JSA

JSA: Joint Security Area
2000年,韓国,110分
監督:パク・チャヌク
原作:パク・サンヨン
脚本:キム・ヒョンソク、チョン・ソンサン、イ・ムヨン、パク・チャヌク
撮影:キム・ソンボク
音楽:キム・グァンソク
出演:ソン・ガンホ、イ・ビョンホン、イ・ヨシエ、キム・テウ、シム・ハギュン

 1999年10月28日、38度線上、板門店の共同警備区域(JSA)の北側の監視小屋で起こった銃撃事件。この事件で二人の北朝鮮兵が死亡した。この事件の解明のため中立国監督委員会は韓国系スイス人将校ソフィーを捜査官として派遣した。彼女がたどり着いた真実は予想もしないものだった…
 韓国で「シュリ」の記録を塗り替える大ヒットとなったサスペンスドラマ。日本人から見ても「韓国らしい」映画に見えます。

 結局のところ朝鮮半島の関係というものが分かっていないものとしては、感心してしまいます。これはつまり韓国人の願望。こんな風になってそれこそ「民族統一」がなされればいいなぁという願望が作らせた映画ということでしょう。なので、中立国監督委員会というのもソフィーさんもほんのおまけにすぎず、おそらく1人美女が欲しかったというだけのことのような気がします。
 映画的な工夫という面では特段書くべきこともないので、ドラマに関することに終始したいと思います。
 さて、今韓国人の願望と書いたとおり、これは韓国人の願望でしかなく、北朝鮮人の願望ではない。北朝鮮の兵は南の文化に憧れを抱くけれど、南の兵士が来たの文化に憧れを描くことはない。結局「南」のほうがいいということを言っているに過ぎない気がします。おそらく北朝鮮で同じような映画を作ったとしたら、逆に「南」の兵士が「北」の文化やものにあこがれる様を描くでしょう。そのあたりがこの映画が「願望」にすぎないことを示しています。「願望」を超えて、統一の礎になることはありえないということ。つまり娯楽作品に過ぎないということ。
 で、娯楽作品として描くなら、ソフィーさんは要らなかったかもしれない、と思います。最初の銃弾がドアを貫通し、中の明かりが見えるシーンはなかなかよく、それだけでこの事件が何だったのかを解明する映画なのだろうと予想はつきます。それだったら、捜査などというまどろっこしい手続きをとらず、事件の全貌が明らかにならないまま時間を遡って、展開していって欲しかったななどとも思います。その方が緊迫感がますような気がします。

EUREKA ユリイカ

2000年,日本,217分
監督:青山真治
脚本:青山真治
撮影:田村正毅
音楽:山田勲生、青山真治
出演:役所広司、宮崎あおい、宮崎将、斎藤洋一郎、光石研

 九州で起こったバスジャック事件。6人の乗客と犯人が殺され、運転手の沢井と、中学生と小学生の兄妹だけが生き残った。心にキズを抱えた3人は以前の生活に戻ることができず、沢井は失踪し、兄妹は家に閉じこもるようになってしまった。しかし2年後その沢井が帰ってくる…
 現代の日本を代表する作家の1人青山真治が白黒シネスコ3時間半という、非現代的非商業的なフォーマットで撮った挑戦的な作品。これも現代の日本を代表するカメラマンである田村正毅とともに作り上げた映像は研ぎ澄まされており、美しい。

