U-571

U-571
2000年,アメリカ,116分
監督:ジョナサン・モストウ
原案:ジョナサン・モストウ
脚本:ジョナサン・モストウ、サム・モンゴメリー、デヴィッド・エアー
撮影:オリヴァー・ウッド
音楽:リチャード・マーヴィン
出演:マシュー・マコノヒー、ビル・バクストン、ハーヴェイ・カイテル、ジョン・ボン・ジョヴィ

 第2次大戦中、北大西洋を航行中のドイツの潜水艦U-571はエンジンの故障で立ち往生せざるを得なくなり、補給船の到着を待っていた。そのUボートの存在を知ったアメリカ海軍は、U-571がつんでいる暗号機「エニグマ」を奪取するべく、友軍を装ってU-571をのっとる計画を立てた。
 傑作が多いといわれる潜水艦ものだけに、なかなか見応えのある映画。単純なアクション映画として面白い。

 「Uボート」に代表される潜水艦ものは、密室や海中という事実からくる緊張感が映画全体をピシッとしめ、物語や人間ドラマに重厚さを生むという印象があった。そんな密室や海中という要素が潜水艦もの=傑作が多いといういわれの背景にあるのでしょう。
 しかし、この映画は故障していたUボートがなぜかすぐに直ったり、爆雷があたっても、水漏れがしても結局はちゃんと航行できたりと、あまりその緊迫感がない。ほんのちょっとのミスや衝撃で乗員全員の命が失われてしまうというような緊張感がない。
 でも、決して面白くないわけではないのは、単純なアクション映画として。潜水艦同士での魚雷の撃ちあいや潜水艦の中での銃撃戦など、「ありえない」とは思うものの、迫力があっていい。
 昨日も言ったように「ありえなさ」というのがいまのアクション映画にとっては重要だと私は思うのですが、この映画は必ずしもその図式に当てはまるわけではない。魚雷の打ち合いなんかは受け入れられる過剰さであり、アクションシーンとして現代的だと思いますが、潜水艦内での銃撃戦というのはちょっとお粗末な感じ。スペースが限られているということで銃撃戦としては面白くなっているけれど、艦に穴があいたらどうするんだ! などというまっとうな疑問が浮かんでしまうので、ちょっとやりすぎかなと。手榴弾まで使うのはどうかなと思ってしまうのです。
 なかなかこの「過剰さ」というのも難しいもので、本当にやりすぎてしまうと、リアルさからかけ離れてしまう。「うそ~ん」と思ってしまうハイパーリアルな感じだけれど、もしかしたらありえるのかもというくらいの感じがベストなのでしょう。

DENGEKI 電撃

Exit Wounds
2001年,アメリカ,101分
監督:アンジェイ・バートコウィアク
原作:ジョン・ウェスターマン
脚本:エド・ホロウィッツ、リチャード・ドヴィディオ
撮影:グレン・マクファーソン
音楽:トレヴァー・ラビン、ジェフ・ローナ
出演:スティーヴン・セガール、DMX、イザイア・ワシントン、マイケル・ジェイ・ホワイト

 ニューヨーク市警に勤めるボイドは、銃撲滅を訴える副大統領の演説に遅れて参列。その会場を後にした副大統領が襲われたところを孤軍奮闘して救ったが、そのスタンドプレーが上層部の不評を買い、無法地帯として知られる15分署に転属されてしまった…
 スティーヴン・セガールが久々にセガールらしいアクション映画を撮ってくれたという感じ。

