メトロポリス<リマスター版>

Metropolis
1984年,アメリカ,90分
監督:フリッツ・ラング
脚本:テア・ファン・ハルボウ、フリッツ・ラング
撮影:カール・フロイント、ギュンター・リター
音楽:ジョルジオ・モロダー
出演:アルフレート・アーベル、ブリギッテ・ヘルム、グスタフ・フレーリッヒ、フリッツ・ラスプ

 地下で機械的な労働をする大量の労働者達を尻目に繁栄を誇る巨大都市メトロポリス。そのメトロポリスを治めるアーベルの息子フレーリッヒは地上で見かけた労働者の娘マリアを追って地下に降り、労働者の過酷な現実を目にする。
 ロボットのようにエレベータに向かう労働者達の衝撃的な映像で始まるフリッツ・ラングの不朽の名作をカラー処理し、音楽を加えた作品。そうすることが悪いわけではないのだけれど、原作がもったいないという気もしてしまう。

 果たしてこのリマスターに意味があったのか? と思ってしまう。最初に「現代的な音楽を加え」と書かれていたけれど、それはすでに現代的ではなくなってしまっている。大部分がテクノ風の音楽で近未来といえばテクノという単純な発想が感じられていまひとつ乗り切れない。そしてそれよりもひどいのは歌詞が映画を説明してしまっていること。フリッツ・ラングが考え抜いて作り出したサイレントの画面を台無しにしてしまう饒舌すぎる説明はむしろ邪魔。日本にくるとそれがさらに字幕で律儀に翻訳されて、迷惑この上ない。
 しかし、元の作品自体はさすがに傑作中の傑作。すべてのSF映画の原点、大量の労働者達を一つの画面に収めたシーンの数々は本当にすごい。もちろんすべてに本当の役者を使い、CGとか合成なんて使ってはいない。いまなら引きの絵はCG合成してしまうところだけれど、それを生身の人間で実現してしまうのは当時のハリウッドが得意とした力技だけれど、ドイツでもやっていたのね。やはり20年代のドイツの映画ってのはすごいのね。
 この映画はすべてがすごい。できればオリジナル版のほうを見て欲しいところ。

アラン

Man of Aran
1934年,イギリス,77分
監督:ロバート・J・フラハティ
脚本:ジョン・ゴールドマン
撮影:ロバート・J・フラハティ
音楽:ジョン・グリーンウッド
出演:コールマン・キング、マギー・ディーレン、マイケル・ディーレン

 アイルランドの西に位置する島アラン。過酷な自然に囲まれた不毛の土地で暮らす人々の姿を描いたドキュメンタリー。ほとんど草も生えず、始終激しい波にさらされる土地でも人々は力強く生きる。
 20年代から30年代を代表するドキュメンタリー作家のひとりフラハティの代表作の一つ。

 最初、字幕による説明があり、オーケストラに合わせて淡々と映像が流れる。「サイレント?」と思うが、始まって10分くらいしてセリフが話される。しかしセリフは極端に少ない。音楽を背景に映像を流しつづけるドラマ。セリフはなくともドラマとして成立し、しかも紛れもなくドキュメンタリーだ。
 しかし、ドキュメンタリーとしては少々作りこんだ感がある。一台のカメラで追っただけでは作れないような映像が多々ある。一つ印象的な場面である。少年とサメのカットバックのシーンなどもそうだ。この映画はおそらく、基本的にはドキュメンタリーだが、それをドラマ化するために、不足した部分を後から足したのではないかと思われる。それでドキュメンタリーではないということは自由だが、この映画は単純に現実の脅威というものを表していることに変わりはない。 誰しもが目を見張りひきつけられるのはやはり波の表情。断璧に打ち付けられた波は高々とその壁を登り地面をぬらす。その迫力はすさまじい。ただただ浜辺に打ち寄せる波もすさまじい。あとは、ボートに打ちつけられるサメの尾鰭の立てる音、ボートが波のまにまに消えるそのひとたび毎にふっと襲ってくる緊迫感、そんなものが心に迫ってきた。
 こんな映画を見ていると、やはりドキュメンタリーというのは現実の一瞬間をふっと切り取るものであり、それはあまりにドラマチックであるのだということを実感させられる。フィクションでは作り上げることのできない現実ならではの迫力というものがやはりある。

