに。その夜、気が進まない友だちのパーティーでに行ったジャンヌはそこでナターシャという少女に出会い、その娘の家に泊まることになった…
 エリック・ロメールの「四季の物語」の第一作。恋愛を巡る心理の行き来が興味深く、少々哲学的というフランス映画らしい物語。

 なんてことはないはないですが、考えていることをすぐに言葉にして表現するというのがなんとなくフランス映画っぽい。それも感情的な言葉ではなく、思弁的な言葉をさらりといってしまう。それが恋愛に関わることであってもそう。この映画も物語を進めていく中心にあるのは会話であって、登場人物たちが発する言葉である。
 言葉と映画の関係について考えてみる。映画はやはり映像の芸術で、エンターテイメントだから、言葉は不可欠な要素ではないと思う。だからサイレント映画だって面白い。しかし、このように言葉が重要な要素として使われるのも面白い。それはヌーヴェル・ヴァーグに特徴的な話なのだろうか?(不勉強ですみません)確かにゴダールも言葉に非常に意識的な作家だし、ヌーヴェル・ヴァーグからなんだろうなという気もする。
 言葉を使うことで映画は曖昧になる。受け手に任される要素が大きくなる。それは意味の伝わり方が映像よりも曖昧だから。受け手の素養によって伝わり方が大きく違ってくる。たとえばこの映画ででてきた「超越的と超越論的」というものの違いを理解できる人がどれだけいるのか? わからないものとして無視するか、当たり前のように理解するか、中途半端に理解していてそこでつまずくか。私はそこでつまずいて映画においていかれてしまいましたが、それで映画の見え方が違ってくると思う。
 映像だってもちろん受け手によって捉え方は違うのだけれど、イメージのままで植え付けられる分、個人差が少ない気がする(あくまで気がするだけ)。なので、ヌーヴェル・ヴァーグ以降のフランス映画のちょっと難しいものというイメージもまんざら間違っていない気がする。それは見る人によって見え方が違ってくるもの、イコール定まった答えがないものということ。本当はその方が自由でやさしい映画であると私は思うのですが。

夏物語

Conte D’Ete
1996年,フランス,114分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:ダイアン・バラティエ
音楽:フィリップ・エデル、セバスチャン・エルムス
出演:メルヴィル・プポー、アマンダ・ラングレ、オーレリア・ノラン、グウェナウェル・シモン

 ガスパールはバカンスを過ごすため、友人の家を借りてディナールへやってきた。街をぶらぶらとしてクレープ屋へよった彼は翌日一人海へ行き、そのクレープ屋でバイトをする女の子と出会い、仲良くなる。どことなく人待ち顔のガスパールは実は思いを寄せるガールフレンドを探していて…
 エリック・ロメールの「四季の物語」シリーズの3作目。1人の男と3人の女を描いたロメールらしいラブ・ストーリー。

 エリック・ロメールの映画というと、私ははずれはないけれど大当りもないというイメージがあります。しかしそんな中でこの映画はかなり好きなもの。四季の中でも一番でしょう。
 ロメールの作品は遠目のショットが多い。大体が人物の全身がすっぽり入る感じ。だから画面の大部分を占めるのは風景ということになり、それがロメールらしい味わいとなる。この映画でも、印象に残るのは、海・空・浜・山、人物よりは風景だと思う。それがロメールの爽やかさ、おしゃれな感じにつながっているのでしょう。
 さて、そんなことよりもこの映画が素晴らしいのはその詩情。どうにも優柔不断な男であるガスパールのキャラクターは男なら誰もがどこか引っかかる自己像だと思う。女性でもそんな男にいらいらしつつ、その恋愛劇にあこがれてしまうようなそんなみずみずしさ。誰もが自分の体験と重ね合わせることができるような物語。そんな憧れとか思い出とかそんな形で自分にひきつけることができる物語であること、それが素晴らしいところ。
 多くの映画はそこに没入することによって体験するものだけれど、ロメールの映画は逆に映画の中の人物や出来事を自分の体験にひきつけることによって経験できるもの。そのような映画が与えるのは非日常的な経験によって日常生活を乗り越えることではなく、直接的に自分の日常に何かを加えること。自分自身を(無意識にでも)内省することによって、何らかの活力とか意欲とかそのような動力が生み出されること。そのようなことだと思います。多分。なんとなく見ると元気になる気がします。

