時の翼にのって/ファラウェイ・ソー・クロース

Faraway, So Close !
1993年,ドイツ,147分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ヴェム・ヴェンダース、ウルリヒ・ツィーガー、クヒアルト・ライヒンガー
撮影:ユルゲン・ユルゲス
音楽:ローラン・プティガン
出演:オットー・ザンダー、ピーター・フォーク、ナスターシャ・キンスキー、ホルスト・ブッフホルツ、ブルーノ・ガンツ

 『ベルリン・天使の詩』の続編。前作で人間になった親友ダミエルを見守る天使ミカエルは東西統一がなされたベルリンの街を眺めながら、自分もまた人間世界にあこがれ始めていることに気づく。そして、ついにバルコニーから落ちた少女を助けたことによって(人間界への介入)、人間界へと落とされたミカエルの冒険が始まる。
 前作の恋愛物語とは一転、堕天使ニミットを登場させることで活劇的な内容になっている。前作のロマンティックさと比べると、よりリアルに人間世界を描いたということか。ヴェンダースにとっての大きな転換点といえる『夢の涯てまでも』につづいて作られた作品だけに、それ以前のものとは大きく様子をことにし、ヴェンダースの新たな方向性の模索が感じられる。 

 カシエルはダミエルのように明確な目標を持って人間界へとやってきたわけではなかった。それがカシエルの何かが欠落しているという印象を作り、堕天使ニミットに付け入る隙を与えてしまうのだろう。しかし、果たしてこのことはどのような意味を持っているのか?明確なドラマを欠いた主人公カシエルは、しかし表面的には前作よりドラマティックな展開に引き込まれてゆく。『ベルリン・天使の詩』は明確なドラマを持っているという点で80年代以前のヴェンダース作品の中で異彩を放っているのだけれど、それと比べてもこの『時の翼にのって』は違ったスタイルの物語だ。
 この変化を理解するのは難しい。ヴェンダースは『夢の涯てまでも』以降、大きく作風を変えていくわけだけれど、その変化の方向性がまだ見えてこないという感じがする。『夢の涯てまでも』でロード・ムーヴィーにある意味で別れを告げたヴェンダースがいったいどこへ向っているのか、この作品は明らかにしてはくれない。『愛のめぐりあい』をはさんで『リスボン物語』にいたり、ロードムーヴィーに回帰しているように見えるヴェンダースだが、果たしてそうなのか?この作品は「とまった」ヴェンダースが何を語ろうとしているのかを示唆する作品であることは確かだが、何を語ろうとしているのかを理解することは難しい。カオスか?人間か?アメリカか? 

まわり道

Falsche Bewegung
1974年,西ドイツ,100分
監督:ヴィム・ヴェンダース
原作:ペーター・ハントケ
脚本:ペーター・ハントケ
撮影:ロビー・ミューラー
音楽:ユルゲン・クニーパー
出演:リュディガー・フォグラー、ハンナ・シグラ、ナスターシャ・キンスキー、H・C・ブレッヒ

 我々は冒頭の街の俯瞰ショットで期待に胸を膨らませる。そして、主人公のヴィルヘルムが拳で部屋の窓ガラスを割るシーンにハッとする。苛立ちと不満感にさいなまれる小説家志望のヴィルヘルムは母に勧められるまま旅に出る。ドイツを縦断するように旅する彼は何かを見つけ出すことができたのだろうか?
 ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』を底本として書かれたペーター・ハントケの小説の映画化。ヴェンダースのロード・ムーヴィー三部作の2作目に位置付けられる。希望に満ちた若者の旅というよりは、寂寥感や静謐さを感じさせる。これが映画デビュー作のナスターシャ・キンスキーも強い印象を残す。 

