地獄の黙示録 -特別完全版-

Apocalypse Now Redux
2001年,アメリカ,203分
監督:フランシス・フォード・コッポラ
脚本:フランシス・フォード・コッポラ、ジョン・ミリアス
撮影:ヴィットリオ・ストラーロ
音楽:カーマイン・コッポラ、フランシス・フォード・コッポラ
出演:マーティン・シーン、マーロン・ブランド、デニス・ホッパー、ロバート・デュバル、フレデリック・フォレスト、アルバート・ホール

 ベトナム戦争のさなか、一時帰国後サイゴンで腐っていた陸軍情報部のウィラード大尉が上層部に呼ばれる。彼の新たな任務は現地の兵士たちを組織して独自の作戦行動をとるようになってしまったカーツ大佐を探し出し、抹殺するというものであった。ウィラード大佐は3人の海兵隊員とともに哨戒艇に乗り込み、ベトナムの奥地へと向かう。
 1979年に製作され、コッポラの代表作となったオリジナルに53分の未公開シーンを加えた完全版。恐らくコッポラとしてはそもそもこの長さにしたかったのでしょう。

 この映画がリバイバルされることは非常に意味がある。この映画は「音」の映画であり、この映画の音を体感するには近所迷惑覚悟で、テレビのボリュームを最大にするか、劇場に行くかしなければならない。大音量で聞いたときに小さく聞こえるさまざまな音を聞き逃しては、この映画を本当に経験したことにはならないからだ。
 音の重要性はシーンのつなぎの部分の音の使い方からもわかる。この映画はシーンとシーンを音でつなぐことが多い。シーンとシーンの間で映像は飛んでいるけれど音は繋がっている。というようなシーンが非常に多い。あるいは、シーンの切れ目で音がプツリと切れる急な落差。そのように音を使われると、見ている側も音に敏感にならざるを得ない。そのように敏感になった耳はマーロン・ブランドのアタマを撫ぜる音を強く印象づける。
 ウィラード大尉の旅は一種のオデュッセイア的旅であるのかもしれない。そう思ったのは川を遡る途中で突然表れた浩々とともる照明灯。それを見た瞬間、「これはセイレンの魔女だ」という直感がひらめいた。もちろんウィラード大尉はオデュッセイアとは異なり、我が家へ、妻のもとへと帰ろうとするわけではない。彼は殺すべきターゲットのもとに、いわば一人の敵のもとへと向かうのだ。しかし、その旅の途上で彼はカーツ大佐に対して一種の尊敬の念を抱くようになる。しかも、彼は帰るべき我が家を失ってしまっていた。一度我が家であるはずの所に帰ったにもかかわらず、そこは落ち着ける所では無くなってしまっていた。そんな彼が目指すべき我が家とはいったいどこにあるのというのか?
 またその旅は、現実から遠く離れてゆく旅でもある。川を上れば上るほど、ベトナムから遠く離れた人々が考える現実とは乖離した世界が展開されて行く。果たしてベトナムにいないだれが軍の規律を完全に失ってしまった米軍の拠点があると考えるだろうか? ベトナムから離れた人たちにとっては最も現実的であるはずの前線がベトナムの中では最も現実ばなれした場所であるというのは非常に興味深い。
 そもそも戦争における現実とはなんなのか? 戦争において現実の対極にあるものはなんなのか? 狂気? 狂気こそが戦争において唯一現実的なものなのかもしれない。 恐怖? 恐怖は戦場では常に現実としてあるものなのだろうか? 

