女ともだち

Ie Amiche
1956年,イタリア,104分
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本:スーゾ・チェッキ・ダミーコ、アルバ・デ・セスペデス
撮影:ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ
音楽:ジョヴァンニ・フスコ
出演:エレオノラ・ロッシ=ドラゴ、イヴォンヌ・フルノー、ヴァレンティナ・コルテーゼ

 1952年、ローマからブティックの支店開設のため生まれ故郷のトリノへとやってきたクレリアはホテルの隣室の客ロゼッタの自殺未遂に出くわす。そこから仲良くなったロゼッタのともだちモミナらと仲良くなった。またクレリアは店の設計技師の助手カルロに心魅かれもしていた。
 複雑な人間関係が交錯するアントニオーニには珍しい通俗劇。監督としては3作目の長編となる。ストレートなドラマとしてみることができるが、その中にアントニオーニらしさも垣間見れる作品。

 一見ほれたはれたの通俗劇で、イタリア版「ビバヒル」みたいな感じだけれど、そこはアントニオーニで、決してハッピーな展開にはならず、痛切な出来事ばかりが起こる。結局のところ人と人との心はつながらないというか、理解しあえることなどはないんだとでも言いたげで、ちょっと気が滅入ったりもしました。 なんといってもロレンツォっていうのが、ひどい男ですね。映画を見ながら、「卑劣極まりないね」などとつぶやいてしまいました。
 でも、まあ話としてはわかりやすく、まとまりもついているし、アントニオーニにしては見やすいといえるかもしれません。それでも物語に含まれるそれぞれの話は徐々に散逸していき、決してひとつにまとまることはないということはあります。それがアントニオーニ。ひとつの物語へと集中する観客の視線を拒否することによって成り立っている映画という気がします。その物語から視線をそらされたところで、気を引かれたひとつの要素は音楽。この間の「欲望」のハービー・ハンコックの音楽もよかったですが、この映画にさりげなく含まれる音楽もかなりいい。それを一番思ったのはモミナのアパートに女たちが集まったときにBGMとしてかかっている曲。さりげなくセンスのいい曲が流れ、しかしそれも頻繁ではないという控えめな感じ。いいですね。
 ジョヴァンニ・フスコはアントニオーニ作品の多くを手がけているので、ほかの映画を見ても音楽のセンスのよさを感じられていいですね。

欲望

Blow-up
1966年,イタリア,111分
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
原作:フリオ・コルタサル
脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ、トニーノ・グエッラ、エドワード・ボンド
撮影:カルロ・ディ・パルマ
音楽:ハービー・ハンコック
出演:デヴィッド・ヘミングス、ヴァネッサ・レッドグレーヴ、サラ・マイルズ、ジェーン・バーキン

 大勢の若者が白塗りの顔で車に乗って騒いでいる、簡易宿泊所(?)から無言で人々が帰ってゆく。そんな映像とハービー・ハンコックの音楽で始まるこの映画の主人公はカメラマンのトーマス。売れっ子カメラマンらしくわがまま放題に行動するトーマスはまた撮影の途中でスタジオを抜け出す。公園へとやってきた彼は、カップルのいる風景を写真に撮るが…
 アントニオーニの後期の代表作のひとつ。カンヌではパルムドールを受賞。

かなり理解しがたい物語であるが、それは登場人物たちの関係性やトーマスの行動原理がまったく見えてこないことにある。スタジオの程近くの家に住む美女はいったい誰なのか? なぜ料理を注文しておいて車で去ってしまうのか?
 この映画の原作者のフリオ・コルタサルはラテンアメリカの多くの作家と同様に幻想的な作品を多く書いている作家である。
 そんなことも考えながら映画を反芻していると、なんとなくいろいろなことがわかってくる。現実と非現実を区別するならば、誰が現実の存在で誰が非現実の存在なのかということ。トーマスがエージェントらしい男に見せる老人たちの写真。映画に写真として現れるのは、この老人たちの写真と公園の写真だけである。映画の冒頭で簡易宿泊所(?)から出てきたトーマスがおそらくそこで撮ったのであろう写真。トーマスの行動は若者が夢想する典型的な自由であるように思える。
 すべてが幻想であり、虚構であると考えることは容易だ。しかしこの映画がそんな単純な「夢」物語なのだとしたら、ちっとも面白くないと思う。何でもありうる「夢」の世界で起こる事々を単純な仕組みで描いただけであるならば、ありがちな映画に過ぎない。この映画の優れている点はこれが「夢」物語であるとしても、少なくともある程度は「夢」物語ではあるわけだが、誰の「夢」であるのかがはっきりとしないことだ。いくつもの解釈の可能性があり、どれが正解であるとは決まらない。単純な「夢」の物語と考えず、その現実とのつながり方を考え、いくつもの可能性を考えたほうが面白い。
 少なくとも一部は「夢」であると考えられるのにこの映画は「リアル」である。トーマスが一人になる場面がいくつかあるが、そこで彼は完全に無言である。不要な独り言やモノローグは存在しない。大仰な身振りも存在しない。トーマスを見つめるカメラの目が彼の行動を解釈しているに過ぎない。