セブン・チャンス

Seven Chances
1925年,アメリカ,60分
監督:バスター・キートン
原作:ロイ・クーパー・メグルー
脚本:ジーン・ハーベッツ、クライド・ブラックマン、ジョゼフ・ミッチェル
撮影:バイロン・ホーク、エルジン・リーズリー
出演:バスター・キートン、ロイ・バーンズ、ルス・ドワイヤー、ジーン・アーサー

 愛する人になかなか告白ができない破産寸前の青年実業家ジミーのところにある日、見知らぬ弁護士が。ジミーは裁判所からの呼び出しと思い避けていたが、それは実は700万ドルの遺産を与えるという遺言だった。しかし、条件は27歳の誕生日の午後7時までに結婚すること。そして、その誕生日というのは…
 バスター・キートンが最も旺盛に作品を送り出していた20年代の作品の一つ。キートンの代表作の一つに上げられるスラップスティックコメディ。ひたすら人間の力を使ったアナログな力技がすごい。

 やはりバスター・キートンなんだからこれくらいベタなギャグで行ってくれないとね。という感想がまず出てくる、とにかくべたべたべたべたなギャグ連発。最初の犬が異様にに早くでかくなるところからかなりのものだが、実際のところ前半はまだまだ助走という感じで、後半に入って一気にスピードアップ。7000人もの花嫁はとにかく圧巻で、これだけの人が同時に動くとかなり映像的にも力強い。おっかけっこというのはスラップスティックコメディの定番だけれど、1対7000となると、なかなかないでしょう。
 個人的には、終盤の岩のところのほうが好き。これぞキートン、俺は今バスター・キートンを見てるぞという気分を満喫できる場面。岩は明らかに張りぼてだけれど、やはりキートンの動きはものすごい。本当に一人の人が動いているだけでこれだけ長い時間見せて、笑わせてしまえる映画が100年の間にどれだけ作られただろうか?コミカルさをあおる音楽や、岩の落ちる効果音や、主人公の嘆息がつけ加えられた今の映画にこれだけの表現力があるのか? と思わずにいられない。

丹下左膳余話 百万両の壺

小さな笑いが重なって大きな幸せを生む、幸福な伝説の名作。

1935年,日本,91分
監督:山中貞雄
原作:林不忘
脚本:三村伸太郎
撮影:安本淳
音楽:西梧郎
出演:大河内伝次郎、喜代三、沢村国太郎

 柳生藩の殿様は、自分の家の壺に百万両のありかが塗りこめられていること知る。しかし、見た目二束三文のその壺は弟が江戸へ婿養子に行くときにくれてやってしまっていた。藩主は使いをやってその壺を取り戻そうとするが、そうそううまくはいかない。
 時代劇でありながら、コメディ映画。しかもハリウッドのスラップスティックコメディを思わせるような軽快なテンポに驚かされる。

 70年近く前の映画なのにこれだけ笑えるというのはすごい。原作は丹下左膳なわけだけれど、どこか落語的な味わいを感じさせるシナリオでもある。そしてまた、コメディとして完成されているというのがこの映画のすごいところだ。しっかりとした構図、画面の内外で動き回る役者の動き、それは本当にうまい。

 そしてさらにすごいと思ったのは映画全体の躍動感、一つ一つのネタにはそれほど意外性があるわけではない。しかしそれを映画という手段によって笑いにもっていく。具体的にいえば、オチの前倒しというか、ネタを転がす部分を省くところ。一例をあげると、安坊が竹馬を欲しい欲しいと言って駄々をこねる場面で、女将さんは「駄目」といっているのに、カットが変わっていきなり安坊が竹馬に乗っている。言葉で説明すればただそれだけのことなのだけれど、このようにして観る者を「えっ」と一瞬驚かせるそんな瞬間が輝いているのだ。

 だから、ずーっとこの作品を見ているとどんどん楽しい気分になってくる。笑える作品を見たというよりは幸せになれる作品を見た、そんな感想がピタリと来る。やはり名作は名作といわれるだけのことはあるのだと改めて実感させられた。

