冬物語

Conte d’Hiver
1991年,フランス,114分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:リュック・パジェス
音楽:セバスチャン・エルムス
出演:シャルロット・ヴェリ、フレデリック・ヴァン・デン・ドリエッシ、ミシェル・ヴォレッティ、エルヴェ・フュリク

 夏のビーチで出会ったフェリシーとシャルル。夏が終わり、シャルルはフェリシーの住所を受け取り、2人はそれぞれの居場所へと向かった。5年後、美容師をしながら、別の男と付き合うフェリシー、美容院の主人から結婚を申し込まれていた。実はフェリシーは住所を書き間違え、シャルルからの便りはついに来なかったのだ。そのシャルルとの間の娘エリーズはもう4歳になる。
 ロメールの四季の物語の2作目。冬のパリは寒そう。劇中劇として登場するシェークスピアの『冬物語』が物語の下敷きになっているらしい。

 なんとなく「夏物語」とついになった話のような気がする。もちろん、「夏物語」の方が後に作られたので、順番は逆にしても2つの作品の関係は深そうである。「夏」のほうは1人の男と3人の女、「冬」は1人の女と3人の男。「冬」の冒頭の海の風景は「夏」の舞台となった海と同じように思える(ちがうかも)。結局どちらも、遠くにある望みの薄い恋をあきらめて、身近にある恋を選ぶことができるのか…というお話。まさにロメールっぽいというところですね。
 そういう話だとどうしても、物語の方に引きずられてしまいがち。あるいはそれが映像や技巧を意識させずに見せるロメールのうまさなのか。
 この映画でもうひとつロメールらしいと思うのは「輪廻」の話。「春のソナタ」では超越論の話が出てきましたが、今回は「輪廻」の話。パスカルとかいろいろな人が登場しますが、よくわからない。見ている人の多くはフェリシーの立場でその哲学話を見るのでしょう。だからその会話が意味しているところがよくわからないと思う。これは単純にわからないということではなくて、このわからないという感想を共有することでフェリシーの立場に近づくことができるということも意味する。「インテリにはなりたくない」というフェリシーの気持ちが共感でき、そんなわけのわからない会話の中に感覚的な意見で切り込むフェリシーに拍手を送りたくなる。この主人公への共感という感覚はロメールの映画の特徴だと思います。「夏」の時にも書きましたが、映画の中の人物や出来事を自分の体験にひきつけることによって映画を経験するそんな映画だと思う。
 やはり「四季の物語」と題されてシリーズ化されているだけに、どの作品もどこか似た雰囲気を持っていますね。

キカ

Kika
1993年,スペイン,115分
監督:ペドロ・アルモドバル
脚本:ペドロ・アルモドバル
撮影:アルフレッド・メイヨ
音楽:ペレス・プラド
出演:ベロニカ・フォルケ、ピーター・コヨーテ、ビクトリア・アブリル、アレックス・カサノバス、ロッシ・デ・パルマ

 メイクアップアーティストのキカは死化粧の話をきっかけに、メイク教室の生徒に恋人のラモンとの出会いのいきさつを話し始める。そのラモンは3年前に母親を自殺で亡くしていた。キカはラモンの継父のニコラスと知り合い、家に呼ばれていってみると、そこに死んだラモスが横たわっていたのだ。しかしキカが死化粧をはじめるとラモスは生き返ったのだった。
 奇怪な登場人物とめくるめくプロットとゴルティエの鮮やかな衣装でかなりキッチュな印象の映画だが、しっかりと作りこまれていてしっかりと仕上がっている。