 この作品は「ゴールキーパーの不安」と似通ったところが多い。物語の転換のきっかけとして「死」があること。「ゴールキーパー」ではそれが殺人であり、「まわり道」では自殺であるという違いはあるものの、そこで物語が固着するという点は同じだ。そしてヴェンダースが本当に描きたかったのはそれらの「死」の後の話だという点も。単調で退屈に見える、「動き」を奪われてしまったその後の展開は、結局何も始まりも終わりもしなかったたびを象徴するものとしてそこにある。ヴィルヘルムは、最後には山の頂きに立ちはするが、何も生み出さず、何も得られず、何も見つけられなかった。
 ただ、これはヴェンダースが何かを否定していることは意味しない。ヴェンダースはただこれを提示しただけ。ひとつの物語として我々に示しただけだ。彼が私たちに見せたかったのは、「世界」であって教訓ではない。
 この作品が「ゴールキーパー」と違うのは主人公のモノローグ。「ゴールキーパー」では主人公に同化しにくいが、この「まわり道」では我々は主人公の視点でものを見させられる。主人公がモノローグを語りだすと見る側は、彼を観察することをやめ、自分がそのモノローグを語っているかのように錯覚し始める。そして主人公の視点に立ち始めるのだ。
 個人的にはそのように主人公の視点に捉えられてしまうことは非常に居心地が悪かったが、「むなしさ」を強く感じることができたことも確かだ。一般的に言えば感動を誘うはずのラストシーンの雄大な山の景色も、ただ白々しいだけのものに見えた。それは私がある程度ヴィルヘルムの気分を共有していたからだろう。物語の後半が退屈に感じられるのも、ヴィルヘルムもまた退屈しているからだろう。映画が退屈であるというこの事実にヴェンダースの力量を感じた。 

ゴールキーパーの不安

Die Angst des Tormanns Bein Elfmerter
1971年,西ドイツ,101分
監督:ヴィム・ヴェンダース
原作:ペーター・ハントケ
脚本:ヴィム・ヴェンダース
撮影:ロビー・ミューラー
音楽:ユルゲン・クニーパー
出演:アルトゥール・ブラウス、カイ・フィッシャー、エリカ・プルハール、リプガルト・シュヴァルツ

 プロのゴールキーパーのヨーゼフは試合中に審判に暴言を吐き退場処分に。スタジアムから出た彼は街をさまよい、安ホテルに宿を取って目的もなく街をぶらぶらと歩く。そして映画館の受付譲と仲良くなって、彼女の家で一夜をともにしたが…
 この作品は長編としては2作目だが、すでにヴェンダースのスタイルが確立されている。ロビー・ミューラーのカメラは色彩の鮮やかさこそまだ発揮されていないが、構図の作り方は秀逸、クローズアップでの切り返しも鮮やか。ヴェンダースの特徴のひとつである画面のフェイドアウトも効果的に使われている。 

 「不安」という言葉がこの作品をまとめている。この作品は、最終終的にどこかへ向うわけでも、何かが解決するわけでもないことが多いヴェンダースの作品の中でも特に行き先の見えない話だ。ヨーゼフがなぜそれぞれの行動をとったのかはまったく説明されないまま、そしてヨーゼフがいったい何を考えているのかも示唆されないまま、物語は淡々と進んでゆく。主人公への没入を拒否する姿勢。映画に対して第三者でい続けさせられる不安感。観客はその不安感を抱きながら、ヨーゼフの不安を見つめる。この微妙な関係性を作り出すのがヴェンダースの力量なのだろう。観客が安易に主人公に同調して物語世界に入り込んでしまわないように、しかし映画の世界には惹きつけられるようにするという微妙な作業。そのための緻密な計算がこった映像を作らせるのだと感じた。
 この作品は長編第2作目だけあって、その緊張感が緩む場面がたびたびあったが、それによってむしろヴェンダースのやらんとしていることを感じ取れたような気がする。いまだ完成されていないスタイルの魅力にあふれた一作。 