カンダハール

Safar e Ghandehar
2001年,イラン,85分
監督:モフセン・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ
撮影:エブラヒム・ガフォリ
音楽:モハマド・レザ・ダルビシ
出演:ニルファー・パズィラ、ハッサン・タンタイ、サドユー・ティモリー

 カナダに亡命したアフガン人ジャーナリストのナファス。20世紀最後の日食の日に自殺するという手紙を妹から受け取った彼女はカンダハールにいる彼女を救うため、戦火のやまぬアフガニスタンに入りカンダハールへ向かう。まずはイラン国境のキャンプへ行き、アフガニスタンに帰る難民の家族に紛れさせてもらったが、簡単にカンダハールにたどり着くことはできなかった。
 キアロスタミと並ぶイランの巨匠マフマルバフが実話を元にアフガニスタンを描いた話題作。一種のロード・ムーヴィーの形をとり、アフガニスタンの現状がわかる形でドラマが展開してゆく。

  まずは「9・11」に触れなくてはならない。隣国に住むマフマルバフはアフガニスタンに気づいていた。そしてアフガニスタンを世界に思い出させようとした。しかしマフマルバフでさえ遅すぎたのかもしれない。マフマルバフが「カンダハール」を完成させたころ、タリバーンはバーミヤンの石仏を破壊した。マフマルバフは「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない。恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」という文章を発表し、世界にアフガニスタンを思い出させようとした。
 しかし世界は9月11日までアフガニスタンのことを思い出さなかった。私もまたその一人だ。「カンダハール」がもう少し早くできていたなら、何かが変わっていたかもしれない。もう少し早く世界がアフガニスタンを思い出していたならば、何かが変わっていたかもしれない。
 ナファスは妹を救うことができなかったのかもしれない。運命を変えることができなかったのかもしれない。この映画ができたのはナファスを演じるニルファー・パズィラが自殺を図ろうとしている友人を救うためマフマルバフに助けを求めたことに始まった。彼女の友人は自殺を思いとどまったのだろうか?この映画は何かを変えることができたのだろうか?
 しかし、少なくとも、この映画は今後何かを変えることができると思う。ビン・ラディンとタリバーンをEvil(悪)と決め付けてしまったアメリカと世界がこの映画を見たらどう思うか。報道統制をしてまでビン・ラディンを絶対的な「悪」に祭り上げたブッシュはこの映画を見て自らを恥じ入るだろうか? ホワイトハウスからこの映画を見たいという要請があったらしいが、ブッシュは彼が虐殺したタリバーンなるものはこの映画の中で小銃を握りながら列になってクルアーン(コーラン)を読む少年たちに他ならないことに気づくだろうか?個々の人間から遊離したタリバーンという概念を「悪」と決め付けることでそれを構成する人々もまた「悪」であると決め付けるその暴力性。あちこちで言われているように「爆弾でブルカを脱がすことはできない」のだ。
 われわれはアメリカの報復の醜さと非道さをもっと声高に叫ばなければならない。暴力を更なる暴力で打ち消そうとすることのむなしさを訴えなければならない。

 さて、言わなくてはならない、そしてまたもっとも言いたかった「9・11」についてはひとしきり言ったので、その文脈からちょっと距離を置いたところで映画を見てみましょう。
 義足にパラシュートをつけて投下するヘリコプターが結び目となってひとつの円を描く時間。この円の概念はマフマルバフのひとつのイメージだ。「行商人」も一つの時間の円還を描き、「サイクリスト」は回ること自体が映画であり、「パンと植木鉢」にも円を描く時間が出てきた。この円のイメージはハリウッドに代表される西洋の映画の線形の時間に対するアンチ・テーゼだろう。西洋の独善的なものの見方を否定するための足がかりとして時間の概念から突き崩す。そんな意図の現われだと思う。だから線形の時間の捉え方で物語のつじつまを合わせようとしてもそれは無理な話だ。そしてこれをファンタジー、あるいはファンタジックと決め付けて簡単に片付けてしまって疑問を覚えないのは一つの見方でしかものを見られない狭量さである。
 そんな狭量な見方でこの映画をマフマルバフを見ると、映画の中の人々を感じ取ることができない。義足を騙し取ろうとする男や妻の義足を取りに来た男に対処する赤十字の医師の困惑や苛立ちを共有し、彼らを邪険に追い返してしまうことになる。それはこの映画をも追い返してしまうことだと思う。映画の外部から映画の世界に入るには、ブラック・ムスリムの医師のように付け髭をつけて彼らを感じ取ろうとしなければならないのだろう。貧しさですべてを片付けてはいけないと思う。貧しさからすべてを説明しようとしてはいけないと思う。歌を歌うのを見られるのが恥ずかしいという少年ハクとナファスの聞こ
えないところで録音を吹き込むブラック・ムスリムの医師のその相似に、この映画へと入り込む鍵があるのかもしれないと思った。
 円ということに話を戻すと、映画自体も日食に始まり、日食に終わる。その日食はもちろん同じ日食で、これもまたひとつの円還であるのだ。フィルムの最初と最後をつなげば、それは終わることのないエンドレスの物語となる。物語がそのように繰り返されたならば、そこに浮かび上がってくるのはどのようなものだろうかと考えるのは考えすぎだろうか?