 このわけのわからなさのオンパレードはなんなのか? わけがわからないといっても混乱させるようなわからなさではなく、「?」を浮かべながらなぜか笑ってしまうようなわけの和からなさ。だからとても心地よい。果たしてどのくらいの人がこの心地よさを感じるのだろう? このわけのわからなさはアルモドバル的とかスペイン的といって片付けられることが多い。あるいはキッチュというひとことで。ゴルティエの衣装もそのわからなさとイメージの両方に手を貸している。しかし、必ずしもアルモドバル的とかスペイン的といって片付けられる問題ではないのかもしれない。ただ単純化されていない映画、説明をしない映画。ただそれだけかもしれない。映画というのは分かりやすくするために物事を単純化して、それに説明を加える。誰かが「複雑なものを単純に言うのが芸術だ」といったけれど、映画もひとつの芸術として複雑なものを単純に語る。それはわかりやすくという意味で単純に。しかしアルモドバルの単純化は「分かりやすさ」に主眼を置かない。「おもしろさ」に主眼を置き、複雑な物事を面白くするために単純化する。だからわかりやすさという点ではちっとも単純化されていない。むしろ、分かりやすいために必要なものを省いてしまうために分かりにくくなってしまう。だから理解しようとするとちっともわけがわからない。この映画も物語だけを追うんだったら、多分15分くらいで終わってしまうだろう。
 だから、全く物語とは無関係な面白い場面がたくさんある。キカがフアナをメイクするその2人の関係とか、警察とか、アンドレアの番組の内容とかいろいろ。そのそれぞれがプロットにどう関わってくるのかなんてことは気にせずに、あるいはその無関係さに気付きながら見れば、それはまさに子供の心で見れば面白さが詰まっている。警察もポール・バッソのところは相当面白いですね。普通の映画とは全く違う描き方です。キカの反応とか、かなり不思議。
 あと少し気になったのは「十字」。所々に出てくる十字の形状はなんなのか、ラモンの寝室にはキリストをモチーフにしたコラージュが飾ってあるし、全く敬虔とは言いがたいこの映画に顕れるこの神の像は何を意味しているのか? 私はキリスト教徒ではないので、こういうものを描こうとするときにどう神を意識するのかということは想像も出来ませんが、アルモドバルになって想像してみるに、このような映画を作ることが「神」とどのように関わるのかを考えることが彼には必要なのだろうということ。それは見る側に対して「神」に関するメッセージを送るということではなくて、自分にとっての意味付けのようなものを考えるためなのだろうと想像します。あくまで想像ですが…

ワンダフルライフ

1999年,日本,118分
監督:是枝裕和
脚本:是枝裕和
撮影:山崎裕
音楽:笠松泰洋
出演:ARATA、小田エリカ、寺島進、内藤剛志、谷啓、伊勢谷友介、香川京子、阿部サダヲ

 死んだ人が、まず行くところ。それは生前の一番の想い出を唯一の記憶とするためにそれを再現する場所だった。その場所で働く人々を中心に、22人の死んだばかりの人々との対話を描いたファンタジックなヒューマンドラマ。
 ドキュメンタリー畑出身の是枝監督らしいドキュメンタリーに傾いた描写がそこここに見られる。発想もユニークで面白いので、すっと映画に入りやすい。

