深紅の愛

Profundo carmes
1996年,メキシコ=フランス=スペイン,114分
監督:アルトゥッーロ・リプスタイン
脚本:バス・アリシア・ガルシアディエゴ
撮影:ギリェルモ・グラニリョ
音楽:デヴィッド・マンスフィールド
出演:レヒナ・オロスコ、ダニエル・ヒメネス・カチョ、マリサ・パレデス

 コラルは二人の子供を抱え、看護婦で何とか生計を立てていたが、ひとり身であることから欲求不満がたまる。太ってしまったことを気にしながら、雑誌の恋人募集欄で見つけたニコラスという男性に手紙を書く。ニコラスは鬘をかぶり、手紙を送ってきた女性を騙す詐欺しまがいの男だったが、コラルはニコラスに恋をしてしまう。しかし、その恋はコラルの運命を変えてしまった…
 実話をもとにメキシコの巨匠リプスタインが映画化した作品。画面もリズムも物語りもどこか不思議な違和感を感じさせるところがとてもいい。

 冒頭のシーン、鏡に映りこんだポートレイトから始まり、同じく鏡に映りこんだベットに横たわり雑誌を読むコラルが映る。そのあと一度鏡を離れ、再び今度は違う鏡にうつる。そしてさらにベットに横たわるコラルを今度は直に。このカメラの動きにいきなりうなる。技術論うんぬんという話はしたくないですが、鏡を使うのが難しいということだけ入っておきたい。カメラを動かしても不必要なものが鏡に映りこまないようにものを配置することへのこだわり。これは難しいからすごいということではなく、そのような面倒くさいことをやろうというこだわりがすごいということ。さすが巨匠といわれるリプスタインだなという感じです。
 このシーンでさっと身構えたわけですが、この映画はかなりすごい。まったくもってマイナーな作品だと(多分)思いますが、まさに掘り出し物。そのすごさは映画の完成度にあるのではなく、その煩雑さにある。まずもって画面が煩雑、様々な色彩が画面に混在し、ものがごちゃごちゃとしていて落ち着かない。それはすっきりとした画面を作るより難しいこと。主人公2人のキャラクターも秀逸。パッと見、全く魅力的でなく、画面栄えしない2人だが、その姿が煩雑な画面にマッチし、なんともいえないリアルさをかもし出す。さらにコラルは物語が進むにつれて魅力的に見えてくるから不思議、そしてニコラスの鬘に対する恐ろしいまでの執着、2人の異常性へのさりげない言及などなど、細かな配慮がすべてにおいて効いている。
 プロットの面でも、ひとつひとつのエピソードを追っていかないところの違和感がいい。「このあとどうなるんだ?」という疑問を浮かべさせるようなエピソードの終わり方をしていながら、その後を追うことはしない。疑問符がついたまま次の展開へと移ってしまう。その投げ出し方の違和感がいい。だから結末の投げ出し方がもつ違和感にもかかわらず、見終わって感動すら感じてしまうのかもしれない。
 なかなかこういう違和感というのは表現しにくいものですが、これはつまりいわゆる一般的な映画とは違うという意味での違和感。完璧な舞台装置のまえで演じられるひとつの劇としての映画との齟齬感。しかもそれが偶然によるのではなく、作り出されたものであるということがひとつ重要である。それはつまり映画を否定しようという試み、いわゆる映画とは異なった映画を作り出そうという試み。そのような試みが顕れてくるような映画を私は愛したいのです。この映画もひとつそんな否定の可能性を孕むものとして面白いということ。これを不出来なメロドラマとしてみるのではなく、ひとつの挑戦であると見ることに快感があるのです。

エンター・ザ・イーグル

渾身是胆
Enter the Eagles
1998年,香港,93分
監督:コーリイ・ユエン
音楽:ペーター・カン
出演:シャノン・リー、マイケル・ウォン、アニタ・ユン、チャン・シウチョン

