軍事演習

Manoeuvre
1979年,アメリカ,115分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイビー

 毎年行われているNATOの合同軍事演習。今回は西ドイツで、米軍も参加して行われた。ワイズマンは米軍の一部隊に、米国出発から従軍し、一部始終を記録する。
 機銃を持ち、戦車を繰ってはいるが、あくまでも演習に過ぎず、兵士たちの間に緊迫感はない。ワイズマンが描き出すのは、そんな戦争のようで戦争ではない緩やかな空気。日常生活に突如闖入した戦争のようなもの。
 ずんずんと突き刺さり、眉間にしわを寄せざるを得ないような難しさはないけれど、これもワイズマンのひとつの方法であると感じる。

 全編から伝わってくるのは、これが壮大な「戦争ごっこ」でしかないということ。音を出して臨場感を高めるために戦車にすえつけられたダイナマイト、それを操る兵士たちにまったく緊張感はない。
 ワイズ漫画監督官(コントローラー)という役割の人々を特に映画の中盤以降執拗に追うのは、彼らこそがこの戦争ごっこの体現者であるからだ。彼らは文字通り鼓の戦争をコントロールし、笑いながら互いの戦果をそして被害を操作する。もちろんいく人かの人間にコントロールしうる戦争など戦争ではなく、それはルールに従って指揮官たちが戦果を上げようと争うゲームに過ぎない。兵士たちはそれを察して、自由気ままに振舞う。ワイズマンの撮影班はひとつの中隊につくが、そこで真剣なまなざしでこの演習に望んでいるのは中隊長である大尉だけで、兵士たちは気ままに雑談をし、除隊までの日にちを数える。
 戦場のようなところであるにもかかわらず、亡霊のように子供たちがいる。ワイズマンは明らかに意図的に彼らの姿を何度も捉える。兵士たちが彼らを気にも留めないというある種異様な光景。それもやはりこの演習が毒にも薬にもならない戦争ごっこに過ぎないということをあらわしている。

 そんなどうにもならない戦争ごっこをワイズマンが撮り続けるのはなぜなのか。ただこのくだらなさを伝えるためだけなのか。わたしが注目するのは(それはつまりワイズマンが注目させるということだが)演習が行われる土地の人々と、その土地自体である。アメリカ軍にはドイツ語をしゃべれるものすらいない。アメリカ軍の兵士たちも土地の人々と積極的に係わり合い、あるいはか係わり合わざるを得ない場合もあるが、アメリカ軍が交渉できるのは英語をしゃべれるドイツ人ばかりである。そして彼らはそんなドイツ人たちと交流し、アメリカがドイツ人に好かれているらしいと考えて満足する。英語をしゃべれず、彼らの通行を拒否するドイツ人の男は、彼らにとってはわけのわからないことを言うドイツ人に過ぎない。決まりがあるから、彼の権利を尊重しはするが、それはしぶしぶであり、明らかに納得してはいない。
 このようなワイズマンの描き方の裏には、根本的なアメリカに対する不信感があるのだろう。不信感というのは、私自身の気持ちの反映に過ぎないかもしれないが、少なくとも「アメリカ万歳」と唱えるアメリカ人とは明らかに国に対するスタンスが異なる。

 なんともだらだらとして張り合いのない映画だけれど、そのメリハリのなさにワイズマンのそんなメッセージが込められている気がする。将校と兵士、軍隊と市民、そのそれぞれのちぐはぐな感じ、ヨーロッパでアメリカ軍がヨーロッパ軍を敵として戦うという違和感、それはワイズマンがこのアメリカ軍に感じているちぐはぐさや違和感の表れなのではないだろうか。

チチカット・フォーリーズ

Titicut Follies
1967年,アメリカ,84分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・マーシャル

