ファストフード・ファストウーマン

Fast Food Fast Woman
2000年,アメリカ=フランス=イタリア,98分
監督:アモス・コレック
脚本:アモス・コレック
撮影:ジャン=マルク・ファーブル
音楽:デヴィッド・カルボナーラ
出演:アンナ・トムソン、ジェイミー・ハリス、オースティン・ペンドルトン、ルイーズ・ラサー

 ダイナーでウェイトレスとして働くベラはまもなく35歳、突然道路に寝てみたり、バスタオルをアパートの下に住むホームレスに投げたりとちょっと変わったところがある。ボーイフレンドのジョージは20歳も年上で妻と子持ちで、いつまでたっても離婚しようとしない。
 ブルノは母親に預けていた自分の子とその弟を押し付けられててんてこ舞い。そんなベラやブルノやダイナーの常連たちが繰り広げる群像劇。

 こういう不思議なテイストの映画は好き。行き着く先というか、目的というか、おとしどころがよくわからない。
 群像劇には特に多いけれど、いろいろなケースを描いていくことでなんとなく一つのテーマ的なものが浮き上がってくる感じ。そしてそのそれぞれの登場人物が微妙に絡んでいく。この映画も断片でできていて、それぞれの断片が絡み合っていることは確かだけれど、そこから何かテーマ的なものが浮き上がってくるかと思うと、そうでもない。抽象的には「愛」ということ、しかも若くはない人たちの。明らかなのはそれくらいで、それ以上のことは断片ごとの面白さということになる。
 のぞき部屋の女ワンダの面白さ。のぞき部屋自体の面白さ。一つ一つの台詞回しのたどたどしさというか、伝わりにくさの面白さ。そのあたりがこの映画の魅力であって、ストレートに気持ちを表現したりしないところも面白い。このあたりがいいと思うのはおそらくそれがアメリカ的(ハリウッド的)ではないからだろう。ハリウッドのわかりやすさとは違うわかりにくさがある映画を私は愛してしまいます。
 アメリカを舞台にしていながら、イギリス英語を話すブルノが主人公のひとりとなっているのも示唆的なのかもしれません。ハリウッド映画も好きですがね。
 あとは、細かいところを見ていくと、なかなか面白いところはいろいろあります。

ビューティフル・マインド

A Beautiful Mind
2001年,アメリカ,134分
監督:ロン・ハワード
原作:シルヴィア・ネイサー
脚本:アキヴァ・ゴールズマン
撮影:ロジャー・ディーキンス
音楽:ジェームズ・ホーナー
出演:ラッセル・クロウ、エド・ハリス、ジェニファー・コネリー、アダム・ゴールドバーグ

 プリンストン大学に入学した天才数学者のジョン・ナッシュ。人付き合いの苦手な彼はルームメートのチャールズを最初は避けるが、チャールズの人柄もあって徐々に打ち解けてゆく。しかし彼の頭の中にあるのは「独特な、斬新な、この世のすべてを支配する心理」を見つけることだった。しかし、彼の奇異な行動は人々の笑いの種になり…
 実在の高名な数学者ジョン・ナッシュを描いた伝記小説の映画化。ドリームワークスの中ではちょっと毛色の変わった作品を撮るロン・ハワードらしい作品といっていいだろう。