千と千尋の神隠し

2001年,日本,125分
監督:宮崎駿
原作:宮崎駿
脚本:宮崎駿
音楽:久石譲
作画:安藤雅司
出演:柊瑠美、入野自由、夏木マリ、内藤剛志、沢口靖子、菅原文太

 都会から郊外へと引っ越すことになった千尋と両親は来るまで引越し先に向かっていた。その途中で迷い込んだ道の行き止まりにあったトンネルを抜けると、そこには朽ち果てたような建物が並ぶ不思議な空間だった。両親に引っ張られるようにその空間に入り込んだ千尋は日が沈むころ不思議な少年にであった。
 八百万の神々が集う湯屋に迷い込んだ人間の少女を描いたファンタジックな物語。ほのぼのとした中にスリルと謎を織り込んだジブリらしい作品。

 夢のない大人になってしまったのか、それとも夢の世界に浸りきっているのか、こんな夢物語では感動できない自分に気づいてしまう。いわゆる「現実」からいわゆる「夢」の世界へと行き、戻ってくるというだけのお話なら、別に宮崎駿じゃなくたっていいんじゃないかと思う。宮崎駿なんだからもっと現実と夢との乖離を小さくして、この「現実」世界の隣にもこんな「夢」世界が現実に存在していると思い込めるくらいの説得力がほしかったと思う。
 そんなことを考えながら、昔の作品などを思い浮かべてみると、同じような設定なのは「となりのトトロ」くらいのもので、ほかはそもそもからして架空の世界の話だったりする。そして、なるほどトトロもあまり納得がいかなかったなと思い出す。
 さて、ということなので、物語には重きをおかず、細部を考えて見ましょう。 宮崎駿のアニメを見ていつも思うのは、カメラの存在が意識できるということ。もちろんアニメなので、カメラは存在しないのだけれど、あたかもカメラが存在しているかのように画面が構成されている。この映画でも冒頭の一連のシーンではカメラのパン(横に振ること)やトラヴェリング(いわゆる移動撮影)だと錯覚させるような映像が出てくる。その後も人物のフレーム・インやズーム・アップという手法が出てきたりする。このようにしてカメラを意識させることで生まれる効果はおそらくオフ・フレームを意識させるという効果だろう。アニメだからもちろんフレームの外側なんて存在しないのだけれど、カメラの存在を意識すると、自然にその外にもものがあると考えるようになる。だから単純に画面の中だけで作られたアニメーションよりも広がりがあるように感じられるのだと思います。
 これは余談ですが、この映画の中でもっとも宮崎駿らしいと私が思ったのは、千がパイプの上を走るシーン。パイプが外れて落ちそうになるんですが、その落ちそうなパイプの上を走るさまですね。ナウシカでいえば、くずれそうになる橋を渡る戦車。この崩れそうなものの上を急いで走るのを見ると、「あ、はやお」と思います。

