満月の夜

Les Nuit de la Plene Lune
1984年,フランス,102分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:レナート・ベルタ、ジャン=ポール・トライユ、ジル・アノー
音楽:エリ&ジャクノ
出演:パスカル・オジェ、チェッキー・カリョ、ファブリス・ルキーニ、クリスチャン・ヴァディム

 パリ郊外の家、ルイーズは恋人のレミと暮らしているが、その夜の外出のことで意見が合わない。パーティーに行きたくないレミと、朝まで遊んでいたいルイーズ、ルイーズは来なくていいというが、レミはいっしょに外出するといってきかない。話がつかないままルイーズは出かけ、友人のオクターヴとパリの「別宅」に行く。その夜レミはパーティに来るが、つまらなそうにしてすぐに帰ってしまう。
 序盤から議論が飛び出すロメール流の理屈っぽい恋愛映画。最初にエピグラフとしてでる「二つの女を持つものは魂を失い、二つの家を持つものは理性を失う」という格言が非常に示唆的だ。

 ロメール映画の登場人物たちは極端へとは行かず、常に常識の範囲にとどまり、その中で揺れ動く。だからとても現実味があり、身近なものと感じられるのだけれど、それは逆に劇的さとは縁がないということでもある。だから、どの映画を見てもなんだか似た印象を受けるわけだが、それでもその中に秀逸な映画もある。
 しかし、この映画はというと、ロメール映画の中では並。もちろん映画としての質はよいが、ロメールを見慣れてしまうと、いつものことという感じで新鮮な驚きはなくなってしまう。主人公のルイーズの顔は非常に印象的だが、他の登場人物たちは今ひとつ魅力的でなく、あまりに日常的過ぎるという印象がある。そして、冒頭のエピグラフがあまりにうまく映画を表現しきってしまっているので、映画はただそれを映像によって表現しているだけになってしまっているような印象も受ける。それでも登場人物たちの心理の機微というようなものはさすがロメールの描写力という感じがするが、なんだか全体に冷たい印象を受けるのは、レナート・ベルタのカメラのせいだろうか。

 とにかくそれは想像できるロメールの域を出ず、あるいはあまり予想通りに映画が展開していく。それが劇的さのないロメール映画の弱点ではあるのだが、それは新聞の4コマ漫画とか、週刊誌の連載コラムとか、そのようなものに似て、それ自体が日常になりうるものという気もする。
 もちろん、ロメールの映画が日常と呼べるほどロメールの映画を見ているわけではないのだが、しばらく時間をあけてみてみても、それはなんだかなじみの風景というか、いつもの経験という感じがする。そのあたりがロメールの魔術というか、うまさということでしょう。
 それはまた、似た映画の無数のバリエーションを展開しているということでもあり、それはつまり見る人によって好みは別れるということでもある。好みが分かれるということは、無数にあるどれもが質がいいからこそ可能なことで、しかもロメールの映画を見てきた文脈によって映画の受け取り方もかわる。ロメールの作品とはロメールのほかの作品を想起せずには見ることのできない映画で、ということは、見ている人がそれまでにどのロメールの映画を見てきたのかということが映画を味わう上で重要なポイントになってくるということである。だから、前に見た作品も重ねてみてみると、その味わいは変わって、好みも変わってくる。
 それはつまり、いつまでも映画(群)を見続けることができるということで、この映画が今のわたしにとってはそれほどヒットしてこないものであったとしても、エリック・ロメールの偉大さはいくらも損なわれないということだ。

機動戦士ガンダム 逆襲のシャア

1988年,日本,126分
監督:富野由悠季
脚本:富野由悠季
撮影:古林一太、奥井敦
音楽:三枝成章
出演:古谷徹、池田修一、鈴置洋孝、榊原良子

 かつてジオン公国で軍を率い、その後地球連邦軍に参加したシャア・アズナブル。そのシャアが巨大な隕石を地球にぶつけ、地球に「核の冬」をもたらそうと計画した。ブライト館長のもとアムロらゴンドベル艦隊の面々はシャアの目論見を破ろうと奮戦する。
 ガンダム―Zガンダム―ZZと続いたオリジナルシリーズの一つの締めくくりとなる作品。シャアとアムロというライバルの戦いの最終章。