 予備知識なしに、1回見れば非常に面白い。しかし、2度目に見たらどうなのかという気はする。物語のからくりと、ジョン・ナッシュという人間の面白さがこの映画の眼目だから、からくりがわかってしまった2度目には1度目ほどの面白さは味わえないと思う。まあ、でも2度目はいけるかな。からくりを知った上で見る2度目はまだ面白いかもしれません。いかにうまくからくりが隠されているかを観察するのが面白いかもしれない。見てない人には何のことやらさっぱりわからないと思いますが、ネタばれ厳禁なのでそのまま押し切ります。
 これはつまり、この映画の面白さはあくまで物語にあるということ。一つ一つしっかりと組み立てられた物語であるだけに、2時間長に時間も一気に見せてしまう面白さがあります。この辺はドリームワークス作品に共通して見られる要素かもしれない。それは徹底的なエンターテインメント。ハートウォーミングな感動作でも、そこにあるのは哲学ではなく、娯楽。2時間、あるいは2時間超の時間、観客を別世界に引き込むことができる力。それは「ドリーム・ワークス」という社名にも現れていること。
 そんなことを考えていると、この物語自体、かなりドリーム・ワークス的なものかも知れない。現実の生活に「夢」を埋め込む作業、それがドリーム・ワークスの仕事だとするならば、このジョン・ナッシュは…(ネタばれ防止)
 確かに、これがアカデミー賞? という気はしますが、振り返ってみればアカデミー賞とは芸術的な映画やメッセージ性の強い映画ではなく感動できる娯楽作品に贈られてきたもの。だから、この映画はまさにアカデミー賞にふさわしい。「名作」といえる作品ではないけれど、今のハリウッドに典型的な作品といっていいでしょう。もちろんこの映画から何らかの「哲学」を読み取ることはできます。しかし、それはあくまで可能だというだけで、作り手としては映画を見ている間、その世界に没頭してくれればいいという考えで映画を作っているような気がします。そこから自分の現実にひきつけて哲学したい人はご自由にどうぞという感じ。
 私はちょっと考えてみました。ジョンが暗号を解読するシーンで。CGを使って浮き上がってくる文字を見ながら、確かにアイデアが浮かぶ時ってこうだよな。と。視覚というのは非常に選択的で、すぐ隣にあるものでも見たくないときには見ないでいることができる。特に物語に集中しているときはそうだなと。それは、いわゆる現実とは違っている。つまり、すべてのものが平等にものである世界とは違う選択的な世界である。何が現実で、何が非現実であるかなんてそんな程度の問題だと私は思います。そこに線を引くことすらナンセンスだと。

ウォーターボーイズ

2001年,日本,91分
監督:矢口史靖
脚本:矢口史靖
撮影:長田勇市
音楽:松田岳二、冷水ひとみ、田尻光隆
出演:妻夫木聡、玉木宏、平山綾、真鍋かをり、竹中直人

 唯野高校水泳部の唯一の部員鈴木は最後の大会でも成績を出すことができなかった。そこに新しく若くて美人の教師佐久間が赴任してきて、水泳部の顧問をやることになったため、急に部員が集まった。しかし、その先生は学生時代シンクロをやっていて、生徒たちに「シンクロをやろう」と言い出した…
 実際に男子校でシンクロをやっているという話から矢口史靖が作ったお話。発想の面白さが目を引く。実際のシンクロのシーンはかなり見ごたえがあってよい。

 一番面白かったのはなんといってもシンクロの場面。そこに至る過程よりもシンクロそのものが映画のメインになっているので、その場面が面白いというのはいいことだ。そのかわり、そこいいたるまでの展開は映画が始まって早々にほとんどわかってしまうので、はらはらどきどきということにはならず、気を持たせようという努力も、ただ間延びしてしまうだけであまり効果的ではない。
 この映画で一番気になったのは登場人物たちがあまりに型にはまっていること。見た目とキャラクターが待ったくずれることなく、あまりに一致しすぎているというあまりに漫画的なキャラクターの作り方。ここまで型にはまっていると、何か裏があるんじゃないかとかんぐってしまうが、特に何かあるわけでもなさそう。この映画はすべてが漫画的なつくり。ちょっと懐かしいところで「奇面組」のようなお決まりのギャグ漫画のような雰囲気と駄洒落的な要素を持つ。まず高校が「ただの」高校というのもわかりやすい。そして、主人公は鈴木と佐藤。ゲイの男の子は早乙女、イルカの調教師は磯村、学園祭の実行委員はみんなメガネ、などなどなどなど。
 矢口監督の作品はどれもこのような漫画的な要素を持っていて、それはそれでいいのだけれど、それを突き破れないのが問題である。『ひみつの花園』では見事にそれを突き破っていたのに、それ以後の作品はその漫画的空間の中に漫画的なままでとどまってしまっている。この作品名アイデアの面白さに救われて入るけれど、結局のところ「漫画」でしかない。これは別に漫画やアニメ一般を卑下しているわけではない。それよりむしろ、いわゆる漫画的なものを超えた漫画やアニメと比べて、この作品がいわゆる漫画的なもの(乱暴な言葉で言い換えるなら、子供だましのもの)でしかないということだ。
 この作品は決してつまらないわけではなく、さらりと見れば十分に面白い。2年目のジンクスではないけれど、最初に面白いものを作ってしまうと、ついつい過剰に期待してしまって、普通に面白い作品では満足がいかなくなってしまう。ので、そのあたりが大変。この作品のよさは第一は題材選びだが、その次は音楽の使い方かもしれない。誰もが聞いたことのある、少し昔の、しかも楽しげな曲。今いるアーティストとタイアップして、話題やら動員やらを狙う選択肢もあっただろうけれど、このような選択をして正解だったと思う。この音楽を聴けば、映画を見ている人たちも、プールサイドの観客同様盛り上がること間違いなし。