 ところで、前に『西鶴一代女』をやったときに、『千と千尋』について触れたのでそれも載せておきます。

 私がこのシーン(田中絹代ふんする遊女お春が金をばら撒く金持ちの男に振り向かないというシーン)でもうひとつ思い出した映画は『千と千尋の神隠し』。ちょっとネタばれにはなりますが、こういうことです。
 カオナシが次々と金の粒を出すと、湯屋の人(?)たちはそれを懸命に拾うが、千だけは拾おうとしない。それでカオナシは千に惹かれるという話。その金が贋物であるという点ものこの映画とまったく同じ。古典的な物語のつくりということもできるけれど、私は宮崎駿がこの映画ないし原作(にこのエピソードがあるかどうかは知らないけれど)からヒントを得て作ったんじゃないかと思います。これだけシチュエーションが違うのに、頭に浮かぶってことはそれだけ内容的な類似性があるということですから。
 もしかしたら、宮崎駿と溝口健二というのは似ているという話に行き着くのかもしれません。溝口の作品はあまり見ていないので、ちょっとわかりませんが、そんな結論になるのかもしれないという気もします。

 ということで、宮崎と溝口は似ているのかと考えてみたのですが、ある種の想像世界を好むという点や女性を主人公にする点は似ている。ただどちらも溝口のほうが宮崎よりも大人向きというか、生々しい感じになる。かといって、宮崎が溝口を子供向けにしたものというわけでもない。
 んんんんんんん、あまり似てない。かな。
 ふたりは興味の方向性が似ているということはあるけれど、作風としてはあまり似ていない。物語に対する考え方がちょっと似ているかもしれないので、それはまた考えることにします。

A.I.

A.I. Artificial Intelligence
2001年,アメリカ,146分
監督:スティーヴン・スピルバーグ
原作:ブライアン・オールディス
原案:スタンリー・キューブリック
脚本:イアン・ワトソン、スティーヴン・スピルバーグ
撮影:ヤヌス・カミンスキー
音楽:ジョン・ウィリアムズ
出演:ハーレイ・ジョエル・オスメント、フランシス・オコナー、ジュード・ロウ、ウィリアム・ハート

 地球温暖化でニューヨークが海の底に沈んだ未来世界、人口抑制のため妊娠は認可性になった。サイバートロニック社はそんな親たちのために代用ロボットを開発。ホビー博士はそこに「愛」をインプットする研究を進めた。息子を不治の病で低温睡眠に置いているサイバートロニック社の社員ヘンリーとモニカの下にその1号機「デヴィッド」がやってくる。
 スピルバーグが故キューブリックのアイデアを映像化。最も有名な子役オズメント君を使ってロボットと愛というテーマを描く。

 物語のテーマから考えていくとあまりに甘っちょろすぎるという感じ。結末はいえませんが、その終わり方はどうなんだ? スピルバーグ平和ボケか? と思ってしまう。同じ「ロボットと愛」ものなら「メトロポリス」(アニメのね)のほうが数倍面白いし、考えさせられるところも多い。ということで、あまり(というか全く)物語には共感できませんでした。
 映画としては全体としてテーマパークっぽいというか、とりあえずアトラクションを詰め込んだという感じなのはなかなかいいですね。「フレッシュ・フェア」とか「ルージュ・シティ」とかそういった部分部分は面白くないわけではない。そしてジュード・ロウ。この映画を見て誰もがいうのは「ジュード・ロウはよかった」。全くその通りで、ジュード・ロウはいい。オズメント君もやはり演技はうまくて、ロボット感が出てはいたんですが、そもそも役がロボットらしくないロボットなので、そのロボット感がまたどうなのかな。とも思ってしまいます。結局デヴィッドは人間になりきれていないできの悪いロボットでしかなく、それこそが悲劇の源なんだと思ってしまいます。話がそれてしまいましたが、ジュード・ロウはそのロボット感がなかなかいい。人間くささもあるけれど結局はロボットという感じをうまく出していましたね。
 さて、個人的には一番気に入ったのはドクター・ノウ。このしゃべりまわしどこかで聞いたことがある! と思ったら、声はロビン・ウィリアムスでした。
 あとは、ジャンク置き場からフレッシュフェアのあたりはよかったですね。人間として扱われない人間のようなもの。これは一種の「差別」の構造なわけですから、それが暴力に結びつくことを描くというのは考えさせられるものがあります。果たしてロボットが人間に近づいたときわれわれはどのように反応すればよいのか? 現実感がないままそんなロボット世界がやってきてしまうと、フレッシュフェアの人たちのように反応してしまうこともありえるような気がします。それでもデヴィッドの救われ方には疑問が残りますが…
 結論としては「メトロポリス」(アニメのね)を見よう! でした。