 それぞれの人がその想い出を考える場面、特に彼らが真正面から固定された画面の中で語る姿はまさにドキュメンタリー風の映像であり、そのそれぞれの思いがこの映画で一番面白い部分。複雑な思いを抱えて死んだ人々の心のほつれがほどけていく過程がうまく表現されているような気がする。
 この映画が素晴らしいのは、映像がどうのというよりも、私たちに語りかけてくること。この映画を見ながら、自分が今死んでしまったら「一番印象に残ったこと」といわれてなんと答えるだろうか? という明確な問いがひとつ投げかけられる。もちろん私たちはまだ死んでいないので、それを考えたところからこれからの「生」に対して何か考えが変わるかもしれない。あるいは変えなくていいんだと気付くかもしれない。そのように今ある「生」に向き合うことこそこの映画がわれわれに投げかけていることなのだろう。この映画を見て、考えてみましょう。「一番印象に残ったこと」とは何か?
 そのあたりは明確です。ちょっと文章で書くと空々しいですが、映画を見れば実感です。さて、映像がどうのといいながら、この映画はとてもきれい。舞台設定がなんか古い学校だか病院っぽいところで、それ自体がフォトジェニック(フィルムジェニック?)なのに加えて、季節が冬というのも印象的です。一番はっとしたのはARATAと小田エリカが雪の中を歩いて建物まで行き、建物の中に入るシーン。ただそれだけのシーンですが、うーんなんかいいんだよね。
 難を言うなら、後半のプロットでしょうか。言ってしまえばなくてもよかった。まあ、あってもマイナスではないし、21人の人々がいなくなって静かになったところでじっくりと見られるという利点はあるけれど、前半のスピード感から一転、急にスローになるので、ちょっと気が抜ける感じもします。個人的な好みとしては、人々がいなくなって、次の人たちがくる。その単純な1サイクルを描くだけでよかった気もします。
 でも、ラストカットはとてもよかった。ということは後半も必要なのかな?

花火降る夏

去年煙火特別多 
The Longest Summer
1998年,香港,128分
監督:フルーツ・チャン
脚本:フルーツ・チャン
撮影:ラム・ワーチュン
音楽:ラム・ワーチュン、ケネス・ビー
出演:トニー・ホー、サム・リー、チャン・サン、ジョー・クーク

 1997年、香港返還をまえに香港の英国軍部隊が解散した。そのひとりであったガーインも仕事を失い、仲間とぶらぶらするしかなかった。ガーインの両親はヤクザの子分をしている弟のシュンに仕事を世話してもらえという。最初は抵抗していたガーインだったが結局はヤクザのボスの運転手をすることにした。
 香港返還をまえにして香港の人々がどう生きていたのかを描くフルーツ・チャンの香港返還三部作の2作目。

 映画の最初の方から映像がとてもいい。いきなり、口に穴があいている少年が登場するというのもとてもいいし、そのあとガーインが登場してからも独特の構成美というか、不思議な感じの映像がいい。なんというか、非日常的な空間というか、普段はなかなか見れないものや視点を使うことはそれだけで映画を興味深いものにする。映画にはそういう魔術的な視線(マジカル・ビュー)を提供する一面があり、それが特撮やCGという工夫を生んできたと思います。この映画の場合は、(顔に穴は別にして)特別特殊な方法をとっているわけではないものの、路面電車の架線など、普段は注目しないような視点でものが語られている。そういう、日常生活では見慣れない視点が取り入れられているというのは映画を面白くひとつの要素なのだと実感しました。
 と、言ってもただそういう映像を流しているだけで言い訳もなく、それを効果的に、プロットに対する興味をかきたてるように配置されていることが重要で、「口に穴」はそんな典型的な例である。こういう効果的な映像が冒頭にあるだけで、映画にぐっと引き込まれる。
 そのプロットはというと、それほど格別にスリリングというわけではないが、人と人との関係性が興味深く、展開力がある。加えてガーインの「心」の展開がとても気になる。無表情で何を考えているのかわからないガーインがどのような心を抱えて行動しているのか? それは物語の終盤で一気にわかってくる。それを明かすことはしないけれど、その無表情な彼の抱える心の重みはそこに至る映画の全般に顕れている。その骨太な感じは映画を見ている時点でかなりよかったのだけれど、最後たたみかけるようにガーインの心の中が明らかになるとそれは圧倒的な力を持って迫ってきた。どんなふうにかは言いませんがね。
 もちろんガーイン単独ではなくて、他の“マッチ棒”たちとの関係性も興味深いものがあります。すれ違ったり、出会ったりしたときの一瞬の表情に表れる心のかけらがとてもうまく表現されていると思いました。
 フルーツ・チャンを見るならまずこれだ! と声高に言いましょう。