ムッシュ・カステラの恋

Le Gout des Autres
1999年,フランス,112分
監督:アニエス・ジャウィ
脚本:アニエス・ジャウィ、ジャン=ピエール・バクリ
撮影:ローラン・ダイヤン
音楽:ジャン=シャルル・ジャレル
出演:アンヌ・アルヴァロ、ジャン=ピエール・バクリ、アニエス・ジャウィ、アラン・シャバ

 ムッシュ・カステラは小さくも大きくもない会社の社長。新たな契約に際して、保険会社にボディガードをつけられた。さらに英語の教師までつけられてしまう。しかし、その英語教師が姪の出ている映画に主演しているのを見て、いたく気に入ってしまった…
 監督は自身も出演している脚本家/女優のアニエス・ジャウィでこれが初監督作品となる。全体としてはコメディタッチの落ち着いた感じ。大人な女の人にはよいかもしれません。

 ちょっと毛色の変わったラブ・コメディのように見えて、なかなかそう一筋縄でもいかない感じ。まず、物語としてふたつの焦点があるというのが面白い。題名からするとカステラさんの話に終始するのかと思いきや、結構マニーとボディガードたちの関係に割かれる時間もかなりある。かといってふたつの話がそれほど絡み合っていくわけでもなく、基本的には別々なものとして展開してゆく感じ。このひとつのものとして捉えがたい感じはこの映画全体に付きまとう。ひとつの中心を作ってそこからすべてを俯瞰するのではなく、さまざまな側面から物を眺めてぼんやりと浮かび上がってくる像を提供するという感じ。カステラさんの奥さんのキャラクターもひとつの側面として描かれている。この奥さんのキャラクターの描き方は絶妙で、私なんかは最初に登場したときからいらいらさせられっぱなし。
 マニーを演じている女優さんと監督が同じ人と気づいたのは映画を見終わった後だったんですが、そういわれるてみればこの奥さんの描き方にも、最終的に焦点を結ばないプロットの作り方にも納得がいく感じ。カステラさんと同じ年代のおじさんの監督が作ったんじゃこうは行かないはず。女性の女性に対する視点というものを感じます。
 さらには、一つ一つの場面が宙ぶらりんな感じで終わる感触といい、頻繁に出てくる男二人で構成される画面のバランスといい、なかなかのものなのでこれからちょっと注目したい監督です。この男二人の画面はなかなか気になります。サイズがシネスコなので、人物を二人配置するのはなかなか気を使うと思うんですが、この監督はあっさりと横に二人並べてしまう。その不思議な距離感がいいと思います。

さすらい

Il Grido
1957年,イタリア,102分
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ、エリオ・バルトリーニ、エンニオ・デ・コンチーニ
撮影:ジャンニ・ディ・ヴェナンツィオ
音楽:ジョヴァンニ・フスコ
出演:スティーヴ・コクラン、アリダ・ヴァリ、ドリアン・グレイ

 イタリアで暮らすイルマのもとに夫が死んだという知らせが届く。イルマはアルドとアルドとの間の娘ロジナと3人で暮らしていた。夫の死を機にアルドは結婚しようというが、イルマは別の男性に心惹かれており、アルドに別れを告げ、家を出てしまう…
 イタリアの巨匠アントニオーニの初期の名作のひとつ。淡々と進む物語と鋭く洗練された映像はまさにアントニオーニらしい。