 セガールはセガール。とてもヒーローには見えない胡散臭さと、それとは裏腹な正義感ぶりというのがキャラクターにぴったりとくる。だから、この映画のプロットはまさにセガール向き。セガール最高傑作とは言わないまでも、「沈黙の戦艦」に次ぐぐらいの面白さだと思います。
 しかし、セガール映画はいつもそんなにアクションがすごいわけではない。特に最近は。それはもちろんセガールがおっさんで、動きに切れがないからです。昨日のジェット・リーと比べるとかなり見劣りします。しかし、共演のDMXのアクションはかなりのもの。やはりラッパーたるもの立ち回りくらいできなきゃいけないのか。そして顔もかなりの男前。ウィル・スミスよりも俳優として見込みがありそうな気がしますね。
 という感じですが、この映画もまた「マトリックス」が影を落とします。この映画の製作者の一人は「マトリックス」の製作者の1人でもあるジョエル・シルヴァー。もちろんジョエル・シルヴァーはアクション映画のプロデューサーとして知られているので、必ずしも「マトリックス」ばかりがクローズ・アップされる理由もないのですが、この映画がマトリックス後であるのは、その過剰さ。マトリックス以前の(ハリウッドの)アクション映画は特撮などを駆使していかにリアルに見せるかということに精を込めていたように見える。しかし、マトリックス後のアクション映画はその過剰さを売りにする。それはリアルを超えた「ありえねーだろ」といいたくなるような過剰さ。その過剰さを作り出すことがアクション映画に不可欠になっているといえる。
 この映画でも武器の威力も、アクションの立ち回りも現実ではありえないような物が出てくる。冒頭のシーンでセガールが持つ拳銃は機能としては明らかにマシンガンと同じ。果たしてハンドマシンガンはそこまで小型化されたのか?あんな小さいマガジンにどうしてあんなに弾が入るんだ? という疑問がすっかり生じますが、その「リアルでなさ」がマトリックス後のアクション映画の過剰さというものでしょう。

キス・オブ・ザ・ドラゴン

Kiss of the Dragon
2001年,フランス=アメリカ,98分
監督:クリス・ナオン
原案:ジェット・リー
脚本:リュック・ベッソン、ロバート・マーク・ケイメン
撮影:ティエリー・アルボガスト
音楽:クレイグ・アームストロング
出演:ジェット・リー、ブリジット・フォンダ、チャッキー・カリョ、ローレンス・アシュレイ

 パリにやってきた一人の中国人リュウ、彼はパリ警察の助っ人として北京からやってきた刑事だった。その初日、麻薬密売組織をつかまえるためホテルで監視をする。しかしフランスの刑事リシャールがそのボスを殺し、リュウにその罪をなすりつけようとする。リュウは証拠を持って逃げようとするのだが…
 リュック・ベッソンが新たなアクション映画をジェット・リーと組んで製作。監督にはCM界では名の知れたクリス・ナオンを起用した。やはり、ジェット・リーのアクションは切れ味最高。

 リュック・ベッソンはなんだかいろいろな色がつけられていて、感動ものとか、少女がとか、いろいろ言われますが、私はリュック・ベッソンの基本はアクションにあると思います。そもそも最初の長編「最後の戦い」はセリフなしの長尺アクションシーンという常識破りのことが話題を呼んだはず。それをあげずとも、「ニキータ」も「レオン」も「フィフス・エレメント」だってアクションなわけですから。
 といっても、この映画はリュック・ベッソンらしさはあまりなく、むしろジェット・リーの映画作りにベッソンが手を貸したという風情です。そのあたりが同じ製作・脚本でも「タクシー」とは違うところ。
 さて、ベッソンは置いておいて、この映画はあくまでもジェット・リーの映画。プロットも単純明快、心理描写の機微などいらない、とにかくアクションに徹することでこの映画はいい映画になっている。逆にドラマの部分に力を入れている映画はアクションだけを取り上げると物足りないものが多い。今アクション映画を語るには「マトリックス」と「ワイヤー・アクション」を抜きにして語ることはできない。ワイヤー・アクションを世界的に勇名にしたのはやはり「マトリックス」で、「グリーン・デスティニー」ではない。でもやはり元祖は香港で、ハリウッドはその人材を輸入したに過ぎない。
 しかしやはり世界的には「マトリックス」で、アクション映画を見るときにはマトリックス後であることを意識せずには見れない。だからいまのアクション映画は「マトリックス」をいかに超えるのかということ考えざるを得ないだろう。同じようなワイヤー・アクションと特殊撮影を使っただけでは、マトリックスの二番煎じになってしまう。
 ということを考えた上で、この映画を見てみると、このジェット・リーは1人でマトリックスを(部分的にでも)越える。それはまことしやかということ。「マトリックス」の明らかな特撮とは違う生にな感じ。それはジェット・リーだからできたことだろう。やっぱりかっこいいなジェット・リー。

エコエコアザラク

2001年,日本,91分
監督:鈴木浩介
原作:古賀新一
脚本:小林弘利
撮影:橋本尚弘
音楽:北里玲二、笠松広司
出演:加藤夏希、大谷みつほ、光石研、遠藤憲一、津田寛治

