フラワー・アイランド

Flower Island
2001年,韓国,126分
監督:ソン・イルゴン
脚本:ソン・イルゴン
撮影:キム・ミョンジョン
音楽:ノ・ヨンシム
出演:ソ・ジュヒ、イム・ユジン、キム・ヘナ

 映画は女性のモノローグから始まる。マチュピチュで神秘の力によって美しい声を得たという話をする。彼女を含めた心にキズを抱えた3人の女性達。その3人の女性達が偶然に出会い、「花島」という南の島に向かって旅をする。
 とにかく不思議な雰囲気を持つ映画。映像も、物語も、個々のエピソードもなんだか不思議。監督はこれが長編デビュー作となるソン・イルゴン。何でもカンヌ映画祭の短編コンペで賞をとっているらしい。

 不思議不思議。映画は不思議なくらいが面白いのでいいのですが、それにしても不思議。一番不思議なのは多用されるピントをずらした画面。ピントがボケたフレームに人が入ってきてピントがあったり、画面内でピントを送ったり(つまりひとつのものから別のものにピントを動かす)することは他の映画でもよく見るし、この映画でも最終的には何かにピントが合うのだけれど、ピントが合うまでの時間が異常に長い。最初はそのピンぼけ画面に疲れるけれど、人間なんでもなれるもので、その内気にならなくなってくるから不思議。確かにしっかりピントがあってはっきり見えるより、ピントがずれてぼんやりしていた方が美しく見える場合もあり、この映画でもそれを感じさせられはするけれど、ここまでこだわる理由はなんなのかとても不思議。
 映像の不思議さはそんなところとしても、物語も不思議。個人的には不思議な話は好きなのですが、残念なのはなんとなくファンタジックな方向に行ってしまったこと。不思議なものを不思議なものとして描くのではなくて、普通に描いているんだけど「よく考えてみると不思議だよね」みたいなものが好き。マジックリアリズムとでも言うようなもの。オクナムが「天使のともだち」といったとき、「天使のともだち?」と思ったけれど、それは特に不思議なことではなく当たり前のことのように流れていく。そんな感じ。そんな感じがもっと続いていればとてもよかったと思います。
 しかし、全体を通してみてみれば、なんとなくわけがわかったような気もしてくる。あるいは解釈を立ててみることはできる。ネタばれになってしまうので全部は言いませんが、途中で出てきた時点では理解できなかったシーンたちの始末がついたとき、何かがわかった気がしたのです。その分かってしまった気になってしまうのもあまり居心地がよくない。わけのわからない映画はわけのわからないまま、不思議さを残したままとどまっていてくれた方が気持ちよい。もっと不思議なままで終わってしまうことがたくさんあってもよかった。バスの運転手のようにわけのわからないまま物語から去っていってしまう人ばかりがたくさんいてもよかった。そう思います。

空の穴

2001年,日本,127分
監督:熊切和嘉
脚本:熊切和嘉、穐月彦
撮影:橋本清明
音楽:赤犬、松本章
出演:寺島進、菊地百合子、外波山文明、沢田俊輔

 北海道の寂れた道沿いにある薄汚れたドライブイン「空の穴」。そこに立ち寄った登と妙子のカップルだったが、2人の間はギクシャクし、妙子は近くのガソリンスタンドで置いてきぼりにされてしまう。一方、「空の穴」をやっているのは競馬好きの父と料理人の息子市夫。競馬を見に出かけると言って父親が出かけてしまった翌日、「空の穴」に再びやってきた無一文の妙子は食い逃げしようとするが市夫につかまってしまう。
 「鬼畜大宴会」でデビューした熊切和嘉の第2作。PFFのスカラシップ作品でもある。前作とは一転して激しさは影をひそめる。