パリ、テキサス

Paris, Texas 
1984年,西ドイツ=フランス,146分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:サム・シェパード、L・M・キット・カーソン
撮影:ロビー・ミューラー
音楽:ライ・クーダー
出演:ハリー・ディーン・スタントン、ナスターシャ・キンスキー、ハンター・カーソン、ディーン・ストックウェル、オーロール・クレマン

 テキサス、砂漠をさまよう男がバーで倒れ、病院に担ぎ込まれる。しかし、男は黙ったまま。男の持っていた名刺からわかったロサンゼルスに住む弟が駆けつける。弟のウォルトは4年間音信不通だった兄トラヴィスをとりあえずロサンゼルスへと連れて行くのだが…
 ロビー・ミューラーの映像は相変わらず研ぎ澄まされており、プロットの作り方も申し分ない。2時間半という長さもまったく苦にならない。ライ・クーダーの音楽が加わることで、画像からなんともいえない哀愁が漂う。
 映画史上最高のロード・ムーヴィーと私は呼びたい。何度見ても飽きません。

 この映画はヴェンダースの積み上げてきた美しい映像世界に、いい脚本が乗っかって成立した。サム・シェパードといえば、「赤ちゃんはトップレディがお好き」とか「マグノリアの花たち」とか、最近では「ヒマラヤ杉に降る雪」などで知られる脚本家。彼にシナリオによって、今まで単調すぎるきらいがあったヴェンダース作品にかなりのアクセントが加わったと言えるだろう。個人的にはヴェンダースの淡々とした作風は好きだが、この作品に限って言えば、シナリオと映像は非常に幸せな出会いをしたといえるだろう。
 映像のほうに話を移すと、ロビー・ミューラーの映像は特に色彩感覚において秀逸なものがある。ローアングルで車の中から見える青空とか、そう、この作品では「空」が非常に美しかった。青空、夕焼け、くもり空、重い雲と明るい空とが微妙に混ざり合った空などなど。あとは、やはりロードムーヴィーだけあって、車の映し方。いちばん面白かったのはトラヴィスとハンターがジェーンの車を追って駐車場に入る場面、赤いジェーンの車が入るときにはかなり近くからローアングルで撮り、車はドアの部分しか写らないまま画面の左へと切れてゆく。それからトラヴィスたちの車が来る間に、カメラはゆっくりと移動して今度は上から映す。彼らの車は画面の左下のほうへと切れてゆく。言葉で説明してしまうとなんということはないのだけれど、そのカメラの微妙な動きがなんともいいんですよ。
 誉めてばかりですが、たまにはこういうのもいいでしょう。 

 今回見ていて気づいたのは、ヴェンダースの仕事の丁寧さ。さすがに小津好きというだけあって、映像の作りこみようはすごい。まず気づいたのは、冒頭、テキサスのスタンドで、卒倒したトラヴィスが、次のシーンでは病院のベットに寝かせれている場面、トラヴィスの額にしっかり瘤が!すごいぞヴェンダース。こだわってるぞヴェンダース。他に気になったのは音のタイミング、電車が来るタイミング、汽笛のなるタイミング、飛行機の爆音の聞こえるタイミング、撮る側にはどうすることも出来ないはずの音が見事なタイミングではいる。これはヴェンダースの根気なのだろうか?
 今回映像的に気に入ったのは、モーテルから逃げ出したトラヴィスが砂漠を歩いて、道路を渡り、フレームから出たタイミングでウォルトの車が画面の端に入ってくる来るところ。今回はかなり「タイミング」に気を撮られたらしい。しかし、この場面のフレーミングは見事な美しさだと思います。

都会のアリス

Alice in den Stadten
1973年,西ドイツ,111分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ヴィム・ヴェンダース、ファイト・フォン・フェルステンベルク
撮影:ロビー・ミューラー
音楽:CAN
出演:リュディガー・フォグラー、イエラ・ロットレンダー、リサ・クロイツァー、エッダ・ケッヒェル