 ウォーターブリッジ矯正院では、収監者たちによる学芸会が行われている。踊り、唄を歌う彼らの表情はうつろだ。
 ワイズマンは矯正院の中で彼らをとる。収監者たちと看守たち。食事を取ることを拒否し、チューブで鼻から栄養を入れられるもの、自分は精神病ではないと強固に主張するもの、誰からかまわず演説をぶつもの、彼らを映しながら、ワイズマンは誰の見方でもない。
 ワイズマンの長編デビュー作は、ワイズマンにしてはカメラを意識させるような撮り方だが、基本的なスタンスはすでに出来上がっている。この映画は収監者のプライバシー保護という理由で上映禁止とされ、24年後、最後に断り書きを入れるという条件付で上映禁止が解かれた作品。

 ワイズマンらしくないというのか、まだ固まっていないというような点が2点ある。
 1点はカメラの存在。ワイズマンの映画は極限までカメラの存在感を消し、そのことによって観客と映画を接近させる。われわれはスクリーンの中に透明人間のように存在し、観客の特権性という意味では劇映画と変わらないように映画の中に存在することができる。
 ところがこの映画では、時折被写体となる習慣者たちがカメラを凝視する。つまり、観客であるわれわれが凝視される。看守同士が監房の扉を開けるときの会話のシーンでもわれわれは看守仲間の一人であるように視線を注がれ、言葉をかけられる(実際に言葉を投げかけられるわけではないが)。そのとき、われわれは透明人間ではなくなり、視線の特権性を奪われてしまう。
 それ自体に問題はないはずだ。ワイズマンだってそのような映画を撮っていいはずだ。問題なのは、にもかかわらずカメラは特権的であるかのように振舞うということだ。見られているのに透明人間であるような不利をする。そこには他のワイズマンの映画にはない居心地の悪さがある。

 2点目は映画全体の構造である。この映画は矯正院の学芸会(と勝手に呼ぶ)とともに始まる。これ自体は問題はない。それは矯正院の行事の一つであり、院の活動、あるいは実態を描く上で効果的なものであるといえる。そこに参加する収監者たちと看守たち(特に院長と思われる人)の表情の違いは、何か言葉にならぬメッセージをわれわれに発する。
 しかし、この映画がその学芸会の閉幕とともに終わるというのはどうだろうか。このことによってこの映画は学芸会と等価のものとなってしまう、というと言いすぎかもしれないが、少なくとも、この映画がひとつの見世物であるという印象を残してしまう。施設の内部に入り込んだ冷静なレポートではなく、施設のひとつのスピーチになってしまう。
 この映画は学芸会と同じく、矯正院のひとつのプレゼンテーションに過ぎないということになりはしないだろうか? 観客は見ていたのではなく見せられていたということになりはしないだろうか?
 今、この作品を見るわれわれはワイズマンのスタンスを理解し、ワイズマンがそのようなスポークスマンとして映画を作っているわけではないことを知っているから、そのように思いはしないが、当時一人の新人ドキュメンタリストの作品に過ぎないものを見た当時の観客たちにこそ、強く感じられたはずではなかろうか? 

福祉

Welfare
1975年,アメリカ,167分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ウィリアム・ブレイン

 ポラロイド写真で次々と写真をとられる人々。おそらく、福祉を受け取るための身分証を作るのだろう。福祉センターにはたくさんの人がやってくる。そしてたくさんの人が待っている。職員たちはきびきびと働いているが、それでもやってくる人たちとの間に衝突は絶えない。役所ならどこでもありそうな風景だがどこか違う。そんな福祉センターと、その人々を映した作品。