メイド・イン・ホンコン

香港製造
1997年,香港,108分
監督:フルーツ・チャン
脚本:フルーツ・チャン
撮影:オー・シンプイ、ラム・ワーチュン
音楽:ラム・ワーチュン
出演:サム・リー、ネイキー・イム、ウェンバース・リー、エミィ・タン

 1997年、返還目前の香港の下町に母と2人で住む少年チャウ、学校にも行かず、悪がき仲間とバスケをし、少し頭のトロイ子分ロンと借金取り立ての手伝いをしている。ある日、借金を取り立てに行った家出であった娘ペンはなぜかチャウに好意をもち、次第に3人出会うようになった…
 香港を代表する若手監督の一人フルーツ・チャンの長編デビュー作。そのスタイリッシュな映像から第二のウォン・カーウァイとも言われた作品。

 オープニングから序盤いまひとつしっくり行かなかったのはフルーツ・チャン独特のリズムのせいだろう。ばっさりと切れて終わる断章の長さと、断章と断章の間のジャンプのアンバランス。このリズムがどうも体になじまない。
 しかし、途中のひとつのシーンでグット映画につかまれた。それはチャウが包丁を握ってトイレに入ったときに、別の少年が小便をする中年の男の腕をばっさりと(これも包丁で)切り落とす場面。このグロテスクな一瞬をさらりと見せたこのシーンにはっとする。このシーンは画面にインパクトがあるだけではなく、物語の展開にも主人公の気持ちにも大きなインパクトを与える。この大胆な転換点を大胆な映像で描ききったところがすごい。
 これですっかり映画になじみ、リズムにもなじみ、最後までつらつらと行くと、ラストまえのシークエンスにまた見せられる。ポケベルの呼び出しの声と氾濫する映像。フルーツ・チャンがウォン・カーウァイになぞらえられたのは、このあたりの映像のスタイリッシュさゆえだろう。しかしウォン・カーウァイの映像の独特さが主にクリストファー・ドイルのカメラワークによっていたのに対し、フルーツ・チャンのそれは編集のリズムによっていると思う。ひとつひとつの映像はそれほど新奇なものではないけれど、ここでも独特のリズムが存在し、それが新しさを感じさせるのだろう。この場面ではフラッシュバックとして一瞬挟まれる映像が非常に効果的で、そのフラッシュバックを見ることによって観衆が思い出させられるシーンの重なり合いが、観客の頭の中にさらに複雑な映像世界を作り出させているような気がした。フラッシュバックを見ることによって頭の中に蓄えられていた映像がどばっと出てくる感じ。そんな感じでした。

死んでしまったら私のことなんか誰も話さない

Nadie Hablara de Nosotras Cuando Hayamos Muerto
1995年,スペイン,104分
監督:アグスティン・ディアス・ヤネス
脚本:アグスティン・ディアス・ヤネス
撮影:パコ・フェメニア
音楽:ベルナルド・ボネッティ
出演:ヴィクトリア・アブリル、フェデリコ・ルッピ、ピラル・バルデム

 メキシコのとある場所で麻薬の取引が行われていた。その取引相手の金が贋金ばかりなことに気付いたマフィアは相手が警察であることを見破り、殺し合いに。そこに居合わせた売春婦のグロリアは警察の一人の勧めに従いそこにあったマフィアの裏金の世界中のありかをしるしたファイルを持って逃げ出したが、故郷のスペインへと送還されてしまった。
 複数のプロットが重なり合って重厚なドラマを作り出している秀作。単純なクライムアクションでもなく、ヒューマンドラマでもない生々しい映画。

