鳩の翼

The Wings of the Dove
1997年,イギリス,101分
監督:イアン・ソフトリー
原作:ヘンリー・ジェームズ
脚本:ホセイン・アミニ
撮影:エドゥアルド・セラ
音楽:エド・シェアマー
出演:ヘレナ・ボナム=カーター、ライナス・ローチ、アリソン・エリオット、シャーロット・ランプリング

 20世紀初頭のイギリスを舞台に、貴族という没落してゆく階級の誇りが生み出す悲喜劇を織り込んだ恋愛映画。原作はイギリス文学界の巨匠ヘンリー・ジェームズ。
 貴族の伯母の元に引き取られたケイト(ヘレナ・ボナム=カーター)には新聞記者の恋人がいる。しかし伯母が新聞記者との結婚を許さないことは目に見えていた。古典的なテーマで物語りは進行する。偉大なる凡庸さ。本当にうまくまとまったという感じだけを残す映画だが、その単純な物語と平凡な映像でも私たちは感動させられてしまう。これが古典的な物語の力なのだろうか?

 この映画のつくりは本当に普通だ。カメラワークに工夫があるわけでもはっとさせられるフレームがあるわけでも、ドキドキさせられるようなセリフがあるわけでもない。物語りもいたって古典的で、その展開にハラハラすることもない。しかし、その淡々と進んでゆく物語の奥で展開する人々の心の葛藤に私たちは感動する。果たしてこれは映画の力ではないのかもしれないが、このような味わいの映画もたまにはいいものだ。
 でも、それはあくまでたまにであって、この映画を傑作ということはできない。このような味わいでこれくらいのレベルの映画ならたくさんあるだろうし、その中からこの映画を選ぶ理由とすれば、「ファイト・クラブ」で挑発的な演技を見せたヘレナ・ボナム・カーターのゴシックな姿を見ることくらいか。ヘレナ・ボナム=カーターはこの映画でも、性格的には非常に感情的な人間として描かれている。彼女の凛とした顔は気が強そうな印象を与えるので、なかなかのはまり役だったと思う。

タクシー

TAXi
1997年,フランス,85分
監督:ジェラール・ピレス
脚本:リュック・ベッソン
撮影:ブライアン・J・レイノルズ
音楽:ジャン=ピエール・ソーヴェール
出演:サミー・ナセリ、フレデリック・ディフェンタール、マリオン・コティヤール、エマ・シェーベルイ

 リュック・ベッソンがプロデュースと脚本を担当した作品。
 ピザの宅配人からタクシードライバーに転職したスピード狂のダニエル(サミー・ナセリ)、スピード違反でつかまったダニエルは、警察との取引に応じる。その取引というのは改造ベンツで猛スピードで逃げる銀行強盗ダンを捕まえる手助けをするということ。しかし、その相棒はマザコンの警官エミリアン(フレデリック・ディフェンタール)で…
 マルセイユの町を猛スピードで駆け抜けるアクションコメディ。たわいもない笑いがあちらこちらに散りばめられ、なかなか笑える。

 10本撮ったら監督をやめると公言していたベッソンが、本当に監督を辞めるとしたら、そのときはこのように若手監督を起用して、映画を撮らせたりするんじゃないかと思わせる作品。
 個人的にコメディのセンスがベッソンの作品より好みに合う。悪者はドイツ人というのもフランス人らしくわかりやすくて面白い。近々2作目が公開されるらしいので、期待したい。

 続編とあわせて、このシリーズは面白い。おそらくそれはアメリカ的なばかかしさとは違うフランス的なばかばかしさ。アメリカのコメディほどはわかりやすくないので、どうしても好みが分かれるとは思うけれど、あくまでばかばかしいことが重要。変にウィットやシニカルさに走らないところが重要。
 アメリカのコメディもいいけれど、イギリスのコメディもいいけれど、たまにはフランスのコメディもいい。その程度かもしれませんが、リュック・ベッソンって人を見る目があるのかもしれないとは思いました。 