 やはりガンダムはガンダム。アムロやシャア、ブライト、ミライというおなじみの人たちが出てくるとそれだけで面白い。そして宇宙でのモビルスーツ戦の映像はまさにモビルスーツ系のアニメの原点です。元祖ガンダムからせい昨年としては10年近くのときが流れ、ガンダムのようなアニメが大量に生産された後でもやはりガンダムはガンダム。他のものとは違う何かを感じます。宇宙空間での戦いのスピード感と、にもかかわらずどのモビルスーツを誰が動かしているのかがすぐにわかるような設定。
 しかし、物語としてはネタが尽きてきたという感じでしょうか。シャアとアムロを中心とする展開だとどうしてもオリジナルのガンダムの物語に引きずられ、似たような話になってしまう。だからこの単発の映画でそれを終わらせたのは正解でしょう。シリーズとして繰り返すとどうしてもマンネリになってしまいますからね。
 ガンダムは面白い。結論はそういうことです。果たしてこれが子供の頃ガンダムを見ていなかった人に当てはまるのかどうかはわかりませんが、私にとってはそういうことなのです。

スタンド・バイ・ミー

Stand By Me
1986年,アメリカ,89分
監督:ロブ・ライナー
原作:スティーヴン・キング
脚本:レイナルド・ギデオン、ブルース・A・エヴァンス
撮影:トーマス・デル・ルース
音楽:ジャック・ニッチェ
出演:ウィル・ウィートン、リヴァー・フェニックス、コリー・フェルドマン、キファー・サザーランド、ジョン・キューザック、リチャード・ドレイファス

 小学校を卒業し、最後の夏休みを過ごす少年4人組。いつもどおり遊んでいるところにそのひとりバーンが息を切らしてやってきた。バーンが言うには行方不明になった少年の死体が少し離れた森にあるということらしい。4人は明くる朝、死体を見るために冒険に出かける。
 ホラーの巨匠スティーヴン・キングのホラーではない作品。秀逸な脚本と映像にぴたりとくる音楽、若かりしリヴァー・フェニックスの存在感。十数年前はじめてみた時の衝撃を思い起し、思い入れもこめての☆4つ。

 たいした話ではないですね。でも、アメリカ映画ではよくある古きよき少年時代回想映画の中では群を抜くできでしょう。それは、この映画が公開された頃、ちょうど映画の少年達と同じ年頃で、なんだかとても衝撃だったということに対する思い入れが大きな要素となっているのだとは思いますが、映画ってそんな個人的なものなんだということを実感したりもしました。
 けれど、10年以上経ち、何回となくみて、久しぶりに見返してみても、やはりいい映画だったということです。映像がとかどうとかいうことではなくて、どう考えても脚本がいいのでしょうね。原作ももちろんいいのでしょうが、私が読んだ限りでは、この原作からこの映画を作るにはかなりの脚色が必要で、その脚色はかなり見事。
 あとは音楽とリヴァー・フェニックスということですが、特に言うこともございません。何度みても、見たあとには10数年前に買ったサントラ(もちろんアナログ)をかけてしまいます。
 すぐれた脚本には変な工夫を凝らさず、シンプルに作ればいいといういい見本だと思います。橋とか森とか汽車とかヒルとか映像的にもとても洗練されているのだけれど、それをなるべく自然なものにしようという意図が感じられました。死体までもが自然に見えるほどです。
 そうえいば、お兄さんはジョン・キューザックでしたね。今回はじめて気づきました。