 美術館に展示される世界最大級のダイヤ「皇帝のプリズム」、これを狙って盗賊組織が動き出した。厳重な警備体制をかいくぐるべく、綿密な計画が練られるが、その一方でけちなスリの二人組みもそのダイヤを狙っていた。果たして成功するのはどちらか…
 ブルース・リーの実娘シャノン・リー主演の香港アクション。

 ブルース・リーの娘とはしらずに見ましたが、シャノンはなかなかよかったです。それも含めてアクションシーンはなかなかよかったなと思います。分かりやすく香港映画で、全く新しさは感じさせませんが、単純なことこそ香港映画の美徳。アニタ・ユンは意外にアクションもいけるのでした。
 それにしてもプロットはとてもお粗末で、アクション映画にありがちなプロットよりもアクションシーンが盛り上がればいいという姿勢が感じられます。なんといっても世界最大級のダイヤを警備しているわりには警備体制が甘すぎる。それはもちろん、盗むこと自体よりも、その後の戦い(奪い合い)と言えるものにプロットの重点が置かれているからですがね。
 と、この監督コーリイ・ユエン、どこかで聞いたことがあると思ったら「キス・オブ・ザ・ドラゴン」のアクション監督です。アクション監督という役職はよくわかりませんが、要するにアクションを指導したということでしょう。うーん、といわれても共通点とかはよくわかりません。でも「キス~」のほうがはるかによかった気はします。それはジェット・リーとシャノン・リーのさなのか、それとも香港とハリウッドの技術力の差なのか。
 ハイ、何も言っていない気がしますが、アクション映画というのは適当に作っても見れるものができてしまうという好例という感じでしょうか。逆に面白い作品を作るには相当作りこむか、何か面白い狙いを盛り込まなきゃいけないということです。

スキゾポリス

Schizopolis
1996年,アメリカ,93分
監督:スティーヴン・ソダーバーグ
脚本:スティーヴン・ソダーバーグ
撮影:スティーヴン・ソダーバーグ
出演:スティーヴン・ソダーバーグ、ベッツィ・ブラントリー、デヴィッド・ジェンセン

 マンソンは「イヴェンチャリズム」という自己啓発本の著者シュイターズという人物のオフィスで働く。そのオフィスでは、スパイ疑惑などというものが持ち上がっていた。それに、マンソンと同じ顔をした歯科医コルチェック(二人ともスダーバーグ自身が演じる)、害虫駆除を仕事としているらしいエルモという人物がからみ、話は展開していく。
 「セックスと嘘とビデオテープ」以後なかず飛ばずで、資金も底をつき、ハリウッドから見放されたソダーバーグがインディペンデントで撮った一作。あまりにわけがわからず、観客が入らなかったらしい。ということは逆に映画ファンを自認するなら必見。

 監督が、映画の最初で宣言したとおり本当にわけがわからない変な映画だけれど、これまた監督が宣言したとおり映画史に残る作品になるかもしれない。われわれに見える「セックスと嘘とビデオテープ」から「アウト・オブ・サイト」へのソダーバーグのジャンプのその最後がこの作品で、となるとその間の変化を探るということになりますが、この作品はむしろそれ以後の作品よりも革新的で、実験的なものであり、これこそが終着点であるという気もします。
 つまり、「セックス~」から「スキゾポリス」へ至る道をソダーバーグは「アウト・オブ・サイト」から再び(分かりやすい形で)歩み始めているのかもしれないということ。「アウト・オブ・サイト」の分かりやすさから「トラフィック」の斬新さへと進んだその道が、今後さらに進んでいくとするならば、それは再び「スキゾポリス」へと至るのだろうということです。
 確かに、映像の作り方や編集の仕方では現在のソダーバーグ作品に通じるところもあるが、これがいまの「完成された」ソダーバーグへの一つの段階であると考えるのは間違っていると私は思う。いまのソダーバーグ作品は監督が前面には出てこず、前衛性の中で生き返らされた役者達がその存在を輝かせている。本当にソダーバーグがソダーバーグらしくいられる作品が撮れるのはまだまだ先のことになりそうな気がする。
 異なった形で、資金も潤沢に、キャストも豪華に「スキゾポリス」的なものを作る。そして作りつづける。それがゴダールを敬愛してやまないソダーバーグの本当の終着点なのかもしれない。と思います。
 それにしてもわけのわからないこの映画。日本語を解してしまう私たちは幸せなのか不幸せなのか英語だけを理解してこれを見る観客が感じるものと日本語やイタリア語やフランス語を理解してしまう観客が感じるものはきっと違っている。そのような受け手によってあまりに見え方が違ってくる要素をふんだんに盛り込んだ作品なので、冒頭にソダーバーグ自身が言っているように何度も見なくてはわからないのかもしれない。それはあまりにわからなすぎて途中うたた寝してしまうという事も含めて…