 市夫のキャラクターの描き方がとてもいい。とっつきにくく、自分勝手で、近くにいたら多分イライラさせられる性格だけれど、その殻を破ったところには違うものがあるだろうと思わせる。でも、そもそもそんな殻を一体破ることができるのか?という疑問も浮かぶ。それは妙子によって徐々に開かれていくのだけれど、それは本当に開かれたのか?
 その市夫の「殻」を象徴的に示すのはジョギングだと私は思う。走るという行為は自分に閉じこもるのには最適だし、最初の朝、妙子に「ジョギングですか?」と聞かれて、「ううん、ただ走ってるだけ」と答えたのも面白いと同時に意味深である。走ること=閉じこもること。物語が進むに連れ、このジョギングのシーンは姿を消す。これはつまり市夫が殻から出てきたということなのだろう。と、いいたいが、実際は決して殻から出ることはなく、妙子を自分の殻に引き込もうとしているに過ぎない。世界に対して殻を開くのではなく、二人の殻を作ろうと試みる。そういう考え方に過ぎない。
 それが悪いといっているのではない。誰しも社会に対して壁を持っていなければならないし、親しい人はその壁の中に引き込みたいと思う。しかし同時に引き込むことに恐れも抱く。市夫と妙子は2人とも他人を自分の殻の中に引き込むことにしり込みしている。そんな2人の無意識の駆け引きが、最終的にはどうなったのか、実際のところはよくわからない。市夫は何かを得たのだろうけれど、一体に何を得たのだろうか? 再び走り始めた彼の殻は妙子と出会う前の殻とどう変わったのだろうか?
 です。尻切れトンボのようですが、これは哲学なので疑問符で終わらなければいけません(勝手なポリシー)。
 で、他に気づいたことといえば、ロングショットが美しい、ガソリンスタンドの夫婦はひどい、寺島進はやっぱり渋い/確かに人相は悪い。かな。

少年と砂漠のカフェ

Delbaran
2001年,イラン=日本,96分監督アボルファズル・ジャリリ脚本アボルファズル・ジャリリレサ・サベリ撮影モハマド・アフマディ出演キャイン・アリザデラハマトラー・エブラヒミホセイン・ハセミアン

 アフガン人の少年キャインは戦争が続くアフガニスタンを逃れ、イランの国境にきた。そこからカフェを営む老夫婦の下へと流れ着いた彼はそこで店の手伝いなどをしながら平和に過ごしていた。しかし、イランではアフガンからの不法入国者が問題となっており、そのカフェにも度々警察が出入りしていた…
 砂漠と少年というイラン映画のひとつの典型的なモチーフの中に、アフガニスタンという問題を編みこんだ作品。他にもいろいろと考えさせられることでしょう。

 荒野と少年、まさにジャリリらしく、イラン映画らしい始まり方。セリフも少なく、効果音もなく、淡々としている。構図はシンプルにして美しく、決して斬新ではないけれど、よく考えられている。人やものの配置の仕方、パッと挿入される静止画のような映像。それらの映像美はイラン映画にしかできない独特の美学だと思う。
 しかしそんなことばかり言っていてはイラン映画は皆同じということになってしまうので、この映画の何が独特かを考える。映像の面で気付いたことといえば、被写体がフレームアウトしない。この映画ではカメラが捕らえる中心的な被写体がフレームアウトすることはない。カットの切り替わりは被写体がまだ画面に残っている間に行われる。前を車が通過したりすることはあっても、中心的な被写体はフレームアウトしない。唯一といっていい例外は軍用トラックが何台か通り過ぎる場面で、3台か4台のトラックが画面の右から左へと消えてゆく。だからどうということもないですが、ちょっと小津が「画面を横切るなんてそんな下品なことできない」といっていたのを思い出しました。
 さて、この映画はかなり強いメッセージを持つ映画だと思いますが、アフガンを取り上げているからといって反戦ということではなくて、漠然とした愛のようなもの。それを敷衍させていけば反戦にもつながるというもの。
**注意**
 こういう結論じみた事を書いてしまうのはあまり好きではないのですが、これを書かずにこの作品を語ることはできんと思うので書いてしまいます。映画を先入観を持って見たくないという(まったくもっともな)意見の人はここから先は読まないでね。
**注意終わり**
 このセリフの少なさにもかかわらず、キャインと老夫婦の間の愛情というのが滲み出してくる。もちろん警察での場面などそれが明確に出てくる部分もあるけれど、ただおばあさんが窓から外を眺めているだけで、そこに何か愛情の視線のようなものを感じるのは不思議だ。そしてそのセリフの少なさは穏やかで、言葉なしでも通じ合う心というようなものを表現しているのだろう。その愛情はキャインと老夫婦に限らず通りすがりの人までも及ぶ。この映画の登場人物たちはちょっとしたけんかをしても次のシーンではすでに仲直りしている。
 この映画はこの愛情の由来をおそらく宗教に持ってきている。イランの人たちは宗教熱心な人が多く、この映画でも宗教的なシーンがでてくる(特に顕著なのは礼拝のシーンと結婚式のシーン)。同じ神を愛する者達が本当に仲違いなどできるわけはないと、監督は言いたいのではなかろうか。
 さらに、映画中の宗教儀式を行うのが主にアフガン人であることから、あえて深読みすれば、戦争によってムスリム同士が敵対することの無益さを主張していると読めなくもない。