 確かに見事な映像。白黒シネスコというのもとても好き。しかし、これが「新しい」映画なのか? という疑問が付き纏う。どの画面を切り取ってもどこかで見たことがあるような気がしてしまう。ヴェンダース、ソクーロフ、アンゲロプロス… 彼らの面影をそこに見てしまうのは私だけだろうか? この映画が70年代に、いや80年代でも作られていたら新しい映画であっただろう。しかし、2000年の今、この映画は果たして「新しい」のか? そんな疑問が生じてしまう。先駆者たちが作り上げた新しい世界観(それはもちろんその先駆者達からヒントを得てのことだが)を組み合わせ、作り出した画面に果たして新しい世界観はあるのか? あえて白黒シネスコというオールドスタイルを取ったこの映画はそれゆえにその古きよき映画を乗り越えていなければならないはずだ。
 自らをあえて苦しい立場に置いた作家はその責務を果たすことはできなかった。しかし、巷にあふれる映画と比べるとその完成度は高く、またその挑戦自体にも意味があることだったと思う。だからこの映画は見られる必要がある。そしてそれが見られやすいようにドラマ的なプロット、哲学的なテーマも用意されている。しかしそのどちらも(連続殺人事件の犯人は誰かというドラマとなぜ人を殺してはいけないのかという哲学的テーマのどちらも)それほど完成度は高くない。ドラマは結末が見えてしまうし、哲学的には踏み込みが甘い。だから、ドラマや哲学という入り込みやすい要素によって映画に取り込まれた観客も映画そのものに立ち返らざるを得ない。
 誰もがこの映画を見ることによって映画が抱える問題に直面せざるを得ない。映画を愛するものならばこの映画を見なくてはならない。こういう映画を作ってくれる作家が日本にいることはうれしいことだとも思う。
 最後に、この映画を語るときどうしても「長い」という問題が出てくる。しかし映画の長さが1時間半あるいは2時間というのは神話でしかなく、実際はどんな長さでもいいはずだ。キェシロフスキーは1時間×10話からなる「デカローグ」をとった。わずか15分の「アンダルシアの犬」はいまだ映画史に残る名作である。だから、そもそもことさらに長さを意識する必要はないはずだ。それでも「長さ」を問題とするならば、この映画が突きつける問題を考えるならば、映画にこれくらいの余裕がなければいけないと言おう。映画からはなれて自分の考えに浸れる時間をこの映画は提供していると思う。

光の雨

2001年,日本,130分
監督:高橋伴明
原作:立松和平
脚本:青島武
撮影:柴主高秀
音楽:梅林茂
出演:萩原聖人、裕木奈江、山本太郎、高橋かおり、大杉漣

 若手の映画監督阿南は知り合いのCMディレクター樽見の初監督作品のメイキングを撮影することになった。その映画は連合赤軍の浅間山荘事件を描いた小説「光の雨」を映画化するものだった。その時代を生きた樽見とそんな事件のことすら知らない若者によって取られる映画がどのようになるのか、阿南は興味を持ってみつめるが…
 単純に小説を映画化するのではなく、それを映画化することを映画に撮るという二重構造をとることで、ドキュメンタリー的な要素を入れ込んだ。

 映画の映画とすることで、単なる昔話ではなくできたことは確か。しかし、結局物語の焦点がそれを経験した世代にあるのか、経験しなかった世代にあるのかがはっきりしない気もする。若者達が映画に出ることによってその内容に影響され、自分の中の何かが変わるということは理解できる。それは私が70年には生まれてもおらず、経験していなかった世代に親近感を覚えるということもあるかもしれない。しかも、そもそも映画全体をみれば、より興味を持ったのは連合赤軍の話自体で、撮影に関する話にはあまり興味が湧かなかった。したがって、個人的には単純に原作をそのまま映画にしてくれたほうがよかったといいたい。
 しかも、映画としても中身の映画のほうが、撮影に関する話よりうまくできている気がする。一番気になったのは、ロケハンをしている阿南が抜けている床から落ちる場面の、落ち方の下手さ加減だったりするのだけれど、そもそも撮影に関する話で印象に残っているところといえば、弟が兄のメイクをふき取りながら話すシーンくらい。
 このように撮影に関する話がいまひとつな理由を考えてみると、結局のところ、ドキュメンタリー的な要素といいながら、あからさまにフィクションであるということ。これはドキュメンタリーとフィクションの境界を越える作品ではなく、ドキュメンタリーという看板を借りた完全なフィクションでしかないということ。つまり、最近はやりのドキュメンタリー風をちょっとアレンジしただけのもの。それは単なるドキュメンタリー風よりも性質が悪い。原作の描いた世界をまっすぐに映画化できないから、そこから逃げるために回りくどいやり方をとったのではないかと穿った見方をしたくなる。原作自体を描いた部分は面白かったのだから、それだけでがっちり勝負して欲しかったと、その事件を知らない世代としては思います。