 アントニオーニの物語は決してまとまらない。この映画もぶつりと切れて終わる断片が時間軸にそって並んでいるだけで、それが一つの物語として完結しはしない。そしてそれぞれの断片も何かが解決するわけではない。その独特のリズムには、ある種の不安感/いらだちを覚えるものの、同時にある種の心地よさも覚える。この物語に反抗するかのような姿勢が1950年代(つまりヌーヴェルヴァーグ以前)に顕れていたというのは、映画史的にいえばイタリアのネオリアリスモがヌーヴェルヴァーグと並んで重要であるということの証明なのだろうけれど、純粋に映画を見るならばそんな名称などはどうでもよく、ここにもいわゆる現在の映画の起源があったことを喜びとともに発見するのみだ。アントニオーニはやっぱりすごいな。
 さて、この映画でもうひとつ気になったのは「水辺」ということ。アルドが出かける土地はどこも水辺の土地で、必ず水辺の風景が登場する。これが物語に関係したりはもちろんしないのだけれど、それだけ反復されるとそこになんらかの「意味」を読み取ろうとしてしまう。本来はアルドがあてもなくさすらってたどり着いたという共通点しかないはずの土地土地が「水辺」という全く別の要素で結びついていることの意味。それはやはりアルドの心理的な何かと結びついているのだろうか? 分かれる直前にイルマがじっとみつめていた水面に映っていた何かを求めて水辺にたどり着いてしまうのだろうか? 映画はそんな疑問も解決することなくぶつりと終わる。それはまるでその「意味」を語ることを拒否しているように見える。
 反「物語」そして反「意味」。すべてに反抗することこそがアントニオーニの映画だということなのだろうか?

ANA+OTTO 【アナとオットー】

Los Amantes del Circulo Polar
1998年,スペイン,112分
監督:フリオ・メデム
脚本:フリオ・メデム、エンリケ・ロペス・ラビニュ
撮影:ゴンサロ・F・ベリディ
音楽:アルベルト・イグレシアス
出演:ナイワ・ニムリ、フェレ・マルティネス、サラ・バリアンテ

 8歳の少年オットーは飛んでいってしまったサッカーボールを追っていって、一人の少女アナに出会う。ある日オットーが授業を抜け出してトイレから飛ばした紙飛行機がきっかけで、オットーの離婚した父とアナの母が仲良くなり、毎日2人はオットーの父の車で帰宅することになった…
 「偶然」と「運命」が動かすアナとオットーの2人のおとぎ話。女性には非常に受けると思います。

 物語を語る際に視点をどこに置くかというのは大きな問題で、多くの映画は観客に<神>の視点を与えます。あちらこちらに遍在し、時には人の心理までも見えてしまう。そのような存在。しかしたまに1人の視点で語られることもあります。これは主にサスペンスなどの謎解きものに多い。「メメント」なんかがいい例だと思います。この映画はその1人の視点を2つ組み合わせたもの。オットーの視点から語られた後、同じ時間がアナの視点から語られるというパターン。
 展開を面白くするためには<神>の視点の方が有効だと思うんですが、2人の関係性に焦点を絞るなら、こういう方法もありかなという気がします。この方法をとると、映画全体が完全に2人の世界となってしまい、ほかの人との関係性が薄まってしまう。結構フォーカスされているオットーと母親の関係やアナの母親のオットーに対する心理などはあまり浮き出てこない。このあたりは<神>の視点に慣らされてしまっているわれわれには何か消化不良な感じもしてしまいます。
 今日は視点という問題に絞ってきたのでさらに行きます。
 それにしても映画はこれまであまりに<神>の視点に頼りすぎてきた。「メメント」がヒットしたのはそのすべてが見えてしまう映画とは違うものであるからだと思います。小説の世界では何世紀も前から「視点」という問題が語られ、様々な視点が試みられてきましたが、映画ではそのような試みはあまりやれられ来ていない気がします。その大きな要因は映画が短いということと観客が基本的の傍観者であるということが考えられます。小説というのは自分のスピードで1人でその世界に没頭することができるので、一人称で語られる主人公にどうかすることが非常に容易ですが、映画は映画が持つスピードにあわせて、しかもたくさんの人とスクリーンを眺める。これでは自然と傍観者等スタンスを取ってしまう。
「メメント」が成功したのはあらかじめ観客の注意を喚起し、映画に対するスタンスを変えてしまったからでしょう。何の予備知識もなくあの映画を見たら結構戸惑ったのではないかと思います。そんな「メメント」でもまったく物語が不十分と感じられるのはその短さ。主人公とって物語が終わっていないのに、映画が終わってしまうのは、主人公と同一化している観客にとっては尻切れトンボ以外の何ものでもないでしょう。
 違う映画の話になってしまったのでこの辺で話を戻して、この映画の場合は物語はきちんと完結しているのでいいのです。でも2人を主人公にすると1人の視点より入り込むのは難しくなる。結局傍観者という立場で見ざるを得なくなると思います。そうなるとこれはただ単に不自由な<神>の視点となってしまう恐れもあり、実際なってしまっているかもしれない。
 それでもラストあたりがうまく作られていて多少救われたと思います。