ヒューマン・トラフィック

Human Traffic
1999年,イギリス,99分
監督:ジャスティン・ケリガン
脚本:ジャスティン・ケリガン
撮影:ディビッド・ベネット
音楽:ピート・トン、ロベルト・メロウ、マチュー・ハーバート
出演:ジョン・シム、ロレーヌ・ピルキントン、ショーン・パークス、ニコラ・レイノルズ、ダニー・ダイアー

 ドラッグのやりすぎでインポになってしまったと悩むジップと彼を取り巻く友人たちは、月曜日から金曜日まで家賃のために働き、週末の48時間をクラブでぶっ飛んで過ごすことに生きがいを見つける。 前半はそんな彼らの金曜日から土曜日にかけてのバカ・トビ生活を軽快に、後半は、ジップのインポを中心に、彼らの世代の誰しもが経験する人生に対する疑問が「パラノイア」という言葉によって表現され、頭をもたげる。
 この映画ははっきりいって、ジェネレーション・ムービー。なので、世代によって非常に評価は分かれるし、見方も変わる。個人的には監督(25歳)と同世代のため、非常に同感できるものがあったが、果たしてこれが万人に通用するのかどうかはわからない。しかも、クラブ・ミュージックが楽しめなければ、物語に入り込むことができないかもしれない。
 そうなってしまうと、劇中ドキュメンタリーを撮影にクラブにやってきたおばさん(失礼!)同様、「バカじゃないの」で終わってしまうことでしょう。かといって、薦めないわけではありません。映像もそれなりに面白いし、イギリス的な笑いもかなり盛り込まれているので、とりあえず楽しめる(かな?イギリスの笑いがだめという人はそもそも笑えないかも)。 

彼女の彼は、彼女

Gazon Maudit
1994年,フランス,105分
監督:ジョジアーヌ・バラスコ
脚本:ジョジアーヌ・バラスコ
撮影:ジェラール・ド・バティスタ
音楽:マヌエル・マロウ
出演:ジョジアーヌ・バラスコ、ヴィクトリア・アブリル、アラン・シャバ、ティッキー・オルガド、ミゲル・ボゼ

 不動産会社に勤める夫と元ダンサーの妻ロリ、円満なはずの家庭にやってきた一人の女マリジョ。レズビアンの彼女はロリに魅せられ彼女を誘惑する。夫の浮気も発覚し、3人の関係はどんどん複雑に。いかにもフランスらしいシニカルな恋愛コメディ。 3人それぞれの複雑な心理の変化が克明に描かれ、単なるコメディとはいえない、人間ドラマに仕上がっている。映画手法として目新しいものはないが、非常にストレートな作り方をしているので、言わんとしていることもストレートに伝わってきて好感が持てる。 

 この映画の素晴らしいところは、登場人物たちの心理が画一化されていないこと。好き-嫌い、同性愛-異性愛、という二項対立にこだわらずに、人間対人間の関係から生じる内的な葛藤を、「人間」の問題として描いていることだろう。人間の心理ってこんなに複雑なものなんだ、と気づかされる。葛藤、葛藤、また葛藤。
 しかし、最後にゲイの彼が登場してくるところを見ると、「愛は盲目」、人間とは懲りない生き物。問題を真面目に扱うんだけれど、決して深刻にはならずに、「コメディ」として作り上げたところが素晴らしい。 

ジュ・テーム・モア・ノン・プリュ

Je T’Aime Moi Non Plus
1975年,フランス,90分
監督:セルジュ・ゲンスブール
脚本:セルジュ・ゲンスブール
撮影:ウィリー・クラン、ヤン・ル・マッソン
音楽:セルジュ・ゲンスブール
出演:ジェーン・バーキン、ジョー・ダレッサンドロ、ユーグ・ケステル、ジェラール・ドパルデュー、ミシェル・ブラン

 ごみ処理車で働くゲイのカップルと、食堂で働く一人の女。ちょっと変わった三角関係を描いた恋愛映画。セルジュ・ゲンスブールの独自の世界観が堪能できる作品。
 繰り返される音楽、工夫されたフレームの切り方と、何か新しいものを生み出そうとしていると雰囲気は感じられるし、フランス映画としては非常に不思議な空気をもった映画だが、少し流れが平坦すぎるという感じがした。もう少し各キャラクターに深みを持たせたい。 