ピストルオペラ

2001年,日本,112分
監督:鈴木清順
脚本:伊東和典
撮影:前田米造
音楽:こだま和文
出演:江角マキコ、山口小夜子、韓英恵、永瀬正敏、樹木希林、沢田研二、平幹二郎

 ライフルを構え、何者かを撃ち殺した男。その男が別の男に殺され、東京駅にぶら下がる、あやしげな笑みを浮かべながら死ぬ。撃った男は車に乗り込み、逃げてゆく。黒い着物に黒いブーツ、殺し屋ナンバー3通称野良猫は殺し屋のギルドの代理人小夜子から仕事を受ける。仕事はこなしたが、そこにナンバー4通称生活指導の先生が現れた。
 「殺しの烙印」を自らリメイクした鈴木清順は、全く違う作品に仕上げる。白黒世界とは全く違う鮮やかな色彩世界、男の世界とは違った女の物語。

 江角マキコは美しい。あの衣装もとても素敵。それに限らず色使いに関してはいうことなし。清順映画の色使いはやはりすごいです。初めから終わりまで画面の色使いを眺めているだけで「美」というものに対する並々ならぬ意識を感じずに入られない。
 と、美しさという点ではいうことはない。して、物語に行けば、
 どうしても「殺しの烙印」を意識しながら見てしまうのですが、基本的に全く違う作品。前作を意識して、あてはめをしながら見てしまうと作品自体を楽しめなくなってしまう。殺し屋のランキングがあるということ以外は共通点もあまりない全く別のお話として見なければいけないのでした。
 そんなことを考えながら話がまとまらないのは、映画もまとまらないから。清順映画を理解しようという試みはというの昔にあきらめていますが、この映画はその中でもかなり混迷の度合いが高い部類に入ると思います。物語というよりは個々の描写/表現が。特に撃ちあいのシーンなどは何がどうなっているのやらさっぱりわからない。それは映画としての表現もそうだし、関係性の描写もそう。画面やプロットを構成する各要素が一体どんな意味を持っているのか、あるいはどんな役割を果たしているのか、そのあたりがなかなか見えてこない。清順映画は何度も見ればそれが徐々に見えてくるという感じのものが多いので、これもまたそのひとつではあるのだろうけれど、困惑したまま映画館を出るというのはなかなかつらいものです。
 全く違う心構えで、もう一度見れば、また違うことを考えられるのではないかなと思います。「ツィゴイネルワイゼン」は見るたびに驚きを与えてくれる映画であり、それはわけのわからなかった部分が少しずつわかってくることや、それまでは気づかなかったカットや小道具に気がつくことの喜びがある映画だったわけです。果たしてこの映画はどれほどそれに近づけるのか、それはもう一度見てのお楽しみという気がします。