 官僚主義的な役人たちとそれに振り回される貧しい人々、という構図がそこに浮かんでくるのだろうと予想して見る。それは福祉センターが舞台となる以上容易に予想できることだ。
 しかし、実際底に現れるのは、激昂し、だまし、何とかしてお金を得ようとする人々。自分の権利を強固に主張し、役人たちを批判する人々だ。もちろん、福祉を受けるのは彼らの権利であり、それを主張するのはかまわないはずだ。しかし、その感覚がなかなか理解できないのは日本人だからだろうか? そんな違和感を抱えたままみると、彼らはなんともエゴイスティックであるように見えてしまう。
 そのように見えてしまうのは、必ずしも受け手だけの問題ではなく、ワイズマンの作り方にも原因があるだろう。この映画に登場する福祉局の役人たちは基本的に忠実に仕事をこなし、むしろ親身になってやってくる人たちのために力を注いでいるように見える。つまり、そこに登場する人々の誰もが間違ってはおらず、非難を浴びるいわれもない。そんなカレラを反目させるのは、制度であり政府であるのだ。そこにワイズマンの力点があるような気がする。
 途中で登場するヒスパニック系のおばあさんは、ひたすらスペイン語でがなりたてる。字幕もないし、基本的には何を言っているのかわからないけれど、何度も「gobierno」という言葉を口にする。それはスペン語で政府という意味で、どのような文脈で発せられたかはわからないが、何らかの形で政府を非難していることは確かだろう。
 ワイズマンがこの老婆を、そしてこのセリフを生かしたのはなぜだろうか?ひとつは黒人女性との話しに傍若無人に割り込んでくる老婆の面白さがあるだろうが、この意味としては比較的とりにくい(アメリカ人のどれくらいがスペイン語を理解するのかわからないけれど)言葉による直接的な批判をあえて残したというのもあるのではないだろうか。

 最後に登場する男性、哲学的、あるいは文学的なことをしゃべりながらも、その発言はどこか狂人じみたところがある。狂っているというわけではないけれど、貧しく、孤独な人にありがちな(といっては語弊があるかもしれないが)行動。大きな声で独り言を言ったり、相手に通じにくい話をするということ。そんな男性を見て思う。ワイズマンは普通の人々を彼ら自身は強く意識しないままにフィルムという媒体に定着させてしまう。本来ならば誰も聞いていないような、聞いていたとしても数分も経てば忘れ去られてしまうような、その発言を、その文学を半永久的な言葉として残す。
 この人の姿を見て、「この映画はこの人で終わるんだ」と思った。それほどまでに彼はワイズマンの世界にぴたりとはまる。彼をフィルムに残したということ、そこにこそワイズマンの偉大さがあるのかもしれない。

病院

Hospital
1970年,アメリカ,84分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ウィリアム・ブレイン

 映画は外科手術の手技の1シーンから始まる。そのシーンは生々しいが、映画全編は医者と患者の関係性を主に描いていく。病院はメトロポリタン病院。貧しい人々がひっきりなしにやってくる。たくさんの人、アルコール中毒の人、子供、などなど、ワイズマンの冷徹な目は淡々と病院でおこっていることを映すだけだが、そこからは必ず何らかのメッセージが流れ出てくるはずだ。
 ワイズマンとしては4本目の長編作品。TV用の作品として製作されたらしいが、こんなのテレビでやって儲かるんだろうか?

(序)ワイズマン一般

 ナレーション、キャプションをともに排するというのは、ワイズマン作品のすべてに共通する特徴である。主人公も物語りも存在しない映画を見せられる。それでもそこに何らかの一貫性を求めてしまう。ワイズマンのどの映画もそうだけれど、この映画が(100時間にもわたる)膨大なフィルムの中から数パーセントを選び出して作られたものだと知っていれば、その一つ一つのシーンの積み重ねに作者の何らかの意図が存在すると考えたくなるのが道理だ。
 その気持ちに反さず、ワイズマンは無象の雑多なシーンの中から選別と組み合わせを行って、見事にひとつの『映画』を作り出す。

(本編)