ハッシュ!

2001年,日本,135分
監督:橋口亮輔
脚本:橋口亮輔
撮影:上野彰吾
音楽:ボビー・マクファーリン
出演:田辺誠一、高橋和也、片岡礼子、秋野暢子、富士真奈美、光石研

 直也はペットショップで働きながら気ままなゲイライフ送っていた。ゲイであることを隠しながら研究所で船の研究をする勝裕は、思いを寄せていた同僚が結婚してしまったことにショックを受ける。歯科技工士の朝子は自分の殻にこもり、周囲との関係をたって孤独な生活を送っていた。付き合い始めた直也と勝裕がふとしたことで朝子に出会ったことである物語が始まる…
 橋口亮輔が「渚のシンドバット」以来久々に監督した作品。自身もゲイである監督は今回もゲイの世界を描いた。今回はコメディ的な要素を強め、明るく楽しく見ることができる。

 これは完全にコメディなんですよ。ゲイ・ムーヴィーというとなんだか思想的なものがこめてあるという印象ですが、面白いゲイ・ムーヴィーというのはたいていコメディ。だからとにかく笑えばいい。かなり人間関係のドラマを濃厚に描いてるけれど、それも結局は笑いにもっていく。
 もちろん、ゲイであることを隠す勝裕(すべてはここからはじまる)という問題もあるし、ゲイに対する誤解(たとえば富士真奈美)という問題も提起されてはいるけれど、それはあくまでそのことに今まで気付かなかった人達が気付けばいいという程度のもの。そこにことさら何か主張が込められているわけではないと思います。
 どこが面白かったかといえば、「うずまさ」かな。一番は。ゲイとは関係ないけれど。でもこういうゲイとは関係ないネタも含まれているからこそこれはあくまでコメディだと言い切れるという面もあります。
 私がここまでコメディであることを力説するのは、ゲイ映画が(特にメディアによって)何か特別のもののように扱われ、そこで投げかけられている問題意識のようなものを取り上げてしまう。もちろんそれは意義のあることではあるけれど、逆にゲイ映画というものを特別なものとしてしまい、客足を遠のかせてしまう。そんな気がしてしまいます。コメディ映画としてみてきた人が「ああ、これってゲイの映画なんだね」と思うくらいがいいと思う。
 私はゲイの人たちのクリエイティビティというものを非常に買っているので、そのようにして彼らの活躍の場が広がることはとても喜ばしいことだと思うのです。この映画はゲイカルチャーはゲイだけのものであるというような考え方を打ち崩すきっかけになりそうな勢いを持っています。
 あるいは、ゲイ映画ではない。ゲイというカテゴライズを越えたすべての人間が持つ「孤独」という問題、それを描いた映画だということもできる。