天井桟敷の人々

Les Enfants du Paradis
1945年,フランス,195分
監督:マルセル・カルネ
脚本:ジャック・プレヴェール
撮影:ロジェ・ユベール、マルク・フォサール
音楽:モーリス・ティリエ、ジョセフ・コズマ
出演:アルレッティ、ジャン=ルイ・バロー、マリア・カザレス、ピエール・ブラッスール

 19世紀のパリ、犯罪大通りと呼ばれる通りは今日も人で賑わう。その通りにある劇場に役者になりたいといってやってきた男パトリック、その彼が通りで目を止めた美女ガランス、その劇場の看板役者の息子バチスト、女優のナタリー、ガランスの友人で犯罪を繰り返しながらも詩人を自称するラスネールといった人々が繰り広げる壮大なドラマ。
 物語は2幕からなり、1部が犯罪大通り、2部が白い男と題された。プレヴェールの脚本は非の打ち所がなく、カルネの造り方にも隙がない。まさにフランス映画史上指折りの名作。

 3時間以上の映画ほぼ全編にわたって、あきさせることなく見せつづける。それはこの映画のテンポがとても心地いいから。第2部の途中で少しスローダウンしてしまうが、そこでようやくこの映画のスピード感に気づく。長い映画にもかかわらず、一般的なドラマよりもテンポが速い。つまり量的には普通の2時間の映画の3倍くらいの量がある(概念的な量ですが)。それでも辟易せずに、勢いを保ったまま見られるのは、そのプロットの巧妙さ。常に見る側に様々な疑問を浮かべさせたまま次々と物語を展開していく。実に巧妙な脚本と周到な映像化のなせる技。
 劇中劇が非常に面白いというのも素晴らしい。なんとなく映画の劇中劇というと、おざなりで退屈なものが多く、時間も大体短い。しかしこの映画の劇中劇はすごく面白い。映画の中では一部分しか見られないのが残念なくらい面白い。特にバチストの演じる劇は途中で途絶えてしまったときには「終わっちゃうの?」と思ってしまうほど魅力的だった。
 しかし、なんといっても4人4様のガランスへの想い、彼らが抱える想いを描くその繊細さ、そのロマンティシズムはいまだどの映画にも乗り越えられていないのではないかと思う。もちろん中心となるのはバチストとパトリックで、他の2人は障害として作られたようなものだけれど、それでもそこには一種のロマンティシズムがある。4つのロマンティシズムの形が衝突し、それを受け止める女は何を想うのか。
 個人的に少々不満だったのは、第2部途中のスローダウンと、ガランスの配役ですかね。ガランスは魅力的だけれど、絶世の美女というわけではなく(目じりの小皺も目立つし)、ナタリーといい勝負くらいだと思う。好みの問題ですが、そこに映画と一体化するのを邪魔するちょっとした要素がありました。
 そんなことはいってもやはり名作中の名作であることに変わりはなく、何度見てもいいものです。5時間くらいのディレクターズカット版とか、あるわけないけどあったらいいななどと思ってしまいます。淀みなく、美しい。それが永遠に続けばいいのにと思う映画。そんな映画にはなかなか出会えません。

メキシコ万歳

Que Viva Mexico !
1979年,ソ連,86分
監督:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、グレゴリ-・アレクサンドロフ
脚本:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン
撮影:エドゥアルド・ティッセ、ニコライ・オロノフスキー
音楽:ユーリー・ヤクシェフ
出演:メキシコの人たち