ガッジョ・ディーロ

Gadjo Dilo
1997年,フランス=ルーマニア,100分
監督:トニー・ガトリフ
脚本:トニー・ガトリフ
撮影:エリック・ギシャール
音楽:トニー・ガトリフ
出演:ロマン・デュリス、ローナ・ハートナー、イシドア・セルバン

 フランス人のステファンは、父が生前聞いていたテープの歌い手「ノラ・ルカ」を探して、ルーマニアを旅する。その途中彼はロマと呼ばれる音楽家たち(いわゆる「ジプシー」)に出会い、彼らが「ノラ・ルカ」のところにつれてっくれると信じ、彼らの村に滞在する。
 音楽と映像が美しく絡み合い、ひとつのアートとしての統一感を持つ作品。「ロマ」に強い思い入れを持つガトリフ監督のロマものの中でも一番のできでしょう。

 「ジプシー」という言葉は差別語とみなされ、最近では「ロマ」を使うのが適切だとされているようだが、この作品を見ていると、そんな名称なんてどうでもいいという気になってくる。
 イシドールの顔に刻まれた一本一本の皺からも音楽が聞こえてくるような、空間すべてが音楽で満たされているような、そんな素晴らしい映画。ロマやジプシーといわれて思いつくのは、エミール・クストリッツァの「ジプシーのとき」という映画で、これも素晴らしい映画でしたが、もっと殺伐としていて、悲哀にみちた映画でした。どちらが本当ということはないですが、厳しい生活の中でも、明るい生活を送っているということが伝わってくるこの作品のほうが好みではあります。
 ガトリフ監督には「ベンゴ」という映画もありました。これはアンダルシアを舞台としたフラメンコ映画で、場所こそ違えどこの映画と近しいものを感じます。ほかには「ガスパール 君と過ごした季節」(ビデオでは、「海辺のレストラン ガスパール&ロバンソン」というタイトルになっているはず)、「MONDO」という作品もありました。どちらもなかなかいい作品。紹介できたらしたいところですね。

ターミネーター2 特別編

Terminator 2: Judgement Day
1991年,アメリカ,153分
監督:ジェームズ・キャメロン
脚本:ジェームズ・キャメロン、ウィリアム・ウィッシャー
撮影:アダム・グリーンバーグ
音楽:ブラッド・フィーデル
出演:アーノルド・シュワルツェネッガー、リンダ・ハミルトン、エドワード・ファーロング、ロバート・エリック、ジョー・モートン

 あのターミネーターが再び現代に現れた。前作でターミネーターと対決したリンダの息子ジョンは里親に預けられ、リンダ自身は精神病院に収容されていた。ジョンを探し出そうとするターミネーターに対し、もう1人未来からやってきた男がいた…
 世界的ヒットとなった「ターミネーター2」の特別編で、1分ほど長いバージョン。いわゆるディレクターズカットで、オリジナルのアクション重視に対して物語的に重要と思われる場面が追加されている。