 さて、「ゲイ映画」というジャンルわけをいったん無視して、この映画を見つめなおして見ます。この映画でもっともすばらしいのはその自然さ、それはつまりリアルさ。細部まで行き届いた現実感。自然な台詞回しは最近流行の役者のアドリブを取り入れようという方法かと思いきや、ほぼすべて台本通りリハーサルにリハーサルを重ねて作り上げたものだそうです。そう考えると、この映画の緊迫感や生々しさは非常に驚異的なものかもしれません。役者の身にせりふが染み込んでいる感じがする。小物なども注意が行き届いている。直也と勝裕が一緒に住む部屋のファーストカットで直也と直也の部屋にあった緑のチェックのクッションが映る。これが(今までの)直也の部屋でないことは明らかなので、くどくど説明しなくてもこの1カットだけで引っ越して二人ですんでいるということがわかる。このあたりは秀逸。
 さて、今回気づいたことは勝裕が直也の着ていた服を着ているということ。太陽みたいな柄のTシャツや、シャツなんかを共有しているのかお下がりで着ているのかはわかりませんが、とにかく直也が勝裕のダサさを克服しようと着せていると思われます。そのあたりの細かい設定も現実感を増しているのでしょう。
 後は、シーンからシーンのジャンプ。シーンの終わりが唐突で、いきなり次のシーンに飛ぶ。一瞬の黒画面やフェードアウトが入ることはあっても、かなり唐突な感があります。これは上映時間の都合上カットしたということもあるようですが、基本的には橋口監督のスタイルということですね。映画がテンポアップするとともに勝裕が風呂場で口を真っ青にするところのようなシーンの面白いつながり方をも生み出しています。

 これは余談ですが、誰もが心に引っかかる「怒るといつもアイス食べるじゃん」のアイスクリームはハーゲンダッツのバニラアイスクリームですが、橋口監督曰く、それは「世界で一番おいしい食べ物」だそうです。それはステキ。

きらめきの季節/美麗時光

美麗時光
2001年,台湾=日本,100分
監督:チャン・ツォーチ
脚本:チャン・ツォーチ
撮影:チャン・イーミン
出演:ファン・チイウェイ、ガオ・モンジェ、ウー・ユゥジィー、ツェン・イーチャア、ツァイ・ミンショウ

 台湾の下町に暮らす一家。働きもせずギャンブルにほうける父親たち、癌に苦しむ娘を抱えながら息子たちはチンピラの仲間入りをしてしまう。この一家の2人の少年を主人公にどことなくファンタジックに描いたドラマ。
 チャン・ツォーチは前作「最愛の夏」が話題を呼んだ新鋭監督。

 普通に見えたドラマが級に転換する面白さ。最後映画が思わぬ展開をしていくために様々な複線が張られている。一番大きいのはもちろん川に飛び込んだ二人というエピソードだけれど、それ以外でも時間の感覚をどこか狂わせるような工夫が凝らされている。そもそも家の周りの迷路のような道。どこがどうなっているのか、最初は全くわからないが、繰り返し家への道をたどっていくうちに分かってくる。しかし結局のところ全体像を把握することはできない。そしてすぐに切れる街灯。熱帯魚。いろいろな要素が見る側の時間の感覚を失わせ、物語り全体を迷路のように構成してゆく。
 あとはどうですかね。道とのかかわりでロングショットが多くて、結構映像的にも面白かったですね。その物語的な特異さを除けば、アジア的なアジア映画という感じです。

スコア

The Score
2001年,アメリカ,125分
監督:フランク・オズ
原案:ダニエル・E・テイラー、カリオ・セイラム
脚本:カリオ・セイラム、レム・ドブス、スコット・マーシャル・スミス
撮影:ロブ・ハーン
音楽:ハワード・ショア
出演:ロバート・デ・ニーロ、エドワード・ノートン、マーロン・ブランド

