愛と精霊の家

The House of the Spirits 
1993年,ドイツ=デンマーク=ポルトガル,139分
監督:ビレ・アウグスト
原作:イザベル・アジェンデ
脚本:ビレ・アウグスト
撮影:イェリン・ペルション
音楽:ハンス・ジマー
出演:メリル・ストリープ、ジェレミー・アイアンズ、ウィノナ・ライダー、グレン・クローズ、アントニオ・バンデラス、ヴィンセント・ギャロ

 南米のある国、物を動かしたり、予言したりという不思議な力を持った少女クララは自分の予言が当たって姉が死んでしまったことに罪悪感を感じそれから口を利かなくなってしまった。
 アメリカでもベストセラーとなったイザベル・アジェンデの小説を映画化したもの。クララを中心とした一族の年代記。
 原作の秀逸なストーリーが映画に生かされ、観客を物語世界にぐいぐいひき込む力が感じられる。

 原作と比べると、どうしてもその魅力は減じているといわざるを得ない。そもそもラテンアメリカ独特の空気を映しきれていないのは、「アメリカの映画」になってしまったからだろうか。少々詳細にその原因を探ってみると、もっとも大きいのはクララの不思議な力というものが、映画ではファンタジックな、しかもクララのみに備わっている「超能力」として扱われていることだろう。原作を読んでみれば、クララのその力というのは確かに不思議ではあるけれど、ファンタジーでもなんでもなく、現実にありうべき一つの現象として描かれている。周りの人々もクララの力に困惑はすれども、それを疑ってみたりはしない。その周りの人々の態度については映画でもかなり努力が払われていたように見えるが、どうしても本当に現実として描かれているようには思えない。
 ひとつ例をあげれば、フェルラが死を告げるためにクララの元へやってきたときに、エステバンがドアのところへ確かめに行く。この作業はまったく必要がないはず。フェルラはやってきて、去っていった。ただそれだけのことであって、フェルラの肉体がどこにあろうと実際には関係ないはずなのに。 しかし、原作はもっと長大な物語があり、それによって築き上げられる世界観というものがあるけれど、映画ではそれを作り上げるのは難しいのだから仕方がないのだろうという気もする。
 そう言ったことを割り引いても、ひとつ鼻につくのは映画全体に流れる「アメリカ臭さ」出てくる言葉はすべて英語だし、街や農場の風景も中南米の混沌がまったく感じられない。
 などと書いてくると、この映画を非難しているように読めますが、それはあくまで、原作と比較しての話であって、原作を意識せず純粋に映画としてみれば、ストーリー展開も力強いし、映像も無難に美しく、音楽も効果的で、役者もクララの若い頃をメリル・ストリープがそのままやってしまった点を除けば申し分ない。ヴィンセント・ギャロもかなりいい。
 と言うことで、ぜひ原作を読んでみてくださいませ。

TAXi2

TAXI2
2000年,フランス,89分
監督:ジェラール・クラヴジック
脚本:リュック・ベッソン
撮影:ジェラール・ステラン
音楽:アル・ケミア
出演:サミー・ナセリ、フレデリック・ディーファンタル、マリオン・コティヤー、エマ・シェーベルイ、ベルナール・ファルシー

 マルセイユの公道でのレース中、トップの車をあおる純白のプジョー406が現れた。運転手はもちろん暴走タクシードライバーのダニエル。産気づいた妊婦を乗せ病院へと急いでいた。無事子供が生まれ、ダニエルは急ぎ恋人リリーのもとへ。
 一方、警察ではマフィア対策の視察にくる日本の防衛庁長官の警護の準備。署長が「コンニショワ~」と怪しい発音で日本語を教える。
 何はともあれ、今回は日本のヤクザが相手。黒塗りの3台の三菱車との対決。日本人にはつぼに入ること請け合いの突込みどころ多数。映画館で見ると、突っ込めなくてストレスがたまります。 

 どうしようもなく笑える。前作を見ていれば、ストーリーは考えなくてもわかる。しかしあまりにばかばかしいギャグセンスがたまらない。とくに日本人には、突っ込まずに入られないボケどころ多数。
・テレビ電話で話すボスの後ろに映っている和服の女の子はなんだ!
・なんで千葉ナンバーなんだ!
・日本語下手すぎるよ!
・あんなばればれなSPいねーよ!
・飛びすぎだよ長官!
などなど、まだまだ突っ込み足りませんが、この辺で勘弁しといたろ。
 とにかく、映画うんぬんよりばかばかしさに笑ってそれでいい。リュック・ベッソンが本当に撮りたい映画ってのはこれのような気がする。でも、立場的にこんな映画は撮れない。巨匠もつらいね。