ゴーストワールド

Ghoat World
2001年,アメリカ,111分
監督:テリー・ズウィコフ
原作:ダニエル・クロウズ
脚本:ダニエル・クロウズ、テリー・ズウィコフ
撮影:アフォンソ・ビアト
音楽:デヴィッド・キティ
出演:ゾーラ・バーチ、スカーレット・ヨハンソン、スティーヴ・ブシェミ、ブラッド・レンフロ

 イーニドとレベッカの仲良し二人も高校を卒業。しかし、他の仲間とはなじめない変わりものの二人組みは。卒業した後も変わらずふらふらしていた。そんななか、レベッカはコーヒーショップに勤め、まともな道を歩み始めるが、イーニドはいたずらで引っ掛けた男イーモアのことが気になってしまう…
 アメリカで人気のコミックの映画化。他のティーンズ・ムーヴィーとは一線を画した独特の雰囲気がとてもいい。スティーヴ・ブシェミを起用したのもかなり効果的。

 このビジョンはとてもいい。イーニドはとてもいい。これがアメリカの10代の女の子に受けるというのがどういうことが考えてみる。アメリカのティーンズといえば典型的に言えば「ビバヒル」の世界に憧れるというイメージがある。それは他のいわゆるティーンズ・ムーヴィーを見てもそう。しかし、もちろん実態はそんな華やかなものではなく、憧れは憧れだ。しかししかし、もちろんみんながみんなそれに憧れているわけではない。それには気づくのだけれど、映画の世界では真面目少女のように例外として描かれていても、本当はみんなと同じ憧れを持っているという描かれ方をすることも多い。
 そんな映画的環境の中で、完全に例外であるイーニドはとても魅力的だ。型どおりのティーンズたちから見ればクィアなやつに過ぎないけれど、そのものの見方には非常な強さがあり、ゆるぎない自己というか、揺らぎはするけれども決してプライドと自信は失わないという力を持っている。
 男は誰もがレベッカのほうに声をかけるということ。イーニドがシーモアの魅力に気づき、彼を想うようになること。この対比がイーニドと他の世界との隔絶を表しているのだろう。その壁を壊すのか、越えるのか、それとも壁のこちら側にとどまるのか。壁を壊すには自分の中のさまざまなことを犠牲にしなければならず、壁を越えようとすれば、向こう側にはそれを邪魔する人たちがいる。一緒に壁のこちら側にとどまってくれる仲間を求めても、それはなかなか見つからない。いたずらやとっぴな行動で時々壁に小さな穴を穿つだけ。
 そのように描かれるイーニドは私にはすごく魅力的なキャラクターにうつる。イーニドにとってシーモアがヒーローであるように、イーニドを尊敬できるヒロインと見よう。
 映画はといえば、細部へのこだわりが非常に伝わってくる。それはキャラクターと映画空間のつくりへの気の使い方の表れなのだろう。イーニドの部屋の一つ一つの小物と、とても病院とは思えないつくりの「Hospital」と書かれた病院。それら、違和感を生じさせるものどもがこの世界を形作る不可欠な要素である。そのひとつひとつのものへのこだわりがとてもよい。

反則王

THE FOUL KING
2000年,韓国,112分
監督:キム・ジウン
脚本:キム・ジウン
撮影:ホン・ギョンピョ
出演:ソン・ガンホ、チャン・ジニョン、パク・サンミョン、チャン・ハンソン