 冒頭のシーン、この手術のシーンはこの映画の対象となる「病院」を端的に示すシーンで、それ以上ではない。この映画で主人公となるのは患者たち。始まって程なくして、この病院が貧しい地区にある病院(詳しく言うと、ニューヨークのハーレムにあるメトロポリタン病院)だとわかる。そのような病院をワイズマンが選んだのにはわけがあるはずだ。そんなことを考えながら映画を見ていると、浮かび上がってくるのは、すべてが現実だということ。すべてが特別でもなんでもないものだということ。病院とは特別な場所ではなく、医者とは特別な人間ではなく、病気すら特別な状態ではないのかもしれないということ。
 しかし同時に、そのようにすべてが特別なものではないという状態が正常な状態といえるのだろうかという疑問も頭をもたげる。日常的であるこのような病気が日常的であるということは、その背後にある問題を意識させずにはおかない。アルコール中毒や麻薬患者がたびたび登場すること、精神科の患者もまた多いことは、アメリカの現実がそもそもの問題であるということを示しているのだろう。肉体的な病気よりむしろ、精神的な部分にこそ病巣があるという状態、それは個人の問題ではなくて社会の問題である。とワイズマンはは言ってはいないだろうか。

 ひとつのケースをとりあえげてみよう。「毒を飲んだ」といって病院にやってくる青年。「メスカリンは前にも飲んだけど違う」とか「公園で丸薬をもらって飲んだ」などといいながら「死にたくない」と叫び続ける。医者は彼の毒を飲んだという主張が真実ではないと判断し、彼が納得するように一通りの胃洗浄をして、精神科に引き渡そうとする。青年は精神科医がやってくるまでの間も「死にたくない、死にたくない」といいながら、またも大量に嘔吐する。
 彼の肉体の反応は「死にたくない」という発言とは裏腹に生を拒否するような反応だ。死にたくないという彼の意思と生きたくないと言う彼の体、病んでいるのはもちろん彼の心なのだけれど、この病み方こそがアメリカの抱える問題なのだという気がした。
(それは30年以上たった今でも変わっていないだろうし、むしろその病理は世界に広がっているのかもしれない)

戦争の記憶

Kippur : War Memories
1994年,イスラエル,104分
監督:アモス・ギタイ
撮影:エマヌエル・アルデマ、オフェル・コーエン
音楽:ジーモン・シュトックハウゼン、マルクス・シュトックハウゼン
出演:アモス・ギタイ

 アモス・ギタイはヨム・キプール戦争(第4次中東戦争)に参加した際、8ミリカメラを持参し、兵士の救援へと向かうヘリコプターから撮影を行った。その撮影されたフィルムと、当時ともにヘリコプターに乗っていた仲間との戦場への旅、戦死してしまった当時の副操縦士の家族へのインタビューなどを通して、当時を振り返る。
 2000年に制作された劇映画『キプールの記憶』のもとになった作品。