グレアム・ヤング毒殺日記

The Young Poisoner’s Handbook 
1994年,イギリス,99分
監督:ベンジャミン・ロス
脚本:ベンジャミン・ロス
撮影:ヒューバート・タクザノブスキー
音楽:ロバート・レーン、フランク・ストローベル
出演:ヒュー・オコナー、アントニー・シェール、ルース・シーン、ロジャー・ロイド・バック

 1960年代に家族をはじめとして、多くの人を毒殺した毒殺魔グレアム・ヤングの実話に基づいた物語。
 グレアムは幼いことから科学に興味を持ち、14歳のときにニュートンがダイヤモンドを合成したといわれる硫化アンチモンという薬品に出会う。しかしこれは強力な毒にもなる薬品だった。この薬品の魅力にとりつかれた彼は、実験を繰り返しながらより強力でばれにくい毒薬を探して行く。
 「毒殺魔」という地味で映画になりにくそうな題材を扱いながら、かなり観客をひき込む魔力を持った映画。物語は淡々と進んでいくのだけれど、観客はどうにもそわそわしてしまう。音楽(選曲)もかなりよい。 

 話としてはかなりえげつなく、どろどろした話のはずなのに、主人公の淡々としたところと、なぜかほのぼのとした音楽が不思議な魅力。特に音楽のアンバランスさはかなりいい。
 なかなか言葉で表現しにくい魅力ですねこの映画は。一言でいってしまえば、すべてひっくるめた全体の雰囲気が好き。映像も時々突っ張ったところがありながら、全体としてはオーソドックス。しかし、神経を逆なでするような効果がかなり入れ込んである。役者もかなり素人くさい人たちなのに、なんとも言えない味がある。いかにも毒殺されそうなキャラクター(どんなじゃ!)というか、絵にかいたようなありふれた人(つまり、実際にはあまりいない)というか、とにかく映画のそわそわ感とはまったく正反対の人たちなわけです。
 と、言うわけであまりうまく書けなかったものの、個人的にはかなりつぼに入った映画だったということは伝わったでしょうか? ちょっと「π」にも通じるような感じですね。映画の「味」が似ています。 

クローサー・ユー・ゲット

The Colser You Get
1999年,アイルランド,93分
監督:アイリーン・リッチー
脚本:ウィリアム・アイボリー
撮影:ロベール・アラズラキ
音楽:レイチェル・ポートマン
出演:ニーアム・キューザック、ショーン・マッギンレイ、イアン・ハート、ユアン・スチュアート、ショーン・マクドナルド

 アイルランド北西部、大西洋に面した小さな村。主人公の青年ショーンは村が好きではあるものの、一度は村を出てほかの世界を覗きたいと思っていた。そんなある日、恒例の教会主催の映画上映会で誤って「テン」が上映されてしまい、ボー・デレクのセクシーな肉体に男たちは魅了される。それをきっかけに村の男たちは妙なことを考え始め、村の人たちの関係がおかしくなり始めた…
 コメディタッチながら、実にまっとうなラブ・ストーリー。プロデューサーは「フル・モンティ」のウベルト・パゾリーニ。
 最後までほのぼのと、ゆったりとした映画。 

 監督、キャストともにほぼノーネームの作品。そのわりにはすごく普通な映画。「フル・モンティ」も映画としてはすごく普通だったが、その発想と物語が非常によかった。それに比べると、この作品は発想はなかなかいいのだけれど、物語としてはごく普通のラブ・ストーリーになってしまった気がする。特に、キーランとシボーンの話の展開などを見ると。 と、いうことなのですが、ひとつ非常に気に入ったのは、(これはネタばれになってしまうので、これから見ようと思っている人は読まないように)オーリーとショーンのお母さんのオチ。これはよかった。これぞイギリス的発想。

黒猫・白猫

Crna macka, beli macor
1998年,フランス=ドイツ=ユーゴスラヴィア,130分
監督:エミール・クストリッツァ
脚本:ゴルダン・ミヒッチ
撮影:ティエリー・アルボガスト
音楽:スヴェトリク・ミカザイッチ
出演:バライム・セヴェルジャン、スルジャン・トドロヴィッチ、ブランカ・カティチ、フロリアン・アイディーニ