 これは余談ですが、この映画はなんとなく「バトルロワイヤル」に似ている。山本太郎が出ているというのは別にしても、映画の空気が似ている。死んだ人の名前が字幕で出るところも似ている。だからどうだということもないですが、細かく見ていけばもっと似ているところが見つかる気がします。

バスを待ちながら

Lista de Espera
2000年,キューバ=スペイン=フランス,106分
監督:ファン・カルロス・タビオ
原作:アルトゥーロ・アランゴ
脚本:ファン・カルロス・タビオ、アルトゥーロ・アランゴ、セネル・パス
撮影:ハンス・バーマン
音楽:ホセ・マリア・ビティエル
出演:ウラジミール・クルス、タイミ・アリバリーニョ、ホルヘ・ベルゴリア、アリーナ・ロドリゲス

 キューバの田舎にあるバス停留所。そこにやってきたエミリオはやってきたバスに群がる人々を目にする。しかしバスはひとりの少女を乗せただけで走り去ってしまい、待っていた乗客たちはバスに悪態をつくのだった。待ちくたびれた乗客たちは修理中のバスに望みをかけるのだったが…
 「苺とチョコレート」のスタッフ・キャストが再び集まって作られたコメディタッチのやさしいキューバ映画。日本にはあまり入ってこないキューバ映画でもいい映画はあるものです。

 バス停に長くいたら、バス停に愛着が湧くものなのか? そもそもバス停に長くいることがないので想像しにくいですが、普通に考えたらありえそうもないことなので、彼らがバス停をまるで家のように考えるようになるに連れ、どんどん笑えて来ます。それはなんだかやさしい笑い。「いいように考えるんだ」とエミリオも所長も映画の中で言っていましたが、まさにそのきわみという彼らの姿勢はどんな状況でも救われてしまうような勢いを生む。明るさを生む。そして見ている側にまで、その明るさとやさしさを分け与える。そう感じました。
 だから、一度オチた後の展開も最後の結末も、納得し微笑み、大きな心で受け入れて笑って終わることができる。バスを待っている時点でも、一度オチたあとでもその物語が現実であると実感をもって理解することはできないのだけれど、それが現実であって欲しいと望んだり、現実としてありうるかもしれないと思ったりする、それくらいの現実感を生み出す力がこの映画にはある。
 キューバ映画があまり日本に入ってこないことの理由のひとつに検閲の問題がある。現在でも社会主義国家であるキューバの映画は国家によって検閲を受ける。その検閲を通らなければ、映画を上映することはできないし、おそらく相当な苦労をしなければ海外に持ち出すこともできず、その映画は埋もれていく。だから、日本であるいは世界で見られるキューバ映画のほとんどはキューバ政府の検閲を通ったものである。この検閲というのは基本的には不自由を意味し、完全にマイナスなことであると理解される。もちろん自由に映画を作れないことは映画界全体にとってはマイナスだし、意欲的な作家はキューバを出てもっと自由に映画を撮りたいと思うだろう。しかし、この検閲という体制の下でもいい映画は生まれる。検閲とは映画にとっての制限のひとつに過ぎない。映画には他にも資金や期間、あるいはそもそもフレームという制限がある。その制限の中でいかに表現するかが作家の力量であり、それが芸術というものだと思う。だから必ずしも検閲があるから面白い映画は生まれないというわけではないだろう。いまや映画大国となっているイランにも検閲は存在するし、日本の映倫も自主規制とはいえ検閲の一種であるだろう。
 話がまとまらなくなってしまいましたが、要するにもっといっぱいキューバ映画を輸入して! ということですかね。埋もれた名作がきっとたくさんあるはず。

日本鬼子 リーベンクイズ

2001年,日本,160分
監督:松井稔
撮影:小栗謙一
音楽:佐藤良介
出演:日中戦争を経験した方々

 8月15日の靖国神社には様々な人が集い集まる。「英霊」と称えられる人々が戦場でやってきたこととは何なのか。1939年の満州事変に始まり、日本が無条件降伏をするまでの15年間休むことなく続いた日中戦争において中国に渡り拷問・強姦・虐殺などを行ってしまった兵士たち本人の証言によってそれを問う貴重な記録映画。時間軸にそった日中戦争の展開も解説されており、戦争を知らない世代にとっては非常に勉強になるお話。