 パーティー中の屋敷に忍び込み見事にダイヤモンドを盗み出したニック。表の顔はモントリオールのジャズクラブのオーナー。モントリオールに帰った彼は25年来の相棒であるマックスから400万ドルという大きなヤマ(スコア)を持ちかけられる。しかし、危険を冒さない、住んでいる街では仕事をしないということをモットーとするニックはそのヤマに二の足を踏んでいた。
 「イン&アウト」などコメディ作品で知られるフランク・オズ初の本格サスペンス。味のある役者をそろえ、決して面白くないわけではないが、ひねりがないのがサスペンスとしては残念。

 大きなヤマの話があって、初めての奴と組む。となるとこの先の展開は… と予想してしまうのが人の常。それがどうなるのかは言わないとしても、このひとつのヤマで2時間撮ってしまうというのはちょっとつらかったかも。もうひとつのエピソードとしてデ・ニーロの恋話があるけれど、それも映画の中でそれほど大きな割合は占めない。もっと切り詰めていけば30分くらいは削れたんじゃないかと思ってしまう。その上でもうひと話盛り込めば、濃密で面白い2時間になったのではないかという気がする。やはり畑違いというハンディを克服し切れなかったというところでしょうか。最初の盗みのところはテンポもあってとてもよかったんだけどなぁ…
 さて、それにしてもマーロン・ブランドもデ・ニーロもすっかり太ってしまいましたね。マーロン・ブランドはいいとしても、デ・ニーロの盗みのシーンは重そうでなんだかねという感じでした。すで太ってしまったのか、あるいは引退寸前の泥棒という役作りなのかは分かりませんが、なんだか悲しいわ。

囁く砂

Whispering Sand
2001年,インドネシア=日本,106分
監督:ナン・アフナス
出演:クリスティン・ハキム、ディアン・サストロワルドヨ、スラメット・ラハルジョ

 インドネシアのある島の浜辺で暮らす母と娘。父親はいなくなり、母がお茶の屋台と産婆の手伝いをして生計を立てていた。ある日、そこに踊り子をしている叔母が訪ねてくる。叔母は旱魃のせいで街は治安が悪化し、放火までが起こっていると知らせ、ここから逃げるよう勧めるが母親はそれを受けいらない。しかし、あるよ村にも火の手が上がり、母娘も逃げざるを得なくなった…
 いかにもアジアらしい寡黙な映画。映画の中に登場するインドネシアの風景に新鮮な驚きがある。

 まずプロットが分かりにくい。放火をして回る人たちは誰なのか? 迷彩服に身を包んだおそらくゲリラの人たちは何なのか? インドネシアの人なら見ただけでその背景は分かるのだろうか? 私には全くわからなかった。放火する人たちは、雨が降らない事が理由とされている。しかし、雨が降らなくてなぜ放火をするのか全くわからない。そのあたりの脈略のつながらなさに引きずられていまひとつ映画に入っていけない。むしろ超自然的な力とか魔術的な力で説明されている方がまだ入りやすかったような気がする。お父さんというのもいまひとつ人物像がはっきりしない。
 この映画は題名のとおり「砂」の物語で、毎朝砂に埋もれてしまう家というのも出てきて、どうしても安部公房のあるいは勅使河原宏の「砂の女」を思い出してしまう。そんなことを考えながら見ると、この映画では砂に埋もれてしまう家がいまひとつ生かされていない気がする。ただそこに家があるというだけで、「砂に埋もれてしまう」という設定は全く物語には関係してこない。「砂の女」を知っていると、それがなんだかもったいなく感じてしまう。あの家使ってもっと面白いことができるんじゃないか、などと考えて、またも映画の本筋から心が離れてしまう。
 けなしてばかりですが、それはやはり映画に入り込めなかったから。そうすると、主人公の母娘の気持ちにも共感ができない。となるとどうしても批判的な目で見てしまうのです。しかし、気に入ったシーンがひとつ。それは母娘が山を旅するシーン、砂嵐がやってきて去るとひとりの男が隣にいる。そして、その周りの砂の中からたくさんの人が這い出てくる。ただそれだけのシーンですが、インパクトがあるし、なんだか「砂」の持つ別の一面が語られているような気もしました。