 銀行に勤めるデホは今日も朝礼に遅刻し、しかも契約を一つも取れないことを副支店長にどやされる。その日、デホはトイレで出会った副支店長にいつものようにヘッドロックをかけられた。その夜、デホはたまたま通りかかったプロレス団体にヘッドロックのはず仕方を教えてもらおうと尋ねてみた。
 シリアスな役の多いソン・ガンホがコメディに主演。覆面レスラーというアイデアとソン・ガンホだけで持っているといっていいかもしれない映画。でも、結構ドツボにはまる人もいるかもしれないと思う。

 まあ、とにかくマスクをつけた男というビジュアルありきの映画でしょうか。街中でスーツにマスク。このミスマッチ感はとてもいい。しかし、その割には、マスクの画が多用されるわけでもない。映画の内容としては可もなく不可もなく。言いたいことはわかるし、織り込みたいネタのふりもなかなかなのだけれど、物語の重点というか、プロットの核のようなものがない。ソン・ガンホが演じるデホという男が中心となるものの、そこから出てくる物語はあまりに散漫。いろいろな物語が混在すること事態は悪くないけれど、そのそれぞれの物語の間のつながりがあまりに希薄。それが映画全体の冗長さを生んでしまったのではないかと思われます。コメディ映画はやはりテンポが命。テンポよくやってくれないとネタも生きないということで。
 それを補うのはソン・ガンホ。この人はかなりいい役者らしい。「どこが?」といわれると困りますが、キャラクターの作り方が自然。この映画のデホはどうにも情けない男なのだけれど、その情けなさをしっかりと出しながら、決して暗くはならない。そのあたりがうまいといっていいのではないでしょうか?
 あと、『アタック・ザ・ガス・ステーション』を見たときにも思ったことですが、韓国映画の音楽はかなりいい。いわゆる洋楽の要素を取り入れながら、しかし今の日本の音楽とも違う太い感じの曲を作る。映画はどうにもならなかった『LIES』ですら、音楽はなかなかのものでした。ただ耳新しいというだけのことかもしれませんが、予告編に流れる音楽を聴いて、なんとなく見に行ってみたくなるのでした。

チアーズ

Bring it on
2000年,アメリカ,100分
監督:ペイトン・リード
脚本:ジェシカ・ベンディンガー
撮影:ショーン・マウラー
音楽:クリストフ・ベック
出演:キルステン・ダンスト、エリザ・ドゥシュク、ジェシー・ブラッドフォード

 高校生のトーレンスは全国大会5回優勝の実績を誇るチームでチアリーディングに打ち込む生活を送っている。そして最高学年になり、キャプテンに指名されたのだが、その最初の練習でメンバーの一人が大怪我をしてしまう。しかし、大会はもう目の前で…
 チアを題材にしたということ以外はいたってオーソドックスな学園もの青春映画。チアリーディングを見るのは楽しい。

 とても普通ですが、最近の学園者の中で異色をはなっていると思えるのは、非常に「いい」映画であるということ。日本で言えば、文部省(文部科学省か)推薦でもおかしくないような意味で「いい」映画です。ドラッグとか、セックスとか、そういったことはあまり出てこず、とりあえず青春な感じで、友情な感じで、少し恋みたいなもの。
 笑えるのは、「え?本当にこんなのやっちゃうの」というべたネタですが、この笑いは悪くない。ここもあまり下ネタには走らないところが文部省推薦。
 残念といえば、ミッシーは器械体操もやっていて、キャラ的も重要そうなのに、あまり生かされていないところ。映画としてもそうですが、チア的に、ちゃんと器械体操をやっていたならもっと大技をやらせてもいいのに。
 まあ、そんなことはどうでもよいのですが、特筆すべきことも特にないので。このミッシーに限らず、この映画はトーレンスが一人活躍する映画で、まわりはあまり前面に出てこない。クリフの曲だってもう少し活用されるのかと思ったらされないし、主要メンバー以外は顔と名前が一致しないくらいしか登場しないし。唯一ゲイネタだけが後からまた使われたのはよかったかなと思います。