 何度見たか知れない映画ですが、久しぶりに見ると、この映画の面白さは「笑い」の部分にあるのだと感じます。ターミネーターのおかしさを笑う。その人間として未熟なサイボーグという描き方は、あくまで人間にとってロボットというのは自分より低い位置にあるものでしかないということをいみし、大量殺人を行うことができるターミネーターであっても、自分に従うものであればペットの一種でしかないということになるのでしょう。そこから生じる笑いは子供や動物を使った笑いと同種のもので、それを見た目のごついターミネーターがやるところが面白いということでしょう。
 ほかにもアクションとか書けることは多いはずですが、いまさらというきもするので、話を飛躍しましょう。

突然始まる単発コーナー
 日々是映画の「映画は科学する」第1回 タイムマシーンは戻れない

 ターミネーターの謎は、タイムトラベルというところにある。ターミネーターを生むことになるサイバーネットが存在するのはターミネーターが存在していたからだという「卵が先か鶏が先か」的な議論は絶対的に解明することはできない。それは、ターミネーターが存在しなければターミネーターは存在しないという循環論理を含むからである。
 では、なぜこういうことがおきるのか考えてみた。その鍵は「未来は変化する」という考え方の問題にあるだろう。未来が変化するというのは世界を4次元に切り取った場合に、時間軸上の1点を変化させることで、その時間軸上の先の点が変化するという意味である。つまり、現在(点p)から未来(点q)へと進むはずだったものが、別の未来(点q’)へと進むということである。問題となるのは、このとき点qと点q’は根本的に異なる点であって、qがq’に変化したわけではないということである。4次元空間では1つの時点について点は1点しか存在しないためそれは変化し得ない。それは2次元上の1点が変質できないのと同様である。 したがって、同一時点で何らかの変化が生じる場合は5次元空間を想定する必要が出てくるだろう。それはイメージ化するならば、1つの瞬間(3次元空間)をひとつの点と考え、それに対して時間軸と事象平面を想定するというものである。この事象平面というのは(私の勝手な造語ですが)ある時点においてありうべき事象をプロットした平面である。このような5次元空間を想定するとしたならば、われわれが「時間」と考えているものは、過去の1点から現在の1点、さらに未来の1点を結ぶ直線であると考えられる。
 このときわれわれが「未来」と呼ぶものは過去から現在を結んだ直線をそのベクトルにしたがって延長したものであり、その時点での必然的な未来であるわけだ。しかし、現在に対して何らかの力によって別方向のベクトル力が加えられると、未来に向けたベクトルが変化する。そのような変化が起こると過去から未来へと至る直線は現在で折れ曲がり、別の未来へと向かう新たな直線が現れるのである。
 これをターミネーターに当てはめてみると、ダイソンを説得して、サイバーネットの開発をやめさせたということはひとつのベクトル力であり、それによってそれまで必然的な未来であったターミネーターがやってきた未来にはたどり着かないということになる。
 もし、タイムマシーンが直線的な(4次元的な)時間移動しかできないとしたならば、過去へとやってきたタイムマシーンはそれだけで一種のベクトル力となり、その現在が向かう未来はそのタイムマシーンがやってきた未来とは異なる未来となってしまう。したがって、そのタイムマシーンがやってきた時点へと戻ったとしても、そこに現れるのはそれまでいた未来とは異なる未来でなければならない。
 だから、「タイムマシーンは戻れない」。タイムマシーンが戻るためならば、時間軸と同時に事象平面でも移動できる(5次元的な)時間移動ができなければならない。
 話が長くなってしまいましたが、「ターミネーター」でポイントとなっているひとつの言葉「未来は自分で決めるもだ」というのは100%真実であるということがいえるのである。

裸足のピクニック

1993年,日本,92分
監督:矢口史靖
脚本:鈴木卓爾、中川泰伸、矢口史靖
撮影:古澤敏文、鈴木一博
音楽:うの花
出演:芹沢砂織、浅野あかね、あがた森魚、泉谷しげる

 ごく普通の女子高生がキセル乗車を見咎められたことをきっかけに、どうにもならない不幸のどん底へと陥って行く。ただただそれだけの映画。
 しかし、どんどん繰り出されるブラックな笑いの渦に巻き込まれると、どんどん映画に引き込まれて行く。矢口史靖監督の長編デビュー作。