 ヘリコプターの操縦士が当時を振り返って、「あの記憶は一種のトラウマになっている」と言う。心理学的な意味のトラウマとは少し違うかもしれないが、その意味が消化できない記憶であることは確かだろう。その記憶は他に類を見ないくらい強烈な記憶であるにもかかわらず、その記憶は自分の頭の中で収まるべきところを見つけられない。他の記憶と折り合いがつかないそのような記憶として頭の中にある。アモス・ギタイ自身も他の戦友たちもそのことを明言することはないけれど、それが強烈な記憶であり、忘れたくても忘れられないものであることは明らかだ。
 この映画は2部構成になっているが、前半部では、その記憶の整理が行われる。その細部がそれぞれに異なっている記憶をすり合わせていく。別にひとつの正当な見解を合意として打ち出していくわけではないが、他の人の異なった記憶を聞いているうちに、その記憶が、おそらく映像とともに蘇り(挿入されるギタイの撮影した白黒の8ミリフィルムはその記憶のフラッシュバックを象徴しているような気がする)、ばらばらな悲惨な記憶としてではなく、ひとつの記憶のブロックとして認識できるようになる。これはその記憶を自分の頭の中で消化し、収まりをつけるための第一歩になるのだろう。副操縦士の遺族に会うということも、その記憶が決して現在と断絶したものではなく、今につながるひとつの現実であうということを再認識させる。これもまた記憶の消化の一助となるだろう。
 後半部ではともに戦場へと赴き、戦場でもともに行動した親友ウッズィとの語らいになる。『キプールの記憶』によれば、二人は近所に住んでおり、もともと下士官であり、戦争が始まると聞くや否や焦燥感に駆られて車を飛ばして部隊に向かったが、本来の部隊にたどり着くことができず、ちょうど作戦行動を行おうとしていた救援部隊に参加することになったと言うものであった。この映画の話の断片から判断するとその流れはほとんど事実であると言っていいのだろう。そのような親友との語らいはギタイが実際に自らのトラウマを溶かしていく場だ。親友の話を聞くという設定でありながら、ギタイ自らが被写体となり、徐々にギタイの語りが中心になっていく。これは偶発的な出来事と言うよりはギタイ流の映画的作為という気がするが、それが作為であろうと偶発的な出来事であろうと、そのアモスの語りがアモス自身の記憶の再構成の過程であることに変わりはない。
 個人的なトラウマとして戦争を忘れたいと言うウッズィに対し、アモスはカメラを使うことで個人的な観点を超えた形で戦争を考えたいと語る。「なぜ自分たちは生き残ったのか」そんな重い疑問をアモスは投げかける。個人的な痛みと、映画監督を選択したことによる使命、その両方を自覚しながらアモス・ギタイは揺れ動き、親友との対話を終える。そこに答えはなく、親友に「しっかり映画を撮ってくれ」と励まされるのだった。その親友の励ましへの答えとしてアモス・ギタイは『キプールの記憶』を撮ったのだろう。そして、この作品は「戦争3部作」の第1作として構想されている。今後2作を通してパレスティナ紛争の全貌を整理して提示するのだろう。それは個人的な記憶の消化の作業でもある。

エルサレムの家

A House in Jerusalem
1998年,フランス=イスラエル,89分
監督:アモス・ギタイ
撮影:ヌリット・アヴィヴ

 1980年、”Bayit”(『家』)という作品で取材した東エルサレムにある家に再びやってきたギタイはその家とその家があるドルドルヴェドルシェヴ通りに今住むイスラエル人の人たちや、本来の所有者であったが追い出され、別の場所に住んでいるアラブ系の人たちへの取材を通して双方の関係を描き出す。
 ドキュメンタリーといいながら、どこか作りものじみた印象がある映画。もちろん「ドキュメンタリーだ」と宣言しているわけではないし、ドキュメンタリーであっても、作り物であってもかまわないのですが…

 主役といえるアラブ人の親子。下もとその「家」の所有者で、その父親がギタイの『家』に出ていたというアラブ人親子は英語で話し、カナダ国籍をとったという。彼らはイスラエルのアラブ人で、それは国籍がないということを意味する。彼らはカナダ国籍をとれたことはラッキーだったと語る。そんな父親は病院を経営しているらしい。この父娘の話は見ているものの心にすっと入ってくる。彼らはその土地に愛着を持ち、ユダヤ人を敵視してなどはいない。ともに生きられればいいのにと望みながら、その選択を誤ったアラブ人の過去を非難したりする。
 それに対して、ドルドルヴェドルシェヴ通りに住むイスラエル人たちはスイス出身であったり、ベルギー出身であったりする。しかも、彼らはイスラエルを住みよい国だという。しかし、ヘブライ語は話さず、自分自身の言語は捨てない。ギタイがたずねる「ドルドルヴェドルシェヴ通りの意味」についても、人から聞いたあやふやな話をするだけで、明確な答えは提示できない。
 発掘作業場が出てくる。そこにはアメリカから来たというユダヤ人の若い女性と、アラブ人の労働者がいる。ユダヤ人の女性はそこで働いているのではなく、祭礼浴をしていた。彼女は「ユダヤ人もアラブ人も土地を奪われた犠牲者だ」というようなことを言う。
 このようなことでわたしの心に浮かぶのは、ユダヤ人に対する反発だ。それは多くのユダヤ人が自らの立場に意識的ではなく、あるいは無知であるということだ。自らの加害者性を意識することなく安穏と生きているように見える。そこに憤りを覚えずにはいられない。
 イスラエル人であるギタイはここで何を語ろうとしているのか。彼は明確なメッセージを語ろうとはしない。暴力化するイスラエルを危惧する場面はある。おそらく彼はイスラエルが抱える二重性に注目しているのだろう。本来住むべきである家を奪われたアラブ人と現在そこに住んでいるイスラエル人との対比によって、娘が西エルサレムでアラビア語で話すことの怖さによって、エルサレムという都市とイスラエルという国家の二重性を明らかにするのだろう。