ザ・ロード

Yol
2001年,カザフスタン=日本=フランス,85分
監督:ダルジャン・オミルバエフ
出演:ジャムシェド・ウスマノフ、サウレ・トクチバーエヴァ

 カザフスタンのアルマイトにすむ映画監督のアランは妻とひとり息子ときれいなアパートで暮らす。アランと妻の関係はなんとなく空々しいが、そこに母が亡くなったという電報が届く。アランは車を走らせ、実家へと向かうが、その道々昔のことを思い出したり、幻想といっていいようなことを考える。
 映画監督を描く映画でロードムービー、といってしまうと、なんとなくありきたりという気がするが、はっきり言ってこの映画はいわゆる ロードムービー ではない。かなり不思議な雰囲気の映画。

 現実と幻覚や思い出のつながり方はとてもいい。境目がよくわからなくて、どこまでが現実で、どこからが非現実なのか。そして、どれが実際にあったことで、どれが想像なのか、それが明確にされていないのが面白い。
 「道」というのはこの映画にとっては媒介に過ぎない。「ザ・ロード」というくらいだから、 ロードムービーが意識されているのだろうが、この映画が ロードムービーだとするならばそれは実在する道に沿ったたびではなくて、主人公の心の旅を描いたものなのだろう。実際の道とその風景と事件をきっかけにして頭の中で展開される様々な出来事が本当の旅である。というのも、 ロードムービーというのは基本的に未知の場所を旅することから生まれるドラマであって、この映画の実際の旅は自宅から両親の家という既知の道を旅するものなので、そこに ロードムービーというドラマは生まれにくいように思う。
 しかし、個々のヴィジョン(現実と非現実を分かたないものとしての「見たもの」という意味)はかなり面白い。「罪と罰」的な衝動、水没する道、空手映画などなど。この映画も『グレーマンズ・ジャーニー』と同じく散漫な映画になってしまってはいるけれど、それはそれでなかなか面白いと思います。

グレーマンズ・ジャーニー

Journey of the Gray Men
2001年,イラン=日本,110分
監督:アミル・シャハブ・ラザヴィアン
出演:レザ・シャイクアームドカムセ、アーマド・ビグデリ、アリ・シャサワン

 かつて人形劇の一座を組んでいた三人の男達。老境に達した彼らが再開し、再び人形劇をしながら旅をすることに決める。当時使っていたぼろ車を引っ張り出し、旅に出るのだが…
 ドキュメンタリー風でありながら、決してドキュメンタリーではない不思議な雰囲気をかもし出すロードムーヴィー。

 なんといっても不思議なのはこの映画の性格。ドキュメンタリー風の映像で作ったフィクション映画がはやっている昨今、しかしこの映画はどういったドキュメンタリー風のフィクションでもない。むしろそんなドキュメンタリー風フィクションをパロディ化したような作品。それもいかにもイランらしいやり方で。コンセプトとしては監督の父親の体験を素人の役者を使って再現したというものだが、なぜかそこに映画クルーが時々入り込んでくる。たとえば、老人がトラックの上で何かに熱狂している若者達とけんかになるシーン。すえつけられたカメラにフレームインしてきて、正面で止まり、そこでけんかになるのだが、それを止めにクルーが入っていく。このあまりに作り物じみた茶番劇。これがパロディではなくてなんなのか?
 そして最後まで何が映画の中心なのかが見えないプロット。もちろん映画に中心なんてなくていいのだけれど、ここまで散漫なのも気になる。結局のところ監督自身の収拾のつかない心をそのまま表現してしまったという感じに見えるけれど、ここまで作り物じみていると逆にそのように見えるように作りこんだのではないかと深読みしてしまう。最後に登場するエピソードの真実性までも疑いたくなってくる。
 その素直ではない感じがイラン映画のイメージとは相反してとても興味深い点となってもいるのですが。