 「アドレナリンドライブ」を見ると、むしろ「裸足のピクニック」のすごさが際立ってくる。これだけお金をかけずに、これだけめちゃめちゃな映画なのに面白い。役者もほぼ無名な人たちばかり。身代わりの人形はあまりにしょぼい。なのに面白い。あるいはそこが面白い。
 この映画を見ると、「映画の面白さっていったい何なんだ」と考える。よくできていて、その世界にすんなりと入り込める映画も面白ければ、この映画みたいに明らかに作り物で、ただそこに変なことをやっている人たちがいる面白さもある。このような映画(いわゆるインディーズ映画)を「いわゆる映画的なものを壊している」という表現でくくってしまっていいのか?と考える。
 分析して行くとますます違うもののように思えてくる、いわゆる「映画」といわゆる「インディーズ映画」が実際は同じ「映画」でしかないことを考えると、こんな区別が果たして意味があるのかという疑問がわいてくる。
 「インディーズ映画」というのは結局のところ「インディーズ=低予算」であるということだ。気をつけなければいけないのは「インディーズ=実験的」では(必ずしも)ないということ。実験的なのではなくて、お金がないがゆえに工夫に富んでいるだけかもしれない。
 そう考えると、徐々に「インディーズ映画」もまた映画であることが納得できて行く。「映画」になるために工夫を凝らされた「映画ではないもの」が本当に「映画」になった瞬間がインディーズ映画であるといえるんじゃないか。(だとすると、PFFのスカラシップっていうのは、まさしくインディーズ映画の工場みたいなもの「映画」を作りたくてうずうずしている若い監督に1000万(多分)という、「映画」を作るには少なすぎるお金を渡して「映画」を作らせる試み。そこから生まれてくるものは常に「インディーズ映画」と呼ぶにふさわしいものなのかもしれない)
 ならば、「裸足のピクニック」という素晴らしいインディーズ映画をとった矢口監督が「映画」を作ろうとして本当に「映画」を作ってしまった「アドレナリンドライブ」がいまいち納得できなかったのもうなずける気がする。

恋する天使

大三元
Tri-star
1996年,香港,107分
監督:ツイ・ハーク
脚本:ツイ・ハーク、チェン・チュンタイ
撮影:アーサー・ウォン、クリストファー・ドイル
音楽:クラレンス・ホイ
出演:レスリー・チャン、アニタ・ユン、ラウ・チンワン

 結婚式を執り行う神父のツォン。しかし、その新婦は3ヶ月前恋人に借金を背負わされて借金取りに追われ、たまたまツォンの教会に逃げ込んできた売春婦のバイ。物語は、ツォンとバイ、それに売春組織と間抜けな刑事、ツォンの従妹が絡んで展開される。
 ジャンルとすると、コメディなのか、ラブ・ストーリーなのか、判別つきがたいところですが、多分コメディ。

 昨日の「食神」と同じ香港、同じ製作年。どうしても見劣りしてしまうのは、この映画のテンポのなさ。映画の流れとしてはスムーズに進んでいるようだけれど、コメディとしては笑いを誘うネタの間隔があきすぎていて、コメディを見ているのか普通のラブストーリーを見ているのか分からなくなってしまうほど。ラブストーリーとしてはお粗末すぎるので、ラブコメなのでしょう。
 面白かったところを思い出すと、神父さんが40年前に着ていた衣装。あとは、ひげの刑事周辺は結構面白かった気がするんですが、あの刑事の立場というか位置づけがいまひとつ判然としないので、なかなかすっきりとは笑えずじまい。あとは、従妹ももう少し頑張れば面白くなりそうなのに、あまり生かされずに終わってしまう感じ。ああ、カメラやさんのところは結構面白かったですね。かなりベタな感じのネタ使いがよかった。
 うーん、という感じでしたが、笑いのつぼというのはかなり人によって違うものなので、難しいところです。でも、コメディとかお笑いを見て、どこが面白かった、面白くなかったと人と話すのは楽しいもの。わたしのコメントを見て「えー、センスないなあ」と思うのももちろん自由なのです。そんなことを思うので、私はつまらないと人に言われたコメディもついつい見てしまう。たいがいは面白くないですが、たまに掘り出し物があったりします。めげずに頑張ります。コメディ通への道は険しいのです。

