議事堂を梱包する

Dem Deutschen Volke
1996年,フランス,98分
監督:ヴォルフラム・ヒッセン、ヨルク・ダニエル・ヒッセン
撮影:ミッシェル・アモン、アルベール・メイスル、エリック・ターパン、ボルグ・ウィドマー
出演:クリスト・ヤヴェシェフ、ジャンヌ=クロード・デ・ギュボン

 ドイツの旧国会議事堂を巨大な布で梱包しようというプロジェクトを立てたアーティストのクリストとジャンヌ=クロード。まだベルリンの壁が存在し、街が二つに分断されていた頃に企画したこの企画が政治の駆け引きによる紆余曲折を経てついに実現するまでの日々を追ったドキュメンタリー。
 様々な巨大インスタレーションで世界的に有名なアーティストクリスト&ジャンヌ=クロードのライフワークであるだけに、そのすごさは映像からでも伝わってくる。

 「なんだかわからないけれど感動的なもの」、そういうものが世の中にはある。この梱包された議事堂もそのようなものの一つである。映画自体は実現するまでの苦労話というような構成になっているが、われわれは彼らが苦労したことに対して感動するわけではない。梱包された議事堂そのものに分けもなく感動をする。それまでのエピソードは感動を引き伸ばすための時間稼ぎでしかないといっても過言ではない。準備段階を見ることによって完済する作品に対して想像を、期待を膨らませる、そのための時間。そしてその想像を期待を上回る美しさの完成作品を目にした瞬間!
 これが素直な感想ということですが、「映画」のほうに目をやると、映画側がやろうとしたことはかなり社会的なこと。芸術と社会/政治の関係性というものでしょう。映画的なクライマックスは議会でこの問題が話し合われるシーン。「意味がない」、「無駄だ」という意見を声高に叫ぶ議員達こそがこの映画が提示しようとしたもの。社会/政治が芸術に対してとる(ふるい)態度。もちろんこの映画はそんな態度に対して批判的なわけですが、必ずしもそれを否定するのではなく、一つの意見として取り上げることに意味がある。肯定的な態度と否定的な態度の両方が存在しているということこそが重要なのです。
 したがって、アーティストの側としてはいかに社会にコミットしていくか、社会に受け入れられるかという問題が常に存在しているということが見えてきます。「バトル・ロワイヤル」ではないけれど、もっと社会に対して悪影響を与える可能性がある(と思う政治家がいる)芸術の場合にはもっと難しい問題になってくるということ。
 それは、梱包された議事堂に「それぞれのドイツを見る」というジャンヌ=クロードの最後のセリフが含意する複雑な意味にもつながってくるのでしょう。

アメージング・サーフ・ストーリーズ

Amazing Surf Stories
1986年,アメリカ,80分
監督:スコット・ディトリッチ
音楽:イアン・スチュアート、タイ・ウラー、リック・シャープ
出演:ショーン・トムソン、マット・アーチボルド、トム・カレン

 6ヶ所のビーチで波に挑むサーファー達を映したドキュメンタリーフィルム。いわゆる「サーフィン映画」で、特にドラマもなく、エピソードが語られていく。風景やサーフィンしている姿はかなり目を奪うものがあるが、「映画」として見るには少々無理があるかも。しかし、意外といつまで見ていても飽きないのも不思議なところ。

 いわゆるサーフィン映画というのは、実質的にはビデオと同じでメディアとしてとしてフィルムが使われているというだけ。サーフィンというのは相当スピード感のあるものなので、もしかしたら、普通の映画とは違うコマ数で撮っている(普通の映画は毎秒24コマ)のかもしれない(高速度撮影ってやつね)。そうすると、スローモーションなんかは非常にきれいに写るわけですが、結局上映するときは24コマ/秒に戻すわけだから、他の部分はコマを飛ばして使うわけでいっしょになってしまう気もする。どうなんだろう。見た感じでは、他の16ミリの映画より(この映画は16ミリ作品らしい)映像がきれいだったように感じましたが…
 などと答えのわからない技術的な疑問などが浮かんでしまいましたが、サーフィン映画というのは意外と見ていて飽きない。ただ波に乗っているだけなのに、くっとみいってしまう。見ているうちに、それぞれの人の乗り方の違いなんかが分かってくるのも不思議。
 こんなものもたまにはいいかな。