バトル・ロワイヤル

2000年,日本,117分
監督:深作欣二
原作:高見広春
脚本:深作健太
撮影:柳島克己
音楽:天野正道
出演:ビートたけし、藤原竜也、前田亜季、山本太郎、安藤政信、柴咲コウ

 近未来の日本、暴力化する子供達を恐れた大人は通称BR法と呼ばれる法律を定め、毎年全国の中学三年生の中から1クラスを選び出し、最後の一人が残るまで殺し合いをさせるというゲームをすることに決めた。
 衝撃的な内容で話題を呼んだ小説「バトル・ロワイヤル」を深作欣二が映画化。基本的には原作に忠実な物語だが、映画としてはさすがに構成に工夫をしてある。

 原作を読んでしまっていたので、先の展開に対するハラハラ感というのは減じてしまったけれど、原作を読まずに見れば、もちろんその展開の仕方にかなり興味を惹かれるだろうし、映画として原作の物語の展開力をしっかりと再現している気はする。バトル・ロワイヤルという環境は全く人が信用できないという状況なわけで、その前提が存在すれば、見る側の頭の中には様々な推論が去来する。だからこの原作が映画として面白くならないはずはないという気はした。
 さて、原作を読んでいたがため逆に映画としてのよしあしが見えてくることもあると思うのですが、この映画はまさにそんな感じ。原作との比較という意味ではなく、プロットの部分を除いたいわゆる映画的なものについてということですが。
 この映画で最も特徴的と言えるのは字幕、文字の使い方。人の名前なんかを字幕で出したりするのは、洋画のテレビ放映のようで気に入らないのですが、この映画はそういう状況説明の字幕だけでなく、唐突に黒バックに白文字でセリフが字幕として入る。この唐突さはなんなのか、そしてこの唐突な中断による断絶はなんなのか? 壮絶な描写に対する一種の間として機能していると考えることもできるし、教訓めいたお言葉と理解することもできるし、表面的な暴力性とは裏腹な内面の人間性の描写とでも言うこともできるかもしれない。そのどれかひとつということではなく、それらの要素をあわせ持つものとして存在していると私は思う。それは、ラストの字幕。その一種の違和感すら覚える字幕をみたときに感じた爽快感のようなものから感じたこと。
 このような映画が暴力をあおるために作られることはもちろんなく、そこに何らかの反面教師的な性格を持たせていると受け取るのが普通であり、この映画もそのようなものとして作られたと思うのだけれど、この字幕の存在とそれが作り出す間がそれを確信させる。この映画の公開に反対したバカな国会議員もいたけれど、そんな大人が結局BR法のようなものを作ってしまうんだろうな、などとまっとうなことも考えてみたりしました。

オー・ブラザー!

O Brother, Where are Thou ?
2000年,アメリカ,108分
監督:ジョエル・コーエン
原作:ホメロス
脚本:イーサン・コーエン、ジョエル・コーエン
撮影:ロジャー・ディーキンス
音楽:T=ボーン・バーネット
出演:ジョージ・クルーニー、ジョン・タートゥーロ、ティム・ブレイク・ネルソン、ジョン・グッドマン、ホリー・ハンター

 1930年代アメリカ、屋外での労働中に脱獄した囚人の3人組が、その一人エヴェレッとが隠したが、まもなくダムができて水没してしまうらしいという宝を手に入れるべく旅をする。
 ホメロスの「オデュッセイア」を原作とした映画で、全体的に寓話じみた雰囲気を持つ。コーエン兄弟らしい細かい演出は健在。