 ポラロイドで写真を撮りながら、アメリカを放浪していたドイツ人作家フィリップは持ち金も底をつき、ドイツに帰って旅行記を執筆することにした。しかし、おりしもドイツでは空港がスト、アムステルダム経由で帰ることにするのだが、そのとき空港で出会った女性に娘のアリスをアムステルダムまで連れて行ってくれと頼まれる。
 いわゆるロード・ムーヴィー三部作の1作目。白黒の画面は淡々として余計な説明が一切ない。表情と風景がすべてを物語る。説明がなく、しかも劇的なプロットがあるわけでもないので、その静寂の奥にこめられた意味を探ってしまう。 

 「移動する」ということによって物語りは活気を帯びる。そしてフィリップとアリスの関係も変化してゆく。二人は互いに語ることはほとんどないのだけれど、そこで交わされる言葉にならない交流がこの映画の最大の魅力だろう。言葉にならないのだから、ここで文章で表現するのは難しいのだけど、誤解を恐れず単純化してしまえば、結局のところ焦点となっているのはフィリップの「癒し」なのかもしれない。アリスももちろん主体的に成長する存在として描かれているのだけれど、映画にとっては「従」の存在でしかないのかもしれない。
 という気がしました。しかしこの見方にはきっと異論があることでしょう。異論反論はどしどしお寄せください。 
 あとはやはり映像ですね。ヴェンダースは映像作家といわれ、映像の美しさには定評があるので、ここでことさら語ることはしませんが、彼の「絵」の最大の魅力は「隙」だと思います。何もない部分、何かがあることによって強調される何もない部分(たとえば白く塗りつぶされたようなくもり空)の存在感がなんともいい味を出しています。 

路(みち)

Yol 
1982年,トルコ=スイス,115分
監督:ユルマズ・ギュネイ
演出:シェリフ・ギョレン
脚本:ユルマズ・ギュネイ
撮影:エルドーアン・エンギン
音楽:セバスチャン・アルゴンケンダイ
出演:タルク・アカン、シェリフ・セゼル、ハリル・エルギュン

 トルコのイムラル島にある刑務所から、ようやく仮出所することができた男たちが家族のいる故郷へと向かう。しかし彼らを待っていたのは必ずしも幸せな家族との再会ではなかった。
 当時トルコは軍政下、いたるところで戒厳令が引かれ、クルド地方ではゲリラの鎮圧が頻繁に行われていた。そのような社会状況の中で生きる人々の苦悩。
 監督のユルマズ・ギュネイは当時刑務所に入っていたため、シェリフ・ギョレンが現場の演出を受け持った。軍政に対する批判的なまなざしと、故郷の自然に対する憧憬。クルド地方の草原、山岳地方の雪山など変化に富んだトルコの自然風景の美しさに満ちた作品。 

 トルコがこんなに気候の変化に富んだ国だとは知らなかった。初夏のような草原、砂漠のような砂地、完全に雪で閉ざされた山岳地。これらの風景の対比が非常に美しい。特に、クルド地方の緑の草原と青い空、茶色い土の家の対比はえもいわれぬ美しさだ。特に、ラストシーン、家のうえに女性が一人たたずんでいるシーンは強烈に印象に残った。
 トルコが抱える社会的な背景は良くわからないが、この社会の不寛容さは悲劇的だ。非道徳的な行動には死をもって報いるという発想。うーん、なんとも。しかし、これを後進的だとか、前近代的だといって片付けてしまってはいけない。むしろそれをトルコというアラブとヨーロッパが衝突する場からのまなざしとして受け止めることによって、様々な問題が浮かび上がってきそうだ。 

第三の男

The Third Man
1949年,イギリス,105分
監督:キャロル・リード
原作:グレアム・グリーン
脚本:グレアム・グリーン
撮影:ロバート・クラスカー
音楽:アントン・カラス 
出演:ジョセフ・コットン、オーソン・ウェルズ、アリダ・ヴァリ、トレヴァー・ハワード、バーナード・リー