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ

Buena Vista Social Club
1999年,ドイツ=フランス=アメリカ=キューバ,105分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ヴィム・ヴェンダース
撮影:ロビー・ミューラー、リサ・リンスラー、ボルグ・ヴィドマー
音楽:ライ・クーダー
出演:イブラヒム・フェレール、コンパイ・セグンド、エリアデス・オチョ、アライ・クーダー

 1997年、ライ・クーダーがキューバの老演奏家たちに惚れ込んで作成したアルバム「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」は世界中でヒットし、グラミー賞も獲得した。98年、ライ・クーダーはヴェンダースとともに、再びキューバを訪れた。そこで撮った、老演奏家たちのインタビュー、アムステルダムでのライヴの模様、NYカーネギー・ホールでのライヴの模様を収めた半ドキュメンタリー映画。
 これは決してドキュメンタリーではない。一言で言ってしまえば、ライ・クーダーのプロデュースによる、アフロ・キューバン・オールスターズの長編ミュージックビデオ。

 この映画を見て真っ先に思ったのは、これは映画なのか?ドキュメンタリーなのか?ということ。それは、映画orドキュメンタリー?という疑問ではなくて、映画なのか、そうでないのか? ドキュメンタリーなのか、そうでないのか? という二つの疑問。答えは、ともにノー。これは映画でもドキュメンタリーでもない。無理やりカテゴライズするならばミュージックビデオ。ドキュメンタリー映像を取り入れ、映画的手法をふんだんに使ったミュージックビデオ。もちろん、ライヴの場面は実際の映像で、そこだけを取り上げればドキュメンタリーということになるのだけれど、インタビューの部分は決してドキュメンタリーではない。それはやらせという意味ではなく、映画的演出が存分にされているということ。一番顕著なのは、トランペッターの(オマーラ・ポルトゥオンドだったかな?)インタビューに映るところ。前のインタビューをしている隣の部屋に彼はいるのだけれど、彼のところにインタビューが映る瞬間(カットを切らずに、横にパンしてフレームを変える)彼は唐突に演奏をはじめる。しかも部屋の真中に直立不動で。これは明らかに映画的演出。
 もうひとつは、撮り方。この映画で多用されたのが、被写体を中心にして、カメラがその周りを回るという方法。言葉で説明しても伝わりにくいかもしれないけれど、要するに、メリー・ゴー・ラウンドに乗って、カメラを持って、真中にいる人を移している感じ。この撮り方が演奏やレコーディングの場面で多用されていた。これは映像に動きをつけ、音楽とうまくマッチさせる手法ということができる。これはミュージック・ミデオでも見たことがあるような気がするが、この映画では非常に効果的に使われていた。
 何のかのと言っても、結局はおっちゃんたちがかっこいい。ライ・クーダーが惚れたのもよくわかる。一応、映画評なのでごたくを並べただけです。かっこいいよおっちゃん。

ジャム・セッション 菊次郎の夏<公式海賊版>

1999年,日本,93分
監督:篠崎誠
撮影:河津太郎
音楽:久石譲
出演:北野武、候孝賢、「菊次郎の夏」全スタッフ・キャスト

 「菊次郎の夏」の撮影に同行しカメラを回した篠崎誠監督のドキュメンタリー・フィルム。撮影現場の映像に加え、撮影期間中に来たの監督の元を訪れた候孝賢監督と北野監督の対談の様子も収めた。
 いわゆる「北野組」の映画への姿勢、現場の雰囲気などが臨場感を持って伝わってくる作品。監督でありかつ主演でもある北野武(ビートたけし)の現場での活躍もみもの。