エステル

Esther
1986年,イスラエル=イギリス,97分
監督:アモス・ギタイ
脚本:アモス・ギタイ、ステファン・レヴァイン
撮影:アンリ・アルカン
音楽:クロード・バートランド
出演:シモーナ・ベンヤミニ、モハマド・バクリ、シュメール・ウルフ、ジュリアーノ・メール

 ここはインドから中東まで100以上の州を治めるペルシャ王の宮殿であることが説明される。その王の宮殿には各地から美女が集められ、ハーレムが作られる。そのハーレムの中から王妃となったエステルとその養父モルデカイ、王の腹心アマンの間で繰り広げられる物語。
 とはいっても、アモス・ギタイだけに、純粋なコスチュームプレイではなく、現代に問題を投げかける作品になっている。ドキュメンタリーをとりつづけていたギタイ初の劇映画。

 過去の時代、ペルシャが栄えていた時代、おそらくヨーロッパの中世にあたる時代、そんな時代を想定しているようでありながら時折、車のエンジン音やクラクションなど現代にしか存在しない生活音が入る。
 物語はというと、ユダヤとアラブという現代のイスラエル-パレスティナに通じる対立構造を描いている。したがって、映画が進んでもその生活音がなくならないばかりかむしろ増え、さらにあからさまに現代的な音になっていくのを耳にしてこの映画によって主張されているのは「これは決して昔話ではない」ということなのだと気付く。
 表現における齟齬から推論して自ら気付いたこのことは、映画によって直接的に語りかけられたことよりも心に深く響く。この映画はその心理を巧みに利用し、われわれに気付かせ、そしてその「気付き」を最後の長い長い1カットのシークエンスで裏付ける。
 この映画がほとんど1シーン1カットで撮られているのは、なぜか。映画になぜということはないのだけれど、ここまでかたくなに1シーン1カットに固執されると考えてしまう。単純にドキュメンタリーの手法をそのまま使っただけなのか。音の部分で映画作法を崩しているがために視覚的な部分では古典的な映画作法にことさらに従うことでバランスをとろうとしているのか。そのようなことも考えながら、私はこの1シーン1カットの画面にアンチ・クライマックスを感じる。この映画はクライマックスを避ける。劇的な場面がない。盛り上がりそうな場面ではそれを避ける。その際たるものは終盤の絞殺刑のまえの少年たちの闖入。盛り上がるべき場面でそれをぶち壊す。そしてわれわれを現代へと立ち返らせる。クライマックスが存在しないことで現在へとスムーズにつながる。1カットの中に過去と現在が混在していても、困惑はするが受け入れることはできる。そんな感じがした。

冬物語

Conte d’Hiver
1991年,フランス,114分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:リュック・パジェス
音楽:セバスチャン・エルムス
出演:シャルロット・ヴェリ、フレデリック・ヴァン・デン・ドリエッシ、ミシェル・ヴォレッティ、エルヴェ・フュリク

