ミラクル・ペティント

El Milagro de P.Tinto
1998年,スペイン,106分
監督:ハヴィエル・フェセル
脚本:ヘヴィエル・フェセル、ギジェルモ・フェセル
出演:ルイス・シヘス、シルヴィア・カサノヴァ、パブロ・ピネド

 スペインの片田舎に住むペティントが宇宙服を着た息子を見送る。子供の頃から大家族の父親になることを夢見ていたペティントは、盲目の少女オリヴィアと知り合う。10数年後見事に結婚したものの、二人は子宝に恵まれず、時ばかりがすぎていった…
 あらすじを話すのもなかなか難しいスペインらしいわけのわからなさを持つファンタジー映画。とにかくシュールというか、わけのわからない笑いを求めている人にはぴったり。

 面白いとえいば面白いのだけれど、わけがわからなすぎるという面もある。映像へのこだわりは感じられる(といっても、斬新なというよりはきれいな映像を求めている)。
 一番いいと思ったのは、25年に一度通るという電車ですね。しかも、その25年が異常に早くすぎる。ペティントさん(そして神父さん)一体いくつなんだあんた! という感じです。うーん、わけがわからないなあ。まあ、でもスペイン(とスペイン語圏)のこのわけのわからなさは好きです。わざとわけがわからなくしているように見えるけど、彼らにしてみれば現実とは本当にこういうものなのかもしれないとも思います。パンチョが本当に黒人だっていいじゃないか。皆が自分の見ているものが現実で、みんなが同じように見ていると信じているけれど、本当にそうなのか? 本当はみんなまったく違う現実を見ているんじゃないだろうか? そんなことを思ってしまいました。

ウェイクアップ!ネッド

Waking Ned Divine
1998年,イギリス,92分
監督:カーク・ジョーンズ
脚本:カーク・ジョーンズ
撮影:ヘンリー・ブラハム
音楽:ショーン・デイヴィ
出演:イアン・バネン、デヴィッド・ケリー、スーザン・リンチ

 アイルランドの田舎にある村に住む老人達はジャッキーをはじめ、みんな宝くじを楽しみにしていた。そんなある日ジャッキーは新聞の記事から宝くじの1等の当選者が村の中にいることを突き止める。わずか60人足らずの村で誰が当選者なのか? ジャッキーは親友のマイケルと共に当選者探しをはじめるのだが…
 アイルランド製じいちゃんコメディ。ブラックなギャグも織り交ぜながらとにかく何も考えずに笑えるコメディ映画。

 こんな映画が好き。まず老人ものが好き、特にコメディは。そして意味深げなものよりも画面のインパクトとか、くだらない一発ギャグで勝負するようなあっけらかんとしたコメディが好き。そして落ちが面白くないといけない。この映画はなんといっても爺さんライダーがよくって、それはもう画面のインパクトだけで勝負という感じがいい。他にもネッドの顔をいじるところや、落ちのところも捨てがたいが、やはり爺さんバイクに乗るというところでしょうか。
 それにしても、最近はアメリカのコメディよりヨーロッパのコメディの方が面白い気がする。昔はコメディといえばハリウッドの脳天気なのというイメージが強かったけれど、最近のハリウッドコメディはスターに頼ってみたり、ヒューマンドラマなんだかコメディなんだかわからないヒューマンコメディとか言うものだったりして勢いがない。最近のもので面白かったものといえば、「親指」がダントツにしてもあとは「マルコビッチの穴」と「メリーに首ったけ」くらいでしょうか。しかし「マルコビッチ」は純粋なコメディとはちょっと違うし、「メリー」は基本的に下ネタの世界なので、ちょっと違う。下ネタに走ったものではかなり吹っ切れたものもありますが、ちょっと卑怯という感は否めないのでした。

満月の夜

Les Nuit de la Plene Lune
1984年,フランス,102分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:レナート・ベルタ、ジャン=ポール・トライユ、ジル・アノー
音楽:エリ&ジャクノ
出演:パスカル・オジェ、チェッキー・カリョ、ファブリス・ルキーニ、クリスチャン・ヴァディム