 撮影には恐らくデジタルビデオが使われ、そこの実際の映画のフィルム映像がはさみ込まれる。いわゆる「映画撮影の裏側!」的なフィルムとしてではなく、監督北野武とスタッフ・キャストを描いたドキュメンタリーとして撮られているところが素晴らしい。
 作品同様撮影現場にも笑いが溢れているということが伝わってくる。この作品を見ていると、「菊次郎の夏」という映画は映画を見ているより、撮影しているほうが楽しいんじゃないかと思えてくる。それがいいか悪いかは別にして、そんな現場の雰囲気をうまく伝えているところがこのフィルムのいいところ。 
 候孝賢がでてきたり、美術スタッフの奮闘が描かれていたり、マニアには見どころがたくさんという感じですが、やはりメイキング・ビデオという性格上、散漫な感じになってしまっています。仕方がないとはいえ、もっとドラマティックに展開して行くとまた別の面白さがあったのでは、などとも思ってしまいます。

イヤー・オブ・ザ・ホース

Year of the Horse
1997年,アメリカ,107分
監督:ジム・ジャームッシュ
撮影:ジム・ジャームッシュ、L・A・ジョンソン、スティーヴ・オヌスカ、アーサー・ロサト
音楽:ニール・ヤング、クレイジー・ホース
出演:ニール・ヤング、フランク・パンチョ・サンペドロ、ビリー・タルボット、ラルフ・モリー、ジム・ジャームッシュ

 20年以上も活動を続けているバンド、ニール・ヤング・アンド・クレイジー・ホースのドイツでのライブ映像とインタビューでクレイジー・ホースの活動を追うドキュメンタリー。
 自身クレイジー・ホースの大ファンであるジム・ジャームッシュが独特の感性で作ったミュージックビデオといえばいいだろうか? ライブ映像は一曲ずつフルコーラスやるので、ロック好きではない人には少々つらいかもしれない。しかし、ロック好き! という人にはたまらない作品。クレイジー・ホースの痺れるような演奏がとことん聞ける。あるいは、ロックというものに興味がなかった人(最近は、そんな人もあまりいないか)もこの映画を見れば、その力に圧倒されるかもしれない。
 ジム・ジャームッシュらしさもそこここに見られ、特に映像(ライブ以外の部分)に注目すれば、ジャームッシュの映画と実感できる。 

 まず、最初に誰もいないインタビュールーム(といってもこ汚い部屋)が映った時点で、「あ、ジャームッシュ」と思わせるほどジャームッシュの映像は独特だ。この部屋のような空間の多いものの配置がいかにもジャームッシュらしい。今回は、編集が「デッド・マン」などで組んだジェイ・ラビノウィッツであるというのも、ジャームッシュらしさが感じられる一因であるのだろう。
 それはさておき、ニール・ヤングとクレイジー・ホースがとにかくかっこいい。このギターおやじたちは何者だ? と思った方も多いかと思いますので、私の浅い知識で解説。ニール・ヤングといえば、いわずと知れた伝説のギタリスト。恐らく60年代から、バッファロー・スプリングフィールドに参加、その後CSNY(クロスビー・ステルス・ナッシュ・アンド・ヤング)に少し参加。あとはソロで活動したり、いろいろな人の横でギターを弾いたりしている人。ジャームッシュとの関係で言えば、「デッド・マン」で音楽を担当。クレイジー・ホースについては私も映画以上の知識はないんですが、ニール・ヤング単体の音と比較した場合、クレイジー・ホースのほうが明らかに轟音ですね。とにかく、一つのバンドに長くいることのないニール・ヤングが20年以上も活動しているということを考えると、これこそがニール・ヤングのバンドなのでしょう。
 とにかく、ジャームッシュがファンだということは伝わる。彼等の魅力を自分なりに伝えようと躍起になっている感じ。そのため、ライブの音は同時録音ではなく、別どりにしたらしい。音へのこだわり。
 この映画はトリップできるよ。特に大きなスクリーンで見ると。ざらついた映像とギターの轟音が体に突き刺さってきて、からだ全体を揺さぶられる。 