 コーエン兄弟の作品には何か共通した世界観があり、それはなんだかやわらかさというかやさしさというか、とがっていないところ。「ミラーズ・クロッシング」のようなフィルム・ノワール的な作品でもそれがある。そのコーエン兄弟がアメリカ南部、古きよき時代をしかも「オデュッセイア」で描くとなると、そのやわらかさがさらに強まることは見るまえから予感できる。しかも甘いマスクのジョージ・クルーニー。
 そして、予想通りのやさしい映画。コーエン兄弟の作品は全体なやさしさの中にどこか刺があるのがもうひとつ特徴といえるのですが、この映画ではその刺が欠けている。ジョージ・ネルソンはかなりコーエン兄弟らしいキャラクターですが、やはりスティーヴ・ブシェミがいないのが問題なのか…
 うーん、すべてが微妙です。「オデュッセイア」が原作というのも、収まりどころがわかるというのと、ここの登場人物がどこにはまるのか考えてしまうという点で映画自体への注意が散漫になるという問題もある。
 しかし、やはりコーエン兄弟の細かい作りこみは健在で、一番それを実感したのは、ジョン・グッドマンが熱弁を振るう場面で、彼の眼帯が徐々に汗で染まっていくところ。あとは、ジョージ・クルーニーのひげがきちんと着実に伸びていくところ。その辺の気配りはさすがというところ、しかもハリウッド資本で資金も潤沢にあったのでしょうか。
 という微妙な映画でしたね。失敗作ではないけれど、あまりらしさが感じられない。ジョージ・クルーニーはなかなかいい味を出していたけれど、コーエンワールドの住人にはなりきれていない。

リメンバー・ミー

Ditto
2000年,韓国,111分
監督:キム・ジョングォン
脚本:イ・ドンゴン、イム・テギュン
撮影:チョン・グァンソク
音楽:イ・ウッキョン
出演:キム・ハヌル、ユ・ジテ、ハ・ジウォン

 70年代の韓国ソウル。新羅大学に通うソウンは大学の先輩トンヒに想いを寄せていた。そんなソウンがひょんなことから手に入れたハム無線機を皆既月食の日につけてみると、知らない人から通信が。その日は驚いて切ってしまったソウンだったが、次の日話してみるとその男も同じ大学に通うと知り、無線機の教本を借りるため会う約束をするが…
 韓国で大ヒットとなったラブ・ストーリー。なんだかなつかしさも感じさせる淡い物語。

  冒頭を見たときは、「これはやっちゃった」と思いました。家庭用編集機でもできそうなセピア効果、そしてありがちなピアノのBGM。嘘のようにうぶな所作をする女子大生。そして、皆既日食の夜空のちゃちさ。
 しかし、話が進むに連れ、そうでもないと分かる。物語自体はたいしたことがなく、誰もが発想できそうな(現に「オーロラの彼方に」って言う映画もあった)ものですが、最近時空ものに敏感な私としてはちょっと気を惹かれてしまうわけです。しかしそれは置いておいて、まずは映画の話。映画としては平均点のストレートなラブストーリーで、登場人物のキャラクターがはっきりとしているのがとてもよい。問題はBGMのこっちが恥ずかしくなるほどのストレートさと映像の作りの安さでしょうか。主役のキム・ハルヌがいかにも70年代らしい顔(どんな顔?)だったのがなんだかつぼにはまりました。ちょっと松たか子似。
 という映画ですが、問題の時空の問題は、実はインのガールフレンドのヒョンジがそのことにさらっと触れていて「同じ次元にいる」とか何とか言っているんですが、これは全くそのとおりで、この映画の中のソウンとインは二人ともまっすぐな時間軸上にいて、その四次元空間から抜け出すことをしない。だから物語とは破綻しない。つまり、インがアクセスした過去は自分にとってのストレートな過去で、現在と矛盾したことをしないからそのベクトルが変化することはなく(あるいはそもそも変化した未来にいるので)、ソウンが異なった未来に向かうことはないわけです。しっかりできていますねハイ。

 注意! ここからパーフェクトネタばれ!!!