 フレームのきり方は非常に美しく、芸術的なセンスは感じられる。ふたりの背中越しのごみ集積場、洗面台の下にうずくまる全裸のジェーン・バーキン、などなど。思い切って人をフレームで切ってしまうところが美しさを作り出しているのだろう。
 音楽も、さすがに、耳に残るいい曲という気はする。
 問題はやはり脚本か。
 でも、映像と音楽がよければ、映画なんて楽しめるものなので、特に文句はありません。 

甘い生活

La Dolce Vita
1959年,イタリア=フランス,185分
監督:フェデリコ・フェリーニ
脚本:フェデリコ・フェリーニ、エンニオ・フライアーノ、トゥリオ・ピネッリ、ブルネッロ・ロンディ
撮影:オテッロ・マルテッリ
音楽:ニーノ・ロータ
出演:マルチェロ・マストロヤンニ、アニタ・エクバーグ、アヌーク・エーメ、バーバラ・スティール、ナディア・グレイ

 雑誌記者マルチェロの見たイタリアの社交界、芸能界のエピソードをモザイク的に描いた3時間の大作。そのプロットはマルチェロと様々な女性との関係によって展開してゆくが、陰の主役とも言えるのはローマの街であり、ローマの姿を描くための作品であるといってもいいかもしれない。
 喧騒と頽廃の街ローマ、その街に田舎からやってきたマルチェロ。ローマ人然として振舞うマルチェロは年の頽廃の香りと田舎の純粋さとを併せ持った人間であり、その間で揺らぐ存在である。その揺らぎを象徴的に示す女性たちの中から彼は誰を選び、誰を捨て、誰に捨てられるのか? 

 マルチェロが主に関わる女性は、婚約者のエンマ、富豪の娘マッダレーナ、ハリウッド女優シルビア、それに加えてレストランの少女である。それぞれが象徴しているものを単純に示すことはできないが、空間的に解けば、エンマ=街、マッダレーナ=社交界、シルビア=芸能界、少女=田舎、あるいは時間的に解けば、エンマ=現状、マッダレーナまたはシルビア=別世界、少女=過去。
 つまり、これらの女性が示しているマルチェロの揺らぎというのは、現状のローマの街人としての生活から抜け出し、社交界あるいは芸能界に入り込見たいという気持ち、しかし現状あるいは過去の純粋さというものを捨てきれないという点にある。しかし、シルビアとマッダレーナには結果的に拒否され、社交界あるいは芸能界に入り込むことは成功しない。それでも、社交界の端っこに何とかとどまったマルチェロが、ローマの浜に打ち上げられた奇妙な魚を見、少女の呼ぶ声を振り切って去ってゆくラストシーンは何を象徴しているのか?

 あるいは、マルチェロの視点にとらわれず、観衆としてこの作品を見るならば、長々としたエピソードで語られるシルビアとのデート?や城でのパーティは貴族的な頽廃と非生産性を象徴しているに過ぎない。意味のない退屈な遊びを繰り返す人々の冗長な生活は魅力的であるよりむしろ不毛な朽ちつつあるもののように映った。そう考えるならば、ラストシーンの奇妙な魚(多分エイダと思う)こそがその社交界というものの暗喩として登場しているのであり、それは奇妙な魅力を放ちはするけれど、(エイだとすれば食べられないのだから)現実的な有用性にはかけ、かつ朽ちつつある滅び行くものであるという意味がこめられているのかもしれない。 

暗殺の森

Il Conformista
1970年,イタリア=フランス=西ドイツ,107分
監督:ベルナルド・ベルトリッチ
原作:アルベルト・モラヴィア
脚本:ベルナルド・ベルトリッチ
撮影:ヴィットリオ・ストラーロ
音楽:ジョルジュ・ドルリュー
出演:ジャン=ルイ・トランティニャン、ドミニク・サンダ、ステファニア・サンドレッリ、ピエール・クレマンティ