 ユーゴスラビアの川沿いのぼろ屋に父と住む若者ザーレと近くの喫茶店(?)で働くイダのラブストーリーと、ザーレの父親や祖父とマフィアとの人情と友情の物語が絡み合う、不思議な雰囲気のコメディ映画。
 クストリッツァならではのごちゃごちゃとした映像から滲み出す「味」がたまらない。すべての登場人物が独特の「味」を持っていてすばらしい。
 エミール・クストリッツァの映画を見たことがない方!これは想像もつかない世界観です。どんなにプレビューを書いても、知らない人にこの世界を伝えることは不可能。ぜひご覧あれ。 

 クストリッツァというと、「アリゾナ・ドリーム」とか「アンダーグラウンド」とかなんとも不思議な映像美、というか、決して美ではないけれど、それを美しく見せてしまう力わざと言うか、そんな不思議な映像にいつもひきつけられてしまう。めまぐるしいカメラの動きと見たこともない風景。それがなぜか心にすとんと入ってくるのが不思議。
 ゴット・ファーザーのじいさんが乗ってる車(?)とか、やせデブの兄弟とか、車を食べる豚とか、映画の隅々、画面の隅々まで行き届いている視覚的な工夫が、クストリッツァの最大の魅力なのではないでしょうか?
 アンダーグラウンドは、政治的な側面ばかりが強調されてしまったけれど、本当にクストリッツァが描きたかったのは、こっちの「黒猫 白猫」のような煩雑とした映像の中から滲み出す、ユーゴスラヴィアのあるいはヨーロッパとアジアの境のイメージ、漠然とした表象なのではないだろうか、コメディを見ながらも真面目なことを考えさせられてしまう映画でした。
 あるいは、コメディというべきではないのか…、イや、クストリッツァはこれをコメディといいたいと私は思います。 

永遠と一日

Mia Eoritita Ke Mia Mera
1998年,ギリシャ=フランス=イタリア,134分
監督:テオ・アンゲロプロス
脚本:テオ・アンゲロプロス
撮影:ジョルゴス・アルヴァニティス、アンドレアス・シナノス
音楽:エレーニ・カラインドロウ
出演:ブルーノ・ガンツ、イザベル・ノー、アキレアス・スケヴィス、デスピナ・ベベデリ、イリス・ハチャントニオ

 余命幾許もない小説家のアレクサンドル(ブルーノ・ガンツ)は旅にでようと決意するが、犬を預けようと立ち寄った娘の家で娘の夫から、思い出の家を売り払ったことを聞かされ、犬を預けるのも断られる。そんな時、車の窓拭きをして暮らすホームレスの少年に出会う。
 人間の孤独感と疎外感をゆったりとした映像で描いたアンゲロプロスの力作。アンゲロプロスらしい幻想的な映像展開はさすが。アンゲロプロスというのは鋭い映像感覚と独特な世界観を持った作家なのだと改めて感じさせられた一作。 

 物語からいえば、孤独あるいは疎外ということに貫かれた物語。子供のころの映像や若い頃の映像は明るく活気に満ちており、現在の映像がいつもくもり空で薄暗いということを考えると、孤独感というのは現在に至って(つまり妻が死んで)生まれてきたように見えるけれど、物語を見てゆけば、実際は孤独を楽しめたかどうかという問題でしかないということに気がつかされる。若い頃、決して孤独に気づかず、孤独を苦にせずむしろ楽しんでいたために逆に妻を苦しめていたことを、現在、自分自身が孤独を怖れるようになって知ったアレクサンドル。それに対して、すでに孤独であることに気づき、またそれを怖れてもいる少年。二人は互いに孤独を癒されることはないことを知りながら互いに寄り添ってすごす。そこに物語が生まれるのだ。そして「詩人」の存在。バスの「幻影」(二人が同時に見ているように見える現実ではない風景。それはいったい何を意味しているのか?)
 映画という視点から言えば、この映画はとにかくワンカットが長い。ゆっくりとカメラが移動しながら、カットを切ることなく、違う場面をつないでゆく。特に川べりで詩人の話をするところには度肝を抜かれた。時代が異なる二つの場面を川面をゆっくりとパンすることでつないでしまう。あー、かっこいい。そして去ってゆく馬車をゆっくりと追いかける。ゆっくりと、決して近づかず、遠ざからないスピードで。
 どこかで映画から抜け出そうとしている姿勢を感じさせるアンゲロプロスは案外ヴェンダースと似ているのかもしれない。ヴェンダース作品でなじみのブルーノ・ガンツが主人公なせいでそう思ったのかもしれないが。 