 映画はアレクサンドロフの解説から始まる。エイゼンシュテインとティッセと3人でメキシコで映画を撮った話。50年間アメリカにフィルムが保管されていた話。そのあと映画が始まり、メキシコの歴史を語る映画であることが明らかにされる。この映画は現在の先住民達の生活を描く前半と、独裁制時代に辛酸をなめた農奴達を描いた後半からなる。
 ロシア革命とメキシコ革命が呼応する形で作られた革命映画は、エイゼンシュテインが一貫して描きつづけるモチーフをここでも示す。メキシコの民衆に向けられたエイゼンシュテインの眼差しがそこにある。

 私の興味をひきつけたのは後半の農奴達を描いたドラマの部分だ。それはラテン・アメリカに共通して存在する抵抗文学の系譜、映画でいえばウカマウが描く革命の物語。最後にアレクサンドロフが言うようにこの映画がその後の革命までも描く構想であったということは、この映画がメキシコ革命を賛美するひとつの賛歌となることを意味する。
 もちろんエイゼンシュテインは「戦艦ポチョムキン」から一貫して革命を支持する立場で映画を撮ってきた。だから、同時代にメキシコで起こった革命をも支持することは理解でき、この映画がアメリカでの話がまとまらなかったことを考えれば当然であるとも思える。そして、このフィルムが50年近くアメリカからソ連に渡らなかったことも考え合わせれば、米ソ(と中南米)の50年間の関係を象徴するような映画であるということもできるだろう。
 内容からしてそのような政治的な意図を考えずに見ることはできないのだが、それよりも目に付くのは不自然なまでの様式美だろう。最初の先住民達を描く部分でもピラミッドと人の顔の構成や、静止している人を静止画のように撮るカットなど、普通に考えれば不自然な映像を挿入する。それはもちろん、その画面の美しさの表現が狙いであり、そのように自然さを離れて美しさを作り出そうとすることがエイゼンシュテインの革新性であり、そのような手法はいまだ革新的でありつづけている。
 そのような革新的な美しさを持つ画面と、革命的な精神を伝える物語がいまひとつ溶け合っていないのは、エイゼンシュテイン自身による編集でないせいなのか、それともその違和感もまた狙いなのかはわからないが、様式美にこだわった画面が映画の中で少し浮いてしまっていることは確かだ。それは他とは違う画面が突然挿入されることによって物語が分断されるような感覚。これはあまり気持ちのいいことではない。もちろんその挿入される画面は美しいのだが、もし現在の映画でこのような映画があったら、ことさらに芸術性を強調するスノッブな映画というイメージになってしまったかもしれない。
 今となってはいくら願ってもかなわないことだが、未完成のの部分も含めたエイゼンシュテイン自身による完全版が見てみたかった。映画もまたその歴史の中で取り返しのつかない失敗を繰り返してきたのだということを考えずにいられない。

ハリー、見知らぬ友人

Hurry, un ami qui vous veut du bien
2000年,フランス,112分
監督:ドミニク・モル
脚本:ドミニク・モル、ジル・マルション
撮影:マチュー・ポアロ=デルペッシュ
出演:クセルジ・ロペス、ローラン・リュカ、ソフィー・ギルマン、マティルド・セニエ

 ヴァケーションのシーズンに入ったフランス、3人の小さな子を連れ田舎の別荘へと向かうミシェルとその家族だったが、エアコンのない車内で家族のいらいらは頂点に達していた。そんなときに立ち寄ったインターチェンジのトイレで、ミシェルは高校時代の友人だというハリーに声をかけられる。全く覚えのないミシェルだったが、なんとなくいっしょに別荘へ行くことになってしまう。
 フランス映画らしい落ち着いた雰囲気の中に怖さが潜むサイコ・サスペンス。