 この映画で語られていることを知ることは非常に重要だと思う。情報としては様々なメディアで紹介され、文字として読むこともできることで、ことさらこの映画を見なければならないということはないけれど、実行した本人が証言している映像を見ることは文字を読むことよりも何倍かは伝わりやすいと思う。そしてあわせて歴史が解説されるというのもいい。文字でこういう構成をとられると、なんとなく流れが分断される気がして読みにくかろうと思うが、映画にしてしまうと、ぐっと集中してみる時間に区切りがついて見やすくなるという効果もあると思う。
 ということで、内容をここで繰り返すことには全く意味がないので、やめることにして、映画を見ながら思った(あるいは思い出した)ことを書いてみましょう。ちょっと映画の主張からは外れますが、ひとつは古参兵の命令は絶対だったというのを見ながら「兵隊やくざ」を思い出す。「兵隊やくざ」(1965)は勝新太郎演じる正義漢の初年兵が古参兵の命令にもはむかって正義というか仁義を貫くという映画。当時の観客達は自らの軍隊経験と重ね合わせて、感慨を持ちながら見ていたんだろうなぁと想像する。もうひとつはここに登場する人たちはおそらく一度ならずどこかでそれをかたったり書いたりしている人たちなんだろうと思う。一部の人はどこかに書いたということやしゃべったということが明らかになっている。そういう体験を経ているからこそカメラのまえで冷静に(あるいは冷静さを装って)体験を語れるのだろう。逆に語れないままいる人や、語ることの出来ないままなくなってしまった人のほうが多いのだろう。彼らがそれを語れるのはやはり中国の軍事法廷の寛大さが大きな要因となっていると思う。中国人民に謝罪し、感謝した彼らはそれを他の人たちに伝え、二度と繰り返さないようにするという義務感を重く感じただろう。それは自分や家族の恥となることを厭わないほどに。

メメント

Memento
2000年,アメリカ,113分
監督:クリストファー・ノーラン
原案:ジョナサン・ノーラン
脚本:クリストファー・ノーラン
撮影:ウォーリー・フィスター
音楽:デヴィッド・ジュリアン
出演:ガイ・ピアース、キャリー・アン・モス、ジョー・パントリアーノ、ジョージャ・フォックス

 殺された男とそのポラロイド写真。そこから時間は巻き戻り、ポラロイドを持っている男が殺したことが分かる。その男レナードは前向性健忘で10分以上前の記憶が残らない。そして最後の記憶は妻が殺された場面であり、その殺した男を見つけ出し、復讐するためにポラロイドとメモと体の刺青を記憶代わりにしていた。
 時間を逆行してゆくスタイルが新しく、アメリカではリピーターが続出。ロングランヒットとなった作品。確かに見る側も頭を使わざるをえず、2時間はあっと言う間にすぎる。