 時はムッソリーニ時代、イタリアの若い哲学教師マルチェロ(ジャン=ルイ・トランティニャン)は自身の心の傷からファシズムに走り、秘密工作員となることを志願する。そして、パリ亡命中の恩師である教授を密偵するためにパリへ向かうことになるのだが……
 政治と愛とが交錯し、官能的に当時の社会の矛盾を抉り出した作品。
 前半部分は時間が交錯し、現在の時間と、回想とが絡み合って進む。「体制順応主義者(原題)」であるマルチェロの心の歪みが美しい映像によって浮き彫りにされてゆくさまが素晴らしい。

 何とはなしに見ていたら、1970年の作品というので驚いた。映像が美しく、フレームの切り方も洗練されている。
 この映画はマルチェロの内的独白だが、実際に、彼の言葉によって説明されることは何もない。ただ彼の行動と、彼の回想とをモンタージュすることによって、彼の心理を観衆に解釈させる。したがって、この映画のすべてのシーンは彼の目を通して見られたものであるべきだし、実際にそうであったと思う。特に、印象的だったのは、暗殺のシーンでのアンナの唸りとも悲鳴ともつかない叫び。マルチェロの座る車の窓をたたきながら、言葉にならない叫びをあげつづける。それは、あのような極限状態の人間は実際には(普通の映画のように)助けを求める言葉を投げかけたりはせず、無意味な叫び声をあげるのだという端的な事実を主張している面もあるかもしれない。しかし他方で、その声は彼女の助けに耳を貸すわけにはいかないマルチェロの精神が彼女の言葉を聞くまいとして作り出した捻じ曲げられた叫びであるかもしれないのだ。彼の歪んだ心から見た世界というものを歪んだままで提示する方法。小説である原作を映像化する際に、そのような手法を選択することに決めたベルトリッチの発想力は素晴らしい。 

ベルリン・天使の詩

Der Himmel Uber Berlin
1987年,西ドイツ=フランス,128分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ヴィム・ヴェンダース、ペーター・ハントケ
撮影:アンリ・アルカン
音楽:ユルゲン・クニーパー
出演:ブルーノ・ガンツ、ソルヴェーグ・ドマルタン、オットー・ザンダー、ピーター・フォーク

 ベルリンを舞台に天使たちの視点から世界を描く映像美にあふれた作品。天使たちの世界は白黒で、人々の考えていることが耳に飛び込んでくる。そして、彼らを見ることができるのは子供たちだけ。
 物語は一人の天使ダミエル(ブルーノ・ガンツ)とその親友カシエル(オットー・ザンダー)の視点から進んでゆく。ダミエルはこどもたちにふれ、永遠の霊の世界に嫌気がさし、人間になりたいと思い始める。これに対しカシエルは不幸な人々を癒すことに努める。
 二人の天使が見たセピア色の世界が美しい。各ショットのフレームの切り方、画面の隅々まで作りこまれた映像美が心に残る。 

 ヴィム・ヴェンダースといえば、映像の美しさが有名だが、この作品はその映像美のきわみ。各ショットショットのフレームの隅々までが計算し尽くされ、寸分の好きのない映像が流れつづける。たとえば、カシエルと老人がポツダムの町を歩くとき、背後の鉄橋の上を一人の男が歩いている画なんて、筆舌に尽くしがたい美しさだと思いますが。
 画の使い方という点では、天使のヴィジョンがモノクロで、人間になるとカラーというのも非常に効果的。さらに、天使のモノクロのヴィジョンも微妙に差があるというところが巧妙なところだろう。カシエルのヴィジョンは一貫して白と黒なのに、ダミエルのヴィジョンはセピア色だったり、微妙に色がついていたりする。
 このような画が作り出せるのは、画面の隅々まで作りこまれているからだろう。建物の壁や天井、小物にいたるまですべてをおろそかにしない精神。この精神はヴェンダースが小津安次郎から学んだものだろう。映画の最後に「すべてのかつて天使だった人たちにささげる、特に安次郎とフランソワに」と言及してもいた。