食神

食神(Shi Shen)
The God of Cookery
1996年,香港,92分
監督:リー・リクチー、チャウ・シンチー
脚本:チャウ・シンチー、K・C・ツァン、ロー・マンサン
音楽:クラレンス・ホイ
出演:チャウ・シンチー、ヴィンセント・コク、カレン・モク、ン・マンタ

 香港で「食神」と呼ばれる周はテレビ番組でも人気者、たくさんの店をチェーン展開して優雅な生活を送っていたが、新しい店の開店の日、ライバルの計略によってその地位から転落させられてしまう。
 香港のコメディスター、チャウ・シンチーの監督・主演作、なんともいえない独特のセンスのネタの連発に笑わずに入られない。

 笑いのセンスはとても好き。豊富なベタネタ(女子高生とか)とか、少林寺の十八鉄人(繰り返しは笑いの基本)とか、かなり笑いの壺をついてきます。カレン・モクの不細工さも相当すごい。
 しかし、香港のコメディを見ていつも思うのは物語の単純さ。大体最初の10分で最後までの展開が大体見通せてしまうところ。この作品も(少林寺以外は)読める展開になってしまいました。もっとプロットの魅力で引き込んで行くと、ネタも生きてくると思うのですが… それと、オチの弱さも気になるところです。個人的にコメディ映画の観後感の半分は落ちの強さで決まると思っているので、こう分かりやすく終わってしまうと、なんだか物足りない気がします。そしてエンドロールのNG集もどうだかねという感じ。これだけあいだのネタが面白いと、オチにも期待してしまうのが人情というもの。
 と、なんだかおしい気がするコメディですが、他の作品も見てみようかなと思うくらいに笑いのセンスは体にフィット。本人の監督・脚本じゃない方が面白いのかな… などと思ってしまいます。どうなんだろう。

チューブ・テイルズ

Tube Tales
1999年,イギリス,89分
監督:エイミー・ジェンキンズ、スティーヴン・ホプキンス、メンハジ・フーダ、ボブ・ホスキンス、ユアン・マクレガー、アーマンド・イアヌッチ、ジュード・ロウ、ギャビー・デラル、チャールズ・マクドゥガル
脚本:エド・アレン、ゲイビー・デラル、ポール・フレイザー、アタランタ・グーランドリス、マーク・グレイグ、スティーヴン・ホプキンス、アーマンド・イアヌッチ、エイミー・ジェンキンズ、ハーシャ・パテル、ニック・ペリー
撮影:スー・ギブソン、デヴィッド・ジョンソン、ブライアン・テュファーノ
音楽:サイモン・ボスウェル、マーク・ハミルトン・スチュワート
出演:レイチェル・ワイズ、レイ・ウィンストン、ジェイソン・フレミング、デニス・ヴァン・オーテン、ケリー・マクドナルド

 ロンドンの地下鉄「チューブ」を舞台に9人の監督が9つのエピソードを撮ったオムニバス作品。1本は10分程度なので、完全に短編集という感じだが、どの作品を一筋縄では行かない癖のあるもの。ユアン・マクレガーとジュード・ロウが監督として参加している。