東京画

Tokyo-ga
1985年,西ドイツ=アメリカ,93分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ヴィム・ヴェンダース
撮影:エド・ラッハマン
音楽:ローリー・ベッチガンド、ミーシュ・マルセー、チコ・ロイ・オルテガ
出演:笠智衆、厚田雄春、ヴェルナー・ヘルツォーク

 小津安二郎ファンであるヴィム・ヴェンダースが小津へのオマージュとして作った作品。笠智衆や小津作品の撮影監督である厚田雄春を訪ねながら東京を旅する、ヴェンダースの旅日記風ドキュメンタリー。
 小津の「東京物語」のなかの30年代の東京と、現在(80年代)の東京を対照させて描く。パチンコ屋や夜の新宿など私たちには馴染み深い風景がでてくる。素晴らしいのはヴェンダースのモノローグ。この映画、実は東京を背景画にしたヴェンダースの独り言かもしれない。 

 現代の東京と小津の東京を比べて、「失われたもの」を嘆くのを見ると我々は「またか」と思う。ノスタルジーあるいはオリエンタリズム。文化的なコロニアリズムを発揮した西洋人たちが、自らが破壊した文化の喪失を嘆くノスタルジーあるいはオリエンタリズム。ヴェンダースでもそのような視点から逃れられないのか!と憤りを感じる。
 しかし、ヴェンダースはそのようなことは忘れて(自己批判的に排除したわけではない)、もっと自分のみにひきつけて「東京」を語ってゆく。二人の日本人へのインタビュー、モノローグ。ヴェンダースのモノローグは文学的で面白い。完全にブラックアウトの画面でモノローグというところもあった。字幕で見ると、それほどショッキングではないけれど、まったくの黒い画面で言葉だけ流れるというのはかなりショッキングであるはずだ。このたびはヴェンダースの自身と映画を見つめなおすたびだったのだろう。ヴェンダースがもっとも映画的と評する小津の手法に習いながら、映画的ではないドキュメンタリーを撮る。それが面白くなってしまうのだから、さすがはヴェンダース。 

北ホテル

Hotel du Nord
1938年,フランス,110分
監督:マルセル・カルネ
原作:ウージェーヌ・ダビ
脚本:マルセル・カルネ
撮影:アルマン・ティラール
音楽:モーリス・ジョーベール
出演:ジャン=ピエール・オーモン、アナベラルイ・ジューヴェ、アルレッティ

 パリのとある安宿北ホテル。ある日、若いピエールとルネのカップルが心中を図ろうと逗留した。約束通りルネを撃ったピエールだったが自分に銃口を向けることができない。そして、銃声を聞きつけて部屋へ来た隣室のエドモンに促されホテルを逃げ出す。しかし翌日には自首、ルネも息を吹き返す。
 絶世の美女ルネを中心とした北ホテルの人々の物語。ルネとピエールよりも取り巻く人々の個性が面白い。 

 一言でいうならば、激情型の美女ルネの自分勝手なメロドラマ。プロットなどかなりめちゃくちゃ。孤児院出身という設定もかなりしっくりこない。台詞まわしは非常にゆうがだが、少々理屈っぽいか。マルセル・カルネがアナベラの美しさを引き出した作品と考えれば、それはそれで素晴らしい。周りを囲む脇役たちのキャラクターが絶品。エドモンはかなりいい。最後に昔裏切った仲間に進んで殺されることの必然性はよくわからないが、ダンディズムなのか、それともルネという存在の大きさを表現しているのか。 

ローラとビリー・ザ・キッド

Lola + Bilidikid
1998年,ドイツ,90分
監督:クトラグ・アタマン
脚本:クトラグ・アタマン
撮影:クリス・スキレス
音楽:アルパッド・ボンディ
出演:ガンディ・ムクリ、バキ・ダヴラク、エルダル・イルディス、インゲ・ケレール

 ベルリンに住むゲイのトルコ人少年ムラートは、家父長であり高圧的に振舞う兄とその兄に従順な母との暮らしに息苦しさを感じていた。そんなある日、彼はゲイであることを理由に勘当されたもう一人の兄がいることを知る。物語はムラートと兄のローラ、その恋人ビリーを中心に展開してゆくが、長兄のオスマン、ローラの仲間たち、ドイツ人のゲイの中年男などが登場し物語に深みを与える。
 ドイツにおけるトルコ人の立場、ゲイの立場というものをひとつの事件を舞台として展開させてゆく監督の手腕はなかなか。登場人物一人一人に個性、内面がうまく描かれていたと思う。 