 パリ郊外の家、ルイーズは恋人のレミと暮らしているが、その夜の外出のことで意見が合わない。パーティーに行きたくないレミと、朝まで遊んでいたいルイーズ、ルイーズは来なくていいというが、レミはいっしょに外出するといってきかない。話がつかないままルイーズは出かけ、友人のオクターヴとパリの「別宅」に行く。その夜レミはパーティに来るが、つまらなそうにしてすぐに帰ってしまう。
 序盤から議論が飛び出すロメール流の理屈っぽい恋愛映画。最初にエピグラフとしてでる「二つの女を持つものは魂を失い、二つの家を持つものは理性を失う」という格言が非常に示唆的だ。

 ロメール映画の登場人物たちは極端へとは行かず、常に常識の範囲にとどまり、その中で揺れ動く。だからとても現実味があり、身近なものと感じられるのだけれど、それは逆に劇的さとは縁がないということでもある。だから、どの映画を見てもなんだか似た印象を受けるわけだが、それでもその中に秀逸な映画もある。
 しかし、この映画はというと、ロメール映画の中では並。もちろん映画としての質はよいが、ロメールを見慣れてしまうと、いつものことという感じで新鮮な驚きはなくなってしまう。主人公のルイーズの顔は非常に印象的だが、他の登場人物たちは今ひとつ魅力的でなく、あまりに日常的過ぎるという印象がある。そして、冒頭のエピグラフがあまりにうまく映画を表現しきってしまっているので、映画はただそれを映像によって表現しているだけになってしまっているような印象も受ける。それでも登場人物たちの心理の機微というようなものはさすがロメールの描写力という感じがするが、なんだか全体に冷たい印象を受けるのは、レナート・ベルタのカメラのせいだろうか。

 とにかくそれは想像できるロメールの域を出ず、あるいはあまり予想通りに映画が展開していく。それが劇的さのないロメール映画の弱点ではあるのだが、それは新聞の4コマ漫画とか、週刊誌の連載コラムとか、そのようなものに似て、それ自体が日常になりうるものという気もする。
 もちろん、ロメールの映画が日常と呼べるほどロメールの映画を見ているわけではないのだが、しばらく時間をあけてみてみても、それはなんだかなじみの風景というか、いつもの経験という感じがする。そのあたりがロメールの魔術というか、うまさということでしょう。
 それはまた、似た映画の無数のバリエーションを展開しているということでもあり、それはつまり見る人によって好みは別れるということでもある。好みが分かれるということは、無数にあるどれもが質がいいからこそ可能なことで、しかもロメールの映画を見てきた文脈によって映画の受け取り方もかわる。ロメールの作品とはロメールのほかの作品を想起せずには見ることのできない映画で、ということは、見ている人がそれまでにどのロメールの映画を見てきたのかということが映画を味わう上で重要なポイントになってくるということである。だから、前に見た作品も重ねてみてみると、その味わいは変わって、好みも変わってくる。
 それはつまり、いつまでも映画(群)を見続けることができるということで、この映画が今のわたしにとってはそれほどヒットしてこないものであったとしても、エリック・ロメールの偉大さはいくらも損なわれないということだ。

マレーナ

Malena
2000年,イタリア=アメリカ,95分
監督:ジョゼッペ・トルナトーレ
脚本:ジョゼッペ・トルナトーレ
撮影:ラホス・コルタイ
音楽:エンニオ・モリコーネ
出演:モニカ・ベルッチ、ジョゼッペ・スルファーロ、ルチアーノ・フェデリコ、マティルデ・ピアナ

 第二次大戦中のシチリア、レナート少年は父親に自転車を買ってもらい、年上の少年たちの仲間にいれてもらう。「半ズボン」といって馬鹿にされる彼だったが、何とか仲間に入れてもらい、彼らについてゆく。彼らが向かった先には街の男の視線を一身に集める妖艶な美女マレーナがいた。レナートは一目で彼女に恋し、一途に彼女を思うようになるが…
 少年の淡い恋に戦争を絡めて描いたトルナトーレ監督得意のノスタルジックな作品。古い街並みとエンニオ・モリコーネの音楽は絶品。