阿賀に生きる

1992年,日本,115分
監督:佐藤真
撮影:小林茂
音楽:経麻朗
出演:阿賀野川沿いに住む人々

 新潟県を流れる阿賀野川。沿岸に住む人は愛情を込めて「阿賀」と呼ぶ。佐藤真はスタッフとともにこの阿賀沿いに3年間にわたってキャンプを張り、そこに生きる人たちを撮影した。昭和電工の垂れ流す有機水銀によって引き起こされた新潟水俣病の問題もひとつの焦点となる。
 ドキュメンタリーとはかくありなん。というストレートなドキュメンタリーだが、完成度はかなりのもの。

 ドキュメンタリーを撮るというと、常に問題になってくるのは相手との距離感。それを克服するひとつの方法は時間だ。佐藤真とスタッフは3年間という時間によって阿賀の人たちとの距離感をつめていった。住み着いた初期のエピソードは語られはするもののおそらくあまり使われてはいないだろう。それよりも阿賀の人たちが彼らに慣れ、カメラに慣れて初めて使える映像が撮れるということなのだろう。
 この映画は新潟水俣病の未認定患者という問題はもちろん、他にも主に過疎がもたらすこの地方の問題を提示する。しかし、それを眉間にしわを寄せてみるようなシリアスなものに仕上げるのではなく、生活のほうからその生活に含まれるものとしてあらゆる問題を描く。このあたりがジャーナリズム的な問題の捉え方とは違うところだろう。それを可能にしたのもやはり「時間」だ。
 そして映画としても、しっかりと計算されている。最初のほう、つつが虫除けのお祈りをするシーンで、最初カートを押すおばあさんが映り、右のほうからなにやら祈る音が聞こえる。おばあさんから右にスーッとパンしていくと祈っている光景が映り、字幕で「つつが虫除けのお祈り」と入る。そこからもう一度、左にゆっくりパンするとおばあさんがちょうどついたところで、その祈りの輪に入る。この1カットの描写がとてもいい。他にも風景も非常に美しく捉えられ、ひとつの魅力となる。
 もちろん、被写体となる阿賀の人たちの魅力こそがこの映画の最大の魅力であることは確かだ。船大工の遠藤さんの舟を見つめる目や、長谷川さんが鈎流しをやる時の目は実にさまざまなことを物語る。いくらナレーションしても足りない言葉をその目は語りかけてくる。
 3年間の映像を120分にまとめる。ドキュメンタリーとはそんなものだといってしまえばそれまでだが、この映画を見ていると、その血のにじむような作業で落とされていったフィルムの存在も感じられる。それだけ研ぎ澄まされた、無駄のない編集。「ドキュメンタリー映画の監督っていったい何をするんだ?」と思ってしまうものですが、編集をはじめとしてこの映画はかなり監督の力量が反映されているのではないかと思いました。

Jazz seen/カメラが聴いたジャズ

Jazz Seen: The Life and Times of William Claxton
2001年,ドイツ,80分
監督:ジュリアン・ベネディクト
脚本:ジュリアン・ベネディクト
撮影:ウィリアム・クレサー
出演:ウィリアム・クラクストン、ペギー・モフィット

