LIES/嘘

Lies
1999年,韓国,108分
監督:チャン・ソヌ
原作:チャン・ジョンイル
脚本:チャン・ソヌ
撮影:キム・ウヒョン
音楽:タル・パラン
出演:キム・テヨン、イ・サンヒョン

 卒業を間近に控えた女子高生のYは親友のウリとウリが大好きな彫刻家Jとの仲を取りもとうとJに電話をしてみるのだが、電話をしているうちにY自身がJのとりこなってしまう。落ち合ってそのままホテルへと直行したYとJは危険な倒錯愛に落ち込んでゆく…
 過激な内容で賛否両論話題を呼んだ小説の映画化。映画もまたその過激さから話題を呼んだが、衝撃的なほど性描写が過激なわけではない。

 最初の30分はひどいもの。ドキュメンタリーっぽくビデオで撮られたの出演者へのインタビュー。安物のAVまがいのラブ・シーン。手ぶれやぼかしも鼻につく。たとえば、JがYを駅で待つシーン、ショットはJの主観なのだけれど、改札口から出てくるYの姿にピントはあっていない。そのピンボケの状態はYがJのすぐそばに来るまでつづく。この撮り方に何の意味があるのか、どんな効果があるのか? 何かの効果を求めて作っているのだとしたらあまりに的外れではないかと思う。
 内容もたいしてショッキングではなく、ただのSM好きのおやじの話でしかないよとおもう。韓国においてセンセーショナルで、パイオニアであったとしても、それは韓国という国の国内事情によるものに過ぎず、映画という世界においてはひとつも新しいものはない。
 そんな新しさもないところで、何か救いを求めるとするならば、二人が逃避行をする部分での救いのなさだろうか? しかしそれも最後には周到に救われてしまうことで、意味を奪われてしまう。ただひたすら落ち行く二人を描ききれば、二人は救われないにしても映画としては救われるものになったかもしれないと思う。
 結局のところこれはポルノに過ぎないということ。それもいわゆる「ポルノ」に。きのうのアナベル・チョンのような思想のあるポルノではない単なるポルノ。しかし、ポルノであるものが一般映画として作られたということが韓国では意味のあることなのかもしれない。ひとつの壁というか規制を崩すという意味では意味があったのかもしれないと思う。この映画によって崩された壁を越えた作品の中からいいものが出てくれば、ちょっとは救われるのかしら、とも思う。

SEX アナベル・チョンのこと

SEX : The Annabel Chong Story
1999年,アメリカ=カナダ,86分
監督:ガフ・リュイス
音楽:ピーター・ムンディンガー
出演:アナベル・チョン

 10時間で251人とSEXし、世界記録(当時)を樹立したポルノスターのアナベル・チョン。南カリフォルニア大学で写真と性科学を学ぶフェミニストでもある彼女の記録への挑戦を描いたドキュメンタリー。取り上げられている題材の割には映像自体は過激ではなく、彼女の生き方や考え方を描こうとしている姿勢が感じれらる真摯な作品。
 このようなセクシャリティ系の映画はかなりストレートにメッセージが伝わってきていいですね。「女性には自らの性を商品化する権利がある」

 女性も攻撃的なセクシャリティを持つことができるという彼女の考え方もよくわかるし、それを権威的でない形で実行するという態度にも共感できる。それが300人とセックスをしようという形に結びつくというのもその発想を追っていけば理解できないことではない。
 しかし、やはり偏見や既成概念にとらわれているわれわれは彼女の主張を受けとめられない。彼女のように振舞うことは容易ではない。もちろんそれは251人とセックスをしろということではなく、自由であれという意味でだけれど。ただ自由であろうとするだけでも難しい。特に性的に自由であることは、自由から生じる不安感に加えて世間からの(あるいは自分の内にある仮想的な世間からの)圧力も同時に存在する。アナベル・チョンでさえ自分の両親には告げることができなかったのはそれだけ既成概念が強固であるということだろう。
 女性が抑圧されていると主張する人たちの目がセックスへと向くのは、女性の抑圧の根本的な原因がセックスにあるからである。そして、ポルノというのは女性への性的な抑圧を端的に示すものである。だからフェミニストたちはポルノを糾弾し非難し、規制しようとする。それに対してアナベル・チョンはその内部に入り込み、それを見えなくするのではなく変えてゆく。ポルノという領域で女性が自分を解放できるのだということを証明しようとする。
 映画の中でマイケル・J・コックス(この名前は傑作だけど)はアナベル・チョンのことを「業界の面汚し」と呼んだ。251人とのセックスと聞いて最初に返ってくる反応の多くは「衛生面」や「エイズ」という反応だった。このような反発や意味のすり替えを見ると、アナベルの主張の正しさを感じる。しかし、実際に問題なのは誰が正しいのかということではない。
 話がまったくまとまらない!
 彼女のすばらしさのすべては行動が伴っているということにあると思う。セクシャリティにおいて本当に自由である。それが自然であるようにうまく描いているというのもあるけれど、当たり前のように元恋人という女性が出てくるし、セクシャリティの線引きから逃れるような親友アランもいる。
 主張するならば、行動しなさい。といわれている気がするけれど、それはなかなか難しい。