 この作品が作られた1935年というと、チャップリンが『モダン・タイムス』を発表する前年、アメリカではマルクス兄弟やアステア&ロジャースが活躍していた。日本では戦争の匂いが漂い決して世の中は明るくなかった。この作品はそんな世の中を少しは元気付けたのかもしれない。

 そんな人々を明るくする作品を作り上げた山中貞雄は小津をも凌ぐ天才と言われながらわずかな作品を残して(完全な形で残っているのはわずか3本)戦争の犠牲となってしまった。この不朽の名作を見れば映画のすばらしさを感じることができるが、同時に戦争の悲しさ、虚しさをも感じてしまう。

 映画というのはただ見て楽しむことができればそれでいいのだが、私にとって山中貞雄の作品だけはどうしてもそうは行かない映画だ。面白ければ面白いほど哀しみが付きまとう、そんな作品なのだ。

青髭八人目の妻

Bluebeard’s Eighth Wife
1938年,アメリカ,80分
監督:エルンスト・ルビッチ
原作:アルフレッド・サヴォアール
脚本:チャールズ・ブラケット、ビリー・ワイルダー
撮影:レオ・トーヴァ-
音楽:ウェルナー・リヒャルト・ハイマン
出演:クローデット・コルベール、ゲイリー・クーパー、デヴィッド・ニーヴン

 フランスのリヴィエラでパジャマの上着だけを買い求めようとする男。しかし店員に断られ一悶着。そこに現れた令嬢が自分はパジャマの下だけ欲しいと言い出した。よく眠れないという男に令嬢は「チェコスロバキア」を逆からいえばよく寝れると教え、男は令嬢に惚れたらしい。しかし、やはり眠れなかった男はホテルで部屋を変えてもらおうとし、案内された部屋には侯爵という男が居座っていた。しかしその男は昨日令嬢が買ったパジャマのズボンをはいていた。  ルビッチが当時まだ若かったブラケットとワイルダーを脚本家に起用。とにかくすごいスピードで映画が進み、細かい描写は一切省略。今見てどれくらい笑えるかは好みの問題ですが、軽いネタとシニカルな笑いを織り交ぜるところはなかなか巧妙。

 今みると、あまり笑えるネタはないですが、デパートの社長がパジャマのズボンを穿いていなかったりという単純なネタは時代を超えて笑えるものらしい。前半はそんな軽い感じのネタをルビッチのスピードで押し切る感じ、後半はなんだか話も停滞、笑いもシニカルになっていき、なんとなくワイルダー味が出てくる感じ。  ルビッチの作品群の中で特に傑作というわけではないですが、ルビッチらしい作品のひとつだし、ビリー・ワイルダーと組んだというのも話題のひとつにはなるでしょう。ワイルダーは当時まだ30台の前半で監督をやる前、この後「ニノチカ」でもルビッチ・ブラケットと組んでいます。ブラケットは脚本家・プロデューサーとして有名な人で、このあともビリー・ワイルダーとコンビを組み、「サンセット大通り」などで製作・脚本を担当しています。映画史的にいえば、そんな人たちがはじめてであった作品なわけですね。そういうさめた見方をすることも出来ます。

タルチュフ

Tartuff
1925年,ドイツ,75分
監督:F・W・ムルナウ
原作:モリエール
脚本:カール・マイヤー
撮影:カール・フロイント
出演:エミール・ヤニングス、ヴェルナー・クラウス、リル・ダゴファー、ルチー・ヘーフリッヒ

 オルター氏は20年来尽くしてくれている家政婦と二人暮し。氏は家政婦から孫のエミールが俳優になり遊び暮らしていると聞き遺産をすべて家政婦に与えることにした。しかし、それは実は家政婦の陰謀であった。それに気づいた孫のエミールは変装して「タルチュフ」という映画を持って祖父の家を訪ねる。
 モリエールの「タルチュフ」を劇中劇として利用し、目先を変えた新しい映画を作り出した教訓劇じみた作品。全体的には字幕がはさまれるオーソドックスなサイレント映画。