 映画に美しさを求めるならば、この映画はまれに見る優れもの。フィルムに刻まれた街並みと、マレーナの美しさ。モリコーネの音楽、美しいものがはかなく崩れ落ちてゆくときのさらなる美しさ。
 しかし、ドラマとしてみると、私には展開が単調でロマンティックすぎるように思える。物語のすべてが明らかで謎がなく、唯一のどんでん返しも物語の展開から推測できてしまう。しかも明確なメッセージがこめられていて、そのメッセージのために物語が単純化されすぎている。男と女、少年、大衆、夫と妻などなど舞台を大戦中にしたことで現代では偏見として切り捨てられてしまうようなことをあたりまえの事として描いてしまえるわけだが、それを当たり前に描いてしまうところにこの映画の限界がある。ノスタルジーとロマンティシティ。ただこれだけが作品から滲み出してくる。現代でもこの映画に描かれるような「愛」の形は感動的なものとしてみられるのかもしれないけれど、私には過去に対する感傷としか思えませんでした。
 と、物語には否定的ですが、モニカ・ベルッチの美しさには抗うことはできず、男たるものの悲哀を感じもしたのでした。それともう一つ美しかったのは、街が爆撃されるシーンで、高い建物のうえで爆発が起きるところ。なんとなく古い町並みと爆発という一種のミスマッチが美しかったのでした。

女は女である

Une Femme est Une Femme
1961年,フランス=イタリア,84分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
原案:ジュネヴィエーヴ・クリュニ
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
音楽:ミシェル・ルグラン
出演:ジャン=ポール・ベルモンド、アンナ・カリーナ、ジャン=クロード・ブリアリ、マリー・デュボワ

 ストリッパーのアンジェラは子供が欲しい。しかし、同性相手のアルフレッドはあまり乗り気ではない。そこで彼女は、いつも言い寄ってくる友だちのエミールを使って彼の気を変えさせようとするのだが…若き日のゴダールが取った、喜劇になりきれなかったシュールな喜劇。劇中で喜劇なのか悲劇なのかと繰り返し問われるように、喜劇のような顔をしていながらその実一体難なのかはわからない不思議な作品。個人的にはこのシュールな笑いのセンスはありです。

 冒頭のシーンのアンナカリーナの持つ赤い傘。くすんだ色調の画面にパッと映える赤い傘はまぎれもないゴダールの色調である。だからこの映画もゴダールらしい文字やサウンドを多用した天才的な構造物であるのかと予想するが、始まってみるとコメディ色を前面に打ち出したオペラ風というかミュージカル風の作品。オペラ調は後半に行くに連れ薄れていくものの、全体にコメディ映画であると主張するようなシュールなギャグがちりばめられる。このセンスのシュールさがやはりゴダールなのか。このセンスは個人的にはすごく好き。目玉焼きなんかは最高にヒットしたのでした(俺はおかしい?)。
 ゴダールの映画はどれもシンプルなのだけれど、この映画はことさらにシンプル。多くのゴダールの映画はシンプルでありながら、ひとつひとつはシンプルである要素を重ね合わせて複雑にはしないけれど理解を難しくする。シンプルなのだけれどそこに盛り込まれた要素が多すぎていっぺんにすべてを理解することは難しくなる。しかしシンプルであるがために、頭を抱えることにはならず、凡人の理解力では追いつけない映画的なものの奔流に身を任せることが心地よい。いわば、単色のレイヤーを重ね合わせることで、一つの芸術的な絵を作り上げているような感じ。
 しかし、この映画の場合は、そのレイヤーの数が抑えられているので、理解することができる。時折、不可解な場面に遭遇するものの大部分は理解することができる。これは一方ではちょっと物足りなさを感じるけれど、何かゴダールの映画作りのエッセンスを垣間見たような気にもなれる。ようは、こんな映画を3本くらいくっつけて、しかし長さは同じ90分で作ったのがいつもの映画なんじゃないかと乱暴な言い方をしてしまえば思える。面白いんだけどよくわからないゴダールがちょっと分かった気になれる一本という感じでした。