 ひとつのドラマを作るのに、登場人物に複数の物語を用意すると話は面白くなる。しかし、それらがうまく絡まないと全体として散漫になってしまう。この映画では主人公のグロリアに関して言えば、その複数の物語がうまく絡み合って面白いドラマを生み出している。男の欲望の目にさらされることや、お酒への渇望を克服できないこと。だらしなさややさしさといったもの。様々なことがらが重層的に積み重なってキャラクターが出来上がっているように見える。酔っ払ってスーパーで買い物をするシーンは素晴らしく、そのときのグロリアの表情を見、その気持ちを考えるといたたまれない気持ちになってくる。
 もう一人、マフィアの側の男もいい物語を持っている。だから、この追う男と追われる女の物語はそのおっかけっこ自体が重要なのではなくて、追う男と追われる女それぞれの物語が重要なのである。結局のところその2人のそれぞれがどうなるのかということが興味の対象になるのであって、本来プロットの中心に置かれるべきファイルのことなんてどうでもよくなる。
 私はグロリアが拷問に耐える姿を見て、そのことを思いました。物語の展開がどうなるかよりも、それぞれの人間がどうするのかが重要なんだと。だから、犯罪映画というか、アクション/サスペンスとして見てしまうとちっとも面白くない。のろのろしてて、派手なアクションもないし、すぐわき道にそれるし。
 でも、それぞれの人間についてのドラマとしてみればかなり面白く、深みがあるのです。だからこの映画はいい映画だと断言します。

さて、枝葉のことが2つほど。
 この映画の題名は原題ではおそらく「私」ではなく「私たち」になっていると思います。英語題でもそうなっているので、訳し間違いではなく、なんか理由があってのことと思いますが、私としては「私たち」の方が意味がとおるような気がします。語呂が悪いのかなぁ? そんなことないよな。
 2つめ、この監督さんはこの映画が初監督作品ですが、私は結構期待できる気がしたので、いろいろ調べたところ、いまペネロペ・クルス主演で映画を撮っているらしい。しかもスペインにとどまっているらしいので、期待できるかもしれません。スペインといえば、ビクトル・エリセの寡作ぶりが思い浮かびますが、この監督もそういう人なのかしら。

リトル・チュン

細路祥
1999年,香港,115分
監督:フルーツ・チャン
脚本:フルーツ・チャン
撮影:ラム・ワーチュン
音楽:ラム・ワーチュン、チュ・ヒンチョン
出演:ユイ・ユエミン、ワク・ワイファン、ゲイリー・ライ

 中国に返還される直前の香港、街の一角にある料理屋の息子チュンは香港の人気歌手ブラザー・チュンと同じ名前であることからリトル・チュンと呼ばれていた。父の商売や母の賭け事を子供の頃から見ていたチュンは少年ながらにお金儲けのことを考えていた。そんな中の店にある日、働きたいとファンという少女が訪ねてきた。「子供は雇えない」とチュンの父は追い返すが、チュンはその子に興味を持った。
 フルーツ・チャンの香港返還三部作の3作目、子供の視点から香港という街の多様性や活気、返還が持つ意味などを描いている。

 全体の印象としては、断片ごとのクオリティは高いけれど、まとまりがいまいちというところでしょうか。話にいろいろな焦点があって、話が散漫になりすぎた感があります。おばあちゃんとブラザー・チュンの話とか、ファンの話とか、デヴィッド兄弟の話とか、どれも面白そうな話なのに、なんだか中途半端で終わってしまっている。しかし、1本に話を絞ってしまうのもまた面白くなくなってしまうような気がするので、なかなか難しいところ。すべてをぐんぐん掘り下げて、4時間くらいの映画にしてくれていたら個人的にはうれしいですが…
 話の散漫さというのはリズムの悪さでもあると思う。先の展開への興味をかきたてながら次へ次へと進んでいくというリズムがこの映画にはないのではないかと。ひとつのまとまりがあったら、そこで一度終わって次のまとまりが始まる。それが単調なリズムで連なっていく。そうなるとそのひとつひとつがうまくまとまっていても飽きずに見るのは難しい。注意深く、ひとつひとつのシーンを吟味してみれば面白いところも見出せるのですが、ずうっと集中してみるというのはなかなか大変ですからね。
 でもこの映画もバイオリズムがあえば面白く見れると思うんですよね。映画は一期一会、見る環境や体調で違って見えてくるもの。私が退屈してしまったのはバイオリズムがあっていなかったせいかもしれない。もう一度見れば違う風に見えてきそうな映画ではあります。