ムッシュ・カステラの恋

Le Gout des Autres
1999年,フランス,112分
監督:アニエス・ジャウィ
脚本:アニエス・ジャウィ、ジャン=ピエール・バクリ
撮影:ローラン・ダイヤン
音楽:ジャン=シャルル・ジャレル
出演:アンヌ・アルヴァロ、ジャン=ピエール・バクリ、アニエス・ジャウィ、アラン・シャバ

 ムッシュ・カステラは小さくも大きくもない会社の社長。新たな契約に際して、保険会社にボディガードをつけられた。さらに英語の教師までつけられてしまう。しかし、その英語教師が姪の出ている映画に主演しているのを見て、いたく気に入ってしまった…
 監督は自身も出演している脚本家/女優のアニエス・ジャウィでこれが初監督作品となる。全体としてはコメディタッチの落ち着いた感じ。大人な女の人にはよいかもしれません。

 ちょっと毛色の変わったラブ・コメディのように見えて、なかなかそう一筋縄でもいかない感じ。まず、物語としてふたつの焦点があるというのが面白い。題名からするとカステラさんの話に終始するのかと思いきや、結構マニーとボディガードたちの関係に割かれる時間もかなりある。かといってふたつの話がそれほど絡み合っていくわけでもなく、基本的には別々なものとして展開してゆく感じ。このひとつのものとして捉えがたい感じはこの映画全体に付きまとう。ひとつの中心を作ってそこからすべてを俯瞰するのではなく、さまざまな側面から物を眺めてぼんやりと浮かび上がってくる像を提供するという感じ。カステラさんの奥さんのキャラクターもひとつの側面として描かれている。この奥さんのキャラクターの描き方は絶妙で、私なんかは最初に登場したときからいらいらさせられっぱなし。
 マニーを演じている女優さんと監督が同じ人と気づいたのは映画を見終わった後だったんですが、そういわれるてみればこの奥さんの描き方にも、最終的に焦点を結ばないプロットの作り方にも納得がいく感じ。カステラさんと同じ年代のおじさんの監督が作ったんじゃこうは行かないはず。女性の女性に対する視点というものを感じます。
 さらには、一つ一つの場面が宙ぶらりんな感じで終わる感触といい、頻繁に出てくる男二人で構成される画面のバランスといい、なかなかのものなのでこれからちょっと注目したい監督です。この男二人の画面はなかなか気になります。サイズがシネスコなので、人物を二人配置するのはなかなか気を使うと思うんですが、この監督はあっさりと横に二人並べてしまう。その不思議な距離感がいいと思います。

ANA+OTTO 【アナとオットー】

Los Amantes del Circulo Polar
1998年,スペイン,112分
監督:フリオ・メデム
脚本:フリオ・メデム、エンリケ・ロペス・ラビニュ
撮影:ゴンサロ・F・ベリディ
音楽:アルベルト・イグレシアス
出演:ナイワ・ニムリ、フェレ・マルティネス、サラ・バリアンテ

 8歳の少年オットーは飛んでいってしまったサッカーボールを追っていって、一人の少女アナに出会う。ある日オットーが授業を抜け出してトイレから飛ばした紙飛行機がきっかけで、オットーの離婚した父とアナの母が仲良くなり、毎日2人はオットーの父の車で帰宅することになった…
 「偶然」と「運命」が動かすアナとオットーの2人のおとぎ話。女性には非常に受けると思います。