シラノ・ド・ベルジュラック

Cyrano de Bergerac
1990年,フランス=ハンガリー,139分
監督:ジャン・ポール・ラプノー
原作:エドモン・ロスタン
脚本:ジャン・ポール・ラプノー
撮影:ピエール・ロム
音楽:ジャン・クロード・プティ
出演:ジェラール・ドパルドュー、アンヌ・ブロシェ、バンサン・ペレ-ズ、ジャック・ベベール

 詩人で、剣の腕にも長けているが、自分の鼻をコンプレックスに持つ男シラノはひそかに従妹のロクサーヌに恋心を寄せていた。しかし、ロクサーヌは美少年クリスチャンに思いを寄せていた。シラノはふたりを結びつけるため、自分を犠牲にすることに決め、クリスチャンのためにロクサーヌへの恋文を書くことを引き受ける。エドモン・ロスタンの古典的戯曲を忠実に映画化した恋愛映画の古典。泣きたい人にもお勧め。 

 監督が言う通り、ドパルドューはこの役にぴったり。ただでさえ特徴のある鼻をさらに高くして味のある演技を見せる。この映画で何よりも感心するのは、セリフ。フランス語なので意味はわからないけど、響きが美しく、掛け合いのリズムも心地よい。こんな映画を見ているとやっぱりフランス語ってかっこいいと思ってしまう(実際はそうでもないんだろうけど)。
 シラノ・ド・ベルジュラックは本当に数え切れないくらい映画化されているが、なんといっても思い出されるのは、スティーブ・マーティンの「いとしのロクサーヌ」(やっぱコメディか)。シラノ・ド・ベルジュラックを現代を舞台としてアレンジし、コメディに仕上げたスティーブ・マーティンの手腕はさすが(ちなみにスティーブ・マーティンが製作総指揮・脚本・主演している)。
 という、余談はおいておいて、この映画は恋愛映画の古典といわれるだけあって単純なストーリーながら、何度みてもついつい引き込まれ、クリスチャンの気持ち、シラノの気持ち、ロクサーヌの気持ち、3人ともの切ない、やりきれない気持ちが伝わってきて感動せずにいられない。

父/パードレ・パドローネ

Padre Padrone 
1977年,イタリア,113分
監督:パオロ・タヴィアーニ、ヴィットリオ・タヴィアーニ
原作:カヴィノ・レッダ
脚本:パオロ・タヴィアーニ、ヴィットリオ・タヴィアーニ
撮影:マリオ・マシーニ
音楽:エジスト・マッキ
出演:オメロ・アントヌッティ、サヴェリオ・マルコーネ、ナンニ・モレッティ

 イタリア南部の島サルディニア、授業中突然父に教室から連れ出された少年カビーノは人里はなれた山小屋にこもって羊解になる修行をさせられる。人との接触もなく育った彼がいかに社会とそして父と関わっていくのか?
 グッドモーニング・バビロンと並んでタヴィアーニ兄弟の代表作とされる作品。サルディニアの荒涼とした風景のえもいわれぬ美しさと父と子という普遍的なテーマを描ききった物語が心を打つ。 

 この物語の最大の主題はもちろん父と息子の関係だけれど、この映画でもうひとつ重要な要素となっているのは「音」だろう。カビーノは音に対する感覚が鋭い。軍楽隊のアコーディオンに魅せられて以来音楽に対して執着をみせているし、映画の中でたびたび背景音として入り込んで来るざわめきはカビーノの捉えた世界の音であるのだろう。厳しい冬の終わりを告げる鳥の声、そして方言と言語学、ひたすら音にこだわってゆく主人公は何から逃れようとしていたのか?単純に父からだろうか?
 物語はそれほど単純ではなく、彼の島から逃げ出したいという気持ちは必ずしも父から逃げだしたいという気持ちとはイコールではなかったような気がする。荒涼な風景の中にも豊かな音の世界があり、厳しく権威的な父の中にもやさしい心がある。最後にカビートの頭をなでようとして止めた父の手に、この物語は収斂されていくのだろう。 
 そのように考えると、父親役のオメロ・アントヌッティの魅力があってはじめて成り立ちえた映画なのかもしれない。