ビートルジュース

Beetlejuice
1988年,アメリカ,92分
監督:ティム・バートン
脚本:マイケル・マクダウェル、ウォーレス・スカーレン
撮影:トーマス・エーカーマン
音楽:ダニー・エルフマン
出演:マイケル・キートン、アレック・ボールドウィン、ジーナ・デイヴィス、ウィノナ・ライダー

 田舎の一軒家に仲良く暮らす若夫婦、夫は模型作りが趣味だった。しかしある日、車ごと川に落ちて二人は死んでしまう。ゴーストとなってその家に残ることになった新しい住人を追い出そうとするが、うまく行かない。その時、「バイオ・エクソシスト」なるビートルジュースの広告を目にするのだが…
 奇才ティム・バートンが一気にメジャーになったヒット・ホラー・コメディ。毒々しいながらもユーモアにあふれた不思議な世界。ウィノナ・ライダーもかわいい。

 これぞティム・バートン!という感じ。「猿の惑星」とか「バットマン」の大掛かりな感じも悪くはないけれど、ティム・バートンにはなんとなくB級な味わいを残して欲しい。この作品は実質的なデビュー作と言えるだけにまさにB級テイスト満載。ユーモアの作り方がとてもいい。独特のキャラクターの作り方も、もとアニメーター(しかもディズニーの!)だけあってとてもうまい。この映画の脇役のキャラクター達は一本の映画の脇役にしておくにはもったいないくらいいいキャラクターがそろっているとは思いませんか? ビートルジュース自身はそれほどとっぴというわけではないけれど、脇に脇に行くほどティム・バートンのオタクぶりがうかがえる凝りようになる。その当たりの細部に対する配慮が映画にとって生命線になっているような気がする。それはティム・バートン映画のすべてに通じて言えることでもあるような気はします。
 この作品が決して一般受けしないのはなぜだろうと考えてみる。わけがわからない。ナンセンス。安っぽい。しかし、ティム・バートンというのはお金をかけてわざわざ安っぽいものを作っているような気がする。アレック・ボールドウィンが顔を変形させるところだってクレイアニメだから相当手間も金もかかっているはず。しかしパッとみ異常に安っぽい。この当たりが受け入れられるかどうかが境界というところでしょうか。でも俺は好き。この作品と「シザー・ハンズ」は何度見ても飽きない。2つの作品はウィノナ・ライダー出ているということ以外はかなり違う映画ですが、どちらもとてもいい。あわせてみれば「猿の惑星」が何ぼのもんじゃい! と思うと思う。多分。

不思議惑星キン・ザ・ザ

Kin-dza-dza
1983年,ソ連,134分
監督:ゲオルギー・ダネリア
脚本:レヴァス・カブリア、ゼゲオルギー・ダネリア
撮影:ハーヴェル・レーベシェフ
音楽:ギア・カンチュリ
出演:スタニスラフ・リュブシン、エフゲニー・レオーノフ

 いつものように帰宅したウラジミールは妻にマカロニを買ってくるように頼まれ、街へ。街で見知らぬ青年と「宇宙人だといっている」という裸足の男に声をかける。男が「瞬間転移装置」だと主張する小さな機械のボタンを押すと2人は見知らぬ砂漠の真ん中にいた…
 幻のソ連製カルトSF映画。とにかく不思議な設定とわけのわからない展開、そして「クーッ」が頭にこびりつく。一度見たら決して忘れることのできない映画。