彼女を見ればわかること

Things You Can Tell Just By Looking At Her
1999年,アメリカ,110分
監督:ロドリゴ・ガルシア
脚本:ロドリゴ・ガルシア
撮影:エマニュエル・ルベッキ
出演:グレン・クローズ、ホリー・ハンター、キャシー・ベイカー、カリスタ・フロックハート、キャメロン・ディアス

 年老いた母親を介護しながら仕事をする医師のキーン、15歳になる一人息子と二人で暮らすローズ、独身を貫きながら不倫相手の子供ができしまった銀行の支店長、瀕死の恋人と暮らすレズビアンの占い師、盲目の妹と二人で暮らす女刑事。
 孤独に生活する5人の女たちを描いたオムニバス。監督のロゴリゴ・ガルシアはノーベル賞作家ガブリエル・ガルシア=マルケスの息子で、これまでカメラマン/批評家として活躍してきた。これが初の脚本・監督作品。

 孤独である度合い、それは人との物理的な距離ではなくて、心理的な距離で測るしかない。いくら近くに恋人がいても、その気持ちが近くになければ、孤独が癒されることはない。孤独であることが常に負の力を持っているわけではなく、この映画の主人公達はその孤独を嫌がっているわけではない。むしろ自分から選んだという面ももっている。しかし、その孤独な状態はふとした機会に負のパワーを送ってくる。この映画はそのような瞬間を捉え、その孤独感が宿る瞬間の表情をつかまえる。
 この映画は非常に巧妙に構成されている。オムニバスのそれぞれが絡み合ってひとつの話としてまとまる、あるいはなんとなくつながった話になるという方法。それ自体は珍しいものではないけれど、この映画のつなぎ方はうまいと思う。それぞれの主要な登場人物が他のエピソードにも登場するというのはよくある方法だが、ポイントはそれぞれのエピソードをつなぐ一人の人物を登場させるということ。監督のロゴリゴ・ガルシアは「フォー・ルームス」の1編のカメラマンをやっているので、そこからヒントを得たのかもしれない。この映画ですべてのエピソードをつなぐのは、ネイティヴ系(あるいはラテン・アメリカ系)の一人の女性。どのエピソードでも、沈鬱な表情に孤独を湛えて、1カットくらいに登場する(最後は別)。どうしても気付かざるを得ないこの女性の存在が映画をうまくまとめ、全体の「孤独」というテーマを浮かび上がらせる。その使い方はとてもうまい。
 その孤独感を浮き上がらせるためかどうかわからないけれど、多用されるクロース・アップはちょっと辟易。いつも映画館は前のほうに座るせいかもしれないけれど、クロース・アップの多い映画はあまり好きではない。クロース・アップのような強い画面はたまに出てくるからこそインパクトがあり、効果的なのであって、何度もでてきてしまうとあまり意味がないと思ってしまう。
 細かいところにも配慮が行き届いていい。小さく引っかかるところがたくさんあると、映画は楽しくなります。(盲目の)キャメロン・ディアスが腕時計をしているだけで、その背景にあるいろいろなことを想像できる。そんな小さな引っ掛かりもあって、なかなかよい映画でした。

夏物語

Conte D’Ete
1996年,フランス,114分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:ダイアン・バラティエ
音楽:フィリップ・エデル、セバスチャン・エルムス
出演:メルヴィル・プポー、アマンダ・ラングレ、オーレリア・ノラン、グウェナウェル・シモン

 ガスパールはバカンスを過ごすため、友人の家を借りてディナールへやってきた。街をぶらぶらとしてクレープ屋へよった彼は翌日一人海へ行き、そのクレープ屋でバイトをする女の子と出会い、仲良くなる。どことなく人待ち顔のガスパールは実は思いを寄せるガールフレンドを探していて…
 エリック・ロメールの「四季の物語」シリーズの3作目。1人の男と3人の女を描いたロメールらしいラブ・ストーリー。