 物語を語る際に視点をどこに置くかというのは大きな問題で、多くの映画は観客に<神>の視点を与えます。あちらこちらに遍在し、時には人の心理までも見えてしまう。そのような存在。しかしたまに1人の視点で語られることもあります。これは主にサスペンスなどの謎解きものに多い。「メメント」なんかがいい例だと思います。この映画はその1人の視点を2つ組み合わせたもの。オットーの視点から語られた後、同じ時間がアナの視点から語られるというパターン。
 展開を面白くするためには<神>の視点の方が有効だと思うんですが、2人の関係性に焦点を絞るなら、こういう方法もありかなという気がします。この方法をとると、映画全体が完全に2人の世界となってしまい、ほかの人との関係性が薄まってしまう。結構フォーカスされているオットーと母親の関係やアナの母親のオットーに対する心理などはあまり浮き出てこない。このあたりは<神>の視点に慣らされてしまっているわれわれには何か消化不良な感じもしてしまいます。
 今日は視点という問題に絞ってきたのでさらに行きます。
 それにしても映画はこれまであまりに<神>の視点に頼りすぎてきた。「メメント」がヒットしたのはそのすべてが見えてしまう映画とは違うものであるからだと思います。小説の世界では何世紀も前から「視点」という問題が語られ、様々な視点が試みられてきましたが、映画ではそのような試みはあまりやれられ来ていない気がします。その大きな要因は映画が短いということと観客が基本的の傍観者であるということが考えられます。小説というのは自分のスピードで1人でその世界に没頭することができるので、一人称で語られる主人公にどうかすることが非常に容易ですが、映画は映画が持つスピードにあわせて、しかもたくさんの人とスクリーンを眺める。これでは自然と傍観者等スタンスを取ってしまう。
「メメント」が成功したのはあらかじめ観客の注意を喚起し、映画に対するスタンスを変えてしまったからでしょう。何の予備知識もなくあの映画を見たら結構戸惑ったのではないかと思います。そんな「メメント」でもまったく物語が不十分と感じられるのはその短さ。主人公とって物語が終わっていないのに、映画が終わってしまうのは、主人公と同一化している観客にとっては尻切れトンボ以外の何ものでもないでしょう。
 違う映画の話になってしまったのでこの辺で話を戻して、この映画の場合は物語はきちんと完結しているのでいいのです。でも2人を主人公にすると1人の視点より入り込むのは難しくなる。結局傍観者という立場で見ざるを得なくなると思います。そうなるとこれはただ単に不自由な<神>の視点となってしまう恐れもあり、実際なってしまっているかもしれない。
 それでもラストあたりがうまく作られていて多少救われたと思います。

ジョー、満月の島へ行く

Joe Versus the Volcano
1990年,アメリカ,107分
監督:ジョン・パトリック・シャンレー
脚本:ジョン・パトリック・シャンレー
撮影:ステファン・ゴールドブラット
音楽:ジョルジュ・ドゥルール、ピーター・ゴードン
出演:トム・ハンクス、メグ・ライアン、ロイド・ブリッジス、ダン・ヘダヤ

 なんとなく体の調子が悪く、医者に言ったジョーは医者から不治の病であると告げられる。余命半年と診断された彼は、人生に開き直り、勤めていた会社を辞める。その夜、元同僚とうまくいきかけるが、彼の余命を聞いて彼女は去ってしまう…
 トム・ハンクスとメグ・ライアンの初の共演作、メグ・ライアンは1人で3役を演じる。スティーヴン・スピルバーグが製作総指揮に名を連ねるドリーム・ワークスの作品で、特撮も「スター・ウォーズ」などでおなじみILMが担当しているが、この映画のどこにそんな特撮が…

 おしなべて平均点のコメディという感じ。トム・ハンクスとメグ・ライアンといういまやゴールデンコンビの2人が出てくると、それだけで恋の予感を感じますが、その予想を裏切りつつ進んでいくというのもうまいです。しかし、展開がよめよめであることも確か。こういう先の展開がすぐに分かってしまう映画を「子供の絵本」ものと私は読んでいます。子供が何度も同じ絵本を読んでもらうのと同じように、私たちは同じ物語を描いた異なる映画を何度も見てしまう。結末も展開も8割方分かっているのに見てしまう。これは多分、裏切られる恐れがなくて安心できるからでしょう。予想を裏切られる展開の映画を見るにはエネルギーが要るのに対して、こういう容易に予想がつく映画はエネルギーが要らない。例え途中でうたた寝してしまっても、画面に戻れば話についていけてしまう。そういう安心感のある映画を見たいこともあります。
 だから、この映画はそういったのどかな気分のときに見なければなりません。「どんな映画だろう?」と胸を躍らせてみる映画ではない。なんだか映画というとどこかにどんでん返しがあって、ハラハラドキドキみたいなイメージが多く、前もってストーリーを言っちゃいけないという不文律が存在していますが、こういった映画に関してはストーリーを全部ばらしてしまっても本当は問題ないはず。でもばらしません。ばらすと笑えなくなってしまうネタが何個かあるから。
 休日の午後、うたた寝を挟みつつ、でも巻き戻しは、せずにごゆっくりご覧ください。