 こんな不思議な映画は見たことがない。とにかく発想がユニークすぎてどうしてそんなことになるのかちっともわからない。予想がつく展開もあるけれど、ほとんどの部分はあまりに展開が唐突でわけがわからん。だからといってつまらないのかというと決してそんなことはなく、ちょっと長いせいで疲れはするものの面白すぎて鼻血が出そう(なんのこっちゃ)。まあ、面白いかどうかは人それぞれかとは思いますが、少なくとも一度見たら決して忘れることができないであろうことは確か。とりあえず、わけのわからないユニークなユーモアにあふれたカルトSF映画として一見の価値があるのです。
 このわけのわからなさは、まずは用語の利用法にある。わけのわからない言葉(固有名詞を含む)をいきなり何の説明もなしに登場させることが多い。それから、結局のところみんな何をしているの一向にわからない。まとめてしまえば物事のほとんどについて理由づけがない。あるいは明らかにされない。だから、なんとなく因果律に従って映画を見るのになれている人(普通の人はみんなそう)にはわけのわからないのでした。
 ソ連映画(ペレストロイカ前)ということで、検閲の問題とからめて、資本主義の風刺と見る見方もきっとできると思いますが(ウラジミールは最初に二人組と会ったとき、「資本主義の国だ!」と叫ぶ)、そんなことは必要ないし、きっとどうでもいいことで、ただただ世の中には理解のできないものがあると感心すればいいような鬼がしました。
 ああ、悔しいけど俺のまけ。いつかどこかでゲオルギー・ダネリアさんにあったらすぐに「クーッ」する。

猥褻行為~キューバ同性愛者強制収容所~

Mauvaise conduite
1984年,フランス,112分
監督:ネストール・アルメンドロス、オルランド・ヒメネス・レアル
出演:ロレンソ・モンレアル、ホルヘ・ラゴ、レイナルド・アレナス、フィデル・カストロ

 1960年代、キューバにあったUMAPという強制収容所には密告により様々な人々が収容された。同性愛者をその一角を占めていたが、当時世界的な熱狂で迎えられたキューバ革命賛美の潮流の中ではそのような事実はなかなか認められにくかった。しかし1980年代までにキューバからは100万人規模の人々が亡命し、徐々に理想化された国の内幕が判明してきた。
 亡命を余儀なくされた有名人のインタビューを中心としたドキュメンタリーによってフィデル・カストロとキューバ政府の誤謬を暴く。トリュフォー作品や「クレイマー・クレイマー」などのカメラマンとして知られるアルメンドロスの初監督作品。

 言ってしまえば映画としてはそれほど面白くはない。ドキュメンタリーといってわれわれがイメージする経験者の証言と限られた事実を示す映像とで構成される単調なドラマ。しかし、そのドラマは強烈だ。日本では余り知られていないにしろヨーロッパなどでは比較的知られているキューバの作家や批評家達が登場し、強制収容所の実態を語る。全く信じられないようなことが公然と行われていたという事実に直面するということは常に衝撃的である。
 この作品にも登場した作家レイナルド・アレナスは収容所をはじめとした強烈な体験を「夜になる前に」という作品につづっている。この作品にはこの映画も出てくるのだが、その信じられない体験を目にしたときの衝撃が生々しくよみがえってきた。(この「夜になる前に」は昨年アメリカで映画化され、日本でも今年の秋頃に公開される予定。)
 ドキュメンタリーという枠を越えようとする映画的にすぐれたドキュメンタリーも面白いけれど、こういう古典的なドキュメンタリーもその内容さえすぐれていれば非常に面白いものになる。この作品は非常に陰惨な内容を語っているはずなのに、インタビューを受ける人たちは比較的明るい表情で陰惨な雰囲気はまるでない。そのあたりの奥に秘められたひそやかな憎悪を見るよりも彼らがそうやって振舞うことによって生じる雰囲気を素直に味わいたい。

赤ちゃん泥棒

Raising Arizona
1987年,アメリカ,95分
監督:ジョエル・コーエン
脚本:イーサン・コーエン、ジョエル・コーエン
撮影:バリー・ソネンフェルド
音楽:カーター・バーウェル
出演:ニコラス・ケイジ、ホリー・ハンター、ジョン・グッドマン、ウィリアム・フォーサイス

 コンビニ強盗を繰り返し、刑務所に出たり入ったりの男ハイは警察官のエドと恋におち、何度目かの出所後結婚。幸せに生活をし、子供が授かる日を夢見ていたが、ある日エドが不妊症であることが発覚。悲嘆に暮れていたそんなとき、アリゾナで五つ子が生まれたというニュースを目にする…
 コーエン兄弟にニコラス・ケイジという、当時売り出し中だったいまや大物どうしの組み合わせ。コーエン兄弟のスタイルはいまも変わらずだが、なんとなく若さも感じるような、感じないような。