 かなり慎重に、ネタばれを避けながら行きます。この映画の眼目はもちろん謎解きにあります。「記憶喪失の疑似体験」というキャッチコピーのとおり、失われた記憶を取り戻す旅。謎というのはもちろん「妻を殺しなのは誰か」ということ。しかし、その答えは映画の冒頭で「テディ」が殺されたことによって明らかになっているようである。となると、観客が知りたいのは「なぜテディが犯人だとわかったのか?」ということになります。そして、問題となるのはレナードが前向性健忘であること。つまり覚えていられないこと、になるはずです。しかし、本当に問題になるのは別のこと。それはレナードが前向性健忘であること。そしてそうなる前のことを覚えていること、なのです。レナードは映画の途中で「記憶は記録よりあてにならない」といいます。もうこれ以上はいえませんが、見た人には分かるでしょう。
 この映画はその途中のどこかで論理と問題点のすりかえがある。それがまた見る側の混迷のどを深めることになるのだと私は思います。具体的に言えば、「なぜテディが犯人だとわかったのか?」という問題から「なぜテディは殺されたのか?」という問題へ。この問題のすりかえを見失わず、注意深く見ればとりあえずこの映画の時間のスパンではちゃんとおさまるところにおさまるのだと思います。
 しかし、
!!!!!!!!!!!!!
!!以下ネタばれていく!! 見てない人は絶対読まないでね。
!!!!!!!!!!!!!
 まとまっているのはテディの話、つまり「テディはなぜ殺されたのか」という話だけで、根本的な疑問は解決しない。それは「妻を殺したのは誰か」という問題。これには全く解決の道が開けない。むしろ話は混迷のどを深めるだけ。ここがこの映画が「わからない」となる最大の原因なのだと思ういます。
 ここからは私の勝手な解釈になりますが、この問題が解決しないのは、この話が本当はもっともっと長いからではないか? 映画が終わるまえに殺されたジ**(伏字)については原因どころか背景も全く説明されない、そしてそれに関わってナ***(伏字)についてもわからない。そして終わり近くのレナードの回想シーンも説明がつかない。これらの説明がつかないことどもはもっと長い物語の先で解決されることではないか、と思います。なので映画としては続編ができる。2作目はジ**(伏字)についての話で、タイトルも決まっています。「メメント-1(マイナス1)」。俺が監督だったら絶対作る。そして、最終的には12時間くらいの完全版を作って観客に勝負を挑んで欲しい。
 かなり勝手な想像が膨らみましたが、そういう勝手な想像をだれもがしてしまう映画でしょう。だからヒットする。面白いからいいんです。今日は映画としてどうこうという話はしません。

DEAD OR ALIVE FINAL

2001年,日本,90分
監督:三池崇史
脚本:石川均、龍一郎、鴨義信
撮影:田中一成
音楽:遠藤浩二
出演:哀川翔、竹内力、テレンス・イン、ジョシー・ホー

 時は西暦2346年、荒野に囲まれた国際都市横浜では人口抑制のため、不妊化薬が強制投与されていた。その政策を推し進めるのは中国系の市長ウー。しかし一部の人々はその政策に反対し、投薬を拒否していた。そんな市の警察のひとりホンダがひとりの少年を追い詰めたとき、人間とは思えない動きをするひとりの男リョウがあらわれた。
 DOAシリーズの完結編はSF。ジャッキー・チェン事務所の全面協力で複数の言語が飛び交う国際的な作品になった。アクションも香港アクションを採用。

 DOAシリーズは過剰であることによって笑いを生み出してきた。もちろんその最高のものは1作目のラストだけれど、それに代表される非人間的なまでの過剰さというのが生命線である。この3作目は2作目に比べて救われている。しかし、この作品はまじめな中に存在する過剰さという笑いではなく、基本的に過剰である。だから、これは笑えるアクション映画ではなくて、アクションを基本としたコメディ映画であると言えるだろう。2作目ではアクションだかコメディだかわからない中途半端な作品で、消化不良でしたが、この3作目では完全にコメディ化してしまうことによってシリーズとしての収拾も何とかつけられたと言うことができるだろう。
 だからアクションとしてもパロディ的な要素が多い。いわゆる「マトリックス後」のアクションの安っぽいコピーを提示することでそれをパロディ化するという方法。そんな方法がとられています。意図的に安っぽいコピーを作ることでその傾向を茶化すという感じ。だからワイヤーアクションも相当しょぼい。昨日の「最終絶叫計画」に共通するようなパロディ傾向があると思います。
 さて、他に言うことといえば、複数の言語が登場することでしょうか。世界が国際化されれば一つの場所で複数の言語が存在することは容易に想像できることで、その間でのコミュニケーションというのがどのように成立するのかというのもなかなか興味深いところではあります。基本的にはそこにデュスコミュニケーションが存在しそうですが、この映画では互いに異なった言葉を話していながらコミュニケーションが成立している。これはかなり不思議です。ちょっと不自然です。これを見ながら同じく哀川翔が複数言語状況を体験する映画「RUSH!」を思い出しました。それと比べると、この映画のコミュニケーション状況は不自然で、なじめない、腑に落ちない感があります。せっかく複数の言語を使っているのにその意味がない。それなら全部日本語でもよかったんじゃないかと思う。そのあたりも考えたんだろうけれど、いまひとつ実を結ばなかったというところ。
 ということで、これでシリーズ終わりでよかったよ。という感じです。オチもまあまあだし。