おかえり

1996年,日本,99分
監督:篠崎誠
脚本:篠崎誠、山村玲
撮影:古谷伸
出演:寺島進、上村美穂、小松正一、青木富夫、諏訪太郎

 塾講師をしている孝と家でテープ起こしの仕事をしている百合子。結婚して3年、何の問題もない夫婦生活のように見えた。しかし、あるときを境に、百合子が不意に夜出歩いたり、真っ暗い部屋で孝の帰りを待っていたりという不思議な行動をとるようになった。それを見て孝も不審に思い始めるが…
 これがデビュー作となる篠崎誠は北野武作品で味のある脇役ぶりを発揮していた寺島進を主演に起用。カメラマンには東映のチャンバラモノで鳴らしたベテラン古谷伸の参加を得て完成度の高い作品を作り上げた。

 見る人によって様々な部分が刺さってくると思う。非常に地味で淡々としていて、公開当時には監督も役者もほぼ無名で、全く商売っけのない映画。そしてもちろんヒットもせず、埋もれてしまいそうだった映画。しかしやはり面白い映画は埋もれない。見てみればそこには鋭い描写がたくさんあり、そのどこかが見ている人に刺さってくるに違いない。
 この映画で注目に値するのはなんといっても役者の演技。もちろんそれを引き出しうまく映画に載せたのは監督だけれど、素直にこの映画を見て感じるのは登場する役者達の素晴らしさ。私が一番すごいと思ったのは孝と百合子が台所で座り込んで話すというか抱き合うというか、そういうシーン。その長い長い1カットのシーンの2人の表情はものすごい。シーンの初めから終わりまでの間に刻々と変化していく2人の顔は何度も繰り返し々見たいくらいに力強く、おそらく見るたびごとに異なる感情が伝わってくると思う。
 このシーンもそうですが、この映画に多分に盛り込まれている即興的な要素。必ずしもアドリブというわけではないけれど、脚本や演出ではない役者に属する部分が色濃く出ている要素(誰かがどこかでカサヴェテスを取り上げて広義のインプロヴィゼーションと呼んでいた気がします)もひとつ興味を引く部分です。この即興的な要素は90年代以降の日本映画にかなり頻繁に見られるもので、代表的なところでは諏訪敦彦や是枝裕和や橋口亮輔の名前が上がるでしょう。つまりこれは今の日本映画の流行ともいえるモノですが、それはこの「おかえり」やその同時代の作品から顕著になってきたといえるかもしれません。
 まあ、そんなジャンル的な話はどうでもいいのですが、このお話で私は、日本映画を敬遠している人にこの映画を見なさいといいたい。陳腐な言い方で言ってしまえばここに現代の日本映画が凝縮されていると。
 言ったそばから自分の言ったことを否定したい気分ですが、まあ宣伝文句としては上々でしょう。でもビデオはレンタルされていないので機会を逃さず見てくださいとしかいえませんが。
 さて話がばらばらになってしまっていますが、この映画にはとてもいいシーンがたくさんあります。しかしよくわからないシーンもあります。ひとつは孝が同僚と飲んでいる時にインサートされる飲み屋のおやじ、もうひとつは3回出てくるマンションから見下ろした夜の道。なんなんだろうなぁ、と思いますが、こういう物語とつながりのない部分がずっと印象に残っていたりする場合もあります。だからこれも無駄ではない。あるいは無駄にも意味がある。そのようなことも思ったりしました。

ルール

Urban Legend
1998年,アメリカ,99分
監督:ジェイミー・ブランクス
脚本:シルヴィオ・ホータ
撮影:ジェームズ・クレッサンティス
音楽:クリストファー・ヤング
出演:ジャレッド・レト、アリシア・ウィット、レベッカ・ゲイハート、ジョシュア・ジャクソン

 夜中にドライブ中のミッシェルはガス欠になり、あやしげなスタンドに立ち寄る。そこで怪しげな店員に襲われるがうまく逃げ出したが、実は車の後部座席に人が忍び込んでいたのだった。
 「スクリーム」「ラストサマー」といった流行のティーン・ホラーのひとつ。犯人が誰だかわからないというつくりも同じ。