シャンドライの恋

Besieged
1998年,イタリア,94分
監督:ベルナルド・ベルトルッチ
原作:ジェームズ・ラスタン
脚本:ベルナルド・ベルトルッチ、クレア・ペプロー
撮影:ファビオ・チャンケッティ
音楽:アレッシオ・ヴラド
出演:デヴィッド・シューリス、タンディ・ニュートン、クラウディオ・サンタマリア

 ローマの古びた邸宅で家政婦をしながら医学生として暮らすシャンドライ。彼女はアフリカのとある国で夫が政治犯として逮捕され、イタリアにやってきた。彼女の暮らす邸宅にはピアニストのキンスキーがひとりで暮らしていた。キンスキーはやがてシャンドライに思いを寄せるようになるが…
 大作で知られる巨匠ベルトルッチが撮った小品。ベルトリッチらしい緊迫感がありながらシンプルで美しいラヴ・ストーリーに仕上がっている。ベルトリッチが苦手という人でもきっとすんなり受け入れられるはず。

 言葉すくなになります。ベルトルッチの映画はいつも言いようのない刺すような緊迫感が画面から漂う。彼の映画のほとんどは緊迫した場面で構成される映画だから、それは非常にいい。しかし、他方で彼の映画は強すぎ、見るものをなかなか受け入れようとしない。「1900年」の5時間にわたる緊張感を乗り切るのは非常につらい。
 この映画は同じ緊迫感を漂わせながら、何に対する緊迫感であるのかがはっきりしない。シャンドライがクローゼットを開けるとき、彼女はなにを恐れるのか?このシンプルなドラマに対する過剰な緊迫感。そのアンバランスさはともすれば映画全体を崩しそうだが、ベルトリッチはそれを食い止め、セリフに頼ることなく物語ることを可能にした。
 ほとんど語り合うことなしに、コミュニケーションを続けるシャンドライとキンスキーの間の緊迫感は2人の感覚を研ぎ澄まさせ、その研ぎ澄まされた感覚が感知した雰囲気をわれわれに伝える。それを可能にしたのがベルトリッチならではの緊迫感というわけ。たとえば、シャンドライの視点で語られる(言葉で語られるわけではないけれど)場面で、画面にシャンドライ自身の影がすっと入ってくるとき、われわれはその黒い影にはっとする。それはつまり画面に対する感覚が鋭敏になっていることを意味する。ベルトルッチの映像が美しいと感じるのはただ単に彼の画面作りがきれいだからというだけではなく、そのような緊張感の下に置かれたわれわれの感覚が平常より深くそれを感じ取ることができるからでもあるだろう。
 わたしはいままでベルトリルッチの作品を見ながらその強さに太刀打ちできなかったが、この作品を見てその理由が少しわかった気がする。彼の作り出す緊迫感は見る側の感覚を研ぎ澄ませるためにあるのだと。果たしてそれを長時間維持できるのかはまた別の話…
 90分くらいなら持つけど、5時間はやっぱり無理かもね…

ユマニテ

L’Humanite
1999年,フランス,148分
監督:ブリュット・デュモン
脚本:ブリュット・デュモン
撮影:イヴ・ケープ
音楽:リシャール・キュヴィリエ
出演:エマニュエル・ショッテ、セヴリーヌ・カネル、フィリップ・テゥリエ

 思いつめた様子で地面に突っ伏す男。40歳も近い刑事のファラオンは母親と二人暮し、近所に住むドミノに親しげに話し掛けるが彼女には恋人がいる。そんな彼が11歳の少女が強姦され殺された事件の捜査を受け持つことになる。現場を見た彼は非常なショックを受けるが…
 前作から引き続き淡々とした物語を撮るデュモン監督だが、主人公の心情の描き方や画面の細部の構成で進歩が伺える作品。