 夏のビーチで出会ったフェリシーとシャルル。夏が終わり、シャルルはフェリシーの住所を受け取り、2人はそれぞれの居場所へと向かった。5年後、美容師をしながら、別の男と付き合うフェリシー、美容院の主人から結婚を申し込まれていた。実はフェリシーは住所を書き間違え、シャルルからの便りはついに来なかったのだ。そのシャルルとの間の娘エリーズはもう4歳になる。
 ロメールの四季の物語の2作目。冬のパリは寒そう。劇中劇として登場するシェークスピアの『冬物語』が物語の下敷きになっているらしい。

 なんとなく「夏物語」とついになった話のような気がする。もちろん、「夏物語」の方が後に作られたので、順番は逆にしても2つの作品の関係は深そうである。「夏」のほうは1人の男と3人の女、「冬」は1人の女と3人の男。「冬」の冒頭の海の風景は「夏」の舞台となった海と同じように思える(ちがうかも)。結局どちらも、遠くにある望みの薄い恋をあきらめて、身近にある恋を選ぶことができるのか…というお話。まさにロメールっぽいというところですね。
 そういう話だとどうしても、物語の方に引きずられてしまいがち。あるいはそれが映像や技巧を意識させずに見せるロメールのうまさなのか。
 この映画でもうひとつロメールらしいと思うのは「輪廻」の話。「春のソナタ」では超越論の話が出てきましたが、今回は「輪廻」の話。パスカルとかいろいろな人が登場しますが、よくわからない。見ている人の多くはフェリシーの立場でその哲学話を見るのでしょう。だからその会話が意味しているところがよくわからないと思う。これは単純にわからないということではなくて、このわからないという感想を共有することでフェリシーの立場に近づくことができるということも意味する。「インテリにはなりたくない」というフェリシーの気持ちが共感でき、そんなわけのわからない会話の中に感覚的な意見で切り込むフェリシーに拍手を送りたくなる。この主人公への共感という感覚はロメールの映画の特徴だと思います。「夏」の時にも書きましたが、映画の中の人物や出来事を自分の体験にひきつけることによって映画を経験するそんな映画だと思う。
 やはり「四季の物語」と題されてシリーズ化されているだけに、どの作品もどこか似た雰囲気を持っていますね。

キカ

Kika
1993年,スペイン,115分
監督:ペドロ・アルモドバル
脚本:ペドロ・アルモドバル
撮影:アルフレッド・メイヨ
音楽:ペレス・プラド
出演:ベロニカ・フォルケ、ピーター・コヨーテ、ビクトリア・アブリル、アレックス・カサノバス、ロッシ・デ・パルマ

 メイクアップアーティストのキカは死化粧の話をきっかけに、メイク教室の生徒に恋人のラモンとの出会いのいきさつを話し始める。そのラモンは3年前に母親を自殺で亡くしていた。キカはラモンの継父のニコラスと知り合い、家に呼ばれていってみると、そこに死んだラモスが横たわっていたのだ。しかしキカが死化粧をはじめるとラモスは生き返ったのだった。
 奇怪な登場人物とめくるめくプロットとゴルティエの鮮やかな衣装でかなりキッチュな印象の映画だが、しっかりと作りこまれていてしっかりと仕上がっている。

 このわけのわからなさのオンパレードはなんなのか? わけがわからないといっても混乱させるようなわからなさではなく、「?」を浮かべながらなぜか笑ってしまうようなわけの和からなさ。だからとても心地よい。果たしてどのくらいの人がこの心地よさを感じるのだろう? このわけのわからなさはアルモドバル的とかスペイン的といって片付けられることが多い。あるいはキッチュというひとことで。ゴルティエの衣装もそのわからなさとイメージの両方に手を貸している。しかし、必ずしもアルモドバル的とかスペイン的といって片付けられる問題ではないのかもしれない。ただ単純化されていない映画、説明をしない映画。ただそれだけかもしれない。映画というのは分かりやすくするために物事を単純化して、それに説明を加える。誰かが「複雑なものを単純に言うのが芸術だ」といったけれど、映画もひとつの芸術として複雑なものを単純に語る。それはわかりやすくという意味で単純に。しかしアルモドバルの単純化は「分かりやすさ」に主眼を置かない。「おもしろさ」に主眼を置き、複雑な物事を面白くするために単純化する。だからわかりやすさという点ではちっとも単純化されていない。むしろ、分かりやすいために必要なものを省いてしまうために分かりにくくなってしまう。だから理解しようとするとちっともわけがわからない。この映画も物語だけを追うんだったら、多分15分くらいで終わってしまうだろう。
 だから、全く物語とは無関係な面白い場面がたくさんある。キカがフアナをメイクするその2人の関係とか、警察とか、アンドレアの番組の内容とかいろいろ。そのそれぞれがプロットにどう関わってくるのかなんてことは気にせずに、あるいはその無関係さに気付きながら見れば、それはまさに子供の心で見れば面白さが詰まっている。警察もポール・バッソのところは相当面白いですね。普通の映画とは全く違う描き方です。キカの反応とか、かなり不思議。
 あと少し気になったのは「十字」。所々に出てくる十字の形状はなんなのか、ラモンの寝室にはキリストをモチーフにしたコラージュが飾ってあるし、全く敬虔とは言いがたいこの映画に顕れるこの神の像は何を意味しているのか? 私はキリスト教徒ではないので、こういうものを描こうとするときにどう神を意識するのかということは想像も出来ませんが、アルモドバルになって想像してみるに、このような映画を作ることが「神」とどのように関わるのかを考えることが彼には必要なのだろうということ。それは見る側に対して「神」に関するメッセージを送るということではなくて、自分にとっての意味付けのようなものを考えるためなのだろうと想像します。あくまで想像ですが…