 冒頭からコーエン兄弟らしい不思議な雰囲気。得意の反復によるユーモラスな雰囲気作り。刑務所の面接官の妙に非人間的な動きなどなど「ああ、コーエン兄弟ね」と思わずにいられない感じで始まります。全体的に言ってもコーエン兄弟(というよりコーエンファミリー)らしさ全開で、バリー・ソネンフェルドの動的カメラワークも冴えに冴えます。特に手持ちのアクションシーンはこの映画が15年も前であることを考えると(技術的に言って)すごいことになっている。手持ちであることを意識させないようなスムーズなカメラワークが素晴らしい。最近のドキュメンタリー「タッチ」のぶれぶれカメラとは一味違う(どうしてドキュメンタリータッチをそんなに敵視するのか?)。カーター・バーウェルの音楽もいつもどおりの不思議な齟齬感を含みながら映画をしっかり引き立てる。
 今回何年ぶりかに見ていて気づいたのは、脱獄のシーンが「ショーシャンク」と似ている。もちろんこちらのほうが前ですが、泥まみれで穴から抜け出して叫ぶ。ジョン・グットマンとティム・ロビンスという大きな違いはあり、どうしても落ちをつけずにいられないという違いは出てきてしまうものの、基本的な撮り方なども同じ(だったと思う)。「ショーシャンク」が先で、こっちがパロディというなら話はわかりやすいのですが、順番も逆で「ショーシャンク」には原作もあるというところでかなりの不思議を感じてしまいました。
 さらなる元ネタがどこかにあるのだろうか? どっかで見たような気がする… 何だろう、「大脱走」じゃないし… 知っている人がいたら教えて下さい…

メトロポリス<リマスター版>

Metropolis
1984年,アメリカ,90分
監督:フリッツ・ラング
脚本:テア・ファン・ハルボウ、フリッツ・ラング
撮影:カール・フロイント、ギュンター・リター
音楽:ジョルジオ・モロダー
出演:アルフレート・アーベル、ブリギッテ・ヘルム、グスタフ・フレーリッヒ、フリッツ・ラスプ

 地下で機械的な労働をする大量の労働者達を尻目に繁栄を誇る巨大都市メトロポリス。そのメトロポリスを治めるアーベルの息子フレーリッヒは地上で見かけた労働者の娘マリアを追って地下に降り、労働者の過酷な現実を目にする。
 ロボットのようにエレベータに向かう労働者達の衝撃的な映像で始まるフリッツ・ラングの不朽の名作をカラー処理し、音楽を加えた作品。そうすることが悪いわけではないのだけれど、原作がもったいないという気もしてしまう。

 果たしてこのリマスターに意味があったのか? と思ってしまう。最初に「現代的な音楽を加え」と書かれていたけれど、それはすでに現代的ではなくなってしまっている。大部分がテクノ風の音楽で近未来といえばテクノという単純な発想が感じられていまひとつ乗り切れない。そしてそれよりもひどいのは歌詞が映画を説明してしまっていること。フリッツ・ラングが考え抜いて作り出したサイレントの画面を台無しにしてしまう饒舌すぎる説明はむしろ邪魔。日本にくるとそれがさらに字幕で律儀に翻訳されて、迷惑この上ない。
 しかし、元の作品自体はさすがに傑作中の傑作。すべてのSF映画の原点、大量の労働者達を一つの画面に収めたシーンの数々は本当にすごい。もちろんすべてに本当の役者を使い、CGとか合成なんて使ってはいない。いまなら引きの絵はCG合成してしまうところだけれど、それを生身の人間で実現してしまうのは当時のハリウッドが得意とした力技だけれど、ドイツでもやっていたのね。やはり20年代のドイツの映画ってのはすごいのね。
 この映画はすべてがすごい。できればオリジナル版のほうを見て欲しいところ。