 この映画でまず目に付くのは、ドイツ人のホモフォビア(同性愛者嫌悪)とトルコ人に対する民族差別である。二重に(あるいは三重に)虐げられる存在としてのローラ。彼女(彼)が殺される。しかし彼女=彼が殺される理由はいくらでもあるのだ。ホモ嫌いのドイツ人、トルコ人嫌いのドイツ人、ホモ嫌いのトルコ人、などなど。
 このことがはらんでいるのは、トルコ人という被植民者の「女性化」(ここでは「ゲイ化」)である。ドイツ人=植民者=マチョ=家父長/トルコ人=被植民者=女性的=ゲイというちょっとひねったコロニアリズムが垣間見える。これによってトルコ人のゲイの不遇を描くというのならそれでいい。しかし、この作品が素晴らしいのは、そのように描かなかったこと。より複雑な要素としての家族や様々な愛情をそこに織り込んでいったこと。オスマンにローラを殺された衝動はなんだったのか?それは、オスマンとビリーに共通する要素、ドイツでトルコ人としていきながら、ゲイでありかつマチョとして生きようとすること、その矛盾がオスマンを殺人にまで駆り立てた。社会の歪みを引き受けた存在としてのオスマンとビリーを描くことで、ドイツ社会の抱える矛盾を明らかにしたといえるのではないだろうか?

さすらい

Im Lauf Der Zeit
1975年,西ドイツ,176分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ヴェム・ヴェンダース
撮影:ロビー・ミューラー、マルチン・シェイファー
音楽:インプルーブド・サウンド
出演:リュティガー・フォグラー、ハンス・ツィッシュラー、リサ・クロイウァー、ルドルフ・シュントラー

 映画館を巡回して、映写機を修理し、フィルムを貸して回る男ブルーノ(リュディガー・フォグラー)がある朝トラックでひげを剃っていると、目の前をものすごい速度で飛ばすビートルが通り過ぎ、川に突っ込んで沈んでいった。その車から現れた男ロベルト(ハンス・ツィッシュラー)は妻と別れて放浪生活をしていた。二人はほとんど言葉を交わすこともなく一緒に旅をはじめる。
 ロードムーヴィー三部作の三作目とされるこの作品はヴェンダースのロードムーヴィーの一つの到達点を示しているのかもしれない。もともと精緻なシナリオがなく撮りはじめたため、まさに旅をしながら物語が生まれてくるという感じになったのだろう。二人の男の人物設定が会って、その二人が旅をするとどのような関係が生まれていくのか?それを決してドラマチックに使用などと考えずに淡々と描いてゆくリアルな物語はまさしくロードムーヴィというにふさわしい。
 この映画で目を引くのは、動いてゆく風景。単に背景としてではなく、ミラーに映ったり、フロントガラスに映り込んだりとあらゆるところに背景が入り込み、それが過ぎ去ってゆく。 

 この映画のこの二人の男は決して前には進まない。いつも進んではいるのだけれど、彼らの旅は何かに向って進む旅ではない。それを象徴するのは最初と最後の移動の場面。最初の移動の場面。トラックに乗り込んだ二人をカメラは脇の窓から捕らえる(はず)。その反対側の窓の向こうにあるバックミラーは過ぎ去ってゆく土地をえんえんと映している(この場面はかなり不思議で、人物にも、窓の外の風景にも、バックミラーの風景にもピントが合っている)。最後の移動の場面、電車に乗り込んだロベルトは進行方向と逆に向かって座る。彼から見えるのは過ぎ去ってゆく景色だけだ。こうして二人の男は前には進まず、停滞し、時だけが流れ去る。彼らのそのような行動が何を意味しているのかを語ることをこの映画は巧みに避ける。彼らは最後、国境の米軍の東屋でわずかながら考えをぶつけ合うけれども、それがゆえに二人はわかれ、別々の方向へと進み始める。
 やっぱりこの作品も語るのは難しかった。黒沢清がどこかで言っていたけれど、ヴェンダースの映画(80年代以前)は「お話がどうも確実にあるようなんだが、それをひとことで言えといわれるとそう簡単には言えないような映画」なのだろう。だからどう書いていいのかわからない。みればわかる、みればわかる。と繰り返すだけ。
 本当にみればわかる。この映画、個人的にはヴェンダース作品の中でいちばん好きかもしれない。