 ウェスト・コースと・ジャズのジャケットをはじめとしたアーティスト写真に加えファッション写真でも名を上げた写真家のウィリアム・クラクストン。彼の半生をインタビューに再現ドラマを加えて語る。
 モデルであり、パートナーであるペギー・モフィットに加え、デニス・ホッパー、カサンドラ・ウィルソン、ヘルムート・ニュートン、バーと・バカラックなどが登場し、クラックストンについて、あるいはクラクストンと語る。

 ドキュメンタリーらしいドキュメンタリーというか、しゃれた「知ってるつもり」というか、そんなものです。「知ってるつもり」にしてはセンスもよく、出てくる人たちもものすごいということですが、基本的なスタンスは変わりません。なんといっても再現ドラマを使うというところがなんだかTV番組っぽい。別にTV番組っぽくて悪いということはありませんが、あの再現ドラマは本当に必要だったのか?という疑問は残ります。
 監督のジュリアン・ベネディクトは『BLUE NOTE/ハート・オブ・モダン・ジャズ』というジャズ・ドキュメンタリーを撮っているだけに、おそらくクラクストンに共感を感じているのでしょう。彼の作品を撮影する仕方は非常にいい。劇中でも述べられているようにクラクストンの写真の構図は非常にすばらしいのですが、その構図の美しさをうまくフィルムにのせている。
 まあしかし、ドキュメンタリー映画というよりはやはり教養番組ととらえたほうがいいんでしょうね。ジャズと写真というなんだかしゃれた教養を身につけた大人のための(あるいは大人になるための)教養番組という感じ。教養番組も面白くないと身につかないので、面白さは必要。この映画を見ていると、クラクストンにも興味がわくし、写真にも興味がわくし、ジャズにも興味がわく。ということで、とてもよい教養番組だということでしょう。
 ヘルムート・ニュートンとの写真の専門的な話とか、4×5のカメラとか、35ミリのフィルムとか、専門的な話もあるのですが、そこを下手に解説しないところがいい。そのわからなさがなんだか味わいでもあるという気がします。

スペシャリスト・自覚なき殺戮者

Un Specialiste
1999年,フランス=ドイツ=ベルギー=オーストリア=イスラエル,128分
監督:エイアル・シヴァン
脚本:エイアル・シヴァン、ロニー・ブローマン
撮影:レオ・ハーウィッツ
音楽:ニコラス・ベッカー、オードリー・モーリオン
出演:アドルフ・アイヒマン

 何百万人ものユダヤ人を絶滅収容所へと送り込む列車の運行を管理した男アドルフ・アイヒマン。戦後海外に逃れた彼をイスラエル政府が捉え、裁判の場に引き出した。ここまでは映画以前の物語。映画はただひたすらアイヒマンの裁判の場面を映し出す。40年近くほったらかしになっていたフィルムの掘り起こし。その裁判から見えてくるのはアイヒマンの殺戮者としての側面か、それともただの一人の人間としての側面か。