 なるほど「アメリカン・サイコ」とはまったく対照的な作品。衝撃的な映像もなく、クローズアップの連続といった無理から恐怖観をあおるような映像的工夫もない。それでも怖さは伝わってくる。サイコサスペンスはやはり怖くなさそうなところに怖さがないといけないのだと思います。そういう意味では典型的なサイコサスペンスということなのでしょう。
 惜しむらくは筋にひねりがなく展開が想像できてしまうことと、音楽の使い方があまりにストレートなこと。「これから怖いことが起こるよ」とあからさまにわかる音楽を使い、しかも予想したとおりのことが起こる。それはそれで今か今かというドキドキ感を確実に感じさせていい気もしますが、やっぱりもうちょっとひねりがね…
 あとは、映像的な面で、サイコサスペンスにもかかわらず全体的に明るく暖かな映像だったのが印象的。断片的に見るとサイコ・サスペンスとは絶対に思わないでしょう。特にライティングに気を使っているのがよくわかります。 しかしいまひとつ抜けきれなかったのは、ハリーのキャラクターの弱さのせいか。あるいは曖昧さというか。ハリーはただ単に利己的な男なのか、それともミシェルのメフィストフェレス的キャラクターなのか、そのあたりは曖昧。はっきりとメフィストフェレスと分かれば物語の見え方も変わって来たのでしょう。あるいはただのわがままなサイコ野郎だと。

キス・オブ・ザ・ドラゴン

Kiss of the Dragon
2001年,フランス=アメリカ,98分
監督:クリス・ナオン
原案:ジェット・リー
脚本:リュック・ベッソン、ロバート・マーク・ケイメン
撮影:ティエリー・アルボガスト
音楽:クレイグ・アームストロング
出演:ジェット・リー、ブリジット・フォンダ、チャッキー・カリョ、ローレンス・アシュレイ

 パリにやってきた一人の中国人リュウ、彼はパリ警察の助っ人として北京からやってきた刑事だった。その初日、麻薬密売組織をつかまえるためホテルで監視をする。しかしフランスの刑事リシャールがそのボスを殺し、リュウにその罪をなすりつけようとする。リュウは証拠を持って逃げようとするのだが…
 リュック・ベッソンが新たなアクション映画をジェット・リーと組んで製作。監督にはCM界では名の知れたクリス・ナオンを起用した。やはり、ジェット・リーのアクションは切れ味最高。

 リュック・ベッソンはなんだかいろいろな色がつけられていて、感動ものとか、少女がとか、いろいろ言われますが、私はリュック・ベッソンの基本はアクションにあると思います。そもそも最初の長編「最後の戦い」はセリフなしの長尺アクションシーンという常識破りのことが話題を呼んだはず。それをあげずとも、「ニキータ」も「レオン」も「フィフス・エレメント」だってアクションなわけですから。
 といっても、この映画はリュック・ベッソンらしさはあまりなく、むしろジェット・リーの映画作りにベッソンが手を貸したという風情です。そのあたりが同じ製作・脚本でも「タクシー」とは違うところ。
 さて、ベッソンは置いておいて、この映画はあくまでもジェット・リーの映画。プロットも単純明快、心理描写の機微などいらない、とにかくアクションに徹することでこの映画はいい映画になっている。逆にドラマの部分に力を入れている映画はアクションだけを取り上げると物足りないものが多い。今アクション映画を語るには「マトリックス」と「ワイヤー・アクション」を抜きにして語ることはできない。ワイヤー・アクションを世界的に勇名にしたのはやはり「マトリックス」で、「グリーン・デスティニー」ではない。でもやはり元祖は香港で、ハリウッドはその人材を輸入したに過ぎない。
 しかしやはり世界的には「マトリックス」で、アクション映画を見るときにはマトリックス後であることを意識せずには見れない。だからいまのアクション映画は「マトリックス」をいかに超えるのかということ考えざるを得ないだろう。同じようなワイヤー・アクションと特殊撮影を使っただけでは、マトリックスの二番煎じになってしまう。
 ということを考えた上で、この映画を見てみると、このジェット・リーは1人でマトリックスを(部分的にでも)越える。それはまことしやかということ。「マトリックス」の明らかな特撮とは違う生にな感じ。それはジェット・リーだからできたことだろう。やっぱりかっこいいなジェット・リー。