 もし、インがトンヒとソンミのことをいわなかったとしたならば、未来は変わったかもしれない。しかし、その未来にはインは存在しないわけだから、インがいまいる時点とは異なるものなわけです。5次元平面の別の点にいる。つまり、どこかでベクトルが変化して、異なった四次元空間が出現したというわけ。しかし、だからといって今ある四次元空間がなくなるというわけではなく、インにとっては一つしかない過去として存在するし、ソンウにとってはありうべき未来として存在していたものということ。あるいは、ソンウがインにもっと前に会って、未来のことを予言していたとしたら、そこでまたベクトルは別の方向に進み、異なった四次元空間が出現していたのでしょう。様々なありうべき可能性の中で、この物語では閉じたひとつの四次元空間だけをつかまえることを選択したということでしょう。その方が物語が混乱せず、すっきりしますからね。そしてヒョンジのほとんど理解できないひとことのセリフにメッセージをこめたということでしょう。意外とやるねこの監督。インとソンウは会っても会わなくてもよかったけど、会うことで本当に物語が閉じたという気がしてよかったようにも思えます。

ハリー、見知らぬ友人

Hurry, un ami qui vous veut du bien
2000年,フランス,112分
監督:ドミニク・モル
脚本:ドミニク・モル、ジル・マルション
撮影:マチュー・ポアロ=デルペッシュ
出演:クセルジ・ロペス、ローラン・リュカ、ソフィー・ギルマン、マティルド・セニエ

 ヴァケーションのシーズンに入ったフランス、3人の小さな子を連れ田舎の別荘へと向かうミシェルとその家族だったが、エアコンのない車内で家族のいらいらは頂点に達していた。そんなときに立ち寄ったインターチェンジのトイレで、ミシェルは高校時代の友人だというハリーに声をかけられる。全く覚えのないミシェルだったが、なんとなくいっしょに別荘へ行くことになってしまう。
 フランス映画らしい落ち着いた雰囲気の中に怖さが潜むサイコ・サスペンス。

 なるほど「アメリカン・サイコ」とはまったく対照的な作品。衝撃的な映像もなく、クローズアップの連続といった無理から恐怖観をあおるような映像的工夫もない。それでも怖さは伝わってくる。サイコサスペンスはやはり怖くなさそうなところに怖さがないといけないのだと思います。そういう意味では典型的なサイコサスペンスということなのでしょう。
 惜しむらくは筋にひねりがなく展開が想像できてしまうことと、音楽の使い方があまりにストレートなこと。「これから怖いことが起こるよ」とあからさまにわかる音楽を使い、しかも予想したとおりのことが起こる。それはそれで今か今かというドキドキ感を確実に感じさせていい気もしますが、やっぱりもうちょっとひねりがね…
 あとは、映像的な面で、サイコサスペンスにもかかわらず全体的に明るく暖かな映像だったのが印象的。断片的に見るとサイコ・サスペンスとは絶対に思わないでしょう。特にライティングに気を使っているのがよくわかります。 しかしいまひとつ抜けきれなかったのは、ハリーのキャラクターの弱さのせいか。あるいは曖昧さというか。ハリーはただ単に利己的な男なのか、それともミシェルのメフィストフェレス的キャラクターなのか、そのあたりは曖昧。はっきりとメフィストフェレスと分かれば物語の見え方も変わって来たのでしょう。あるいはただのわがままなサイコ野郎だと。

アメリカン・サイコ

American Psycho
2000年,アメリカ,102分
監督:メアリー・ハロン
原作:ブレット・イーストン・エリス
脚本:メアリー・ハロン
撮影:アンジェイ・セクラ
音楽:ジョン・ケイル
出演:クリスチャン・ベイル、ウィレム・デフォー、ジャレッド・レトー、ジョシュ・ルーカス