フェリックスとローラ

Felix et Lola
2000年,フランス,89分
監督:パトリス・ルコント
脚本:クロード・クロッツ、パトリス・ルコント
撮影:ジャン=マリー・ドルージュ
音楽:エドゥアルド・ドゥボア
出演:シャルロット・ゲンズブール、フィリップ・トレトン、アラン・バシュング、フィリップ・ドゥ・ジャネラン

 移動遊園地でバンパーカーの小屋のオーナーのフェリックスはいつものように窓口に座ってチケットを売っていた。そんな彼の目に寂しげな顔でバンパーカーに乗りつづける女を目に留めた。そのときは女を見失ってしまったフェリックスだったが、その夜カフェで見かけた彼女に声をかけると彼女は「私を雇ってくれない?」とフェリックスに聞くのだった。
 ルコントお得意のラブ・ストーリーちょっとサスペンス仕立て。舞台装置も物語りもいかにもルコントらしい感じ。「橋の上の娘」でも組んだドルージュのカメラがかなりいいです。

 やはりまずひきつけられるのはストーリー。フェリックスとローラの駆け引きというと御幣があるかもしれないので、関係が面白い。全体をサスペンス調にしてローラを謎めいた女にしたことで、見ている側にもその関係性が読み解けないようになっているのでかなり集中してみることができる。だからかなり短く感じられる。私の体感では75分くらいでした。そうして集中してみれば、2人ともにぐっと入り込めるので、最後の映画的な裏切りも納得してみることができる。別に映画としてつじつまが合わなくたって、そんなものはどうにでもなると思う。そしてこの物語のその後ふたりはどうなるのか、見終わった後もつい考えてしまう。見終わった後でもその映画のことを考えられる映画は素敵だと思う。
 ということですが、見ればそれぞれ考えることがあるだろうと思うので、ここは言葉すくなに終えておきます。それよりもいうべきだと思うのは、カメラマンのドルージュの力量。多分まだ若いカメラマンで、はじめて見たのですが、かなりセンスを感じます。この映画はかなりズームが行ったり来たりするんですが、そのズームへのこだわりというか、そこの「技」に感服。
 というのも、映画を見ながらずっと気になったのは、そのズームがたまに引っかかること。つまり、ズームする速度が一定ではなく、最後に急に早くなったり、途中で遅くなったりするということ。こういうことは素人のホームビデオでもない限りなかなか見られないものなので、見た瞬間はかなりの違和感を感じます。しかしこれはもちろん作為的なものでしょう。違和感を感じると人間はっと立ち止まるもので、この立ち止まりは映画に対する注意が再び呼び覚まさせます。こういうのはなかなかできそうでできない。やろうと思ってもうまくいかない。このカメラマンも失敗してしまったらどうしようもない作品になってしまう恐れも孕んでいると思いますが、この作品では成功しています。
 そして、そんな違和感になれつつある頃、とてもスムーズなピン送りがあったりします。ピン送りというのはピントをひとつのものから別のものに送るということ(つまり、たとえば遠くのものにあっていたピントを近くのものに移すということ)ですが、終盤で画面の手前にあるZUCCA のプレートから奥にいるローラの顔へカメラがパン(ヨコ移動)しながらピントが送られます。この画はなかなかきれいでありました。
 こんな微妙な変化が映画を見ている私たちの心理をコントロールしているような気がします。その変化に対して意識的であろうと無意識であろうとその影響は受けていると思います。そんな細かい部分を見るものまた愉し。