 「最後の人」と比べると、非常にオーソドックスで、欲しいと思うところには大体字幕が入っていく。それは分かりやすくていいのだけれど、やはり字幕が入ると映像のほうに目が行きにくくていまひとつ。字幕を使わずにいかに表現するかというほうが個人的には楽しめた気がする。
 それでも、冒頭の玄関のベルが鳴るシーンから映像的工夫に驚く。 もちろん普通は呼び鈴があんなところについているはずもなく、あんなに激しく動くはずもないのだけれど、たったあれだけの工夫でベルの音が聞こえてくるのだから、すごいもの。今となってはいまひとつ実感が湧かなくなってしまった「映画的現実」と実際の「現実」との違いというものをまざまざと見せ付けられた観がある。

小津安二郎 初期短編1

1929年,日本,25分

突貫小僧
監督:小津安二郎
原案:野津忠治
脚本:池田忠夫
撮影:野村昊
出演:斎藤達雄、突貫小僧(青木富夫)、坂本武

大学は出たけれど
監督:小津安二郎
原作:清水宏
脚色:荒牧芳郎
撮影:茂原英
出演:高田稔、田中絹代、鈴木歌子

突貫小僧
 人攫いの出そうな天気のいい日の街角、一人の子供が遊んでいる。そこにあらわれたひげを生やした怪しい男、男は予想通り人攫いで…

大学は出たけれど
 大学をて就職面接に行く男、しかしそこで言われた仕事は受付だった。大学をてそんな仕事は出来ないといって会社を出てきてしまったが、郷里から出てきた母に就職が決まったと嘘をついてしまって…

 短編ということでサイレントでも気軽に見れるし、コメディタッチで面白い。小津のよさも堪能できる。サイレント&小津初心者にお勧め。

 「突貫小僧」は10年程前に発見されたフィルム、「大学は出たけれど」は本来長編であったものの残存する一部分を短編として復元したもの、というともに貴重なフィルムだが、その映像は素朴で、しかししっかりと小津らしいもの。
 「突貫小僧」の主人公突貫小僧こと青木富夫は1929年の「会社員生活」でデビューした子役。といっても、撮影所に遊びに来ていたのを小津監督が見つけ、面白い顔だから映画に出そうといったのがきっかけらしい。突貫小僧は「生まれてはみたけれど」をはじめとするサイレン時の小津作品に多数出演し、売れっ子の子役となった。なんと、昭和5年の出演作品は残っているものだけでも15本。
 やはり、映画が唯一の大衆の娯楽だった時代、こんな映画がたくさんあったんだろうなと思わせる。軽快さが非常にいい。こんな短編を何本見て、いっぱい引っ掛けて、家に帰る。なんとも優雅な生活ではないですか。

赤ちゃん教育

Bringing Up Baby
1938年,アメリカ,102分
監督:ハワード・ホークス
脚本:ダドリー・ニコルズ、ヘイジャー・ワイルド
撮影:ラッセル・メティ
音楽:ロイ・ウェッブ
出演:ケイリー・グラント、キャサリン・ヘップバーン、チャーリー・ラグルス、メイ・ロブソン

 恐竜学者のデヴィッド・ハクスリーは研究仲間のアリスと明日結婚する予定だった。デヴィッドは研究所の資金集めのため接待ゴルフに出かけるが、そこで人の球を勝手に打ち、人の車に勝手に乗るスーザンに出会う。デヴィッドは彼女のおかげで接待をめちゃくちゃにされてしまった…
 ハワード・ホークス、ケーリー・グラント、キャサリン・ヘップバーンというハイウッド黄金期に輝くスターがそろったスクリューボールコメディの名作。次から次へと繰り出される展開に圧倒される。今から見れば、定番の笑いの形の連続だが、それは逆にいえば、このころのコメディが現在のコメディの原型になっているということ。

 今見ると、爆笑ということはない。大体次の笑いの展開は読めるし、オチも読める。そして見終わって、「何かどリフみたいだな。」と思ったりする。それは、この映画の笑いのパターンが今もどこかで使われているということ。何もこの映画が原点というわけではないが、ひとつのコメディの型となったいわゆる「スクリューボールコメディ」の名作のひとつではある。
 笑いの構造を分析していけば、そのことは明らかで、たとえば留置所の場面で最初に二人が捕まえられ、電話をかけ、もう二人捕まえ、また電話をかけるというくり返し、そこにまた現れる二人…。しかしその二人はつかまらず、逆に無実を証明する。そこにまたやってくる二人、今度は新たな厄介をしょって…。このような繰り返しによる笑いのパターン。
 などといってみましたが、笑いを分析するほどつまらないことはない。のでやめましょう。
 しかし(と、またごたくを並べる)、「こんな笑えないコメディ見て楽しいのかよ」といわれると悔しいので、この映画を見ることを正当化したい欲求に駆られただけです。結構面白いですよね、こういうのも。