 ファラオンにはなんとなくユーモアがあり、謎めいた雰囲気がある。それが物語全体を支え、興味深いものにしている。この作品も「ジーザスの日々」と同じく、限られた登場人物で限られた場所で展開され、場所の反復が行われ、多くの風景カットが挿入され、舞台装置が観客に吸収される。そこまでは同じ。途中で一度海に出かけるのも同じ。違うのは、ただただ沈うつなフレディと謎めいたファラオンの違い。
 !!この辺りからネタばれ気味!!
 ファラオンの思いつめたような表情と時折見せる微笑。これは一瞬彼が犯人なのかと疑ってしまうくらい謎。その思いつめた表情は彼が妻子を失ったということが物語り半ばで分かることで大体理解できるのだけれど、それにしても重い。そして突然宙に浮く。この宙に浮くシーンはよくわからないけれど、個人的にはかなりお気に入り。ボケた背景にじわじわ頭がフレームインしてきて、バックショットに変わった瞬間は爆笑しそうになったけれど、周りの人が眉間にしわを寄せてみていたので我慢しました。あれはシュールな笑いなのか、それとも深い考えがあったのか、その辺りは分かりませんが、あのシーンがあるとないとでは映画全体のバランスが大きく変わってしまうような気がしました。物語には関係してこないのだけれど、いいシーンでした。
 あと気になったのはファラオンの家の黄色いコーヒーメーカー。ドミノが泣き崩れるシーンでも画面の端っこにしっかりと移りこむ。あの黄色があることであのシーンの構図が締まるような気がします。画面がシネスコだけに、そういった構図への配慮はとても重要。「ジーザスの日々」ではほとんどの場面が普通のバランスのよい画面構成だったのに対して、この映画では黄色いコーヒーメーカーのようなアクセントによってアンバランスにすることで構図を支える場面がいくつかあったのでよかった。
 しかし、個人的には全体として重すぎ、平板すぎ、そして長すぎ。眠い。この展開なら長さはこんなもんという気がしますが、この展開で2時間半はやっぱりつらいかも。

ジーザスの日々

La Vie de Jesus
1997年,フランス,96分
監督:ブリュット・デュモン
脚本:ブリュット・デュモン
撮影:フィリップ・ヴァン・ルーエ
音楽:リシャール・キュヴィリエ
出演:ダヴィッド・ドゥーシュ、マーショリー・コットレール、ジュヌヴィエーヴ・コットレール

 何もせずに仲間とバイクを乗り回す青年フレディ。母と二人暮しだが、仕事を探すこともせず仲間と遊び、恋人のマリーとセックスにふけるばかり。しかしそんなフレディにはてんかんもちであるということや、小鳥を育て、コンクールに出すような一面もあるのだが…
 フランスの田舎町を舞台に、そんなフレディと仲間達の日常を淡々と描いたブリュット・デュモンの長編デビュー作。

 あまりに淡々としている。その裏にある若者の律動というか、やり場のない怒りというかそのようなものは感じられるが、それ自体は決して新しいものではなく、むしろ露骨な性描写などがわざとらしく感じられる。最近のイギリス映画によくあるような感じというか、それをフランス風にした感じというか、イギリスのたがの外れた明るさのようなものをのぞいてしまった重苦しい雰囲気。その雰囲気自体は悪くないけれど、ちょっと展開がなさ過ぎて退屈する感は否めない。
 しかし、この監督のいい点は細部の緻密さで、それが単純に飽きてしまう展開を救う。限られた登場人物と限られた場所で展開されるドラマなので、同じ場所を繰り返し移すことができ、しかも意図的にそうすること(風景のカットをたくさん入れること)によって、観衆にそれを記憶させる。たとえばフレディの家が町並みのどこに位置するのか見ている人がなんとなく分かる。だから、フレディのバイクがいつ横転するのか予測できる。そうすることで映画との距離を縮めることについては非常に巧妙だと思った。
 そして、それを少し変えることで、語らずして変化をつけることができる。たとえば5人がいたずらした女の子の親に呼ばれる場面、見ている側はそれがフレディの家だとすぐ分かる。そして、普段とは違うただならぬ雰囲気がすべての状況を物語ってしまう。

不思議惑星キン・ザ・ザ

Kin-dza-dza
1983年,ソ連,134分
監督:ゲオルギー・ダネリア
脚本:レヴァス・カブリア、ゼゲオルギー・ダネリア
撮影:ハーヴェル・レーベシェフ
音楽:ギア・カンチュリ
出演:スタニスラフ・リュブシン、エフゲニー・レオーノフ