冒険者たち

Les Aventuriers
1967年,フランス,110分
監督:ロベール・アンリコ
原作:ジョゼ・ジョヴァンニ
脚本:ロベール・アンリコ、ジョゼ・ジョヴァンニ、ピエール・ペリグリ
撮影:ジャン・ボフェティ
音楽:フランソワ・ド・ルーべ
出演:アラン・ドロン、リノ・ヴァンチュラ、ジョアンナ・シムカス

 飛行機乗りのマヌーとレーシングカーに熱中するローラン。2人は大の親友で、いつもローランの家のガレージに入り浸る。マヌーは頼まれた仕事で凱旋門を飛行機でくぐるという計画を立てていたが、失敗し免許停止に。ローランも開発していた車が爆発し無一文になってしまった。そんな2人にコンゴの近海に宝が沈んでいるという話が転がり込んで…
 2人の男とひとりの女。そんなフランス映画にありがちな設定ながら、とても繊細で爽やかなドラマ。とてもソフトないい雰囲気を持つ映画。

 フランス映画はかくありなむ。ちょっとまえまでフランス映画といえばこんな感じでした。美男美女に海に水着に… そしてこの映画はそんなフランス映画らしいフランス映画としての完成度は高い。2人の男とひとりの女の関係を描くという、ある意味古典的な題材をプロットの中心には据えずにさらりと描く。本当はそれこそが映画の最大のテーマであるかもしれないけれど、あくまで控えめにという姿勢がいい。その抑えた感じがハリウッドと比較したときのフランス映画のイメージなのかもしれません。
 それにしても、映画にフランスらしさがあるというのは不思議なこと、同じように日本映画らしさとかハリウッド映画らしさとかイラン映画らしさとかがある。そのことは前々から疑問でした。この監督だって「よし!フランス映画らしい映画を撮るぞ!」と決めて映画を撮っているわけではないはず。意識しなくてもそういう映画になってしまう。逆にフランスでハリウッド映画っぽい映画を撮ろうとしたら「ハリウッド映画っぽく撮るぞ!」と決めないと撮れないような気がする。この映画の「国民性」というのはすごく不思議です。憶測では各国の映画製作のシステムが影響を与えているのでしょう。インディペンデントで作られた映画のレベルでは製作国による違いはそれほど明確ではない気がします。あるいはインディーズ系と呼ばれる監督達はそのレベルを超えようとしています。アキ・カウリスマキの映画は「日本映画」のジャンルに入ると誰かがどこかで言っていましたが、そういうようなこと。ジム・ジャームッシュだってアメリカ映画ではないと思う。しかし、そうして「国民性」のレベルを超えようとしているということは逆にまだ超えるべき境界が存在することを意味し、どこからそんなものが生まれるのかという疑問は解明されないのです。
 今日もまた話がすっかりそれてしまいましたが、これはなかなか興味深い問題だと思いませんか?
 さて、映画に話を戻しますがこの映画「冒険者たち」という題名のわりには、映画に起伏が少ない。比較的淡々と物語りは進み、いくつかの山場はあってもたたみかけるような勢いはない。といってもそれが悪いといっているわけではなくて、うららかな午後のひと時に何人かで紅茶でも飲みながら見たりするのには適していると思います。しかし、それは絶対にこの映画でなければいけないというのではなくて、そんなシチュエーションに適した一本でしかない。その「弱さ」が気になります。しかし、しかし、そういう映画も必要で、そういう映画をストックしておけば、たとえば気分に適したCDをかけるように、気分に合わせて映画を見るということができたりします。頭の中に入れておいて、友達がきたときにレンタルビデオ屋で借りてきたりするといいでしょう。

 それが「映画を日常に」ということ。かな。