機動戦士ガンダム3 めぐりあい宇宙篇

1982年,日本,141分
監督:富野喜幸
脚本:星山博之
音楽:渡辺岳夫、松山祐士
出演:古谷徹、鈴置洋孝、古川登志夫、白石冬美

 激しくなるジオン公国と地球連邦軍の戦い。シャア率いるザンジバルとの戦いを逃れたホワイトベースは中立コロニー・サイド6へ。くしくもザンジバルも同じコロニーに寄港していた。ホワイトベースを迎え撃とうとサイド6を取り囲むジオンの艦隊。
戦争に影響を与え始めた「ニュー・タイプ」。果たして勝つのはジオンか連邦か。 TVシリーズ「機動戦士ガンダム」の映画化第3弾。31話から最後までをダイジェストにする形でシナリオを練り直した作品。

 物語は佳境で、様々な人間関係が渦を巻く。シャアとセイラ、ブライト・ミライ・スレッガー、知らない人には何の事やらわからないかもしれませんが、この当たりの人間ドラマがガンダムの真の面白み。終盤はジオン側でもザビ家を中心とした人間関係の相克を見ることもできます。
 しかし、逆に前半と比べるとモビルスーツやモビルアーマーが次々と登場し(特にジオン)、ここのものに対する魅力が減じてしまうかもしれない。その当たりが少々不満ですが、やはり最後ア・バオア・クーでは感動するしかありません。ああ、やっぱりガンダムっていいわ。
 今回見て思ったのは、「ニュー・タイプ」というのはかなり面白い。単なる突然変異なのかもしれないけれど、必ずしも均一に強さではない。ある意味では強度の違う変異が同時的に起きるという異常事態。ブライトは「そんな都合よく人間変われない」というけれど、そんな無頼とが思いを寄せるミライ・ヤシマも少しニュータイプの気があったりするわけです。ララァとアムロを頂点として様々な段階のニュータイプがいる。うーん、不思議。遺伝学的にどうなのだろう、それは。
 未来史の捉え方なども考えつつ、まだまだ物思いにふけることができる。

友だちのうちはどこ?

Khane Doust Kodjast
1987年,イラン,85分
監督:アッバス・キアロスタミ
脚本:アッバス・キアロスタミ
撮影:ファラド・サバ
音楽:アミン・アラ・ハッサン
出演:ババク・アハマッド・プール、アハマッド・アハマッド・プール、ゴダバクシュ・デファイエ

 主人公の少年アフマドが学校から帰り、カバンを開けるとノードがふたつ。その日も遅刻して宿題を忘れ、先生に叱られたばかりの隣の子のノートを間違えて持ってきてしまったのだ。やさしい少年アフマドは彼を探して遠くの村まで走ってゆく。無事にノートは帰すことができるのか?
 少年を描かせたら世界一のキアロスタミ監督作品の中でも最も少年が輝いてる作品。素朴にして重厚、キアロスタミ映画のひとつの到達点であるこの作品は映画史に残る名作。

 すでに古典という感じすらするイラン映画の名作だが、新鮮さを失うことはない。この作品以後についても作品が作られ、三部作のようになっているが、何度もアフマドが駆け上がり駆け下りるジグザグ道から名づけられた「ジグザグ三部作」と呼ばれる。
 このジグザグ道の反復がこの映画の最大のミソで、同じ道を上り下りしているだけなのに、徐々に心細くなってゆく少年の心理が手にとるようにわかって心揺さぶられる。この反復という要素はキアロスタミの映画ではよく用いられる要素で、反復の中に生じる微細な変化がその反復をする人の心理を言葉以上に如実に表現する。この映画でいえば、アフマドの足取りが重かったり軽かったり、うつむいていたり正面をじっとみつめていたり、その変化がとても面白い。