 なんというか、この手のティーン・ホラーというのはいわゆるアイドル映画なわけで、とりあえずお気に入りの役者さんが出ていれば、劇場に足を運び、それで映画としても面白ければなおよしというものなんだと思います。だからそもそも映画としての評価がどうこうということもいう必要があるのかな。と思います。
 しかし、これは「スクリーム」や「ラスト・サマー」より後発の作品なので、ただの真似という評判をぬぐうためには何か工夫が必要だったはず。それが多分「都市伝説」で、アメリカの若者なら誰でも知っているであろう伝説を使うことで身近にもありえそうな話にするという工夫なわけですね。他には特にないか… でも、犯人はかなり分かりにくいですね。犯人がわかりにくいということは、裏返せばあとから見るとちょっと無理があるということになりがちというのもあります。この映画もそうですね…
 続編も製作され、ちょうど今公開されていると思います。

アモーレス・ペロス

Amores Perros
1999年,メキシコ,153分
監督:アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ
脚本:ギジェルモ・アリアガ・ホルダン
撮影:ロドリゴ・ブリエト
音楽:グスターボ・サンタオラヤ
出演:エミリオ・エチェバリア、ガエル・ガルシア・ベルナル、ゴヤ・トレド、バネッサ・バウチェ

 メキシコのスラムで母と兄と兄嫁と暮らすオクタビオは兄の兄嫁に対する暴力に腹を立てていた。そんなオクタビオの犬コフィが闘犬で稼ぐチンピラ・ハロチョの犬を噛み殺してしまった。それに重なるように挿入される犬を連れた老人による殺人は後に続く断章へのプロローグ。
 重なり合う3つの断章からなる作品。血と暴力にあふれているが、そこにあるのはメキシコシティという都市に住む人々のなまの人生であるのだろう。

 最初の断章がすごくいい。何者かに追われ、怪我をした犬を連れてくるまで逃げ回るという1つの場面から始まり、そこに至るまでを過去の時点から描きなおすという技法事態は新しいものではないが、観客の興味をひきつけるひとつの方法としては非常に効果的である。
 そして、そのシーンの映像がエネルギッシュであればなおさらである。手持ちカメラのクローズアップで展開されるスピード感が観客の期待をあおる。そしてその期待は、殺された男から流れた血が鉄板で煮えたぎり、血に飢えた闘犬が相手の犬の血を口から滴らせるのにあおられる。
 そんなシーンの連続に興奮させられたわれわれは闘犬のよう血を求め、血なまぐさいシーンが続くのを期待する。あるいは目をそむける。最初の断章はあくまでも暴力的で血なまぐさく進む。
 この血なまぐささは2つ目の断章でやわらげられるが、これは絡み合う断章のひとつというよりは、1つめから3つめに続く物語から派生したひとつの余話であるだろう。しかしもちろん共通する要素もある。ひとつは題名からも分かる犬であり、愛である。そして、この断章が加わることによって見えてくることもある。それはメキシコあるいはメキシコシティの全体像である。この3つの断章が存在することによってメキシコシティという町の多様性が見えてくる。そして、違う世界に住んでいる人であってもどこかで関わりあわざるを得ないとうことが。
 この映画で描かれるメキシコシティは「男」だと思う。それはラテン・アメリカに付き纏うイメージである「マチョ」でもある。最初の2つの断章に登場する男達は皆怒りっぽく、攻撃的だ。やさしそうに見えたオクタビオもダニエルも最後にはその攻撃的な正確をあらわにする。それに対してスサナとバレリアの2人が閉じ込められた存在であるというのは象徴的だ。女を支配しようとする男、そんな構図があからさまに浮かび上がってくる。そんな中ひとり異なった相貌を見せるエル・チーボ。私は彼をそのマチスモをひとつ乗り越えた存在と見る。女性を支配しようということをやめ、それよりも自分を支配することを目指す。かれもまた攻撃的な正確をあらわにするが、その攻撃は男にしか向けられない。マチスモを発揮して革命へ身を投じた彼がそこから戻ってきてマチスモを乗り越えた。そのように見える。しかし彼の娘への過剰な愛はまた別のマチスモを象徴しているのではないかという気もしないでもない。