東京画

Tokyo-ga
1985年,西ドイツ=アメリカ,93分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ヴィム・ヴェンダース
撮影:エド・ラッハマン
音楽:ローリー・ベッチガンド、ミーシュ・マルセー、チコ・ロイ・オルテガ
出演:笠智衆、厚田雄春、ヴェルナー・ヘルツォーク

 小津安二郎ファンであるヴィム・ヴェンダースが小津へのオマージュとして作った作品。笠智衆や小津作品の撮影監督である厚田雄春を訪ねながら東京を旅する、ヴェンダースの旅日記風ドキュメンタリー。
 小津の「東京物語」のなかの30年代の東京と、現在(80年代)の東京を対照させて描く。パチンコ屋や夜の新宿など私たちには馴染み深い風景がでてくる。素晴らしいのはヴェンダースのモノローグ。この映画、実は東京を背景画にしたヴェンダースの独り言かもしれない。 

 現代の東京と小津の東京を比べて、「失われたもの」を嘆くのを見ると我々は「またか」と思う。ノスタルジーあるいはオリエンタリズム。文化的なコロニアリズムを発揮した西洋人たちが、自らが破壊した文化の喪失を嘆くノスタルジーあるいはオリエンタリズム。ヴェンダースでもそのような視点から逃れられないのか!と憤りを感じる。
 しかし、ヴェンダースはそのようなことは忘れて(自己批判的に排除したわけではない)、もっと自分のみにひきつけて「東京」を語ってゆく。二人の日本人へのインタビュー、モノローグ。ヴェンダースのモノローグは文学的で面白い。完全にブラックアウトの画面でモノローグというところもあった。字幕で見ると、それほどショッキングではないけれど、まったくの黒い画面で言葉だけ流れるというのはかなりショッキングであるはずだ。このたびはヴェンダースの自身と映画を見つめなおすたびだったのだろう。ヴェンダースがもっとも映画的と評する小津の手法に習いながら、映画的ではないドキュメンタリーを撮る。それが面白くなってしまうのだから、さすがはヴェンダース。 

セルロイド・クローゼット

The Celluloid Closet
1995年,アメリカ,104分
監督:ロブ・エプスタイン、ジェフリー・フリードマン
原作:ヴィットー・ルッソ
脚本:ロバート・エプスタイン、ジェフリー・フリードマン、アーミステッド・モービン、シャロン・ウッド
撮影:ナンシー・シュライバー
音楽:カーター・バーウェル
出演:トニー・カーティス、ウーピー・ゴールドバーグ、トム・ハンクス、スーザン・サランドン、リリー・トムソン(ナレーション)

 ゲイやレズビアンを扱った映画の歴史をヴィトー・ルッソの原作を元に映画化。古い映画の映像を見せるとともに、実際にカミングアウトした映画関係者や同性愛者の役を演じた役者のインタヴューを豊富に集めた。対象をアメリカ映画に限定しているため、話はわかりやすくまとまっている。ドキュメンタリーとしてはそれほど優れたものとは思えないが、知らなかったことを実感をもって知るためには役に立つ。1995年頃はゲイやレズビアンの映画がムーヴメントとして盛んだった頃なので、こういった映画も作られたのだろう。
 パゾリーニなどヨーロッパに関係することは対象からはずされているのが残念。
 映画のからくりといえるものは特にありません。ハリウッド映画史の勉強にはなります。20・30年代には検閲が強化されていたということで思い出したのが、何の映画だったか、有名な映画だったはずですが、男女がひとつのベットで寝る時に、間にシーツをたらして敷居にしていた場面。その頃はベットシーンというものが禁止されていたために、そのような工夫がされたんだという話を聞いたことを思い出しました。何の映画だったっけかなぁ… 

ピカソ-天才の秘密

Le Mystere Picasso 
1956年,フランス,78分
監督:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー
脚本:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー、パブロ・ピカソ
撮影:クロード・ルノワール
音楽:ジョルジュ・オーリック
出演:パブロ・ピカソ、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー、クロード・ルノワール