アメリ

Le Fabuleux Destin d’Amelie Poulain
2001年,フランス,120分
監督:ジャン=ピエール・ジュネ
脚本:ジャン=ピエール・ジュネ、ギョーム・ローラン
撮影:ブリュノ・デルボネル
音楽:ヤン・ティルセン
出演:オドレイ・トトゥ、マチュー・カソヴィッツ、ヨランド・モロー、ルーファス

 子供のころ、両親に心臓病と決め付けられ、他の子供と遊ぶことなく育ったアメリは想像の世界で遊ぶことが大好きだった。22歳になり、家を出て、パリのカフェで働くようになってもそれは変わらなかった。そんなアメリがある日、自分のアパートで40年前その部屋に住んでいた少年の宝箱を見つけた…
 これまでは暗く奇妙な世界を描いてきたジュネ監督が一転、陽気なファンタジーを撮った。

 この映画はさまざまな見方ができ、それによってさまざまな評価ができると思う。一番単純には、素直に明るい物語とその世界を追っていく方法。そのように表面をさらりとさらうととてもポップで明るいお話で、とても女の子受けもよい感じ。それはジャン=ポール・ジュネ独特の鮮やかな色彩や奇妙な世界観。それは現実とかけ離れているという意味で非常に浸りやすく、それだけに見終わった後も楽しく宝物のように映画をとって置くことができる。
 しかし、そこから掘り下げてゆくと、ジャン=ポール・ジュネはやはりジャン=ポール・ジュネだという話になる。現実とかけ離れた奇妙な世界観は細部を気にし始めるといろいろと理解しがたいところが出てきて、そこから先は好みの問題となっていく。ジュネの世界の人たちはとにかくおかしい。それをファンタジーとしてとらえるか、ありえないとして拒否するか、あるいは自分の内的現実との共鳴を感じるか。
 そもそも、アメリというキャラクターに共感できるのかどうか? そして、その周りの変な人たちを受け入れることができるのかどうか? たとえば、アメリと下の階のガラスの骨のおじいさんは互いに覗き見していることを知りながら、それを受け入れている関係。よく考えるとこの関係も相当不思議。アメリだっていたずらといえば聞こえはいいけれど、よく考えるとかなり悪いことをしている気もする。
 となるわけですが、私はこの世界観が非常に好きです。そもそもジャン=ピエール・ジュネは好き。それは彼の描く特異なキャラクターたちも含めてです。そして、アメリも好き。アメリのような人は大好きです。なかなか言葉で表現するのは難しいところを、ジュネがうまく映画という形で表現してくれたといいたいくらいとっても好きなキャラクター。私にとってはアメリはそれくらいしっくり来るキャラクターでした。
 アメリはこの映画で3つのことをしようとしているわけです。人を幸せにすること、一人の人をいたずらでいじめること、自分が幸せになること。そのそれぞれは成功したり失敗したりしますが、面白いのはそれが成功するかどうかということではなくて、その過程。そのいたずら心。その過程の面白さはみているわれわれを幸せにしてくれる。それが素敵(一番はやはり小人かな)。
 それにしてもジュネ監督の細部へのこだわりは相変わらず。一番思ったのは、アメリが作ったパスタの湯気。本物の湯気があんなにしっかりとカメラに映るはずもなく、ということはわざわざ映像に湯気を足したということなわけで、しかしその湯気がことさら重要なわけでもない。その辺りのこだわりがとてもいいのではないかと思う。

マルホランド・ドライブ

Mulholland Drive
2001年,アメリカ,146分
監督:デヴィッド・リンチ
脚本:デヴィッド・リンチ
撮影:ピーター・デミング
音楽:アンジェロ・バダラメンティ
出演:ナオミ・ワッツ、ローラ・ハリング、ジャスティン・セロー、アン・ミラー

 マルホランド・ドライブを車で走っている途中、殺されそうになる女。しかし、そこに車が突っ込んできて、激突。女は壊れた車から抜け出し、歩いて街へと降りてゆく。翌朝、たまたま見つけた家に入り込む。その家はちょうど留守で、その間に滞在することになっていた女優の卵ベティがその家にやってくる。
 『ストレイト・ストーリー』から再びリンチらしい世界に復帰。もともとTVシリーズとして企画されたものらしく、『ツイン・ピークス』を髣髴とさせる。見れば見るほどわからなくなるのがリンチ・ワールドと思わせる作品。