 どれがどうというのは難しいので、ばらばらと行きましょう。
 個人的に好きなのは、2話目の”Mr. Cool”(多分)かな。あの笑いはかなり好き。とてもイギリス的な笑いという感じがしていいです。イギリス的というと、何話目だか忘れましたが、”My Father the Liar”がとてもイギリス映画らしくてよかったですね。あのおとうさんと子供のコンビが画面に映っていたら、0コンマ1秒で「イギリス映画!」と叫んでしまいそう。画面の暗さとかパースの取り方にイギリスっぽさがあるのだなあという感じ。中身もタイトルもなかなかだと思います。
 あとは、”Rosebud”も好みの感じでした。「アリス」ものの変種という感じですが、「ミスターH」と地下通路の独特の感じを使ってとてもいい画になっていたと思います。あの黒人の(アフリカ系の)おばさんはどこかで見たことがある感じがするけど誰だろう。
 あとは、全体的にアフリカ系の人が多く登場しているというのが印象的。われわれから見ると、イギリスというとやはり白人のイメージが強いのだけれど、実際はかなりいろいろな人種がいる国で、「チューブ」はその様々な人種が交差する場であるとこの映画は主張しているかのようです。様々な人種がいて、しかしそれ以前にみんな「個」として存在し、普段は単純にすれ違うだけだけれど、何かの拍子にそこに交流が生まれる。拒否という態度でもいいけれど、ひとつの交流が生まれる。それはチューブという「場」があるからこそ可能なことで、その交流のほとんどは決して気分のいいものではないにしても、その中に何かいいものが隠されている。というところでしょうか。

シックス・センス

The Sixth Sense
1999年,アメリカ,107分
監督:M・ナイト・シャラマン
脚本:M・ナイト・シャラマン
撮影:タク・フジモト
音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
出演:ブルース・ウィリス、ヘイリー・ジョエル・オズメント、トニー・コレット、オリヴィア・ウィリアムズ

 優秀な児童心理学者のマルコムは市長から賞状をもらい、妻とそれを祝っていた。二人がワインを片手にベッド・ルームへと行くと、そこには侵入者の気配が。その侵入者はマルコムが依然見た患者の1人だった。その男はマルコムを「救えなかった」と責めた挙句に、マルコムに銃を発射した。
 少しホラータッチのヒューマンドラマ。M・ナイト・シャラマンとオズメント君がブレイクした作品。

 M・ナイト・シャラマンという監督も、オズメント君もいまひとつ気に入らなくて、こんな映画面白いはずがないと思いながら、なんとなく見ないで来てしまったこの映画ですが、見ればなるほど面白い。しかし、重要なのはこの映画の面白さは監督術にあるのでもなく、役者の演技にあるのでもなく、脚本にあるのだということ。結局のところ、私のシャラマンとオズメント君への偏見は変わらず残ったのでした。
 ということで、脚本が素晴らしいということをいっておいて、ネタばれ防止の意味も含め、内容には触れずに過ごしましょう。でも、細かく見ていくとかなり不具合があります。つながらない矛盾したところが。それを驚きとか感動とかいった要素で覆い隠している。これもひとつの手法であって、うまく隠してしまっているので、よしということなのでしょう。
 で、ストーリーを別にすると、映画の中で非常に印象的なのは赤の色彩。教会、学校、オズモント君の隠れ家?などなど。この「赤」に何らかの意味があるのだろうと思いながら映画を見ていたのですが、終わってみて考えてみても、特段意味は見つかりません。赤という色彩はパッと目を引くので、カットの代わりばなの画面に赤いものが含まれていると(他のトーンが地味ならば)そこに目が行きます。だから画面に赤を配置することそれ自体で効果的ではあるのですが、それが繰り返されると、そこに何らかの意味付けがあるのだろうと推測してしまうのが人間。ということは、そういう方法をとる以上、何らかの意味付けか、意味付けがないことの正当な理由がなければいけないと思います。単なる構図上の美しさとかその程度のことでもいいのですが、何らかの統一性がそこにないと、落ち着かないわけです。落ち着かない…
 この映画の赤は時に画面のアクセントであって、時に画面を支配する色であって、それでそれぞれの赤いものが持つ意味合いも違っていて、赤が支配する画面の意味もばらばらで、いたずらに流れを混乱させるだけの存在になってしまっています。あなたはいくつ赤いものを思い出せますか? オスメント君のセーターとか。