 郊外の森で起きた高校生を含む5人の男女の虐殺事件。その事件をただひとり生き残った少女ミサは病院に入院していた。そんな中現場からは奇妙にねじれたナイフが見つかり、それが凶器と断定された。その事件に密着するディレクター前田はそれを「悪魔」と結びつけて報道する。
 吉野公佳や菅野美穂が主演し、話題となった「エコエコアザラク」シリーズのリニューアル版。

 アイドル映画と割り切ってみれば、なるほどねという気もしますが、これを映画といってしまうのはあまりにもあまり。出来事は収まるべきところにおさまらず、投げかけられた疑問は解決されず、消化不良ばかりが残る。
 映画としてので寄付で記はともかく、プロットがお粗末すぎる。映画の展開上都合が言い様に事実は歪曲され、どんどん説得力を失っていく。刑事もTVディレクターもセラピストも何もかもが胡散臭い。ありえない。そもそも薄暗い部屋で一人で司法解剖をするなんてありえない。刑事は二人しかいないのか?などなど疑問はつきません。
 見所といえば、やはりアイドル映画なので美少女を見ましょう。あとは、意外と掘り下げていけば面白くなりそうな物語の背景を読み込みましょう。悪魔崇拝ってなんじゃ?とかね。そもそも「エコエコアザラク」ってなんじゃとかね。
 そもそもこの映画の原作はコミックですが、それがどんな内容なのか逆に気になってきます。

風花

2001年,日本,116分
監督:相米慎二
原作:鳴海章
脚本:森らいみ
撮影:町田博
音楽:大友良英
出演:小泉今日子、浅野忠信、麻生久美子、香山美子、鶴見辰吾

 明け方の桜の木下で目覚めた男女、男は前の晩の事をまったく覚えていなかった。ゆり子はピンサロ嬢、何か考えがあって実家に帰ろうとしている。澤城は官僚、よって万引きまがいの事をしてしまったために停職処分にされている。雪山を見に行こうと約束した二人だったが、しらふに戻った澤城はゆり子を置いて、帰ってしまう…
 相米慎二監督の遺作となった作品。小泉今日子と浅野忠信の二人芝居という感じ。

 口笛というと、うきうきした気分のときに出るものという暗喩がまかり通っているような感じだけれど、実際に口笛が口を突いて出るのは、そんないい気分のときばかりではなく、悲しさを隠したいときや気まずさをごまかしたいときだったりする。小泉今日子演じるゆり子の口笛はそんなごまかしの口笛であり、彼女の笑いもまたそんなごまかしの笑いである。一人になって遠くを、あるいは手元をじっとみつめるときのまなざしに何らかの意味を感じ取れるのは、そのようなごまかしの陽気さとの対比がはっきりしているからだろう。口笛というほんの小さな舞台装置で他の部分に意味を埋め込むことができるというのは素晴らしい。
 この映画のゆったりとしたスピードは、移動するカメラとそれによって実現される1シーン1カットのリズムだ。回想シーンはカット数が多く別のリズムだが、本編の大事なシーンでは1シーン1カットが使われていることが多い。一番印象的なのは頭を怪我した澤城をゆり子が手当てするシーン、ここは(多分)カメラも固定で、縦方向の移動を使って動きを作り出して、1シーンの長さを感じさせない。1シーン1カットという方法は映画の基本といういえるが、1シーンがある程度の長さになると演じるのも難しいだろうし、演出としてもリズムを作るのが難しい。しかし、カットが細切れになると、どうしてもそこにひとつのスピードが生じてしまうので、1シーン1カットがうまく行くと非常にゆったりとしたリズムを作り出すことができるのだろう。
 ちょっと甘っちょろい気もするが、ゆったりとしていて味わい深いヒューマンドラマというところでしょうか。

ベーゼ・モア

2000年,フランス,74分
監督:ヴィルジニー・デパント、コラリー・トラン・ティ
原作:ヴィルジニー・デパント
脚本:ヴィルジニー・デパント、コラリー・トラン・ティ
撮影:ブノワ・シャマイアール、ジュリアン・パマール
音楽:ヴァルー・ジャン
出演:ラファエラ・アンダーソン、カレン・バック、デルフィーヌ・マッカーティー