 80年代のNY、親の証券会社で副社長を務めるパトリック・ベイトマンは、ろくに仕事もせずエステやクラブに忙しく、見栄を張ることばかりに一生懸命だった。しかし、そんな彼が暗い道端のホームレスを突然刺し殺してしまう。
 深刻な殺人の衝動に駆られた男をえがく、サスペンスドラマ。

 これはコメディなのか。細かい笑いがちりばめられるが、果たしてそれがメインなのか。しかし、原作の話はシリアルなものらしい。監督として原作を壊してコメディに仕上げてしまったのだとすれば、それは大胆不敵なことではある。しかしコメディなのかどうなのか判然としない。いっそ徹底的にコメディにしてしまったほうが気持ちがよかった。サスペンスとしても中途半端、コメディとしても中途半端な居心地の悪さ。コメディ的なものを意図していることは明らかだから、原作者に対して気を使ってしまったことからくる失敗なのか。
 現代社会に住む人々の孤独というか、自己の存在確認の難しさという問題はあると思いますが、80年代という過去を描いたわりにはその答えが出ていない。わざわざ80年代というかこの時代を描くのなら、その時点でのひとつの答えを用意してもいいのではないかと思う。結局自己を確認することのできないパトリックは単なる狂人だったのか、それとも80年代を競争に由来する孤独の中で過ごしてきた人々は多かれ少なかれそんな経験をしてきたということなのか、それはパトリックが特殊化されるのか一般化されるのかという問題で、この映画の終わり方からすると、どちらとも取れる。その宙ぶらりんなところもいまひとつ落ち着かない。
 名刺とか、ビデオとか笑えるところもあるけれど、こういうシニカルな笑いはあまり好きではないです。多分こんなパロディの仕方がつぼにはまる人もいるでしょう。

DEAD OR ALIVE 2 逃亡者

2000年,日本,97分
監督:三池崇史
脚本:NAKA 雅 MURA
撮影:田中一成
音楽:石川忠
出演:竹内力、哀川翔、遠藤憲一、青田典子

 スナイパーのミズキは仕事を請け負い、屋上から標的を狙っていた。すると、その標的と一緒に歩いていた男が標的を後ろから撃ち、周りの男達をも皆殺しにしてしまった。自分でしとめたことにしてちゃっかりと金を懐に入れたミズキだったが、銃を乱射した男に見覚えがあった。
 一部に熱狂的なファンを生んだ「DOA」の続編。しかし、前作と共通するのは竹内力と哀川翔のコンビというキャストのみで、設定などは全く違う。前作よりさらに壊した映画となっているが、その結果はいかに。

 これはコメディです。「DOA」といえば、なんといってもあの強烈なラストにつきるのですが、続編になってそのノリを極端なまでに推し進めたという感じ。そうすると、リアリズムからは遠くかけ離れ、ただただ笑いを誘うのみ。 最初のあたりは結構まともで、哀川翔が背中からブロックを出すあたりまでは納得がいくものの、その後のワルノリぶりは一部は面白いけれど、一部はくだらなすぎて笑えない。だからコメディとしても中途半端、アクションとしても中途半端、ということになってしまいます。しかし、よく見ると細かなところに小さくたくさんのネタが詰め込まれていて、細かくつぼをヒットしてきます。たとえば、中国人の三人組は名前がブー・フー・ウー(三匹の子豚かっ!われぇ)。
 だから、面白くないわけでもないし、見ていて退屈するわけでもない。何がいけないのかと一言で言ってしまえば、くどい。子供とか天使の羽とかとにかくくどい。「DOA」のすごさは、とんでもないことをさらっとやってしまうことだったのに、すごいことをすごいこととして描いてしまった。これでは何の意味もない。ただ普通に変わった映画になってしまうのです。
 でも、哀川翔はやっぱりいいな。私はいまの日本の俳優の中で一番だと思います。役所広司よりも浅野忠信よりも哀川翔。哀川翔がいるだけでその映画はなんとなく面白くなる。そんな気がします。だてに年に10本も20本も出てるわけではないね。