ガッジョ・ディーロ

Gadjo Dilo
1997年,フランス=ルーマニア,100分
監督:トニー・ガトリフ
脚本:トニー・ガトリフ
撮影:エリック・ギシャール
音楽:トニー・ガトリフ
出演:ロマン・デュリス、ローナ・ハートナー、イシドア・セルバン

 フランス人のステファンは、父が生前聞いていたテープの歌い手「ノラ・ルカ」を探して、ルーマニアを旅する。その途中彼はロマと呼ばれる音楽家たち(いわゆる「ジプシー」)に出会い、彼らが「ノラ・ルカ」のところにつれてっくれると信じ、彼らの村に滞在する。
 音楽と映像が美しく絡み合い、ひとつのアートとしての統一感を持つ作品。「ロマ」に強い思い入れを持つガトリフ監督のロマものの中でも一番のできでしょう。

 「ジプシー」という言葉は差別語とみなされ、最近では「ロマ」を使うのが適切だとされているようだが、この作品を見ていると、そんな名称なんてどうでもいいという気になってくる。
 イシドールの顔に刻まれた一本一本の皺からも音楽が聞こえてくるような、空間すべてが音楽で満たされているような、そんな素晴らしい映画。ロマやジプシーといわれて思いつくのは、エミール・クストリッツァの「ジプシーのとき」という映画で、これも素晴らしい映画でしたが、もっと殺伐としていて、悲哀にみちた映画でした。どちらが本当ということはないですが、厳しい生活の中でも、明るい生活を送っているということが伝わってくるこの作品のほうが好みではあります。
 ガトリフ監督には「ベンゴ」という映画もありました。これはアンダルシアを舞台としたフラメンコ映画で、場所こそ違えどこの映画と近しいものを感じます。ほかには「ガスパール 君と過ごした季節」(ビデオでは、「海辺のレストラン ガスパール&ロバンソン」というタイトルになっているはず)、「MONDO」という作品もありました。どちらもなかなかいい作品。紹介できたらしたいところですね。

ベーゼ・モア

2000年,フランス,74分
監督:ヴィルジニー・デパント、コラリー・トラン・ティ
原作:ヴィルジニー・デパント
脚本:ヴィルジニー・デパント、コラリー・トラン・ティ
撮影:ブノワ・シャマイアール、ジュリアン・パマール
音楽:ヴァルー・ジャン
出演:ラファエラ・アンダーソン、カレン・バック、デルフィーヌ・マッカーティー

 フランスのスラムに暮らす女性達。その1人ナディーヌは売春をして生計を立てる。友だちと一緒に住んでいるが、その友だちは口うるさくイライラを募らせる。マニュはドラッグに溺れ、仕事もなくバーをやっている兄に金を無心する。兄はマニュを愛してはいるが、小言も多くマニュはそれにいらだっていた。
 フランスの女流作家デパントが自作を友人でもとポルノ女優のコラリー・トラン・ティと組んで映画化。そのセックスとバイオレンスの過激さでフランスで上映禁止にされたといういわく付きの作品。日本では再編集されて劇場公開されたが、オリジナルに近いバージョンもビデオで発売。