 とても眠い。それは映画がひたすら裁判所を映し、劇的な変化もなく、編集上の工夫はあるにしても淡々と進むからだ。これは元の映像が裁判の記録であるから仕方がないことだけれど、とにかく淡々と進んでいく。
 まず驚くのは防弾ガラスに守られたアイヒマンの姿。それほどまでに彼がイスラエルで憎悪の対象になっているということだ。
 映画は今までのホロコースト映画と同様にユダヤ人の受難を描くのかと思いきや、そうではないらしい。アイヒマンは無表情で淡々と「自分には権限がなかった」と繰り返す、これに対して検事は感情的に糾弾する。そして数多くの証人に証言を求める。
 問題なのはこの証人たちで、次々と登場するもののアイヒマンの罪状とはあまり関係ない人々ばかりだ。裁判の焦点は検事も言うとおりアイヒマンが虐殺に関与したか否かであるはずなのに、登場する証人たちはその結果の虐殺を生き延びた人々ばかりである。彼らはその悲惨さを語りアイヒマンの非道さを語るけれど、それがアイヒマンの責任の証立てにはならない。
 前半にアイヒマンと会い、交渉したというユダヤ人側の代表が証人台に立つ。彼の語るアイヒマンは単純に有能な官僚であり、ある程度ユダヤ人に理解を示す人物である。
 後半にもそのような人物が証言台に立つ。しかしそのとき傍聴席から「そいつはわれわれを犠牲にして家族を救った」という怒号があがり、裁判長は閉廷を宣言する。
 これらの記録によって何が明らかになったのか。ここから明らかになったのはこの裁判の無意味さ。これはアイヒマンの裁判ではなくイスラエルの裁判だったということ。全く反対尋問をしない弁護士(案件と関係ないのだから反対尋問の仕様がない)、それに対して感情をあらわにまくし立てる検事。彼が求めるのはアイヒマンの罪状を明かすことではなくイスラエルの正当性を明かすことだ。
 どうも話がまとまりませんが、結局のところアイヒマンというのはそれほど重要な人物ではなく、大きな悪を行った装置の部品の一つであるということは明らかで、本当に追求すべきなのはそのような人は果たして有罪でありえるのかということであるはずだ。「悪の凡庸さ」とは誰が言った言葉か忘れてしまいましたが、その凡庸な悪を裁きうるのかどうかということを追求するべきであった。しかしこの裁判が明かそうとしているのはアイヒマンは凡庸ではなかったということであり、凡庸であるアイヒマンを凡庸でないとして断罪してしまった。
 ということはこの映画はあくまで問題を提起しているだけであって、結論ではない。ということ。

イン&アウト・オブ・ファッション

In & Out of Fashion
1993年,フランス,85分
監督:ウィリアム・クライン
撮影:ウィリアム・クライン
音楽:セルジュ・ゲンズブール
出演:イヴ・サンローラン、ジャン=ポール・ゴルティエ

 写真家・映画作家として知られるウィリアム・クライン。彼が自らの写真・映像両方の作品をダイジェストにし、一種の自伝として語った映画。写真よりも映画に重点が置かれ、過去の映画のダイジェストに多くの部分が割かれる。
 全体的なセンスはさすがウィリアム・クラインという雰囲気で、物語ではなくていろいろな断片をコラージュした映像という感じに仕上がっている。

 ウィリアム・クラインの自己紹介映画というところでしょうか。ウィリアム・クラインを知らない人が見るとなんとなくわかる。そして映画が見たくなる。そのような映画です。これまでに撮られた断片が多いので、それぞれへのコメントは控えるとして、全体的にどうかというと、ウィリアム・クラインは常に時代を先取り、自身もそれを自覚し、むしろ自慢にしているということでしょう。自らの67年の作品『ミスター・フリーダム』を評して「10年早かった」というクラインの言葉は紛れもない事実(あるいは、30年くらい早かったのかも)であり、それを自ら言ってしまうところがクラインらしさなのだろうと感じさせます。
 そのような映画なので、わたしはクラインのすごさに納得したのでいいのですが、スノッブで鼻につくという見方ができるのも確か。
 さて、そんな映画で、わたしが引っかかったのは、クレジットの出し方。クレジットの出し方にまでこだわるところがクラインらしく、これまたスノッブな感じでもあり、面白くもある。特にエンドクレジットなどは、多くの映画はただただ字を流して音楽をかぶせるだけ。たまにエピローグ風のものが入る映画があったり、『市民ケーン』のように、ここの人物の映像に文字をかぶせたりすることはあるもののまず監督がやるようなものではないはず。しかしこの映画はエンドロールもあくまでスタイリッシュに、情報を伝えるよりもひとつの映像として表現するという姿勢が明確に出ています。
 エンドロールで面白いといえば、香港映画ではNGシーンがよく使われますが、個人的に一番印象に残っているのは『プリシラ』。ヴァネッサ・ウィリアムスのヒット曲(タイトルは失念)にあわせて、ドラァグ・クイーンがしっとり口パク。このエンドロールは必見です。
 話がすっかり飛んでしまいましたが、今日の映画はウィリアム・クラインでした。