 フランスのスラムに暮らす女性達。その1人ナディーヌは売春をして生計を立てる。友だちと一緒に住んでいるが、その友だちは口うるさくイライラを募らせる。マニュはドラッグに溺れ、仕事もなくバーをやっている兄に金を無心する。兄はマニュを愛してはいるが、小言も多くマニュはそれにいらだっていた。
 フランスの女流作家デパントが自作を友人でもとポルノ女優のコラリー・トラン・ティと組んで映画化。そのセックスとバイオレンスの過激さでフランスで上映禁止にされたといういわく付きの作品。日本では再編集されて劇場公開されたが、オリジナルに近いバージョンもビデオで発売。

 バイオレンスとセックスの描写という点を見れば、確かに過激ということもできるが、むしろ露骨。ことさら過激にしようというよりは生っぽさを表現しようという意図が感じられる。確かに子供に見せるのは… というくらいではあるけれど、物の分かった大人なら、見ても別にどいうということはないなと思う。逆に殺人やセックスのリアルさが感じさせる監督の緻密さが興味深い。
 冷静でしかしそれが逆に冷淡さにつながるマニュの行動や表情から伝わってくるメッセージはそんな過激さがもたらす悪影響を越えるほどの強い力を持っている。いくらフェミニストが言葉で攻撃を繰り返しても実現できないことを1時間強の映画でやってのける。それはすごいこと。強姦されながらも無表情で悪態をつくマニュの視線は男の弱さ(虚勢)とずるさと身勝手さを貫き通す。物理的な力によって女を支配する男が、物理的な力を逆転されたときに起きること。
 女性にとって権威に反逆することは男に反逆することに常に通じる。いまは片意地を張って男性と並ぶことを誇るような女に反逆することも含むが、やはり権力を持つのは男性であり、男性の借りている権威を攻撃することがどうしても必要だ。もちろん暴力をふるうことでそれが解決するわけではないけれど、この映画は権威に反逆するということを象徴的に表現しているのだろう。
 男が買春をして払う金が意味しているものは、彼女達が男を殺して奪う金が意味するものと違うものなのだろうか?

ドリアン ドリアン

榴漣瓢瓢
Durian Durian
2000年,香港,117分
監督:フルーツ・チャン
脚本:フルーツ・チャン
撮影:ティン・サムファ
音楽:ラム・ワーチュン、チュー・ヒンチョン
出演:チン・ハイルー、マク・ワイファン、ウォン・ミンヤン・メイカム

 シンセンに住むファンはシンセンと香港とを往復して商売をするおとうさんと共に香港に移り住んだ。シンセンの広い家からうって変わって狭いアパート暮らし。しかも、お母さんと一緒に皿洗いをしながら何とか生活していた。その皿洗いをする裏道をチンピラの男と若い女がいつも通っていた。女はイェン、本土から香港にやってきて、娼婦をしていた。
 「メイド・イン・ホンコン」、「リトル・チュン」のフルーツ・チャン監督が香港返還三部作から新たな展開へと踏み出した作品。

 じわっとくる。ホンコン、そこはたくさんの人であふれ、誰が誰と持つかない大都会、そこではドラマも人ごみに埋もれ曖昧なものになってしまう。イェンの存在も大陸から来た一人の娼婦という存在でしかない。娼婦仲間とポン引きにしか知られない存在。通り過ぎていく客達はその記憶の襞に一瞬引っかかるだけ。そんな中、もうひとり彼女のことを認識した存在が少女フェン。同じく大陸からやってきた彼女の眼差しはイェンに届いているかのようだけれど、結局香港の人ごみに飲まれ、そのドラマも曖昧なものとなってしまう。
 その曖昧さがこの映画を一貫するひとつのスタンスである。香港から帰ってきたイェンを迎える家族たちのイェンに対する態度も非常に曖昧だ。そして友人の態度も。
 果たして家族はイェンが娼婦をしていたことを知っているのか、知らないのか?それは観客には明かされないままイェンの曖昧な生活が続く。その曖昧さが晴れる瞬間、ドット感動が溢れ出す。イェンの感じた孤独と一種の解放感を共に感じ、京劇の濃い化粧の奥にその表情を隠しながら一心に踊るイェンの姿がすっとこころに入ってくるのだ。自分達の苦境を乗り切るために娘に体を売らせたという負い目、そしてそんな娘を疎んじる気持ち。この2つの相反する気持ちを抱える家族がもう一人娘をそんな環境に送り出すとき、イェンが感じることはどんなことだろう? イェンの感じる自由と孤独はがんじがらめの枠にはめられた中国から香港へとわたったイェンだけが感じることのできる感覚だろう。「自由」といわれている世界の人たち皆が感じるひとつの感覚なんだろうとも思う。