 第二次大戦直後のウィーンに招かれた一文なしの小説家ホリー・マーチンスは着くなり招待してくれた友人はリー・ライムの死を知らされる。事故死といわれたが納得いかないホリーは現場にいたという第三の男を探しはじめる。
 非常にうまくトリックが隠されたサスペンス。非常に凝った構図が多く見られ、映像へのこだわりが感じられる作品。フレームによって切り取られた、瓦礫に埋もれたウィーンの風景は暗く、重苦しいが、美しさにあふれている。 

 オーソン・ウェルズがこの映画への出演を渋っていたというのはあまりに有名な話ですが、なぜ出たかということについては諸説あります。ひとつは、撮影現場を覗きにいってみたら、意外と気にいったというもの、ちょっと宣伝臭い匂いがしますね。もうひとつは、当時製作中だった映画の資金繰りが悪化し、その資金集めのために出演することにしたというもの。
 まあどちらにしろ、この映画にとって重要なのは、オーソン・ウェルズがでたということ。彼がいるといないとでは大違いですね。初登場のシーンから、きゅっと頭に刻まれる彼の表情、渋い声、眉間の皺、などなど。
 プロットもいいし、映像もいいので、オーソン・ウェルズがいなくても映画として成立はしたと思いますが、やっぱり、いるといないとでは大違い。 

ライフ・イズ・ビューティフル

La Vita e Bella 
1998年,イタリア,117分
監督:ロベルト・ベニーニ
脚本:ヴィンセンツォ・セラミ、ロベルト・ベニーニ
撮影:トニーノ・デリ・コリ
音楽:ニコラ・ピオヴァーニ
出演:ロベルト・ベニーニ、ニコレッタ・ブラスキ、ジョルジオ・カンタリーニ、ジョスティーノ・デュラーノ、セルジオ・ブストリック

 お調子者のグイド(ロベルト・ベニーニ)は、ローマへと向かう途中、車が故障して止まった町で美人のお嬢様ドーラに出逢う。そして、ローマで再会、しかし彼女には婚約者がいて…
 と、前半は1930年代のハリウッド映画のようなラブ・コメディが展開されるが、後半は一転、戦争が彼らの上に大きくのしかかってくる。カンヌ・グランプリ、アカデミー・外国語映画賞を受賞した良質のヒューマンドラマ。
 映画としての新しさは特にないが、巨匠トニーノ・デリ・コリの映像はいつまで見ていても飽きない透明感を持っている。子役のジョルジオ・カンタリーニも愛らしい。 

 ロベルト・ベニーニが、塀の中、なんだか見たことがあると思ったら、「ダウン・バイ・ロー」ですね。うーん、しかし比べるのは無理があるかな。
 さて、この映画はなかなか評価が難しいでしょう。前半部分は非常にいい。なんだか昔懐かしい感じで。しかし、あれで一本撮るには弱いでしょう。しかも、映画の眼目は後半にあるわけです。で、後半ですが、ドラマとして取ると、脚本の細部が弱い。収容所の監視があんなにずさんでいいのかとか、疑問が湧いてきます。コメディとしてとるなら、問題はありませんが、そうすると説教臭さが鼻につく。個人的にはそういう評価です。
 とにかく、全体をまとめている澄んだ映像がこの映画を救っています。決して目立つ効果は何もないのだけれど、それはつまり自然だということ。そして終盤はジョルジオ・カンタリーニの笑顔に救われています。
 私はアカデミー賞の審査員とは意見が合わないようです。

ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ

Hilary and Jackie
1998年,イギリス,121分
監督:アナンド・タッカー
原作:ヒラリー&ピエール・デュ・プレ
脚本:フランク・コトレル・ボイス
撮影:デヴィッド・ジョンソン
音楽:バーリントン・フェロング
出演:エミリー・ワトソン、レイチェル・グリフィス、ジェームズ・フレイン、デヴィッド・モリセイ、チャールズ・ダンス