 エリック・ロメールの映画というと、私ははずれはないけれど大当りもないというイメージがあります。しかしそんな中でこの映画はかなり好きなもの。四季の中でも一番でしょう。
 ロメールの作品は遠目のショットが多い。大体が人物の全身がすっぽり入る感じ。だから画面の大部分を占めるのは風景ということになり、それがロメールらしい味わいとなる。この映画でも、印象に残るのは、海・空・浜・山、人物よりは風景だと思う。それがロメールの爽やかさ、おしゃれな感じにつながっているのでしょう。
 さて、そんなことよりもこの映画が素晴らしいのはその詩情。どうにも優柔不断な男であるガスパールのキャラクターは男なら誰もがどこか引っかかる自己像だと思う。女性でもそんな男にいらいらしつつ、その恋愛劇にあこがれてしまうようなそんなみずみずしさ。誰もが自分の体験と重ね合わせることができるような物語。そんな憧れとか思い出とかそんな形で自分にひきつけることができる物語であること、それが素晴らしいところ。
 多くの映画はそこに没入することによって体験するものだけれど、ロメールの映画は逆に映画の中の人物や出来事を自分の体験にひきつけることによって経験できるもの。そのような映画が与えるのは非日常的な経験によって日常生活を乗り越えることではなく、直接的に自分の日常に何かを加えること。自分自身を(無意識にでも)内省することによって、何らかの活力とか意欲とかそのような動力が生み出されること。そのようなことだと思います。多分。なんとなく見ると元気になる気がします。

ぼくは歩いてゆく

Don
1998年,イラン,90分
監督:アボルファズル・ジャリリ
脚本:アボルファズル・ジャリリ
撮影:ファルザッド・ジョダット
出演:ファルハード・バハルマンド、バフティアル・バハ、ファルザネー・ハリリ

 9歳のファルハードは戦争中に生まれ、両親が届をしなかったために戸籍がない。しかも父親は麻薬におぼれ、服役を繰り返す。学校に通うこともできないファルハードはもぐりで雇ってくれる働き口を探して歩き回る。ただ一枚の身分証のために雇ってもらえないファルハード、それでも彼は歩きつづける。
 ジャリリが街の少年の経験を少年自身によって再現させたフィルム。いまだ混迷するイランの社会を克明に描く。

 少年の経験を少年自身によって再現したことの利点は、ファルハード少年が過去を追体験することによってよみがえってくる感情のリアルさ。特に表情に表れる彼の不安感がリアルである。
 社会的な問題を少年の視点から見るというモチーフはイラン映画では定番。したがってこのモチーフで秀逸な映画を作るのは難しい。どれも良質ではあるけれど、「これはすごい!」と驚嘆できるものはなかなかないのです。同じモチーフを繰り返すことからくる弊害。なんだか区別がつかなくなってくる感じ、それがこの映画にもあります。
 ということなので、モチーフから離れてテーマ的なものへと話を進めましょう。私がこの映画を見て一番考えたことは「嘘」ということ。少年の口をつく数々の嘘、嘘をついてきたがために上塗りしなければならないさらなる嘘、理由はないけれど反射的についてしまう嘘、それらの無数の嘘が果たして本当なのか嘘なのか最初はわからない、しかし映画を見進めるに連れて、「嘘なんだろうな~」と断定的に見てしまう自分がいる。そんな自分も怖いし、少年にそうやって嘘をつかせてしまう社会も怖い。その嘘をつくときの少年の表情は今にも泣き出しそうで、その表情が目に焼きつきます。
 そのようにして少年の感情に誘導されたわれわれは大人たちの理不尽さに怒りを覚え、少年の当惑と憤りを肌で感じることができる。