 パブロ・ピカソが絵を描く、筆の走りをスクリーンの裏側から取ったドキュメンタリー。徹頭徹尾ピカソの創作が映され、他のものは一切ない。天才の絵の描き方というのが以下に理解しがたいものかということが納得できてしまう秀作。
 名監督:アンリ=ジョルジュ・クルーゾーと名カメラマン:クロード・ルノワールもちょこっと画面に顔を出す。

エグザイル・イン・サラエヴォ

2000/3/11
Exile in Sarajevo
1997年,オーストラリア,91分
監督:タヒア・カンビス、アルマ・シャバーズ
撮影:ロマン・バスカ、タヒア・カンビス、アルマ・シャバーズ
出演:サラエヴォの住人たち

 オーストラリアに住むカンビア監督が、戦火の母の故郷サラエヴォへ、亡命者(エグザイル:Exile)としてビデオカメラを持って入る。そこに待ち受けていたのはCNNやBBCが伝えるサラエヴォとは異質なものであった。彼はそこでさまざまな人々に出会い、この戦争の意味をこの戦争に巻き込まれた人々の気持ちを徐々に理解してゆく。そして母の姿も。
 この映画は戦争に対するプロテストとしてみることもできるし、戦争という危機的な状況の中で力強く生きる人々の生活を描いたドラマとしてみることもできるし、家族を主題にした物語としてみることもできるし、恋愛ドラマとしてみることもできる。
 とにかく、傑作。
 決して押し付けがましくないドキュメンタリー。

 単に、戦争の悲惨さや虐殺の残忍さを訴えるのではなく、一方的な視点にとらわれることの恐ろしさを抉り出そうとする。この映画は被害者の一方的な視点にとどまらないテーマ性を持ち、フィクションにも劣らないドラマ性を持つ。
 われわれはNATOの空爆についてニュースで知り、それについて賛否両論投げかけたけれど、実際、NATOというものがボスニアにおいてどのような存在であったのかということは、この映画を見るまでわからなかった。さも、正義の味方であるかのような顔をして世界に鎮座する国連が、決して常に正義の味方ではありえないことも思い知らされた。
 そして、この映画がさらに素晴らしいのは、そのような戦争に押しつぶされずに生きつづける人々を描き出していること。タヒアとアルマ画徐々に惹かれあっていく姿も、爆弾の餌食になってしまう少女ニルバナの姿も、精神的傷を負いながら絵日記を書き綴る少女アミラの姿も、等しく美しい。
  こんな映画に出会えてよかった。この映画はドキュメンタリーという姿をとり、実際にドキュメンタリー・フィルムではあるが、その内容はフィクションよりもドラマティックである。ドキュメンタリーの本質がそのようなものだとは思わないが、フィクションと同じドラマを孕むドキュメンタリーはやはりフィクションより感動的であるということを認識させる。

メタル&メランコリー

2000/3/11
Metaal en melancholie
1993年,オランダ,80分
監督:エディ・ホニグマン
脚本:ピーター・デルピー、エディ・ホニグマン
撮影:ステフ・ティジンク
出演:ペルーのタクシー運転手たち

 ペルーの首都リマで、タクシー運転手をする人々を取材したドキュメンタリー。ドキュメンタリーというよりは、エピゾードの集成。彼らは本職の運転手ではなく、俳優だったり、教師だったりする。経済的理由によって、副業として運転手をせざるを得ないのだ。
 日本人から見れば彼らタクシードライバーは皆、ひどい生活をしているのだけれど、そこに悲惨さはなく、陽気ささえ感じられる。私はそれをラテン気質とは言いたくない。ラテンアメリカという地域を「ラテン」という言葉でくくってしまうことは簡単だけれど、適切ではないと思う。それをこのドキュメンタリーは語ってくれる。
 決して安っぽいヒューマニズムに陥ることもなく、笑いをちりばめ、タクシードライバーたちの生活を描く描き方は、「これが本当のペルーだ!」と感じさせてくれる力があり、見てて飽きることがなかった。