 バイオレンスとセックスの描写という点を見れば、確かに過激ということもできるが、むしろ露骨。ことさら過激にしようというよりは生っぽさを表現しようという意図が感じられる。確かに子供に見せるのは… というくらいではあるけれど、物の分かった大人なら、見ても別にどいうということはないなと思う。逆に殺人やセックスのリアルさが感じさせる監督の緻密さが興味深い。
 冷静でしかしそれが逆に冷淡さにつながるマニュの行動や表情から伝わってくるメッセージはそんな過激さがもたらす悪影響を越えるほどの強い力を持っている。いくらフェミニストが言葉で攻撃を繰り返しても実現できないことを1時間強の映画でやってのける。それはすごいこと。強姦されながらも無表情で悪態をつくマニュの視線は男の弱さ(虚勢)とずるさと身勝手さを貫き通す。物理的な力によって女を支配する男が、物理的な力を逆転されたときに起きること。
 女性にとって権威に反逆することは男に反逆することに常に通じる。いまは片意地を張って男性と並ぶことを誇るような女に反逆することも含むが、やはり権力を持つのは男性であり、男性の借りている権威を攻撃することがどうしても必要だ。もちろん暴力をふるうことでそれが解決するわけではないけれど、この映画は権威に反逆するということを象徴的に表現しているのだろう。
 男が買春をして払う金が意味しているものは、彼女達が男を殺して奪う金が意味するものと違うものなのだろうか?

チューブ・テイルズ

Tube Tales
1999年,イギリス,89分
監督:エイミー・ジェンキンズ、スティーヴン・ホプキンス、メンハジ・フーダ、ボブ・ホスキンス、ユアン・マクレガー、アーマンド・イアヌッチ、ジュード・ロウ、ギャビー・デラル、チャールズ・マクドゥガル
脚本:エド・アレン、ゲイビー・デラル、ポール・フレイザー、アタランタ・グーランドリス、マーク・グレイグ、スティーヴン・ホプキンス、アーマンド・イアヌッチ、エイミー・ジェンキンズ、ハーシャ・パテル、ニック・ペリー
撮影:スー・ギブソン、デヴィッド・ジョンソン、ブライアン・テュファーノ
音楽:サイモン・ボスウェル、マーク・ハミルトン・スチュワート
出演:レイチェル・ワイズ、レイ・ウィンストン、ジェイソン・フレミング、デニス・ヴァン・オーテン、ケリー・マクドナルド

 ロンドンの地下鉄「チューブ」を舞台に9人の監督が9つのエピソードを撮ったオムニバス作品。1本は10分程度なので、完全に短編集という感じだが、どの作品を一筋縄では行かない癖のあるもの。ユアン・マクレガーとジュード・ロウが監督として参加している。

 どれがどうというのは難しいので、ばらばらと行きましょう。
 個人的に好きなのは、2話目の”Mr. Cool”(多分)かな。あの笑いはかなり好き。とてもイギリス的な笑いという感じがしていいです。イギリス的というと、何話目だか忘れましたが、”My Father the Liar”がとてもイギリス映画らしくてよかったですね。あのおとうさんと子供のコンビが画面に映っていたら、0コンマ1秒で「イギリス映画!」と叫んでしまいそう。画面の暗さとかパースの取り方にイギリスっぽさがあるのだなあという感じ。中身もタイトルもなかなかだと思います。
 あとは、”Rosebud”も好みの感じでした。「アリス」ものの変種という感じですが、「ミスターH」と地下通路の独特の感じを使ってとてもいい画になっていたと思います。あの黒人の(アフリカ系の)おばさんはどこかで見たことがある感じがするけど誰だろう。
 あとは、全体的にアフリカ系の人が多く登場しているというのが印象的。われわれから見ると、イギリスというとやはり白人のイメージが強いのだけれど、実際はかなりいろいろな人種がいる国で、「チューブ」はその様々な人種が交差する場であるとこの映画は主張しているかのようです。様々な人種がいて、しかしそれ以前にみんな「個」として存在し、普段は単純にすれ違うだけだけれど、何かの拍子にそこに交流が生まれる。拒否という態度でもいいけれど、ひとつの交流が生まれる。それはチューブという「場」があるからこそ可能なことで、その交流のほとんどは決して気分のいいものではないにしても、その中に何かいいものが隠されている。というところでしょうか。