 デヴィッド・リンチの物語を理解しようとする努力は常に徒労に終わる。彼のすごさは理解できないものを理解できないものとして提示してしまうことだ。普通はいくら難解なものを撮っても、どうにかして理解できるようにするものだ。デヴィッド・リンチはそれすら拒否している。それは監督本人すら理解できない世界であると思わせる。それは「意味」という論理的なものではなく、感覚的なもので組み立てられた世界。漠然としてイメージを漠然としたまま映像として提示する。そこに浮かび上がってくるイメージはいったいどんなものなのか、それがわからないまま世界を作り始めてしまっている印象。
 だから、その世界を解釈することは「意味」のレベルで言えばまったく無意味なことである。しかし、言葉で語ることには常に「意味」がつきまとう。だから私のこの文章にも何らかの「意味」が付加されてしまうことは仕方がない。それならば、この物語を多少意味的に解釈して見ようなどと思う。この物語を解釈する上で私にとって(あくまで私にとって)確実であると思えるのは、この二つの世界がいわばコインの裏表であるということ。それはつまり、同時に平行して存在しているけれど、決して互いに向き合うことができない世界。背中合わせに金属という希薄なつながりを持っているに過ぎない二つの世界。もちろんそれをつなぐのは「箱」と「リタ/カミーラ」である。そこまでは確実だと思うのだけれど、それ以上は何もいえない。おそらく見るたびにそのそれぞれに付加したくなる「意味」は変わってくるだろう。
 デヴィッド・リンチの映画の難解さは「それを理解しよう」という欲求を起こさせる。しかし、映画を見ている間われわれをとらえるのは実際はその音響や映像による感情のコントロールである。見ている側の喜怒哀楽を巧妙にコントロールすることで映画に観客を引き込んでいく。もっともそれがわかりやすく出たのは、ほとんど最後のほうでダイアンがなんだかわからないものに攻め立てられるところの恐怖感。なぜ起こるのか、他とどんなつながりがあるのか、恐怖のもとは何なのか、はまったくわからないにもかかわらず、そのシーンがあおる恐怖感はものすごい。そのように感情を揺さぶられ、圧倒され、映画館を出たときに残るのは映画を見ている間ずっとくすぶっていた「理解しよう」という欲求。それに片をつけるまでは映画を離れることはできない。そしてその「意味」をとらえようとすればするほど、細部を整合させることができないことに気づく。ひとつの物語で解釈しようとするとそれぞれの細部に矛盾が生じる。リンチの物語とはそういうものだ。そしてその細部こそリンチ的な不可思議な魅力が存在しているところなのだから、話はさらに難しい。その魅力的な細部を物語と矛盾するということで切り捨ててしまうことは私にはできない。
 だから、ある程度落ち着ける意味を見つけ、他のところは「リンチだから」という常套句で片付けて、その欲求を棚上げにする。すべてをひとつの「意味」に押し込めて、ひとつの物語をでっち上げることはリンチが大事にしている細部をないがしろにしてしまうことになるのだから、それはせずに、見るたびに異なる味を楽しみにしていたい。

キプールの記憶

Kippur
2000年,イスラエル=フランス=イタリア,127分
監督:アモス・ギタイ
脚本:アモス・ギタイ、マリー=ジョゼ・サンセルム
撮影:レナート・ベルタ
出演:リオン・レヴォ、トメル・ルソ、ウリ・ラン・クラズネル、ヨラム・ハタブ

 ヨム・キプール戦争の勃発とともに、部隊から呼び出された予備役兵のワインローブとルソ。しかし、国境地帯はすでに交戦中で、自分たちの部隊にたどり着くことができない。どうしようかと思いあぐねていたとき、車が故障して困っていた軍医に出会い、彼を連れて行った救急部隊に入った。
 ギタイ監督に実体験をもとに撮ったというだけあって、とにかく戦場から負傷者をヘリで運び出す彼らの姿は非常にリアル。