出来ごころ

1933年,日本,100分
監督:小津安二郎
原案:ジェームス槇
脚本:池田忠雄
撮影:杉本正二郎
出演:坂本武、伏見信子、大日方傳、飯田蝶子、突貫小僧(青木富夫)、谷麗光

 隣同士の喜八と次郎は同じ工場で働き、いっしょにおとめの店でめしを食う。喜八はやもめで息子の富夫と二人暮らし、次郎もひとり身だ。二人は富夫も連れて浪花節を身に行った帰り、分けありげな女に出会う。お調子ものの喜八は宿がないという女をおとめの店に連れていく。その女春江は結局おとめの店で働くことになった。
 少年もので人情ものでメロドラマ。サイレント期の娯楽映画の要素がぎっしり詰まった作品は、テンポよくほのぼのとしてなかなかいい。

 なんてことはない話、なんとなく面白い。サイレント映画なんてほとんど見たことはないし、見る作法もわからないし、飽きちまうんじゃないかと思うけれど、これが意外と見れてしまう。この映画はかなりセリフが出てくる(もちろん文字で)ので、なんかどこか漫画的な、でもしっかりと映画で、不思議な感覚。それもこれもやはりストーリテラーとしての小津の才覚、そして細かいところに気を配る小津の映画術のおかげなのか? といっても、どこがどうすごいといえるほど細部に目がいったわけではなく、ただ人の身振りってのはセリフがないほうがよく見えるとか、そんなことにしか気づきはしなかった。
 でも、他のも見てみたいと思わせるくらいには面白く、富江を演じる伏見信子も色っぽく、突貫小僧も面白い。日本人にとっての原風景といってしまうと陳腐になってしまうけれど、映画に限っていえば「これが原点だ」といってしまえるようなそんな雰囲気のある映画。確かに成瀬やマキノもいるけれど、やっぱり小津かな、そんな気にさせる不思議な魅力でした。

生まれてはみたけれど

1932年,日本,91分
監督:小津安二郎
脚本:伏見晃
撮影:茂原英雄
出演:斎藤達雄、菅原秀雄、突貫小僧(青木富夫)、吉川満子

 郊外に越してきたサラリーマン一家。2人の腕白兄弟は早速近所の悪ガキと喧嘩、引越し前の麻布ではいちばんつよかった兄ちゃんはここでもガキ大将になれるのか?  そんな二人も頭の上がらない父さんを二人は世界で一番えらいと信じていた。しかし、引っ越してきた近所には父さんの会社の重役が、果たして父さんは威厳を保ちつづけられるのか?
 非常に軽妙なタッチですごく躍動感のあるフィルム。登場する子供ひとりひとりのキャラクターが立っていて非常にいい。映像のリズムがよくて音を感じさせる演出なので、サイレントでもまったく苦にはならない。

いわゆる静謐な「小津」のイメージとは違うこのサイレント映画は画面のそこここに「音」が溢れている。そして非常に巧妙なストーリー展開。
 私はちゃんと細部まで観察しようという意気込みで劇場に座ったのだけれど、見ているうちにぐんぐんと物語に引き込まれ、気づいてみればもうラストという感じで見てしまった。90分という長さは当時の映画としては長尺だが、今見れば非常に心地よい長さ。やはり映画の理想は90分という自説は正しかったのだと再確認してみたりもしました。
 「何がよかったのか」と効かれると非常に困る。ストーリーはもちろんよかった。子供たちのキャラクターがよかった。出てくる子供たち(8人くらい?)のそれぞれが非常に個性があり、映画が始まって20分もすれば見分けがついてしまう。これは非常に重要なことだと思う。といっても、それが面白かったというわけではない。具体的にいえば、2人が学校から逃げ出す間合いとか、犬がお座りして2人見送るその画だとか、通って欲しいところで必ず電車が通過するその演出だとか(何と目蒲線!)、いろいろです。
 やっぱり小津ってすごい。