 実在のチェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレの生涯を姉妹の関係にスポットを当てて描いた感動作。
 二人の姉妹が海辺で遊ぶ謎めいたシーンから映画は始まる。ヒラリーとジャクリーヌの姉妹は音楽好き、姉のヒラリーはフルート演奏で将来を嘱望され、BBCから出演依頼が来るが、一緒に連れて行ってもらったジャクリーヌは演奏の邪魔をしてしまう。悔しいジャクリーヌはその日から毎日チェロの練習に励むようになった。
 全編にわたって流れるチェロの音色が心に染み入ってくる。映像もさりげない工夫が凝らされていてよい。

 まず、邦題に難ありというところ。「ほんとうの」とかいってしまうとなんだか堅苦しい伝記映画みたいに見える。原題の”Hilary and Jackie”のほうが、映画の内容を端的に表していていいのでは。
 この映画はかなり「いい」と思う。さりげないんだけどよくできた映画。女性チェロを持つと凄くエロティックだし、魅力的に見えると前から思ってはいたのだけれど、この映画を見てかなり実感。特に、黒いバックで全身(ドレスの色が変わってゆく)と手のアップを交互に映し出してゆく場面が印象的。ダニエルとジャッキーが初めて出会ったパーティーで協奏するシーンも非常に良かった。
 あまり期待していなかっただけに、思わぬ収穫でした。

バタフライ・キス

Butterfly Kiss
1995年,イギリス,85分
監督:マイケル・ウィンターボトム
脚本:フランク・コトレル・ボイス
撮影:シーマス・マッガーヴェイ
音楽:ジョン・ハール
出演:アマンダ・プラマー、サスキア・リーヴス、リッキー・トムリンソン、キャシー・ジェイミソン

 「ウェルカム・トゥ・サラエボ」などで知られるマイケル・ウィンターボトム監督の初長編作。
 ハイウェイのガソリンスタンドで「ジュディス」という女性を探すユーニス。「ジュディス」ではないとわかった店員を殺し、次のスタンドへ。そこで出会ったミリアムは、ガソリンを体に振り掛ける彼女を心配し、自分の家に連れてゆく。ユーニス(ユー)に惹かれてゆくミリアム(ミー)、ふたりは果たして…
 物語はミリアムの告白を語り部に展開してゆく。レズビアン版シド&ナンシーと例えることもできるし、神話世界のメタファーとして読み解くこともできるだろう。ユーとミーという呼び名に何らかの示唆を読み取ることもできるかもしれない。現代的な映像の奥に、深みを感じさせるウィンターボトム監督の力作。

 「ジュディス」は旧約外典のひとつ『ユディト書』の主人公ユディトに由来していると思われる。未亡人ユディトは敵国の将ホロフェルネスを誘惑し、油断させ、寝首を掻き切ったイスラエルの女性。グスタフ・クリムトが描いた『ユディトⅠ』という絵が有名だが、この絵でユディトはホロフェルネスの首を抱えて微笑んでいる。このことから考えるとユーニスは「ジュディス」、つまり自分を殺しに来る何者かを探していると解釈することができる。しかもそれは自分を愛してくれる誰かでなくてはならない。そう考えると、ミリアムの「私がジュディスの代わりになる」というセリフが意味を持ってくるわけだ。ミリアムはユーリスにとってのジュディスになり、ユーリスはホロフェルネスになれる。
 キリスト教圏の人が「ジュディス」と「ユディト」とをすぐに結びつけることができるのかはわからないが、私は映画を見てから調べるまでそんなことはまったく知らなかった。このようなメタファーが映画に出てくることはままあるが、それを理解できないことが多い。あとから史ってなんとも残念な気分になることがありますが、今回もそうでした。ちなみにミリアムはモーゼの姉の名だが、これも何か関係あるのかもしれない。