ウォーターボーイ

The Waterboy
1998年,アメリカ,89分
監督:フランク・コラチ
脚本:ティム・ハーリヒー、アダム・サンドラー
撮影:スティーヴン・バーンスタイン
音楽:アラン・バスクァ
出演:アダム・サンドラー、キャシー・ベイツ、ヘンリー・ウィンクラー、フェアルーザ・バーク

 少々とろい31歳のボビーはママと2人ルイジアナ州の山奥に住んでいた。そんなボビーはみんなにいじめられながらもフットボールチームの給水係を懸命に努めていたが、コーチの怒りに触れてついにクビ。給水係を愛する彼は新しいチームを探してまわり、おんぼろチームに入り込むが…
 人気コメディアンのアダム・サンドラーが脚本に製作総指揮まで勤めた脳天気コメディ。ラジー賞常連のサンドラーはこの映画でも見事ワースト主演男優賞にノミネート。

 笑える人と笑えない人がいるでしょう。アダム・サンドラーの笑いはいつもそう。でも私は好きですこういうの。今回は共演にキャシー・ベイツを向かえてパワーアップ。親子のからみが最高でしょう。プロットもよめよめ、つくりも安っぽく、映画としてはガタガタですが、笑えればすべてよし。そしてうかうかしていると感動すらしてしまうかもしれない。
 これはドリフト同じ、新喜劇と同じ、子供の読む絵本と同じ、結末が分かり、筋がわかり、その安心感があるから安心してみることができる。そこにたまに入れ込まれた意外性が笑いのつぼにはいります。
 ナンバー1ギャグをあげるなら、キャシー・ベイツが1人で卓球のラケットで遊んでいたところかな。あとは、わけのわからない言葉をしゃべるコーチ。ナンバー1じゃなくなっちまった。まあいいや。
 多分アメリカなんかだと差別的表現なんかの問題で、PG12くらいになるんだろうけれど、これくらいの差別的表現はむしろ教育的なんじゃないかと真面目なことも考えたりします。むしろ差別を逆手にとって笑いにすることで、差別する側を笑うみたいな意味にも取れるんじゃないかしら。アダム・サンドラーがどう考えているかはわからないけど。これを見て笑えないような偏狭な大人にはなるな! と言いたいです。

ブレックファースト・オブ・チャンピオンズ

Breakfast of Champions
1999年,アメリカ,109分
監督:アラン・ルドルフ
原作:カート・ヴォネガット・ジュニア
脚本:アラン・ルドルフ
撮影:エリオット・デイヴィス
音楽:マーク・アイシャム
出演:ブルース・ウィリス、アルバート・フィニー、ニック・ノルティ、バーバラ・ハーシー、オマー・エプス

 CMでも有名な中古車販売会社の社長ドゥエイン・フーバーはその人柄で町じゅうの人から愛されていた。しかし、自殺願望に取り付かれた妻や愛人のフランシーに振り回されてイライラが募る毎日だった。そんなある日、たまたま聞いた無名のポルノ作家キルゴア・トラウトの名前がなぜか頭から離れなくなる。
 アラン・ルドルフは「愛を殺さないで」などいろいろなジャンルを手がけている監督。この作品はコメディといいながら、果たしてどの辺がコメディなのかわからない不思議な映画。

 ここまでわけのわからない映画は久しぶりに見ました。コメディとしては笑えない。ファンタジーとしては夢がない。サスペンスにしては謎がない。そのくせ先が全く読めない。特におもしろくもないのに、結末が気になって最後まで見てしまう。そんな感じです。
 コメディとして気に入ったのは、オマー・エプス演じるウェイン・フーブラーかな。わけのわからない映画に登場するわけのわからないキャラクター。それを野放しにしてしまう映画。そもそも一体どれがギャグなのかわからない。いつの間に車で生活しているのか?
 それに対して、ニック・ノルティの役は個人的にはあまり。女装で笑わせるという発想はもう古いという感じがしてしまいます。それならそれで、あれでドラッグ・クイーンとして舞台に立っていて… とか思い切った展開にして欲しかったところです。
 それにしてもわけがわからなかった。この映画を理解した人がいたら教えて下さい。ただの笑えないギャグ映画なのか? それとも狂人たちの言葉の裏に込められた何らかの哲学をメッセージとして伝える映画なのか… ポルノ作家といわれるキルゴア・トラウトの存在もまた謎。実は彼の存在は野卑な三文文学を芸術にしてしまういまどきの社会に対する皮肉なのか? などと深読みをしてみたりもします。