 いつものように帰宅したウラジミールは妻にマカロニを買ってくるように頼まれ、街へ。街で見知らぬ青年と「宇宙人だといっている」という裸足の男に声をかける。男が「瞬間転移装置」だと主張する小さな機械のボタンを押すと2人は見知らぬ砂漠の真ん中にいた…
 幻のソ連製カルトSF映画。とにかく不思議な設定とわけのわからない展開、そして「クーッ」が頭にこびりつく。一度見たら決して忘れることのできない映画。

 こんな不思議な映画は見たことがない。とにかく発想がユニークすぎてどうしてそんなことになるのかちっともわからない。予想がつく展開もあるけれど、ほとんどの部分はあまりに展開が唐突でわけがわからん。だからといってつまらないのかというと決してそんなことはなく、ちょっと長いせいで疲れはするものの面白すぎて鼻血が出そう(なんのこっちゃ)。まあ、面白いかどうかは人それぞれかとは思いますが、少なくとも一度見たら決して忘れることができないであろうことは確か。とりあえず、わけのわからないユニークなユーモアにあふれたカルトSF映画として一見の価値があるのです。
 このわけのわからなさは、まずは用語の利用法にある。わけのわからない言葉(固有名詞を含む)をいきなり何の説明もなしに登場させることが多い。それから、結局のところみんな何をしているの一向にわからない。まとめてしまえば物事のほとんどについて理由づけがない。あるいは明らかにされない。だから、なんとなく因果律に従って映画を見るのになれている人(普通の人はみんなそう)にはわけのわからないのでした。
 ソ連映画(ペレストロイカ前)ということで、検閲の問題とからめて、資本主義の風刺と見る見方もきっとできると思いますが(ウラジミールは最初に二人組と会ったとき、「資本主義の国だ!」と叫ぶ)、そんなことは必要ないし、きっとどうでもいいことで、ただただ世の中には理解のできないものがあると感心すればいいような鬼がしました。
 ああ、悔しいけど俺のまけ。いつかどこかでゲオルギー・ダネリアさんにあったらすぐに「クーッ」する。

はなればなれに

Bande a Part
1964年,フランス,96分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
原作:ドロレス・ヒッチェンズ
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
音楽:ミシェル・ルグラン
出演:アンナ・カリーナ、サミー・フレイ、クロード・ブラッスール、ルイーザ・コルペイン

 フランツとアルチュールは車で一軒の家を見にいく。それはフランツが英会話学校で一緒のオディールの叔母の家で、そこに出入りしている男が相当の額の現金を隠し持っているらしい。その後英会話学校に向かった二人はオディールも巻き込んでその現金を盗み出す計画を立てる。
 白黒・スタンダードの画面に3人の若者の組み合わせはジャームッシュを思わせる。もちろん、ジャームッシュが影響を受けたということですが。

 「気狂いピエロ」とはうって変わって白黒・スタンダード、初期のゴダールらしい作品。またこの作品では絶対的な第三者が語り手として存在するのも特徴である。この語りは非常に効果的で、ほとんどが3人の関係性で紡がれていく物語にアクセントを加える。特に3人がカフェで過ごす一連のシーンは絶品。「一分間黙っていよう」というところから、踊るシーンまでの語りと音楽・サウンドの使い方は「うまいねぇ」と嘆息するしかないのです。
 またも天才ゴダールの計り知れなさということになってしまいますが、ここのシーンを見ただけで、並みの監督では想像もできないような作り方ということがわかります。踊りのシーンではいきなり音楽を切って語りを入れるのですが、踊っている音(足音や手拍子)はそのまま使われる。その音楽が「ぷつっ」と切れるタイミングの絶妙さはどうにも説明のしようがありません。
 ゴダールは音の面でもかなり革新的なのですが、この作品もそれを如実に表すものです。今ある映画のかなりのものがゴダールの音の使い方を剽窃(といったら語弊がありますが)しているともいえる。それでもこの踊りのシーンはほかのどんな映画でも見たことがない。「これはやはりまねできないんだろう」と私は解釈しました。