最終絶叫計画

Scary Movie
2000年,アメリカ,88分
監督:キーネン・アイヴォリー・ウェイアンズ
脚本:ショーン・ウェイアンズ、マーロン・ウェイアンズ、バディ・ジョンソン、フィル・ボーマン、ジェイソン・フリードバーグ、アーロン・セルツァー
撮影:フランシス・ケニー
音楽:デヴィッド・キタイ
出演:ショーン・ウェイアンズ、マーロン・ウェイアンズ、アンナ・ファリス、チャリ・オテリ

 コープス高校でひとりの生徒が殺される。そして、それは連続殺人事件へと発展していく…
 「スクリーム」をパロディ化し、そこに様々な映画のパロディを加えたいかにもアメリカ的なパロディ映画。このジャンルの作品の中ではかなり面白い方だとは思いますが、いかんせん日本ではパロディ自体の受けが悪いのでこの作品もいまひとつ人気は出なかった。
 個人的にはそんなに悪くないと思います。

 本当に単純なネタの集積で映画を作る。ホントにほんとーに単純なネタ。これは要するに下手な鉄砲も数うちゃあたる方式で、どれかがヒットしてくれればいい。見ている人のそれぞれがどこかで笑ってくれればいい。そんなやり方。映画のパロディはもとの映画を見ていないと笑えない。だから、映画のパロディをやるときはこういう下手な鉄砲も…方式にするのは間違っていない。しかし、この方式で多くの映画が失敗し、わずかな映画が成功してきた。それでも作られつづけるのはアメリカ人が映画が好きでパロディが好きだから。この映画の鉄砲はそれほど下手でもなかったらしい。
 日本の映画環境の中で見ると、ちょっと分かりずらいところも多い。最大の見せ場と思われる「マトリックス」のところがいまいち。笑えるといえばそのショボサくらい。ショボサで笑いをとるのはパロディとしてはいまひとつな気がする。それに対して「ブレアウィッチ」のところはかなり好き。入りの部分もさりげなくていいし、鼻水だらだらも相当すごい。個人的にはここが一番のヒット。左膝貫通くらい(どのくらい?)のヒットでした。あとはらりってるところくらいかな。
 まあ、あとはぼちぼちね。オチはいまいちでしたが、一応あったので安心。私は落ちのないコメディはなんだか気に入らなくて、いつもオチを気にしてしまう。やはりコメディは笑って終わりたいというのもあるし、一番面白いネタを最後にもってくるもんだろうという期待もある。このオチはインパクトはまあまああるけれど、映画をまとめるものではない、突発的なもの。だから印象は弱いし、笑いも弱い。新作もなかなか見ようとは思えない。

フェリックスとローラ

Felix et Lola
2000年,フランス,89分
監督:パトリス・ルコント
脚本:クロード・クロッツ、パトリス・ルコント
撮影:ジャン=マリー・ドルージュ
音楽:エドゥアルド・ドゥボア
出演:シャルロット・ゲンズブール、フィリップ・トレトン、アラン・バシュング、フィリップ・ドゥ・ジャネラン

 移動遊園地でバンパーカーの小屋のオーナーのフェリックスはいつものように窓口に座ってチケットを売っていた。そんな彼の目に寂しげな顔でバンパーカーに乗りつづける女を目に留めた。そのときは女を見失ってしまったフェリックスだったが、その夜カフェで見かけた彼女に声をかけると彼女は「私を雇ってくれない?」とフェリックスに聞くのだった。
 ルコントお得意のラブ・ストーリーちょっとサスペンス仕立て。舞台装置も物語りもいかにもルコントらしい感じ。「橋の上の娘」でも組んだドルージュのカメラがかなりいいです。