夜になるまえに

Before Night Falls
2000年,アメリカ,133分
監督:ジュリアン・シュナーベル
原作:レイナルド・アレナス
脚本:カニンガム・オキーフ、ラサロ・ゴメス・カリレス、ジュリアン・シュナーベル
撮影:ハヴィエル・ペレス・グロベット、ギレルモ・ロサス
音楽:カーター・バーウェル
出演:ハヴィエル・バルデム、オリエヴィエ・マルティネス、アンドレア・ディ・ステファノ、ジョニー・デップ、ジョーン・ペン

 キューバの作家レイナルド・アレナスはキューバの田舎の小さな村に生まれた。自分の同性愛的性向と作家の才能に早くから気づいた彼の人生は少年の頃に起きたキューバ革命によって大きく変化した。
 同性愛が迫害されるキューバにあって、生きつづけ、書きつづけた作家レイナルド・アレナスの自伝を「バスキア」のジュリアン・シュナーベルが映画化。

 原作との比較は常に頭にあるのですが、あくまで映画について語るためにそれはなるべく置いておいて(多分後に進むに連れ比較せずに入られなくなると思いますが…)、映画の話をしましょう。
 映画としてこのプロットは非常に平板で、単調な気もします。クライマックスがなくて、1人の男が生まれて死んでいくまでを淡々と語った感じ。このアンチクライマックスの語りが吉と出るか凶と出るかということでしょう。劇場であたりを見回したところ寝ている人もポツポツいたりしたので、単調ではあったのでしょう。それから物語の背景となるキューバに関することがらが余りに語られなさすぎるので、多少の知識がないと物語が理解できないという恐れもあります。
 ということで、ここは私がちょっと詳しい程度のキューバの知識を持って原作を知らずに映画を見たと仮定して映画を振り返って見ましょう。長くなりそうだ。
 モノローグの映画なのにモノローグを使わない。映画全体が自伝であり、モノローグとして機能しているのに、主人公自身の言葉でモノローグがなされるのは3度だけ。どれも長めのモノローグで、歌のように響く。その言葉自体の意味はわからないけれど、その言葉は軽やかに韻を踏み、詩であるかのように聞こえるし、実際一つの散文詩であるのだろう。その効果的なモノローグに挟まれる形である2つの断章。一つ目のほうが極端に長く、その激しい物語展開とは裏腹に非常に淡々と語られる。イメージの氾濫。言葉ではなく映像で語ろうとする映画という言説。少年が兵士であふれたトラックに乗ることの意味や、教壇に立つロシア語をしゃべる赤い本を持った男の意味や、焼き払われるさとうきび畑の意味がイメージとして語られる。
 この文章もだんだんイメージに引っ張られて断片化してきました。
 結局原作と比べることになりますが、原作が伝える恐怖感が欠如している。どうしようもない焦燥感と恐怖感、それが伝わっていないのが非常に残念だとおもいました。原作は100倍面白い。書店で見かけたらぜひ買って下さい。
 全編一気に映画にしてしまうのではなく、いくつかの断章を拾い集めて再構築したほうが面白い映画になったような気もします。

インビジブル・マン

The Invisible Man
2000年,アメリカ,120分
監督:ブレック・アイズナー、グレッグ・ヤイタネス
原作:H・G・ウェルズ
脚本:マット・グリーンバーグ
撮影:ジョン・J・コナー
音楽:ダニエル・コールマン
出演:ヴィンセント・ヴェントレス、カポール・ベン=ヴィクター、デヴィッド・バーク、シャノン・ケニー

 泥棒稼業をしているダリエンはある夜、老人の家にはいって金庫破りをしていたところをその家の老人に見つかってしまう。老人は爆発音に驚いて心臓発作。彼を生き返らせようと心臓マッサージをしていたところを警備員につかまってしまった。判決は死刑、刑務所で絶望しているところに兄のケヴィンがやってくる。
 コメディタッチのアメリカのTVムービー。同年に公開された「インビジブル」とは違い、B級な味わいがいい。