 ギタイ映画はサウンドがとても印象深い。この映画の冒頭も、町中に響く祈りの声が閑散とした街の中にこだまするさまがとても美しい。そして、全般にわたって耳にとどろくヘリコプターの音。それはとにかくうるさい。まさにセリフをかき消す音。しかし、それはその音がやんだとき、あるいはその音にならされてしまったとき、不意に襲ってくる何かのための伏線か? 
 それにしても、負傷者や爆撃がこれほどリアルに描かれているということは、相当予算もかかっているはずで、それはつまりアモス・ギタイが世界的に認められてきたということだろう。それはさておき、このリアルさにもかかわらず、この映画には敵の姿が一度も現れないというのがとても興味深い。戦争映画というと、必ず敵が存在しているはずで、この映画でもシリアという具体的な敵が存在して入るのだけれど、それが具体的な像として映画に現れることは一度もない。現れるのはシリア軍が打ち込んでくる砲弾だけ。この敵の不在にはいったいどのようなメッセージがこめられているのか? 戦争において敵の存在とはいったいなんであるのか? 当たり前のように敵の兵士が登場する場合よりも、この方が敵というものについて考えさせられる。シリアとその背後にあるソ連という漠然とした敵は存在し、そこに兵士が存在していることは明らかなのだけれど、そのシリアの兵士たちと、イスラエルの兵士たちの間にどれくらいの違いがあるのか?シリアのワインローブたちも砲弾の下をくぐって負傷兵たちを運んでいるのだろう。
 そのように考えると、どんどんわからなさは増すばかり。日常からすぐに戦場へと赴き、戦場からすぐに日常へと復帰したワインローブにとって戦争といったいなんだったのか? 人を狂気に追いやりすらするほどの恐怖を伴う戦闘をどのように受け入れているのか?

バロウズの妻

Beat
2000年,アメリカ,93分
監督:ゲイリー・ウォルコウ
脚本:ゲイリー・ウォルコウ
撮影:サイロ・カペーロ
音楽:アーネスト・トルースト
出演:コートニー・ラヴ、キファー・サザーランド、ノーマン・リーダス、ロン・リヴィングストン

 1944年ニューヨーク、後に「ビートニック」と呼ばれることになる若者たちが集まり、飲んで騒いでいた。そこには後にウィリアム・バロウズの妻となるジョーンもいた。そんな中、同性愛者のダヴィドは仲間の一人ルシアンに想いを寄せ、行動を起こそうとしていた。そんなルシアンにダヴィドとの関係を何とかするように警告するが…
 ビートニックの父ウィリアム・バロウズが小説家となる以前にビートニックの若者たちとどう関係していたのか、妻ジョーンとはどのような存在だったのかということを事実をもとに描いた作品。

 バロウズといえば思い出すのはやはり、クローネンバーグが監督した「裸のランチ」でしょうか。それを含めた彼の作品群からしてかなり「狂気」に近い作家というイメージがあります。いわゆるビートニックといわれる、ギンズバーグやケルアックとは年齢的にも違いがあるし、作品にも違いがある。それでも彼とビートニックとのかかわりが強調されるのは、この映画に描かれたような話を含めた日常的な関係の話からなのでしょう。
 この映画の難点は、結局のところジョーンという一人の女をめぐる物語となってしまっていて、そういう男同士の関係性が表現し切れなかったことではないかと思う。映画が終わった後のやたらに長い文字説明を見る限り、そんなビートニックたちについて書きたかったのだろうし、題名からしてそのものだし。ジャック・ケルアックなんて最初のほうに出てきたっきりだし。
 ファーストシーンからコートニー・ラヴが非常に印象的で、魅力的なだけにさらにそのビートニックたちの印象が弱まる。
 それにしてもこの映画のコートニー・ラヴはいいです。ものすごい美人というわけではないけれど、どこか不安定なものもありながらしかしどこか冷静で落ち着いているという感じ。その感じがとてもいい。それをうまく表現するコートニー・ラヴはすばらしい。それと比べると、非常に魅力的な人物として描かれているルシアンはちょっとなさけない。あまり魅力的には見えない。
 コートニー・ラヴを見よ! ということです。