 やはりまずひきつけられるのはストーリー。フェリックスとローラの駆け引きというと御幣があるかもしれないので、関係が面白い。全体をサスペンス調にしてローラを謎めいた女にしたことで、見ている側にもその関係性が読み解けないようになっているのでかなり集中してみることができる。だからかなり短く感じられる。私の体感では75分くらいでした。そうして集中してみれば、2人ともにぐっと入り込めるので、最後の映画的な裏切りも納得してみることができる。別に映画としてつじつまが合わなくたって、そんなものはどうにでもなると思う。そしてこの物語のその後ふたりはどうなるのか、見終わった後もつい考えてしまう。見終わった後でもその映画のことを考えられる映画は素敵だと思う。
 ということですが、見ればそれぞれ考えることがあるだろうと思うので、ここは言葉すくなに終えておきます。それよりもいうべきだと思うのは、カメラマンのドルージュの力量。多分まだ若いカメラマンで、はじめて見たのですが、かなりセンスを感じます。この映画はかなりズームが行ったり来たりするんですが、そのズームへのこだわりというか、そこの「技」に感服。
 というのも、映画を見ながらずっと気になったのは、そのズームがたまに引っかかること。つまり、ズームする速度が一定ではなく、最後に急に早くなったり、途中で遅くなったりするということ。こういうことは素人のホームビデオでもない限りなかなか見られないものなので、見た瞬間はかなりの違和感を感じます。しかしこれはもちろん作為的なものでしょう。違和感を感じると人間はっと立ち止まるもので、この立ち止まりは映画に対する注意が再び呼び覚まさせます。こういうのはなかなかできそうでできない。やろうと思ってもうまくいかない。このカメラマンも失敗してしまったらどうしようもない作品になってしまう恐れも孕んでいると思いますが、この作品では成功しています。
 そして、そんな違和感になれつつある頃、とてもスムーズなピン送りがあったりします。ピン送りというのはピントをひとつのものから別のものに送るということ(つまり、たとえば遠くのものにあっていたピントを近くのものに移すということ)ですが、終盤で画面の手前にあるZUCCA のプレートから奥にいるローラの顔へカメラがパン(ヨコ移動)しながらピントが送られます。この画はなかなかきれいでありました。
 こんな微妙な変化が映画を見ている私たちの心理をコントロールしているような気がします。その変化に対して意識的であろうと無意識であろうとその影響は受けていると思います。そんな細かい部分を見るものまた愉し。

ロミオ・マスト・ダイ

Romeo Must Die
2000年,アメリカ,115分
監督:アンジェイ・バートコウィアク
原案:ミッチェル・カプナー
脚本:エリック・バーント、ジョン・ジャレル
撮影:グレン・マクファーソン
音楽:スタンリー・クラーク、ティンバランド
出演:ジェット・リー、アリーヤ、イザイヤ・ワシントン、ラッセル・ウォン、DMX

 オークランドの湾岸地帯で派遣を争う黒人マフィアと中国系マフィア。中国系マフィアのボスの息子が黒人系のカジノに行った夜、何者かに殺された。ホンコンではボスのもう一人の息子が刑務所で服役していたが、弟が殺されたという知らせを受け、脱獄し、渡米する。
 カメラマンとして長いキャリアを持つバートコウィアクの初監督作品。ジェット・リーもハリウッドでの初主演作となった。やはりジェット・リーのアクション満載の作品。

 まあ、こんなもんといっては失礼ですが、予想の範囲を越えないというところ。やっぱりジェット・リーのアクションはかっこよく、キャラクターも好みだけれど、話の展開は早々に8割方読めてしまったし、レントゲン写真みたいなのもよくわからないし、ちょっとCGバレバレのところもあったし、ね。
 まあ、でもジェット・リーはやっぱりいいな。この映画で唯一「こいつはっ」と思ったのはジェット・リーがアリーヤを使ってアクションをするところ(結構最初の方)。なるほど、設定も面白いし、アクションとしてもなかなかのもの。アリーヤの壁走りもなかなかでした。結局ジェット・リーが出ると、ジェット・リーの映画になってしまうのか? この映画でアクションを担当しているのは、コーリイ・ユエン。最近このメルマガに3度目の登場、「キス・オブ・ザ・ドラゴン」でもジェット・リーとコンビを組み、ブルース・リーの娘シャノン・リー主演の「エンター・ザ・イーグル」の監督です。香港時代にも何度かジェット・リーと組んだことがあるようなので、それをパッケージでハリウッドにもってきたという感じなんでしょう。ジェット・リーの新作“The One”でも、アクションを担当しているようです。
 というジェット・リー映画でした。