 面白くなくはない。だけれど、すべての狙いがあからさますぎて、ちょっとね。コメディタッチというか、笑わせようという意図はわかるし、面白い部分もあるんだけれど、映画の安っぽい部分をそれで補おうとしすぎているというか、笑いに逃げているという感じがしてしまう。続編を作ろうと思っているのなら(きっと思っているんだろうけれど)もっと話自体をしっかりしないとね。
 まあTVムービーなので、こんなものでしょうという気もします。前半は特にユーモアとアイデアがうまく絡み合って魅力的な仕上がりなので、ここで視聴者を引き込めば大成功ということなのでしょう。などといらぬ憶測などもしてしまいますが、そういう映画ということですね。
 しかし、むしろ映画の「インビジブル」よりは面白かった気がします。あちらの方はCGにお金をかけて、リアルさを求めていましたが、いまひとつプロットがよくなかった。それに比べるとプロットとしては面白くできていたのではと思います。だから、ビデオ屋で2本並んでいたらこちらを借りましょう。マイナーもまたよし。ということで。

ミリオン・ダラーホテル

The Million Doller Hotel
2000年,アメリカ,122分
監督:ヴィム・ヴェンダース
原案:ボノ
脚本:ニコラス・クライン
撮影:フェドン・パパマイケル
音楽:ボノジョン・ハッセル、ダニエル・ライワ、ブライアン・イーノ
出演:ジェレミー・デイヴィス、ミラ・ジョヴォヴィッチ、メル・ギブソン、ピーター・ストーメア、アマンダ・プラマー

 ロサンゼルスのダウンタウンに立つおんぼろホテル「ミリオンダラー・ホテル」。その屋上から飛び降りるトムトムは振り返る。2週間前、エロイーズに恋をしたことから人生は変わったと。そのホテルは奇妙な人ばかりが暮らすただの安ホテルだった。しかし、2週間前、トムトムの親友イジーが屋根から飛び降りたことでFBI捜査官がやってきて、住人たちはその事件に巻き込まれていった。
U2のボノがプロデュースし、ヴェンダースが監督。ロードムーヴィの巨匠からさまざまな方向性を試みたヴェンダースが1件のホテルの中のみに舞台を限定して描いた不思議なドラマ。

 やはりヴェンダースはすごいと思う。ロード・ムーヴィーを捨て、世間の酷評にもまけず、「ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ」で復活を遂げたヴェンダース。しかし、「ブエナ・ビスタ」はヴェンダースファンにはとても満足のいく作品ではなかったはずだ。そこにはヴェンダースらしさは存在せず、ライ・クーダーの作品を職人的にこなす姿しかなかった。私が望んでいたのは、「夢のはてまでも」のような煮え切らないヴェンダースらしさであって、あんな爽やかな語り部としてのヴェンダースではなかった。
 ヴェンダースがすごいのは、そんな「ブエナ・ビスタ」のヒットから一転、再びらしさを取り戻し、煮え切らない空間をそこにつむぎだしたこと。ボノのプロデュースという話を聞いて、「ブエナ・ビスタ」の二の舞かと心配したが、逆にヴェンダースはすべてのヴェンダース像を覆すような作品を作り出した。ロードムーヴィーとも違う、ドキュメンタリーとも違う、「ベルリン天使の詩」とも違う、そんな作品。これこそが私が望んでいたヴェンダースらしさなのだ。見ているものすべての期待を裏切り、映画であることを拒否するような姿勢。その姿勢こそがヴェンダースらしさだと私は思う。
 この映画は観客を拒否し続ける。そもそもの主人公たちがもれなくわれわれの理解の範囲を超えた存在である。トムトム、エロイーズ、捜査官さえもいったい何をしようとしているのか、何をしてきたのかわからない。そしてその一部(あるいは大部分)は明らかにされることがないまま終わる。しかし彼らは間違いなく「普通」とされる人々より魅力的で人間的である。
 どうも感想がうまく言葉にできないのですが、おそらく世の人々には受け入れられないであろうこの映画が実は歴史に残る名作かもしれないと言いたい。ヴェンダースはわれわれがまったく想像もしないものを作り出した。われわれの想像もしないことを作り出す、意表をつく、期待を裏切るということこそがヴェンダース映画の本質であり、この映画はそれを凝縮したようなものであると。「さすらい」の中で一番私の印象に残ったのは冒頭の、車が川に転落するシーンだった。
ロードムーヴィーとして有名な作品にもかかわらず、道行の途中のイヴェントではなく、旅に出る前の単純なひとつの意表をつく出来事が一番印象に残っている。これがヴェンダースだと私は思う。だから観客の意表をつきつづけるこの作品こそこの映画はまさにヴェンダースらしい作品であり、われわれの想像を超えたすごい作品だといいたいのです。